私のただひとりの兄は当時実家にいて通いの歯医者をしていました。小さい時からスポーツに勉強に優等生の兄でしたが、何よりも勉強がよく出来たからいい。お前たちは何が何でも医者になれ医者はどんな時代にも決して生活に困ることはないからとは、父は私たちが小さい頃から折りにつけ繰り返し言っていたことです。そしてその次には決まって自分が若い頃貧乏のために医学部に進むことができなかった不遇をかこつのでした。兄は私と違って何でも父母の言うとおりにする子供でしたから順調に地方の歯学部に合格し就学、なけなしの親の仕送りも受けて卒業してからは実家近くの診療所で働いていたのです。その頃父母の期待はすべて兄に注がれていました。
しかし人生とはどれほどまで不可思議なものなのか、あんなに父母にとっていい子であった兄がその頃田舎町のフィリピン・キャバレーのとあるダンサーに心を奪われ周囲の反対を押し切って強引に結婚、果ては頑固な父を疎んじて駆け落ち同然に実家を出奔して千葉県に暮らし始めたのです。そして月日が流れ二人目の子供が生まれた頃に今度は他所に妾を作り、彼女のためにアパートを借りて密かに二重生活を始めました。そしてそれもまもなくフィリピン人妻の知るところとなり、裁判所に起訴までされて離婚の上多額の慰謝料を払わせられ、結果幼い子供二人を連れて着の身着のままで実家に戻って来ることになったのです。兄はその時以来すっかり働く意欲を失くし、ふたりの子供の世話を口実にしばらくの間実家で無為の日々を送り続けていましたが、どうも居心地が悪かったと見えてじきに再び千葉県にアパートを借りて引っ越して行きました。無職の兄が父にお金をせびる時には「このふたりの子供が、可愛くないのか」が決まり文句です。兄の社会復帰を果たそうと躍起だった父は何度も実家に帰り歯医者として働き直すことを説得したようでしたが、兄は帰ると言っては帰らず、また帰ることを仄めかして旅費を送金させればやはり帰らない。既に年老いて体も心も弱くなっていた父はそんな兄に翻弄されて心労を募らせていくのです。それまでの父らしくもない根気強い思い遣りはことごとく兄が父からお金をせびり取る道具となって消えました。何度も苦汁を舐めた末に人間としての兄にほとほと愛想をつかした父ではありましたが、残った二人の子供が初孫だっただけに可愛いらしく、この子らのために何とかできるだけのことをしようと思う鬼の目にも涙。老父のその弱みに目をつけた兄は、子供を餌に金をせびり続け、父はその都度求められるままに送金を続けていたようです。
どうしてこんなにも簡単にいい子が良くない子に変われるものなのでしょう。あの頃の父は兄に翻弄されるうちに次第にやつれ力を無くしかつての頑健な体はガタガタと音を立てて壊れて行きました。借金取りに追われる貧しさの中で自分の生涯を賭けてやっと掴んだ僅かな果実、自分に従順な息子という存在を失って父は次第にけれど急速に心臓を病んでいくのです。
当時東京での会社を辞めて北海道に渡り牧場で働いていた私の元に父危篤の報が入る何日か前、私は父から電話を受けました。父は力なく無理に愛想笑いを浮かべおお、どうだ、と。母さんとも話し合ったけれども兄はああいう男なのでとても家は継がせられない、私が家を継いでくれないかと。私はまたかと思いました。その話は既に何度も聞いています。いや実を言うと私はそんな日和見的な父の姿に我慢ができませんでした。自分の思い通りに動くと見れば優遇し状況が変われば掌を返す。今まで家は兄が継ぐからお前はどこか別の場所で自活せよと放り出されて来た私の立場はどうなのでしょう。また今一転して放り出されようとしている兄の立場は。いやこれも初めからわかっていたことなのですがこれは父の駆け引きなのです。父にとって信じれるものはお金しかなく、息子も妻も信じるに値しない単なる道具にしか過ぎないということはあの家に生まれ育った者にはとうにわかっていました。だから私は父には殊更冷淡になれるのです。愛の欠片もない鬼に対しては誰でも鬼になれるのです。またその時はそんなに差し迫ったこととも思いませんでしたから、何を言ってるそんなこと大丈夫兄はもっとちゃんとした男だよと適当に答え、まだ何か話したそうにする父の言葉を遮って眠い電話を切りました。それが実質的な遺言になろうとはその時まだ気づかずに。
心臓の病はあの時既に最高潮に達していたのかもしれません。後に聞いたところによると父はそれまで既に6度も倒れ病院に運ばれ、薬を飲みながら医者に養生を言い渡されていたとのことです。そうして最期に倒れた晩もう一度だけ兄を説得する、いや実際兄はもうどうだっていいから、あの、家の血を継ぐふたりの孫達がこのままではあまりにも不憫だから何とかこの家に連れて帰って一緒に暮らすと母が寝静まった後に居間でこっそりと電話をし、そうして兄との悲しい電話を切ったその直後、どうと倒れてしまいました。
(『鬼 3』に続く)
しかし人生とはどれほどまで不可思議なものなのか、あんなに父母にとっていい子であった兄がその頃田舎町のフィリピン・キャバレーのとあるダンサーに心を奪われ周囲の反対を押し切って強引に結婚、果ては頑固な父を疎んじて駆け落ち同然に実家を出奔して千葉県に暮らし始めたのです。そして月日が流れ二人目の子供が生まれた頃に今度は他所に妾を作り、彼女のためにアパートを借りて密かに二重生活を始めました。そしてそれもまもなくフィリピン人妻の知るところとなり、裁判所に起訴までされて離婚の上多額の慰謝料を払わせられ、結果幼い子供二人を連れて着の身着のままで実家に戻って来ることになったのです。兄はその時以来すっかり働く意欲を失くし、ふたりの子供の世話を口実にしばらくの間実家で無為の日々を送り続けていましたが、どうも居心地が悪かったと見えてじきに再び千葉県にアパートを借りて引っ越して行きました。無職の兄が父にお金をせびる時には「このふたりの子供が、可愛くないのか」が決まり文句です。兄の社会復帰を果たそうと躍起だった父は何度も実家に帰り歯医者として働き直すことを説得したようでしたが、兄は帰ると言っては帰らず、また帰ることを仄めかして旅費を送金させればやはり帰らない。既に年老いて体も心も弱くなっていた父はそんな兄に翻弄されて心労を募らせていくのです。それまでの父らしくもない根気強い思い遣りはことごとく兄が父からお金をせびり取る道具となって消えました。何度も苦汁を舐めた末に人間としての兄にほとほと愛想をつかした父ではありましたが、残った二人の子供が初孫だっただけに可愛いらしく、この子らのために何とかできるだけのことをしようと思う鬼の目にも涙。老父のその弱みに目をつけた兄は、子供を餌に金をせびり続け、父はその都度求められるままに送金を続けていたようです。
どうしてこんなにも簡単にいい子が良くない子に変われるものなのでしょう。あの頃の父は兄に翻弄されるうちに次第にやつれ力を無くしかつての頑健な体はガタガタと音を立てて壊れて行きました。借金取りに追われる貧しさの中で自分の生涯を賭けてやっと掴んだ僅かな果実、自分に従順な息子という存在を失って父は次第にけれど急速に心臓を病んでいくのです。
当時東京での会社を辞めて北海道に渡り牧場で働いていた私の元に父危篤の報が入る何日か前、私は父から電話を受けました。父は力なく無理に愛想笑いを浮かべおお、どうだ、と。母さんとも話し合ったけれども兄はああいう男なのでとても家は継がせられない、私が家を継いでくれないかと。私はまたかと思いました。その話は既に何度も聞いています。いや実を言うと私はそんな日和見的な父の姿に我慢ができませんでした。自分の思い通りに動くと見れば優遇し状況が変われば掌を返す。今まで家は兄が継ぐからお前はどこか別の場所で自活せよと放り出されて来た私の立場はどうなのでしょう。また今一転して放り出されようとしている兄の立場は。いやこれも初めからわかっていたことなのですがこれは父の駆け引きなのです。父にとって信じれるものはお金しかなく、息子も妻も信じるに値しない単なる道具にしか過ぎないということはあの家に生まれ育った者にはとうにわかっていました。だから私は父には殊更冷淡になれるのです。愛の欠片もない鬼に対しては誰でも鬼になれるのです。またその時はそんなに差し迫ったこととも思いませんでしたから、何を言ってるそんなこと大丈夫兄はもっとちゃんとした男だよと適当に答え、まだ何か話したそうにする父の言葉を遮って眠い電話を切りました。それが実質的な遺言になろうとはその時まだ気づかずに。
心臓の病はあの時既に最高潮に達していたのかもしれません。後に聞いたところによると父はそれまで既に6度も倒れ病院に運ばれ、薬を飲みながら医者に養生を言い渡されていたとのことです。そうして最期に倒れた晩もう一度だけ兄を説得する、いや実際兄はもうどうだっていいから、あの、家の血を継ぐふたりの孫達がこのままではあまりにも不憫だから何とかこの家に連れて帰って一緒に暮らすと母が寝静まった後に居間でこっそりと電話をし、そうして兄との悲しい電話を切ったその直後、どうと倒れてしまいました。
(『鬼 3』に続く)
父のことを書くのに、これほどエネルギーを必要とするとは思ってもいませんでした。
私にとっては、とても重いテーマでしたが、書いて良かったと思っています。
今まで、一度も自分の父に対する気持ちを整理できていませんでしたので…
お先でした…m(._.)m
これは私にとっても非常に重いテーマだったので、ぱこさんがあの記事を書き始めた勇気が、とても尊く思われました。
それがきっかけで、私も重い腰を上げることができました。
書いてみないとどのようなものになるのか、今回だけは予想がつかなかったので、敢えてトラックバックもしませんでした。
でも、何とか前向きなものになりそうです。
改めてトラックバックさせていただきます。
ありがとう。
agricoさんの文章の特徴の一つは、丁寧ということですね。いつもスゴイです。
内容についてのコメントは、続きを読んでからにさせてくださいね。
でもだからといって掛け替えのない子供時代の幸せを奪われたことを許すのは、当時の自分に申し訳なくも思え・・・。親子の葛藤って複雑ですよね。agricoさんの思い、全部分かるなんて傲慢なことは言いませんが、少しわかります。3が楽しみ。
ぱこさんと同じく、こちらも随分時間を使っています。
推敲し終わるのが早いか、頭が疲れ切るのが早いか・・・。
昼間麦を叩きながら、鬼のことを考えてますよ。
親の恩は見えにくいもののひとつなのかもしれません。
私も未だに見えてませんよ。
いつか父になったら、わかるのかもしれません。
親の役目はあるのでしょうね。
子にエネルギーを使い、
持っているものを伝え、
死んでいく。
そして今度は成長した子供がそれを
バトンタッチする。
それが、親ということなんでしょうか。
父は私が最も尊敬する人間ではありますが、完璧などでは全然なく、あれほどまでに孤独と戦っている人を見たことがありません。たまに切なくなります。父と私は言葉をあまり交わさなくてもちゃんと理解できる関係です。母はどんなに分かりやすく順序だてて説明しても、伝わらないことが多々あります。(笑)
でも、それが私の愛すべき家族なんです。
ただ、残念なことに、みな共通の傷をもっているので、臆病で、外へ出ることや、外の世界を見ることさえも拒んでいる状況です。私以外は。
もう、それぞれの家庭をみな持っているので、私に何かが出来るとは思いませんが、とりあえず、兄たちや両親には私のブログを読んでもらいたいと思ってます。私の発信する彼らにとっての外の世界をおすそ分けです。それが今の私に出来ることです。兄も見てくれてるようです(笑)
逃れようもなく伝えられていく見えない遺産
それは「性質」であり「向き」であり「習性」であり「発現する遺伝因子」なのかもしれない。
親の業は子に報いている。
例えどんなに嫌いな親でも、それは引き継がれ、子に対する最大の贈りものになる。
それを抱えて生きていこう。
もしそれが乗り越えたいものならば、そうするための鍵が、日常慣れ親しんだ親の姿の中にあるかもしれない。
その意味で親は子である私を映す鏡にもなってくれます。
家族だから愛そうとは、今ではもう思いません。
自分が引き継いだものを消化し終わったときに、もしかしたら、愛せるようになっているのかもしれません。
その時はこの「抱えもの」は、かけがえのない遺産になっているかもしれない。
読んでくれてありがとう。