私の父は鬼のようでありました。父の笑った姿を思い出すことができない。背丈180センチにして体重100キロ。若かりし時は講道館にて師範を務め末は6段まで取ったという猛者であります。遠い昔に古い家のお風呂場から忍び込んだというふたり組みの泥棒が父の一喝にて慌てふためき逃げ散ったという話もあながち嘘ではないでしょう。子供の頃よく見る父は昼間でも畳の上で寝ていました。家は田舎町で店屋をしていましたから時々お客が来ることもあります。そんな時父は家事をしている母に行けと怒鳴る。母も負けてはいない方でしたから時折そこで喧嘩が始まる。そしてとうとう父が起き上がる時には、落雷のような怒声と殴りつける鈍い音、それと母の叫び泣く声が聞こえるのがきまりでした。そうなれば私たち兄弟もただでは済みません。こういう風向きの時は家の一番隅の方に目立たないようにしてはいるのですが、いつも最期に父母の喧騒のとばっちりを喰らうのは私たち子供だったのです。顔を赤らめて怒色を顕わにし、何度も何度も殴る父の姿は、さながら鬼のようでありました。
もちろん母は何度も私たちふたりの子供の手を引いて実家に帰りました。私はまだ幼かったので実家の従兄弟連中と遊べると思い峠を越えるバスの中でもう嬉々としていたのでしたが、長じるにつけて次第にその意味もわかり、やはり心のどこかで哀しいような気がしてなりません。特に私は優等生の兄とは違って出来損ないの子でしたから、小学生の頃から漫画家になろうと一生懸命だったり画家になろうと夜っぴて絵を描き続けたり、とかく両親の意に染まないことばかりしては反感を買い何度殴り倒されたかわかりません。馬鹿野郎、出来損ないよと罵られながら10代の私の考えることと言えば、実の父をいかに完全犯罪で死に至らしめるかとか、いつかこの家を出て遥か東京の空の下思いっきり好きな絵を描くんだというようなことばかり。
上京してからはアルバイトをして生活費を稼ぎ、大学を卒業してそのまま東京で就職と、私自身忙しい暮らしでしたので当然のことながら実家には滅多に帰りません。その頃には画家になることはもうとうに諦めて、幸い好きな仕事も得たのでこのままあちらこちら転勤をしながら勤めを続けてもよいかなと人並みの小さな夢も持ったりしていました。そうこうするうち10年、15年が瞬く間に過ぎ去り、その間実家では古い家が取り壊され新しい家が建ち、相変わらず家業は続けてはいるけれど実際のところは開店休業状態で、父も母も楽隠居のような暮らしになっているとの噂が聞こえて来ます。祖父の代から引き継いだ多額の借金もどうにか払い終え、金に追われ貧しさに追われるように暮らしていた我が父母の家にもやっと静かな時が流れ始めるかのように思われた時でした。
しかしこれは宿命というのか業と言うのか、人生のほとんどを家族をも巻き込み争い仲たがいすることに費やして来た父に安楽の日々は決して訪れなかったのです。
(『鬼 2』に続く)
もちろん母は何度も私たちふたりの子供の手を引いて実家に帰りました。私はまだ幼かったので実家の従兄弟連中と遊べると思い峠を越えるバスの中でもう嬉々としていたのでしたが、長じるにつけて次第にその意味もわかり、やはり心のどこかで哀しいような気がしてなりません。特に私は優等生の兄とは違って出来損ないの子でしたから、小学生の頃から漫画家になろうと一生懸命だったり画家になろうと夜っぴて絵を描き続けたり、とかく両親の意に染まないことばかりしては反感を買い何度殴り倒されたかわかりません。馬鹿野郎、出来損ないよと罵られながら10代の私の考えることと言えば、実の父をいかに完全犯罪で死に至らしめるかとか、いつかこの家を出て遥か東京の空の下思いっきり好きな絵を描くんだというようなことばかり。
上京してからはアルバイトをして生活費を稼ぎ、大学を卒業してそのまま東京で就職と、私自身忙しい暮らしでしたので当然のことながら実家には滅多に帰りません。その頃には画家になることはもうとうに諦めて、幸い好きな仕事も得たのでこのままあちらこちら転勤をしながら勤めを続けてもよいかなと人並みの小さな夢も持ったりしていました。そうこうするうち10年、15年が瞬く間に過ぎ去り、その間実家では古い家が取り壊され新しい家が建ち、相変わらず家業は続けてはいるけれど実際のところは開店休業状態で、父も母も楽隠居のような暮らしになっているとの噂が聞こえて来ます。祖父の代から引き継いだ多額の借金もどうにか払い終え、金に追われ貧しさに追われるように暮らしていた我が父母の家にもやっと静かな時が流れ始めるかのように思われた時でした。
しかしこれは宿命というのか業と言うのか、人生のほとんどを家族をも巻き込み争い仲たがいすることに費やして来た父に安楽の日々は決して訪れなかったのです。
(『鬼 2』に続く)
鬼とは如何なるものなのか。
オレも子供を殴った。
拳固で、電話帳で・・・・、
酔うとオレは酒乱だった。
だから(親を)許したり認めたりしたら絶対!ダメダ!
オレは娘の結婚式も知らなかった。
それでよかったと思っている。
そうやって、子供達は答えを出していくだろう。
誰しも苦しいことはたくさんありますが、文章に書くどころか思い出すのさえ拒絶している場合が多いのではないでしょうか。
でも自分の中にそれを蓄積させるためにはそのままではいけなくて、一歩踏み出すためには勇気がいるんですよ。
私も何人もの良い友人に恵まれて、このことについても今やっと書き出すことができます。
後は私の消化具合に応じて、作品ができてくるでしょう。
消化できない不快な経験を持つ場合、人はそれに蓋をかぶせるか、愚痴るかしかありません。
それを前向きに捉えることができて初めて、自分の心に「蓄積」させることになるのだと思います。
南無さんの蓄積、私の心にも響くものがありますし、
それを書き表す勇気にも、感服します。
この「鬼」は私にとって思い出すのも嫌な出来事なのですが、父の残してくれた「遺産」として貴重なもののひとつです。
今どれだけ私が消化したか、試してみる気になりました。
私も南無さんのように、世の「鉄槌」になりたいなと思うのですよ。
ちゃんと届いてます。
みなそれぞれ抱えているものがあり、その処理方法は決して自分以外のものでは見つけることができないのですよね。
がんばってくださいね。
当時は、今のように、自動販売機などなく、馴染みの事情を分かってる酒屋にいって分けてもらった記憶がある。
酔うと、抑制が効かなくなるんですね。テーブルをひっくりかえしたり、窓から、いろんなものを、ほおり投げたり。 次ぎの朝の母親の気持、想像できますか?
毎日、酔っぱらって愚痴る父の話しに、2時間以上、突き合わされて、ひたすら、酔いつぶれて、寝てしまうのを、胸が塞がる思いで、聞いていた時代がありますよ。 そして、外には、女の影。 こんな家庭環境で、育った、多感な時期の兄が、出ていってしまったのも、わかるような気がする。
父としても、商売がうまくいかなくて、責任が全部かかってきて、ストレスは、家族にしか当たるところがなかったのでしょうね。
当時、子供が どうしてできるか知らなかったpersempre, こんな父親が、どうしているんだろうと、思ってましたよ。(^_^;
過ぎてしまえば、思い出です。 その時の気持は、記憶に残ってます。 だから、agricoさんのその時の気持に、すぐに同化できるような、気がするのです。
癌になって、死ぬのがわかったとき、兄が一言「バチが当たった」。
これ以上は、語りますまい「今日の幸せ」
takeさんと時を同じくして体調崩してるので、これも互いに何かを確かめ合ってるのかなと思ったりして・・・。
(冗談です)
ありがとう。
書けばすぐ終わる物語なのです。
書かないと頭の中でグルグル、グルグル波紋を広げながらいつまでも回り続ける。
今、少し整理できそうに思います。
「共時性」というのでしょうか、私たちはある意味同じ時を共有して生きていますね。
親が残してくれたたくさんの物事。
それらがすべて、私たちの生きる目的、生きる源と関わっている。
もし生まれる前に自分の生の出発点を選べるのだとしたら、まさしく私はそれを選んできたのか。
どうしてこれを選んだのか。
それを思い、考え続けてきました。
これは私の持つ遺産の断片であり、やっと何か乗り越えれそうになったのでこうして書いています。
今でも、自分は人間であり、鬼とは人間のことをいう、と思っています。
書くことができて良かったですね。
そして、その思いはみんなに届いて、みんな各々の悲しい思いを手繰っている。私も・・・。
ここは素晴らしいところです。
やはり夏はどうしたって体に負担が来る。
夏は夏のペースに合わせた方がいいですね。
体験自体は、ひと昔前ならばどこにでもあった珍しくはないものです。
でも、私はそれを消化し、心の蓄積にしたいと思った。
そのためには何も「書く」ことが大切だったわけではなく、書くためにすることが必要だったのです。
takeさんなら、もうわかってますよね。
このblog界には、黙っていても励まし、勇気づけ、助けてくれる友人がたくさんいます。
本当に感謝です。
その人たちのお陰で、私も何歩も前に進むことができると思います。
手を携えあって、歩いていきましょう。