ーー修行の道は至上の誠実と細心の気配りが必要とされる、極めて迷いやすい道である。
人の心を意のままに動かせるということは何ものにも替えがたいしかし致命的な誘惑だ。その前には富も地位も権力もそれがどれほどのものと言えよう。例えそれらをみな手に入れたとしてもこの世で唯一掴むことのできないものそれが『人の心』である。しかし逆にそれを掌握した時には現世で手に入れられないものは無い。すべての事象は人が動かしているのである。ーーー世界はあの時鮮やかに衣装を改めわが足元にひれ伏しすべての宝は眼前に供された。更に更にこの感化力を広げたい。ただに人の心さえ掌握できればこの世界は容易く掌中に乗ると知る。
ーー須臾(しゅゆ)の間の悟りもみな永劫の時をもって成就されている。拠るべき近道もそれを早める方途もそこには無い。菩薩はただひたすらに眼前の山路を歩くのみである。
しかしてその大いなる魔性は難行の峰よりふと振り向く雲間に忽然として現れる。悪魔の微笑。それと出会った歓喜を何に例えられようか。彼岸に達した幻影と慢心。しかしそのすべてはわが恐れと執着が現す幻だった。道は更に細く険しくあらゆる欲を断ち執着を越えて地に臥し精進を重ねるさながら無限かと思われるそのところから目を逸らしむる心の迷いであった。我が道は未だ入門に在り世の聖者とは比べるべくも無い。しかし・・・
ーーしかし目を曇らせる
目の前の供物を食さぬ愚があろうか。すべてはわが手に掴まれんとして身を投げ出し眼前にある。その実を食せぬことは果たして賢きか愚か。
ーー古より仏教教団には心を恣意的に変革するためのさまざまな方途が集積されている。それは心の変革を通してカルマを滅却しもって仏道成就ならしめるための枢機であったのだが
それは己自身の心を変化させる技術であるゆえもって奥義である。その取り扱いには極めて注意すべきものである。始めは聞き取れぬほどの微かな違和音だった。瞑想のさ中の囁きは勢を強め感に馴染みやがては心の中に伽藍の鐘のごとくに鳴り響く。図らずも無私を極め実相を観んとした瞑想が心を魔性の罠へと駆り立てる。わが身は操作されたのである。自らの意識に。
我は孤独だった。そして我に付き従う者もまた底なしに孤独だった。それら弱き者たちが互いに寄り添い各自の個性にそぐう相対関係を見出したとしてそこにいったい何の罪があろう。それは決してどちらかが一方的に強制したものではない。マインド・コントロールはただ己が己にのみ可能な操作である。我が我という個体にのみ行わしめることができる自身の自発的行為に他ならない。見かけ上他者の手を介するに見える時があっても根底には等しく己が自己否定がある。
修行の道は孤独である。修行者はどれほどの群に囲まれていようとその孤独から逃れることはできず、どれ程の可能性が拓けようとも行道の先から目を逸らすことは許されない。
ーーゆえに『犀の角のように、ただ歩め。』
あの時我は正しく慎ましき道を歩み続けることもできた。貧しいながらもささやかな明かりを燈しその輝きを互いの手のひらを寄せ合い守り育てる道を選ぶこともできた。会員たちはみな純粋でありそして弱かった。我もまた然り。
器の情報を入れ替えたとしてもそれが悟りの道において何になろうか。それは正精進にあらず!己を否定したところに己の救いはあり得ない。
ーーダイバダッタ。すべての現象は遍く悟りへの過程である。これに到達しない『いのち』は無い。人はみな今ここに己が出発点を見つけ、そこより歩み出す。
世尊よ!我は「我」を受け容れよ・・我とわが身を受け容れよ・・・と・・
ーーあなたはもう、前世の過ちを繰り返す必要はないのです。
アノクッタラサンミャクサンボダイ!願わくば我はわが身とともに滅ぶべし!・・・嗚呼、嗚呼・・・
ーーあなたを誰も責めてはいない。あなたは私であり世のすべての『たましい』の分身である。指が手に繋がるごとく、またその手が体に繋がるごとくにすべてのいのちは仏に通じている。だから私たちはすべてが釈迦でありすべてがダイバダッタである。私たちはこの世にあっては常に総体として生まれ変わるのだから、あなたの罪は私たちすべての罪であり原罪でもある。
すべてのたましいは始めより終わりまで、仏に繋がるあなたを全きままに受け容れている。ゆえに人は今、なすべきことをしないではいられない。
・・・・・・
(言うまでもないこととは思いますが、この記事はアグリコによるフィクションです。)
【昔ホルスはヨガをやっていました。写真は『半回転ひねり』のポーズ。】
(「6」につづく)
人の心を意のままに動かせるということは何ものにも替えがたいしかし致命的な誘惑だ。その前には富も地位も権力もそれがどれほどのものと言えよう。例えそれらをみな手に入れたとしてもこの世で唯一掴むことのできないものそれが『人の心』である。しかし逆にそれを掌握した時には現世で手に入れられないものは無い。すべての事象は人が動かしているのである。ーーー世界はあの時鮮やかに衣装を改めわが足元にひれ伏しすべての宝は眼前に供された。更に更にこの感化力を広げたい。ただに人の心さえ掌握できればこの世界は容易く掌中に乗ると知る。
ーー須臾(しゅゆ)の間の悟りもみな永劫の時をもって成就されている。拠るべき近道もそれを早める方途もそこには無い。菩薩はただひたすらに眼前の山路を歩くのみである。
しかしてその大いなる魔性は難行の峰よりふと振り向く雲間に忽然として現れる。悪魔の微笑。それと出会った歓喜を何に例えられようか。彼岸に達した幻影と慢心。しかしそのすべてはわが恐れと執着が現す幻だった。道は更に細く険しくあらゆる欲を断ち執着を越えて地に臥し精進を重ねるさながら無限かと思われるそのところから目を逸らしむる心の迷いであった。我が道は未だ入門に在り世の聖者とは比べるべくも無い。しかし・・・
ーーしかし目を曇らせる
目の前の供物を食さぬ愚があろうか。すべてはわが手に掴まれんとして身を投げ出し眼前にある。その実を食せぬことは果たして賢きか愚か。
ーー古より仏教教団には心を恣意的に変革するためのさまざまな方途が集積されている。それは心の変革を通してカルマを滅却しもって仏道成就ならしめるための枢機であったのだが
それは己自身の心を変化させる技術であるゆえもって奥義である。その取り扱いには極めて注意すべきものである。始めは聞き取れぬほどの微かな違和音だった。瞑想のさ中の囁きは勢を強め感に馴染みやがては心の中に伽藍の鐘のごとくに鳴り響く。図らずも無私を極め実相を観んとした瞑想が心を魔性の罠へと駆り立てる。わが身は操作されたのである。自らの意識に。
我は孤独だった。そして我に付き従う者もまた底なしに孤独だった。それら弱き者たちが互いに寄り添い各自の個性にそぐう相対関係を見出したとしてそこにいったい何の罪があろう。それは決してどちらかが一方的に強制したものではない。マインド・コントロールはただ己が己にのみ可能な操作である。我が我という個体にのみ行わしめることができる自身の自発的行為に他ならない。見かけ上他者の手を介するに見える時があっても根底には等しく己が自己否定がある。
修行の道は孤独である。修行者はどれほどの群に囲まれていようとその孤独から逃れることはできず、どれ程の可能性が拓けようとも行道の先から目を逸らすことは許されない。
ーーゆえに『犀の角のように、ただ歩め。』
あの時我は正しく慎ましき道を歩み続けることもできた。貧しいながらもささやかな明かりを燈しその輝きを互いの手のひらを寄せ合い守り育てる道を選ぶこともできた。会員たちはみな純粋でありそして弱かった。我もまた然り。
器の情報を入れ替えたとしてもそれが悟りの道において何になろうか。それは正精進にあらず!己を否定したところに己の救いはあり得ない。
ーーダイバダッタ。すべての現象は遍く悟りへの過程である。これに到達しない『いのち』は無い。人はみな今ここに己が出発点を見つけ、そこより歩み出す。
世尊よ!我は「我」を受け容れよ・・我とわが身を受け容れよ・・・と・・
ーーあなたはもう、前世の過ちを繰り返す必要はないのです。
アノクッタラサンミャクサンボダイ!願わくば我はわが身とともに滅ぶべし!・・・嗚呼、嗚呼・・・
ーーあなたを誰も責めてはいない。あなたは私であり世のすべての『たましい』の分身である。指が手に繋がるごとく、またその手が体に繋がるごとくにすべてのいのちは仏に通じている。だから私たちはすべてが釈迦でありすべてがダイバダッタである。私たちはこの世にあっては常に総体として生まれ変わるのだから、あなたの罪は私たちすべての罪であり原罪でもある。
すべてのたましいは始めより終わりまで、仏に繋がるあなたを全きままに受け容れている。ゆえに人は今、なすべきことをしないではいられない。
・・・・・・
(言うまでもないこととは思いますが、この記事はアグリコによるフィクションです。)
【昔ホルスはヨガをやっていました。写真は『半回転ひねり』のポーズ。】
(「6」につづく)
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