歴史上、多くの宗教が勃発する時代にはそれなりの要因が存在している。
日本で言えば鎌倉時代。日蓮宗や浄土宗、時宗など現代でも相応の評価を得ている幾つかの宗派もこの時代に興された。当時世は貴族社会から武家社会へとドラスティックに変遷を遂げている。新しい文化や思想は常に人の変化に呼び起こされる。激動と不安の時代の中で民衆は新しいものに救いを求め、それがニーズとなってそれまでにない新しい形での宗教を産み出して来た。
また近世で言えば、明治維新と第二次大戦前後が挙げられるだろう。そしてもうひとつ、私たちが生きる現代も、宗教乱立の時代だ。
どうして人は「新宗教」に引きつけられるのか.
このことについては現代の識者たちが多様な観点から意見を述べている。
社会の不安定性、未来への不安、経済基盤の破綻、不景気、オカルトブーム、超常現象への憧れ、不健康、過酷な労働からの逃避・・・
どれもこれも今更説明を要しないものばかりだ。それらの状況のほとんどが新宗教勃発の時代には必ずあったのだろうし、私たちが生きているこの時代もまた、その条件を十二分に満たしていると言える。新宗教勃発の時代には、いつも人々は生きる悩みを山ほど抱えていた。さながら病のオンパレード。多分それは、ひと昔前に成人病と呼ばれていた症状に似ている。
ここで私は、それら原因のひとつとして現代に特有のもの、とりわけまだ他の人たちが指摘していないと思われる、ある要因について述べたいと思う。
いつの時代でも、社会の構成員ひとりひとりが病むことによって全体は病んでしまう。そしてそれまで社会に存在しなかった異質な現象を次々に引き起こしていく。実際その状況に置かれれば人間は現実社会を自分の手から離れた、コントロール不能のとても怖いものに感じてしまうものだけれど、それは社会が外側から変えられているのではなくて、私たち自身が変わることによって内側から変化しているに過ぎない。
だから危機的と見える状況にこそ、私たちは何が原因でそうなるのかを自分の中に見つけなければならない。そしてその原因のすべては決して見つけがたいものではなく、私たちが日常「当たり前」「当然」のこととして受け入れているものの中にあるものだ。
例えば現代で言えば、「科学への過剰な信奉」。科学はなんとなく私たちの現実生活を豊かにしてくれているように見える。けれど私たちは本当に豊かになったのだろうか。縄文時代の人々よりも幸せなのだろうか。私たちは彼らよりも本当に、心身ともに健全な人間と言えるのだろうか。・・・しかし例えば医学技術の進歩と普及は、皮肉な事に病気の複雑化と蔓延とを結果的に助長してきてしまっている。これはどうしてなのだろう。
かつて誰一人として、科学が進めば自分たちは幸せになるという、その考え方がまさか間違っているとは思いもしなかっただろう。でもその偏った考えが、私たちを今日このように在らしめている。原因とはそんなものだ。常に日常の「盲点」に存在する。
その時は誰も悪いと思ってはいなかった。ただ後から振り返れば、「知らなかった」だけなのだ。「科学」は確かに大切にすべきものではあったけれど、今思えばその他にも同じように大切にすべきものが、たくさんあったのだった。
知識というものに過剰なウエイトを置いた結果、私たちは生命体としてのバランスを崩してしまっている。つまり体全体で言えば「頭」ばかり過剰に使っている状態。また心で言えば本来の自由な発想や働きが抑えられた状態にある。これでは健全な心身機能が発揮されるわけがない。
「感じようとしなかった」。まさしくこれが、現代私たち自身の「ゆがみ」の根本原因のひとつだと思う。私たちは長い間目に見えるもの、「頭で理解できるもの」にのみ心を奪われて、その結果それ以外の大切な能力を封印してしまったのではなかろうか。感性を養おうとせずして感覚は育まれない。この場合の感覚とは目で物を見る、耳で音を聞くという器官的意味ではなくて、見えないものを観て、聴こうとしなければ聞こえない音を聞くという、心の感性である。山の本体はただの土の盛り上がりにあるのではなく、その呼吸にある。だから風に吹かれなければ、「山」というものを感じることはできない。
「感性」は生物が生物として存在するのに必要な代謝機能だと思う。この感覚を通して私たちは内部の、また外界との血液の流通を行う。今生きるに、明日生きるに、次代に生きるのに大切な情報の交感が不断に行われている。この能力を失くした生物は、さながら大洋に浮かぶ難破船に等しい。自分がどこにいるのか、どこに流されているのかを知らない。もちろんこれからどこに向かったらいいのかもわからないから、これはそのものの意識を不安と焦燥の淵に沈めてしまう。
だからこの状態にあるものは「生き続ける」ために、自信と自立性を取り戻そうとして自分とは対極にある存在との結合を図るかもしれない。感性の欠如したものは大いなる感性と結合しようとする。しかしいかんせん、自分の感性が正しく機能していないものだから、結合しようとする相手が果たして「何ものなのか」も直感レベルで正しく認識されてはいない。ただ盲目の旅人は、よろめいた時にはたと掴んだ物に縋るしかないのである。
人間が感性を失った(または「減退させた」)もうひとつの原因に、食べ物の変化があると思う。これは現代人の心身を語るに避けては通れない問題だ。なぜならば私たちは、未だかつて人類が「摂取」したことのない物質を多種多様に体内に入れているのだから、その影響は計り知れない。
例えばこれは家畜を飼う人の間に普及されたひとつの技術なのだけれど、鶏に充分なカルシウムとタンパク質を給与するために「魚かす」が広範に用いられている。(我が家では魚のあらを使っている。)これは産卵率の向上や卵の殻を固くするのに効果があるし、また価格的にそれほど高いものではない。また鶏の方も喜んで食べるものだから、やる方としてはついつい多く与えがちになってしまう。
でもそんな状態が長く続くと次第に鶏は変わってくる。まず攻撃的になる。メス同士の突つき合いが激しさを増して、弱いものは羽をむしられ全身血だらけになる。また落ち着きが無くなって母鶏が卵を抱かなくなるばかりか自分の産んだ卵を片っ端から食べてしまう。つまり野生の本能が狂ってくるのである。
私もある時、それがもしかしたら魚かすによるものではないかと気がついた。そこでそれをを減らして、代わりに米糠や牡蠣ガラ、青草を多くやるようにしたら、次第に鶏たちは元の穏やかな状態に戻っていった。まるで嵐の後の静けさのように。
動物を飼う人にこのような経験を持っている人は、おそらくかなりいると思う。食べ物と排便は生物の体の内部を知るための基本的な二大ファクターだ。その中でも特に食べ物というのは本当に恐ろしい。生物は皆、口から入れる食べ物によって体と心とを作っている。
また魚かすというのは、野生の状態で野山の鳥たちがほとんど食べないものである。つまりこれは生物的に言っても本来の彼らの食べ物ではない。何百・何千万年という進化の過程でそのように作られている現在の体に、本来「食べて来なかったもの」を多食させればどうなるのか。私たちは現代その生体実験を大いに行っている。狂牛病などはそのいい例ではないだろうか。
そして現代の私たちが日常的に多食しているものがある。それは「化学物質」という、過去46億年の歴史の中で地球が持ったことのない、その意味で極めて特殊な存在だ。
これはいわば薬のようなものだから量は僅かでも効果はてきめん。しかもその種類は日常摂取するものだけでも数百~数千と言われている。もちろんダイオキシンなどの「古参」の物質はそのマイナス効果が実証されているから、もはや積極的に取り入れようとする人はいないだろうけれど、しかしだからといって私たちの摂取する化学物質の量は決して減ってはいない。どれもこれも人類にとって新しいものばかりだから、その効果を計るための生体実験の方が追いつかないのが現状だ。
このような食べ物の変化が人間の心身にどのような影響を及ぼすか。この問題は既に多すぎるほどの事例に恵まれているので、実は無意識にしろそれに気づいていない人はほとんどいないのだと思う。しかし私たちは見たくないものは見ないですます能力(?)を持っている。現在の簡便で快適、豊かな食生活は、私たちの目を曇らせるのに充分な魅力を持っているということだろうか。私たちの心の目を曇らせる大きな要因は、まず自身の「欲」であり、次に不自然な食べ物である。
少なくとも人間本来の食べ物ではない「化学物質」は、私たちの体も心も変える力を持っている。その結果人は本来の「感性」を失くし「本能」を衰えさせてしまっている。更に深刻なのは、感性自体が鈍ってしまっているからそれに気づいてさえいないということか。本来の感受性と健全な心身を失った人間には生物としての最低限の生存レベル、もはや胃袋と性器というものに象徴される「欲」しか残されてはいない。
「感じようとしない文化」「偽の食べ物」は私たちから多くのものを剥ぎ取り、生命エネルギーさえも減退させてしまった。正常さを失った本能は個体に異常行動を起こさせる。そのひとつの具体的な表れが、現代「カルトへの傾斜」に結び付くのではないだろうか。
オウム問題に関心を持ってから私なりにさまざまな文献を読み漁ってきたのだけれど、しかし麻原彰晃の説法などに、今のところ残念ながら個人的に感銘を受けるものはほとんどない。しかしこの一見ナンセンスな主張や教義に、現実には何千人もの人々が人間としての生き方もありきたりの人生の幸せも捨てて追随したのである。またカルトの恐ろしいところは、仮にその修行によって将来信者が感性を取り戻すとしても、それと同時平行して抜き差しならないマインド・コントロールを受けてしまうというところにある。
カルトに群がる心理、それはもしかしたらひとつの「無意識の狂気」なのではなかろうか。実際目が醒めた後には多くの信者が、かつての自分の行動を理解するのに苦慮している。しかしこの現象を生物界一般に観察されるメカニズムという観点から眺めると、限界状況において多くの生き物が見せるさまざまな異常行動のひとつ(それはもちろん、「生きる」ために行われる)として、決して理解し得ないことではないと思うのである。
オウム事件、これは私たちにとって決して安易に過去に埋没させる性質のものではなくて、現代人が今から一歩でも二歩でも先に生き延びるために必要な「大切な処方箋」を懐中に抱いている、ある意味人類史上エポック・メイキングな出来事ではなかろうか。
【写真は炬燵にあたるレオ。おいおい、お前もなんだか猫の本能を忘れてきてしまってるんじゃないか?・・・】
(「5」につづく)
日本で言えば鎌倉時代。日蓮宗や浄土宗、時宗など現代でも相応の評価を得ている幾つかの宗派もこの時代に興された。当時世は貴族社会から武家社会へとドラスティックに変遷を遂げている。新しい文化や思想は常に人の変化に呼び起こされる。激動と不安の時代の中で民衆は新しいものに救いを求め、それがニーズとなってそれまでにない新しい形での宗教を産み出して来た。
また近世で言えば、明治維新と第二次大戦前後が挙げられるだろう。そしてもうひとつ、私たちが生きる現代も、宗教乱立の時代だ。
どうして人は「新宗教」に引きつけられるのか.
このことについては現代の識者たちが多様な観点から意見を述べている。
社会の不安定性、未来への不安、経済基盤の破綻、不景気、オカルトブーム、超常現象への憧れ、不健康、過酷な労働からの逃避・・・
どれもこれも今更説明を要しないものばかりだ。それらの状況のほとんどが新宗教勃発の時代には必ずあったのだろうし、私たちが生きているこの時代もまた、その条件を十二分に満たしていると言える。新宗教勃発の時代には、いつも人々は生きる悩みを山ほど抱えていた。さながら病のオンパレード。多分それは、ひと昔前に成人病と呼ばれていた症状に似ている。
ここで私は、それら原因のひとつとして現代に特有のもの、とりわけまだ他の人たちが指摘していないと思われる、ある要因について述べたいと思う。
いつの時代でも、社会の構成員ひとりひとりが病むことによって全体は病んでしまう。そしてそれまで社会に存在しなかった異質な現象を次々に引き起こしていく。実際その状況に置かれれば人間は現実社会を自分の手から離れた、コントロール不能のとても怖いものに感じてしまうものだけれど、それは社会が外側から変えられているのではなくて、私たち自身が変わることによって内側から変化しているに過ぎない。
だから危機的と見える状況にこそ、私たちは何が原因でそうなるのかを自分の中に見つけなければならない。そしてその原因のすべては決して見つけがたいものではなく、私たちが日常「当たり前」「当然」のこととして受け入れているものの中にあるものだ。
例えば現代で言えば、「科学への過剰な信奉」。科学はなんとなく私たちの現実生活を豊かにしてくれているように見える。けれど私たちは本当に豊かになったのだろうか。縄文時代の人々よりも幸せなのだろうか。私たちは彼らよりも本当に、心身ともに健全な人間と言えるのだろうか。・・・しかし例えば医学技術の進歩と普及は、皮肉な事に病気の複雑化と蔓延とを結果的に助長してきてしまっている。これはどうしてなのだろう。
かつて誰一人として、科学が進めば自分たちは幸せになるという、その考え方がまさか間違っているとは思いもしなかっただろう。でもその偏った考えが、私たちを今日このように在らしめている。原因とはそんなものだ。常に日常の「盲点」に存在する。
その時は誰も悪いと思ってはいなかった。ただ後から振り返れば、「知らなかった」だけなのだ。「科学」は確かに大切にすべきものではあったけれど、今思えばその他にも同じように大切にすべきものが、たくさんあったのだった。
知識というものに過剰なウエイトを置いた結果、私たちは生命体としてのバランスを崩してしまっている。つまり体全体で言えば「頭」ばかり過剰に使っている状態。また心で言えば本来の自由な発想や働きが抑えられた状態にある。これでは健全な心身機能が発揮されるわけがない。
「感じようとしなかった」。まさしくこれが、現代私たち自身の「ゆがみ」の根本原因のひとつだと思う。私たちは長い間目に見えるもの、「頭で理解できるもの」にのみ心を奪われて、その結果それ以外の大切な能力を封印してしまったのではなかろうか。感性を養おうとせずして感覚は育まれない。この場合の感覚とは目で物を見る、耳で音を聞くという器官的意味ではなくて、見えないものを観て、聴こうとしなければ聞こえない音を聞くという、心の感性である。山の本体はただの土の盛り上がりにあるのではなく、その呼吸にある。だから風に吹かれなければ、「山」というものを感じることはできない。
「感性」は生物が生物として存在するのに必要な代謝機能だと思う。この感覚を通して私たちは内部の、また外界との血液の流通を行う。今生きるに、明日生きるに、次代に生きるのに大切な情報の交感が不断に行われている。この能力を失くした生物は、さながら大洋に浮かぶ難破船に等しい。自分がどこにいるのか、どこに流されているのかを知らない。もちろんこれからどこに向かったらいいのかもわからないから、これはそのものの意識を不安と焦燥の淵に沈めてしまう。
だからこの状態にあるものは「生き続ける」ために、自信と自立性を取り戻そうとして自分とは対極にある存在との結合を図るかもしれない。感性の欠如したものは大いなる感性と結合しようとする。しかしいかんせん、自分の感性が正しく機能していないものだから、結合しようとする相手が果たして「何ものなのか」も直感レベルで正しく認識されてはいない。ただ盲目の旅人は、よろめいた時にはたと掴んだ物に縋るしかないのである。
人間が感性を失った(または「減退させた」)もうひとつの原因に、食べ物の変化があると思う。これは現代人の心身を語るに避けては通れない問題だ。なぜならば私たちは、未だかつて人類が「摂取」したことのない物質を多種多様に体内に入れているのだから、その影響は計り知れない。
例えばこれは家畜を飼う人の間に普及されたひとつの技術なのだけれど、鶏に充分なカルシウムとタンパク質を給与するために「魚かす」が広範に用いられている。(我が家では魚のあらを使っている。)これは産卵率の向上や卵の殻を固くするのに効果があるし、また価格的にそれほど高いものではない。また鶏の方も喜んで食べるものだから、やる方としてはついつい多く与えがちになってしまう。
でもそんな状態が長く続くと次第に鶏は変わってくる。まず攻撃的になる。メス同士の突つき合いが激しさを増して、弱いものは羽をむしられ全身血だらけになる。また落ち着きが無くなって母鶏が卵を抱かなくなるばかりか自分の産んだ卵を片っ端から食べてしまう。つまり野生の本能が狂ってくるのである。
私もある時、それがもしかしたら魚かすによるものではないかと気がついた。そこでそれをを減らして、代わりに米糠や牡蠣ガラ、青草を多くやるようにしたら、次第に鶏たちは元の穏やかな状態に戻っていった。まるで嵐の後の静けさのように。
動物を飼う人にこのような経験を持っている人は、おそらくかなりいると思う。食べ物と排便は生物の体の内部を知るための基本的な二大ファクターだ。その中でも特に食べ物というのは本当に恐ろしい。生物は皆、口から入れる食べ物によって体と心とを作っている。
また魚かすというのは、野生の状態で野山の鳥たちがほとんど食べないものである。つまりこれは生物的に言っても本来の彼らの食べ物ではない。何百・何千万年という進化の過程でそのように作られている現在の体に、本来「食べて来なかったもの」を多食させればどうなるのか。私たちは現代その生体実験を大いに行っている。狂牛病などはそのいい例ではないだろうか。
そして現代の私たちが日常的に多食しているものがある。それは「化学物質」という、過去46億年の歴史の中で地球が持ったことのない、その意味で極めて特殊な存在だ。
これはいわば薬のようなものだから量は僅かでも効果はてきめん。しかもその種類は日常摂取するものだけでも数百~数千と言われている。もちろんダイオキシンなどの「古参」の物質はそのマイナス効果が実証されているから、もはや積極的に取り入れようとする人はいないだろうけれど、しかしだからといって私たちの摂取する化学物質の量は決して減ってはいない。どれもこれも人類にとって新しいものばかりだから、その効果を計るための生体実験の方が追いつかないのが現状だ。
このような食べ物の変化が人間の心身にどのような影響を及ぼすか。この問題は既に多すぎるほどの事例に恵まれているので、実は無意識にしろそれに気づいていない人はほとんどいないのだと思う。しかし私たちは見たくないものは見ないですます能力(?)を持っている。現在の簡便で快適、豊かな食生活は、私たちの目を曇らせるのに充分な魅力を持っているということだろうか。私たちの心の目を曇らせる大きな要因は、まず自身の「欲」であり、次に不自然な食べ物である。
少なくとも人間本来の食べ物ではない「化学物質」は、私たちの体も心も変える力を持っている。その結果人は本来の「感性」を失くし「本能」を衰えさせてしまっている。更に深刻なのは、感性自体が鈍ってしまっているからそれに気づいてさえいないということか。本来の感受性と健全な心身を失った人間には生物としての最低限の生存レベル、もはや胃袋と性器というものに象徴される「欲」しか残されてはいない。
「感じようとしない文化」「偽の食べ物」は私たちから多くのものを剥ぎ取り、生命エネルギーさえも減退させてしまった。正常さを失った本能は個体に異常行動を起こさせる。そのひとつの具体的な表れが、現代「カルトへの傾斜」に結び付くのではないだろうか。
オウム問題に関心を持ってから私なりにさまざまな文献を読み漁ってきたのだけれど、しかし麻原彰晃の説法などに、今のところ残念ながら個人的に感銘を受けるものはほとんどない。しかしこの一見ナンセンスな主張や教義に、現実には何千人もの人々が人間としての生き方もありきたりの人生の幸せも捨てて追随したのである。またカルトの恐ろしいところは、仮にその修行によって将来信者が感性を取り戻すとしても、それと同時平行して抜き差しならないマインド・コントロールを受けてしまうというところにある。
カルトに群がる心理、それはもしかしたらひとつの「無意識の狂気」なのではなかろうか。実際目が醒めた後には多くの信者が、かつての自分の行動を理解するのに苦慮している。しかしこの現象を生物界一般に観察されるメカニズムという観点から眺めると、限界状況において多くの生き物が見せるさまざまな異常行動のひとつ(それはもちろん、「生きる」ために行われる)として、決して理解し得ないことではないと思うのである。
オウム事件、これは私たちにとって決して安易に過去に埋没させる性質のものではなくて、現代人が今から一歩でも二歩でも先に生き延びるために必要な「大切な処方箋」を懐中に抱いている、ある意味人類史上エポック・メイキングな出来事ではなかろうか。
【写真は炬燵にあたるレオ。おいおい、お前もなんだか猫の本能を忘れてきてしまってるんじゃないか?・・・】
(「5」につづく)
ドイツ・ナチスはユダヤ人絶滅を企だてましたが、成功しませんで、ヒトラーは豪で戦死しました。
神を無視して成功するわけがない。
それはつまり、麻原彰晃自身の発想だったのでしょう。彼は彼なりの修行の成果としてそのような側面を持つに至ったのかもしれませんね。
卑近な意味での「大人」なら、いかにハルマゲドンを信じていようと世間を相手に無差別テロ行為には及びません。どれだけ転生輪廻や魂の救済を理論化していようとも、多くの生命を無造作に摘み取る行為には及びません。
私たちが彼を、オウムを理解できない理由はここにあるのだと思います。誤解を怖れずいえば、その発想はバーチャルなテレビの中でシミュレーション・ゲームを楽しむ感覚に似たものがあります。
マイナスをあげつらうとこのようなことになりますが、これは反面個々人として見れば大いにプラスの面をも持ってます。つまり悟りの道は「子どものような心」を持つことに繋がっているからだと思います。
宗教団体の行動には常人には理解しにくいところがどうしてもあります。それは悟りの体験が人間を変え、世界の見方や生き方を根底から変えていくからでしょう。実際の行動は正反対なのですが、だからイエスさえも反動分子として処分されたのでしょうね。
オウムの問題には直感的にとても深いものを感じます。それは私たちにとってとても大切なような気がします。でもそれが何なのか、私にもよくわかりません。
だから今回記事を書くことを通して、あえてそれに挑戦してみてるんですよ。
ヒトラーの問題はフリーメーソン(ユダヤ人問題)を抜きにしては語れません。これは日本人のほとんどが(国際的に考えると意外なのですが)知らないことですね。彼はアングロサクソン(キリスト教徒)とユダヤ人という構図で考えてます。悲惨を尽くしたユダヤ人の虐殺も、それを解せば震え上がるほどに意味があったことなのです。それは相互の殺し合いの歴史でした。でも私自身は彼にもユダヤ人にも同情する気持ちがあるのですよ。