アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

開戦の朝

2005-06-16 10:04:35 | 思い出
その日は朝から雲ひとつ無い、抜けるような空だった。
軍馬に水を与えるためつるべから盥に水を移し変えていた佐藤正三郎は、その時耳奥に響く微かな唸りに顔を上げた。8月ともなれば満州では時折初秋を思わせる風が吹く。その日も早朝未だ日は昇らず、金露梅の花に朝露が玉を成す気持ちのよい朝だった。
見上げると北西の空に小さな機影が見える。やがてキーンという金属音とともに通り過ぎる刹那、飛行機は一瞬横腹を鋭く煌かせた。
「星マークだ。・・ミグかな・・・」
傍らで、やはり空を見上げていた曹長が呟いた。残念ながら視力の弱い正三郎には飛行機の横腹に描かれている図形までは見分けがつかない。僅かに機影やエンジン音から友軍機かソ連機かの区別を当て推量するだけである。しかしここは満州西北の国境に近い山中の町五叉溝(ウサコウ)、日頃は滅多に飛行機を見ることなど無い。正三郎はどことなく胸奥に胸騒ぎを覚えた。

その後陽が昇るにつれ飛行機は7機、9機、10数機と数を増し、皆一様に朝日を浴びながら東南方、首都新京方面に直進する。

もしや・・・

胸中抱えていた各員の不安が現実のものとなるのにそう時間はかからなかった。司令部通信隊の無線を傍受した週番指令が連隊に対してソ連の侵攻を告げた。8月9日、ソ連第一、第二極東方面軍及び外蒙側に位置するザバイカル方面軍はそれぞれ東西北三方より怒涛のごとく満州に雪崩れ込む。正三郎たちが飛行機を見上げていた時には、既に東部国境は激戦となっていた。

ソ連外相モロトフはモスクワ時間8日午後5時に中ソ日本大使佐藤尚武に宣戦布告文を読み上げている。しかしその事実を佐藤大使が電話で日本に連絡しようとした時には、大使館の電話回線は既に切断されていた。そして相手国に伝わらなかった「宣戦布告」から僅か1時間後に、ソ連軍は満州に攻め入ったのである。

ソ連軍侵攻の報を受けて西部最前線に位置していた第107師団は迅速に行動した。
伝騎伝令は八方に飛び、会敵に備えての陣地構築補強、部隊全体が戦闘配備の命を受け津波のように動く。一方司令部の置かれていた五叉溝はほどなくソ連機の銃爆撃を受け炎上、同日中に居留邦人の引き上げが開始される。
翌々日の8月11日、歩兵第177連隊所属佐藤乗馬小隊長(佐藤正三郎とは別人)は部下4名を率いて斥候隊を組織し三国山方面に急行。
山上に達し、遠く国境線を見渡して息を呑む。
広大な台地を敵機甲大縦隊が砂塵を上げて続々と東南方面に進撃している。
つまりソ連軍は関東軍前線との戦闘を一時棚上げし、一挙主力を後方白城子方面に急行制圧させて軍の退路を断つ作戦に出たのだ。
同日軍命令に基き師団は新京に向けての退却を決定する。

当時満州に居留する在留邦人は約155万人。その大部分が開拓団として辺境地区に居住していた。
一方満州に配置された関東軍は北朝鮮配備の軍も含めておよそ75万。しかし大東亜戦争の進展に従い兵や装備のほとんどを南方に引き抜かれた結果、編成も装備も極めて貧弱だった。大砲を一門も有しない重砲兵中隊、小銃をほとんど持たない歩兵連隊さえあり、欠員の穴を埋めるために「根こそぎ動員」と呼ばれるほど在住邦人男子の徴兵、また現地満州人・朝鮮人の強制徴発を行いどうにか「対面上」の兵力を保っていたのである。しかし要員には訓練も銃器もろくに行き届かず、実際の有効戦力は30万ほどと推定されている。かつて帝国陸軍最強を誇った部隊も既に張子の虎同然になっていたのだ。
対するソ連軍は戦車(自走砲を含む)五千輌、航空機五千機、火砲二万四千門、兵員174万以上の大兵力で満州国及び樺太南部に侵攻を開始した。
西部方面においても日本軍が9個師団他全5個の旅団しか有していなかったのに比べ、ソ連軍は狙撃28個、騎兵5個、戦車2個、自動車化2個、加えて戦車機械化旅団等18個という一大兵力を擁しており、彼我の兵力差は実に5倍近くにも相当する。

ソ連の日本への参戦は当時有効であった日ソ不可侵条約の一方的破棄によるものであり、また過ぐる2月に行われたヤルタ会談にて、連合国は参戦と引き換えにソ連の千島、南樺太の領有を認めるといういわゆる「ヤルタの密約」の所産である。

侵攻するソ連軍に対して関東軍令部は、急ぎ主力を首都新京以南に集結、指令部を満鮮国境付近の通化に移動、皇帝溥儀も大栗子に遷都という徹底した持久守勢に転換して応戦した。
しかし遠く国境付近に配備されていた多くの部隊、辺地居住の開拓団たちは、当然のことながら風雲急を告げるその動きに着いていくことはできなかった。

当初陣地にての徹底抗戦を意図していた佐藤正三郎二等兵の属する第107師団も、突如入った遠距離の退却命令に二転三転の指示が飛び交い、とりあえず在留邦人の退避を優先させながら「取るものとりあえず」抜本的な部隊移動をする他無かったのである。
しかし退却を開始した矢先師団先頭が対峙したのは、既に先回りして途上に待ち伏せていた敵機械化師団であった。






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