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アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

出征の歌

2005-06-13 20:18:16 | 思い出
「佐藤正三郎、行って参ります!」

菅生のバス停、菅生(かんしょう)院の門前で正三郎は敬礼する。取り巻く衆はふるさと芦沢の人々、郷里の同窓生、在郷軍人会の面々。

「おおっ! 頑張って来い!」
「体に気をつけて・・・」
「元気でな・・・」

様々な言葉が居並んだ人々の口から飛び出る。しかしそれぞれの願いを込めたそのひとつひとつの意味を正確に汲み取ることは、残念ながらその場ではできない。ただ彼の感じるものは我が身を取り巻く皆の熱い思いの「量」であった。


後のことは、よろしく頼みます。


昨夜、そして今朝に至るまで膨大な時間をかけて考え続けた別れの言葉を口にする。開戦以来既に3年余り、この小さな田舎でも南方や大陸で英霊となった人の噂に事欠かず、仙台、釜石と、この北国にも爆撃・艦砲射撃の足音は着実に近づいていた。このような状況で誰もが認める「死地への旅立ち」、それに際した別れの言葉として、それはあまりに陳腐で簡略な、けれどそれ以上、彼にはどうしても思いつかない言葉であった。
母は絣の晴れ着の袖を涙で濡らし、寡黙な父は何かを言おうとするように半ば口を開きながらも皆の大声に飲み込まれてそれを言葉として発することはできない。そしてあやめは・・・
あやめは何かに立ち向かうようにきっと顔を上げ、正三郎の顔を真正面に捉えて目を逸らさない。これが最期となるかもしれない夫の目の色、頬の微細な動きからでき得る限り最大限のものを引き出そうとするかのように、また自らの精神力の限界に挑む寒修行の行者のように、顔つきは強張り決意に漲り、しかし迂闊に触れれば焼け火箸のような熱さを感じれるかと思うほどだった。
ふと、その目の輝きが大きく揺れるのを正三郎は捉えた。
あやめの頬を目に見えない何かが伝い落ちる。それは声も無くゆるやかに赤い素肌を流れ落ち、顎の先に透明な朝の雫を宿らせた。

あやめ・・・

怒涛のような皆の歓呼に送られて正三郎はバスの中へと押し上げられる。

天に代りて不義を討つ 忠勇無双の我が兵は
歓呼の声に送られて 今ぞいでたつ父母の国
勝たずば生きて還らじと 誓う心の勇ましさ


在郷軍人会の会長が音頭を取って万歳三唱。日頃平和な邑を揺るがす大音声にありきたりの悲しみも深い沈黙も一時に一瞬に掻き消される。渦巻く熱狂は人々から、今ひとつの命が死出の旅に赴くことを刹那的に忘れ去らせてくれる。
でも正三郎は今しも胸に湧き起こった熱き奔流に抗うことはできない。

あやめっ!!

或いは草に伏し隠れ 或いは水に飛び入りて
万死恐れず敵情を 視察し帰る斥候兵
肩に懸かれる一軍の 安危はいかに重からん

道なき方に道をつけ 敵の鉄道うち毀(こぼ)ち
雨と散りくる弾丸を 身にあびながら橋かけて
我が軍渡す工兵の 功労何にか譬うべき


・・・・・・・・

19の時に村の北の里から娶ったあやめは正三郎より2歳年上の姉さん女房。そのせいでもないだろうが、彼女は何事につけ潔く明快なしっかり者だった。
春から先は朝一番に馬に跨り山の上の牧草地に出向く。朝餉の支度の前に馬一杯分の青草を積んで帰るのが彼女の仕事だ。薄暗がりは次第に東天の仄かな輝きに押されてやがて曙光に包まれる。朝もや、その煌きの中に背筋をぴんと伸ばしてかっぽかっぽと道を行く、あやめの姿は凛として見ていて気持ちがいい。小さい体が何倍にも大きく堂々として見える。
そう、結婚して一年の後に召集令状を受け取ったあの時も、あやめは驚きはしても狼狽も涙も見せなかった。まだ来るとは思っていなかった赤紙。幼い頃頭を打ってから視力に傷害の残った正三郎の健康診断の判定は乙種2号。しかも未だ20才で徴兵の歳までにはまだ1年早い。それが何の誤りか同期では一番早い出征となった。「2月10日正午迄に弘前東部第80連隊へ入隊すべし。」その簡潔な一文によってその後の正三郎の運命は決まった。その日あやめは夫である彼の手を握り締め、きっと帰って来ると信じてますとただひと言言っただけ。後は家人にさえいささかの動揺も気取られない完璧な沈着ぶりを今日まで発揮している。

ほんに、気丈な姐こよなぁ・・・

それがの男たち誰もが認める、あやめに対する印象である。
その晩はどこから調達して来たのか、小さな干し魚の切れ端が正三郎の膳に上った。匂いも臭く半ば腐りかけたような魚ではあったけれど、それがその当時一番の里のご馳走でもあった。

鍬とる工兵助けつつ 銃とる歩兵助けつつ
敵を沈黙せしめたる 我が軍隊の砲弾は
放つに当たらぬ方もなく その声天地に轟けり

正三郎とあやめは未だ子宝に恵まれていない。それが幸なのか不幸なのかあの時勢では何とも判断しがたいことではあったろう。しかしいかなる時も自ら置かれた状況を「幸」と捉えて善処する姿勢を強いられるのが人ならば、後日満州配置に至って軍令部に預けた遺書に、あやめは過去の夫に拘らずできれば新たな人生を開けよかしと認めた正三郎の行為はまさにその人の道を示しているに近い。後日子が無いことが生きて帰らぬかもしれない正三郎の一抹の救いとなり、また妻帯していることが生死の一線を彷徨う彼に生き延びる決定的な原動力を与えることになるとはいったい誰が想像し得ただろう。

一斉射撃の銃先に 敵の気力をひるませて
鉄条網もものかわと 踊り越えたる塁上に
立てし誉の日章旗 みなわが歩兵の働きぞ

決して涙を見せなかったあやめだが、ある時正三郎は炭焼き窯から里に戻って来た時にただ一度だけ彼女の泣いている姿を見た。これが出征前最期の窯になるだろうというその時に、あまりの焚き付けの悪さに正三郎はマッチを切らしてしまった。そこで急遽山を降りて家に戻って来たのだが、門口で何気なく窓から中を覗くと、あやめが竈で小豆を煮込んでいる。窯がぐつぐつ煮え立つその前で、彼女は屈み込み頭を襟に深く深く潜らせるようにして蹲っていた。小さな体が綿入れで着膨れているとは言えよけい小さく見える。何がしか異質な気配を感じ取ったのもつかの間、正三郎にはすぐにそれが彼女が肩を震わして泣いている姿なのだとわかった。あやめは泣いている。人知れず、人に悟られぬようにひとりで豆を煮ながら泣いている。その事実はかねがね日常の端に感じていたとは言え正三郎を愕然とさせた。その時彼は家の扉を開け得なかった。何か見てはいけないものを見たような、いやもっと言えば羽衣脱ぎ捨てた天女の神々しさをつかの間盗み見たような心地して胸から込み上げるものを熱く呑み下しながら正三郎はしばらくの間雪の中に立ち竦んでいたのだった。

撃たれて逃げゆく八方の 敵を追い伏せ追い散らし
全軍残らずうち破る 騎兵の任務重ければ
我が乗る馬を子のごとく いたわる人もあるぞかし

正三郎はこの後満州に転属せられて関東軍西部方面隊第107師団歩兵第177連隊所属の輜重(しちょう)兵となる。彼に課せられた任務は、糧秣砲弾の味方前線への輸送、それとそれに要する使役軍馬の飼育である。北上山系の山懐に抱かれ馬とともに育った彼の「天職」とも言える役目が、戦闘を任務とする過酷な軍の中にもあったということは天の采配か。

砲工歩騎の兵強く 連戦連勝せしことは
百難おかして輸送する 兵糧輜重のたまものぞ
忘るな一日おくれなば 一日たゆとう兵力を

戦地に名誉の負傷して 収容せらるる将卒の
命と頼むは衛生隊 ひとり味方の兵のみか
敵をも隔てぬ同仁の 情よ思えば君の恩

出征兵士を送る歌が凍てつく杉木立に木霊する。黒い排気ガスを吹き上げて動き出すバス。その後に二歩、三歩、夢遊病者の空を掴むに似て放心したあやめがバスを追ってまろび出る。併せて歩を踏み出す父母。
開け放ったバスの車窓に一団の顔が流れる。泣くも叫ぶも皆一様に高潮した顔、顔・・・。しかし真白き雪を背にしたその姿かたちは黒く霞み次第にぼやけ、やがてバスの吐き出す黒煙に覆われてしまう。狭い窓から出せるだけ上半身を乗り出して最期にあやめの姿を追った正三郎の目線は、しかし遠く道の真ん中にまで駆け出し手を振る人々の姿に阻まれてついに彼女の元には届かなかった。



内には至仁の君いまし 外には忠武の兵ありて
わが手に握りし戦勝の 誉は正義のかちどきぞ
謝せよ国民大呼して 我が陸軍の勲功を

戦雲東におさまりて 昇る朝日ともろともに
かがやく仁義の名も高く 知らるる亜細亜の日の出国
光めでたく仰がるる 時こそ来ぬれいざ励め





【文中引用の歌は「日本陸軍」(大和田建樹作詞 深沢登代吉作曲)
出征の際にこの歌を歌って送ったのだそうです。】



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