今朝は久しぶりの雨。
乾ききった地面にシャバシャバと降り注ぐ。
このところの炎天で疲れ気味の私も、野菜や草たちと一緒に、この雨で少し元気を取り戻せそうだ。
レオ、彼は1年前に猫家で生まれた猫たちのひとり。
父親のヤマトに似て、細くふさふさした毛はエキゾチックでとても優美。
彼は、幼い頃に脱腸の手術を受けたことがある。
獣医さんを嫌う猫は多いけど、確かにレオも生後2ヶ月、そこで怖い体験をすることになった。
それまで両親や兄弟と片時も離れず暮らしていたのが、ある日突然ひとりだけ連れ出され、車に初めて乗せられて、異様な匂いと見たことも無いものばかりの部屋でぎゅっと机に押さえつけられ、怖そうな人に腹をまさぐられる。あろうことか頼りの主は泣き叫ぶ自分を置き去りにして帰ってしまう。
そして腹膜を縫った後、彼はひと晩入院することになった。
翌朝迎えに行った時、レオはすっかり元気をなくし、しばらくは「誰も信じられない」という顔をしていた。
そしてその恐怖体験を、それから2ヵ月後にもう1度することになる。脱腸手術が不完全だったので、追加の縫合をすることになったのだった。
こんな体験をしたレオは、4匹の子猫たちの中でひとりだけ神経質になってしまった。
それでいて甘える時はしつこいくらいに甘える。
今まで10匹の子猫を育ててみて、それぞれの性格のルーツと呼べるものに思い当たる時がある。
レオが神経質なこと、ヤマトが甘えん坊なこと、タインの立ち直りが早いこと、ロッキーが優しくておとなしいこと・・・どれも何となくその原因が思い当たる。
生まれた時はみんな何らかの素質や可能性を持っているから、確かに「或る向き」に性格が形成され易い土壌はあるのかもしれないけれど、それとは別に、後天的に獲得していく性質もたくさんある。
「心」の形成から言うと、却ってその方が多いような気がする。
「心」はどのようにして作られるのだろう。
多分出まれた時には既に、何らかの原型のようなものはあるのだろうけれど、「心」の大方の部分は、肉体を通して外からの刺激や情報を受け取り蓄積させながら形成されていくのではないだろうか。
孵卵機の中で生まれたヒヨコは、母鶏に育てられたものと明らかに性格が違う。
犬は飼い主に似る。
子どもは親のすることを真似る。
娘をもらう時には、その母親を見ろ。
心は、私たちが生まれてから今日まで身体を通して取得した「情報」の集合体なのかもしれない。
海岸の砂のように数多ある情報は、網のように互いに結びつき重なり合って、心の働きに幾通りかのパターンを形作る。
コンピューターが莫大な情報と、ほんの僅かな決まりごとだけで動いているのと似ている。
だから、怒りや悲しみ、喜びなどの心の働きを留めることはできない。
それらは今までに蓄積した情報の網の中から条件反射的にはじき出されるものだから。
その「心形成システム」は、その人が生きている限り働き続けるだろう。
また同時に、心を平穏な状態に補正しようとする働きも存在するみたいだ。
レオが大の甘えん坊なのも、「怖い時にいくら呼んでも助けてくれなかった」私に対して特別の愛情を要求することで、一方に偏った自分の心の在りようを中和しようとするメカニズムが働いているのかもしれない。
そして心は情報の集積体だから、
常に変わり続ける。
日常私たちが心に蓄積させる情報は、今この時も私たちの心を作り直している、とも言える。
幼い頃の強烈な体験を通して一度形作られた「心」は、その後の人生の方向を大きく左右する。一度入った情報は、心のどこかに住み着いていて消し去ることはできないかもしれない。
「三つ子の魂百まで」ともいう。
でも極端な体験というものは、私たち人間にとって決してマイナスではない。
その偏った情報に多角的に新しい情報を加えていって、心そのものの幅や活動領域を大きく広げることができる。
そして長い時間をかけて心の状態を中和し補正して行けば、結果的により幅広く深みのある心を育てることができるのではないだろうか。
人間は、それを自分の意思で行える唯一の存在かもしれない。
猫や犬たちは寿命が短いだけに、生きることや死ぬこと、成長することの意味を短い期間で私たちに教えてくれる。
そんな彼らが本当に甘えたい、という時に、仕事や時間が気になることはあっても、そばにいて甘えさせてやりたいものだなあ、と思う。
この記事で述べている「情報」については、次号「アグリコ日記」
『木の伝えてくれること』に纏めてあります。
【写真はレオ。「ふん、オレ様にはコワイものなんて無い」んだって。昔のことすっかり忘れてる。】
乾ききった地面にシャバシャバと降り注ぐ。
このところの炎天で疲れ気味の私も、野菜や草たちと一緒に、この雨で少し元気を取り戻せそうだ。
レオ、彼は1年前に猫家で生まれた猫たちのひとり。
父親のヤマトに似て、細くふさふさした毛はエキゾチックでとても優美。
彼は、幼い頃に脱腸の手術を受けたことがある。
獣医さんを嫌う猫は多いけど、確かにレオも生後2ヶ月、そこで怖い体験をすることになった。
それまで両親や兄弟と片時も離れず暮らしていたのが、ある日突然ひとりだけ連れ出され、車に初めて乗せられて、異様な匂いと見たことも無いものばかりの部屋でぎゅっと机に押さえつけられ、怖そうな人に腹をまさぐられる。あろうことか頼りの主は泣き叫ぶ自分を置き去りにして帰ってしまう。
そして腹膜を縫った後、彼はひと晩入院することになった。
翌朝迎えに行った時、レオはすっかり元気をなくし、しばらくは「誰も信じられない」という顔をしていた。
そしてその恐怖体験を、それから2ヵ月後にもう1度することになる。脱腸手術が不完全だったので、追加の縫合をすることになったのだった。
こんな体験をしたレオは、4匹の子猫たちの中でひとりだけ神経質になってしまった。
それでいて甘える時はしつこいくらいに甘える。
今まで10匹の子猫を育ててみて、それぞれの性格のルーツと呼べるものに思い当たる時がある。
レオが神経質なこと、ヤマトが甘えん坊なこと、タインの立ち直りが早いこと、ロッキーが優しくておとなしいこと・・・どれも何となくその原因が思い当たる。
生まれた時はみんな何らかの素質や可能性を持っているから、確かに「或る向き」に性格が形成され易い土壌はあるのかもしれないけれど、それとは別に、後天的に獲得していく性質もたくさんある。
「心」の形成から言うと、却ってその方が多いような気がする。
「心」はどのようにして作られるのだろう。
多分出まれた時には既に、何らかの原型のようなものはあるのだろうけれど、「心」の大方の部分は、肉体を通して外からの刺激や情報を受け取り蓄積させながら形成されていくのではないだろうか。
孵卵機の中で生まれたヒヨコは、母鶏に育てられたものと明らかに性格が違う。
犬は飼い主に似る。
子どもは親のすることを真似る。
娘をもらう時には、その母親を見ろ。
心は、私たちが生まれてから今日まで身体を通して取得した「情報」の集合体なのかもしれない。
海岸の砂のように数多ある情報は、網のように互いに結びつき重なり合って、心の働きに幾通りかのパターンを形作る。
コンピューターが莫大な情報と、ほんの僅かな決まりごとだけで動いているのと似ている。
だから、怒りや悲しみ、喜びなどの心の働きを留めることはできない。
それらは今までに蓄積した情報の網の中から条件反射的にはじき出されるものだから。
その「心形成システム」は、その人が生きている限り働き続けるだろう。
また同時に、心を平穏な状態に補正しようとする働きも存在するみたいだ。
レオが大の甘えん坊なのも、「怖い時にいくら呼んでも助けてくれなかった」私に対して特別の愛情を要求することで、一方に偏った自分の心の在りようを中和しようとするメカニズムが働いているのかもしれない。
そして心は情報の集積体だから、
常に変わり続ける。
日常私たちが心に蓄積させる情報は、今この時も私たちの心を作り直している、とも言える。
幼い頃の強烈な体験を通して一度形作られた「心」は、その後の人生の方向を大きく左右する。一度入った情報は、心のどこかに住み着いていて消し去ることはできないかもしれない。
「三つ子の魂百まで」ともいう。
でも極端な体験というものは、私たち人間にとって決してマイナスではない。
その偏った情報に多角的に新しい情報を加えていって、心そのものの幅や活動領域を大きく広げることができる。
そして長い時間をかけて心の状態を中和し補正して行けば、結果的により幅広く深みのある心を育てることができるのではないだろうか。
人間は、それを自分の意思で行える唯一の存在かもしれない。
猫や犬たちは寿命が短いだけに、生きることや死ぬこと、成長することの意味を短い期間で私たちに教えてくれる。
そんな彼らが本当に甘えたい、という時に、仕事や時間が気になることはあっても、そばにいて甘えさせてやりたいものだなあ、と思う。
この記事で述べている「情報」については、次号「アグリコ日記」
『木の伝えてくれること』に纏めてあります。
【写真はレオ。「ふん、オレ様にはコワイものなんて無い」んだって。昔のことすっかり忘れてる。】
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