アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

男性性・女性性

2006-01-25 10:22:16 | 思い出
         

あなたの中の女性性が解放されたときに、それは起きます・・・
                              
そう、あれは何に対する答えだったろうか。彼女の口をついて出たその言葉は私の予想どころか明らかに人知を超えるものだった。私の脳は働きを停止しその時まで頭に詰め込んでいたたくさんの質問も一瞬のうちに管理可能領域から消え失せた。
静かに雪の降り積む山小屋。赤城下ろしのカラッ風が広大な宇宙の塵をひと所に運んできたかのように舞い狂う粉雪、私たちは赤々と燃える薪ストーブを囲んで車座に坐っていた。その日私はチャネラーという人に初めて出会ったのだ。

総勢5名か6名だったろう。場に集う誰もが心に何がしかの苦悩や疑問を抱えていた。チャネラーと呼ばれる彼女は未だ30に満たない、人当たりのよさそうな小さな人。郊外の100円ショップや本屋の立ち読みの陰に自然と紛れていてもおかしくない、そんな飾らない女性だった。私はひと目見た時から彼女に好意を抱いた。

シリウスのヘロンという宇宙意識です。予め彼女は私たちに断った。それは人間ではなくて宇宙人なんだろうけれど、遠く離れた私の元に自分の意識だけを飛ばしてきます。この頃では私が呼べば大概来てくれるようになりました。
予備知識の無かった私には聞くことすべてが意表を突きまた荒唐無稽でもある。霊媒。聞いていてそんな言葉が頭をよぎった。チャネリングというのはもしかしたらひとつの憑依現象なのだろうか。

では、始めます。まるで朝食を前にして頂きますの挨拶をするようにごく自然に言って彼女は目を閉じる。汀に打ち寄せる柔らかな波のように上体を微かにうねらせながらまどろみの淵に沈むごとく顔を伏せる。私たちみんながこれからどんなことが起こるのかと固唾を呑んで見守る。場に集う全員にとってそれは初めての体験だったのである。
それは長いようでいて実は気だるい欠伸をひとつするほどの僅かの間のことだったのかもしれない。誰もが呼吸を殺し意識が集中された静寂の中で淀みから静かに抜け出すようにゆっくりと彼女は顔を上げ、

上げたのであったがそれは既に彼女の顔ではなかった。

声も顔つきもすべてが変わっていた。まるでからくり人形の自在変化を目の当たりにしたように座から驚嘆のため息が漏れた。確かに外見は彼女だと思う。先ほどまでそこに坐り皆と談笑していた小さな女性がそこにいた。いや、いるはずなのだ。でも持ち上げた顔は明らかに別人の面影を宿し、そして目は堅く瞑られたままだった。

私たちは予め言われていたように順繰りに各自の抱えてきた質問を発した。ヘロンとともにいられる時間は無制限ではない。限られた時間を効果的に用いるべく私たちは前夜から自分にとって一番大切な質問を幾つか胸に用意してきたのだった。

これは人間ではない!と思ったのはきっと私だけではなかったろう。日常の悩み、生きる苦しみ、宇宙の構造についての質問、さまざまな角度からの互いに脈絡性の無いいかなる質問に対しても淀みなく答える彼の言は人の経験も論理も知識も明らかに凌駕するものだった。

ある父親が登校拒否の我が子について問いかける。

根を張っているのです。目の無い顔を振り向けてヘロンは言った。植物はどれも成長の仕方が違うものです。芽吹きの時、葉を出すタイミング、咲かせる瞬間、すべてがその土壌その環境にもっとも適応したものとして選ばれています。そして人間もまたそれぞれが自分に合った最適な成長の仕方を選んでいるのです。あなたのお子さんは今こころに深く深く根を張ろうとしています。それは彼にとって、とても大切なことなのです。
しかしと、かの父親は言った。私はとても心配です。息子に対して私はどのようなことをしたらいいのでしょうか。
何もする必要はありません。ヘロンは即答する。ただ彼のためにあなたができる唯一のことは、彼を信じて優しく見守ることです。

そして私の順番が来たはずだった。
そうだ、私はあの時何を問いかけたのだったろうか。それはもう記憶の澱の深みに沈みすぎていて、すぐに纏まった形では思い出せなかった。ただそれらのひとつひとつに対してヘロンから発せられた短い言葉だけが断片的に浮かんでくる。

あなたの中でひとつの時代が終わろうとしています。

それはあまりにも自分の思考からかけ離れすぎていて、禁断のドアを開けて一歩鏡の世界に踏み込んでしまった自分に眩暈がしたのだった。

あなたはもう修行僧の生を生きる必要はないのです。

そう、確かにそれはあの時に言われたこと。30歳を越えたばかりの私はその時人生の選択について訊いたのだ。

あなたは今どのような道を選んだとしても自分は苦労すると思っています。でも人生はもっと楽に、楽しく生きれるのです。

ずしんと胸に丸太のような杭が打ち込まれた瞬間。背景も個々の事情も割愛した常識の会話では簡潔すぎる質問にまさかそんな答えが返ってくるとは思わなかった。その場に集まった人たちはその日に初めて会った者ばかりである。私以外の人には、そのひと繋がりの問答が飛躍に過ぎる全体として意味不明の単語の羅列にしか聞こえなかったことだろう。しかしその言葉たちは欠けたジグソーパズルが音を立てて組みあがるようにどれもが私の肺腑にがっちりと食い込む。
いや、今振り返ればすべては既にわかっていたことなのだった。私自身それを彼の口から聞くまでは、自分の中で言葉にも意識にもできないでいただけだったのだ。

私の生きる目的は、何なのでしょう?

ユニークな人、ユニークな物、ユニークな場所と出会うことです。

今この場のために私たちができる一番価値あることは何なのですか?

笑いを創り出すことです。

いや、その質問ではない。他にある。あの時あの頃の私があのような場合に必ず訊いたことが必ずあったはずだ。彼からのあの答えを導き出した決定的な私の人生に関する問いが。それは確か
・・・

いつ私は、心の人と巡り会い結婚できるのでしょうか?

そう、やはり、このことだったろうか。愛すべき女性と出会い結婚したくさんの子どもを育て幸せな家庭を築く、その夢は今も昔も変わらずに私の一番の心の支えであり生きる目標として揺るぎないものなのだから。

その人はもういます。あなたの中の女性性が解き放たれた時に、それは起きるでしょう。・・・

人は誰しも男性性、女性性を身につけている。しかし生い立ちや教育、体験などさまざまな理由によりその現れる割合や現れ方は個々人によって大きな隔たりがある。男性だからといって必ずしも男性性が女性性に勝っているとは限らない。
でも私は殊のほか男性性の強い人間だった。それを考えるとそれまでの人生に特に女性性の強い女性と多く縁があったことも頷けるのである。人も社会も常に釣り合いを保ち振れた針のバランスをとろうと動き続けるものだ。個人のレベルでも然り。そして集団のレベルでも。だから男性性の強い人間はそれと釣り合いをとるべく殊更女性性の強い人間と関わる傾向にある。
しかし・・・今だからそのようなことを思い描けるのだが、当時の私はそんな人間の性向について何ら興味も知識も持っていなかった。男性性・女性性と言う単語を聞いたのもその時が初めてのことだったのである。

ヘロンの言葉はどんな場合でも簡潔でそれでいて当人に対しては充分な説得力を有する。もしかして彼は将来私が彼の言葉の意味を理解すると知った上でそれを言ったのだろうか。

再び今振り返ればその意味で、私が今日までの長い間独り動物たちと暮らし続けたことはあながち意味の無いことではなかったのかもしれない。
自分より遥かに短い生を生きる猫や犬、鶏たちとの関わりの中で自らを母として、父として彼らを慈しみ愛し時に厳しく叱りながら暮らす。それは畢竟私の中に埋もれていた女性性を掘り起こし活性化させる役割を果たしてきたと言えるのではなかろうか。

既に遠い塵の中に隠れていた記憶の断片がふいに蘇る。いや、それは意識の中で埋もれていただけなのであって自身の身体の各所にはあの時の言葉が深くかみそりのように突き刺さっていて、その後の私の人生に少なからざる影響を及ぼし続けてきたのかもしれない。

女性性、男性性・・・今日も窓の外にはあの時、薪ストーブのはぜるあの場所と同じように粉雪が狂ったように舞っている。
もう、あれから10年余りの時が経っていた。






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