粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

三遊亭円生「木乃伊取り」

2014-01-21 15:10:33 | 落語

「木乃伊」をミイラとはなかなか読めないが、当て字のようだ。しかし、落語の演目「木乃伊取り」のストーリーはとてもわかりやすく明快で、ことわざにある「ミイラ取りがミイラになる」を地でいった内容だ。遊郭遊びに惚ける若旦那を取り戻そうとして、逆にその魅惑にはまってしまう奉公人の話だ。気楽に聞けて単純に面白く楽しい。その反面、人間の心理描写が鋭く、文学的にも秀逸である。

家の若旦那は吉原の角海老という遊郭に入り浸って戻ってくる気配もない。業を煮やした大旦那が、番頭や頭領を使って連れ戻そうとするが、二人とも花柳界の妖艶な誘惑の餌食になってしまう。

あきれ果てている大旦那に、奉公人で飯炊きの清造がその役を買って出る。奉公は長いが田舎の訛が抜けず、粗野で頑固な清造に大旦那は申し出を不快に思ったが、清造の気迫に押されて渋々応じる。

昼の遊郭に、野暮の身なりで乗り込んで若旦那と対面する。当初下男の飯炊きの説教に若旦那は反発するが、清造の暇を貰う事も厭わない覚悟に圧倒され渋々帰宅に同意する。ただ、そのまま帰るのも野暮だから、ここは軽く締めの杯で納めようという事になった。

ここから、清造が「木乃伊」になる展開だ。清造も軽く一口のつもりが、2杯、3杯とせがまれるままに飲んでいく。嘗て味わったことのない美酒、そして贅沢な肴、最後には芸妓が側について甘い言葉に鼻の下も伸びる。もはや法悦の境地。さすがの若旦那もこれには呆れて「帰るぞ」とどなる。これには清造、「帰るって?帰るがいい。おらはもう2~3日ここにいるだ」

三遊亭円生師匠がマクラで「迷い」について面白可笑しく語っていたが、まさに人間は迷いが仇になってとんでもない失敗をしでかす。まして酒が入ると、剛直そうに見える人間もたちどころに本性を現す。そんな人間の弱さを滑稽にそしてリアルに描いた傑作だ。ただこれは演じる落語家の語りに全てが掛かっている。その点で円生師匠の右に出る人はいないと思う。

清造、若旦那、大旦那、奥方、番頭、頭、太鼓持ち、芸妓といった性格が全く違う登場人物をきっちり明確に演じるすごさ。1人8役を自然にこなしている。動画とはいっても実際は円生師匠の静止画だけであるが、声を聞くだけでしゃべっている人物が誰であるかわかる。逆に静止画であることが幸いかも知らない。語りだけであることによって、物語が余計リアルに想像出来るからだ。

清造の野暮で頑固なところがストレートに伝わってくる。そして陥落してしまう落差の可笑しさも。あるいは若い芸妓の語りも老境の師匠の口から出たと思えないほど艶かしい。まさに円生師匠の「木乃伊取り」は古典落語の至宝とも呼んでよい傑作である。



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