粗忽な夕べの想い

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原発事故の教訓「過剰避難」

2015-10-16 17:13:56 | 反原発反日メディア

鹿児島の川内原発2号機が1号機に続いて昨日再稼働した。1号機の再稼働のときは多くのメディアがこれに反対を唱え、原発がある当地には、全国から反原発プロ市民が集結して大騒ぎになった。しかし、今回の2号機の場合はメディアの関心も低く、おつきあい程度のベタ記事でその落差に唖然とする。

ただ、反原発広報紙?である朝日新聞は一応再稼働した昨日に義理堅くこれに反対する社説を掲載している。題して「川内2号機、再稼働より安全確保」。

 

九州電力川内原発(鹿児島県薩摩川内市)1号機に続いて2号機がきょう再稼働する。

災害が起きれば避難路の確保ができない地域を抱えながら、住民の避難訓練さえしていない。再稼働のお墨付きは、避難計画について検討する権限がない原子力規制委員会(規制委)の安全審査によっている。こうした形での再稼働は進めるべきではない。

市が避難路に指定しているのは、河口にかかる橋と川沿いの県道。だが、橋は地震で崩落する危険があり、県道も津波や高波で通れなくなると予想される。車が通れる残る1本は、斜面崩壊の危険がある林道だ。

 地区から再三の要求があったものの、対策は取られないまま8月に1号機が再稼働した。

 「地震などの自然災害に続いて原発事故が起きることはない」という想定は、福島第一原発事故で破綻(はたん)したはずだ。

 住民の安全を確保するには、避難路を含めた避難計画の審査も再稼働の条件として位置づけることが当然ではないか。住民参加の訓練で計画の実効性を確かめ、必要があれば計画の修正を求める。住民の視点で点検する機能がほしい。規制委に加えてもよいだろうし、別機関が審査する仕組みを考えてもいい。

 2号機については、古い蒸気発生器を取り換えずに再稼働に踏み切ることでも、住民の不安を招いている。

 川内原発では、00年ごろから1号機の蒸気発生器で細管の腐食が相次ぎ、08年に交換した。2号機についても09年、九電自らが「さらなる信頼性向上の観点から」と、3機ある蒸気発生器すべての交換を発表。経済産業相の許可も得ていた。

 原発事故後、新規制基準に基づく審査の対応に追われ、交換の延期を決定。今年5月、古い蒸気発生器で規制委の認可を受け、交換は先送りされた。

 九電は「予防保全的に交換を考えていた。規制委の審査は現状のものでクリアしている」と説明する。しかし、「信頼性向上」のために必要だった措置を見送れば、信頼性は損なわれる。実際、住民からは「地震に耐えられるのか」などと不安の声が上がっている。

 安倍首相は昨年「完全に安全を確認しない限り、原発は動かさない」と語った。だが、川内原発再稼働は、首相の言葉とはまるで異なる進め方である。(社説用終了)

 

 要は避難計画や避難対策が万全ではなく「安全確保」が充分ではないということを延々と述べている。これは1号機の際にも盛んに主張されていたことで特別新味がない。しかし、思うに安全確保のための避難対策を議論したらきりがない。どこまで対策を施せば安全かという基準は、原発事故の認識の仕方によってまちまちだからである。

朝日新聞は、本音として再稼働に反対している以上、その安全確保の基準は無限大といえるのではないか。つまり朝日の主張する安全確保は再稼働反対の口実でしかないと考えてよい。

自分は逆に朝日新聞など反原発メディアが強調する避難対策には懐疑的だ。それは福島第一原発での事故での経験からだ。実際のところ、事故での放射能被曝による直接的な死者はおろか病人さえでていない。チェルノブイリで唯一影響が認められた小児甲状腺がんは福島では4年以上過ぎても被曝の原因による確かな発症は報告されていない。

ただ、被曝ではなくいわゆる原発事故関連死は残念なことに既に1200人を超えているといわれる。事故で避難を強いられ移動中や避難生活でそのストレスから高齢者を中心に犠牲者が多くでている。

もちろん、福島の事故は日本では未曾有のことであり、国内全体がある種パニックになったため対策が十分とれなかったともいえる。結果的に現在も11万人以上の人々が福島県内外で避難生活を強いられている。

ただ、原発の避難を巡ってははたしてこれほどの避難が必要だったかは疑問の声が出ている。確かに、事故直後の避難はやむを得ないとしても、4年経った今でも続ける必要があるのか。また未成年と高齢者の避難を同じレベルで対応するのも問題が残ろ。

事故直後、テレビの報道で避難地域に一人で住んでいた80近い老婆が役人の執拗な避難要求を拒み続ける様子を伝えていた。おそらくそのおばあさんさんにとっては、先立たれた夫と長く暮らした家を離れたくない気持ちが強かったのではないか。

失礼ながらこうした高齢の女性には被曝だけが原因でがん死するまでの余命が残っているようには思えない。それをなれない避難でストレスを溜め込むだけの生活を送ることが本当によいのか、むしろ拷問ではないかとさえ思った。

福島には今後も帰還できない帰還困難区域が広く残っている。しかし、専門家によってはこんな地域でも実際の被曝は小さくて居住は可能だという主張もある。また東京世田谷の民家では家の真下の地中に埋められた放射性ラジウムによって年間30ミリシーベルトの被曝があったという。しかし、そこの住民が30年以上生活しても全く体調に異常がなかった事実がある。

したがって、原発事故を無限大に深刻なものと捉え、ともかく避難対策を強調しすぎることが正しいといえるのか。今後の原発対策では事故の経験や他の事例を考慮して総合的に判断すべきだと思う。何が何でも避難対策を十分果たせというのは問題の本質から離れて却って弊害となるのではないか。

 

追記:朝日新聞の社説を全文掲載し直しました。


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