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粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

アメリカンパトロール

2013-06-13 10:27:51 | 音楽

日本がW杯の出場を決めた日、東京渋谷の警察が巧みな話術の誘導でサポーターたちの混乱を封印したDJポリス。なぜかジャズの定番「アメリカンパトロール」が脳裏に浮かんだ。もともとは3つのアメリカ民謡をアレンジした行進曲だが、グレン・ミラーによるジャズ演奏が有名だ。自分自身、当初グレン・ミラーのオリジナルだと思っていた。

ともかく、この曲は楽しく軽快で乗りがいい。それこそ浮き浮きしてスウィングしたくなる。まさに陽気なアメリカンヤンキーにぴったりの曲だ。

ただ、パトロールとはいってもこれはポリスではなく、アメリカ巡邏兵という軍隊のパトロールのようだ。ウィキペディアによれば「遠くから巡邏兵がやって来て目の前を通り、また遠くへと去っていく様子が描かれている」とある。しかしこの巡邏兵といのがどういう職務なのかサイトで調べてもよくわからない。

グレン・ミラーの楽団は第二次大戦中しばしば各地の米軍基地に訪れて兵士たちを慰問した。きっとこのアメリカンパトロールも盛んに演奏され兵士たちの喝采を受けたことだろう。

グレン・ミラー楽団の陽気で軽妙な音楽は、同じ慰問でもどこか悲壮感と哀愁が漂う旧日本軍の場合とは対極にある。国民性の違いといえばそれまでだが、物量で圧倒する米軍の余裕・活気が慰問の音楽にも感じられる。残念ながら日本が敗北するのも致し方ないのか。

ただ、グレン・ミラー自身は戦争中にフランスへ慰問演奏のために乗っていた専用機が途中で行方不明になり悲劇の死を遂げた。イギリスの爆撃機に誤射されたともいわれる。

しかし、口さがない噂ではフランスのパリに到着したが、翌日娼婦と事に及んで最中に心臓発作で亡くなったという。専用機の墜落はその隠蔽だともしている。にわかに信じがたい話だが、どこの国でも有名人はマスコミの餌食になるものだ。

ただし最中の心臓発作でもそれはそれでいいと思う。陽気なアメリカンヤンキーには逆にこの方がふさわしいかもしれない。そんなことはどうでもよく、グレン・ミラーの音楽性にはなんら傷つく事はない。後継の楽団に引き継がれて、楽しく軽快なスウィングが純粋に音楽として響き渡っている。

スポーツの祭典に湧く平和な時代には、DJポリスのテーマ曲としてこのアメリカンパトロールが似合うのではないか。「渋谷、いや日本全国の皆さんお元気ですか、またこの時間がやってきました。この曲に合わせて12番目の選手としてマナーを守って行進してください。」なんてね…。


ローマの松、イタリア人の誇り

2013-05-22 11:02:30 | 音楽

自分がよく聴くクラシック曲に「ローマの松」がある。イタリアの作曲家レスピーギ(1873~1937)が作曲した交響詩だ。交響詩は交響曲と違い形式にとらわれないで、思い描く詩想を音楽として自由に表現したものだ。「ローマの松」は、レスピーギが「単に松のことを描こうとしたわけではなく、松という自然を通して古代ローマへ眼を向け、ローマの往時の幻影に迫ろうという意図をもって」(ウィキペディア)作曲した傑作だ。

曲は4部に分かれてそれぞれの松からイメージした古代ローマの各名所名跡の情景が描かれている。特に第4部の「アッピア街道の松」はその迫力に圧倒される。古代ローマ軍の進軍がテーマだ。

「アッピア街道の霧深い夜あけ。不思議な風景を見まもっている離れた松。果てしない足音の静かな休みないリズム。詩人は、過去の栄光の幻想的な姿を浮べる。トランペットがひびき、新しく昇る太陽の響きの中で、執政官の軍隊がサクラ街道を前進し、カピトレ丘へ勝ち誇って登ってゆく。」

その執政官は古代ローマの英雄カエサルだろうか。大勝利に湧くローマ軍の凱旋行進。今残るアッピア街道の石畳が地響きするくらい激しい勇猛兵士の足音。当時世界に冠たる大帝国だった。レースピーギは古代ローマの栄光を通じて、イタリア人としての誇りを高揚させたことだろう。

確かに古代ローマはギリシャで生まれた政治形態や文化を集大成して、それが今日のヨーロッパ世界の源泉ともなった。「全ての道はローマの通じる」という言葉はそんな古代ローマの輝かしい物語を言い表している。

イタリアに限らず、どこの国でも誇るべき物語を持っている。それが民族の誇りアイデンティティともなって生きていく上での指針にもなっている。日本にも過去の輝かしい物語がある。明治から戦前までの時代もそうだ。しかし、現在もいまだにその時代を否定する論調が根強い。中国や韓国が日本は反省していないと騒ぎ立てる。余計なお世話だと思うが、もっと許せないのは日本人自身が過去の日本を糾弾することだ。

たとえば、慰安婦問題はそもそも日本人が焚き付けた側面が強い。旧日本軍の一軍人による虚偽証言、それを拡散した朝日新聞、弁護士たち、市民団体、左翼政党、非難決議を連発する地方議会、はてはカトリック教団に至るまで多岐にわたる。彼らは慰安婦の実態を調べることもなく、「人権」を盾に旧日本軍の「悪行」を非難し続ける。

遠いイタリア人の傑作を聴いてもこんな愚痴がでてしまう。考え過ぎかもしれない。早く純粋に美しい音楽として素直にこの交響詩に浸りたいものだ。


追記:レスピーギはこの「ローマの松」のようなローマをテーマにした3つの作品が有名だが、もう一つポピュラーな作品がある。「リュートのための古風な舞曲とアリア」という長たらしいタイトルの曲だ。

この作品も3つあるが、そのうち第3集がよく演奏される。第3集はさらに4曲で構成されている。特に自分自身第1曲の「イタリアーナ」(Youtubeでは最初の3分間)が大好きだ。優美で弾むような曲調は聴いていてワクワクする。


天才の孤独

2013-03-03 00:19:53 | 音楽

自分がよく聴くモーツアルト(1756~1791)の曲で特別思い入れのある曲がある。セレナード10番(K.361)だ。通称グランパルティータ(大組曲)といわれている。セレナードは元々夜恋人たちに奏でる音楽であるが、18世紀の後半モーツアルトが活躍した時代、結婚式などの宴会で場を盛り上げるためにつくられた。

とはいっても、今日でもそうだがこうした宴に出席する面々は直ぐにお酒と食事が入り雑談も騒がしく、あまり演奏など耳にはいらない。いわば聞き流す音楽でもある。しかし、モーツアルトはそんな雑踏でもかれの天才的な芸術性は遺憾なく発揮されている。

この曲はアカデミー賞を受賞した映画「アマデウス」でもモーツアルトを描く上で特に印象的に使われている。モーツアルトの当時のライバル、サリエリが初めて彼の音楽を生で聴いて天才的な芸術性に衝撃を受ける。特にこの曲の第三楽章のアダージョ(ゆるやかな速さ)は絶品であり、主に映画ではこの部分が演奏されている。

全て管楽器で演奏され、弦楽器がはいっていないが、それが何ともいえない幻想的な世界を醸し出している。この世とも思えない天上の世界。そこには世俗の悲しみのなければ快楽もない。悠久の安らぎがある。しかし、その安らぎになかにはどこかある種さびしさが漂う。

おそらく、これは彼が現実世界への未練を残しながら、天上への憧れたためでなかったか。現実の世界では、決してモーツアルトは幸福に満ちた生活を送ったわけではない。彼の才能が世間で開花させるには、彼は時代を先に行きすぎた。

しかし、それにも関わらず、35年の生涯は彼の創作活動は濃密そのものだ。神は、決して天才に休みを与えてくれなかった。そんな彼の行き急ぐ生涯を知り得る者がいなかった。彼はそういう意味で生涯孤独だった。ただ、彼はいつも人を愛おしく思った。愛に飢えていたが、現実世界では叶わない。彼の音楽にいつもさびしさがつきまとうにはそのせいかもしれない。

だから、その寂しさを音楽から感じた時に、聞く者の心を強くとらえて離さない。200年以上経った今も彼は聴く者に前に現れて尋ねる。僕のこと好き?


モーツアルトの最高傑作

2012-10-22 00:12:53 | 音楽

しばらく時事的な話題が続いたが、時に個人的な趣味の話をしたい。よく聴くクラシック曲で自分が最も好きな作曲家はモーツアルト(1756~1791)だが、特に最近特別な想いで聴いている曲がある。クラリネット協奏曲(K.622)である。もしかしてこの曲こそ、彼の最高傑作ではないかとさえ最近思うようになった。

クラリネット協奏曲は、彼の35年の短い生涯の最後(1791年)に創られた大作といってよい。その後に数曲の小品と未完成のレクイエムがあるだけだ。よく作曲家の死ぬ直前の作品を「白鳥の歌」と呼ぶ。白鳥は、死ぬ間際にこの世とは思えない美しい鳴き声を出す。死を悟り心が浄化し澄み切った歌声だ。

モーツアルトのクラリネット協奏曲こそ、まさに「白鳥の歌」にふさわしい。優しく包むオーケストラの旋律が流れたのち、クラリネットのソロが登場する。楽器自体は音の高低の幅が大きく、明暗のコントラストが多彩である。ただその明るさもフルートなどと比べてどこか渋めであり時に寂しさを感じる。反面暗い短調部分も澄みきっていてやすらぎさえ覚える。

全体(3楽章構成)を通じて美しさと透明感に溢れ、明るさの中に深い陰影を覗かせる。それが聴く者の心に強く訴えかけて離さない。特に第2楽章がゆったりとしたテンポで暗い基調で胸が詰まりそうなところがあるが、死を悟った穏やかさも感じられる。

おそらくモーツアルトも死を前にして、心は既に天上に思いを寄せていたのかもしれない。と同時にこれまでの人生を愛おしく懐かしむ。そんな生死が交錯し調和する彼の心情が、この曲に集約されている。まさに傑作といってよいと思う。

うれしいことに、この曲の素敵な動画(第1楽章第2楽章第3楽章)がある。豊永美恵さんというクラリネット奏者がアンサンブル金沢をバックに演奏したものだ。日本人の演奏家は一般的に演奏技術は優れているが、どこか優等生的で物足りなさを感じることがある。しかし富永さんは、オーケストラにいい意味で喧嘩を売るような感じで、全身で思いっきり演奏している。それが聴く者に強く迫ってくる。世界の名演奏家にも負けない好演だと思う。

またこのオーケストラも本来モーツアルトを盛んに演奏しており、この曲も肩肘を張らないで楽しみながら熱演している。そしてソロとある種、競い合うようにして名演を生み出していく。これをネットで簡単に見られるのがもったいないと思うのだが…。

旧聞に属するが、クレイジーキャッツの安田伸さんが1996年になくなられた時に、葬儀会場にこのモーツアルトのクラリネット協奏曲が繰り返し流れていた。安田さんはジャズのサックス奏者だが、おそらくこのクラシック曲には特別な想いで聴いていたのだろう。ジャズの名クラリネット奏者ベニー・グッドマンもこの協奏曲を録音しているほどだ。

若い頃から自分は、この協奏曲が好きだったが、年を重ねるに従い、さらにその魅力に引き込まれる。聴くほどに曲の深みを実感する。まさに傑作の傑作たる所以であろう。


追記:このブログ記事を書いて10日ほど過ぎて、偶々モーツアルトの交響曲第40番を聴いた。聴くのは久しぶりだったが、やはりその迫力には圧倒される。これが最高傑作かなと簡単に心変わりしてしまいそうだ。そもそもベストワンを選ぶこと自体がおこがましいことはわかっていた。クラリネット協奏曲も交響曲第40番もモーツアルトの最高傑作の「一つ」とするのが無難のようだ。


3つの「ルージュ」

2012-10-14 16:06:41 | 音楽

中島みゆきの好きな曲のひとつに「ルージュ」という曲がある。もともとこれは歌手ちあきなおみに提供した曲だが、後のアルバムで本人も歌っている。この曲は、自分の前から去った恋人を追っていくうちに、夜の世界でいつのまにか如才なく生きていく女性の心境を歌ったものだ。「つくり笑いがうまくなりました」のフレーズにははっとさせられる。

中島みゆきとちあきなおみ双方の「ルージュ」を聴くと、とても同じ曲とは思えないほど印象がちがう。自分はそれぞれの味が出ていてどちらも好きだ。中島みゆきの方は「みゆき節」と呼んでよいほどに、「情念」が色濃くでている。聴いていて胸がつまりそうになるが、それが彼女の聞き所かもしれない。逆にちあきなおみは、速いテンポであっさりと歌っている。どこか都会的なセンスがあってしゃれた感じがする。中島みゆきと違い、すっと曲に入っていける。

そしてこの曲を香港の歌手がカバーして歌っているのを最近知った。ただ1992年のリリースだから20年も前の曲になる。王菲(フェイ・ウォン)(43歳)という女性歌手でそれまで地元でも無名であったが、「ルージュ」をカバーして大ヒットし一躍香港を代表する歌手となった。地元では「第2のテレサテン」ともよばれているようだ。

曲名も「容易受傷的女人」と変えているが、なんとも生々しい語感だ。傷つきやすい女という意味だが、歌詞も本歌とは違い、失恋した女性の恋人への切々とした想いがテーマとなっている。これはなんといっても女の艶かしさ、色気に溢れている。第2のテレサテンのいわれるくらい、彼女の甘く哀愁に満ちた歌声に吸い込まれてしまいそうだ。

中島みゆきの名曲を三者で聴き比べると、それぞれの歌手の個性がはっきり出ていてとても興味深い。ちあきなおみは引退してもはや生歌を聴けないのが残念だ。王菲はしばしば来日し活動の場を広げているようだ。日中関係がいまぎくしゃくしている時期だが、彼女の歌声が両国の貴重な架け橋になってほしいと願う。