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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

ぞうきん  まど・みちお

2013-05-14 21:52:27 | Poem


雨の日に帰ってくると
玄関でぞうきんが待っていてくれる
ぞうきんでございます
という したしげな顔で
自分でなりたくてなったのでもないのに

ついこの間までは
シャツでございます という顔で
私に着られていた
まるで私の
ひふででもあるかのように やさしく
自分でそうなりたかったのでもないのに

たぶん もともとは
アメリカか どこかで
風と太陽にほほえんでいたワタの花が

そのうちに
灰でございます という顔で灰になり
無いのでございます という顔で
無くなっているのかしら
私たちとのこんな思い出もいっしょに
自分ではなんにも知らないでいるうちに

ぞうきんよ!



(まど・みちお全詩集・1993年5月・第8刷・理論社刊)より。

 
(初出・まど・みちお詩集4 物のうた・1974年・銀河社刊)

(1982年・かど書房より再刊・1部改稿)



寝る前になんとなく読んでいて、思わずはじけるように笑った!
2度3度読んでも、同じテンションで笑いがはじける。
……ということは、これはわたくしにとって名詩です。

自分ではなんにも知らないでいるうちに

ぞうきんよ!


たしかにそうかもしれない。

我が家では、着古したシャツやタオルやシーツなどは、適当な大きさに切ってから、
ガスレンジの汚れ、調理後のフライパンの油取り、あるいは使い捨てのぞうきんにする。
ティッシュペーパーやキッチンペーパーの節約になる。
まどさんのおうちのつつましい生活の風景が、こちらにも繋がってくる。

ましてや、夫の着古したシャツを切っているわたくしを、夫は「鋏を持った魔女」を見る眼で見るのである(笑)。
まどさんも「ぞうきん」になったシャツを見て、魔法使いの存在を感じたかしら?

吉原幸子詩集「幼年連祷」より

2013-05-10 20:46:15 | Poem



  喪失ではなく  吉原幸子(1932~2002)


  大きくなって
  小さかったことのいみを知ったとき
  わたしは〝えうねん〟を
  ふたたび もった
  こんどこそ ほんたうに
  はじめて もった

  誰でも いちど 小さいのだった
  わたしも いちど 小さいのだった
  電車の窓から きょろきょろ見たのだ
  けしきは 新しかったのだ いちど

  それがどんなに まばゆいことだったか
  大きくなったからこそ わたしにわかる

  だいじがることさへ 要らなかった
  子供であるのは ぜいたくな 哀しさなのに
  そのなかにゐて 知らなかった
  雪をにぎって とけないものと思ひこんでゐた
  いちどのかなしさを
  いま こんなにも だいじにおもふとき
  わたしは〝えうねん〟を はじめて生きる

  もういちど 電車の窓わくにしがみついて
  青いけしきのみづみづしさに 胸いっぱいになって
  わたしは ほんたうの
  少しかなしい 子供になれた――


  あたらしいいのちに   吉原幸子


                          
  
  おまへにあげよう
  ゆるしておくれ こんなに痛いいのちを
  それでも おまへにあげたい
  いのちの すばらしい痛さを
  
  あげられるのは それだけ
  痛がれる といふことだけ
  でもゆるしておくれ
  それを だいじにしておくれ
  耐へておくれ
  貧しいわたしが
  この富に耐へたやうに――

  はじめに 来るのだよ
  痛くない 光りかがやくひとときも
  でも 知ってから
  そのひとときをふりかへる 二重の痛みこそ
  ほんたうの いのちの あかしなのだよ

  ぎざぎざになればなるほど
  おまへは 生きてゐるのだよ
  わたしは耐へよう おまへの痛さを うむため
  おまへも耐へておくれ わたしの痛さに 免じて



  (幼年連祷・1964年・歴程社刊)より



子供は初めに大人の世界に産まれ出てくる。そこはなにもかにも子供には大きすぎる世界だった。
この巨人の国で、子供は少しづつ大きくなる。
そして大人の背丈に近づくにつれて子供は脱皮の季節を迎える。これは「自然」なことではないか。
人生はそれからの時間の方がはるかに永い。
その時間のなかで人間はどこまで「内なる子供」を養いつづけることができるのだろうか?

子供が育ってゆく期間、母親も同時に二度目の「子供の時間」を生きてきたのではないだろうか?
それは、かがやくような「時間の子供」を内部に育てたのだといえるかもしれない。
こんなことを考える時に必ず思い出すのは、この詩です。
そして、三度目の子供時代も生きてみようと思う。

最も自覚的でなかったのは、自らの子供時代ではなかったろうか?

美しい五月  清水哲男

2013-05-02 21:41:29 | Poem
   


  唄が火に包まれる
  楽器の浅い水が揺れる
  頬と帽子をかすめて飛ぶ
  ナイフのような希望を捨てて
  私は何処へ歩こうか
  記憶の石英を剥すために
  握った果実は投げすてなければ
  たった一人を呼び返すためには
  声の刺青を消さなければ
  私はあきらめる
  光の中の出会いを
  私はあきらめる
  かがみこむほどの愛を
  私はあきらめる
  そして五月を。


5月になると思いだす詩である。
しかしながら、この詩のなかに隠されているものをわたくしはおそらく正確には把握できていないだろうと思う。
「五月」はおそらく1968年(昭和43年)のフランスの五月革命ではないかと思える。
最後の6行は、そのままそれぞれの心の歴史にも投影されてくる。ひとはこのような季節を繰り返しながら生きてきたのではないのだろうか?
エリオットは「四月はいちばん無情な月」と書いていたけれど、ある季節に「言葉」を与えるということは、次の季節へのいざないではないだろうか?

何度読みかえしても美しい詩である。清水哲男さん30代の詩である。


(MY SONG BOOK 水の上衣   昭和45年・限定250部・非売品・・・編集:正津勉)

春分の日に。

2013-03-20 00:47:43 | Poem


天使に寄す  リルケ   富士川英郎訳

たくましい 無言の 境界に置かれた
燭台よ 空は完全な夜となり
私たちはあなたの下部構造の暗い躊躇のなかで
むなしく力を費している

私たちの運命は内側の迷宮の世界にあって
その出口を知らぬこと
あなたは私たちの障壁のうえに現われ
それを山獄のように照らしている

あなたの歓喜(よろこび)は私たちの世界を超えて高く
だが 私たちはほとんどその沈滓(おり)を捉えることはない
あなたは春分の純粋な夜のように
昼と昼とを二分して立っている

誰にできようか 私たちをひそかに濁らせている
この調剤をあなたに注ぎこむことが。
あなたはあらゆる偉大さの光輝をもち
私たちは区々たる小事になれている

私たちが泣くとき 私たちは可憐のほかのなにものでもない
私たちが見るとき 私たちはせいぜい目覚めているにすぎない
私たちの微笑 それは遠くへ誘いはしない
たとえ誘っても 誰がそれについてゆくだろう?

行きずりの或る者が。天使よ 私は嘆いているだろうか?
だが その私の嘆きはどんな嘆きだろう?
ああ 私は叫ぶ 二つの拍子木をうちたたく
でも 私は聞かれることを思ってはいない

私がここにいるとき あなたが私を感じるのでないならば
叫ぶ私の声もあなたの耳に大きくなりはしないのだ
ああ 耀けよ 耀けよ 星たちの傍らに
私をもっとはっきりさせるがいい なぜなら私は消えてゆく


  *     *     *

「春分の日」になると、この詩を思い出します。

あなたは春分の純粋な夜のように
昼と昼とを二分して立っている


「春分」であれ「秋分」であれ、この日の夜と昼は美しく二分される。
「春分点」と「秋分点」となる。
この美しい昼と夜の時間は天使が支配しているのか?

ワイドー沖縄  与那覇幹夫 

2013-02-26 00:35:41 | Poem


与那覇幹夫(よなは・みきお)氏は1939年宮古島市生まれ。83年に「赤土の恋」で第7回山之口貘賞受賞。

「ワイドー」の意味をすぐに詩集のなかに捜しました。
作品「叫び」のなかに捜しあてた時の衝撃は言葉が尽くせないほどでした。
その1部を引用します。


私は、何と詰(なじ)られようが
あの夫の〈絶叫〉を差し置くほどの
美しい叫びを、知らない。

それは戦後間もなく
降りそそぐ陽ざしに微睡(まどろ)むがごとき
宮古の村里の、とある村外れの農家に
十一人の米兵(アメリカー)が、ガムを噛みながら突然押し入り
羽交い締めに縛った夫の、その目の前で
その家の四十手前の主婦を、入れ代わり犯したが
十一人目の米兵(アメリカー)が、主婦に圧し掛かった瞬間
夫が「ワイドー加那、あと一人!」と、絶叫した
 というのだ。

あゝ私は、一瞬、脳天さえ眩む、これほど美しい
 叫びを、知らない。
(中略)

「ワイドー沖縄! ワイドー沖縄!」と
 念じつづけよと
(終連)


作品の随所に見られる「、」が痛ましい。
書き手は恐らくこの事件を作品にするまでに「躊躇い」や「恐れ」に悩んだことだろう。
しかし「書いておかなければ。」という深い思いが、ついにこの作品「叫び」となったのではないか?
「ワイドー」は「耐えろ」「しのげ」「がんばれ」という意味合いの宮古ことば。沖縄の歴史から生まれたような言葉だ。
この作品に付した「特記」には、こう書いてあります。


私はこれまで「ワイドー事件」については一切、口を噤んできましたが、
事件から半世紀の歳月が流れたので、もう時効であろうと、口を開きました。
なお「加那」は、むろん仮名です。



書かれている史実の壮絶さに圧倒されたのか?書き手の言葉の力によるものか?掴みにくいものでした。
しかし、それは史実と書き手の力関係がどうやら安定しているようだと思えた時に、この詩の素晴らしさが一気に輝いてきます。
以倉氏の「帯文」にある「深い感動」という言葉を立ちあげるまでに、与那覇氏が費やした時間は永かったことだろう。

さらに1編「あいさつ」について。(1部引用)

かつて島から、旅に出たものは、後から
きた友人や顔見知りに会うと、いきなり
「島は赤かったか、青かったか」、尋ねた。
いやそれが、それがあいさつだった。
(中略) 

それは、ほとんど毎年、干ばつが見舞う
その島では、島山が一面、赤く枯れれば
島はもう飢饉、蘇鉄地獄なので、島に残
した親兄弟や、近しい者たちの身を案じ、
明るい闇を払い除けるかのよう、それこ
そ必死に問いかけたのだ。
(後略)



「蘇鉄地獄」それは、凶作に見舞われた年に、食用として蘇鉄のでんぷん質を食用にすることです。
蘇鉄は大干ばつでも枯れないのです。
しかし蘇鉄には「毒」があって、毒抜きをするわけですが、それに失敗して
命を落とすという不幸が少なからずあったのでした。(だから、地獄。)
以前、仕事で沖縄地域の詩歌をたくさん読みました折に、「蘇鉄粥=そてつがゆ」という言葉を初めて知りました。
「蘇鉄粥」は地域によって「どがき」「なりがい」などと読ませるようです。


「形見の笑顔」は、父の死と一家離散、その後失対事業の道路補修工事の現場で働く母上に
やさしい言葉をかけられなかったことへの悔恨が激しく書かれていました。
 
29作品が収められている詩集ではありますが、以上の3編について書きました。

詩集評は苦手ですので、ほとんど書いたことはありませんでした。
自分自身が詩の書き手であるということは、批評はできない、という怖さがありました。
それが思わず詩集紹介をしてみたくなった、ということは「ワイドー沖縄」の底力のせいかもしれません。
拙い文章で申し訳ありません。

 (2012年12月 あすら舎刊)

杏姫 室生犀星

2012-08-24 00:26:38 | Poem


室生犀星の小説「杏っ子」は有名だが、彼の「哈爾浜詩集」のなかには「杏姫」という詩がある。


   杏の実れる枝を提げ
   髫髪(うない)少女の来たりて
   たびびとよ杏を召せ
   杏を食べたまへとは言へり。
   われはその一枝をたづさへ
   洋館の窓べには挿したり。
   朝のめざめも麗はしや
   夕べ睡らんとする時も臈たしや
   杏の実のこがねかがやき
   七人の少女ならべるごとし
   われは旅びとなれど
   七人の少女にそれぞれの名前を称へ
   七日のあひだよき友とはなしけり。
   あはれ奉天の杏の
   ことしも臈たき色をつけたるにや。

思うことありて、この詩をここに記す。

清水さんへ 「春がくると」

2012-04-08 13:11:54 | Poem




   かたむきかけた冬陽の庭にたたずむと
   かぼそい母のからだは透きとおるようだ
   
   母の足元から影が長くのびてきて
   わたしの足元に届いている
   あなたの寂しさも 見果てぬ夢も
   影をのばしてきた

   母は事もなげに日常を歩くわたしを
   いつも遠い目をして追っている
   あなたとわたしの距離は
   もうそれほど遠くはないけれど
   今のあなたには
   わたしがささやかな希望のかたち

   わたしは寡黙に働く
   ことばにしてしまうと
   霧散してしまいそうなものを
   奥歯でくいとめるために……
   はかりようもない寂しさ

   春がくると
   母の記憶は花のようにこぼれはじめた
   虚空をまさぐる母の寂しい枝々は
   ついにわたしの日々を繁らせて……
   わたしの磨いたガラス窓は
   母の磨いたガラス窓
   わたしの貼りかえた障子は
   母の貼りかえたそれに
   「ほら お部屋が明るくなったでしょう」

   崩壊しようとする母は
   そのようにしてみずからを救済したのだ

   ふたたび 母の春


 *     *      *


昨年5月30日詩人清水昶さんがご逝去。そして2012年、桜の開花の季節に清水ご兄弟のお母上がご逝去。
お父上の死から、弟の昶さんの死、母上の死……列車の連結のように大切な方々をなくされた兄上の清水哲男さんの哀しみはいかばかりか?
言葉もない。ただここに思い出した我が母について書いた過去の拙詩を差し出すのみ。
哲男さま。お疲れでしょう。ご自愛くださいませ。

もう一編の詩を思い出しました。「伝言・加藤温子さん」

詩の樹の下で  長田弘

2012-02-07 21:30:31 | Poem
実は自分が詩の書き手でありながら、詩集の感想文(あえて批評とは言わない。)が苦手です。
冷汗が出ます。しかし今回は書いてみます。長田弘氏は「樹」と「木」を使い分けています。念の為。

ここに収録された作品は、2006年~2011年11月までに、雑誌掲載、
2011年3月以降の作品は主に新聞掲載、テレビ朗読などで公表されたものとなります。
多感な少年期を福島で過ごした長田氏を育んだものは「木」であったようです。
そして、2011年3月11日と前後して、長田氏は東京で命の瀬戸際を彷徨う病の床におられ、
そこから無事生還なさったという。その意識の放浪のなかで長田氏は記憶の「木」に出会っているようです。

この詩集の目次は、3部に分かれているわけではないのですが、
読み手のわたくしには、3部と考えられます。
1部は「記憶の木」、2部は「樹の絵」、3部は「人はじぶんの名を」に代表されるように東日本大震災及び原発事故に関する作品でした。

「人はじぶんの名を」の最終部分を。。。

 人はみずからその名を生きる存在なのである。じぶん
の名を取りもどすことができないかぎり、人は死ぬこと
ができないのだ。大津波が奪い去った海辺の町々の、行
方不明の人たちの数を刻む、毎朝の新聞の数字は、ただ
黙って、そう語りつづけるだろう。昨日は一万一〇一九
人。今日は一万八〇八人。

              (2011年5月3日に記す)



この↓「大きな影の樹」は「人はじぶんの名を」の前に置かれています。

 来て見てごらんよ。ここからは、歴史の木に吊るされ
た人びとの影が揺れながら消えていった、何もない向こ
う側が、とてもよく見える。



次は「樹の絵」と名付けた作品の1編です。

  

「モディリアーニの木」の最終部分から。。。

 モディリアーニの木の絵は、木がなにより自然のつく
った傑作であることを。あらためて想起させる。
 モディリアーニの完璧な肖像画が、自然のつくった失
敗作は人であることを、いつでも想起させるように。




最後になりましたが、「切り株の木」から。。。

 舗道のそばに、一本、大きな切り株だけがのこる木が
ある。椅子くらいの高さの切り株のまわりを、切り株の
木がずっと生きてきた時間が囲んでいる。日々の魂を浄
めるような時間が、そこにはのこっている。


  *    *    *

実は長田弘氏の詩集は何冊かは読んでいますが、苦手でした。
難解ではないのですが、ふっとかすかに「言葉の道徳教育」を受けているような気がするのでした。
(ごめんなさ~い。)
追憶の樹、画家たちの描いた樹(これは絵画の知識がないと…。)そしてこの詩集編纂以前に遭遇した病と津波と地震。
これらの3方向から書かれた「樹」と「木」は人間のささやかな幸福とは比べようもない永い時間を生きるのだと。
ここに人間はあらゆる思いを託すことができるのだろう、と思いました。

(2011年12月2日・みすず書房刊)