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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

悲しみのゴンドラ  トーマス・トランストロンメル

2011-11-28 13:56:42 | Poem

翻訳:エイコ・デューク

トーマス・トランストロンメルは1931年生まれ。スウェーデン詩人。心理学者。ピアニスト。
「悲しみのゴンドラ・1996年」は、12冊目の詩集である。
1990年、重度の脳卒中により、この詩人は右半身の自由と、語る言葉を失ったが、
「詩」は生まれた。それがこの詩集です。2011年10月、「ノーベル文学賞」受賞に決定。


この詩集の中間部に「俳句詩」と冠された短詩が11編掲載されています。
ここを読んでいましたら、我が稚拙なる写真との「勝手にコラボ」をやってみたくなりました。
無断引用と言うなかれ。トーマス・トランストロンメルの俳句詩に我が写真で応える気構えです。
(尊敬をこめて。)スウェーデンは日本より寒い国。この関東平野の写真が応えられるか?


 *    *    *

高圧線の幾すじ
凍れる国に弦を張る
音楽圏の北の涯て




白い陽
孤独なジョギングの行くては
死の青い山




陽はやや低い
われらが影は巨人のもの
瞬時に落ちる闇




そして夜が
流れ入る 東から西へと
月の速さで




つがいの蜻蛉
固く絡んだままの姿
揺らぎ揺らいで飛び去る



(蜻蛉ではなくて蝶ですが、ごめんなさい。)

(2011年11月・思潮社刊)

詩人の死

2011-07-20 12:43:05 | Poem


なにも語るべきことはない。書くべきこともない。
それでも、わたくしは50日を超える日々を過ごしても、詩人「清水昶」について考えている。
どこかで「言葉にしたい。」という願望が消えない。詩を書くものの悪い癖だ。
突然過ぎる訃報にうろたえ、泣いた数日。そして「偲ぶ会」にも行った。

多くの詩人の「追悼文」を読み、「追悼の挨拶」も聞いた。
それらはわたくしにとっては、意味をもたない。
それらはほとんどが、故人と自身との固有の思い出であり、経緯である。
それらはわたくしには共有できるものではない。

それよりも到底共有できない言葉の方が、わたくしを震撼させる。
たとえば共に暮らした方の「死なせてしまった…。」という苦しみの言葉。(自宅にて突然死。断じて自死ではない。)
そして兄上さまだけが知っている、詩人の幼少年期の「あきらチャン」の生き生きとした描写。


亡霊になってはじめて
人間は生きているみたいになつかしい


……という詩の一節がある。清水昶詩集「詩人の死」からの引用です。


「どうして死者に対して、そんなに熱くなれるの?」とわたくしは尋ねたことがある。
「これくらい人間を震撼させ、熱くさせるものはないからね。」と。
「ガリバーの質問」を書いた詩人の、これが答えだった。


今頃は、あなたはどのあたりを彷徨っていらっしゃるのか?
そして、ご自分の「死」に対して、熱くなっていらっしゃいますか?うろたえていらっしゃいますか?
それとも、そろそろお父上やなつかしい方々にお会いできましたか?


あなたの詩は息遣いやら鼓動やら涙やら、一層音高くなって我が書棚で生きています。
某詩人の「清水昶の詩がどこまで生きのびるのか、見届けようではないか!」という朗々とした声とともに。


《つぶやき》

これできちんと書けたとは到底思えない。しかし階段は1歩上がれたとも思う。

追悼 清水昶さんへ

2011-06-02 00:43:25 | Poem
詩人の清水昶さんが、5月30日午後、心筋梗塞により急死されました。

あるほどの菊投げ入れよ棺の中  夏目漱石

菊の花は入れない。勿忘草を入れよう。酔いどれ天使さんには。




わたくしの大好きな詩を2編、ここに書きます。
昶さんの詩はみんな好きですが、特に「少年」を書いた詩が好きです。


  青葉城址    清水昶

    ――仙台の小さな友人赤間立也君へ


  青葉城址には緑の風がながれていた
  ぼくは荒い木の幹にもたれて
  がらんとした心で罐ビールをのんでいた
  一本の木にさえ暖かい血がめぐっている……
  それは七年まえの暗い春の日
  紅葉の散った青葉城址の風の中で
  伊達正宗公の銅像が
  薄曇りの空に向かって悲しげに吠えていた
  馬上の荒武者に部下はなく
  ひとりぼっちの歴史の影だけが浮いている……
  ぼくはつめたい罐ビールを握りしめ
  しきりに唾を吐いていた
  頭の中では夥しい落葉のような
  挽歌が風に吹かれて鳴っている・・・・・・
  それはつい先頃の晩秋の午後
  あれからもう七年だ
  反抗的な目をかがやかせていたきみも
  傷だらけの喧嘩独楽を大切にする
  誇りを知る少年になったのだ
  ぼくはといえばそのあいだ
  詩人みたいにひどく酔ったり
  淫蕩な神の石に躓いて
  傷を舐めあってくらしたりした
  もう少したったらきみにもわかる
  きみのほそく華奢な手が
  生活の床にひやりと触れたり
  きみが投げ込む素晴らしい直球も
  いずれまばらな拍手とともに消えてゆくことが……
  だからこそぼくないしぼくら大人は
  きみのやさしい敵として
  いつまでも背中をみせて座っている
  きみだって
  便器の上で哲学者のようにうつむいたり
  頬杖をつきながら
  未来の宿題について
  考え込んでいることがあるだろう
  ぼくはきみが好きだから
  あるいは生きることを忘れそうだから
  きみがやわらかな眠りに落ちた後にも
  東京の暗闇のなかに坐って
  つきることのない遠い手紙を
  君に向かって
  書きつづけているのである


  ――詩集「夜の椅子・1976年・アディン書房刊」」より。


  *    *    *


  国名   清水昶 
          
  ――亡き林賢一君に


  お母さん ぼくは遠くから流されて
  異郷の砂浜にうちあげられた貝だった
  水が欲しいよ 水をふくんだことばも少し
  ただぼくはだまっていただけなんだ
  歴史的に半島の血を割って 古い戦争が移しかえた
  三つの国名が汚れている
  はんぶんだけの祖国はみどりが滴っていると聞いたけど
  関係ないよね 三代目の図画の時間には

  ぼくだって片想いに区切られた恋もした
  どこまでもひろがる海図の迷彩色にすっかり染まって
  勉強もがんばった 悪意を抜いて……
  まだほそい腕から切れ込んで意味の手前でするどくまがる
  凄いカーブもみせたかったな
  ひとりぼっちで喝采して網に突込む 
  素晴らしい右脚のシュートもさ
  ほんとうにみてもらいたかったんだ
  校庭はがらんとしていて 落葉だけが降りつもり
  だあれも受け手がいなかったから
  全部ボールは行方不明
  いつもそんなゆうぐれが肩から昏れて
  明日の学校は暗欝だった
  ぼくはだまっていただけなのに
  三つ目の国名が窓を閉めきり
  大人の手口とそっくりな手と口が
  けたたましくぼくの出口を覆うから
  夢を教える教室は 退屈しきった
  健康で小さな病者がいっぱいだ

  お母さん
  ゆうやけが水たまりに落ちていたりして
  帰り道がきれいだったよ だけどもう
  腕が抜けそうに鞄がおもい 学帽の中味も投げ棄てたいな
  国名のない海の音が聞きたくて
  屋上の夜までのぼってみた 眼下のあかりを吸って波だつ
  晩夏の夜空は海みたいだったな
  ぼくは誇りをしめたひとつの貝だ
  みしらぬ渚で寒さと嗚咽に堪えながら
  国名を解くために
  じっと舟を待っていた  

――『だれが荷物をうけとるか・1983年・造形社刊』より――

曙  ヴァレリー

2011-01-03 22:41:11 | Poem



      ポール・プウジョーに。



まだ醒めきらぬ睡眠を齎(もた)してゐた
鬱陶しい混乱が、いま 太陽の
薔薇色の出現の姿に たちまち
散り散りに 消えて失くなる。
自信の翼を一杯に拡げて、俺は
自分の霊魂(たましひ)の中に踏み込む。
これが 最初の祈りなのだ。
流沙の地を抜け出ると、すぐ
わが理性の歩調に合せて
素晴らしい歩みを、俺は運んでゆく。

おはやう。雙生兒(ふたご)のやうに似た微笑(ほほえみ)を
浮かべて なほまだ寝込んだままの、
女の友達、相似形よ、
単語の間で、きらきらと燦いてゐる。

(以下略)


詩集「魅惑(即ち 詩篇)…CHARMES」より。



新年にふさわしい詩はないものか?
そんな思いで昨年末から探していましたが、これに決定。
今更ながら、先達詩人とその翻訳者に敬意を表する。

この詩篇のなかには「雙生兒(ふたご)」「相似形」という言葉がありますが、
これは詩の素材としてふさわしい単語が生まれ、脚韻として響き合うことを言っているようです。
こうした詩法は古いものではなく、むしろ挑戦してみたいものだ。

停滞している自身のために送る。

樹についての対話  ポール・ヴァレリー

2010-12-31 16:34:22 | Poem


わたくしは樹が好きだ。しっかりとしたあたたかい幹が好きだ。
枝先は陽に向かって伸びてゆく。そこに揺れるおびただしい葉。
根は大地をしっかりと掴み、大地の恵みをゆっくりと吸い上げている。
木漏れ日。小鳥の声。風にそよぐ音。

音と言葉との折り合いをどこでつけたらよいのか?わたくしは知らない。
「樹についての対話」の「ルクレティウス」「ティティルス」との対話から
その応えにわずかに触れたように思う。

年末にあたり、少々詩について真面目に書いておこうと思う。
以下は引用です。


ルクレティウス

『一本の植物とは、律動が確実な形態を展開し、空間のなかに時間を時間を展示するひとつの歌なのだ。
 毎日毎日、植物は、その捩れた骨格の担うところを、すこしずつ高く揚げ、
 その葉を何千となく太陽に委ねて、葉の一枚一枚は、微風からもたらせるところに従い、
 みずからの独自にして神的な霊感だと信じるままに、大気のうちのみずからの居場所でうわごとを言って……

 (中略)

 放散する瞑想はわたしを酔わせる……
 そしてわたしは感じるのだ、ありとあらゆる語がわたしの魂のなかでざわめくのを。』

UNE HISTOIRE DE BLEU(青の物語) ジャン=ミッシェル・モルポア

2010-10-11 14:39:36 | Poem


翻訳 有働薫               


青の歴史を誰かが書くかもしれません。(ライナー・マリア・リルケ)

そして人々は山々の頂きや、海の波、川のゆったりした流れ、大洋の循環、そして天体の運行を感嘆して眺め、
自分自身を忘れてしまうのです。(聖アウグスティヌス)



この上記の二文は、この詩集の扉にあたかも「予言」のように置かれています。
有働薫さんの解説によれば、それに応えるかのようにジャン=ミッシェル・モルポアの「青の物語」は書かれたようです。
このように時を越えた運命的な詩人の出会いは繰り返されてきたのかもしれません。そしてこのようにして「詩」が引き継がれてゆく。
この詩集は海(青)と人間との絶え間ない対話なのだと思えます。そしてその「海」に青の言葉を捧げ続ける詩人の絶えることのない作業のように思える。
その作業はとても勤勉であり、大変美しく均衡のとれた言葉の構築でありました。
そしてジャン・ミッシェル・モルポアは「人間が生きる。」ということのすべてを書き尽くしてみようと試みたのではないか?とさえ思えます。

……と言ってもそれは有働薫さんの翻訳による言葉の美しさ、豊かさでもあるわけです。
フランス語のわからないわたくしは有働さんの翻訳された日本語のみでこの詩集を読み、受け取ったわけですから。
その美しい言葉をすべてここに書きとめておきたいのですが多すぎる。でもさらに抜粋して引用させていただきます。


*     *     *


海はわれらの内で文章を書こうとする。


《空の本質は不思議なやさしさでできている。》


明日という日は、こんなに野蛮な身振りをし、こんなに汗をかき、青白く期待をかける価値が十分あるのだから。


彼らはおのれの生のかたちにふれようとする。


彼らは青を見つめる、だがそれをどう言えばいいのか決して分からないだろう。


どこまでも青は逃亡する。
じつを言えば、青は色ではない。むしろ印象であり、雰囲気であり、空気の特別な響きである。
積み重なった透明さ、空虚に加えられた空虚から生まれ、
空でのように人間の頭の中でも、変わりやすい透明なニュアンスである。

われらの呼吸する空気、われらの姿が動き回る空虚な外観、われらが横切る空間、
それは紛れもないこの地上の青である。あまりに近すぎ、あまつさえわれらと一体化し、
われらの身振りと声を身につけているので、目に見えないのだが。
鎧戸を全部下ろし、ランプを全部消してもなお、われらの生の、覚えがないほど軽い服を着て、
青は部屋の中までいるのだ。                              (*)


おまえは海に行き、おのれの憂愁で洗われる。
その青と折り合いをつける。


たくさんの日々が過ぎた……。


だがこの傷はふさがっていない。


それ以来彼女にできることは、青をつくることだけ。彼女は青を押し返したり、揺さぶったりする。
浜辺の男たちにそれを見せ、男たちはそれで商売することを忘れず、それから彼女に少し汚れた青を返してよこす。
彼女は、豪奢な夕日で顔を染めることも、嵐の日のように怒りで顔を蒼白にすることも、塩の中で死んで石になることも夢みたりしない。
ただ、夏の美しい夕方、海辺の低い石塀にこしかけて愛を語り合う人々のまなざしや声のように、ただ透きとおっていたいだけだ。


彼女はとりわけ夏の雨が好きだ。


海の上に、長い斜めの縞になって降ってくる温かい、灰色の雨。ほんのお湿りほどの雨で、雨音は聞こえない。
彼女は、雨を避ける場所を探しもせず、顔を雨に差しのべる。雨が静かなので、彼女は自分がここにいることを知り、感じる。
彼女は言う――雨は彼女にみずからを捧げてくれ、あるいは彼女自身気づかなかったこの優しさを、単調で自由なこの落下運動を、
そして哀しみで彼女から潮が退いていらい、もはや彼女のものではなくなっているこのような軽やかな波立ちを呼び戻してくれるのだと。
  (註:ここがエピローグです。)


 *   *   *


やっぱり長い引用になってしまいました。しかし数年後にまたこの詩集を開く時、きっとわたくしは別の詩行を選ぶのかもしれません。
「青の物語」はそういう永い時間を息づくであろうと思われる詩集なのです。

実はこの上記の文章は6年ほど前に書いたものです。
10月9日、久し振りに翻訳者の有働薫さんが、この「青の物語」を朗読された時に、わたくし自身が引用していた部分(*)を朗読されたという偶然に、
なつかしい思いとともに、ふたたびこれを掲載することにしました。6年間の「青」はわたくしのうちでは色褪せないものでした。


           
 (1992年・メルキュール・ド・フランス社刊……1999年・思潮社刊)

挨拶

2010-07-28 21:40:27 | Poem
   《マラルメ・モネ画》


十九世紀のある詩人の最期の仕事は
四百年前のポルトガルの航海者への挨拶だった。
大陸ではない 大海を渡るということは
ひどく抽象的な「喜望」に等しい?

セイレーンの歌に惑いつつ進む船べりに
一羽の鳥が現れたとしたら
それは具象的な風景に変わるだろう。
陸が近いのだ。嵐の岬があるのではないか?

四世紀前の船旅に倣いて
詩人は死の船出の前に
多士済々の若い詩人に挨拶を送る。

孤独 暗礁 星座
陶酔 恐怖 よろこび
憂鬱の水長は空にむかって杯を掲げるのだった。


 *     *     *


 上記の公開に耐えぬほどの下手な詩は、某同人誌に掲載した自作詩です。この詩に登場するモデルはどなたなのか?というお手紙やメールが多かったので、ここを釈明の場とします(^^)。ここをお読みくださればわかると思います。「パクリ」というご批判もあえて受けませう。自作詩はここに掲載しない方針でしたが例外とします。どうぞよろしく(^^)。

ステファヌ・マラルメ(1842~1898)
ヴァスコ・ダ・ガマ(1469~1524)

とげ抜き新巣鴨地蔵縁起・伊藤比呂美(続)

2010-03-31 21:32:55 | Poem
 これは小説でもドキュメンタリーでもエッセーでもない。れっきとした詩集なのです。図書館では「詩集コーナー」に置いてあります。書店ではどうか?詩集売り場に置くと売れないから、小説売り場にあるのではないか?

 本を開いて、まず驚いたこと。延々と長い17編のドキュメンタリーのような散文詩ですから、紙面は小説と同じように見えますが、上下の余白がたった6ミリです。手近にあった大江健三郎の小説と測り比べてみましたが、大江の本の上下の余白は2センチ~2,5センチ(←これが、ほぼ標準。)でした。

 なんという偶然!この本を夕べ読み終わって、少しだけメモ書きをしてから、寝る前に、読みかけだった大江健三郎の「水死」の続きを読んだ途端に、こんな文章に出会いました。こちらは小説ですよ。(←それにしても、なんという読書彷徨・・・。)


 『文庫本のこまかな活字が埋めている長方形、周りの白い部分(そこを英語だとmarginといい、その余白への書き込みのことをmarginaliaとも言うと、なにかの雑談で話すと、それは文化人類学者や建築家の友人たちと、たまたま周縁性ということを共通の主題にしていた頃だが、周りの者のいうことを聞き流して自分の黙想のなかに入るようだった篁さんが、しばらくして「マージナリア」という深い美しさの新作を発表した。自分の人生でいちばん創造的な環境のなかにあった時期!)・・・以下略。』


 些細なことを書きましたが、このはみ出さんばかりの紙面が伊藤比呂美さんの爆発するような生きるエネルギーを表わしています。某社の「定義集」のなかで「本の中で行の終わりが余白にとどかないところ――そんなのが詩ね。」という小学生の言葉が収録されているのですが、それを久しぶりに思い出しました。この子に教えてあげたい。「余白をはみ出るようなものも詩ですよ。」って。

 まさにこれは「満身創痍」の詩集です。カリフォルニアの家族(3番目の夫と小学生の娘のあい子)と、熊本の肉体的にも精神的にもすでにあぶない老親の介護との往復生活。さらに一方的にしか連絡のない1番目の夫との間の娘(ベイエリア在住らしい。)、2番目の夫との間の娘は拒食症&鬱病の大学生の「よき子」、さらに犬と猫。自称「たらちねの母」は、それらの家族のために走ります。「生きている。」を連呼しながら。そして比呂美さんを守ってくださったものは、「キリスト」でもなく、「死者の書」でもなく、まさにアニミズムの「とげ抜き地蔵」だったということです。

 愛娘もこの詩集を半年前に読んでいました。「どうだった?」とたずねましたら「つかれた・・・。」と申します。「でもねぇ。比呂美さんは一人っ子だったのかしら?なんだか兄弟姉妹の存在が全く感じられないのだけど。」とつぶやきましたら、愛娘は「お母さんだって、一人ぽっちでおじいちゃんとおばあちゃんの介護をしたでしょ。」と・・・。そうでした。かつて老親介護が始まったのは愛娘が大学の合格が決まった翌月からでした。下の息子はその後から大学受験期に入りました。心配はありましたが問題もなく通過しました。比呂美さんのようなご苦労はありませんでしたが、わたくしは結婚は1回だけでした。離婚もありません(^^)。そういえば海外生活もなかったなぁ。

 比呂美さんのお父上と、わたくしの亡父との奇妙な共通点がありました。それは「藤沢周平」です。その年齢に辿り着くまでには、さまざまな読書経験があるはずです。しかしその流れがある時からまったく変わります。亡父はわたくしが買ってきた本を「面白くない。」と言い出しましたので、夫に相談しましたら「藤沢周平はどうだろう?」と言いました。そういえば詩人の嵯峨信之氏が病室で読んでいたのが「藤沢周平」だったと、どこかの本で読んだことを思い出しました。それは大当たりでした。郷里の書店の「藤沢周平」を買い占めた感じでした。


  *     *     *

ポーランドの詩人「ヴィスワヴァ・シンボルスカ」の言葉が思い出されます。


   なにごとも二度は起こらない
   けっして だからこそ
   人は生まれることに上達せず
   死ぬ経験を積むこともできない

   (「なにごとも二度は」より)


   詩を書かない滑稽さより
   詩を書く滑稽さのほうがいい

   (「可能性」より)

とげ抜き新巣鴨地蔵縁起・ 伊藤比呂美

2010-03-27 15:20:57 | Poem
 初出は「群像」の2006年2月~2007年4月となっています。おそらくこの時期にリアルタイムで書かれたものではないか?と思います。カリフォルニア在住の伊藤比呂美が、熊本の老母の看護のために帰国と帰宅を繰り返す過程で、母上の容態はどんどん悪化して、カリフォルニアの夫の心臓バイパス手術にすら立ち会えない状況を迎えることになる。その時病室にいる夫へ電話をかけ、1つの約束をする。ここを読んでいて涙が止まらなかった。


将来、あなたがたとえ百や二百まで生きようとも、とわたしはいいました。
将来、おれが百や二百まで生きようとも、と夫がくりかえしました。
あなたとわたしが連れ添うかぎり。
おまえとおれとが連れ添うかぎり。
どんな口論や喧嘩を為したとしても。
どんな口論や喧嘩を為したとしても。
そしてそれは屹度するが。
そしてそれは多分するが。
ぜったいに。
ぜったいに。
今回の手術のときわたしがそばにいなかったことを、あなたは非難しないこと。
今回の手術のときおまえがおれのそばにいなかったことを、ぜったいに、おれは非難しない。


 この約束を即刻考えた伊藤比呂美の予測には脱帽する。わたくしは予測できなかったからです。郷里の老父母の家と自宅との往復生活は、次第に老父母との時間が優先される時期に入る。すべてを終えて(つまり父母の死。)、自宅生活のみとなった時期になってから「理解されている。」と信じていた者たちの非難を受けました。

 伊藤比呂美の娘の「あい子」は熊本の小学校に、9月から編入学させることにもなる。これはまだ初期のお話ですが、とりあえずここだけをメモしておきたい。

 (2007年・講談社刊)