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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

ゆずり葉

2019-04-12 21:34:44 | Poem

 


「ゆずり葉」      河井酔茗
 
 
子供たちよ。
これは譲り葉の木です。
この譲り葉は
新しい葉が出来ると
入り代わつてふるい葉が落ちてしまふのです。
こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちを譲つてー 。
子供たちよ
お前たちは何を欲しがらないでも
凡てのものがお前達に譲られるのです。
太陽の廻るかぎり
譲られるものは絶えません。
輝ける大都会も
そつくりお前たちが譲り受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれどー 。
世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持つてゆかない。
みんなお前たちに譲つてゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、
一生懸命に造つてゐます。
今、お前たちは気が附かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のやうにうたひ、花のやうに笑ってゐる間に
気が附いてきます。
そしたら子供たちよ。
もう一度譲り葉の木の下に立って
譲り葉を見るときが来るでせう。
 
 
近所の小学校では新学期。
上級生が先頭を歩いて、その後には下級生が列を組んで歩いている光景が見られる。
その道の脇に「ゆずり葉」が、新しい葉をのぞかせています。
小学校の校庭にも「ゆずり葉」があります。
我が子たちも、小学校の教科書で読んだはず。覚えているかしら?、

その木の下では、ウマゴヤシが咲き出しました。


追悼 石原武氏

2018-06-11 15:43:46 | Poem


詩人、英米文学者である「石原武氏」が、3月20日にご逝去されました。
石原武氏の多くの詩作品のなかから、この一篇をご紹介させていただきます。



   鶏   石原武 (1930~・2018 山梨県甲府生まれ)


   羽根を毟られた裸の鶏の
   まだぴくっと動く鳥肌を
   裏庭のバケツで洗うオフクロの
   白い首に吹く黄砂まじりの旋風
   三月の暮れどき
   低い地平が黄塵で少し明るい

   そのあと
   鶏ガラ汁に
   ゆであげうどん

   満州から
   イガグリ頭の男になって
   姉が生還した日
   ソヴィエト兵や八路兵の乱暴など
   断固として口を閉ざして
   首を垂れ
   鶏ガラ汁のうどんを啜る姉

   座敷の隅では
   雛祭りの人形たちが
   固唾をのんでいる
   まだ赤く燻る黄塵を背に
   姉はゆであげうどんを啜っている
   酔いつぶれたオヤジの
   鼾に
   オフクロがその鼻をつまみ
   ようやく
   春の夜のさざめき

   遠い野火も眠りに落ち
   満州は終った


――『飛蝗記・2004年・花神社刊』より――

この石原武の作品に出会った時に、はじめに思い出したしのは財部鳥子の詩集「腐蝕と凍結・1968年・地球社刊」のなかの作品「詩の音」でした。財部鳥子は1933年新潟県で生まれ、間もなく旧満州国、ジャムス市に渡り、引揚げまでをそこで過ごしています。


   きみの耳なりは詩の音 死の音とよぶ
   髪を刈られた極限の少女がすわりこんでいて
   永遠にうごかない息をしている
   (中略)
   きみの心は犬の涙のようにおわっている (「詩の音」より)

 
三月、女子の祝いの季節には、この土地には中国大陸から吹いてくる西風に乗って黄砂がやってくることがあるようです。その黄砂と同じ道筋を辿るようにして、イガグリ頭の姉は満州から故郷へ無事生還したのでしょう。姉の背後には「まだ赤く燻る黄塵」がただよい、若すぎる姉が見つめざるをえなかった、ソヴィエト兵や八路兵の行ったであろう凄惨な蛮行を物語っているかのようだ。飾られた雛人形でさえ口をつぐむほどの……。この時代、旧満州からの引揚者のなかにいる少女や若い女性は、身の危険を守るために男児あるいは男性に成りすましたということは、幾度も亡き父母から聞かされていました。これはどの時代であっても、戦争があれば世界中どこでも起こりうる悲惨な女性の状況なのです。

「オフクロ」はおそらく、当時大変貴重な食糧源であったであろう「鶏」と「うどん」を無事に帰ってきた娘への精一杯のご馳走として食卓に出す、と解釈していいのでしょうか?
「鶏」は地方を問わず、その当時はまず「卵」を食糧として求めるために飼ったという例は大変多いのではないか?一匹の鶏を食するということは、やはり「特別」なことなのではなかったかとわたくしには思われます。

久しぶりのお酒に酔い、安堵して酔いつぶれた「オヤジ」の鼾、その鼻をつまむ「オフクロ」、そしておだやかな「春の夜のさざめき」が一家にようやく戻ってきた。遅い雛祭りのように。姉の「沈黙」が記憶から遠ざかり、やがて新しく幸福な記憶を積み上げてゆくことを願いつつ……。

詩誌「真昼の家」

2018-06-01 00:19:05 | Poem

 「アカバナ」

マーケットへの道すがら、こんなアカバナに出会った。
そしてふいに、なぜか、昔の自分の書いた言葉を思い出した。

1989年から2001年までの間、「真昼の家」という個人詩誌を発行していたことがありました。
その2号の「あとがき」に、こんな言葉を書いていました。

『道路工夫は毎日丹念に敷石を並べてゆく。
 きっちりと敷きつめたはずなのに
 わずかな隙間から雑草が生えてくる。
 それは道路工夫の嘆きのように見えるが、
 実は大地からのぬきさしならぬ言葉ではないだろうか?
 
 そんな言葉が欲しい。
 すっきりと生えてくる言葉が欲しい。』


深く、深く、今の詩作の姿勢を反省します。

野の舟忌・詩人清水昶

2018-05-18 11:36:49 | Poem
5月30日は、詩人清水昶氏がお亡くなりになってから7年の歳月が流れました。

その日に、清水昶氏の盟友・福島泰樹氏の絶叫コンサートが行われます。

file:///C:/Users/owner/Documents/simizuakira.pdf

 ↑のPDFをコピー&ペーストで開いてください。


野の舟  清水昶

うつぶせに眠っている弟よ
きみのふかい海の上では
唄のように
野の舟はながれているか
おれの好きなやさしい詩人の
喀血の背後でひらめいた
手斧のような声の一撃
それはどんな素晴らしい恐怖で海を染めたか
うつぶせに眠っている弟よ
きみが抱え込んでいるふるさとでは
まだ塩からい男たちの
若い櫂の何本が
日々の風雨を打ちすえている?
トマト色したゆうひを吸って
どんな娘たちが育っているか
でもきみは
おれみたいに目覚めないことを祈っているよ
おれは
上半身をねじって
まっすぐ進んでゆくのが正しい姿勢だと思っているが
どうもちかごろ
舌が紙のようにぺらぺらめくれあがったり
少しの風で
意味もなく頭が揺れたりして
もちろん年齢もわからなくなっている
だからときどき
最後の酒をのみほしたりすると
はげしい渇きにあおられて
野の舟の上でただひとり
だれもみたことのない夢へ
虚無のように
しっかりと
居座ってみたりするのさ


《詩集・野の舟》より。

ツグミの声

2018-02-28 12:58:35 | Poem


   ツグミの声   牟礼慶子(1929~2012)

   季節は穏やかにめぐり
   大空はあくまで澄み
   果樹は甘く実を結んだ
   そしてツグミも今年は
   いつもの枝に帰ってきた

   はるかな林から林へ渡る
   百千の鳥のさえずりの中
   短く鳴いてやむ
   あの低い声を聞きわけるのは
   あれは私を呼んでいる声だから

   あの人の呼ぶ声は
   心の底まで届いていたのに
   抱き寄せられる前に
   立ち去るすべを選んだ
   あまたのことばよ

   共にとどまることも
   飛び立つこともしなかった私は
   あの人の胸深く生い育って
   さやさやと緑の葉を揺らし
   声のないことばで答えようとした

   ついに羽を連ねて飛ばなかった
   遠い日の哀しみは
   今はもう甘く実を結んで
   明るい静かな光の中
   ツグミの呼ぶ声を聞いている

――『牟礼慶子詩集・現代詩文庫128・1995年・思潮社刊』より――

   私のことばは
   空に噴き上げる多彩な虹でなく
   開ききった大輪の花でもなく
   まぶしい恍惚ですらなく
   いっさいの充足とは無縁である  
   (「私のことばは」・詩集「日日片言」より抜粋)

牟礼慶子の言葉は美しく開花することを拒んでいるかのようだ。甘美な音楽になることすら拒んでいるようにも思える。ツグミは「キョッ キョッ ピッ ピッ」と短く鳴く。美しい声とは言えない。聞き取ろうとする鳥の鳴き声にすら彼女は「ツグミの声」を選んだのだ。そして花ではなく一本の果樹になることを試みようとしているかのようだ。この作品は「恋唄」の形を借りて、牟礼慶子はみずからの「ことば」と「魂」への矜持を示しているではないだろうか?

   魂は手や足をはなれて
   あんなに空に近い
   木の枝に存在することもあるのだということを 
   (魂の領分・最終行より)

詩と暮し

2018-01-20 00:51:45 | Poem


昨年夏に「さて、最期の詩集を。」と準備にかかった時に、私の日常は大きく方向転換をしてしまいました。
実は「最期」ではなかった。人生の最期とはなかなか手強いものです。
夫の相次ぐ入院、その入院中に私の骨折事件も。
やっと私の骨折が快方に向かい、どうやら日常生活がゆっくりと動き出した時には、夫の退院という、綱渡りの日々であった。
そこには病院の方々が、私の日常の負担を最大限に軽減するために、夫にはあらゆるリハビリが行われました。感謝します。
夫も頑張りました。そして助けてくれた子供たちに感謝します。
詩集をまとめる時期が大幅に遅れましたが、これが最期ではないようです。

人生は読みにくいものであった。
そして「最期」が見えない介護の日々がすでに始まっている。
受け入れ難いこの現実を次の一冊にするために、生きてゆこうと思う。
こう考えた時に、やっと重い空気が動き出したように思う。
死ぬまでに、最低2冊の詩集をつくるという計画は悪くないなぁ。

かつて、両親の介護と看取りをした、若くて元気だった私をもう一度呼び出しましょう。
(あの時にも、詩集を出した。)

詩にも。暮しにも。