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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

20世紀初頭のロシア、ソビエトの詩

2017-01-30 21:35:43 | Poem

「世界文学15・ロシア三・集英社ギャラリー・1990年第一刷」より。



マヤコフスキーの手がけたポスター 「寒いのは嫌だろう。飢えたくもないだろう。食ってみたいだろう。一杯飲りたいだろう。──だから直ぐにでも突撃作業班(ウダルニク)に加われ」というコピーがマヤコフスキーの作。

20世紀のロシア文学は、1917年から始まったロシア革命と切り離して考えることは不可能だろう。詩人に限らず、人々の大量亡命がはじまる。あるいは流刑地での死、迫害による沈黙など。
その時代には、1909年パリでの「未来派宣言」、1916年スイスから始まる「ダダの運動」、続いて1924年フランスに興る「シュールレアリスム」、ドイツの「表現主義」などなど、この時代に文学と芸術のすべての萌芽が集中しました。

その影響として「ロシア・アヴァンギャルド」が誕生する。
しかし、エセーニンは、1925年に縊死、マヤコフスキーは、1930年にピストル自殺など、詩人にとって(いや、すべての芸術家にとって)困難な時代であった。1932年、すべての文学者は「ソビエト作家同盟」に統合され、30年代の恐怖政治が待ちかまえていた。

  さようなら、友よ、握手も言葉も交わさないが、
  悲しんで眉を濡らしてくれるな、――
  この生のなかで死ぬのは新しいタイプのことじゃあない
  けれど生きることだってもっと新しいことじゃあない。
       (セルゲイ・エセーニン)

  この生のなかで
         死ぬのは難しくない
  生き続けてゆくほうが
         はるかに難しいのだ。
       (マヤコフスキー 『セルゲイ・エセーニンへ』)

百人一首の一字勝負

2017-01-05 16:40:21 | Poem






村雨の露もまだひぬ真木の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮  87 寂連法師



住の江の岸による波よるさへや夢の通ひ路人めよくらむ  18 藤原敏行朝臣



めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲がくれにし夜半の月かな  57 紫式部



吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ  22 文屋康秀



さびしさに宿を立ち出(いで)て眺むればいづくも同じ秋の夕暮  70 良暹法師



ほととぎす鳴きつるかたを眺むればただ有明の月ぞのこれる  81 後徳大寺左大臣



瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞおもふ  77 崇徳院


今朝の朝日新聞の「天声人語」では、一字勝負は「む・ほ・せ」とだけ書いてありましたが、省略したのだろうか?気になるので、一応書いてみました。

平仮名が読めるようになってすぐに、祖父から教えていただいた百人一首は、親族のお正月の楽しい遊びだった。「む、す、め、ふ、さ、ほ、せ」もそこで覚えました。
そして、高校生の時には、百人一首の対抗試合もありました。最も懐かしい遊びでした。


魂だましのソネット

2016-07-12 21:46:20 | Poem


 
魂だましのソネット   高田昭子


魂消たね。ボールが「僕は魂だ」といった
真昼のデスクにボールを置いて
詩を書いている 魂という名のボールは
いたたまれずに転がりつづける


大陸という言葉をふとつぶやくと
間宮海峡の波の音が聴こえてくる
死にたいというをとこに
一頭の蝶が海峡を渡ったのだと繰り返し話す


韃靼海峡の冬の衛兵は
魔球のようなモールス符号を
死にものぐるいで打ちつづけている


だからわたくしは
魔球を
しゅわっと受ける魂で生きていたい。


 *    *    *


たましい たましい だまし だまし

終わりと始まり   ヴィスワヴァ・シンボルスカ

2016-06-29 20:28:21 | Poem



   終わりと始まり   ヴィスワヴァ・シンボルスカ (1923~2012)


   戦争が終わるたびに
   誰かが後片付けをしなければならない
   何といっても、ひとりでに物事が
   それなりに片づいてくれるわけではないのだから

   誰かが瓦礫を道端に
   押しやらなければならない
   死体をいっぱい積んだ
   荷車が通れるように

   誰かがはまりこんで苦労しなければ
   泥と灰の中に
   長椅子のスプリングに
   ガラスのかけらに
   血まみれのぼろ布の中に

   誰かが梁を運んで来なければならない
   壁を支えるために
   誰かが窓にガラスをはめ
   ドアを戸口に据えつけなければ

   それは写真うつりのいいものではないし
   何年もの歳月が必要だ
   カメラはすべてもう
   別の戦争に出払っている

   橋を作り直し
   駅を新たに建てなければ
   袖はまくりあげられて
   ずたずたになるだろう

   誰かがほうきを持ったまま
   いまだに昔のことを思い出す
   誰かがもぎ取らなかった首を振り
   うなずきながら聞いている
   しかし、すぐそばではもう
   退屈した人たちが
   そわそわし始めるだろう

   誰かがときにはさらに
   木の根元から
   錆ついた論拠を掘り出し
   ごみの山に運んでいくだろう

   それがどういうことだったのか
   知っている人たちは
   少ししか知らない人たちに
   場所を譲らなければならない そして
   少しよりもっと少ししか知らない人たちに
   最後はほとんど何も知らない人たちに

   原因と結果を
   覆って茂る草むらに
   誰かが横たわり
   穂を噛みながら
   雲に見とれなければならない



※ 詩集『終わりと始まり』1993年刊。
※ 翻訳・沼野充義・1997年・未知谷刊 より引用。


ヴィスワヴァ・シンボルスカはポーランドの詩人です。1996年「ノーベル文学賞」を授与されています。彼女の詩は「非政治的」な言葉によって、「政治」に対抗できうる言葉を獲得したといえるでしょう。また言葉の実験のための実験には決して働かず、平明な言葉によって思想の伝達をこころみた詩人といえるかもしれません。

さらにこの詩の背景にある「ポーランド」という国の歴史も考えなくてはならないでしょう。この国は「分割」により国名を失い、地図からも姿を消した時代がありました。「独立」をもとめて蜂起が繰り返され、独立すれば内紛が起こり、また、国境線が描き変えられたりと、さまざまな内外からの力に翻弄された歴史をもった国なのですね。

ヴィスワヴァ・シンボルスカのノーベル賞受賞記念講演の最後の言葉は「どうやら、これから先も詩人たちにはいつも、たくさん仕事があるようです。」とむすばれています。


言葉のたまり場  大野新

2016-06-16 12:39:07 | Poem



黒田三郎はのどの奥を癌にやられた
高見順はもうすこし下がって食道だった
言葉のたまり場を灼かれた 
火の断崖(きりぎし)だった

いま前の座席でおさなごが目をあける
うるんで半睡
水の精になっている
まだ言葉が回復していない
鬱血のぬるぬるした
夢ののどに
まだ言葉がめざめていない

梅を観ての帰り
一輪の声が言葉のたまり場でぬるんでいる


   詩集『続・家』 より。


電車に乗って、私は本を読まない。むろんスマホも持っていない。
私の視線を奪うものは、いつでも小さな子。そしてこの詩を思い出す。
一輪の花が開花を待つように、幼子ののどにはたくさんの言葉が眠っている。
聞き逃さないで。

平和の時には子が父の葬いをする。

2016-05-15 22:45:30 | Poem


本日の朝日新聞の「折々のことば」から、連想ゲームのように、色々なものが押し寄せてきました。

まずは、金子光晴の詩を。


   召集   金子光晴
         
 
   バネのこわれたベッドのうえに
   仮死の子が横たわる。
   むりにも子供を病人にしたて、
   敵のてだてのうらをかこうと。

   非国民の父親は、窓をしめきり、
   松葉で子をいぶしたり、
   裸にして、庭につき出し、
   十一月の長雨にたたかせたり、

   子は、衰えて眠る。夜もふけて、
   父は、子のそばで紅茶をいれる。
   人がみな、鬼狼になった時代を、
   遮断する、破れカーテンのうち、

   タムの穿く
   刺繍の靴。
   蒟醤の箱、プノンペンの面。
   それら、みな。

   子の父や、母が、子のために
   世界のすみずみを旅して
   あつめかえったおもちゃの影まぼろし、
   幾歳、心の休み所となったこのかくれ家。

   この部屋も、あすは木っ端みじんとなろう。
   だが、その刹那まで、
   一九四〇年日本の逆潮を尻目の、
   ここの空間だけが、正しいのだ!

   窓のすきまを忍び込む、
   風がことりという。
   戸外の夜陰をひっさらって
   「時」の韋駄天走りをかいまみて、

   子と父を引き裂くその「時」が
   刻々に近づく
   だが、その不安を
   しまいまで、口にすまい。

   子はねむる。わるい夢をみてか
   ときどき、うなされるが、
   父は、机にむかって、
   アリストファネスをよむ。



おそらく父親の光晴が読んだものは「アリストファネス」の「女の平和」ではないだろうか?
息子に召集令状がきたとき、息子を大雨の中に裸で一時間も立たせたり、部屋に閉じ込めて生松葉でいぶしたりして、気管支炎カタルの発作を起こさせ、二度にわたり、息子の招集をまぬがれさせた、金子光晴であった。

「木の実」と「ダガンダガン」

2015-12-04 22:17:14 | Poem
ご紹介します2篇の詩は、戦後南方の島々において、戦死者とそこに茂る木々との詩です。
死者は島の土に眠り、その土から育つ木のすさまじい生命力が書かれています。
この2篇ともが、女性詩人によって書かれています。



木の実   茨木のり子


高い梢に
青い大きな果実が ひとつ
現地の若者は するする登り
手を伸ばそうとして転り落ちた
木の実と見えたのは
苔むした一個の髑髏(どくろ)である

ミンダナオ島
二十六年の歳月
ジャングルのちっぽけな木の枝は
戦死した日本兵のどくろを
はずみで ちょいと引掛けて
それが眼窩(がんか)であったか 鼻孔であったかはしらず
若く逞しい一本の木に
ぐんぐん成長していったのだ

生前
この頭を
かけがえなく いとおしいものとして
掻抱いた女が きっと居たに違いない

小さな顳顬(こめかみ)のひよめきを
じっと視ていたのはどんな母
この髪に指からませて
やさしく引き寄せたのは どんな女(ひと)
もし それが わたしだったら・・・・・・

絶句し そのまま一年の歳月は流れた
ふたたび草稿をとり出して
褒めるべき終行 見出せず
さらに幾年かが 逝く

もし それが わたしだったら
に続く一行を 遂に立たせられないまま


(茨木のり子詩集 『自分の感受性くらい』 2005年 花神社より)


たしかに言葉はない。
優しい手に抱かれて、故郷の墓地に埋められることもなく、
誰の髑髏ともわからない深い寂しさ。
こんな悲しい埋葬はあってはならない。



ダガンダガンは何故蒔かれたか   高田敏子


ダガンダガンは何故蒔かれたか
ダガンダガンは何故茂ったか
ネムに似たその木は
私のめぐった南方の島々に茂り
熱帯樹の間を埋めて
丘にも平地にも バスの走る国道の両側にも
茂りに茂り 地をおおい
枝に垂れ下がる実を割ると
黒褐色の種がこぼれた

艶やかな黒褐色の種を手のひらに遊ばせながら 
木の名を尋ねる私に
「ダガンダガン」と 裸の土民は答え
彼もまた腕をのばして頭上の枝から種をとり
手のひらにこぼして見せた

──この種は戦争が終るとすぐ
  米軍の飛行機が空から蒔いた
  島全体に 蒔いていった

土民は種を手のひらから払い落すと
空いっぱいに両手をひろげて説明した

 ダガンダガンは何故蒔かれたか
 ダガンダガンは何故茂ったか

ダガンダガンの種は首飾りや花びん敷になって
土産物屋に売られている
一ドル五十セントの首飾りを二十本も求めたのは
この島サイパンで兄一家を失い 慰霊のために訪れたと語る中年の夫婦だった

テニヤン ヤップ ロタ
どの島々にもダガンダガンは茂りに茂り 地をおおい
島の旅から帰って二カ月ほど過ぎた日
硫黄島に戦友の遺骨収集に行った元工兵の記事が目にとまった
──島はギンネムのジャングルにおおわれ 
  昔の地形を思い出すのに  困難をきわめた。
  山刀でギンネムのジャングルを切り倒しながら進み
  ようようにしてかつての我々の壕を発見し 目的を果たすことができた。
  これは全く死者の霊に導かれたと思うほかはない──
このギンネムとはダガンダガンに違いない

 ダガンダガンは何故蒔かれたか
 ダガンダガンは何故茂ったか
南の島々に蒔かれた種が 急速に成長し 
茂り 隠したものの姿が 突然に私の目に浮かんだ

 ダガンダガンは何故蒔かれたか
首飾りを求めた夫婦はそれについて何んの疑問も持たなかった

ダガンダガンの首飾りは若い娘の胸にゆれて
どこかの町を歩いているだろう

 ダガンダガンは何故茂ったか


(高田敏子詩集『砂漠のロバ』1971年 サンリオ出版 より)


「ダカンダカン」はおそらくは「ギンネム」のことではないだろうか?
野生化した本種を指す場合「ギンネム」と呼ばれ、園芸樹木としては「ギンゴウカン=銀合歓」と呼ばれる。
強烈な繁殖力を持った樹木である。在来固有種の存続を脅かすほどに。

沖縄戦で焦土と化した島の土壌流出防止用として、
米軍がハワイ産種の種子を空中散布したという事実もある。

何故撒かれたか?焦土と多くの死者を覆い隠すためではないか?
ベトナムの枯葉剤散布を思い出すことは行き過ぎか?

「ギンネムの画像はこちらで見られます。

さくら 金子光晴

2015-08-24 21:59:37 | Poem





朝日新聞の「折々のことば」に短く引用されていた長編詩「さくら」の全文です。


さくら 金子光晴



おしろいくづれ、
紅のよごれの
うす花桜。

酔はされたんだよう。
これもみすぎ世すぎさ。

あそばれたままの、しどけなさ。
雨にうたれ、色も褪めて、
汗あぶら、よごれたままでよこたはる
雲よりもおほきな身のつかれよ。

女はなんたる弱いものだらう。

家柄とあひ性でむすばれる
よい花嫁。
しきたりのまへの伏し目がち。
鉄気くさい貞操、女 今川。
水仕業、ぬひ針、世帯やつれて、
あるひは親たちのために身うりして、
あるひは愛するがゆへにしりぞいて、
あきらめに生きる心根のいぢらしさ。

それこそは、花の花。
花の下の小ぐらさ。哀しい仄明かり。

近々と花はおもてをよせながら
かたらひもえで
はやちりかかる風情。

染井、よし野。
遠山桜。
糸ざくら。

ことしの春を送る花。
この国のやさしい女たちの
いのちのかぎり、悔もなく
天にも地にも咲映えて。

八重一重
手鞠、緋ざくら、
遅桜。




戦争がはじまつてから男たちは、放蕩ものが生まれかはったやうに戻ってきた。
敷島のやまとごごろへ。

あの弱々しい女たちは、軍神の母、銃後の妻。

日本は桜のまつ盛り。

涙をかざる陽の光、

ちりばめる螺鈿、落花の卍、こずえを嵐のわたるときは、ねりあるく白象かともながめられ、

花にうく天守閣。ーその一枚のえはがきにも
胸をどらせて、人はいふ。
さくらは、みくにのひとごごろと。

にほやかなさくらしぐれに肌うづもれて
世のしれものの私は、陶然として、
ただおもふ。

さくらのなかをおよぎながら
おもふことは淫らなことばかり。
雪とちりまふ鼻紙よ
ぬけ毛、落ち櫛、
あぶらのういた化粧のにごり水。
ふまれたさくら。
泥になつたさくら。

さくらよ。
だまされるな。
あすのたくはへなしといふ
さくらよ。忘れても、
世の俗説にのせられて
烈女節婦となるなかれ。

ちり際よしとおだてられて、
女のほこり、よろこびを、
かなぐりすてることなかれ。
きたないもんぺをはくなかれ。


      昭和19年5月5日 


「寂しさの歌・金子光晴」は、その翌年の昭和20年5月5日に書かれています。
何故「端午の節句」に書かれているのか?
この作品はさらに長編となっています。この2編の詩は共に、詩集「落下傘・1948年刊」に収録されたものです。

「召集・金子光晴」という作品では、ご子息に召集令状が届き、それに対する金子光晴流の
「拒否」が書かれています。
そして、あきらかにそれぞれが「非戦」を意図した作品となっているのではないでしょうか? 
ここでは3篇のみですが、金子光晴の詩には、さらにありますでしょう。     

愛しい星(1991年1月16日に。)  高田昭子

2015-07-28 12:58:49 | Poem



   愛しい星    

   午後の暖かい日だまりで
   わたしの子供がまどろんでいるとき
   君の国では明るい月が高くのぼり
   あなたの国では朝餉を囲んでいるだろう
   ――時は途方に暮れている

   いま わたしの国をあたためている太陽は
   君の国からめぐってきた
   そしてやがてあなたの国へ朝を届けるだろう
   ――時がひそかに立ち上がり
     武器を手にする気配がする

   太陽が一日をかけてめぐってゆく
   この小さな星のわたしたちの時間が凍えてゆく

   愛よ 
   あまりにもひ弱な愛よ
   さあ立って! はやく!

   この星には
   戦争と正義を一つの箱に入れて
   一羽の白い鳩に変えてみせる
   魔術師たちがいる

   わたしたちが
   その魔法にかけられる前に
   愛よ 


      (1991年1月16日に。)



    * 高田昭子詩集「河辺の家・1998年・思潮社刊」より。

言葉のたまり場  大野新

2015-07-14 14:24:37 | Poem

黒田三郎はのどの奥を癌にやられた
高見順はもうすこし下がって食道だった
言葉のたまり場を灼かれた 
火の断崖(きりぎし)だった

いま前の座席でおさなごが目をあける
うるんで半睡
水の精になっている
まだ言葉が回復していない
鬱血のぬるぬるした
夢ののどに
まだ言葉がめざめていない

梅を観ての帰り
一輪の声が言葉のたまり場でぬるんでいる


   詩集『続・家』 より。


やわらかな湿気を帯びた小さな生命体。水の精。
言葉を語り出す前のおさなごの喉元には、
これから生まれる言葉がうっとりと眠っている。
それから人間はいのちのきりぎしまで、たくさんの言葉を生きて、
またおさなごのようにことばのない世界へ帰るのですね。



「一輪の声」という表現にうっとりしてしまいます。
言葉はこのように美しく開花するものだと改めて考えさせられます。

季節が合わないようですが、忘れないうちに書いておきます。



1928年1月1日、朝鮮全羅北道群山府(現、韓国群山市)生まれ。
2010年4月4日、逝去。