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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 89 物語:ギャツァ、命を捧げる

2015-01-21 23:55:33 | ケサル
物語:ギャツァ、命を捧げる その4



 シンバメルツは落ち着き払ってニヤリと笑うと、言った。

 「あなたが死ななければ、リン国の民は一人も死なないですむのです。あなたが死ねば、リン国の千万の民は我が大軍の馬の蹄に踏みつけにされるでしょう。更に言えば、一国の王として、いやそれよりも一人の男として、ケサルが現われもせず死にもせず、リン国の勇士たちも死ぬことなしに、か弱い女性であるあなたが死んで何になるというのでしょう」

 ジュクモの目から溢れ出たのは涙ではなく二粒の真っ赤な血だった。
 ジュクモは言った。
 「お黙りなさい!分かりました。我が民を殺さず、王宮に攻め入らないと保証するなら、あなたたちに従いましょう」

 そう言うとさっと涙を拭い、身なりを整え馬に乗り、シンバメルツに付き添われてホル国のテントへと向かった。

 王宮を去る時ジュクモが振り返ったかどうか、かなり長い間それが人々の議論の的となった。
 首席大臣はジュクモは何回か振り返ったと言った。だが、より多くの民が王妃は振り返らなかったと言った。

 辺境から援軍が駆けつけた時、王宮はすでに空になっていた。
 王宮を守る戦いで、リン国の三十英雄の多くが勇敢に力を尽くし命を捧げた。

 人々は悲しみに耐えきれず、深いため息をついては言った。
 「煌めく星々は墜ち、リンの空は曇ったままだ」

 ギャツァは悲憤の余り、すぐさま兵を率いて追撃した。
 追撃を始めた時は数千の兵が従っていたが、歩兵たちはあっという間に後ろに置き去りにされた。

 ギャツァは焦りと憤りのため、何度も鞭を揮って駿馬を急かせたので、騎兵たちもまたすぐに置き去りにされた。
 草原に起伏するいくつもの丘一面に散らばっていたホルの大軍に追いついた時には、彼一人と馬だけが残っていた。

 ギャツァは少しもためらうことなく、大きな刀を振りかざしてホルの隊列に突撃して行った。
 左を倒しては右を突き、ギャツァの刀の元に無数のホルの兵士があの世へと送られた。

 だが、ホルの兵士はあまりに多勢だった。
 もし、兵たちが自ら首を差し出し切り落されに来たとしても、七七四十九日かかっただろう。

 終にギャツァは山の頂上に馬を停め、大声で叫んだ。
 「クルカル王よ、出て来てこの刀を受けよ」

 時すでに黄昏、月はまだ昇っていなかったが、その輝きは地平線の下から地上に放たれていた。
 光はギャツァの輪郭を気高く凛々しく浮かび上がらせていた。

 この時ホル三王の八人の王子が呼びかけに応えて応戦した。
 月が昇りはじめてから中天に架かるまでに、八人の王子の内七人がギャツァの刀、槍、矢によって命を失った。

 一人残った最年少の王子は月の光を浴び、顔色は月の光よりもさらに青白かった。
 ギャツァは早くからこの王子が気になっていた。黄泉へと落ちて行った他の王子たちのように、命を懸けた激しい戦いをする者には見えなかった。
のである。

 そこで大声で言った。
 「なんと胆の小さいヤツだ!刀を取って戦え」

 思いがけず、王子は言葉を返した。
 「私たち兄と弟が殺し合うのが耐え難いのです」

 ギャツァはハハハと笑った。
 「オレとお前が兄弟だと?オレは素手の者とは戦わない。早く刀を取れ」

 王子は悲しそうに言った。
 「あなたの漢人の母上は妹がいることを話さなかったのですか。私はホル王の漢妃の子です。母は言っていました。自分には何年も別かれたままの姉がいる、姉の息子はリン国の大英雄ギャツァ・シエガだと」

 宝剣を高く掲げていたギャツァの手が力なく降ろされた。
 「では、オレには弟がいたのか」

 「私がその弟です」

 ギャツァはホルの王子の目に涙が光っているのを見た。

 「だが、オレの母はそのようなことは一言も言わなかった」

 「では、戻ってあなたの母上に尋ねてください」

 「戻って尋ねるだと!お前に命拾いさせ、お前の父親にケサル王の愛する妃を連れ去らせる気だな」
 ギャツァは声を張り上げた。

 「お前の父親に戦いを三日休ませろ。そして、オレと一緒に王城に戻ってオレの母に会うのだ。
  どうだ!」










阿来『ケサル王』 88 物語:ギャツァ、命を捧げる

2015-01-18 12:29:29 | ケサル
物語:ギャツァ、命を捧げる  その3




 リン国側ではホル軍が撤退したのを見て、辺境に向かって駆けつけた援軍が、命に従って各自の陣営へ戻って行った。

 ジュクモは計略が成功したと考え、これ以後は王宮に籠ってほとんど外に出ず、大王が何時帰って来ても報告出来るようにしていた。

 ギャツァは再び首席大臣に、一度南へ戻り、兵たちを率いて王城を守らせて欲しいと願ったが、ロンツァはやはり許さなかった。
 彼は疑いの目でギャツァを見た。
 「国王が不在の時に大勢の兵を王城に連れて来たら、お前が国王になりたがっていると思われてしまうのだぞ」

 ギャツァは理由もなく疑われ、憂いを胸に自分の守る南方の辺境へと戻って行った。

 ホルの大軍が退いたので、トトンは心中面白くなかった。
 彼はリンとホルが激しい戦いをするのを期待していた。

 ケサルが不在なら、リン国の多くの英雄たちもホルの三王とシンバメルツの相手ではない。
 彼はこの機に敵の力を借りて、ケサルの力を戴く者たちを取り除こうと目論んでいた。
 そうなれば自分がリンの王位を得る機会がやって来るかもしれない。

 彼は侍女が王妃を装っていることをクルカル王に知らせる決心をした。
 だが、ホル国の中に入って行く度胸はなかった。

 そこで術を使ってハヤブサに変身し、辺境付近を飛び回った。
 秘密を覗くのが好きなホル国のカラスに出会えるだろうと考えたのである。

 ジュクモを発見したあのカラスは王から熱い報酬を受け、鳥の王に封じられ、鳩、オウム、孔雀はみな処刑された。
 そこでカラスたちは勇気百倍、かしましく各国と接する辺りへ飛んで行き、隣国の秘密を探ってはクルカルの元へ褒美をもらいに行っていた。

 初め、カラスたちは恐ろしいハヤブサが現われたのを目にし、我さきに逃げて行った。
 だが、このハヤブサは予想に反し、カラスたちに向かって心地よい歌を歌い、歓心を買うかのように尾と翼をゆらゆらさせた。

 カラスたちが恐る恐る集まって来るのを待って、ハヤブサは言った。
 「あなたたちの百鳥の王に面会したいのです」

 百鳥の王はハヤブサがリン国から飛んできたと聞くと、王妃ジュクモのことを教えてくれたのが同類の鳥だったのを思い出し、すぐに会いに向かったが、あの頃のようには素早く飛べなくなっていた。
 百鳥の王として、首に宝石をぶら下げ、爪に金の護指を嵌めたカラスは、あまりにも重かったからである。

 終に、多くのカラスに守られながら百鳥の王が国境に現れた。
 「おお!友よ!私に会いたいというのはあなただったのか」

 「ワシだ…だが…」

 「分かっています。配下の者が多くて怖いのですね。お前たち皆下がれ。ワシの目に入らなくなるまで、もっと下がるのだ。
  さあ、どうぞ話して下され」

 「クルカル王の娶ったのはジュクモではない。ジュクモによく似た侍女が王を騙したのだ」

 「そんな話をしても、何の得にもなりませんよ」

 「王に早く兵を挙げて欲しい」

 ハヤブサはケサルが遠い魔国にいて、いまだに戻らないことをカラスの王に話した。

 クルカルは知らせを聞くと、このハヤブサはきっとリン国の狡賢い奴が変化したものだろうと、半信半疑になり、もう一度カラスを探りにやらせた。

 ハヤブサはホルの大軍が国境に迫って来るのを今か今かと待ち望みながら、辺りを飛んでいた。
 カラスは言った。

 「我が国の大王はこうおっしゃった。その者の身分を知らないのでは、知らせが本物かどうかを決められない。王はまたこうおっしゃった。褒美が欲しいのでなければ、なぜ謀反する必要があるのか、と」

 トトンは歯を喰いしばり、ここで怯んではならないと、口を開いた。
 「もしケサルが競馬に勝たなければ、ダロン部の長官がリンの王となったのだ。ケサルに王位を奪われた人物とはこのトトン様だ。クルカル王に伝えてくれ。ワシをリンの国王にしてくれたら、毎年美女を献上する、と」

 知らせがホル国の宮中に伝わると、クルカル王が怒りを爆発させるより先に、ジュクモを装った侍女は宮殿で自ら首を刎ねた。

 怒り狂ったクルカル王はすぐさま大軍を洪水のように送り込み、リン国との境界を超えた。
 数日も経たずにリン国の王宮の、光り輝く四角い金の頂が遥かに望める所まで進んでいた。

 首席大臣は四方に使いを出して救いを求めたが、時すでに遅く、ホルの大軍は王宮を水も漏らさぬほどに取り囲んだ。

 クルカルはすぐさま城を攻めようとしたが、シンバメルツに止められた。
 「大王様。もしジュクモを妃にするなら、リン国は王様の岳父に当たります。軽率に兵を出してはいけません。前回は大王がお気に召された美女が輝くばかりに美しく、仔細に確かめることが出来なかったのです。今日もまた、私を行かせてください」

 クルカル王は聞くなり、はははと大笑いした。
 「お前の言うとおりだ、もしこの王宮を壊してしまったら、以後、親族と付き合えなくなるな。行くがよい!」

 シンバメルツは宮殿に入りジュクモに会うと言った。
 「前回、私はあなたの計略を見抜いていましたが、何も申しませんでした。今回はもう逃れられません。我が国の大王の言葉に従って下さい」

 「もしまた同じことを言ったら、私はすぐにも自ら首を刎ねます」







阿来『ケサル王』 87 物語:ギャツァ、命を捧げる

2015-01-12 16:15:37 | ケサル
物語:ギャツァ、命を捧げるその2




 クルカル王はシンバメルツにジュクモを迎えに行かせた。
 ジュクモは言った。
 「三日間お待ち下さい」

 「どうして三日なのですか」

 「自分が是非もわきまえず、王妃でありながら村の娘のように嫉妬の心を起こしたことを、三日の間悔いたいのです。」

 三日後、シンバメルツは出発を促した。
 ジュクモは言った。
 「私は神の子の愛を失ったことに、あと三日間泣くことにします」

 また三日が過ぎ、シンバメルツはまた出発を促した。
 「大王は気の短い方です。ジュクモ様がこれ以上出発を遅らされたら、必ず兵を率いて攻撃してくるでしょう」

 「クルカル様には少し待って頂きましょう。私には三日の時間が必要なのです」

 自分はこのような状況で賢く堂々とした王妃であることを学んだ。
 だが、ケサルはまだ、海のような知恵と総てを見抜く洞察力を持った万民の王にはなっていない。
 ジュクモはそのことを三日の間悲しみ惜しんだ。

 この三日の間、彼女の心は痛みで張り裂けそうだった。
 彼女はルビーを目の前に置いた。心の痛みが最早耐えきれなくなった時、その固い宝石にひびが入り、粉々に砕けた。

 ジュクモは侍女に言った。
 「見たでしょう!天も私の心の痛みを知っている。それなのに、大王様は何も知らない。王様が帰って来たら伝えておくれ、私の体はここを去るけれど、心はリンの地に散らばっていると」

 一人の侍女がジュクモの前に進み出た。
 「王妃様、覚えていらっしゃいますか。私がどうして侍女になったのか」

 この侍女は元は羊飼いの娘だった。
 顔かたちも体つきもジュクモとよく似ていることが知られ、宮中に献上され、侍女になったのだった。

 ジュクモは言った。
 「それは、お前が私によく似ていたからでしょう」

 「私に王妃様ほどの威厳はありません。ただ、クルカル王はまだ王妃様をお目にしたことがありません。恐れ多いことですが私が王妃様に成り済まし、クルカル王の元に参ります」

 ジュクモは涙を流した。
 「辛いけれど、そうしましょう!王様が心を入れ替えたら、必ずお前を連れ戻しに行かせましょう」

 三回目の三日目、ジュクモは宮中に身を隠した。
 侍女は王妃の衣装に身なりを整え、シンバメルツが迎えに来るのを待って、しずしずと宮廷を出た。

 侍女は馬の上でただ泣くばかり。シンバメルツは不審に思った。

 この女は姿形はジュクモのようだが、そのふるまいに王妃の高貴さと鷹揚さが感じられない。
 この場に及んで、ジュクモが女子供のようにめそめそと泣いてばかりいるはずがないではないか。

 だが、シンバメルツはクルカル王が女一人のために挙兵することにもとより不満を抱いていたので、必要もなく騒ぎたて、真相を暴くまでもないとそのままにした。

 クルカル王はリンの王妃が自ら身を捧げに訪れ、伝説の神の力を持つ一世の英雄ケサルはいまだ現れないと知ると、すぐに盛大な宴席を設けて、祝った後、兵を休ませた。

 潮が引くように大軍は去って行き、クルカル王は日々宮中で、新しい妃と酒を飲み楽しみに耽った。

 だがクルカル王も不満を感じる時があった。
 新しい王妃は亡くなった漢の妃と同じように従順だが、ただ従順なだけで、漢妃のように燃えるような情熱を表さなかったからである。

 だが、クルカル王がわずかな不満を示すだけで、新しい妃はぽろぽろと涙を流し、ジュクモが粉々に砕いた宝石を思い、言うのだった

 「私の心はすでに一人の男性に砕かれてしまったのです。大王様、私の心が癒えるまで、もう少し待っていただけますか」

 クルカル王はこの言葉に心を動かされた。
 稀に見る女性の深い情愛に、偽のジュクモを珍しい宝物として、より一層愛おしんだ。






阿来『ケサル王』 86 物語:ギャツァ、命を捧げる

2015-01-03 15:46:10 | ケサル
物語:ギャツア、命を捧げる その1




 さて、北の境界を守っていたのは大将タンマだった。
 彼は自らの兵を率いて丘に登ると、ホルの兵馬は強壮であり、陣形は厳密で隙がないのを見て取った。

 黄帳王は中央の軍で守りを固め、左には鷹の翼のような黒帳王の軍、右には鷹の翼のように強靭な白帳王クルカルの軍が大きく陣取っている。
 この三つの陣は後方で緊密に呼応し、三陣の前方には、シンバメルツが自ら率いる矢じりの様な先鋒部隊が陣取り、その姿はより威厳に満ちていた。

 この時リンは妖気が一掃され、天下泰平を謳歌していた。

 タンマが境界を巡回した時、周りには数十騎の兵馬しかいなかった。
 彼が受けた命とは偵察のみだったので、軽率に行動を起こすことはできなかった。

 だが、タンマは考えた。
 自分はケサルがまだ王位に着く前からすでに忠誠を誓っていたのだ。国難の時、今働きをしなくてはもはや機会はないかもしれない。

 そこで、数十騎の兵馬を報告に奔らせ、自分は一人でホル国の軍と戦う決心をした。

 突然乗っている馬が話し始めた。
 「ホルの軍は牛の毛のようにたくさんいます。将軍とこの馬だけでは、イナゴのように密集した矢に阻まれて陣の前まで行けないでしょう。こうしたら、うまくいくかもしれません」

 戦馬の言うことを聞きもっともだと考えたタンマは馬から降り、足を引きずる振りをして一人ホルの先鋒部隊の兵営をぐるぐると回った。
 馬も足の悪い振りをして脚を曲げたままそろそろと後ろをついて行った。

 こうしてホルの陣の前まで来ると、タンマは身を翻して馬に跨り、一路中軍まで突進し、大きなテントをいくつかひっくり返した。
 夕暮れ時の光に乗じて一路敵を倒しながらついには先鋒の兵営に突入し、ホルの混乱に乗じて、騎兵が谷間に放牧していた戦馬をリンの側に追い込んだ。

 シンバメルツはもともと兵を出したくはなかったので、この機に乗じてクルカル王に進言した。
 「リン国では足の悪い人や馬でさえあのように並外れた働きをするのです。もしケサルが大軍を率いて襲ってきたら、より厳しい戦いになるでしょう」

 すでに心を決めているクルカル王は言った。
 「陣の前で兵の心を揺るがすとは、何たることだ。これまでの戦功を思わなければむち打ちの刑にするところだ」

 シンバメルツは真っ直ぐな気性の猛者であり、軽視されては我慢がならず、その場で怒りに火が付き、配下の2万の先鋒部隊を率いてリン国へと襲撃に向かった。
 途中でタンマを救援に来たギャツァの部隊と遭遇し、両軍はそれぞれが一丸となって天が暗くなるまで殺し合いは続き、血は河となって流れた。

 ホル軍は支えきれず、境界まで下がった。
 リン軍も大きな痛手を受け、追撃する力はなかった。
 もし相手がすぐさま更に大規模な攻撃を仕掛けて来たら抵抗する力はなかっただろう。

 幸いにも相手はリンの地形を知らず、軽率には攻めて来なかった。
 双方は境界線上で互いに相手の虚実を探り、談判する様を装った。
 これは首席大臣ロンツァの得意とする戦術だった。

 彼は派手な軍装に身を包み、鷹揚に構えていた。
 こうやって駆け引きを繰り返しているうちに、一年の月日が経った。
 ロンツァがかつてすべてのリンを統括していた時の力量を発揮しているのを見て誰もが少し安心した。

 だがトトンはこの様子に心中焦っていた。
 彼は、クルカル王が一日も早く大軍を指揮して来襲し、競馬の賞品だったジュクモを奪って行けば、自分の心の中に潜んでいる恨みを解消出来るのにと思っていた。

 だがクルカル王は首席大臣の計略にすっかり惑わされていた。

 この日ギャツァはまたクルカル王に信書を送り、厳冬が到来する前に、お互いに兵を引いて休息し、来年もう一度戦うか談判するか決めたらどうかと提案した。

 クルカル王は何度かためらったが、ここで休戦することには甘んじられず、終には、どんなことがあっても兵馬を集め、リンに向かって大規模な攻撃を仕掛けることに決めた。
 もし成功しなければその時に協議して兵を引いても遅くはない。

 思いがけず、攻撃を始めてから三十里の間、抵抗する兵馬はなく、更に三十里進んで、やっとまともな抵抗を受けた。
 数日攻撃を続けると、リンの兵馬は徐々に支える力を失い、大敗は目前に迫った。

 その時になってやっと、首席大臣はギャツが南方で訓練し戦術を身に着けた兵馬を移動させることを許したが、すでに遅かった。

 この有様に、ジュクモはより一層自分を責めた。
 自分がこの戦いの直接の原因であり、ケサルが遠く魔国にいったまま数年も戻って来ないのも、総て自分のせいでで起こったことだと、ジュクモは考えていた。

 そうであれば、鈴を解くには鈴を付けた者が行くべきで、リン国の平安を保つには、自分が苦しみを引き受けるべきなのだ。
 国王は信書を手にしても帰ろうとされない。それは自分に愛想をつかしているのだろう。
 
 もはやこれまで、クルカル王に従うしかない。

 考えが変わるのを恐れて、ジュクモはすぐにクルカル王に信書を届け、戦いを止めるよう願い、自分は王に従うと伝えた。







阿来『ケサル王』 85 物語:国王、国に帰らず

2014-12-30 16:57:37 | ケサル
物語:国王、国に帰らず その2





 トトンはギャツァの南方での動向を耳にすると、トビに乗って飛んで行った。
 果たして兵馬が整然と並びさながら田のようだった。

 「甥よ、リンは三年もの間主がいない。首席大臣は何もしようとしない。やはりお前が表に立って王に代わって政をすべきだ」

 ギャツはすぐさま遮り、
 「叔父上、もし私を苦しめたくないなら、誰にもその話をしないでください」

 「お前が兵器を作り兵馬を訓練していることについては、とっくにあれこれと取り沙汰されているぞ」

 「私がしていることは、リンが本当に強くなるのを望む一心からなのです」

 こう言った憶測からなるうわさはギャツァの耳にも入っていた。

 「国王が戻られたら、私は軍を動かすことのできる割符を返し、母について漢の地へ行き、母の望郷の想いを慰めるつもりです」

 そう言うとすぐに信書をしたため、同じ想いを首席大臣にも伝えることにした。
 使者に信書を届けさせたが、心の中はやはり不安を拭えず二人の伴の者を連れて、自ら会いに行った。

 首席大臣は言った。
 「これはむろん良いことだ。だが王が戻られるのを待つべきだろう」

 「もしその時、外敵が侵入して来たら」

 「賢い甥よ、我々の王は天の命を受け、強い神の力を持っておられる。そのように軽はずみに、自ら滅ぼされに来るものなどいるだろうか。また、王は深い知恵を持ち、全てを知っておられる。辺境に火の手が上がるようなことを許すはずはない」

 首席大臣は話題を変えた。
 「お前は鉄を溶かして砦の壁を作っていると聞いたが、それは本当なのか」

 「辺境の砦は強固でなくてはなりません」

 「臣下の居場所が王宮を超えてよいのか。つきつめて行けば、それは本分をわきまえない罪となる」

 「叔父上、あなたはこれまでの老総督のようではありません」

 「賢い甥よ、誰もが国となるのを望んだのだ。これが国なのだ、ワシも思うようにならず辛いのだ。お前は暫く辺境に帰らず王宮で務めを果たし、ワシを安心させてくれ」

 ギャツァはもはや辺境に戻ることはなく、心の中は憂鬱で塞がれていた。

 ジュクモはその様子を見て却って喜んだ。
 クルカル王から妻に望まれていることは口にしようもなく、ただこう言った。

 「近頃、夜ごとに悪い夢を見るのです。リンに何か事が起こるのではと心配です。あなたが王宮を守っていてくれれば、心安らかでいられます」

 この時、クルカル王はリンの国境に大軍を配備し、使者を送ってジュクモへの求婚を顕かにした。
 ジュクモはついにこの時が訪れたかと、涙をこらえることが出来なかった。

 ギャツァは、自ら魔国へ行って国王の帰国を促すことを願い出たが、誰も同意しなかった。
 一つには、ギャツァには神の力がなく、遥かな地へ行くのにどれほどの時を費やすか分からなかったため、二つには、この時国には強者がおらず、戦いに臨んで彼のような優れた大将を欠くことが出来なかったためである。

 協議の結果、リン国の魂の鳥、白い鶴を北への遣いとし、ケサルに速やかに戻り国を救って欲しいと伝えることにした。

 白鶴はケサルの元へと飛んで行ったが、ケサルは日夜二人の妃と酒を楽しみ、心も思考も朦朧としていた。
 「この鳥を前から知っていたような気がするのだが」

 鶴はケサルがこのように腑抜けている様を見て言った。

 「私はリン国の魂の鳥。リン国の王であれば、当然ご存じのはず。リンでは長い間君主が不在であったため、ホル国が大軍で押し寄せ、王妃ジュクモを無理やり妻にするよう迫っています。リンの民は大王がすぐさま戻られることを望んでいるのです」

 この知らせにケサルは驚き、全身から冷汗が噴き出した。
 すぐに人を呼び準備をさせ、あすの朝早くここを発って国へ帰ることにした。

 だが、次の日、朝日が昇り二人の妃の壮行の酒を飲むと、また頭が朦朧として、総てきれいさっぱり忘れてしまった。

 彼はメイサに尋ねた。このように大勢の者が整列しているのは何のためか、と。
 メイサは考えた。ジュクモは私に嫉妬したために、自分が恐ろしい目に遭うことになったのだわ、と。そこで答えた。

 「今、勇壮なお芝居の稽古をしているのです。広々とした場所で芝居が演じられるのを見てみたいと王様がおっしゃったからです」

 国王にも微かにそのような記憶があった。
 ここで猶予したために、また丸々一年が経った。

 その後、危急の情況にあるリンはカササギを遣いとして国王へ知らせを伝えようとした。
 カササギは城門に停まり苛立ったようにギャアギャアと鳴いた。

 飛び立つ前、ジュクモはカササギに言った。国王は強い神の力を持っているのでお前の言葉を理解するでしょう、と。
 だが、国王は酒色に溺れ宴の真っ最中、二人の妃に尋ねた。
 「あの鳥は何を焦っているのだ。何か用事があるようだが」

 メイサはこの鳥はジュクモが寄こしたのだと知って、言った。
 「王様がお楽しみなのに、あの鳥はなんと喧しいのでしょう。王様は久しく弓の稽古をされていらっしゃいません。丁度良い機会ですから、いっそ射落としてはいかがでしょう」

 ケサルは知らせを携えて来たカササギを一矢の元に城門の下へと射落した。

 こうしてまた一年が経った。
 
 ジュクモは、首席大臣に国王に帰国を促すよう願った。
 だがロンツァは言った。
 「二度遣いを送りました。国王は知らせを御存知のはず。もし国王がお帰りにならないのなら、帰らない理由があるのでしょう」

 今の首席大臣は当時の英明で洞察力ある老総督ではなくなった、と言う者がいた。
 首席大臣は言った。

 「ワシに不満を持つのは構わない、だが国王の英明を疑ってはならない」

 こう言われては、人々は口をつぐむしかなかった。


 ジュクモは仕方なく狐に手紙を届けてもらうことにした。
 狐は口が利けないので彼女は指輪をはずした。国王が目にすればきっと自分を思いだしてくれるだろうと信じていた。

 狐は二人の妃に遭わないよう進んで行き、その指輪をケサルの前で吐き出した。
 それを見たケサルは何かを感じたかのように、城の頂上に登って天を仰いだ。
 もし大切な使命があるのなら、天の母が知らせに来るだろうと考えたのである。

 だが、天は雲が風に流されて、海のように平和な青を湛えるばかりだった。

 ケサルは水晶の宝鏡を持っていることを思い出し、取り出して覗くと、あっと驚いた
 。鏡の中に見えたのは、リンとの境界にホルの兵馬が一糸乱れず整列し、襲撃の開始を今か今かと待っている様子だった。
 続けて、リンの宮中でジュクモが憔悴し切っているのが見えた。

 すぐにケサルは命令を下し、月の昇る前に軍を挙げて出発することにした。
 だが、馬に乗って壮行の酒を二杯飲むと、再び記憶をなくして馬から下りてしまった。

 もともと魔国の酒はすべて物忘れの酒だった。

 魔国には元は民はいなかったのだが、魔王ロザンが周囲から人間をさらって来て、魔国の各地に住まわせたのである。
 彼らは酒を飲まされ、故郷のことをすべて忘れた。












阿来『ケサル王』 84 物語:国王、国に帰らず

2014-12-26 02:31:25 | ケサル
物語:国王、国に帰らず その1



 リンの東北、砂漠と草原と塩の湖の間、そこは広大な領地を持つホル国である。
 国王ジルハトは自ら天帝と称し、国を三つに分けて三人の息子をそれぞれの王としていた。

 三人の息子が住むテントの色が異なるため、それぞれ黒帳王、白帳王、黄帳王といった。
 その中で白帳王―クルカルは武芸に最も優れ、その臣下のシンバメルツは猛々しく朴訥で、向かう所敵なしだった。

 ここで述べるのはまさに、ギャツァが国王の帰還を待ちきれず、民を移して金沙江のほとりで鉄を練成し兵を配備した年のことである。

 不吉なことに、四羽の鳥がホル国からリンに向かって飛び立った。

 ホルのクルカル王が寵愛していた漢妃が世を去り、クルカル王は、異国から来た女性だけが漢妃の死による心の傷を補うことが出来る、と考えていた。
 そこでオウム、鳩、孔雀、カラスに命じて異族の美女を探しに行かせたのである。

 四羽の鳥はあらゆる地を飛んだが、いまだにクルカル王を満足させる女性を見つけ出せずにいた。
 この時、四羽はリンとホルの境にいた。
 オウムは言った。

 「我々四羽は、クルカル王の放った矢と同じで、飛び出すのは簡単だが帰るのは難しいぞ。王様の望む美女を探すのはなんと難しいんだ。それに、もし探し出せても、王様は兵を連れてその女性を奪いに行くだろう。そうなったら、どれほどの人が苦しむことか。このまま逃げたほうがいいんじゃないか」

 「じゃあ、どこへ逃げればいい」

 「鳩は漢の妃様と一緒に来たのだから漢の地へ戻ればいい。孔雀はインドへ戻り、オレはモンの辺りへ戻る。カラスは一番簡単だ。世界のどこにでもカラスはいるんだから、好きな所へいけばいい」

 三羽の鳥は翼を羽ばたかせながら雲の中へ飛んで行った。
 カラスは木の枝に止まって驚きながらも喜びを隠せなかった。

 この間、カラスはずっと考えていた。
 美女を見つけたとしたらそれは誰の手柄になるのだろうか。

 自分は醜いので、褒美を与えるにも美しいものを好むクルカル王は自分には目もくれないだろう。
 今ならば、美女を探し出しても手柄を奪われることはない。
 こう考えるとカラスは歯を食いしばり飢えを偲んでリンの上空を飛び回った。

 七七四十九日飛んでもまだクルカル王の目に適う美女は現われなかった。
 リンに美女がいないからではなく、リンの平安を守るケサル大王が久しく帰らないために、クルカル王が様々な地で美女を探しているという知らせが伝わると、美しい女性たちはほとんど姿を現さなくなったのである。

 カラスが四方を飛び回ると、リンのすべての地はどこも不安に陥った。
 ただ妃ジュクモだけは、空の澄み渡った時に高台に登ってはるか彼方を見つめていた。

 カラスは何度か近くを通ったが、兵たちの矢が怖くて、王宮には近づかなかった。
 そのためジュクモを見つけることが出来なかったのである。

 ケサルが王になった後、トトンの心は常に塞いでいた。
 この日目覚めた時、やはり気持ちが晴れなかった。
 そこで、通力を使ってハヤブサに変身して空へと飛び上がった。

 ハヤブサは頭が小さく、人間のようにあれこれと思慮することが出来なかった。
 そんな時にカラスが現われた。

 ハヤブサは考える間もなく襲い掛かり見る間にその翼を引き裂くと、カラスは大声で叫んだ。
 「お許しください。私は白帳王クルカル様の手下です」

 「クルカル王の手下?美女を探しに来たのか」

 「まさにその通り」

 ハヤブサは何かを思いついたが、脳が小さくてうまく頭が働かず、そこで山の頂を回って木の後ろに降り、人の姿に戻って頭を働かせてからまた飛び上がり、カラスが慌てて逃げて行くのを見て言った。
 「怖がらなくてよい。リンの最も美しい娘は王宮の上にいるぞ」

 果たして、カラスは王宮の頂上にジュクモを見つけた。
 その美しさは一々細かく述べるまでもなく、軽くひそめた美しい眉、愁いをおびた表情だけでも、亡くなった漢の妃と見まごうばかりだった。

 カラスは一目見るなり、空中からまっすぐにとびかかり、ジュクモの頭のトルコ石の髪留めをくわえて飛び去った。
 カラスは空の上で得意そうに翼を揺らした。
 「暫くお待ちください。ホル国の優れて勇ましい白帳王クルカル様がお迎えに来られるでしょう」

 カラスは興奮を抑えきれず、飢えも渇きも何のその、クルカル王の元へ飛んで帰った。

 カラスはまず三羽の鳥がホル国を裏切った罪をひとしきりあげつらった。
 クルカル王は苛立って言った。
 「その三羽のことは後にしろ。ワシの心に適う美しい娘が見つかったかどうかを聞いているのだ」

 カラスは意気揚々と王の前まで飛んで来て、ジュクモのトルコ石の髪留めを差し出し、言った。
 「ケサルは魔国征服に勝利しましたが、新しい王妃の虜になり魔国の愛の巣で、楽しみに耽り帰ろうとしません。このジュクモは大きな宮殿で独り身を守っています」

 「ではすぐに兵を発して迎えに行くぞ」

 命を受けて兵を出した大将シンバメルツは進言した。
 「大王様、リンは小国ですがジュクモは国王の妃という高貴な方です。我らが勝手に嫁として娶ったら、両国の間に必ず戦いが起こり、民は塗炭の苦しみを味わうでしょう」

 クルカル王は大臣の勧告など聞くはずはなく、シンバに二度と不平を漏らさせないために、ジェツンイシ姫に占わせた。

 ジェツンイシは実はホル親王の娘で、顔かたちはホルの女性の中でも一番の美しさだった。
 漢の妃が亡くなった後、宮廷内で協議して、クルカル王にジェツンを娶らせようとしたが、クルカル王は堅く辞退した。

 ジェツンは生まれながらに聡明で、また修行者に伝授されて占いが出来、様々な霊験を持っていた。

 王とは、考えが謎めいていて、周りの者には推測しがたく、王座に座っていれば自ずと威厳があるものである。
 クルカル王は思った。
 もし自分に何らかの考えがあるとすぐに彼女に見抜かれてしまい、周りに威風を示せなくなだろう。

 そこでクルカル王は彼女の美貌に涎が出そうなのを必死でこらえ、違う部族から妻を探すことにしたのである。

 ジェツンイシは笑って言った。
 「占いでは凶と出ました。王様、訳なく兵を出されませんように」

 クルカル王は冷笑して言った。
 「お前はわしがリンの国から美女を嫁として連れて来るのを望んでいないのだろう。お前の若さと美しさを憐れんでいなければ、お前の首を切らせて、その生首を夜ごと山の上で吠えて人々を安らかに眠らせない餓えた狼に食わせてやるところだ」

 ジェツンイシは慌てることなく、哀れむように笑って、その場を下がり何も言わなかった。

 シンバメルツは大王がこれほどに固執するのを見て、兵馬を点呼し、クルカル王と共に出征した。

 東北の方角に大軍が押し寄せた。
 リンでは全ての人が国王の帰るのを待つばかりで、何の備えもしていなかった。

 ただトトンだけがホルの大軍が攻めて来るのを知っていたが、何も伝えようとはしなかった。








阿来『ケサル王』 83 物語 兵器部落

2014-12-20 12:22:49 | ケサル
物語:兵器 その2




 フクロウはギャツァの肩から飛んで行った
 だが彼の耳元には何時までもジュクモの深く長いため息が聞こえていた。
 その溜め息は彼の心を不吉な予感で満たした。

 リンの平安を保つため心の内に立てた計画は、国王の同意を待ってはいられない。
 国王が何時帰るのか分からなかったし、時には国王は戻って来ないのではと疑わざるを得なかったからである。

 彼は母に贈られた兵書に添って兵を訓練し、そこに書かれている通りに兵を布陣させた。

 リンがまだ国でなかった時、間の争いは主に勇将たちの働きにかかっていた。
 リンの三十英雄は、ほとんどがそれぞれの神の力を持っていた。
 さらに、その頃の戦いには、しばしば神と妖魔も参戦し、普通の兵では役に立たなかった。

 天上の神々は地上の人間を助けてそれぞれの国を建てた後、皆天に帰るという。

 リンの周りの多くの場所では、すでに神の姿は無かった。
 そこでは早くに国が建てられたからである。
 再び妖魔が現われて世を乱すことがなければ、神は安易に下界には降りてこず、人と人の間の事柄には関わらなくなる。
 そして、国が一度国らしくなれば、人は徐々に神の力を失っていく。

 国が一度建てば、人は野蛮な時代から抜け出す。
 つまり、決まり事によって人を管理し、手に入れた技術によって暮らしを立て、神の力には頼らなくなる。

 そのため、ギャツァは自分の部下を訓練し、神の力に頼らない軍隊を作り上げ、総ての兵に陣形の変化を理解させ、皆の戦いの術を高めなくてはならなかったのである。

 このように、一人一人の人間の持つ力、信念、技を集めるというやり方は、神の力よりも強い力となる。

 それを成し遂げるためギャツァは、一つのの民すべてを黄河の岸の草原から、南の深い山に移すことにした。

 その時はすでにとは呼ばず、万戸と呼んでいた。
 万戸の長はギャツァに、どうしたら安心して暮らせる場所を見つけ出すことが出来るのか、と尋ねた。

 ギャツァは万戸長に言った。

 南へ、南へと進み、かつてリンが大雪によって追われた故郷まで行く。
 そこで、故郷の河に出会ったら、その流れに沿って更に南へ向かう。
 その深い幽谷の険しい河岸の上に、銅と鉄を精錬できる場所が見つかったら、そこに落ち着けばよい。

 万戸長は言った。
 「我々は三日以内に出発できます。ただ私が恐れるのは、民が故郷を離れ時にあげる泣き声を聞くことです」

 ギャツァは言った。
 「では、誰かに歌を作らせよう。すすり泣く変わりに歌う歌を」

 が出発する時、本当に歌いながら出発した。

 ギャツァは兵を率いて先頭を進んだ。
 風も通らぬほの密林に出会った時、彼は兵に言った。
 今こそ刀術と腕力を試す時だ、と。兵たちは森の中で刀を振るって木を切り落とし、広く明るい道を作った。

 行く手を塞ぐ巨大な石に出会った時、将軍たちは兵に言った。
 「さあ、巨人と相撲で戦うための訓練をする良い機会だ」
 そこで兵たちは道を塞いでいる巨石を押して谷川に落とした。

 虎や狼に出会った時は、兵たちはその前に踊り出し、言った。
 「矢を放つ訓練をするよい機会だ」
 こうして、弓の最も優れた兵がまだら模様も眩い虎の皮を身に纏った。

 最後に彼らが着いたのは雄大に奔流する金沙江のほとりだった。
 谷は天に向かって開く蓮の花のようであり、周りの峰々は剣を手にして立つ勇士のようだった。

 草原にまだ雪が舞う厳冬の三月、東南に開いた谷には暖かい風がそよそよと吹き、十六夜薔薇と野生の桃の花が一面に咲き誇っていた。
 一夜の春雨の後、早起きの老人は、数日前ここに着いた時何気なく地に挿しておいた柳の杖から新しい芽が芽吹いているのを発見した。

 ここには一つ良いところがあった。
 急いで家を建てる必要がなかったのである。
 人々はしばらく山の洞穴で暮らした。

 開墾した谷に緑の苗が伸びる頃、一部の人たちは山里から鉱石を掘り出していた。
 その石は自ら変化する方法を知っているかのように、炉の前の空地に積まれ、風や雨にさらされて あるものは赤く変色し、あるものは緑に変色した。

 こうして、銅が出来、鉄が出来た。

 リンの民が自ら精製した銅と鉄である。

 そのためこのは後の人から兵器と呼ばれた。

 このは多くの職人を生み出した。
 採石の職人、炉を作る職人、鉱石を練成する時に火の管理する職人、銅と鉄で様々な兵器を作る職人。

 刀、剣、矛、矢、馬具、鉄菱、鎧兜。
 この時からギャツアの大軍が陣を敷くと、太陽に照らされて、すべての鉄器が黒々と輝き、厳めしく堂々とした姿を現した。

 ギャツアは信じていた。
 このような大軍が整列して押し寄せたら、どのような強敵も抵抗出来ないだろう。

 秋、ここより更に南のが豊かに実った食糧を奪いに来た。
 ギャツアは知らせを受けると、兵たちに応戦させず、ただ、収穫の終わった田畑で陣の演習をさせた。
 南方のの民たちは林の中から三日間様子を覗った後、自ら現れて臣下になることを願い出た。

 ギャツアは人を遣わして彼らを王宮へ送った。
 首席大臣は、この地方について聞いたことがなかった。

 彼はひれ伏し、北に向って拝した。
「ケサル大王様、お祝い申し上げます。王の威名を慕って南方の未開のが彼らの広大な土地と共に帰順に参りました」






阿来『ケサル王』 82 物語 兵器部落

2014-12-16 01:10:16 | ケサル
物語:兵器



 ギャツアには大きな計画があった。
 心の内で長い間考え抜き、国王が魔国を征服して帰って来たらすぐに許可を願うつもりだった。

 だが、ケサルは魔国に行って三年、王妃メイサと新しい妃アダナムと北方の魔の地で日夜酒宴を楽しみ、帰ろうとしない。

 人々は疑い始めた。
 この人物は確かに強い神の力を持っているが、思いのままに行動するばかりだ、本当にリンの国王にふさわしいのだろうか。

 メドナズは言った。
 「神が彼を下界に遣わし国王にされたのです。彼がふさわしくないなら、他に誰がいるでしょうか」

 首席大臣ロンツァ・チャケンも同じ考えだった。

 だが、ギャツアは心配でたまらず、首席大臣に進言した。
 「私の母は言いました。漢の地では、もし皇帝が楽しみに耽り、政を顧みないなら、民はその皇帝を王として戴かないそうです」

 首席大臣は厳しい顔つきで言った。
 「我々の国王は天から降りてきた神の子だ」

 ギャツァは言った。
 「母が言うには、漢の地の皇帝も天子と言うそうです。天の子という意味です」

 ロンツァは言った。
 「口を慎みなさい。お前はケサルの兄であり、国王の大切な将軍だ。トトンのように、陰険で利己的な言い方はやめるのだ。我々が新しく定めた法律では、そのように朝廷を貶める議論を何と言うか知っているか」

 「私はただ、国王が早く帰られるよう、人を遣わして頂きたいのです」

 首席大臣はため息をついた。
 「王妃ジュクモも私を訪ねて来て同じことを言われた。だが、国王は戦いに発つ時にこう言いつけられたのだ。整然と事を進め、税を集め、訴訟を行わないようにと。お前に辺境を守らせたのと同じように」

 「そうなのです。より強固に辺境を守るため、国王にお伝えしたいことがあるのです。それなのに、虚しく待つばかりで、丸々三年経ってしまいました」

 首席大臣はもちろんギャツァの真っ直ぐな忠誠心を知っている。
 そこで、席から降りて彼を慰めた。
 「今はやはり辺境に戻りなさい。リンはすでに国となり、国王の権威は揺るがすことは出来ない。国王を疑うなど、なおさらだ。やはり陣営に戻り、王の命の通りに事を行いなさい」

 ギャツァは仕方なく母に別れを告げに行き、そこで国王への恨みを口にした。
 母は言った。
 「リンは国になったとはいえ、まだ生まれたばかりです。国として成熟していない部分も多いでしょう。もし命に従うことでより良い国の姿に近づけられるのなら、やはり命に従いなさい」

 彼は母に伝えた。
 「トトン叔父が宴を設けようと言っているのですが、どうしたらよいでしょう」

 母は身震いして言った。
 「息子よ、自分の駿馬に乗って夜の内に発ちなさい」

 月のない夜、ギャツァは馬を鞭打ちながら辺境の陣営へ向かった。

 星灯りで、彼は微かに遠くを眺める人影を認めた。
 それはジュクモによく似ていて、城の楼台に立ち、ぼんやりと北を眺めている。

 ギャツァはリンの多くの人とは違い、いくつかの不思議な力を持っていが、それは厳しい修練によって手に入れたものであり、遠くからでははっきりと見定めることが出来なかった。

 だが、ジュクモも少し通力があり、すでにギャツァに気付いていて、フクロウを遣わして彼の肩に止まらせた。
 フクロウが口を開くとそれはジュクモの声だった。
 「あなたが帰って来たと聞き、明日は城に尋ねて来られるかと待っていました」

 ギャツァは馬から降り、宮殿に向かって恭しく応えた。
 「王妃様、私が帰って来たのは国王に報告があったからです。だが、国王は魔国へ遠征してまだお帰りになりません。私は再び辺境に戻ります。首席大臣は規律を守り、王にお帰りを促そうとはされません。国に主がいなければ民の心は不安になりましょう。やはり王妃様が先に立って国王に早く帰っていただくようすべきです」

 ジュクモはただため息をつくばかりだった。
 今回の魔国との曲折はもともとはジュクモの嫉妬が起こしたことであり、この時も口には出来ない辛さを抱えていた。

 ギャツァはそんなジュクモの胸の内を知る由もなく、ただ態度が曖昧なのを目にして、馬に乗って去ろうとした。
 ジュクモが突然話し始めた。
 「ここ数日私の心は穏やかではありません。何か良くないことが起こるように思えるのです」

 「王妃さまは王宮で国王のお帰りをお待ちになっていれば、悪いことなど起こるはずはありません」

 「占星術師が夜天象を見て言ったのです。邪気が私の星を犯していて、時が来たら…」

 「もし王妃様に災難が降りかかったら、このギャツァがすぐにお守りします。万死も恐れずお力になります」

 言い終ると馬を駆って夜の中に消えて行った。







阿来『ケサル王』 81 語り部 恋愛

2014-12-09 14:58:08 | ケサル
語り部:恋愛 その2



 次の日、新しい語り部がやって来た。中年の女性だった。
 牛を放牧している時雷に打たれ、目が覚めると、誰にも習ったわけでもないのにケサルを語るようになった、と言った。

 大声でしゃべる女だった。

 その日の昼、二人は招待所の廊下で出会った。
 ジンメイは食堂の料理を盛った琺瑯の大きな椀を抱えて帰って来るところだった。

 女は彼を遮り、ジンメイさんかと尋ね、彼は頷いた。
 「みんながあんたは語りがうまいって言ってるよ」

 彼がまた頷くと、この大雑把な女ははにかんだ表情を見せて言った。
 「私はヤンジンドルマ」

 ジンメイは笑った。
 ドルマとは仙女の意味だ。この女は声はどら声、目つきは凶悪、まるで仙女らしくない。

 ヤンジンドルマは言った。
 「何を食べてるのか見せてご覧。チッ!スープ、それと饅頭か。チッ!前に来た時もこればっかり食べさせられてさ。うんざりして、辞めたのさ」

 「でもまた来たんだろう」

 ヤンジンドルマは彼の手を引っ張った。
 「来て」

 二人は彼女の部屋に入った。
 「自分で料理してもいいことになったんだ。でも、ここじゃ薪を起こせないだろう。電気で作るんだ」

 ヤンジンドルマが泊っているのは内と外の二間だった。
 内で寝て外で料理し、茶を飲む。電気コンロが部屋の真ん中に置いてあった。

 ドルマは彼の肩に手を当て、敷物に座らせた。
 「うまい茶を入れるからね」

 コンロの上のやかんはすぐに沸いた。
 そこに粉のミルクを入れると、香りの良いミルク茶になった。
 椀に注ぎチーズを並べた。その椀には青菜が浮いていて、それを捨てると、子供のように笑って言った。

 「こっちへ来て、饅頭を食べな」

 食事はとてもおいしかった。三食分はあるチーズを一回で食べてしまった。
 ヤンジンドルマはわざとらしく、だが満足した表情で言った。
 「神様、この男はやかん一杯の茶を全部飲んでしまいました」

 次の日ジンメイが語りに行く時、ヤンジンドルマは彼に魔法瓶を渡し言った。
 「お茶だよ、歌って喉が乾いたら飲みな」

 「語る時は飲んじゃだめなんだ」

 「フン、あいつらは飲めるんだろう」

 「みんな外で飲んでる」

 「じゃあ、あんたも外へ行けばいいじゃないか」

 「行かせてくれないんだ」

 「誰が」

 「アサンさんが」

 ヤンジンドルマは鋭い目で彼をにらんだ。
 「語りの金は国がくれるんだ。あんな女の言うこと、聞かなくてもかまいはしないさ」

 その日、茶を飲むことは出来なかった。
 飲むか飲まないかの問題ではなく、アサンがこう言ったのだ。
 「あなたの体から出た牧場臭い空気をやっときれいにしたのに、なんでまた匂うのかしら」

 彼は魔法瓶をスタジオの外に置きに行った。
 アサンは言った。
 「さあ、始めましょう」

 彼は茶が入ったままの魔法瓶を持って部屋に戻った。
 ヤンジンドルマはそれを見て言った。
 「チッ!」

 後からこんな話が伝わった。
 あの田舎者はまるで白日夢を見るみたいに、新しい時代の女性を愛してしまったらしい、と。

 アサンはそれから後の番組では、怖い顔をして何も話さなかった。

 何回か、ジンメイはアサンに言おうと思った。
 「あの噂はみんな嘘です。オレのようなものがあんたを好きになれるわけがないでしょう」

 それでも、スタジオのライトが暗くなり、たくさんの機械の光がチカチカと点滅すると、彼女がいつもの優しい声で話し始め、すべてがうっとりと魅惑的になった。
 彼女の声は磁石のように人を引きつけ、彼女の体からは良い匂いがたちのぼった。

 ついにある日、アサンは言った。
 「もし続けて語りたいなら噂話を流した人のところへ行って、自分はそんなこと思ってない、と言って来てちょうだい」

 「そんなこと思ってない、とは?」

 アサンは泣き出した。
 「あなたって不潔で間抜けね。私を愛したことはないと言って来なさい、ってことよ」

 彼は頭を垂れ、自分の罪の重さを深く恥じたが、それでもやはり本当のことを言った。
 「夜、いつもあんたの夢を見るんです」

 アサンは鋭い叫び声をあげると、泣きながらスタジオを飛び出した。
 録音は中止になり、外にいたスタッフが飛び込んで来た。

 「おい!何をしたんだ」

 自分は本当に何もしていない、自分の言葉には呪いをかける人のように毒の針が埋まっていたのだろうか。
 だが彼は何も言えなかった。
 みんながあまりに恐ろしげで、怖くて何も考えられなかった。

 ヤンジンドルマでさえ深く傷ついた様子で、彼の姿を見て言った。
 「チッ!」

 放送局を出入りする時、みんながからかって言ったものだ。
 「この二人の語り部が一緒にいると、天地が定めた一対のようだね」と。

 ヤンジンドルマはそれを聞くたびに幸せそうな微笑みを浮かべていた。
 だが、今、彼女はジンメイの姿を見て言ったのだ。
 「チッ!」

 数日前、彼女はジンメイに言った。
 「ケサルは長いことリンに帰らなかったけど、その責任は、アダナムとメイサだけにあるんじゃない。もし、ケサルが会うたびにその女を好きになったりせず、ジュクモだけを好きになってたら、地上にこんな騒動は起こらなかっただろうに」

 ジンメイはこう答えた。
 「神の授ける物語をオレたちは勝手に批判しちゃいけない」

 ヤンジンドルマは言った。
 「物語はきっと、男の神様が授けたんだよ。女の神様だったらこんなふうにはしなかったはずさ」

 ジンメイはそれを聞いて驚き、神様を刺繍した旗を広げて何度も跪いて拝んた。
 ヤンジンドルマも怖くなり、ジンメイと一緒に神の前に跪き、必死で許しを乞うた。

 だが今、ジンメイは許しがたいほどに自分を恥じていた。
 彼は本当に病気になった。

 ギーと音がしてドルマが入って来た。彼は弱々しく言った。
 「なんで来たんだ」

 「今、誰が自分に一番ふさわしいか分かっただろう。誰が自分とお似合いか分かっただろう」

 彼女は彼の額と手に口づけした。彼の肌は熱い涙で濡れた。
 だが、この熱い涙も彼の心の内へ染み込んではいかなかった。

 彼は言った。
 「帰って休んでくれ。明日茶を飲みに行くから」

 ヤンジンドルマはもう一度口づけし、彼をこう呼んだ。
 「私の可愛い人、私の運命の人」


 彼女がドアを閉めると、ジンメイはドルマが流していった涙を拭いた。
 心に浮かぶのはやはりスタジオの中のあの魅惑的な姿だった。

 こうして、彼は何も言わず出て行った。
 の放送局から、この町から姿を消した。

 彼がどこへ行ったのか。誰も知らなかった。







阿来『ケサル王』 80 語り部 恋愛

2014-12-03 02:53:39 | ケサル
語り部:恋愛 その1



 ジンメイは学者に連れられて省のチベット語放送局に来た。
 放送局での日々はとても幸せだった。

 幸せ、それは偽りのない感想だった。

 放送局のスタジオに座るとライトが暗くなる。
 番組の司会者は突然声の調子を変える。

 ジンメイはふと思った。王妃ジュクモが話す時もきっとこんな声だったのだろう。
 魅惑的で威厳がある。

 ここは放送局の語り部番組制作部である。
 スタジオの明かりが暗くなると、総てがあやふやになってしまう。
 スタジオを出れば彼をまともに扱おうとしない若者たちも、態度を一変してとても親切になり、あの声はより一層優しく感動的になるのだから。

 「今日の語りをお聞かせする前に、ジンメイさんに二つの質問をしたいと思います」

 ジンメイは電気が走ったように体をこわばらせ、座ったまま姿勢を正した。

 「ジンメイさん、あなたは初めて電波を通して史詩を語った語り部ですが、このことについて何か特別な思いはありますか」

 ジンメイは自分の声が変わっているのが分かった。いつもは良く響く声がかすれている。
 「幸せです」

 アナウンサーは笑った。
 「ジンメイさんがおっしゃりたいのはとても光栄に思っているということですね」

 「はい、幸せです」

 「分かりました。とても幸せだそうです。では、視聴者に教えてあげて下さい。街や、この放送局でどのように過ごしているのか」

 彼の声はやはりひどくかすれていた。
 「幸せです」

 アナウンサーはいらいらしているようだった。
 「ジンメイさんはとても楽しいとおっしゃっています。では彼の語りを聞いてください」

 アナウンサーは出て行った。ガラス越しに彼女と番組の録音技師、他の数人がふざけ合っているのが見える。

 ジンメイは語り始めた。
 語っている時、彼はいつものジンメイだった。
 目の前のガラスの壁は消え、左右そして後ろの壁もすべて消え去った。
 雪山と草原の広がる大きな空間の中で、天にも地にも、特別な力に満ちた神、人、魔物が行き来し、はかりごとをし、祈り、戦っていた。

 そこに登場する美しい女性たちは何とも不思議だった。
 彼女たちは、村の女たちと同じように泣き、愛を競い、小さなはかりごとを仕掛け合い、神の力を持つ人と魔物の間を行き来し、そうやって物語の中で大切な役割を果たしているのである。

 その日、ジンメイはたくさんの時間をかけてジュクモとメイサを語った。
 語りが一段落すると、司会者が入って来て、視聴者に向かっていつもと同じ言葉を投げかけた。

 「視聴者のみなさま、夜の十時になりました。どうぞお忘れなく。明日の夜九時、英雄詩史ケサル物語で、必ずお会いしましょう」

 終ると、彼女はジンメイの後ろに立ち、体を屈めて来た。
 ジンメイにはそれが、大きな鳥が空から降りて来て、まず始めに、地上の可哀想な生物をその影で包みこんだかのように感じられた。

 彼の体は震えていた。
 彼女は香しい息をしている。
 彼女が彼の後ろに立ち、体を屈めると、唇が彼の首に触れそうだった。

 「今日の語りはとても素晴らしかったわ。もしかしてあなたは女性のことをあまり知らなのかしら」

 彼は頭がくらくらして倒れそうだった。
 我に帰った時、スタジオには彼一人だけだった。
 スタジオを出ると、迷宮のような廊下で方向を見失い、より複雑で広い漢語放送制作部に迷い込んでしまった。
 会う人ごとに、アサンさんを探していますと話しかけた。だがここは別世界で、誰もアサンを知らなかった。

 その後どのように歩いたか分からなおのだが、大きな建物を抜け出し、まぶしい太陽の下にいた。
 招待所に戻りベッドに寝転がると、体が冷たくなったり熱くなったりした。
 ウトウトする間に、アサンがジュクモの服装をして、青い山の頂を彷徨い、憂いを抱きながら北の方を眺めている夢を見た。
 早く逃げろ、危ないことが起こるぞ、と叫んだが声が出なかった。

 午後、学者が研究所から会いに来た。
 食堂から届いた食事がそのままなのを見て言った。
 「病気か」

 彼は思った。自分は病気なのだろうか。
 思い返してみて、自分で自分に驚いた。頭の中でずっと司会者の女性を思っていたのだ。
 彼は怖くなって言った。

 「家に帰る」

 学者は厳しい表情で言った。
 「本当の語り部、本当の仲肯は天の下総てが自分の住処なのだ」

 「草原に帰りたい」

 学者は言った。
 「ここで語ることはある種の戦いだ。君だけじゃなく、他にも語り部が来てケサル語ることになっている。
 一番うまく語れた者には国が金を与え、家を建て、世話してくれる」

 ジンメイは言い返したかった。
 「住処も家も同じことだ。仲肯があちこちを彷徨う運命なら、家をもらっても何の役にも立たない」
 だが、やはりジンメイである、口答えなどせずに、ただこう言った

 「怖いんです」
 学者は笑った「
 そんなふうに敏感でこそ、芸術家だ、天下の芸術家だ」







阿来『ケサル王』 79 物語 愛する妃

2014-11-25 23:13:34 | ケサル
物語:愛する妃 その6




 ケサルは、メイサが無理やりに魔王の妃にさせられながら、心の中で自分を忘れずにいたことを知り、何も言わずにインド商人の服を脱ぎ捨て、戦神の鎧姿を現した。
 メイサも魔国の妃の衣装を脱ぎ捨てると、リンの国でケサルに仕えていた時と同じ純白の衣の姿を現し、思わず涙を流した。

 ケサルの心に熱いものがこみ上げ、愛しい女性を胸に抱き寄せた。

 「大王様、早くリンへ連れ帰ってください」

 「それは私の妻をさらった憎き魔王を倒してからだ」

 「すぐに戻りましょう。魔王の体は巨大で、その力は無限です。王様に倒せるかどうか…」

 メイサはケサルを案内してロザンの使う椀、ロザンが眠る寝床、ロザンが武器とする鉄の玉と鉄の矢を見せた。
 その寝床に横になると、自分が子供になったように思えた。
 椀を持ち上げようとしても持ち上げられなかった。鉄の玉と矢は尚更だった。

 思えば天の母が大力忿怒の法を修練させようとしたのは、早くからこのことを予見していたのだろう。
 だが、修練の最後の数日、ケサルは心が落ち着かず、修行を成し遂げることが出来なかった。

 メイサは早く帰ろうと促した。
 魔王が巡視から帰って来たら面倒なことが起こるかもしれないから、と。

 ケサルは言った。
 「ヤツを倒す方法は他にもある。私は、魔王を殺さなければ国に帰らないと誓ったのだ」

 メイサは再び涙をこぼした。
 一つは自分が魔王に屈してしまった恥ずかしさから、一つはケサルの深く変わらぬ愛への感謝からだった。

 彼女は言った。
 「魔王のあか牛を食べると巨大な体になれると聞いています」
 二人はあか牛を殺し、ケサルがすぐさまそれを口にすると、体はあっという間に高く、大きくなった。

 メイサはまたケサルに言った。
 「あの魔物の魂の宿る海は秘密の蔵に隠してある一杯の血です。魂の宿る樹は金の斧でなければ切り落とせません。魂の宿る牛は純金の矢で射なければ殺せません」

 ケサルはすぐさま城を出て魂の血を干し、魂の樹を切り落とし、魂の牛を射殺してから、城に戻って魂を失った魔王に戦いを挑んだ。
 何回か渡り合う内に、魔王ロザンは心も頭も混乱し、ケサルの放った矢が額の真ん中に命中し、力尽きた。

 勝利した後ケサルは思った。
 もし自分が天の母の意を素直に受けていればメイサはこのような苦しみを受けず、ロザンともこのような戦いをしないで済んだだろう。

 そこでマンダラを設けてロザンを得度し、清らかな土地に生まれ変わり善をなすようにさせた。
 更に、チンエンをリン国の新しい領地を管理する大臣に任じた。

 ケサルは、魔国の風景が黒と白の二色だけではなくなり、水が澄み山が緑に萌え、色とりどりの花が辺り一面を埋め尽くし、馬や牛、林の中の鳥の羽根もが豊かな彩を輝かせるまで二年三か月暮らし、それを見届けてから、メイサと新しい妻アダナムを連れてリン国へと戻って行った。

 チンエンは新しい主人がリンへ帰るのを見送った。
 鏡のように静かな湖まで見送り、ケサルがかなり遠くまで行ってしまってから大声で叫んだ。
 「大王様、私の頭はまだ妖怪のままです」

 ケサルは振り向かなかったが、その声はチンエンの耳元に届いた。
 「湖まで行って映してみなさい」

 チンエンが湖面を覗くと、五つ頭の妖怪はもうそこにはなく、もとのロン国の農夫の顔があった。
 更に、その農夫の頭にはリンの大臣が被る羽根の付いた冠が載っていた。

 三人が一路進んで行くと、知らぬ間にアダナムが守っていた辺境の砦に着いた。
 アダナムはすでに手下に言いつけて、ここで三日の宴を設けるよう準備しておいたのである。

 ケサルは彼女に、何故三日も続く盛宴を用意したのかと尋ねた。
 アダナムは答えた。リン国に着けば誰もが、国王に一人妃が増えたと思うだけでしょう。そこで、自分のために盛大な婚礼の宴を設けたのです。

 だが、この婚礼の宴は三日では終わらず、まるまる三年続いた。
 砦は日夜歌や踊りで賑わい、肉の香りは十里まで漂い、酒の香りは三、四十里を越えた。

 もともとアダナムは魔国を嫌っていた。最も忌むべきは白と黒の二つの色しかないことだった。
 だが今ここには五彩の花々が咲き誇っている。
 それを目にしてから離れるのが少し惜しくなっていた。

 メイサもまた早く国に帰りたくはなかった。
 ケサルは彼女が捕らえられたことに恥入り、充分に寵愛してくれる。
 だが、リン国へ帰れば、彼が最も愛するのは妃ジュクモである。
 その他にも多くの姉妹が寵愛されるのを待ち望んでいる。

 だがここなら、心の真っ直ぐなアダナムと自分だけで分け合えばいい。

 二人の女性は口には出さなかったが、お互いに相手の心を推し量り、この砦に留まったのである。
 しかもそれは、まるまる三年にも及んだ。









阿来『ケサル王』 78 物語 愛する妃

2014-11-22 02:11:31 | ケサル
物語:愛する妃 その5



 次に出会った妖魔には五つの頭があった。
 その五つ頭は山の中腹で黒と白の羊を放牧していた。

 その時ケサルははっと気付いた。
 魔国に入ってから、二つの色だけしか目にして来なかったことを。
 白と黒である。

 風景も草木も、一つとして例外はなかった。
 アダナムがこの国を嫌うのも無理はない。

 さて、ケサルはアダナムが事前に言い聞かせた通りにして、その五つ頭の妖怪を打ち負かした。

 五つ頭は、元はロン国でつつましく暮らす農民で、名をチンエンと言った。
 多くの村人と共にロザンにさらわれて来て、ロザンの民となった。
 わずかながら神通力を持っていたので、魔王の目に留まり、五つの頭をはやし、ここで通る者を見張っていたのである。

 彼は、もしケサルが神の力を使って人間の姿に戻してもらえるなら、リンに行って真っ当な農夫になりたい、と告白した。
 ケサルは言った。
 「まず、魔王はどこにいるのか、私の妃メイサは何をしているのかを探りに行きなさい」

 チンエンは命を受けて高い尖塔が九つ聳え建つロザンの城へ向かった。
 ロザンは彼の体からいつもとは違う匂いがするのを嗅ぎ当て言った。
 「生きた人間と会ったのか」

 「いいえ、白い羊が病気になったので殺して来たのです。多分その血を浴びたので、大王は血なまぐさい臭いを感じられたのでしょう」

 ロザンは半信半疑だった。
 「妃メイサに食事の用意をさせよう。ワシはやはり見廻に行って来よう」
 そう言うと雲に乗って城を出た。

 こうして、チンエンとメイサが二人だけで話す絶好の機会が訪れた。
 チンエンはこの機を逃すまいと、言った。
 「大王の鼻はなんと敏感なのか。実は昨日インドの商人と会ったのです。そいつはリン国を通って魔国に来たと言っていました」

 メイサはロザンの手下であるこの五つ頭の妖怪と話したくはなかった。
 だが、彼がリンという言葉を口にしたので、関心を掻き立てられ、一瞬目が輝いた。
 「その男はリン国について何か言っていましたか」

 ロザンがこの王妃をさらって来てから、彼女を深く寵愛していたが、美しい衣装も珍しい料理も、歌や踊りも、彼女の憂いを解くことは出来なかった。
 魔国の誰もが彼女がリン国を忘れられないのを知っていた。
 チンエンもそれを知っていて、言った。
 
 「そのことは尋ねていません。では、戻って彼を連れてきましょう。王妃様が直接彼にお尋ね下さい」

 「では、明日そのものを後宮に連れて来なさい。分かっていますね。大王には見られないようにするのですよ」








阿来『ケサル王』 77 物語 愛する妃

2014-11-20 03:11:46 | ケサル
物語:愛する妃 その5



 アダナムはケサルを宮殿に迎え入れ、近くにいる手下を集めて階下に整列させた。
 それが終わると口を開いた。
 
 「大王様、私は転生の時に間違ってこの地に生まれたのです。この魔国を見まわすと、皆奇妙で恐ろしい姿をしています。おまけに、兄は私を蛙頭の将軍に嫁がせようとしているのです。私は昼も夜も悲しくてたまりません。
 大王様、一生おそばにいられたらと願い、今、この城の主としてお迎えしたのです。
 喉が渇けばよいお茶があります。疲れたら白絹の寝床があります。心が寂しければ私がお慰めしましょう」

 ケサルはすでにアダナムの美しさに虜に心惹かれていたが、この時、より一層彼女の誠実さに心を打たれ、その夜アダナムと床を共にし、夫婦となった。

 この魔女とリンの十二王妃を比べると、穏やかで従順な中にも野性が息づき、ケサルを大いに喜ばせた。
 それは、戦場での命がけの殺戮の後、勝利して陣地に戻った時の感覚に似ていた。
 昼間はくつわを並べて大自然をほしいままにし、山神に命じて追い払わせた猛獣を山の前で殺した。

 だが、楽しく過ごす間にもケサルの眉間には常に悩みの色が浮かんでいた。

 アダナムは、このように彼に着き添っていれば、何時の日か兄を見逃してくれるのではないか、そして兄からメイサを取戻し、二人でリンに帰るのではないかと考えていた。
 だが、ケサルが常に眉を寄せているのを見ると、兄を助けるのはもはや不可能だと思い知らされた。

 その日、アダナムはこれまでにない豊かな宴席を設けさせた。
 ケサルはそれを見て、このような宴を設けるのは何か大事なことがあるのかと尋ねた。

 「ご主人様の送別の宴です」

 「送別?私と一緒にリンへ帰ろうというのか」

 「大王様、あなたはロザンを倒しメイサを救い出さなくては絶対にリンに戻らないのでしょう。それならば、王様、明日ご出発ください。
  私はここで大王様のお帰りを待っています」

 ケサルの心には一瞬の間に様々な感情が行き交った。
 この魔女がジュクモよりも道理をわきまえているとは思ってもいなかったからである。

 宴が終わり、白絹の寝床の中でアダナムは身に着けていた指輪をはずしてケサルに渡し、途中どこをどのように通ったら良いのか、などを詳しく伝えた。

 「大王様、私は兵を連れて兄を殺しに行くわけにはいきません。私に出来るのはただ、あなたを宮殿の前まで導くことだけです。どのようにあの魔物と対すればいいのかは、お伝えするわけにはいかないのです。」

 アダナムの率直な言葉に、ケサルなおさら彼女がいとおしくなった。
 もしアダナムが望んだら、魔王を見逃したかもしれない。

 神の馬ジャンガペイフは一日で普通の馬が半年かかる道を進むことが出来る。
 その日半日走るとアダナムの言ったとおり白い像が横たわっているかのような山が目の前に現れた。

 山の前に河があり、黒蛇が這っているような橋が架かっていた。
 橋を渡るとそこは乳のように白い湖だった。
 ケサルとジャンガペイフはその水を飲んだ。

 更に進むと、イノシシが鉄のたてがみを逆立てたような恐ろしい岩山があった。
 山の前には夜のように真黒な湖があった。馬のヒズメの音が湖に伝わると、湖の中から熊のように大きく黒い犬が跳び出して来た。

 これらすべてはアダナムがすでに伝えていた通りだった。
 そのためケサルはこの犬の名前がググランザと知っていた。
 彼がアダナムの指輪を取り出すと、犬はよく知るものを目にして向きを変え湖に潜っていった。

 更にしばらく行くと、魔王の仕掛けた迷路があった。
 常に行く手には二つの道が現われる。
 白い道を行けば生きのびる、黒い道へ行ったら死んで、魔物のえじきになってしまう。

 白い道を進み続けるとまた城が現われた。
 赤い三角形の城である。城の中の部屋にはすべて骸骨で飾られた軒があった。

 三つの頭の妖魔が、六つの目で一斉に旅人に向けて殺人光線を放った。

 ケサルは避けようともせず、自分の目からも力に満ちた光を放ちながら顔を上げて登って行った。
 妖魔は更に術を掛けようとしたが、やって来た者がアダナムの指輪をしているのを見て、城へ招き入れた。
 だがそこで、ケサルは一刀の元に三つの頭を切り落すと、後を振る向くことなく馬に鞭打って走り去った。

 アダナムが、もし振り向いたらその三つの頭は何度でも復活するだろう、と伝えてあったからである。







阿来『ケサル王』 76 物語 愛する妃

2014-11-18 00:58:30 | ケサル
物語:愛する妃 その4




 ケサルは返す言葉もなかった。
 そこで山を下り、メイサを救いに行くことにした。

 ケサルの兄ギャツァは知らせを聞くと、兵を招集して駆けつけ、ケサルと共に北へ征伐に向かおうとしていた。

 ケサルは言った。
 「ロザンは自らやって来て私の妃をさらって行ったのです。しかも一人の兵も連れてこなかった。私もメイサを救うに当たって、兵を連れて行くわけにはいきません。
  兄さん兵を兵営に戻して下さい。私がリンを留守にしている間、首席大臣を助けて国をしっかりと治めてください」

 ケサルは山に放ってあるジャンガペイフを探しに行かせた。

 その間に、ジュクモは送別の酒を用意し、国王に勧めた。
 ケサルは壮行の酒のつもりでたて続けに九杯飲んだ。
 あろうことか、ジュクモは王と別れがたく、酒の中に忘れ薬を入れていたのである。

 ジャンガペイフは山から戻り、宮殿の前で出征のための鞍を載せられながら、何時までも主人の姿が見えなかったので、その場でいなないた。
 その声にケサルは目覚め、何かやるべきことがあったように思えてならなかった。
 彼は言った。
 「遠出すべきことがあるはずなのだが…」

 ジュクモは言った。
 「王様、何も考えず安らかにお休みください。ご自分の見た夢に迷ってしまわれたのでしょう」

 ケサルは眠さに堪えきれず、また横になって眠った。

 この時、天の母ランマダムが再び夢に現れ、厳しい表情で言った。
 「妖魔を退治するという大願は嘘だったのですか。人の世に来て酒色におぼれているのが本当の姿なのですか」

 ケサルは驚いて目覚めたが、依然として何も思い出せず、重い気持ちで王宮を出た。

 ジュクモはまた追いかけて来て、出発に臨んでもう一度壮行の酒を飲ませようとした。
 ケサルがその酒を地にこぼすと、草や花はその酒を浴びて太陽の動きを追って向きを変えるのを忘れた。

 ジュクモはひどく後悔し、もはや大王がメイサを救いに行くのを止めようとはしなかった。
 ケサルは、これは自分が天の母の言葉を聞かなかったためにメイサが北の魔王ロザンにさらわれたのだと考え、すぐさま馬に鞭を当てて出発した。

 あっという間にリンの辺境を抜け、魔王ロザンの領地に入った。
 間もなく日も暮れようとする頃、心臓の形をした山の前に着いた。
 四角い城が山の頂に建てられ、城の四方は死体で作られた旗や幟で埋め尽くされている。

 ケサルは、魔の地とはどこも似たようなものだろうと考え、この城で一夜を明かすことにした。

 城の前で馬を降りると、小さな妖怪の群れが襲って来た。
 ケサルはニヤリと笑って、銅で出来た大門を叩いた。
 その音があまりに響き渡ったため、妖怪たちの射った矢は次々と地に落ち、吹きかけた毒はひどい臭いに変わり、妖怪たちはギャーギャー叫びながら一目散に姿を消した。

 大門が開くと、魅惑的な娘が落ち着いた様子で現われた。
 リンの宮中の十二王妃とは違った豪放で野性的な美しさがあった。

 娘は言った。
 「お見かけしたところ、武将のようですね。それなのに一人の兵士もいないとは。あなたの男らしい姿に、心が引き寄せられました」
 そういうと手を伸ばしてケサルの厚い肩を撫でた。

 ケサルは一瞬考えた。誰もがロザンは無限の力を持っているというが、このような変化の術を使うとは思えない。
 そこで、そのまま娘を地に投げつけ、上に跨ると、水晶の宝刀を彼女の胸口に押し当てた。
 「お前は人か、妖怪か」

 娘は恐れることなく言った。
 「美しい方、名前をお聞かせ下さい。この世を去った後もお姿を忘れないために」

 ケサルは名前を告げた。

 「私はアダナム、魔王ロザンの妹です。ここで辺境を守ってきました」
 言い終ると声が和らいだ。
 「リンと魔国の境にいて、大王のお名前はとうの昔から聞いていました。美しいクジャクが真の龍を愛するように、私は大王を宝物のように愛しています。大王よ、あなたの刀がこの胸を貫く前に、私の心は大王に奪われたのです」

 「命は取らない。ただし、私が魔王ロザンを倒すのを助けるのだ」

 「大王のお言いつけに従います」

 「私が倒そうとしているのはお前の兄だぞ」







阿来『ケサル王』 75 物語 愛する妃

2014-11-12 22:56:30 | ケサル
物語:愛する妃 その3





 ジュクモは戻って国王に告げた。
 メイサは残って太后様のお世話をしたいと望んでいます、と。

 ケサルはそれ以上何も言わなかった。

 メイサはケサルに従順で、十二姉妹の中では最も穏やかで優しく愛らしかった。だだ、ジュクモほどの色香や美しさはなかった。
 それならと、ケサルはジュクモを連れて山へ修行に行った。

 あっという間に最初の七日が過ぎた。
 ちょうどその夜、太后に付き添っていたメイサは不吉な夢を見て、目覚めてからも心が不安でたまらなかった。
 宮廷の占い師が占うと凶と出たがその意味する所は分からなかった。

 メイサはすぐに山を登ってケサルに会いに来た。
 彼女は、国王の加護を得られれば、どのような災いも降りかかって来ないだろうと考えたのである。

 彼女が修業の洞窟の前にある泉に着いた時、ちょうど水を取りに来たジュクモと出会った。
 「ジュクモお姉様、不吉な夢を見たのです。大王様の傍まで連れて行ってください」

 だがジュクモは言った。
 「王様の修業は今が肝心な時です。誰も邪魔してはなりません。でもせっかく来たのだから、ちょっと知らせて来ましょう」

 ジュクモはすぐに戻って来て、不安で心焦るメイサに言った。
 「王様はこうおっしゃったの。夢は真実ではない、皆迷いから起こるものだ、女性の夢は特にそうである、と。やっぱり戻ったほうがいいと思うわ」

 メイサは、悔しさと悲しみで胸が避けそうだったが、仕方なく山を下り、自ら作った甘い菓子を国王に召し上がっていただくよう、ジュクモに託した。
 ジュクモはその言葉は国王に告げず、美しい菓子だけを差し出した。
 ところがケサルが言った。
 「おや、この菓子はメイサでなければ作れない味わいだ。彼女はここへ登って来たのか。下で何か起こったのだろうか」
 
 「大王様、何とおっしゃいました。ジュクモにはこのようにおいしいものは作れないとでも…」

 ケサルは、下で何も起きてなければそれでいい、とだけ答えた。

 修業では、前の七日ほど気が入らなかった。
 心のどこかで、ジュクモは何かを隠しごとをしているように感じていたが、それ以上探求しなかった。
 女たちの間のことは追及しても何の結論も出ず、面倒が増えるだけなのを知っていたからである。

 ケサルはジュクモに言った。
 「お前たちはいつもは仲睦まじい。それなのになぜ、陰に陽に争うのだ。女とはそういうものなのか」

 ジュクモは言った。
 「もし大王様がジュクモ一人だけを想っていてくださったら、私たち仲の良い姉妹はお互いの心を弄ぶことはなかったのです」

 「それは、私が間違っているということか」

 ジュクモはうなだれて悲しげな表情で言った。

 「王様の間違いではありません。それは宮中の決め事が間違っているのです」

 その表情にケサルも心を痛めた。
 十二王妃の内、ケサルは何時もジュクモにより多くの愛を注いでいたのである。

 修業が山場を迎えると、ケサルは時の経つのを忘れた。
 ジュクモには時が来た時でなければ洞窟に入って邪魔をしないようにと伝えてあった。

 だがその日、洞窟の入り口から光が射し、ジュクモが入って来た。ケサルは尋ねた。
 「時が来たのか」

 ジュクモはうなだれて答えなかった。
 ケサルは不安を感じ、何か起きたのかと尋ねた。
 彼女は言った。
 
 数日前、ジュクモが北の魔王ロザンにさらわれました。

 ケサルはその時、天の母が夢に託してメイサと共に修行に行くように告げた深い意味が分かった。
 だが、自分を責めるべきか、ジュクモを責めるべきか分からなかった。
 更には、トトンが背後で策を弄していることなど知るよしもなかった。

 ロザンがメイサに魅せられたのをトトンは早くから知っていた。
 より強い契機となったのは、ケサルが競馬で王になり、賞品であったジュクモを奪っただけでなく、リンで最も美しい十二人の女性を総て王妃としたことを、トトンは歯がみをするほど悔しく思っていたことである。

 今回、ケサルが山に籠って修行すると知るや、すぐにカラスを遣いとして放ち、この知らせをロザンに伝えた。
 すると、ロザンはすぐさま黒い雲に化身し、心に思い続けていたメイサを包み込んで連れ去ったのである。

 ケサルは言った。
 「メイサを連れて修行に行くと私が言った時、お前はわざと行かせなかったな」

 「もしメイサを連れて行ったら、ロザンは私をさらったでしょう」