塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 89 物語:ギャツァ、命を捧げる

2015-01-21 23:55:33 | ケサル
物語:ギャツァ、命を捧げる その4



 シンバメルツは落ち着き払ってニヤリと笑うと、言った。

 「あなたが死ななければ、リン国の民は一人も死なないですむのです。あなたが死ねば、リン国の千万の民は我が大軍の馬の蹄に踏みつけにされるでしょう。更に言えば、一国の王として、いやそれよりも一人の男として、ケサルが現われもせず死にもせず、リン国の勇士たちも死ぬことなしに、か弱い女性であるあなたが死んで何になるというのでしょう」

 ジュクモの目から溢れ出たのは涙ではなく二粒の真っ赤な血だった。
 ジュクモは言った。
 「お黙りなさい!分かりました。我が民を殺さず、王宮に攻め入らないと保証するなら、あなたたちに従いましょう」

 そう言うとさっと涙を拭い、身なりを整え馬に乗り、シンバメルツに付き添われてホル国のテントへと向かった。

 王宮を去る時ジュクモが振り返ったかどうか、かなり長い間それが人々の議論の的となった。
 首席大臣はジュクモは何回か振り返ったと言った。だが、より多くの民が王妃は振り返らなかったと言った。

 辺境から援軍が駆けつけた時、王宮はすでに空になっていた。
 王宮を守る戦いで、リン国の三十英雄の多くが勇敢に力を尽くし命を捧げた。

 人々は悲しみに耐えきれず、深いため息をついては言った。
 「煌めく星々は墜ち、リンの空は曇ったままだ」

 ギャツァは悲憤の余り、すぐさま兵を率いて追撃した。
 追撃を始めた時は数千の兵が従っていたが、歩兵たちはあっという間に後ろに置き去りにされた。

 ギャツァは焦りと憤りのため、何度も鞭を揮って駿馬を急かせたので、騎兵たちもまたすぐに置き去りにされた。
 草原に起伏するいくつもの丘一面に散らばっていたホルの大軍に追いついた時には、彼一人と馬だけが残っていた。

 ギャツァは少しもためらうことなく、大きな刀を振りかざしてホルの隊列に突撃して行った。
 左を倒しては右を突き、ギャツァの刀の元に無数のホルの兵士があの世へと送られた。

 だが、ホルの兵士はあまりに多勢だった。
 もし、兵たちが自ら首を差し出し切り落されに来たとしても、七七四十九日かかっただろう。

 終にギャツァは山の頂上に馬を停め、大声で叫んだ。
 「クルカル王よ、出て来てこの刀を受けよ」

 時すでに黄昏、月はまだ昇っていなかったが、その輝きは地平線の下から地上に放たれていた。
 光はギャツァの輪郭を気高く凛々しく浮かび上がらせていた。

 この時ホル三王の八人の王子が呼びかけに応えて応戦した。
 月が昇りはじめてから中天に架かるまでに、八人の王子の内七人がギャツァの刀、槍、矢によって命を失った。

 一人残った最年少の王子は月の光を浴び、顔色は月の光よりもさらに青白かった。
 ギャツァは早くからこの王子が気になっていた。黄泉へと落ちて行った他の王子たちのように、命を懸けた激しい戦いをする者には見えなかった。
のである。

 そこで大声で言った。
 「なんと胆の小さいヤツだ!刀を取って戦え」

 思いがけず、王子は言葉を返した。
 「私たち兄と弟が殺し合うのが耐え難いのです」

 ギャツァはハハハと笑った。
 「オレとお前が兄弟だと?オレは素手の者とは戦わない。早く刀を取れ」

 王子は悲しそうに言った。
 「あなたの漢人の母上は妹がいることを話さなかったのですか。私はホル王の漢妃の子です。母は言っていました。自分には何年も別かれたままの姉がいる、姉の息子はリン国の大英雄ギャツァ・シエガだと」

 宝剣を高く掲げていたギャツァの手が力なく降ろされた。
 「では、オレには弟がいたのか」

 「私がその弟です」

 ギャツァはホルの王子の目に涙が光っているのを見た。

 「だが、オレの母はそのようなことは一言も言わなかった」

 「では、戻ってあなたの母上に尋ねてください」

 「戻って尋ねるだと!お前に命拾いさせ、お前の父親にケサル王の愛する妃を連れ去らせる気だな」
 ギャツァは声を張り上げた。

 「お前の父親に戦いを三日休ませろ。そして、オレと一緒に王城に戻ってオレの母に会うのだ。
  どうだ!」










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