塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 79 物語 愛する妃

2014-11-25 23:13:34 | ケサル
物語:愛する妃 その6




 ケサルは、メイサが無理やりに魔王の妃にさせられながら、心の中で自分を忘れずにいたことを知り、何も言わずにインド商人の服を脱ぎ捨て、戦神の鎧姿を現した。
 メイサも魔国の妃の衣装を脱ぎ捨てると、リンの国でケサルに仕えていた時と同じ純白の衣の姿を現し、思わず涙を流した。

 ケサルの心に熱いものがこみ上げ、愛しい女性を胸に抱き寄せた。

 「大王様、早くリンへ連れ帰ってください」

 「それは私の妻をさらった憎き魔王を倒してからだ」

 「すぐに戻りましょう。魔王の体は巨大で、その力は無限です。王様に倒せるかどうか…」

 メイサはケサルを案内してロザンの使う椀、ロザンが眠る寝床、ロザンが武器とする鉄の玉と鉄の矢を見せた。
 その寝床に横になると、自分が子供になったように思えた。
 椀を持ち上げようとしても持ち上げられなかった。鉄の玉と矢は尚更だった。

 思えば天の母が大力忿怒の法を修練させようとしたのは、早くからこのことを予見していたのだろう。
 だが、修練の最後の数日、ケサルは心が落ち着かず、修行を成し遂げることが出来なかった。

 メイサは早く帰ろうと促した。
 魔王が巡視から帰って来たら面倒なことが起こるかもしれないから、と。

 ケサルは言った。
 「ヤツを倒す方法は他にもある。私は、魔王を殺さなければ国に帰らないと誓ったのだ」

 メイサは再び涙をこぼした。
 一つは自分が魔王に屈してしまった恥ずかしさから、一つはケサルの深く変わらぬ愛への感謝からだった。

 彼女は言った。
 「魔王のあか牛を食べると巨大な体になれると聞いています」
 二人はあか牛を殺し、ケサルがすぐさまそれを口にすると、体はあっという間に高く、大きくなった。

 メイサはまたケサルに言った。
 「あの魔物の魂の宿る海は秘密の蔵に隠してある一杯の血です。魂の宿る樹は金の斧でなければ切り落とせません。魂の宿る牛は純金の矢で射なければ殺せません」

 ケサルはすぐさま城を出て魂の血を干し、魂の樹を切り落とし、魂の牛を射殺してから、城に戻って魂を失った魔王に戦いを挑んだ。
 何回か渡り合う内に、魔王ロザンは心も頭も混乱し、ケサルの放った矢が額の真ん中に命中し、力尽きた。

 勝利した後ケサルは思った。
 もし自分が天の母の意を素直に受けていればメイサはこのような苦しみを受けず、ロザンともこのような戦いをしないで済んだだろう。

 そこでマンダラを設けてロザンを得度し、清らかな土地に生まれ変わり善をなすようにさせた。
 更に、チンエンをリン国の新しい領地を管理する大臣に任じた。

 ケサルは、魔国の風景が黒と白の二色だけではなくなり、水が澄み山が緑に萌え、色とりどりの花が辺り一面を埋め尽くし、馬や牛、林の中の鳥の羽根もが豊かな彩を輝かせるまで二年三か月暮らし、それを見届けてから、メイサと新しい妻アダナムを連れてリン国へと戻って行った。

 チンエンは新しい主人がリンへ帰るのを見送った。
 鏡のように静かな湖まで見送り、ケサルがかなり遠くまで行ってしまってから大声で叫んだ。
 「大王様、私の頭はまだ妖怪のままです」

 ケサルは振り向かなかったが、その声はチンエンの耳元に届いた。
 「湖まで行って映してみなさい」

 チンエンが湖面を覗くと、五つ頭の妖怪はもうそこにはなく、もとのロン国の農夫の顔があった。
 更に、その農夫の頭にはリンの大臣が被る羽根の付いた冠が載っていた。

 三人が一路進んで行くと、知らぬ間にアダナムが守っていた辺境の砦に着いた。
 アダナムはすでに手下に言いつけて、ここで三日の宴を設けるよう準備しておいたのである。

 ケサルは彼女に、何故三日も続く盛宴を用意したのかと尋ねた。
 アダナムは答えた。リン国に着けば誰もが、国王に一人妃が増えたと思うだけでしょう。そこで、自分のために盛大な婚礼の宴を設けたのです。

 だが、この婚礼の宴は三日では終わらず、まるまる三年続いた。
 砦は日夜歌や踊りで賑わい、肉の香りは十里まで漂い、酒の香りは三、四十里を越えた。

 もともとアダナムは魔国を嫌っていた。最も忌むべきは白と黒の二つの色しかないことだった。
 だが今ここには五彩の花々が咲き誇っている。
 それを目にしてから離れるのが少し惜しくなっていた。

 メイサもまた早く国に帰りたくはなかった。
 ケサルは彼女が捕らえられたことに恥入り、充分に寵愛してくれる。
 だが、リン国へ帰れば、彼が最も愛するのは妃ジュクモである。
 その他にも多くの姉妹が寵愛されるのを待ち望んでいる。

 だがここなら、心の真っ直ぐなアダナムと自分だけで分け合えばいい。

 二人の女性は口には出さなかったが、お互いに相手の心を推し量り、この砦に留まったのである。
 しかもそれは、まるまる三年にも及んだ。









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