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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 74 物語 愛する妃

2014-11-09 18:22:54 | ケサル
物語:愛する妃 その2





 大臣たちは、国王に新しい妃を用意すべきかどうか再び協議した。
 リン国ではジュクモたち12姉妹が美女を代表していて、もし更に求めるなら、国の外へ行かなくてはならない。

 臣下たちは、この件では国王が自ら口にするのを待つ訳にはいかないのを知っていた。
 そこで、ある日の朝の政務の場で、使者を選び厚い礼を以て各国に妃を求めに遣わすよう、トトンが上奏した。
 ケサルは、これもまた国王としてあるべきことと考え、他の上奏と同じように、規則に従って許可した。

 政務が終わり、宮殿に戻ると、ジュクモが垂れ幕の後ろに隠れて涙を流しているのを目にした。
 ケサルは、国の外に妃を求めに行くという知らせがすでに宮中に伝わり、そのためジュクモが悲しんでいるとは知らず、なぜ泣いているのかと尋ねた。
 ジュクモが砂の粒が目に入ったと答えると、ケサルはそれ以上は尋ねなかった。

 その時ジュクモが以前ケサルが尋ねた問を問いかけた。
 「国王であるとは、こういうことなのですか」

 こう尋ねられて、また心が塞ぎ、ケサルは疲れ果てたように寝台に凭れ、そして、いつの間にか夢の中に入っていった。

 瑞雲が立ち込め、不思議な香りが溢れる中、天の母ランマダムが目の前に立っていた。
 「息子よ、なぜ何もしないでいるのですか」

 「すべきことは臣下の者がすべて執り行いました。そのため私はやるべきことがありません」

 「だからといって、一日中遊びに耽っていてはなりません。そのまま時が経てば、あなたの法力は失われます。再び妖魔がはびこった時、どう対処するのですか。何事も天に頼ろうとしているのではないでしょうね」

 ケサルは即座に、妃を求めに使者が出発するのを止め、自分は妃たちと離れて古熱神山の洞窟に行き、一人籠って修行する、との思いを伝えた。

 天の母は言った。
 「それならば、メイサを連れて行きなさい」

 「なぜジュクモではないのですか」

 「メイサを連れて行けば悪いことは起こらないでしょう。私は天の神々の意志を伝えに来たのです。覚えておきなさい。
  修業は必ず三七、二十一日間しなくてはなりません。

 ケサルは天の母が訳あって来たのを知らなかった。

 元々、北にはヤルカンという魔の国があった。
 その魔王ロザンはケサルの12人の妃の美しさを聞いて、雲に載ってやって来て、リンの国を一巡り見て回ったのだった。
 その時、魔法にかかったように、リン国の王妃メイサのことが忘れられなくなった。

 神は、ロザンが常には自分の地盤を守り、周りに悪事を働くことがないのを見ていたので、思いのままに動き回るに任せていた。
 だがこの時は、食べ物も喉を通らないほどに、ただ一目見ただけのメイサで頭がいっぱいになり、今にも事を起こしそうに見えた。

 ならば、ランマダムに夢に託してケサルにメイサを連れて洞窟へ修行に行かせ、暫く姿を隠し、魔王のよこしまな想いが収まってから処分を施そう、と考えられたのである。

 ロザンは巨体で、超人的な体力を持っている。
 そこで神は、ケサルに忿怒大力の法を修行させようとした。

 ケサルはこのいきさつを知らなかった。

 短い眠りから醒めても、部屋中に不思議な香りが残っていてた。
 ジュクモは訳を知らず、ケサルに纏わりついて、香料師が新しい発明をしたのか聞き出そうとした。
 
 ケサルは天の母が夢に託したことには触れず、ただこう言った。
 自分はメイサを連れて宮殿を出て、古熱山の洞穴に籠って大力忿怒の法を修行する、と。

 ジュクモは不機嫌に言った。
 「12姉妹では私が一番上なのに、どうしてメイサが王様の修業のお供をするのですか」

 そこでケサルは言った。
 「天の母が神の考えを伝えに来たのだ」

 そこでジュクモはメイサを訪ねた。
 「王様は山に籠って修行されるようよ。あなたを連れて行こうとしているけど、姉妹の中であなたが一番心が細やかでしょう。だから、あなたには残ってメドナズお母様の面倒を見て欲しいの」

 メイサはジュクモが言うのも尤もだと思い、頷いて承諾した。









阿来『ケサル王』 73 物語 愛する妃

2014-11-03 02:12:37 | ケサル
物語:愛する妃 その1



 リンが国として興ってから、ケサルは、国王とはなすべきことが少ないものだと感じていた。
 国家として整った構造は、これまでを一つの政の単位としていた纏まりのない状況よりはるかに優っていた。

 この状況について宮廷の医師はうまい喩えをした。
 それはあたかも人の体のように、経絡と血脈がきちんと通じていれば、活力にあふれた命の気は一巡りしては元に戻り、それを繰り返しながら、自然に流れていくのです、と。

 医師は言った。
 「文では首席大臣ロンツアチャケンがすべてを執り行い、武では将軍たちが辺境を守っております。王様は安心して国王としての楽しみを味われますように」

 「では国王としての楽しみとは何だ」ケサルは尋ねた。

 ケサルは、国王であるということは、毎日楽士の奏でる優雅で魅惑的な音楽を聴きながら金や玉の杯で酒を飲み、寝てはまた醒め、美しい女たちの間を行き来することであるはずがない、と言いたかった。
 日毎行われる朝の政務で上奏されるのはすべて、作物はよく実り、辺境の治安は良く守られ、国は太平、民は平安、というものばかりである。

 国王は何か事が起こるのではないかと思えてならなかった。
 「お前たちが言うことはすべて本当なのか」

 こう尋ねられて、全身全霊を捧げ責務を果たしている大臣たちは深く傷つき、首席大臣であるロンツアでさえも悲しげな表情で言った。
 「王よ、国を上げての安泰を、お喜びになるべきです」

 こうしてケサルは、一国の王であっても心のままを口にしてはならないのだと知った。

 彼は、朝の政務を終え宮殿に帰ると、重い朝服の着替えを手伝うジュクモに言った。
 「なぜ、瞬く間に何もすることがなくなってしまったのだろう」

 ジュクモはいぶかしげな表情をした。
 「国が安らかだというのはそういうものです。天が王様を下界へ遣わされたのは、リンを一つの国とし、英明な国王によって民に穏やかな日々を与えるためではありませんか」

 ケサルの笑顔には疲れの色があった。
 「国王になるとはこういうことだとは思ってもいなかった」

 そこでジュクモはケサルに寄り添い、体の中にある深い愛で国王を慰め、楽しませた。
 だが、ケサルの目には、空に黒い雲が漂うように、けだるさが浮かんでいた。

 ジュクモは御殿医を呼び、国王がこれまでのように生気を漲らせる方法を考えるよう命じた。
 医師が示したのは一種の媚薬だった。

 首席大臣はこれを知り、言った。
 「我が国王は神そのものである。そのようなつまらぬ処方は必要ない」

 またしてもトトンが一つの策を上奏した。
 「王妃はリン一番の色香をお持ちだが、毎夜のお相手には無理がある。国王は女に飽きたのではなく、毎日同じ方と過ごしたために、その感覚が鈍くなったのではないか」

 「お前の考えとは…」

 「ワシだけの考えではない。尋ねてみれば分かるだろう。この人の世のどの国でも、国王の周りには妃が雲のように集まり、後宮が並んでいるのだぞ」

 このことをジュクモに相談するのは憚られた。
 ロンツァは文の大臣を引き連れて、太后となったメドナズに相談した。

 メドナズは剛毅な龍の宮の出であり、当然のようにそれを良しとした。
 「ジュクモは生まれながらに勝ち気な性格です。もし他の国から妃を娶ったら彼女は受け入れないでしょう。
  息子が王になる前、彼女はリンの美しい娘と共に12姉妹と呼ばれ、お互いに慈しみ合ってきました。
  いっそのことその11人の娘をみな宮中に入れ、12王妃としてはどうでしょう」

 そこでまた盛大な宴が催され、楽隊は技の限りを尽くし、武人は宮殿の前で矢を競い合った。
 11人の姉妹は国王の前で喜びの表情を見せた。

 ジュクモは心の内で涙を流したが、皆の前では姉妹たちと睦まじくしていた。

 国王は妃たちと楽しそうに打ち融け合い、心の中にあった憂鬱は消えたかのように見えた。

 ある日、朝の政務を終え、国王は特別に首席大臣の労を慰め、温かくねぎらった。
 ロンツァは胸の前の白い髭を撫で、朗らかに答えた。

 「私は齢八十となりました。これからの80年も王さまに仕えたく存じます。
  我が国が安らかで繁栄しているのは、国王が天の意を受けもたらした賜物であります。
  どうぞリンの磐石な国土をいつまでもお治め下さい」

 臣下たちはみな国王の安穏が国の安穏と信じていた。
 ケサルも彼らの想いに従い、暫く静かな時を過ごした。

 この夜は妃メイサが王の世話に当たっていた。
 朝起きると、ケサルはまたジュクモに言ったと同じ言葉を口にした。
 「これが国王になるということか」

 メイサは言った。
 「今日は小国の者たちが珍しい宝を献上するそうです。王様もいらっしゃったらいかがですか」

 ケサルはけだるい表情で言った。
 「数日前、首席大臣が、新たに貢物を収めるための蔵を建てるよう上奏していた。
  それ程多くの貢物をすべて見尽くすことは出来ないだろう」







ドキュメンタリー『ケサル大王』上映のお知らせ

2014-10-29 03:29:15 | ケサル
ドキュメンタリー『ケサル大王』上映のお知らせ


ケサルはついにリン国の王となり、
ジンメイは学者と出会い、語り部としての地位を確立します。
これから、雄壮で不思議な戦いが始まります。


今回は、昨年劇場上映された映画『ケサル大王』と新作の上映会のお知らせです。



「光の子ゲセル」英語版完成!新作「天空の大巡礼」完成真近!
そして1年ぶりの「ケサル大王」上映決定!


11月22日(土)/12月1日(月)〜4日(木)
 中野ゼロ 視聴覚ホール 午後1時半上映 入場料1500円
 「光の子ゲセル」「ケサル大王」「天空の大巡礼」

11月23日(日)午後1時半上映 三鷹市立南部図書館みんなみ
 「ケサル大王」 入場無料 
  主催:三鷹市教育委員会 協力:アジアアフリカ図書館

11月30日(日)午前11時上映 三鷹沙羅舎
 「天空の大巡礼」 入場料2000円(前売り)
 三鷹いのちと平和映画祭  他の映画もご覧いただけます。




ケサル大王のFacebookページから
https://www.facebook.com/pages/%E3%82%B1%E3%82%B5%E3%83%AB%E5%A4%A7%E7%8E%8B/419486081451560




阿来『ケサル王』 72 語り部 駿馬

2014-10-24 02:48:44 | ケサル
語り部:駿馬 その2




 なんと、その売人はすでに目の前に現われていた。
 サングラスの男、居丈高で、ジンメイが好きになれなかったあの男がそうだったのだ。

 「あの男の言い値が一番高かったのか…いくらだったんだろう」

 その数字はあまりにも大きすぎた。
 ジンメイが持ったことのある金は多くても二百元までだ。だから、その数字は彼の金に対するイメージを完全に超えていた。
 金はそこまで多くなるともう金ではなかった。

 世捨て人のような老人は言った。
 「ワシが何故そうしたか分かったか」

 「どうして呪いをかけたかってことですか」

 「ワシは本当の駿馬をこの草原に残しておきたいのじゃ。駿馬は草原の魂だ。
  あの男は一番良い馬を街に売ってしまう。
  おまけに、競馬の間は毎日、勝敗で賭けをしているそうじゃ。
  だからわしの言うことを聞いてくれ。二度と語りであの馬を慰めないでくれ」

 ジンメイは何も答えなかった。

 「ワシの話が聞こえたのか」
 老人は声を荒げた。そこには威嚇が込められていた。
 「もう一つ頼みがある。次に語る時には、呪いを掛け合う一節を加えてくれ」

 この言葉にジンメイは怒りを感じた。
 彼は信じている。自分が語る物語は神様が望む最も完全な物語なのだ、と。

 彼は地面に唾を吐きかけ、老人に背を向けて丘を降りた。
 高原は何時もそうなのだが、山の上はまだほんのりと光が残っていたのに、谷間はすでに夜の色に覆われていた。

 濃い夜の中に降りて来た時、ジンメイは、さっき自分がしたことが少し怖くなった。
 だが、草の上に吐いた唾を元に戻すことは出来ない。
 そこで彼はあの馬を探し、あの馬のために語ろうと決めた。

 若い騎手はいいとは言わなかった。
 そんなことしたら、馬は決勝の日を待たずに、精力を爆発させてしまう、と言った。
 ジンメイは聞きたかった。もしこの馬が勝ったら、売ってしまうのか、と。
 だがついに何も言えなかった。

 ジンメイは決勝が行われるその日を待たなかった。
 だが、その馬が勝利したのを人づてに知った。彼はその前にここを去ったのだった。

 ジンメイは競馬大会である人物と出会った。その人物は首からカメラをぶら下げ、手にはテープレコーダーを持っていた。
 ジンメイが人々を前に語る時、その人物は録音器を彼の前に置いた。

 その人物は言った。
 「君は国の宝だ」

 昼過ぎ、ジンメイは競馬場の電信柱に寄りかかって眠りながら、自分の語りを聞いたような気がした。
 起き上がって周りを眺めた。その語りはまだ続いている。
 その声はまるで自分の声のようだった。語りの間の取り方、琴の極度な指使いもまるで同じだった。

 不思議に思って立ち上がり辺りを眺めたが、語っている人は見あたらなかった。
 もし夢の中なら、自分が語っている姿が見えるだろう。
 もし夢の中でなかったら、どうしてこんなことが起こるのだろうか。

 電信柱の周りを大勢の人が囲んでいるのに気付き、彼らに向かって大声で尋ねた。
 「ここは夢の中ですか。オレは、夢を見ているのですか」

 彼らはどっと笑った。

 その中の一人が彼の前まで歩いて来て、手を伸ばして電信柱に掛かっているラッパを指さした。
 語りの声はそのラッパから聞こえていた。

 「誰だろう」彼は尋ねた。

 その人物は言った。
 「君だよ」

 ジンメイはぎゅっと口を閉じた。
 その目は、見てくれ、オレは声を出していないぞ、と語っていた。

 その人物は彼を機器が並んだテントへ連れて行った。
 彼がある機器からテープを抜き取ると、語りは止んだ。テープを入れると、語りはまた始まった。
 ジンメイは悟った。

 「分かった。あんたは声を写す人だ」

 この人物はケサルの語りを研究する学者だった。
 彼は親しげにジンメイの肩を引き寄せ、言った。
 「その通りだ。一緒に君の声の写真を撮ろう。どうだね」

 ジンメイはもったいぶって尋ねた。
 「ここで、ですか」

 「私と街へ行くんだ」

 「今ですか」

 「そんなに焦るな。競馬が終わってからだ」

 学者は興奮して、ジンメイを連れて指令センターの大きなテントへ行った。
 そこで学者は多くの幹部たちと握手し挨拶を交わした。彼は興奮を抑えきれず、ジンメイを幹部たちに紹介した。
 「今回の最大の収穫は、ここで一人の国宝を発見したことです」

 「国宝」

 「神から物語を授かった語り部です」

 「ああ、ケサルの語り部か」

 幹部たちの表情は冷やかだった。
 「以前、ケサルの語りが許されなくなると、やつらはみな鼠のように隠れてしまった。近頃、緩やかになったもんだから、早々に地面から顔を出しというわけか」

 ジンメイは、自分が人間ではなく、まるで鼠のように体が小さくなった気がした。

 学者は構わずに意見を述べた。
 「決勝が始まる前に、彼の『競馬で王になる』の語りを放送したらいかがでしょう」
 
 幹部は笑って、学者の肩を引き寄せてテントの外へと向かった。
 「先生の学問は素晴らしい、尊敬に値しますな。暇な時にまた遊びにいらっしゃい。では、これから会議があるので…」

 こう言って幹部は学者をテントから送り出した。
 ジンメイも一緒にテントから出た。

 学者は次の日の朝ここを発つことに決めた。

 午後、彼はカメラを持ってジンメイと河辺の柳の林に行き、自分が国宝と呼んだ語り部が、駿馬のたてがみをなでながらその駿馬に向って語るのを見ていた。






阿来『ケサル王』 71 語り部 駿馬

2014-10-21 19:05:08 | ケサル
語り部:駿馬 その1




 カムの競馬大会が始まった。

 一日目は予選である。

 多くの馬、多くの騎手が、一度に並び同時に出発するとしたら、スタートラインは少なくとも2kmはなくてはならない。
 だが、世界中のどこにそんなに長いスタートラインがあるだろうか。
 そこで、一組ずつ分かれて駆けることになる。

 スタートラインの片側では、係員がピストルを持ち引き金に手を掛けて撃つ用意をしている。
 スタートラインの反対側には三角の旗を持った号令役が立ち、騎手は手綱を引き締めてライン上で待ち構えている。

 見物を楽しもうと、夥しい人々がやって来て、警官たちは草原に列を作った。
 馬が競い合うコースを確保するためである。

 ピストルの音が鳴り響き、旗が振られると、一群の馬が向かいの丘のふもとのゴール目指して疾走する。
 そこにはビーチパラソルの下に高い椅子が置かれ、ストップウォッチを握った審判員が座り、馬が白い線を超えるごとに時間を記録していく。

 ジンメイはやっと人の群れに割り込んだが、見たこともない人の渦に気を取られて、馬を見るどころではなかった。
 その時黒いサングラスをかけた男が彼の耳元で言った。

 「本当の名馬は初めから姿を見せはしない。クライマックスはまだまだこれからだ」

 この男は自分に話しているのだろうか。

 男は言った。
 「そうだ、お前さんに話してるんだ。俺のテントに来てくれないか。茶でも飲んで一休みしよう」

 言い終ると、振り向いて人ごみから離れて行った。
 ジンメイも男に着いて人ごみをかき分けた。男は遠くのテントの前で手招きしている。

 外は陽の光に焼かれそうだったが、テントの中はひんやりしていた。ジンメイは茶を飲んだ。男は言った。

 「お前さんは馬の話を語っただろう。だから、馬のことを分かっているかと思ってな」

 ジンメイは首を振った。自分はただ神の意志で語っているだけなのだ。

 男は考える間も与えず言った。
 「馬を語るなら、馬のことをよく分かっているはずだ」

 ジンメイは以前黄昏の丘に現れた世捨て人のような老人を思い出した。ジンメイは言った。

 「馬のことを分かる人とは、馬を讃える歌ばかり歌う人のことでは…」

 薄暗いテントの中でもサングラスをはずさない男はため息をついた。
 「行こう」
 ジンメイはまた彼に着いてテントの街を抜け、小さな丘の下に来た。

 河原を埋める柳の林の中で、数人の男がひどく疲れた様子の馬を囲んでいる。
 生気はないが美しさではどの馬にも負けていない。サングラスの男は言った。

 「最後に戦って賞を獲るのはこのような馬だ」

 「でも、あまり嬉しそうじゃないですね」

 「優秀な馬が競馬に出るのに嬉しくないわけがないだろう。もし競馬大会がなければ、世界に駿馬は必要ないんだからな」

 「だったら…病気なのでは」

 「優秀な馬は競馬の時に病気になったりしない」

 サングラスの男は言った。
 この馬は他の馬主に呪いをかけられたのだ。
 男たちは、呪いをかけたのは馬を賛美するあの老人ではないかと考えていた。

 彼らが言うには、老人は実はかなりな呪術師で、ライバルの馬の持ち主から呪いをかけるよう頼まれたらしい。
 彩雲模様が刺繍されたブーツを履いた騎手は馬のたてがみをそっと撫でながら涙を流した。

 彼らはジンメイに相手の馬に呪いをかけてくれとせがんだ。
 だが、ジンメイに呪いなど出来るはずがない。

 「お前さんの語りの中では、ケサルはどんな呪術にも通じているじゃないか。その通りにやってみてくれ」

 彼らが言うには、この馬は言うなればケサルの乗るジアンガペイフであり、そして、そのライバルとは正に玉佳馬なのだ。
 サングラスの男は「競馬で王になる」の一節を聞いたことがあった。

 競馬の前の夜、ジョルとトトンはお互いに呪いをかけあって、相手の馬を痛めつけようと謀る。
 それを知った神は競馬大会を正しく行わせるために、二人の醜い戦いを制止するのである。
 こうして、今日まで伝わる物語が生まれた。ケサルが競馬でリン国の王になる一節である。

 だが、ジンメイが語る物語にはこの場面はなかった。

 サングラスの男の怒りが爆発した。
 「なんでだ。なんでお前の物語にこの場面がないんだ。もしかして、お前は名前だけで、中身のないないペテン師だろう」

 ジンメイは苦笑いした。
 「ペテン師?オレが?」

 自分は家族もなく、ケサルを語る時の衣装以外、余分なものは何も持っていないのに。
 だから、彼はいくらか悲痛な思いで繰り返した。
 「どうしてオレがペテン師にならなきゃいけないんですか」

 サングラスの男は怒りを抑えられなかった。
 「ただ飯を食うために決まってるだろう」

 「羊飼いをしていた時には、こんなに長い間歩き回らなくても、ちゃんと食えてだんだ」

 「それなら」騎手は涙を手で拭きながら小さな声で頼んだ。
 「おれの大切な馬に英雄の話を語ってくれないか」

 彼は錦の外套を脱いで柳の木の下に敷き、座って歌うよう言った。
 ジンメイはこの若者に心を動かされ、座らずに、馬の前に立って、たてがみを撫でながらゆっくりと語った。

 柳の影がぐるりと取り囲み、まるで耳を凝らして聞きいっているようだった。

 垂れさがっていた馬の耳がピンと立ち上がり、生気のなかった毛色は、語りに連れて艶やかさを取り戻していった。
 その光景を目の当たりにして、若い騎手は彼に向かって跪いた。
 ジンメイは、奇跡が現われたのは自分のせいだとは信じなかった。

 彼は言った。
 「美しくて馬だ。もしオレの語りがこの素晴らしい馬の薬になるんだったら、何時でも訪ねて来なさい」

 柳の林を出た後、ジンメイは河を見つめながら自分でも感動して暫く泣いた。
 泣き声は立てなかった。

 河辺に立ち顔を上げたまま涙で目の前がぼやけるのに任せていると、涙の光の中の空に様々な幻影が見えた。
 ジンメイはそのまま河辺の草地に暫く座って静かに思いにふけった。
 だが実は、何も考えてはいなかった。

 ただ、周りの世界を感じていただけだった。
 すぐそばで紫苑が花を開かせ、澄んだ鳥の声が頭の上から滴り落ち、心の底へと届くのを感じていた。

 黄昏の夕映えが再び天を燃え上がらせる頃、彼は後ろの丘に登った。

 今回は彼が先に丘の上に着いた。その後から、馬を賛美する老人が現われた。

 老人は言った。
 「おお、今回はお前が先に来たのか」

 「追いかけっこじゃあるまいし。どっちが先も後もないでしょう」

 「昨日の夜お前の語りを聞いたぞ」

 「気が付きませんでした」

 「本当の語り部なら、教えを請うて、一言挨拶するんじゃがな」

 「神様がオレを歌わせるし、教えてくれるのも神様です」

 「どうして競馬の前の夜、ジョルとトトンが呪いをかけ合う場面を語らなかったのかね」

 「そんなに呪いが好きなんですか」

 「お前の法力もかなりのものじゃろうな」

 ジンメイは周りを敵にしたくなかった。
 誰かに呪いをかけて、相手の呪術師を敵にするのだと考えると、少し怖い。
 彼は名の通った仲肯になった。だが彼の心はもとの羊飼いの心のままだった。
 正直で人の心を傷つけず、そして、見るからに凶悪そうな人物は怖かった。
 取り入るような笑顔を作るのを恨んだが、やはりそんな表情を浮かべてしまうのだった。

 「誰かの馬が病気になって、男たちがオレに語らせたんです。そしたら、馬の毛色が艶々して来ました」

 「それは本当か」

 ジンメイは何も言わなかった。

 「お前がでたらめを言うはずはないな」

 「どうしてでたらめを言わなくちゃならないんですか」

 世捨て人のような老人は彼の問いに応えず、言った。
 「これからは、あの馬のために語る必要はない」

 ジンメイはゆっくりと首を振った。
 彼はあの馬が好きであり、その馬を心配して涙を流した騎手が好きだった。
 もちろん、サングラスの男は嫌いだったが。

 老人は言った。
「お前はまだ自分の物語の中にいるようじゃな。競馬では、ケサルの物語のように、正しい人が王座に着くと信じているんじゃろう。
 じゃがな、分かっているか。優勝した馬にどんな運命が待っているのか。
 一番高い値を付けた売人に売られてしまうんじゃ」








阿来『ケサル王』 70 物語 競馬で王となる-2

2014-10-16 23:11:47 | ケサル
物語:競馬で王となる-2  その2



 一日の内に、まとまりのなかったリンは秩序だった一つの国となった。

 醜い少年は見目麗しく威厳ある国王となり、リンで最も美しい娘は国王の花嫁となった。

 人々が宴を楽しんでいる間に、天の意に応えて、新しい王宮がまるで雨上がりの茸のように、地面を突き破って現われ、悠然と草原をうねって行く黄河を臨んで聳え立った。
 神々が施した法力によって王宮は水晶のように光り輝やいた。

 今までテントの中の五彩の敷物に肩を並べて座っていた人々は、歌と楽の音の響く中、気が付くといつの間にか百二十本の柏の木に支えられた雄壮な大広間に中にいた。
 目の前で、玉の台座が徐々に昇って行き、一段一段、それぞれの地位によって高さを変えていった。

 最高の宝座に座ったケサルは居並ぶ人々、大臣、武将、そして天に向かって、国土を建て直し魔物たちを平定するという壮大な願いを、重ねて宣言した。彼の声は銅の鐘を叩くかのように宮殿に響き渡った。

 大広間の外から歌と楽の音が徐々に近づいて来て、神でもあり人でもある匠たちが入って来た。
 正しく言えば、彼らは来た時は人だったが、後に、リンで職人の神となるのである。

 冶金の術をもたらした鉄の父、鍛冶屋の神、後に、彼はリンの兵器部の首領となった。

 木彫師。

 土を焼いて滑らかな瑠璃に変える陶工。

 琴作り師。

 広い街道を穿ちながら、山神の怒りに触れることのない風水師。

 花と花が人のように愛し合い、より豊かに種が実るようにする種の魔術師。後に、彼は農民が祭る豊穣の神となった。

 風を起こす袋を持ち幾つもの花の香りを集める香料師。後の世で、彼は美を愛する女性が自らの部屋で祭る秘密の神となった。
 彼の許しを得た女性は、様々な花の香を体から立ち昇らせたという。

 ケサル王は言った。
 「匠の方々、諸君は王宮の建設にそれぞれに貢献された。この先の私の事業にも諸君の更なる貢献が必要だ。
  ひとまず座って酒を飲み楽まれるように」

 あたかも神のように突然現れたこれらの匠たちは皆席に着いた。

 ただ琴作り師だけが口を開いた。
 「この美酒は爽やかで口当たりが良い。だが、楽の音はいささか耳に刺さります。
  祭祀と出征に際して奏される耳をつんざく高らかな太鼓やラッパは、優雅で威厳に満ちた宮殿にふさわしくないでしょう。
  これらの無骨な者たちに、心穏やかで高雅な管弦の楽を奏でさせるまで、しばらくお待ちください」

 ケサルは微笑みながらうなずいた。

 人々は、このような大言を口にする者が、どのように短い時間で、力任せに演奏する獰猛な男たちに、彼の言うような高雅な楽を奏でさせるのか見守った。

 琴作り師は、琴を手に楽隊の前に進み出ると、謎めいた笑みを浮かべ、一本の指を唇に当てた。
 彼は息の音も立てずに楽隊の演奏を止めた。

 彼は琴の弦を弾いた。
 その音は、吟詠のための旋律ではなく、透き通った波しぶきが渓流の上を舞っているようであり、湖に沸き立つさざ波に太陽の光が降り注ぐようでもあった。

 琴の弦と指の間から連なった音が溢れ、こぼれ落ち、すると彼自身もまたその音が遠くへ行き、また戻って来るのに耳を傾けた。

 こうして音が行き来する間に、楽隊たちの厳めしい表情は穏やかに厳粛に変わっていった。

 琴作り師が太鼓の膜をそっと撫でると、固まっていた生贄の血が剥がれ落ち、蓮の花が現われた。
 彼が琴の弦を撫でると、清らかな風が掠めたように、人間の大腿骨で作られたラッパは地に落ちて砕けた。

 彼は言った。
 「みなに琴を与えよう」
 彼らの手に一つずつ琴が現われた。

 彼は言った。
 「私について弾きなさい」
 彼らは弾き始めた。

 音はすべての人を軽く撫でていった。それまでの太鼓とラッパの音のように力づくで耳に吹き込むのではなく、心の深くをそっと撫でていった。
 そのため、誰もが自分の心臓を見た。
 薄赤色に煮えたぎり、開くのを待つ蓮の花のようだった。

 それまで楽隊はみな戦士と占い師だっが、琴の音の中で彼らは本当の楽師となった。
 旋律の高まりに連れて涙が溢れ、流れ落ちた。
 そのため、彼らは「二度生まれた人」と呼ばれた。

 その時、多くの女性がこの琴作り師を愛した。
 だが後に、風説が広まった。
 ある女性が、彼が湖のほとりで沐浴しているのをこっそり覗くと、その琴作師はなんと女性だった、というのである。

 だが、主要な集まりで管弦の楽が奏でられる度に、女性たちは心をときめかせずにはいられなかった。
 王妃ジュクモでさえ、ケサルの傍らに座り、彼の力を頼みにしなければ、激しい思いを抑えることが出来なかっただろう。

 その楽の音が人々の心に呼び覚ます情感があまりに美しかったからである。








阿来『ケサル王』 69 物語 競馬で王となる-2

2014-10-08 02:07:56 | ケサル
物語:競馬で王となるー2 その1



 ジョルが宝座に座ったその時、この世のものとは思えない光景が繰り広げられた。

 五彩の瑞雲が現われて、瞬く間に空一面に広がった。暫くして雲は波打つように二つに分かれた。
 天の扉が開いたのである。

 吉祥長寿の天女が矢と聚宝盆(宝を出し続ける鉢)を手に虹に乗って現れた。
 同じ虹の更なる高みには、天母ランマダムが矢壺を手に、菩薩たちを引き連れて姿を見せた。

 天馬ジアンガペイフが天を見あげて三度高くいなないた。
 ジョルが山神が献上した鍵を古熱山の岩に向かって投げると、連なる山々はすべてゴウゴウと鳴り響き、岩がなだれのように崩れ落ち、山の奥深くに七種の珍宝を隠していた水晶の扉が大きな音と共に開いた。
 山神の従者達がこれらの宝をすべて玉座の前に運んだ。

 男神たちが現れた。
 神々がそれぞれ捧げ持っているのは、雪の峰のように白い兜、黒い鉄の鎧、赤い蔓の盾、そして戦神の魂が宿った虎の弓袋…神々は勇士として持つべきものを一つずつ捧げ持ち、次々と現れては、ジョルの体に正しく添えていった。

 背に負う弓、腰に履く剣、手に持つ投げ縄、神の力の宿った縄、山を切り裂く斧…敵を制するすぐれた武器で戦いの姿を整えた。

 華やかな衣装、瞬時に変化した姿かたち。
 王となった人物は、醜くおどけた少年から、瞬く間に、威風堂々とした気迫を漲らせ、周囲を圧倒していた。

 その間、辺りは厳かな楽で満たされ、のびやかに舞う天女たちが空から色とりどりの花を雨のように降らせていた。

 リンの地に生まれてから、ジョルは黒い雲に覆われた太陽のように、その輝きを放ち続けることが出来なかった。
 深い泥沼に沈んだ蓮の花のように、想いのままに魅惑的な香りを発することが出来なかった。

 人々のために幾つも良い行いをしながら、の人々によって荒野へ追放された。
 夥しい妖魔や妖怪を降伏しながら、残忍な本性を現していると受け取られた。

 思えば、これは神の思し召しだった。
 人々の苦しみを身をもって知るようにと、彼に人の苦しみを味わい尽くさせたのである。

 今、彼はついに王位に座った。

 宝を捧げ、加護を与えるために姿を現した男神は去って行った。
 祝福のために現れた女神も姿を消した。
 緩やかに閉じられた天の門から天上へと戻って行ったのである。
 
 天は、最後に厳かな声が響かせた。

 「これより、天下にリン国あり。
  リン国にケサル王あり」

 リン国の人々はやっと夢から醒めたように、喜び叫びながら、競馬を観戦していた神山から一斉に降りて来て、金の王座に座っている神の子の前で、歓呼の声を挙げた。

 姿かたちを一新し、堂々たる威風を備えた人物、即ち彼らの王はリンを一つの国に変えた。

 ケサルは金の王座からゆっくりと立ち上がった。
 彼が人々をぐるりと見渡すと、喜びの声は収まり、皆息を殺して、その言葉を待った。

 ケサルは王座から臣民を見降ろしながら、ゆっくりと口を開いた。

 「競馬に参加した英雄たち、リンの民たちよ、
  下界に降り、妖魔を倒し人々の命を守ろうと自ら発願してから12年が経った。
  この12年の季節の移り変わりの中で、私がした全ての行いを誰もが目にしてきたはずだ。
  今リン国の黄金の玉座へと昇りついた。これは天の意を受けてのことではあるが、皆の者は心から承服してくれるだろうか」

 老総督は大声で叫んだ。

 「神はリンに福を賜った。彼こそは我々リン国の英雄、王である」

 王。
 これは新しい言葉だった。リンの民はこれまで口にしたことがなかった。だが、心の中で待ち望んでいた。
 それは早くから来るはずだったが、なかなか現れなかった。

 そして今日、色鮮やかな功徳の花を降らせながら目の前に現れたのである。
 そこで彼らは、千万の心、千万の口を揃えて、何よりも尊いものを讃えるかのように叫んだ

 「王、王、王!」

 「ケサル!王!ケサル王!」

 彼らの叫びはこの至高の称号を、どのように珍しい宝よりもさらに煌びやかに輝かせた。

 その日、黄河の上流下流に広がる草原からは、身を潜めていた妖魔たちが、人々の声が地を揺るがす中で、遥か遠くの荒れ果てた地に逃げ去ったという。

 老総督ロンツァ・タゲンは、各の首領を率いてそれぞれの系図と旗を献上し、忠誠を示した。
 ケサルは意気高らかに人々の心からの喜びの声を受けとめ、手を挙げてそれを制すると、大臣、大将の指名を始めた。

 まず、老総督を首席大臣に任じた。以下には、補佐の大臣、各を繋ぐ万戸長、千戸長を置いた。
 更に、リンの三十英雄の中のギャツァ、タンマ、ニペン・ダヤ、ネンツァ・アダンを四大将軍に任じ、大軍を率いて辺境の守備に当たらせた。
 その下には、各正副将軍、千夫長、百夫長を置いた。

 国師、軍医に至るまで漏れるところなく、人々は誰からともなく口を揃えて褒め称えた。

 失望の極みのトトンでさえ、自分のよこしまな感情を抑えるしかなく、前に進み出て、新しい国王に額ずき、祝いの言葉を述べた。
 彼は心にある謀り事を抱いて言った。

 「大王様、リンはすでに国となりました。では、高貴な金の玉座はどこに置かれるおつもりですか。
  まず、大王様はダロンの長官の砦に移って頂き、暫く王宮としてくだされ。
  上中下のリンで我々ダロンほど華やかで気勢に富む砦はありましょうか」

 首席大臣ロンツァ・タゲンが進言した。
 「国王は国土の中心におわすべきです。ダロンは一方に偏っている。
  国王の宝座をそこに置けば、地方に甘んじることになりましょう」

 二人は自分の考えに固執し、争うばかりで答えが出なかった。
 聞く者たちも、それぞれに道理があるように思え、どちらに着くべきか決められなかった。

 ケサルは微笑んで言った。

 「二人ともいつまでも言い争わずともよいでしょう。
  まずは、テントに入って私の勝利の酒を飲み、その後でまた論を戦わせましょう」

 そこで英雄たち馬に跨って山を駆け降り、共に大きなテントに入った。

 酒とつまみが並べられ、ジュクモが美しく着飾ったリンの女性たちを率いて軽やかな舞を献上した。
 ジュクモはしなやかに舞いながらケサルの前まで来ると、国王の男らしさに心が震え慕わしさが溢れた。

 彼女は跪き、特上の酒を高く捧げ、艶やかな声で言った。

 「私の王様、あなたの太陽のような輝きが永遠に私を包んでくださいますように。
  私の幸せが花と開きますように。
  四方を征服する時には、常に王様の元に寄り添い、どこまでもお供し、お助け出来ますように」

 ケサルは立ち上がり、ジュクモを助け起こすと、自分の席の傍らに導いた。人々は祝福のハタを捧げた。







阿来『ケサル王』 68 物語 競馬で王となる

2014-10-04 02:12:32 | ケサル
物語:競馬で王となる その5





 トトンは心の底からほっとして思った。
 「この乳臭さの抜けきらぬ乞食坊主は黄金の王座に怖気づいたのだ」

 彼は目を血走らせ、だが、口ではいかにも親密そうに言った。
 「甥よ、お前は本当に利口だ。権力を手に入れたら民の憂いを引き受けなくてはならない。そうなったら耐え難い苦痛を味わうことになるのだから」

 「では、もう一つ教えて下さい。賞品の若い娘はどうですか」

 「山の上に成っている実を見たことがあるだろう。赤くて艶々して蜜のように甘そうに見える。
  だが、もし腹に入れたらあの世に送られてしまうのだ」

 「では、世の珍しい宝物は。叔父さんには、寝ても覚めても気になるものでしょう」

 ジョルが天の母から意を授かった時、競馬の賞品は王位だけだった。
 トトンが提議した時に、リンで一番の美女ジュクモと古熱山の宝の庫が加えられた。
 だが今、その宝の庫の鍵はジョルの懐にある。

 トトンはジョルの言葉にあからさまな皮肉を聞き取ったが、もうそんなことにかまっている場合ではなかった。

 「甥よ、道を開けてくれ。ワシに王座に座って皆のために働かせてくれ。
  お前は今まで通り悩みのない気ままな日を送ればいい」

 ジョルは笑った。
 「そんなに大変な椅子なら、叔父さん、やはり私に座らせてください。
  私は黄河を丸々8年彷徨って来ました。どんなにつらくても大丈夫です。
  叔父さんは玉佳馬をしっかりと面倒見てあげて下さい」

 ジョルが鞭を振り上げると、地面に横たわっていた玉佳馬はさっと立ち上がった。
 トトンはまた金の王座への夢が頭をもたげ、手綱を牽いて馬に飛び乗ろうとした。
 馬は前脚の力がへなへなと抜けて又地面に這いつくばった。

 「おじさん、身の丈に合わない夢を見たら、大切な馬を死なせてしまうだけですよ」

 トトンは玉佳馬の首を抱き、ワーワーと泣いた。

 「甥よ、おれの馬を立たせてくれ」

 あまりにも悲しげな泣き声にジョルも心を動かされた。

 「叔父さん、王座は叔父さんにはふさわしくないのです。もう忘れましょう。
  そうしたら、玉佳馬はもう一度飛ぶように走れるでしょう」

 トトンは納得できず、叫んだ。
 「馬頭明王が予言したのだ。金の王座には達絨の者が座るべきだ、と」

 ジョルはおかしな形の帽子を脱いで投げ捨てると、汗を拭くように顔を撫でた。
 瞬間、馬頭明王の憤怒の猛々しい姿が現われた。
 トトンは目をこすり、もっとはっきり見ようとしたが、元の姿に戻ったジョルを見ただけだった。

 いや。もう元の姿ではなかった。より正確に言えば、ジョルの姿は変化していた。
 狭かった額は広くなり、鼻は高く眉はすっきりと力強く、高原の太陽に焼け焦げた皮膚は剥がれ落ち、新しく生まれた皮膚はまるで滑らかな玉のようだった。

 トトンは心の中で叫ぶしかなかった。
 「天はワシに強い神通力を与え、はかりごとの力を与えたのに、なぜまた天の子を下してリンの高貴な王位に座らせるのだ」

 変化を続けながら、ジョルは金の宝座の前に来た。
 だが、急いで座ろうとせず、しげしげと眺めた。

 どうしてこの宝座に座ると、権力と富と美女が手に入り、人々から羨ましがられるのか。
 この金の宝座にはそれだけの意味しかないのか。

 彼は空を見上げた。
 空は何時もどおり青く、沈黙したままだった。

 果てしない草原はどこまでも広がり、まるで、長い道のりを駆けてきた人々が目的地に着いた後につく深く快いため息のようだった。
 雪の峰は輝き、岩は高く聳え、鷹は翼を広げ人々の目を遥か彼方へ誘った。

 するとたちまち、天と地の間の一切が動きを止めた。
 息を殺して天の定めた勝者が最後の一歩を踏み出すのを待った。

 全ては天の定めたことではあるが、だが、自分はこの一歩を踏み出すまでに12年間歩み続けて来た。
 自分は必ず、心落ち着くこの草原をリンの人々の幸せな故郷へと変えることが出来るだろう。

 このような想いを抱いてジョルは静かに宝座に座った。

 拉底山の上で競馬を見物していた人々がみな呆然となった。

 彼らがジョルの勝利を知り、天をも揺るがす喜びの声をあげた時、不思議な光景が目の前に繰り広げられたのである。










阿来『ケサル王』 67 物語 競馬で王となる

2014-09-30 00:50:26 | ケサル

物語:競馬で王となる その4




 賢いジアンガペイフは、主人が手綱を少し挙げただけで、四本の脚に風を孕み、まるで電光のようにすぐに老総督に追いついた。
 ジョルは親族の序列で呼んだ。

 「叔父上」

 老総督は規律を重んじる人物である。すぐに彼に意見を始めた。

 「血縁から言えばワシはお前の叔父だ。だが、それは身内の中だけで使うべきだ。
  このような公の場では総督と呼びなさい」

 ジョルは速度を緩め、言った。

 「私の考えも聞いてください。
  競馬が始まって、リンの古い秩序は取り払われました。誰かが金の王座を獲った時に、改めて新しい序列が作られるんです。
  だから今は叔父上と呼ぶしかありません」

 老総督ロンツァは思わずうなずき微笑んだ。
 「やはり天から降った神の子だ。このような道理を語れるとは。
  さあ、早く馬に鞭を当て、行くのだ。王位を獲り、天の意志と民の思いを成し遂げるのだ」

 ジョルは老総督に、もし自分が王位に就いたら首席大臣になって欲しい、と言おうとした。
 だが、総督ロンツア・チャゲンがジョルの馬の尻に鞭を一つ入れると、ジャンガペイフは弓から放たれた矢のように走り出し、ジョル乗せて、いとも簡単にトトンの玉佳馬の前まで走り付いた。

 トトンはこの時早くもリンの英雄たちを遥かに引き離していた。
 彼の玉佳馬は走り出すと四本の足が風を生む。並の人間が乗れば頭がくらくらして眩暈を起こすだろう。
 だが、彼は神通力を使って何事もない様子で、まるで地面にいるようにどっしりとしていた。

 競馬の終点古熱山が丸い兜のように目の前に現れた。

 トトンはこれまでずっと先頭を一人走っていたが、この瞬間、黄金の王座が目の前に見えたような気がした。
 実は、トトンはジョルを有力な相手と見做していた。だが、戦いが始まろうとした時に奇怪な身なりのジョルを見ただけで、その後は影も形も見えない。

 今、自分一人、他を引き離し、山の中腹に置かれた金の王座を目の前にしている。
 馬頭明王の予言は間もなく実現される。絶世の美女ジュクモが自分のものになる。古熱山の宝の蔵の門も間自分のために開かれる…

 体が軽くなり空にいるような気がした。姿を見せず行き来する仙人のように。

 彼の心はどこまでも飛び続け、未来まで飛び、王を名乗った後のありとあらゆる威厳に満ちた自分の姿を見た。

 まさにその時、後ろからハアハアという息遣いが聞こえた。
 振り向くとジョルが息をあげながら近づいて来る。あと数歩も走れば馬の背から転げ落ちそうだ。

 トトンは笑った。

 「たとえお前が全ての力を出し切っても、金の王座ははるかに遠いぞ。
  だが、ワシの可愛い甥よ。お前はつわもの者たちをはるかに引き離して来たのだ。将来城で仕える時は一番前を歩かせてやろう」

 ジョルは知っていた、自分の馬鹿な振りがまた野心漫漫の叔父を刺激しているのを。
 そこですぐに軽快な動作で鞭を一振りした。

 トトンには傍らを一筋の光が掠めて行くのが見えただけだったが、次の瞬間、ジョルと彼の神馬はずっと先を走っていた。
 トトンの得意気な様子はあっという間に消え失せ、絶望した彼は怒りのためもう少しで血を吐きそうになった。

 気を鎮めると、トトンは障碍の法を施した。
 だが、天馬は一筋の強烈な光に姿を変え、トトンが瞬時に張り巡らした目隠しの黒い壁を通り抜けた。かえって彼自身がその強い光に当たって目の前がまっ黒になり、体がふらふらして、もう少しで馬から落ちるところだった。

 こうなれば仕方ない、彼は玉佳馬を鞭打ち、懸命に前へと進んだ。
 山の中腹まで来ると、金の王座は目の前だった。
 あと十数歩進んで馬から一踊りしたら、金の王座にピタリと尻がおさまりそうだった。

 不思議なことに彼の前を走っていたジョルの姿が見えない。
 あの小僧は馬に乗り慣れなくて、到着しておきながら乗っている馬を制御できず、闇雲に走り回る馬に山の向こうへ連れて行かれたのだろう。

 彼はごくりとつばを飲み込んで、両足で馬の腹を挟み、前に進ませようとした。
 だが、玉佳馬は空を蹴りながら体は逆に後ろへ下がって行く。

 近づいて来るべき金の王座が遠のいて行くのを見て、トトンは驚き叫んだ。

 だが、彼がどんなに手綱を引き締めても、玉佳馬が後ろへ下がるのを停められなかった。
 そこで転がるように馬を降り、自分の足で王座に向かおうとした。
 玉佳馬は後ろで悲しげに啼いている。

 それを聞いたトトンは堪え切れず、振り向いて言った。

 「玉佳よ、どうしようもないのだ。ワシが王位を獲ったら戻って面倒を見てやるからな」
 玉佳馬は足の力が抜けて地面にへたり込んだ。

 トトンは手と足を使い、目と鼻の先の王座に向かって這って行った。
 だが彼が少し前に行くと、王座は後ろに退き、どうしても手を触れられず、永遠に辿り着けそうもない。

 必至であがいている時、ジョルの笑い声が聞こえた。
 恨めしさと恥ずかしさが怒りに変わった。

 「卑しい乞食坊主!ワシを馬鹿にするのか」

 「高貴な身分の叔父さん、それは私のことですか」

 「何故競馬の最中に法術を使うのだ」

 「それはおじさんが私に掛けた障碍の術でしょう。私は叔父さんに術を使ったりしてませんよ」

 「では、なぜワシはこんなに懸命に走って来たのに王座に辿り着けないのだ」

 「それは天の神が下した罰です。
  叔父さん、私とジアンガペイフは王座の周りをもうニ回廻りました。
  でもまだ座わっていません」












阿来『ケサル王』 66 物語 競馬で王となる

2014-09-25 02:33:30 | ケサル
物語:競馬で王となる その3




 鞭を当てるまでもなく、ただ首を軽くたたいただけで、天馬・ジアンガペイフはすぐさま全力で疾走し始め、気が付くと、雷鳴が轟いているかのような馬の群れの中にいた。
 の名高い占い師が馬を駆って王位を争う隊伍の中を走っているのが見えた。

 ジョルは速度を緩め、占い師と馬を並べて進んだ。
 「占い師殿、あなたは自分のことを占ったのですね。でなければ、こんなに懸命に馬を走らせたりしないでしょう。金の王座があなたを呼んでいるのですか」

 占い師は速度を落とさないばかりか、馬に二回鞭を当て、息を荒げながら答えた。
 「自分を占うものは両の眼が盲いるのだ。そうでなければ、とっくに占っている」

 「占い師も英雄と同じように、周りの国々を征服し、統治できるとお考えですか」

 占い師は笑った。
 「お前がこの馬の群れの中を走っているのも、あの魅力的な王座のためではないのか」

 ジョルは声を高め、天の母が競馬の策を授けた時に言い出せなかった疑問を口にした。

 「教えて下さい。
  インドの法王の宝座、漢の皇帝の龍の椅子、そして多くの国々の王位。そのどれもが競馬によって決められることなどないそうです。
  それなのに、ここでは馬が早いものが王になり、馬が遅いものが仕えるものになる。
  これはおかしなことではないでしょうか」

 「漢の地にはこんな言葉がある。
  馬上で天下は治められなくとも、馬上で天下を獲ることは出来る、と」

 「あなたも天下が獲りたいのですね。自分を占えないなら、私を占ってください」

 「こんな時に、のんきに尋ね事をされるとは」占い師は耐えきれなくなっていた。

 「私が競馬に勝利して王になれるのか聞きたいのです」

 占い師は大笑いした。
 「矢がまだ放たれない時であれば、的に当たるかどうか聞いても構わない。
  だが今、矢はすでに放たれた。わしより優れた占い師でも占いのしようがないだろう」

 言い終ると、彼は馬を鞭打って前へと駆けて行った。

 ジョルはニヤリとして、占い師が矢が届くほどの距離まで駆けた時、手綱を振り上げると、ジャンガペイフは飛ぶように占い師を追い越した。
 追い越す時、ジョルは一言言葉を投げかけた。

 「優れた占い師殿、あなたは肝心な所でいい加減なことを言わなかった。
  もし私が勝利したら、私の占い師に任じましょう」

 この時、高名な医者も馬に乗って前へと駆けているのが見えた。
 だが彼の馬は今にも力が抜けて倒れそうだった。

 そこで、ジョルは一声叫んだ。
 「優れた医師殿、薬袋が落ちましたよ」

 医者は即座に手綱を締めて馬を停め、薬袋がしっかりと鞍に縛りつけられているのを目にすると、さっと怒りの色を現わにした。
 それを見たジョルは笑いながら言った。

 「あなたの馬が疲れて果てて直ぐにも倒れそうに見えたのです。少し速度を緩めたほうがいいのでは」

 医者も笑い返し、速度を緩め、ジョルと轡を並べて進んだ。
 ジョルが言った。

 「先生、あなたはどこか悪いところがあるのでは」


 医者は言った。
 「病のない者に病だと言うのは、悪意を持った呪いをかけるようなものだ」

 「では私に病があるのかもしれません」

 「どんなに奇怪な身なりをしても、そなたの目はすっきりと澄んでいる。患ってなどいない」

 「いえ、病があるのです」

 医者はそれを真剣に受け、王位を争うことなど全く忘れたように話し始めた。
 「ジョルよ、人の病は風、胆、痰に分けられ、病の原因は貪ぼる、怒る、迷うことにある。この三つのものが互いに交わりあい、四百二十四の病を生んでいる。
  そなたは病の元もなければ、病の相もない。早く馬を駆ってそなたの得るべき宝座を獲りに行きなさい」

 「あなたは自分が王になれないと知りっているのですね。
  では、なんで馬に鞭当て走っているのですか」

 「わしだとてリンの人間の一人なのだ。
  自分の名を高めずして、どうしてこれからのリンに心置きなく身を寄せていられようか」

 ジョルは馬に先を急がせながら、言葉を残して行った。

 「もし私が王になったなら、あなたはリンの王家の医者になるでしょう」










阿来『ケサル王』 65 物語 競馬で王となる

2014-09-22 20:27:33 | ケサル
物語:競馬で王となる その2




 この時、競馬に参加する総ての乗り手は阿玉底山の麓に一の字に並んだ。

 法螺貝の音が響き、僧と法師は祭壇で木の枝を焚き、ウェイサンの儀式を始めた。
 競馬を見守る護法神と山神はすでにこの地に降っている。

 人間界ではなく、雲の上から太鼓の音が聞こえ、空から一本の矢が放たれた。
 矢が地に刺さるやいなや雷鳴が轟いた。競馬の始まりの合図である。

 リンの勇士たちが手綱を緩めたその瞬間、彼らの後ろからすぐさま黄色い土埃がもうもうと舞い上がる。
 その埃がまだ消えないうちに、馬の群れはすでに麓の大きな曲線を曲がり姿を消していた。

 戦いの始まりから、トトンと玉佳馬は先頭を駆けていた。

 ギャツァは馬に鞭を当てながら、風のように駆けて行く馬の群れの中に弟の姿を探した。
 ジョルは一番後方にいながら、平然として空の一角にある羊ほどの黒い雲を見上げている。

 雲は見る見るうちに大きくなり、馬の群れが矢を三度放った距離を走った頃には、空一面を覆っていた。
 雲の中では雷がゴロゴロと鳴り、稲妻が巨大な蛇のようにのたくり、続けて霰が降って来た。

 競馬は中断された。

 山の上で法を行った僧が、神の加護を祈るばかりで、この地の妖魔に供え物をしなかったため、阿玉底山に住む虎の頭、豹の頭、熊の頭の三匹の妖魔を怒らせてしまったのである。
 虎の頭は怒って言った。

 「リンの奴らは我々の縄張りで競馬を始めた。後ろ足で闇雲に地を蹴り、前足は伸ばし放題。
  賞品を奪い合って、山中が土埃だらけだ。それなのに、何の挨拶も貢物もないのか」

 「そうだ、あいつらの勝手にはさせないぞ」

 「奴らに目にもの見せてやろう」

 そこで三匹は同時に呪いを唱え、大きな霰で競馬に群がる人間たちを追い払おうとした。

 ジョルは早くからこの総てを目にし、空の霰が降るか降らないうちに、神の縄を後ろの山の頂に投げると、三匹の妖魔は縛りあげられ馬前に引きずり出された。

 三匹の妖魔はジョルの姿を目にし、天から降った神の子が参加していることを知ると、その場で過ちを認め慌てて悔い改め、貢物などとは一言も口にしなかった。

 その様子を見てジョルは言った。
 「このような喜ばしい日に、お前たちの命を取ったりしない。すぐさま雲と霰を収めるのだ」

 三匹の妖魔がそれぞれに「はい」と答えると、雲はたちまち消え去り、太陽が前にも増してキラキラと明るく輝いた。

 こうしているうちに、山の女神がふわりふわりと降りて来て、ジョルに鍵を渡した。
 ジョルはおかしそうに言った。
 「私が競馬で勝利したら王位と妃が手に入るのです。あなたたちの蔵を開けるなんてことは致しません。」

 女神は言った。
 「王になるにはたくさんのお金や物が必要です。
  見た所あなたは金目のものはお持ちでないようですね。
  そこで神山の宝の蔵を開ける鍵を持って来ました」

 それを聞いてジョルはやっと真面目に感謝の言葉を述べた

 女神は言った。
 「さあ、のんびりしていてはだめですよ。あなたは、はるか後方にいるのですから」














阿来『ケサル王』 64 物語 競馬で王となる

2014-09-20 18:13:01 | ケサル
故事:競馬で王となる その1




 リンの競馬大会が始まった。

 リンの各が設けたテントが黄河のほとりの草原を不夜城に変えた。

 ダロンの首領トトンと彼の息子トングとトンザン、そしての勇士たちがやって来た。
 顔を高く挙げしっかりと前を見据えている。トトンの玉佳馬は、その中に天下無双の姿を現していた。
 彼らにとってこれは競馬ではなく、ダロン部が雄を唱える盛大な式典だった。

 長系の九兄弟を首とする勇士たちがやって来た。
 黄色い錦の衣装を纏い、金の馬具が金色の陽光の下、並外れた気概を示している。
 彼らから見れば、リンの王位は氏族の本家の子孫が座るべきものであり、それぞれが腕を見せようと自ら勇み立ち、自信に満ち溢れていた。

 仲系の八大英雄を主とする者どもが現れた。
 全員が白い鎧兜、白い衣装に白い鞍で馬を駆って会場になだれ込んで来る様子は、まるで天から降りしきる雪のようだった。

 幼系の勇士たちもやって来た。
 青い兜に青い衣装、方陣を組み、まるで瑠璃の高殿のようだった。
 その中心には総督ロンツア・チャケンがいる。
 彼はすでに今回の競馬大会はジョルをリンの王位に登らせるためだという事を知っていた。
 傲慢なトトンのように馬頭明王の予言を妄信するようなこともなく、長系と仲系のように王位を獲ろうと奮い立ち手ぐすね引いているのでもなかった。

 彼らは早くから出発地点に馬を牽き、有り余る力を無駄にたぎらせ、興奮して落ち着きがなかった。

 総督は知っていた。王位は必ず幼系の出のジョルが獲ることを。
 幼系のもう一人の英雄ギャツァもまた人々の信望を得ていた。総督はギャツァを呼んだ。

 「お前は彼らのように急いてはいないようだな」

 ギャツァは答えた。
 「心は焦っています。弟ジョルがまだ姿を現さないからです」

 「お前には王になろうという思いはないのか」

 「私よりもリンの人々に多くの幸せをもたらす人物がいると信じています」

 老総督は長いため息をついた。
 「リンは間もなく一つの国になる。ジョルが王になった時、英雄たちがみなお前と同じように考えてくれたなら、リンは天の配慮を得て、幸いが遍く行き渡るだろう」

 「それにしても、弟はなぜまだ現われないのでしょう」

 老総督も心の中で焦っていた。だが淡々と答えた。
 「時が来れば自ら現われるだろう」

 この言葉が終わらないうちに誰かが叫んだ。
 「ジョルが来たぞ!」

 その場にいる人々の気持ちが一瞬の内に高まった。

 トトンの真の戦い手が現われた!
 玉佳馬の真の戦い手が現われた!

 ジュクモも喜びのあまり12人の姉妹の輪から抜け出した。

 彼女は興奮していた。
 今日人々の前に現れるジョルは、もはや、悪戯で皆を振り回していたこれまでのジョルではなく、精悍な天馬に跨って現われるのだ。
 その天馬は父が未来の国王に贈った揃いの馬具で飾られている。
 このように素晴らしい馬具はジャンガペイフのような神の馬のみにふさわしい…。

 ジョルの馬が現われた時、当然のこと、人々の喝さいが挙がった。
 ジュクモは身も心も軽くなって雲まで飛んで行きそうになった。

 だが、次の瞬間、人々の間に大きなため息が起こった。

 駿馬を牽くジョルは、追放された時の悪臭を放つうす汚れた身なりに戻っていたのである。
 彼は、天馬の主人のようではなく、人々に忌み嫌われる道化のようだった。

 幼系の勇士と民たちは深い失望を味わい、みなジョルから顔を背けた。
 阿玉底山の麓の出発点に向う勇士たちは彼と肩を並べて進もうとはしなかった。

 ただトトンだけがこれ見よがしに彼と親しげに振る舞った。
 競馬での勝利の鍵は我が手にあり、との確信を強めたからである。

 ジュクモはジョルがわざとそうしたのだとは分かっていたが、やはり悲しかった。
 姉妹たちはみな自分のジョルへの想いを知っている。
 それなのに、彼はこのように見るに耐えない姿をして彼女の面目をひどく傷つけたのだ。

 この時、ジョル本人はミツバチに化身して彼女の耳元でウォンウォンと歌っていた。
 だが、腹を立てたジュクモが手を伸ばして来たので、危く地面に叩き落されそうになった。
 ミツバチはこれはまずいとばかり、羽を振るわせ、打たれて弱ったふりをしながら、よろよろと飛び去った。










阿来『ケサル王』 63  語り部 競馬

2014-09-15 02:01:15 | ケサル
語り部:競馬 その2





 この時ジンメイは影から出て、頂上でその人物と向き合って立っていた。
 話しかけて来たその人物は老人で、やせ細った顔に鷹のような目が鋭い光を放ち、白い髭が黄昏の風の中で軽くなびいていた。
 誰もが語り部に対して抱くイメージそのものだった。

 老人はその姿だけでジンメイを圧倒した。ジンメイは言った。
 「お年寄り、オレの語りはあんたには及びません」

 老人はハハハと笑った。
 「お前はワシの姿だけ見てそう言うのじゃろう。だがワシは競馬の始まる前に馬や騎手を讃えることしか出来ないのだ」

 ジンメイは、如何にもそれらしいこの老人が自分とは異なった語り部なのだと知った。
 彼らは物語を語らず、ただ英雄物語の中の馬や武器や英雄の姿形、神山、聖湖、語り部の象徴である帽子を讃えるだけである。

 その声は高らかで、言葉は華麗に響き渡る。

 ジンメイは賛歌を真似て、自分の語りにも取り入れていた。
 ジンメイは老人に言った。
 「オレも賛歌を真似て喉を鍛えたことがあるんです」

 「お前は神から授かった仲肯じゃ。神がお前に語らせている。鍛錬など不要じゃ」

 「では、お年寄り、あんたは?」

 「ワシは生まれながらに声が良くてな、それで、語ることにした。
  だからワシは鍛錬しなくてはならん。一人でこの山の頂上に座っていろいろと考えているところじゃ」

 「教えて下さい。今何を考えているのか」

 「夕映えがこのように美しく輝いているのに、それにふさわしい詞がまだない。
  どれほどの煌びやかな言葉があればこの壮大な光景を表現できるのか、と考えておる」

 「あんたならきっと思いつきますよ」

 老人はゆっくりと首を振り、悲しそうに言った。

 「だが、それは変化し続けている、一瞬の間にいくつにも姿を変える。それらをとどめておく言葉がないのじゃ」

 「それは言葉が少なすぎるから…」

 「ワシには分からん。多すぎるからかもしれん」

 この時、まるで夕映えが燃え盛る力を失ったかのように、満天の茜色が瞬く間に消え、空はすぐさま黒一色になった。

 「夜の膜が降ろされた。さあ、祭りを楽しむ人のところへ行って語りなさい」

 テントはそれぞれ一つの広場を囲んでいた。どの広場も焚き火が明るく燃えていた。

 ジンメイは老人に別れを告げ、その焚き火の明かりへ向かって歩いて行った。

 草原では決まりごとがある。
 焚き火を囲んで共に酒を飲み物を食う者たちはほんの少し腰を上げ、新しく加わる者のために座る場所を作るのである。
 そうしてから、酒の椀と羊のもも肉が手渡される。
 ジンメイは二人の言葉少ない男の間に座って夕飯にありついた。

 彼は酒には強くない。
 だが、椀は何度も彼の前に回って来て、少し頭がくらくらした。

 空を見上げると、夕映えで焼かれた黒い雲はすでに消え、群がる星々が天の幕に登場していた。
 ジンメイは帽子をかぶらず語り部の旗も立てていなかったが、琴を袋から取り出し天の星の光を見上げて弦を弾いた。
 こぼれ出た音が天で瞬く星の光と呼応した。

 途切れ途切れの琴の音が人々を沈黙させた。
 夜の風が炎を揺らし、旗がなびくのに似たぱちぱちという炎の音が聞こえるほどに静かになった。

 琴の音は徐々に繋がり、伸びやかになり、勢いよく流れる谷川のように激しく雄壮に響き渡った。
 人々は小声で囁きあった。
 「あの男か」
 「あのめくらか」

 それはジンメイの耳にも届いた。
 彼は微かに微笑むと、立ち上がり空を見上げ、琴の弦を弾きながら焚き火の傍、人々の中心まで進み、歌い始めた。


  雪山の獅子王よ、

  たてがみを緑に輝かせ

  その姿を見せよ。

  

  森で戦いを待つ虎よ、

  美しい虎班を波打たせ

  その姿を見せよ。


  大海の底深く泳ぐ金の眼の魚よ、

  六枚の豊かな鰭をくゆらせ

  その姿を見せよ。


  人の世に隠れ住む天から降った神の子よ、

  機縁は至った

  その姿を見せよ。



 前奏が終わると、語り部は少し声を低くした。すると、喝采の声が聞こえた。

 ジンメイは続けて琴を鳴らす。

 今彼が聞いているのは人の声ではない。
 キラキラと煌めく星が一粒ずつこぼれ落ち琴の上で飛び跳ねる音だ。

 目を閉じると、駿馬が駆け回るのが見えた。
 千年前の物語が生き生きと目の前に繰り浮かび上がる…




 








阿来『ケサル王』 62  語り部 競馬

2014-09-11 01:51:53 | ケサル
語り部: 競馬 その1




 1、2年の間で、ジンメイはカムの大地でかなり有名な語り部となった。

 語り部は新しい名前をつけることが出来る。
 神から授かった語り部はもはや父母から生まれた時とは違う人物になった、と考えられている。彼は特殊な使命を授かった人間である。

 現代の人々は新しい比喩を作った―拡声器である。
 本来の拡声器は政府の言葉を伝える口であり、語り部は神の拡声器である。

 様々な宗派のラマたちが彼に新しい名前をつけようと願い出でたが、ジンメイは何も言わずに立ち去った。
 ジンメイは思った。自分の父母は早くに亡くなった。
 自分が元からの名を使うのは二人を覚えておくためなのだ。

 その日、彼はある町で電信柱の上の拡声器を眺めながら父母の顔を思い出そうとしたが、その面影がどんどんとぼやけてきているのに気付いた。
 彼は腰を下ろし、帽子の真ん中にある鏡を磨いたが、そこに見える景色もまたぼんやりとしていた。
 彼は笑って言った。「オレの目はどうしようもない」
 
 彼の語りが円熟するにつれて、視力は弱っていった。

 平坦な街道を一足一足と進んで行く様子は、まるででこぼこ道を歩いているかのようだった。
 年老いた女はそれを見て言った、かわいそうに。
 娘たちは彼を見て、口を隠しながらおかしそうに笑った。
 子どもたちは彼を見ると声を合わせて叫んだ「めくら!」

 「お前たちのことはちゃんと見えてるぞ。オレは本当のめくらじゃない。何でそう呼ぶんだ」

 「あの語り部だ!」

 「そう、オレはあの語り部だ」

 今、彼は自分の名前が自分より早くに行く先に伝わっているのに慣れてしまった。
 人々が「あのめくら」「あの語り部」というのは、彼のことだ。
 どこかへ着くたびに、自分の名前が先に伝わっている。

 彼がこの小さな街に現れた時もやはりそうだった。
 小学校の下校の鐘がなり、子どもたちが一塊りになって校門を出て、彼の後ろに付いて来る。

 「あんたはあのめくらでしょう!ケサルを歌ってくれよ」

 「めくらさん、どの物語を語ってくれるの」

 ジンメイは何も答えない。
 六弦琴はビロードの袋に入ったまま肩に掛かっている。こんなに埃の舞い上がる場所で語りたくなかった。
 彼は埃の上がらない場所だけで語った。

 目は良く見えないが、かすれていた喉は良く響くようになった。良くなった喉を舞い上がる埃で痛めるのは罪である。

 子供たちはまた言った。
 「あんたも競馬大会に行くんだろう。県全体の競馬大会だよ」

 彼は琴の袋を叩いて言った。
 「競馬大会はもう終わったよ。ケサルはもう王位に就いたんだ」

 村の長が現われた。
 「それは政府が開く新しい競馬大会だ。ケサルが王になったのを記念する競馬大会だ」

 村の長は他にもジンメイには分からない話をした。
 村長が話したのは文化センターの無料観劇会のことだった。

 村長はジープのドアを開け、
 「めくらよ、乗りなさい。競馬大会で語ってもらおう」

 ジンメイがためらっていると、村長は言った。

 「誰もがあんたが語る物語は最も長く最も正しいと言っているが、ただの噂じゃないだろうな。」

 「もしそうなら、故郷で羊を飼っているよ」

 「たくさんの語り部が競馬大会に向かったぞ。比べられるのが怖いんじゃないか」

 そう言われて、ジンメイは仕方なく村長の車に乗った。
 車が動き出し、草原の窪みだらけの土の道を進むと、車もまた上下に飛び跳ね、ジンメイは琴をしっかりと抱いた。

 「オレをめくらと呼ばないでくれ。ジンメイという名があるんだ」

 村長は笑った。
 「街で会議に出ると、書記はワシの名を呼ばずに“がにまた”と呼ぶ」

 彼らは昼頃村を出たが、その後、ジンメイはガタガタ揺れる車の中で眠った。
 目が覚めた時、車はちょうど輝く夕日を追いかけていた。

 ジンメイは少し緊張した。
 夕日はすでに雪山の山裾に近づき、車は追い着けそうになかったからだ。
 彼は口に出した。
 「早く、早く」

 それを聞いて村長は言った。
 「着いたぞ」

 車は小さな丘の前に泊まった。

 目の前に広がる草原には、たくさんの白いテントが臨時の街を作っていた。
 西に傾いた夕日がこの街を鋼のような藍色の光で覆っている。
 その光景は幻のようで、彼が夢の中で見た大軍の野営の情景とよく似ていた。

 ジープが公道を離れ、両側に五色の旗が立てられた競馬用の道を突き進み、最後に中心にある大きなテントの前で急停車した時、彼は前の座席の背にまぶたを強くぶつけた。
 目の前に金の星が飛び回り、同時に人々が「来たぞ、あの語り部が来たぞ」という声が聞こえた。

 ジンメイにはみんなが言っているのが自分のことだとは気付かなかった。

 「あの男がついにやって来た」というのが聞こえた。

 いつでも草原には誰かが来ては去って行く。
 あの男が来たらといってどうだというのだろう。

 彼は一人六弦琴を胸に抱き、色とりどりの旗が導く真っ直ぐな競馬場を前へと進み、そのまま歩き続け、太陽が最後の光を消す前に、谷のもう一つの丘に登り着いた。
 間もなく頂上に着くころ、人影が彼を覆った。
 その人物は頂上にうずくまり、身には黄昏の衣をまとい、言った。

 「誰もがあの男が来たと言っているがそれはお前か」

 「オレはそれが誰だか知りません」

 「誰よりも語りが優れた人物のことだ」

 「自分が他の人より語りがうまいかどうかは知りません、でも、オレは確かに語り部です。仲肯です」

 その男は笑って言った。
 「ハハハ、お前は優れた語り部のようには見えないな。だが、誰に分かるだろう。
  もし神がお前を語り部にしたのなら、その男とはお前なのだろう」








阿来『ケサル王』 61  物語 愛情

2014-09-07 02:24:40 | ケサル
物語:愛情 その2





 ジョルは何も知らないかのように言った。
 「ジュクモ、真上から陽が射しているよ。降りて来て休んだら。今が一番日差しが強い、翳ってから出掛けよう」

 ジュクモは仕方なく馬から降りて傍に座った。
 「メドナズお母様は」
 
 「母さんの馬は遅い。ずっと後ろにいる」

 「どうして付き添ってあげないの」

 「お前の馬はとても速いからね。
  もしリンで一番美しい娘がさらわれたら、老総督や英雄たちになんて言い訳すればいいのか。
  さて、娘さん、のどが渇いただろう。何か飲もう。
  ヨーグルト、チンクー酒、お茶。それともインドから来たイチジクのジュース」

 答えを待たず、初めに出会った王子の伴の者が目の前に現われ、彼が名前を挙げた飲み物を一つ一つ並べた。
 ジュクモはこの時すべてを理解し、涙を流して尋ねた。
 「ジョル、どうしてこんなふうに私を弄ぶの?あなたたち親子を追放する時、私も唾を吐き出まかせの悪口を言ったから?」

 ジョルが空に向かって手招きすると、一羽の画眉鳥がジョルの肩に降りて来た。
 口にはジュクモが王子に送った九つの結び目の着いた白い帯をくわえ、強盗に送った金の指輪がきらきら輝いて梅の枝に掛かっていた。
 ジュクモはよけいに恥ずかしくなって、
 「もともとみんな、あなたが変化して私に恥をかかせたのね」

 ジョルが勢いに任せて彼女を胸に引き寄せると、ジュクモの体は胸の中でなよやかになった。
 「娘さん、競馬の後、お前は僕の妃になるんだ。でもお前はこれまで僕をちゃんと見てなかったね」

 「私が娘になった時、あなたはやっと生まれたのよ、あの時はまん丸い顔でとても安らかだったわ。
  その後わざと醜くなって多くの殺生をしたのよ」
 
 「僕が若すぎるっていうのかい。僕の力と知恵は最早ギャツァ兄さんや30人の英雄を超えている。
  お前の美しさは同じように僕の心を高鳴らせている」

 「でもあなたにはギャツァの威厳と度量がないわ」

 「僕が醜いからか」

 「四方を服従させるつわものは堂々としていなくては」

 「そうか、お前はこういう姿が好きなんだろう」

 瞬く間にジョルは様々な英雄の姿に変化した。そのすべてがジュクモを喜ばせた。
 最後にジョルは将来王となった時の姿になった。

 ジュクモは両手を伸ばして彼の首に抱き付いた。
 「ジョル。王者は武勇の相がなくてはだめよ」

 そして、彼はまた元に戻った。
 今は特別に醜くはなかったが、やはり狡賢く軽薄な様子は残っていた。

 ジュクモは彼の手に蔓のように絡みついて放さず、だが、目には悲しみの翳が現われていた。

 「あなたが大変な仕事をするのは知っているわ。なのにどうして軽々しい様子をするの」

 ジョルはははと笑って、
 「そうか、どうして自分では分からないんだろう」

 彼の言葉はやはり軽薄だった。だがジュクモはその目に、威厳の中に何かしら悲しみの色があるのを見た。
 底なしの悲しみは娘の心を深く打った。

 「あなたの目はあなたの心の海よ。ジョル、あなたの心の宝石のように純潔な光が私を埋め尽くすの」

 この言葉はまるで電光のように、ジョルの頭からそのまま心臓まで貫いた。

 「美しく柔らかい娘よ、お前の言う通りだ。
  僕はどんなに大きな神の力を持っていても、一羽の鳥のようにお前の眼差しに射抜かれてしまうんだ」

 「あなたに見つめられていると、とても幸せなの、でも同時に、自分がとても可愛そうになるの。
  愛するジョル、私は可哀想な人間なの?」


 「お前は高貴な出の女性だ。美しさはリンで並ぶものはない。
  どうしてそんな気持ちになるんだ」

 「あなたの目で見られた人は誰でもそう感じるはず。
  天の上から人の世を見るとみなそんな眼差しになるのかしら。
  そう、思い出したわ。あなたが石の税で建てた寺の中の観音様の眼差しもそうだった」

 「菩薩の眼差し…そうかもしれないな。よく覚えてないけど」

 「あなたは本当に天から降りて来たの?」
 
 ジョルは顔を上げて天を見た。
 「よく覚えてないんだ、だが、彼らはそう言っている」

 「彼ら?」
 
 ジョルは手を振った。
 「彼らだ」

 身を隠してジョルを守っていた神の兵たちが姿を現した。
 白い兜と白い鎧の神が山の頂を占めていた。
 金の兜と金の鎧の神が別の山の頂を占めていた。
 兵たちの刀はキラキラと輝き、兜に付いた赤い房が風にたなびいている。
 ジョルが再び手を振ると、神の兵たちはまた雲の中に隠れた。

 「あなたは神よ」

 「僕は神ではない」

 「あなたは神と同じような方よ」

 「僕は神と同じような人間だ」

 「愛してるわ」

 「お前が僕を愛さなかったら、僕の神の力は消えてしまうだろう」

 この時、メドナズが追いついた。
 雁のように肩を寄せ合っている若者を見ると、思わず涙があふれた。

 「愛する息子たちよ。私を誰よりも早くお前たちを祝福する者にしておくれ」