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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 102 物語:少年ザラ

2015-05-04 22:36:44 | ケサル
物語:少年ザラ その4




 ユラトジが報告した。

 モン国の領地は広大で十三の河があり数百万の民がいる。天の恵みを受けて、雨が多く空気は潤い、冬は短く夏が長い。土地は肥沃で花や果実が山を満たしている。
 だが、このように豊穣な地でありながら、人々の生活は幸せとは言えない。
 国王も首席大臣グラトジエも魔物の化身であり、日がな一日国を治めることを考えず、人肉を食らい、その血を飲み、常に周りの国々を脅かし、その民をさらっていく。
 妖術の修練に耽り、隣国を脅かす暇がない時は、自国の民を自らの刀の犠牲とする。
 そのため人々は何時自分が国王に料理され皿に盛られるのかと、心配でびくびくしている。

 ケサルは言った。
 「シンチ王は、魔国のロザン、ホルのクルカル、ジャンのサタンと共に四大魔王と呼ばれ、天下に害を及ぼした。三人の魔王はすでにリンによって滅ぼされたが、モンの国は遠くにあり、また魔王は長い間姿を見せず波風を立てなかったので、これまで命を長らえて来たのである」

 ユラトジは続けて報告した。
 「シンチ魔王は、今ちょうど修練の最後の段階を迎えたところで、部下を厳しく戒め、小さなことにも慎重になっています。今年を何事もなく過ごせば、大願が成就するからです。それは思うがままに天下に覇を唱えるためです。我が軍が国境深くに進んだ時でさえ、応戦しませんでした。今二つの河を超えれば彼の王宮です。その時には敵は陣を敷き、我が大軍と大いに戦うでしょう」

 ケサルはザラを前に呼び、若い英雄の肩を抱いて言った。
 「明日、総ての軍を思い通り動かしてくれ。兄の戦法をしっかりと示すのだ」

 次の日、ザラは威厳を持ち勇壮に陣を敷いた。

 モンの兵営は吊り橋を挙げたまま静まり返り、正午を待ってやっと一頭の馬が兵営から出て、ザラの前に停まった。

 やって来たのは魔の大臣グラトジエ。
 危険を冒して姿を見せたのは、リンの内実を探るためだった。

 「馬上の若い司令官よ。我れはモンの首席大臣グラトジエと申すものだ」

 グラトジエは言った。
 「河のほとりの美しい原野は国王の遊ばれる地、王妃が野の花を摘まれ美し風景を楽しまれる地、大臣たちが法力と馬術を試す広野、花が咲き誇りカッコウが歌い、自然の音すべてが心地よい歌を奏でる祝福された地である。このように多くの異国の兵馬が隊列を組み殺気を振り撒くとは、もっての外だ」

 ザラは笑った。
 「我がリンの大軍が向かうところ、それはまさにすべての妖魔が横行する地を、今そなたが言ったように真のめでたい地にするためだ。分別をわきまえているなら早く馬を降りて降服されよ」

 グラトジエは慌てることなく、言った。
 「我れグラトジエは、友に穏やかなること絹の如く、また一方で、敵の矢と雷を制圧せずにはおかれぬ者だ。今、そなたに警告しておこう。明日日の出る前に、大軍すべて河の両側から消えるがよいぞ」
 言い終ると手綱を繰って馬の向きを変え、悠然と去って行った。

 グラトジエが去って行く後ろ姿は悠然としていたが、林を曲がやいなや馬を鞭打ち狂ったように走り出した。
 王宮に着いた時は全身が汗まみれになっていた。

 国王が天下無敵となる功法を成就するにはまだ数カ月かかる。
 これがリンの大軍が境界を超えた時もモンの大軍が抵抗しなかった原因だった。

 今、リンの大軍はすでに国の中央に近づき、このままでは激しい戦いは免れない。
 グラトジエは宮殿に入って報告した。

 「リン国は今どこよりも強大です。今は時を稼ぎ、ダロン部から略奪した民と牛、羊を倍にして戻し、雲錦宝衣を返上するのが良いでしょう。国王の功法が成就したら、その時は兵を出してリンを叩き潰し、払った代価を百倍にして償わせましょう」

 シンチ王は無表情に言った。
 「ケサルがお前に談判するとでもいうのか。もしや、兵を引く代価まで話をつけてあるのではないだろうな」

 グラトジエはすぐさま言い訳を始めた。
 「とんでもないこと。私めはただリンの兵を偵察した後、大王にご注意も申し上げたまで。ましてケサルは勝つことのみを考え、私と談判するなどありえません」

 「ではどうしろというのだ」

 「当時、私めはダロン部の長官トトンと通じておりました。ヤツは我々の力を知っており、今はリンの国王の叔父の身分です。彼に恩恵を約束したら、もしや…」

 「あの老いぼれはまだ我が国の愛しい公主に未練たらたらというぞ。まさか、それで奴を釣ろうというのではないだろうな」

 グラトジエは慌てて跪いた。
 「戻ってすぐさま兵を出し陣を敷きましょう。明日、リンの軍と思う存分戦います」

 シンチ王はやっと顔をほころばせ、立ち上がってグラトジエを助け起こした。
 「談判するのは敵に重い一撃をくらわしてからだ。それでこそ思い通りの結果が出せる。まず大いに戦おう。奴らを血の海に沈めるのだ。そうすればお前の舌を煩わせずに済むからな」

 国王シンチも夜を継いで前線に赴き、中軍のテントの中にどっかりと陣取った。






阿来『ケサル王』 101 物語:少年ザラ

2015-04-28 18:57:24 | ケサル
物語:少年ザラ その3



 ある日、リンの軍隊はかつて見たこともないほどに太陽の射しこまない暗い森へ入った。
 森には霧が立ち込め、兵も馬も朦朧となり、次々と眠るように道に倒れた。

 ケサルは神の馬キャンガペルポに乗って空中へ飛び上がり、辺りを見回すと、雲を突いて聳える雪山はどれも巨大な鏡のような氷河を南の大海へと向け、黒い岩の峰が峡谷へ射し込む太陽の光を完全に遮っていた。

 ケサルは天馬の背に跨ったまま、山神たちに姿を見せるよう命じた。

 これらの南方の峰々が険しく聳え立つ様は奇観を呈し、山神たちはなによりも誇りに思っていた。
 
 山神たちがのらりくらりと現れた頃、リンの夥しい兵馬は天を指す古木の下で次々と倒れて行った。
 彼らは熟睡しているかのようにぐんなりと柔らかな苔の上に横たわっていた。
 顔と体が徐々に緑色に変わり、急速に腐って行く体からきのこが傘を開かせた。

 未開の地の山神の無関心な態度にも、ケサルは気持ちを抑え、どうしたら暗く湿った谷間に太陽の光が差し込むのかと尋ねた。

 山神たちは答えた。
 「この谷間にこれまで太陽が射したことはないのです」

 ケサルは言った。
 「ならば、今その慣わしを改めよう。谷に太陽の光を導き、毒のある霧を追い払い、ぬかるんだ道を乾かしてくれ」

 山神たちは、やる気のない態度を改めず、両手をひろげ、肩をすぼめた。
 「太陽の光を導く?なぜ太陽が谷を照らさなくてはいけないのですか」

 ケサルは笑って言った。
 「やれやれ、この地の山神が、外の国の身振りと顔つきまで真似をするとは…」
 言うと同時に、手の中で二つの稲妻を起こすと、二つ並んで聳え立つ雪山の峰を真っ二つに切り分けた。
 二つの峰の山神はその振動で耳と鼻から血を流した。

 開いた二つの裂け目から、太陽が暗い谷の一部を照らした。
 霧に惑わされていた大軍から天をも揺るがす喜びの声が挙がった。

 ケサルは、目を丸くし口をぽかんと開けたままの山神たちに言った。
 「人の世の神々よ。私のいいつけを聞くのだ。太陽に谷を照らさせなさい」

 山神たちが身を屈めると、天まで届いていた峰は消えた。
 だが、誇り失うまいとするわずかな山神たちは屈むことなく、体を少しひねって、南に向いていた氷河を東北に向け、凍った雪が作る巨大な鏡で谷に向かって太陽の光を反射させた。

 何万年もの間うす暗かった谷は明るく照らされた。
 濃い霧は徐々に晴れ、じめじめした場所で絡まり合っていた蔓はほどけ、ぬかるんだ道は堅く乾燥した。
 道に倒れていた兵たちは立ち上がり、再び行軍を始めた。

 山が方向を変えた後、雪解けの水は北の谷に流れ込んだ。
 ケサルは溢れた洪水で前方にザラの先鋒軍が作ったより更に広い道を開き、大軍を峰々の包囲から抜け出させ、道を開いた後の水を西北から東南へとほとばしる大河へ合流させた。

 大河の両岸の高地は砥石のように平坦で、ザラの先鋒軍は早くも南岸に渡り、モンの大軍と対峙していた。

 ケサルの軍が到着すると、ザラはすでに大軍が駐留するための兵営を用意していた。

 シンバメルツはホル軍を率いて南へ進み、ザラの先鋒軍を支援した。
 センロンとトトンは中軍を守った。
 長系と仲系の陣はハヤブサが広げた強靭な翼のようだった。

 アダナムの率いる魔国軍は後方を守った。

 ユラトジの報告によると、ザラがこのような布陣を敷いたのは、モン国には多くの山や水の魔物がいてシンチ王の指示に従って背後から襲ってくる可能性を考慮してのことだった。
 この布陣はまさに魔国軍にぴったりだったのである。

 戦いの間中、アダナムは腕を振るおうと勇み立ち、何度も先鋒になることを願い出たが、ケサルは命令に従わせた。
 その結果、彼女は先鋒になることが出来ないばかりか、総ての隊の後方に落ち、内心面白くなかった。

 思ったとおり、夜の闇が押し寄せ、他の宿営が月光の中で静まったころ、リンの大軍の通り過ぎた道に隠れていた妖魔が、彼女の兵営を襲った。
 アダナムは魔国軍を率いて一晩中激しく戦い、朝日が昇り、光が妖気を消し去ってからやっと、心を落ち着けて食事を取り休んた。

 アダナムは武装を解かずに一時眠りすると、中軍のテントに命令を聞きに行った。
 ケサルは笑って言った。
 「女将軍よ、見た所ひどく疲れているようだ、一晩心安らかに休むことが出来なかったのだな」

 アダナムは得意気な表情で言った。
 「妖魔たちが悪さをしたのですが、我が軍が消滅させました」

 ケサルは愛する妃を近くに座らせ
 「わが軍がここに来たのは、国を征服するためだけではない。より重要なのは妖魔を一掃し、天下の民に安心して暮らせる地を作ることだ。それを思えば、お前の功績は大きい」

 「すべて王様が敷かれた優れた布陣のためです。妖魔に対するに我が魔国の軍を置いて他にはあり得ないでしょう」

 「この布陣は私が敷いたのではない」

 ちょうどよくザラとユラトジの若き英雄二人が中軍のテントに入って来た。
 ケサルはザラを指して言った。

 「この戦いでは、私は彼の指示に従っているのだ」






阿来『ケサル王』 100 物語:少年ザラ

2015-04-25 12:26:48 | ケサル

物語:少年ザラ その2


 もともとケサルは、自分が使命を成し遂げた後は、忠実で正直な兄ギャツァに王位を譲ろうと考えていた。
 だが、兄は早くにこの世の命を終え、浄土へ行ってしまった。

 今、目元に兄の英雄の気を留めている甥が目の前に立っている。
 その表情はどこまでも清らかである。

 ケサルの心に優しさと憐みの心が涌き上がった。
 「お前を見て、兄を思い出した」

 国王が父の話を始めるとザラの目にも涙が浮かび、キラリと光った。
 ケサルは言った。
 「今私は父のような気持ちだ。お前を息子として扱おう」

 少年はほんの一瞬弱さを見せただけで、すぐに、その目にはきっぱりとした光が満ち溢れた。
 彼は国王の前に跪いた。
 「私がこの度ここに参上したのはモン国との戦いの先鋒になることをお許しいただくためです」

 国王の心が動いた。この少年はリンの未来の国王かもしれない。
 そこで涙を押しとどめ、国王らしい落ち着きを装った。ただ喉の奥からはまだ少し不安げな声が漏れた。
 「うむ」

 王子はタンマの励ましの眼差しを受けてゆっくりと口を開いた。


 リンには多くの軍馬がいるが、戦いが始まれば、やはり原初の時代のように大将たちが神の加護を頼みとする一騎打ちとなる。
 
 だが強大な国、たとえばインド軍の大群の象は陣を組むことが出来る。
 
 また、漢の地では王朝ごとに姓は異なっても、鉄の武具を身に着けた駿馬が戦車を牽い、整った図形に組まれた陣のまま飛ぶように進んで行く。
 戦車の上の将軍と幾万もの兵が同時に剣を挙げ、太鼓と共に一斉に前進し後退する。
 まるで風が雪を吹き飛ばし、波が砂を呑み込むように、兵の先鋒が向かうところ相手は散り散りになる。

 亡くなった父がリン建国後に為したすべての努力は、このような軍隊を作るためだった。
 夥しい英雄や兵士が同時に進退し、千の刀があたかも一つの刀のように、万の矢があたかも一本の矢のように戦う軍隊である。


 少年ザラは国王に言った。
 「私はいつも父のやり方にならい、ひと時も休まず演習してきました。今回の出征で新しい戦法を試させてください。」

 ケサルはすぐには態度を示さなかった。
 「今は下がりなさい。お前のその言葉を良く考えさせてくれ」

 別れ際、大将タンマも国王の前に跪いた。
 「尊敬する国王様、私タンマは国王に対するすべての忠誠心を以って、力の限りザラ様をお助けすることを誓います。我々の大軍は必ず向かうところ敵なしとなるでしょう」

 二人が下がってから、ケサルは暫く宮中を彷徨った。

 塩の海の戦いでリンに降った王子ユラトジも心の真っ直ぐな若き英雄であり、大任を委ねられる。
 今回モン征服の戦いでは、これら後に継ぐ英雄たちに何としても力を発揮させなくてはならない。

 次の日の朝ケサルは命を発した。
 ザラにギャツァが訓練した大軍を率いて先鋒を務めさせる、と。

 同時に、タクツェ城から元のジャンの地を守っているユラトジに使いを送り、軍を率いてモン国との境界へ向かい、虚実を探りながらリンの大軍が来るのを待つよう伝えた。

 タンマはザラを助け先鋒軍を率いて南の辺境から先陣となって出発した。

 数日後、ケサルは大軍を率いて都から南へ向かって移動を始めた。
 途中、シンバの率いるホル軍、アダナムの率いる魔国軍と合流した。

 モンとリンの境界は山は高く谷は深い。
 だがザラの先鋒軍がすでに広い桟道を開き浮橋を架けていたので、大軍の行軍もあたかも平地を行くようだった。






阿来『ケサル王』 99 物語:少年ザラ

2015-04-22 01:28:43 | ケサル
物語:少年ザラ



 その日開かれたのは小会議―小朝だった。
 首席大臣だけが、宮中の日常的な業務を処理する役人を伴って王座の前に進み出る。

 重職にある大臣や将校たちは別の場所に控え、大事が発生した時だけ通知が届き、宮に戻って議論する。これを大朝と言った。

 首席大臣の建議により、大朝は月に一回行われた。事があってもなくても、各地に配備された将軍と大臣は決められた時にタクツェ城に集まり、月に一度の大朝に出席する。

 その頃、リンでは月の満ち欠けで時を測り、朝の早いその日は、月が丸くなる一日前だった。
 首席大臣は言った。

 「賢明な大王様。国内は久しく大事がなく、もし定めた日に朝議を行わなければ、我々の上に国王がまします事を忘れてしまうでしょう」

 この日の朝、国王はただ一言だけ言いつけた。
 「三日後大朝を開く」

 首席大臣は言った。
 「リン国は幸いなことに、大王は勇敢で英明、国内は平安で無事です。やはり十八日後の大朝を待ちましょう」

 ケサルは言った。
 「十八日待つというのはこの件に関して私のやり方が英明ではないということか」

 首席大臣は何度も詫びて、すぐに使いを四方へ遣わした。

 大朝の日、ケサルはダロン部の長官に復帰したトトンを王座の前に呼び、尋ねた。
 「ダロン部はモン国との間にもめ事があったのか」

 トトンは前に出て上奏した。
 「モンは大国、国王シンチは強い魔力を持っております。あの時、民を殺しただけでなく、我が幼系がリンの長仲幼三系の首領の地位にあることを示す雲錦宝衣を奪い去ったのでございます」

 「これ程の年月の間、お前たちがその話をするのを聞いたことがないのはなぜか」

 首席大臣ロンツァが上奏した。
 「大王がリン国に降り、四方に力を示された時から、魔王シンチは軽々と兵を挙げられなくなりました。そのため、申し上げなかったのです。
  また、雲錦宝衣があった時は、人心を集められず、却って長仲幼三系の中でもめ事が絶えませんでした。
  だが今、天が目に留められて大王を遣わされ、国を広めているのですから、その衣は用が無くなったのです。

 トトンは目をぎょろっとさせ、言った。
 「シンチ王は戦いを仕掛けなくなっただけではなく、何年か前、公主メドドルマをダロン部に嫁がせようと遣いを送って来ましたぞ。
  上奏するほどではございませんが、メドドルマはすでに二十五歳となっても、その美しさは損なわれていないとのことでございます」

 美女について話す時のトトンの、今にも涎を垂らしそうな様子を見て、そこに居る誰もが大笑いせずにはいられなかった。

 大将タンマは言った。
 「公主が二十五歳にもなると言いながら、良く考えてもみなされ、ご自分はすでに六十二才ですよ」

 それを聞いてもトトンは意に介さず、でまかせの諺を口にした。

 「歯などなくてもかまやせぬ、
  乳に吸い付く子羊みたいに、口づけできりゃそれでいいのさ。
  顔中しわだらけでもかまやせぬ。
  若い娘が木に巻きつくように首に巻きつきゃそれでいいのさ」

 ケサルはトトンの我を忘れた様子を見て、心の中で思った。このように早く彼を復帰させたのは間違いだったのかもしれないと。
 自ら戦いに行く気のないケサルは、言った。
 「この度、リンがモンに討伐の兵を送るにあたり、ダロン部は恨みを晴らすために先鋒に立つべきだろう、と考えているのだが」

 「大王が命を下されるならば、私めがリンの大軍の前衛を務めさせていただきましょう」
 トトンは仕方なくこう応えた。

 ここ数日ケサルは、シンチ王は妖術に通じているので、同じように様々な変化の術を備えたトトンがダロン部の兵を率いて先鋒を務めるべきだと考えていた。
 だが、兄ギャツァの息子ザラに会ってから、その考えを変えた。

 ザラは十六歳になったばかりだが、判断力に優れ、美しく勇敢である。彼は大朝の前日、辺境から馬を飛ばして都に駆けつけ、その夜、大将タンマに連れられて国王に会いに来た。

 ケサルは甥を目にし、まるで早くに逝った兄が目の前に立っているかのようで、熱い想いが何度も胸にこみ上げ、目に涙を浮かべた。

 王と称して後、ジュクモやメイサたち花のように美しい妃を持ち、後には、魔国のアダナム、ホルの公主ジェツンイシをも妃に迎えたが、一人の息子も出来なかった。

 妃たちはケサルの子供を欲しがったが、それは王宮で不動の地位を得るためだった。
 父センロンと首席大臣はケサルに血を分けた子が出来るのを望んでいたが、それはリン国の王位を継承する者を望んだからだった。

 だが、ケサルは決断できなかった。
 世を救おうと天から降り王となった者が、自らの息子をこの世に残し、リン国の王とすべきかどうかわからなかったのである。
 天の大神も天の父母もこのことについて何の知らせも漏らさなかった。

 妃たちと十年も床を共にして子供が授からないのは、天の意志かもしれない。

 考えてみれば地上のどの国も、たとえどうあろうとも、何時までも天の庇護を受け続けるという幸運に与ることは出来ないのである

 天はただ軟弱な人間が基礎を築くのを助けるだけである。
 その基礎とはこの生まれたばかりの国である。

 天は道を見失いやすい人間に方向を示すだけである。
 その方向とは国の制度によって、思いと意志を一つに集めることである。








阿来『ケサル王』 98 物語:孤独

2015-04-19 22:58:27 | ケサル
物語:孤独



 ジャンを降して後、リン国の領土、国民、宝蔵はこれまでの何倍にもなった。
 周囲の国々はリン国の勢いとケサルの名声を恐れて、お互いに争うことなく、交易が行われていた。

 リンはより豊かに繁栄し、人々はこれまで味わったことのない、戦いも妖魔のたたりや被害も無い世で十年という月日を過ごした。

 ケサル王の宮殿は世界各地からもたらされる珍しい宝できらびやかに飾られた。
 王宮を囲んで寺院、民家、工房、商店が、まるで夏の雨の後に草原に顔を出す茸のように次々と現れた。
 リンの都はタクツェ城と呼ばれ、どこまでもその名を馳せていった。

 女性は母親について織物と刺繍を学び、男子は赤い袈裟を身につけ、文字を書くための石版を持って寺院の中で導師について書くこと、読むことを学んだ。

 寺院の中では時に面白い争いが起こった。 書くことが大事か読むことが大事を争い、そうして、どちらの技術も進歩した。

 文字を読むだけではなく声を伸ばして歌う者が現れた。
 字を書くことに魅せられた者は同じ音で様々な文字を作り出した。

 重要なのは、僧たちが同じ経典を念じながら、そこからそれぞれ異なった意味を読み取ったことである。
 こうして異なった宗派が現われた。

 また多くの僧は読経を拒否し、一人山の洞穴で瞑想を続け、ある者はあらゆる方法を用いて何も考ずにいようとした。
 こうして瞑想する者の間にも異なる宗派が生まれた。

 書くこと、読むことが出来る者たちは知識を共有した。
 このような情況を「繁栄」と呼ぶ。

 ケサルは王宮の中で妃との愛を楽しみ、時には一人で四方を巡遊した。
 だが、彼が目にしたのは、学者たちが作り出した言葉、何事も起こりえない情況を形容する「安定」だった。

 当然ケサルは、狼に羊を食べさせないようにすることは出来ないし、人間が病気にならないようにすることも出来ない。釈迦のように生老病死と出会って出家しようと考えることもない。
 もともとこの世ではない所から来た彼が出家を考えるはずはないのである。

 僧は王宮に入り込み、彼らの教えを伝え、その教えで一国の長である王を諭そうとした。
 国王が学ぶ必要がないのを知りながら諭しに来るのは、僧たちの人の世における野心を顕に示していた。
 だが、こういった類のことを処理するのは天が神の子を下界に遣わしたもくろみの中には入っていなかった。

 王妃たちが王宮で僧侶について修行している時、ケサルはキャンガペルポを連れて王宮を出て野に遊んだ。

 ふと、天が自分を連れ戻しに来るべき時なのかもしれない、と考えることがあった。
 そして思った。このような考えを抱くのは何もすることがないからで、天に帰ったらよけいにすることがなくなるかもしれない、と。
 
 どうであっても、天が彼を降した任務は完成したようだった。

 このような考えは当然すぐに神の知るところとなった。

 大神は言った。
 「人間が煩わしいのはそこだ。一つ問題を解決するとまた別の問題を創り出す。いつまでも、いつまでも終ることがない。
  ツイバガワも人間の悪癖に染まったようだ」

 あるものが進み出て上奏した。
 「では、彼を戻らせましょう」

 大神は言った。
 「いや、もう少し鍛えたほうがよい。彼は平安無事が嫌いのようだ。何か彼のやるべきことを探そう。ランマダムにもう一度下界へ行っていただこう」

 その夜、ケサル王と妃たちが宴を楽しみ眠りに着いた後、天の母ランマダムが彼の夢の中に現れ、新たな任務を下した。

 もとのジャン国の西、現在のリン国の西南にモンという国がある。
 国王は魔者でシンチといった。今年五十四歳。
 すでにこの世から消えたロザン、クルカル王、ジャン国の国王と並んで四大魔王と呼ばれていた。
 魔の馬・ミセンマルポを飼っていて、馬は今年七歳。
 魔王と馬は今修練に打ち込んでいる。来年には修練が成就し、この世の人間には征服するのが難しくなる。

 ケサルは天上の母に尋ねた。
 「シンチ王はリン国にどのようなひどいことをしたのですか」

 「まだお前が降る前のことです。その時、お前の兄・ギャツァもまだ幼少でした。
  モンの兵がリンに攻めて来てダロンを略奪し、多くの人々を殺し数え切れないほどの馬や牛や羊を盗んで行ったのです。
  年が明ければ、シンチ王の修練が成就します。そうなれば、シンチ王を倒すのは難しくなるでしょう。
  今が手を下すべき時なのです」

 天の母は言い終ると、そのまま天へと帰ろうとした。
 だが、ケサルは術を用いて彼女が天へと帰る虹を隠してしまった。天の母は少しうろたえた。
 「大神は私を帰さないおつもりなのだろうか」

 ケサルは笑って言った。
 「それほど急いで帰ろうとされなければ虹の橋は自ずと姿を現します」

 「お前がよからぬことをしたのですね」
 天の母は安心し、言った。
 「神の子よ、顔色が優れないけれど、意に添わぬことでもあるのですか」

 ケサルは答えた。
 「私は人間のために妖魔を一掃しました。だが…」

 「彼らが、思うほどにはお前の恩恵に感謝していないということですか」

 ケサルは何も言わなかった。リンの人々に対するある種の失望を認めたようでもあった。
 だが、その話題には触れず言った。
 「私はすでにリン国の妖魔をすべて取り除きました。それなのになぜ、これまで聞いたことのない魔王が現われるのですか」

 「お前は王宮にいて、何もすることがないと鬱々としていたではありませんか。
  寺の僧も話していたでしょう。魔とは人の心から生まれて来るものだと」

 彼はまだ何か言いたかった。だが、天の母が遮った。
 「神の子よ。少し話し過ぎました。私は帰らなくてはなりません。さあ、虹の橋を現しなさい」

 神の子は虹の橋を現し、母を天界へ帰した。

 目覚めた時、夢はまだはっきりとそこにあった。
 
 ケサルは思った。
 「私は本当に虹を現すことが出来たのだろうか。虹は現われた。だが、リン国の民はみな眠りの中にいて、誰も見ていない。人の世では、虹が夜明けに現れるのを見た者はいない。人の世では虹はただ白日とのみ関係するものなのだ」

 ケサルは傍らで熟睡している王妃を見つめた。
 美しい女性は深い眠りに落ち、その顔にはある種の愚かさが現われていた。

 この明け方、ケサルは黄河のほとりに追放された時よりさらに強い孤独を感じた。
 たとえ、王宮が夜の闇の中で巨大な宝石のようにキラキラと光を発していたとしても。
 たとえ傍らで眠っている王妃の体がかぐわしい香りを放っていたとしても。

 彼は再び眠らず、衣を羽織って王宮の頂に出て星空を仰いだ。
 その時、月はすでに沈んでいた。明るい金星が地平線に昇り始めていた。

 妃たちも次々と目覚め、彼の傍へやって来た。

 ケサルは彼女たちに言った。
 「天の神がまた私に兵を挙げさせるようだ」

 ジュクモはもう彼を止めようとはしなかった。
 「大王が出兵されるまで、私は毎日寺へ行ってお祈りいたします」

 メイサは心配でたまらなかった。
 「戦いのない平和な日は終わってしまうのでしょうか」

 アダナムは英気を湧き上がらせた。
 「大王のために先鋒を勤めましょう」

 彼は妃たちに尋ねた。誰か南のモンの魔王シンチを知っているか、と。
 どの妃も知らなかった。

 ジェツンイシが言った。
 「大王様のお話によると、モンとリン国が敵となったのは、一代上の世代のこと。
  ダロン部と関係があるのなら、やはりトトンに聞いたらよいでしょう」






阿来『ケサル王』 97 語り部:道の途中

2015-04-09 07:10:28 | ケサル
語り部:道の途中 その5



 その夜、ジグメは鍛冶屋の家に泊った。
 窓の外から伝わって来る滔々とした河の音を聞きながらジグメはまた夢を見た。

 ジグメはギャツァの夢を見たかった。だが夢に現れたのはやはりケサルだった。

 ホルから降った将軍シンバメルツは北方の塩の湖で、襲って来たジャンの大軍を破り、ジャンの勇敢な王子ユラトジを虜にした。
 塩の湖では、湖畔に波が次々に押し寄せ、キラキラと輝く塩の粒を少しずつ運んで来る。
 縛り上げられたユラトジはこの情景を見てため息をついた。

 「我々ジャンの国では貴重なものが、なぜここでは泥砂の様に有り余っているのだ」

 荒々しい力を崇める時代、塩は人間の力を高めるものだった。

 シンバメルツは言った。
 「塩はリンに無窮の力をもたらすだけでなく、無窮の智慧をもたらすのです。王子よ、我々に降りなさい。ジャンをリンの国にすれ
 ばいいのです。その時は、戦いを起こさずとも、ジャンの民も塩を得ることが出来るのですぞ」

 王子は尋ねた。
 「それはケサル大王のご意志ですか」
 
 ケサルがたちまち現われた。
 「そうだ、私の意志だ」

 王子は降った。
 だが彼の父は降らなかった。

 そこで、リンの大軍は南方の国境へ次々と集まり、ギャツァの砦の周りに集結し出発した。
 兵士たちはここで鉄の兵器に持ち替えた。
 僧侶たちは山の頂で勇猛な山神に戦いの守護を仰ぐ経文を唱えた。

 リンの兵士は谷に長い隊列を作った。
 英雄タンマが先鋒を率いて出発した三日後、ケサルは中軍を率いて出発し、昼に歩みを止めた。
 その時、後ろの部隊はまだ出発点にいて一歩も動いていなかった。

 ケサルは足を止め見送りに来た首席大臣に別れを告げ、妃たちとも別れを告げた。
 ジュクモ、メイサを始めとするリンが興った時の十二王妃だけでなく、魔国の美女アダナムとホルの公主ジェツンイシがいた。ジュクモは玉の椀を捧げ王妃たちを率いてケサルに走行の酒を献じた。

 ケサルは酒色に溺れ魔国に留まり、兄を失ったことを思い出した。
 また、酒の中に大事を忘れさせるものが入っているのではと疑うと、わけもなく怒りがこみ上げ、盃を傍らの岩に投げつけた。

 朝、ジグメは昨晩の夢を老人に告げた。
 老人はいぶかしげな表情が浮かべ、言った。
 「どうやら神様は本当に、お前にあの古い物語を語らせようとしていなさるようじゃ」

 老人はジグメを見送って暫く歩いてから言った。

 「さあ、ここで別れよう。別れる前に言っておこう。お前さんはまだ夢を見続けるだろうが、ここはケサルが見送りに来た王妃たちと別れを告げた場所じゃ」

 ここは金沙江の支流が峡谷を抜けて行き、公道が河と岩壁の間をくねくねと走っている。
 つまり、ここは広くはないし、大軍が通って行けるような場所ではない。
 だが、老人は傍らのくぼみを指さし、そのくぼみは確かに杯の形をしていた。

 老人は言った。
 この地の言い伝えでは、このくぼみはケサルが杯を投げた時に残したものと言われている、と。

 再び河のほとりに戻り、分かれ道を前にしてジンメイは悩んだ。
 道は、一つは北のホルへ向い、一つは南のジャンに向う。

 立ち止まり、消えては現れる大きな渦巻きを眺めていると、頭の中の物語の場面が現れては消え、消えてはまた現れた。
 そう、失われていた物語がまた復活したのだ。

 ジグメは大声で叫んだ。
 「思い出したぞ!」
 振り向いた時、老人は別れも告げず姿を消していた。

 途中、強烈な日の光が照りつけ、細かく砕かれた石英の粒がキラキラ輝いていた。
 まるで物語の中で、波が岸辺に打ち上げた塩の粒が光っているかのように。






ドキュメンタリー『ケサル大王』上映とトーク

2015-03-30 21:36:47 | ケサル


ドキュメンタリー『ケサル大王』の上映が3月28日から渋谷UPLINKで始まりました。
http://www.uplink.co.jp/movie/2015/36219

宮本神酒男さん、麻田豊さんのトークは短い時間ながらとても充実したものでした。

4月1日は、私が阿来のケサルを少しお話させていただきます。
役不足ですが、阿来の魅力を語りたいと思っています。

宮本氏 麻田氏のトークの内容については、出来ればまとめて「Ksaer Note」に載せたいと思っています。
お楽しみに。

待ちきれない方は、ケサル大王のfacebookで、その雰囲気を感じてください。








阿来『ケサル王』 96 語り部:道の途中

2015-03-20 01:54:03 | ケサル
語り部:道の途中 その4




 「タンマがジャンの国の最後の大将ツェルマ・クジェを倒したのじゃ。タンマの考えに従ったから、リンの兵たちは河に沿っては行かなかった。簡単に行く手を遮られてしまう谷を通らないですんだのだ」

 老人は切り立った谷の両側の高い山を指さした。
 下から見上げると、頂は剣の様に鋭く尖り、天を突き刺している様に見える。

 だがこの地を良く知る者はみな、山の上は平らにひらけた高山の草原で、馬を駆って思いのままに走り回ることが出来るのを知っている。
 そこで必要な時が来たら、谷間の攻撃目標に向かって大軍が洪水の様になだれ込むのである。

 老人はジグメを連れて山の中の村へとやって来た。
 そこではどの家も砦のような姿をしていた。

 老人の家もこの村にあった。

 金沙江は窓の外の崖を勢いよく流れ、家の周りの畑にはジャガイモとソラマメが花を咲かせていた。
 ここは河の音と花の香りに包まれた村だった。

 老人の一家はちょうど一休みしているところだった。
 顔は垢で汚れているが輝く目をした三人の子供、物静かな男、わずかに疲れの見える中年の女性。
 彼らの顔には静かな笑みが浮かんでいた。

 ジグメには、三世代の仲の良い家族に思えた。

 老人はジグメの様子からどう感じたのかを見抜き、言った。
 「これはワシの弟、これはワシと弟共有の女房、そしてワシらの子供だ。長男は出家してラマになった」

 老人は言った。
 「なあ、お前さんも同じ族の仲間だろう。なんでそんなに不思議がるんじゃな」

 ジグメはきまり悪かった。
 自分の生まれた村にも兄弟が一人の女を妻として共有する家はあった。それなのに、やはり驚きの表情を隠せなかったのだ。

 幸い、老人はこの話をそれ以上続けなかった。
 老人が扉を開けると鉄を打つ作業部屋が現われた。

 鉄を焼く炉、羊の皮のふいご、厚い木の作業台、やっとこ、かなづち、やすり。
 部屋には、成形した鉄器を焼き入れする時に立ち昇る水蒸気の匂い、砥石車で刀剣の歯を磨く時に辺りに飛び散る火花の匂いが充満していた。

 他にも、形になっていない鉄、半製品の鉄が部屋中に散らばっていた。

 窓と反対側の木の棚には成形された刀剣が大きなものから小さなものへと順に並べられ、冷たい光を放っていた。

 老人はジグメが口を開く前に、彼の想いを察して言った。
 「そうだ、ワシらは一代一代この仕事をして来た。ケサルの時代からじゃ。
  ワシの家だけではない。村中のすべての家がそうだ。
  ワシらの村だけではない。河に沿ったすべての村がそうなんじゃ」

 老人の目には何かを失ったような表情があった。
 「だが今、ワシらは矢尻を作らない、刀も戦場で使われることはない。
  偉大な兵器は農民や牧民の鍛冶屋に変わってしまった。
  ワシらは観光局から注文されたものを作るだけの鍛冶屋なのじゃ」

 老人はジグメに短刀を贈った。
 少し曲がった柄、中指より少し長い刀身。ケサルの水晶刀の姿を残したものだという。

 ジグメは言った。
 「オレは、水晶で出来た刀かと思っていたよ」
 老人は水と風でピカピカに磨いたばかりのメガネを指して笑った。

 「ワシはお前さんが好きだ。ジグメという仲肯が気に入った。お前は、自分の語る物語に疑問を持っていて、何でも分かっているという振りをしないからな」

 「おじいさんも鍛冶屋じゃないみたいだ」







阿来『ケサル王』 95 語り部:道の途中

2015-03-15 03:20:25 | ケサル
語り部:道の途中 その3



 「ケサルの物語を、どうしてそんなにたくさん知ってるんだ。もしかして、おじいさんは仲肯か?」

 老人は答えず、立ち上がって前を歩いた。ジグメの前を歩いて、小さな山の上に着いた。
 金沙江の支流が谷間を勢いよく流れていた。

 砦の跡が一つと、今にも壊れそうな土を固めたいくつかの壁が、当時ギャツァがリンの南の境界に作った城塞の跡だった。
 地面には赤い塊りがたくさんあった。ずっしりと重い石のような、だが、完全な石ではないもの。

 老人はジグメに教えた。
 これは城塞の基礎。これは精錬した鉄鉱石。

 城塞を築く時、製鉄の技に通じた兵器は、溶かした鉄と、半分溶かした鉄鉱石を、深く掘った壁の土台に流し込んだ。
 冷えて固まった土台は比べようもなく堅固だった。

 二人が立っているこの丘から固い灌木の茂みを通り、長い壁がうねうねと低地まで続き、その後、向かいの更に高い丘へと登って行く。
 その丘の頂にも、さらに高く聳える廃墟があった。

 丘の上には強い風が吹いていた。
 二つの丘の間には低地が広がっていて、かつては古代からの道が通じていた。
 今そこは長い間耕されてきた一面の畑になっている。

 老人は言った、この丘とあの丘にある遺跡はギャツァの城塞の両翼だ。間の低地に城塞の中心があった、だが、今そこには一つの石も一本の木も残っていない。

 老人は腰を下ろすと言った。
 眼鏡は水で磨いた後、風で磨かなくてはならないのだ、と。

 「お前さんが仲肯なのは分かっている。だからここにある本当の姿を見に連れて来たのじゃ。お若いの、どう思うね」

 「物語の中のリンの国は大きかった。まるでこれが世界の全部じゃないかと思えるほどだった。今これを見ると、それほど大きくなかったのかもしれないな」

 ケサルが生まれたアッシュ高原からマニゴンガに向かい、雪山を超えてデルゲに着き、そしてここまで来た。途中休み休みしながらも十日間歩いた。

 老人は真面目な顔で言った。
 「それはリン国が始まったばかりのことだ。その後大きくなっていったのじゃ。
  ここから出発し、金沙江の両岸をずーっと下って、リン国の大軍は南にある魔王サタンが率いるジャン国を征服した。じゃから、南方の境界はずっとずっと遠くになった。
  そこでは冬でも草原に花が咲き乱れているそうじゃ」

 「その時には、ギャツはもうこの世にいなかった」

 老人の顔には激しい不満の表情が浮かんでいた。
 「そうじゃ。ギャツァこそリン国で誰よりも戦略に長け、だれよりも強い忠誠心を持った大将だった」

 「なら、ジャン国に出征した時、兵や馬はだれが指揮したんだろう」

 老人はジグメをジロリとにらんだ。
 「お前はラジオの中で語った仲肯じゃろう。お前さんの語りはなかなか良かったぞ」

 「でも、今、頭の中がすっきりしなくて」

 老人は磨いてピカピカに透き通った眼鏡をかけた。
 「そうだな、ぼんやりした顔つきじゃ。神様はお前から離れようとしていなさるのかもしれん。何か、神様が嫌がることをしたんじゃろう」

 「それもわからない」

 「さっき、ワシに何か尋ねたな。そうじゃ、ジャンに出征する時誰が指揮したか、だったな。
  教えてやろう。ジャンはワシらの大英雄ギャツァを恐れていた。もし、ギャツァが生きていたら、奴らはリン国の塩の海を奪いには来られなかっただろう」

 ジグメはまた同じことを聞いた。
 「塩の湖はどこなんだ」

 塩の湖はもちろん東北の草原にある。
 だが塩の湖に行くには、ジャン国の軍隊はここを通らなくてはならない。
 老人の興味は地理にはなく、誰がリンに一番忠誠かということだった。

 ジャンは塩の湖で敗れ、若い王子はホル国からリンに下った将軍ジンバメルツの捕虜になり、その後、リンの大軍が南下しジャンを討伐した。

 老人は言った。
 「ギャツァを除けば、一番忠誠な大将はタンマじゃ。
  ジャンへ遠征した時のタンマの手柄は誰よりも大きかった」















阿来『ケサル王』 94 語り部:道の途中

2015-03-10 11:42:02 | ケサル
語り部:道の途中



 静止していた画面も目の前から消えた。
 頭の中がぼんやりとした。

 故郷で自分に何かを教えようとした活佛の話を思いだした。活佛はこう言ったのだ。

 「目で外側を見てはいけない。自分の内側を見るのだ。すると、物語が出て来る場所がある。それを泉のようだと想像してみる。その泉が絶えずこんこんと湧き出でていると想像してみるのだ」

 彼は目で内側を見た。これは簡単だった。
 意識を頭に集中すると、光が束となり、暗い内側を照らした。

 だが、光の届いた場所もやはりぼんやりとしていた。
 一面の霧の中を行く人のように、目に入るのは茫漠とした世界、その先もまた茫漠だった。

 途中、ジグメの麻痺した頭はずっと思っていた。
 「黒いジャンが塩の海を奪う、黒いジャンが塩の海を奪う」
 だがたったこれだけだった。

 自分が語ったことのある物語さえ思い出せなくなっていたのである。

 途中、彼は穏やかな顔つきの老人に会った。
 老人はメガネのレンズが曇ったので、腰を下ろして忍耐強く磨いているところだった。老人はジグメに尋ねた。

 「何か悩んでいるようじゃが」

 「もうだめです」

 老人は泉の涌き口から立ち上がり言った。
 「もうだめか。そんなことはないだろう」

 老人はジグメを道端の岩の壁の傍へ連れて行った。
 「ワシは眼鏡をかけないとよく見えないんじゃが、お前はまだマシだろう。何が見える?」それは腕ほどの太さの円柱が固い壁に開けた一本の溝だった。

 その形は男性の性器によく似ていた。

 だがジグメそれを口に出せなかった。
 「そんなこと、恥ずかしくて…」

 老人は大笑いして言った。
 「下品か。神様は毎日お上品なことばかり聞いていて、それで下品ことが聞きたくなるのじゃな。ほれ、これはお宝の跡じゃ。並の大きさじゃないお宝だぞ」

 老人はジグメに物語を語った。
 あの時、ケサルは魔国にあまりに長く留まりすぎた。リンに帰る途中で心配になった。
 長い間、日ごと琴に合わせて歌い、夜ごと酒をのんでばかりだった、自分のお宝にまだ勢いがあるだろうか、と。
 そこで、すぐにモノを取り出して試した。

 こうして、岩にそのはっきりした跡が残った。

 老人はジグメの手を引っ張って、微妙な形をした跡にしっかりと触れさせた。
 そこは、何千何万回と撫でられために滑らかで艶々していた。

 それから老人は言った。
 「今家に帰れば、種馬みたいに元気いっぱいじゃ」

 言い終ると振り向きもせずに泉へ眼鏡を洗いに行った。

 ジグメは笑った。自分は下がダメなのではなく、上がダメになのに。

 ジグメは老人の傍に戻り言った。
 「オレは塩の湖に行きたいんだ」

 「塩売りたちは何時も何人かで隊を組んで出掛けるぞ。たった一人で、塩の湖に行って何するんじゃ。それに、塩の湖はたくさんある。どの湖に行きたいのかね」

 自分の声が低くなっているのが分かった。
 「ジャン国の魔王サタンがリンから奪おうとした湖だ…」

 目の悪い老人は耳が良く、ジグメの低い声を聞き取った。
 老人はジグメに言った。
 
 ここは昔ギャツァが守っていた場所だ。塩が採れるしょっぱい湖はここからとても遠い。リンの一番北だ。そこにはしょっぱい湖が星のようにたくさんあって、ジャン国の魔王が奪おうとしたのがどれなのかは誰も知らない、と。

 老人はため息をついた。

 「もしギャツァが死ななければ、ジャンの国王は塩の湖を奪いになど行かなかっただろうに」



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ギャツァの死をめぐって  他
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阿来『ケサル王』 93 語り部:道の途中

2015-03-04 21:01:08 | ケサル
(今回から主人公ジンメイをジグメに、愛馬ジアンガペイフをキャンガペルポに変えました
英語版の表記に合わせました。しばらく混乱すると思いますが、よろしくお願いします)


語り部:道の途中




 語り部ジグメは放送局を出てからずっと独り言を言い続けた。
 「恥ずかしい。会わせる顔がない。」

 ジグメは自分があのスタジオの中の女性を好きになったとは思っていない。
 違う道を歩いている二人がどうしてお互いを愛せるだろう。

 彼を惑わせたのは彼女の曖昧な声、彼女の体から立ち昇る特別な香りだった。
 それが彼を媚薬のように迷わせたのだ。

 長い道のりを歩きながら、ヤンジンドルマも自分を愛していたことを思い出した。
 彼女が自分より太く荒れた手で彼に茶を飲まそうと部屋に引っ張って行ったことを思い出した。

 歩きながら彼女の口ぶりを真似てやさしく言った、「来て」。
 また彼女の恨みをこめた口ぶりを真似て言った「チッ!」

 こうして歩き疲れ、渓流のほとりの草の上に横になってぼんやりしていた。

 昼過ぎ二台のジープが渓流のほとりで一旦停まり、そのまま流れの中まで乗り入れ、水を汲んでは車に積もった埃を洗った。
 水晶のような水のしずくがあたりに飛び散った。

 車を洗い終わると、きちんとした身なりの男女たちは水を掛け合った。
 楽しそうな笑い声に、すぐ近くで死んだように横たわっていたジグメは、世界の外側に置き去りにされているかのような気分になった。

 びしょびしょになった男女は、最後には疲れて静かになり、座って服を乾かした。
 彼らは当然ジグメを見たはずだが、まるで目にしなかったようにふるまった。

 ジグメは立ち上がってここを去ろうかと考えたが、やはり地面に横になったままじっとしていた。

 この時誰かが運転手にテープをかけるよう頼む声が聞こえた。
 運転手がどのテープを聴きたいかと尋ねると、誰かが答えた。
 「ケサル」

 ジグメは彼らが話しをはっきりと聞いた。
 「ジグメがラジオで語ったケサルにしよう。録音したばかりの新しい語り、“ジャン国が北に行って塩を奪う”がいい」

 テープレコーダーから語りが流れてきた。
 ケサルとジャン国の魔王の対決である。

 二人は陣の前に馬を繋ぎ、問いを出しそれに答えるという、なぞなその形で遠く近く連なる山々を褒め称えながら、それらの山々の姿を伝え、美しく飾り立て、由来を詳しく語った。

 ジグメ自身も語りに引き込まれ、自分が異なった声で、それぞれに訳を演じるのを聞いた。
 始めの一句は相手を困らせる謎掛け役の、次の一句は得意洋々とした謎解き役の言葉である。

  ウォン――
  
  最も近いあの山は
  若い僧が香を持ち、経机の前にいるようだ
  この山の名はなんという

  ウォン――
  若い僧が香を持つのはインドの檀香山!

  ウォン――

  平らな岩の層が堅固に天に向かっている
  まるで旗が風を受けて翻っているようだ
  この山の名はなんという

  ウォン――
   旗が折り重なってはためくのはワイウェイグラマ山!

  ウォン――

  仙女が黄色い帽子をかぶり
  美しい霞を肩掛けにして雲間に立っている
  この山の名はなんという

  ウォン――
  仙女が黄色い帽子をかぶるのは山々の間に高く聳え立つチョモランマ山!

  ウォン――

  険しい山の後ろはゆるやかな斜面
  国王がたった今位に着いたかのようだ
  幾層もの石段が旋回しながら空に登って行く
  この山の名はなんという

  ウォン――
  それは東と西の境を区切るネンチンタングラ山!

  ウォン――

  山々の間に平野が開け
  険しい峰は雲を突き抜ける
  まるで象が平原にいるようだ
  この山の名はなんという

  ウオン――
  平原を象が行く、それは漢の峨眉山!


 ジグメは笑った。
 この二人は戦いに臨んむ大軍の首領には見えず、学問を戦わせるラマのようだ。

 彼は思った。
 一人でこのすべてを真に迫って語れるとは、なんと素晴らしい人物だろう。
 彼はこの考えに酔いしれていた。

 彼の前に、終には自分の姿が現われ、映画のシーンのような古い物語の中を自由自在に行き来した。

 この時、ジープが再び動き始め、あの語りの声は徐々に小さくなり、どこまでも続く静けさが再び戻って来た。
 
 語りの声が消え去ると、目の前にあった幻影はピタリと止まった。
 その中に入って、生き生きとしたシーンを続けて語りたかったが、画面は静止し、止まったまま、色と輪郭をゆっくりと失っていった。

 ジグメは驚き恐れている自分の声を聞いた。
 「だめだ、だめだ」



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ドキュメンタリー『ケサル大王』、渋谷アップリンクで一般上映!

2015-03-04 20:20:32 | ケサル
ケサル物語の最大の山場、ホルの戦いが終わりました。
阿来の『ケサル王』は実はこれから独自の世界へ入って行きます。
物語とは何か、真実を求めるとは何か…
お楽しみに!

今回は、ドキュメンタリー映画『ケサル大王』の一般公開のお知らせです。

     ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆


ドキュメンタリー映画『ケサル大王』 監督:大谷寿一

 日時:3月28日から3週間
    (時間は日によって変わるようです)
 場所:渋谷アップリンク  http://www.uplink.co.jp/


     ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆




《以下は監督のFacebookでの言葉
 新たなケサルが登場しそうです》


御陰さまで『ケサル大王』が渋谷のミニシアター「アップリンク」で法王来日に合わせるように
3月28日(土)から一般公開されることになりました。
3週間、午前中に、『天空の大巡礼を行く』も週末に併映される予定と聞いています。

アップリンクは『風の馬』『雪の下の炎』を上映、『オロ』公開の際はチベット映画特集も行っています。
『ケサル』もその系譜に繋がることができました。
これまで応援し、見守って下さった皆様に感謝いたします。

チベット問題に造詣の深い酒井信彦氏は
「重い内容を分かりやすく見せている。広く見られることを望む」
とご感想を述べられました。
長年従事して来たテレビ番組の制作方法、いわばテレビ的な作りをして評価されたと思います。

2011年、秩父神社での初公開は全編字幕でした。
今回の上映では、分かり易く、より映像的な、「マスではない」
数十人の観客の心に残る『ケサル大王』に挑戦してみたいと思います。

FB「ケサル大王」からも最新情報を発信します。よろしくお願いします。
https://www.facebook.com/pages/%E3%82%B1%E3%82%B5%E3%83%AB%E5%A4%A7%E7%8E%8B/419486081451560







阿来『ケサル王』 92 物語:国王帰る

2015-03-02 03:29:13 | ケサル
物語:国王帰る その2





 ホルを追われた野生の馬の中に数頭の非常に美しい雌馬がいた。
 魔国に着いてすぐに、キャンガペルポはその虜になった。

 間もなく、雌馬たちとキャンガペルポは一時も離れがたいほど親密になり、魔国の雌馬たちはキャンガペルポを移り気だと嫉妬した。

 ホルの馬たちは魔国に数日いただけで耐えられなくなり、故郷の塩の湖を懐かしみ、キャンガペルポを取り囲むようにして魔国の中心からはるか離れたホルとの境界へと向かった。

 不思議なことに馬たちは、朝日の昇る前に草の露を啜るだけで、魔国の至る所に湧き出でている澄んだ泉の水を飲もうとはしなかった。
 雌馬たちに尋ねても、媚びた素振りをするだけで、水の問題については何も教えようとしなかった。

 辺境の砂地に来ると、そこには泉はなく、キャンガペルポの頭は徐々にはっきりして、こうしていては主人からどんどん遠ざかってしまうと気付き、急いで戻ろうとした。

 「どうしてご主人様の元へ戻るの」

 「主人が妖怪や敵を倒すのを助けるのだ」

 「ここの風は爽やかで気持ちがいいわ。考えてみて、あなたのご主人様が、あなたに乗って草原を走り回らなくなって、何年になるのかを」

 この時一陣のそよ風が砂地の深いところから吹いて来て、キャンガペルポはっきりと目覚め、思わず叫んだ。
 「リンの国を離れてすでに六年だ」

 その言葉に、野生の馬の群れは彼に別れを告げた。
 「ここには長く居られない。塩の泉の味が懐かしくて、故郷を思わずにはいられない。ここでお別れしましょう」

 キャンガペルポは別れを悲しんだ。
 「ボクを愛してたんじゃないのか」

 野生の馬は遠くへ去って行った。
 最も美しい目をした雌馬が振り返って言った。

 「あなたはリンに戻りなさい」

 キャンガペルポはリン国に戻ったが、そこで目にしたすべてが彼の心を傷つけ、自分と主人ケサルのために悲しんだ。自分と主人が天から降ったことは、何の意味もなかったのだろうか。

 キャンガペルポはもう一度魔国に戻ると、ホルの野生の馬を真似て、花や草の露だけを口にし、清らかに響く澄んだ泉の水を見ても見ぬふりをした。
 
 キャンガペルポはこれまで主人の前で人間の言葉を話さなかったが、今は、一歩進むごとに思いを口にしたい気持ちが高まっていった。

 下界に降ったのは何故かなのか、
 忘却の泉の力はなぜこのように強いのか、
 主は一切の毒の杯を清める呪文を学んだのに、なぜ自らは魔国の忘却の泉に犯されてしまったのか、
 神はまだ啓示をお示しにならないのか…

 天馬が進み、涙を落とした場所に、泉が湧き出した。その時、魔国にもともとあった泉はすべて涸れてしまった。

 おかげで、キャンガペルポが鉄の城に付く前に、ケサルはすでにはっきりと目覚めていた。

 愁いの雲が再びリン国を覆っているありさま、
 トトンが意気揚々と横暴に振る舞い、人々が大人しくそれに従っているありさま、
 自分の人の世の父がトトンに代わって忙しそうに貢物を受け取っているありさまを知った。

 更に、クルカル王の王宮では、それまで愁いに表情を曇らせていたジュクモが新しく生まれた子供に笑顔を表しているのを知った。

 キャンガペルポは胸一杯に恨みを抱いていたが、主人の顔を見て、まだ口を開かないうちから主人が熱い涙を流しているのを目にすると、自分もまたぽろぽろと涙を溢れさせ、言葉にならなかった。

 アダナムとメイサが現われた。
 ケサルは言った。
 「また邪魔をするのではないだろうな」
 
 二人の妃はそのまま前へ進み、ケサルが馬に乗るのを手伝った。
 アダナムはメイサと違って気丈に言った。

 「大王様が天の命を受けて出発したいと心から願われるなら、お邪魔することはありません」

 魔国を発ち、ケサルはリンには戻らず、直接ホル国へと向かい、ジェツンイシとシンバメルツから密かに手引きを受け、クルカル王と二人の兄弟-黄帳王、黒帳王を殺した。

 ジェツンイシはケサルの妃となり、シンバメルツはリン国がホルを治めるための総領事となった。

 最後にケサルはクルカル王とジュクモの間に生まれた子供の命を一刀の元に絶った。
 ジュクモはケサルに馬に乗せられると、叫ぶように言った。

 「大王様。たとえクルカル王の血を引いてはいても、あの罪のない子供を、私はなによりも愛していました」

 だがこの時、ケサルの心は憐みを抱くはずもなく、腹黒いトトンを片付けようと帰国の道を急いだ。

 リンへ向かう途中で、ケサルにはすでに分かっていた。
 すべての恨みを晴らそうと、一刀の元にトトンの命を奪ったならば、必ずダロン部の強い敵意を招くだろうことを。

 父であるセンロンも勧告した。
 「どうあってもトトンを許さなくてはならない、さもなければ、ダロン部は反乱を起こし、リン国は敵に攻められるまでもなく、自らの足元が大混乱となるだろう」

 トトンもまた自分の罪の重さを知り、跪いて許しを請うた。

 「大王よ、もしワシを殺さなければ、我々ダロン部の優れた将兵も大王の言葉に従うだろう」

 ケサルは心に燃えあがる怒りの炎を憎しみへと置き変え、トトンのダロン部長官の職を取り上げ、辺境に送り馬の放牧をさせた。

 ケサルは心の中で思った。
 この時この人物を殺さなければ、一、二年後、また彼を元の職に戻すことになるだろうと。

 以前にも書いた通り、リンの穆氏の長仲幼三氏族の中で、このトトンはあろうことかケサルの属する幼氏の一統なのだった。

 追放令が出てすぐ、トトンがまだ辺境に到着しそうもない頃、同じ幼系に属する父センロンが、またトトンのために許しを請いに来た。

 「長系と仲系が我々を覗っている。幼系が自ら争いを起こせば、内輪もめが起こるのだぞ」

 まだ天から降りてくる前、神の子は人の世を簡単に考えていた。
 その役割とは、妖魔を倒し領土を広げるだけのこと。

 国王になってこのような面倒と向き合うことになろうとは思っていなかった。

 まず妃たちの寵愛をめぐる争いに身の置き所を失いった。
 そして今、血縁の序列のために賞罰をはっきりさせられないでいる。

 ケサルは首席大臣がどのような指示を出すか待った。

 ロンツァ、センロン、トトンは三人とも幼系の長老である。
 それでも、首席大臣がセンロンの言葉に頷かないようにと、ケサルは願っていた。
 だが、首席大臣は頷いて受け入れてしまった。

 若い国王は冷笑して言った。
 「お前たちは、もし私がいなければ、リン国の幼系は一つに団結出来ると言いたいのだな」

 「そのようなことは申しておりません」
 

 「私がリンに来たのは天下を平定するためだ。だが、お前たちは心を煩わすことばかり起している。
  私は早く天に帰るべきなのか」

 二人の老人は彼の前に同時に跪き、言った。

 「大王様!」




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ギャツァの死をめぐって
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阿来『ケサル王』 91 物語:国王帰る

2015-02-22 16:41:44 | ケサル
故事:国王帰る その1



 首席大臣の悲しく憤りに満ちた叫びは巨大な力となり、魔国の空へと伝わった。
 その時、いくつかの星がアダナムの砦の前に震えながら落ちた。

 ケサルは尋ねた。
 「これは天の星が落ちてきたのか」

 二人の妃は取り繕おうとしたが、それより先に大臣チンエンが答えた。
 「そうです、星が落ちて来たのです」

 ケサルの虚ろな目に光が宿った。
 「なぜか胸が痛む。リン国に難が起こったのではないだろうか。ここを片付けて国へ帰ることにしよう」

 「大王様。国王の位にある方は朝日が昇る時に出発すべきです。夜に出発されるのは、こそこそと行動する魔物のようです」

 ケサルは笑って、「それも道理だ。だが明日…もし忘れていたら、必ず促してくれ」

 二人の妃は何度も承知の返事をした。

 ケサルはまた尋ねた。
 「時の立つのは早い。魔国に来て、もう一年になるだろうか」

 みなは顔を見合わせるだけで、答える者はいなかった。

 また酒が運ばれてきたが、ケサルは断わった。
 「私がメイサを救いに行こうとした時、ジュクモが酒を飲ませて出征を忘れさせようとした。もう酒は飲まない」

 アダナムとメイサは言った。
 「では、お茶をお飲みください」

 茶は酒と反対に人の心を醒ますものだとケサルは知っていたが、次の朝には昨晩話したことを忘れていた。
 そして、出発を促す者もいなかった。

 多くの人は言った。魔国には忘却の泉があり、ケサル王はその水を飲んだため、星々が落ちたという天からの明らかな啓示を忘れたのだ、と。
 だが一方で、神はなぜこのように勿体ぶるのだろう、天の母を遣わして直接告げればいいではないか、と言う者もいた。

 どちらにしてもケサルは忘却の泉を飲み、国王として負うべき重い責を忘れてしまったのである。
 忘却の状態は丸々三年続いた。

 三年目の初めに、ジュクモはクルカル王との間に健康な息子を生んだ。

 この三年で、リンという生まれたばかりの国は、すでに国ではなくなっていた。
 ギャツァという偉大な英雄が世を去って後、人々の心はバラバラになってしまった。

 首席大臣は民心を治めることが出来ず、ケサル王の名前を使って四方に号令することも出来なくなっていた。

 トトンはこの隙に自ら王と称した。
 この陰険で徳を知らない者は、自分の兄弟であり、ギャツァとケサルの父であるセンロンに願い、日増しに輝きを増す城塞の総督となっていた。

 ありうべからざることに、英雄ギャツァとケサルの父は、怒りに耐え沈黙するしかない召使いとなった。
 毎年センロンは、トトンが国中から集めた貢物を恭しくホルの国境へと送っていた。

 この状況を一転させたのは天馬ジアンガペイフだった。

 初め、ジアンガペイフも魔国の忘却の泉の水を飲み、力は萎え、精気を失っていた。
 ケサルが鉄の城で二人の妃と楽しんでいる時、ジアンガペイフも野生の馬の群れの中にいた時と同じく、美しく若い雌馬に取り囲まれていた。

 だが時々不思議に感じられた。
 以前、野生の馬の群れにいた時は、心は何時も喪失感に囚われていたが、今はどうしてこのように安穏としていられるのだろうか、と。

 そのため、谷間から山の上に駆け上り、はるか遠方を望んでは思い悩んでいたが、何も見つけられなかった。
 更に二つ、三つの山を走り抜けてもまだ何の成果もなかった。

 そこでこう考えた。どんなことをしても馬の頭はやはり国王である人間の頭とは違うのだ、と。

 時には国王も会いに来たが、何か思うところがあるように自分の頭を撫で、腰を叩いた。
 明らかに、必死で何かを考えているのだが、それでも何も思い出せないようだった。

 この時以来、ジアンガペイフは無駄に思い悩むのは止め、総ての力を群れの中の美しい雌馬を征服することに注いだ。
 その噂ははるか遠くの馬の群れにも伝わって行った。
 最も誇らしかったのは、その名声が家畜としての馬と野生の馬との境界を超えたことだった。

 ただホル国ではただ一人、リン国の大英雄をだまし討ちにしたシンバメルツが心に不安を抱えていた。
 ギャツァを騙したのは、彼には勝ち目がないのを知って、仕方なく用いた最悪の策だったのだ。

 リンの人々が心の底から恨みを抱いたのは言うまでもなく、自らの国の、あの美しいジズンイシもまた、常に面と向かって彼を侮辱した。

 「さすが、ホル第一と称される勇士だこと。最大の武器がだまし討ちなのですからね!」

 「ご存じでしょうね。卑劣な手段で正直な相手を殺せば、その人間は地獄に落ちるのですよ」

 シンバメルツは弁解した。
 「ジュクモ王妃が策を弄した時、一目でそれは侍女だと見破ったが、黙っていたのです」

 女の気高い顔に蔑みの表情が顕わになった。
 「自分を優れた勇士と誇っているのでしょうけれど、それは、クルカル王の犬と同じことです!」

 そのたびに、ジズンイシ公主の言葉は彼の心を切り裂いた。
 終に彼は口を開いた。
 「公主様、どうやったら心の汚れを洗い流すことが出来るのでしょう」

 公主は言った。
 「お前がさらって来た王妃はすでに新しい王子を生みました。侍女たちと一緒におむつを洗ったらいかが」

 このように、この女は彼のすべての尊厳をずたずたにした。
 シンバメルツは叫んだ。
 「毒を持った言葉をまき散らす方、私はどうしたら罪を洗い流し、心を入れ替えることが出来るのでしょう」

 ジズンイシは笑った「ならば、若いケサルを忘却の泉から目醒めさせなさい」

 「それがしには出来ません」

 「自ら出向かなくてもよい。塩の泉の近くの野生の馬を魔国に追いやればいいのです」

 シンバメルツはその理由が分からなかったが、すぐさま公主の言葉に従い、兵士を連れて王宮の北方の沙漠にいる一群れの野生の馬を塩の泉から追い立てた。

 九日九夜休まずに馬を追い、終に魔国に着いた。そこで出発の時公主から賜った攻略の書を開くと、更に魔国の深くまで三日三夜馬の群れを追って行けとあった。

 そこで彼はまた言葉の通りに事を行い、そうしてからやっとホルに戻った。

 公主は言った。
 「これでお前の不義の罪は半分洗われた」

「では、残りの半分は」彼は早く罪が注がれ、毎夜悪夢に襲われない日を待ち望んでいた。

 公主は何も答えなかった。








阿来『ケサル王』 90 物語:ギャツァ、命を捧げる

2015-02-05 02:42:46 | ケサル
物語:ギャツァ、命を捧げる その5




 この時、王子の後ろには夜陰に紛れて兵馬が集まって来ていた。
 蹄が大地を蹴り、それはまるで戦いを促す太鼓の音のようだった。
 この音はギャツァの血をたぎらせた。

 「よく聞け!戦うなら刀を取れ、降参するなら、オレの後ろに着け。俺がホルの兵をどうやって倒すか、見せてやろう」

 「兄さん!早く帰ってください。あなたの勇ましさは誰の目にも焼き付いています。兄さんは私の七人の兄弟を殺しました、父王は絶対に許さないでしょう」

 「お前は死ぬのを恐れているのだな。それでオレの弟だとうそを言ったのだろう」

 月の光の下で王子青白い顔がゆっくりと黒ずんでいった。王子はかすれた声で言った。
 「たとえ私があなたに敵わなくても、たとえあなたが私の兄であっても、そのような辱めは許せない!」

 王子は長槍を取り、馬に飛び乗ると言った。

 「ギャツァ・シエガよ、聞くが良い。あなたに勝てないことは分かっている。
  だが、私の後ろには私の国が付いている。
  死に臨んで一つ誓いを立てよう。
  もし私が本当にあなたの弟なら、私が流す血は白いだろう。
  もし弟でなければ、死んだのち流れる血は黒いだろう。
  
  さあ、かかって来い!」

 言い終えると王子は馬を鞭打って駆け寄り、槍を伸ばして顔を突こうとした。
 ギャツァは続けて三度身をかわしてから飛び上がり、後ろ手で一太刀浴びせると、王子はそのまま馬から落ちた。

 ギャツァは王子が一瞬微笑むのを見た。
 「兄さん、あなたはやはり真の英雄でした」

 言い終ると、口から血が噴き出した。その血は牛乳のように白かった。

 やはり、すでに世を去ったホル国の漢妃は本当に母の妹だったのだ。
 王子は本当に弟だったのだ。

 それなのに、自分は自らの手で心優しい弟を切り殺してしまったのだ。
 身を切るような月の光が地上を照らしていた。

 ホルの兵馬が次々と集まって来た。
 ギャツァは立ち上がり天を仰いで思いの限り叫んだ。

 集まって来た兵馬はその時目にした。
 ギャツが身を守る鎧兜を脱ぎ、月の光の元に横たわっている弟に向かってこう言うのを。
 「見た所、オレは戻れないようだ。さあ、お前の魂よ、待っていてくれ。黄泉の国で真の兄弟となろう」

 言い終ると、馬を駆ってホルの陣中に飛び込んでいった。

 この時、シンバメルツが前に踊り出た。
 ところがそれ以上近づこうとはせず、矢が届くほどの距離で馬を停めた。

 「道を開けろ。クルカル王を前に出せ」

 シンバメルツは言った。
 「今日は満月だ、毎月この日、我が大王は白い絹を手に結び、打たず、殺さず、善を修められる。
  大英雄であるおぬしの名は以前より聞いておるぞ。
  今日は、我々が武芸を競い合おうではないか。
  明日、本物の刀本物の槍で我が大王と命を懸けて決戦出来るのだ」

 「よけいなことは言わず、クルカル王を出せ」

 「このシンバとて並の者ではないぞ。相手として不足はないはず」

 「もしお前が負けたら、クルカル王をすぐ連れて来い」

 「もしワシが負けたら、王に伝えよう」

 「まずは、刀で戦うか、それとも矢で戦うか」

 「おぬしの刀の腕は千を超える我々ホルの兵の認める所だ。ならば、矢で戦おう」

 ギャツァはすぐさま弓をいっぱいに引き、
 「お前の兜の赤い房を射るぞ、この矢を見よ!」

 シンバメルツが避ける間もなく、頭の上を疾風が通り過ぎた。
 振り向いた時には、矢は射とめた赤い房を付けたまま、後ろの柏の木に深々と刺さっていた。

 ホルの大軍はほんの少し前まで、殺されるかと慌てふためいていたが、この瞬間、そろって喝采の声を挙げた。

 シンバメルツはすぐに矢を弓に当て、何も言わず弦を持つ手を緩めると、矢は真っ直ぐにギャツァの顔目がけて飛んで行った。

 矢はギャツァの額の真ん中に当たった。

 無防備だったギャツは大声で叫ぶと馬から落ちた。

 リン国を支える大きな柱、真っ直ぐな心を持つ勇者ギャツァ・シエガこうしてだまし討ちにされた。

 シンバメルツは本来正直な人間だったが、ギャツァの武芸と威風に恐れをなし、このように英雄としてすべからざる行為を為したのだった。
 だが、心の中は慚愧に耐えず、クルカル王を急かせて休まずに移動した。

 ホルの大軍は新しい王妃ジュクモを連れ、勝利のラッパも高らかに、太鼓を打ちならし、昼夜を分かたずホルへと戻って行き、リン国の大軍がやって来た時には、ホルの軍はすでに影も形もなかった。

 ギャツァという心の真っ直ぐな英雄の心臓はすでに脈打たず、リンの陣営にはもはや、頑丈な体を馬上で踊らせていたギャツァの姿は無かった。

 リンで最も清らかに輝く月は地に墜ちた。

 首席大臣の心は張り裂けんばかりだった。
 ギャツアの言葉を聞かず、早くに大軍を率いて王宮を守らせなかったことを悔いた。

 人々に担がれてギャツアの体が丘を降りてきた時、首席大臣は跪き、北の魔国の方角に向って血の涙を流しながら叫んだ。

 「大王よ!
  あなたへの忠誠のため、猜疑心によってギャツァを死に追いやってしまいました。
  大王よ!まだリンの国を覚えておられますか。まだ私たちの忠誠を必要としておられるのでしょうか」

 彼の悲憤の叫びの中で、空中に昇った満月の暖く淡い光が、氷のように青白く変わっていった。