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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 52 第4章 ツァンラ

2009-10-29 01:06:29 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



10 土司の伝記 二 その3


 橋を渡る時、私はずっと顔をあげたまま、かつてこの地方に威名を轟かせた、要塞のような土司官寨を見上げていた。

 橋の上に来た時、河岸がせり上がって、私の視線を遮った。畑と果樹園の緑と、緑の中央の古びた夢のような灰色の土司官寨が目の前から消え、集落を見守っている高いちょう楼の四角い先端だけが目の前でゆらゆら揺れていた。
 橋を渡り河岸に上がると、畑の緑が再び私の目に飛び込んできた。

 一面に広がるトウモロコシ畑を通り過ぎる時、とうもろこしの丈の高い茎の根元の湿った畝の中に、長い瓜のつるが絡まっていて、蔓の上にラッパの形の黄色い花が咲いているのが見えた。

 一本の道が畑を貫いて、河岸の台地を二つに分けている。路は麓の平らで肥沃な土地をまっすぐに貫き、その後、緑の樹や草がまばらに生えている灰色の斜面を登り、尾根へ回り込み、少しずつ濃さを増していく山の青さの中へ消えていく。
 歩きながら、大きなカーブを描いて上って行く道路を眺めた時、私の体はひんやりとした木陰に包みこまれていた。低い石の壁にリュックをもたせ掛けると、すでにウオリ土司官寨の入り口に立っているのに気づいた。

 これといって特別な感激はなかった。

 この官寨は他の官寨と同じような特徴も持っているが、それ以外に他の土司官寨と比べて漢族の建築の影響を多く受けている。
 最も特徴的なのは、要塞のような建物に入るための大きな門である。これは完全に漢式の屋根つきの門で、漢族の多くの場所で見られる牌坊という門の特長を持っている。

 そして最もギャロンらしい特色を持っているのは、言うまでもなく、大きな石を積み上げて造られた堅固な外壁である。
 それに続くのは、やはり同じように石を積み上げて造られた背の高いちょう楼である。

 私は写真を撮ろうとした。だが、腹立たしいことに、シャッターを押すべきこの手の、原因不明の震えが以前に増してひどくなっていた。
 この手はしょっちゅうこうやって私に反抗する。

 私はたくさんの美しい場所を訪れて来た。そのたびに、自分なりの視点、自分なりの角度、自分なりの構図で撮った写真を残しておこうと思い、そのために何回か撮影機材を揃えもした。
 だが、普段の生活の中では杯を挙げる時に酒をこぼしてしまうほどですんでいる手が、カメラを持って指をシャッターに置くと、震えが止まらなくなるのである。どの医者も原因を教えてくれないし、私も自分からはその原因を尋ねたことはない。

 私はため息をつきカメラを置いた。出発してもう何日にもなるというのに。しかも、この旅に出資してくれた出版社も私が自分で撮った写真を必要としているというのに。

 だが、自分でもどうしようもない。
 カメラをリュックの奥にしまうしかない。

 建物の中に入ると、周りの壁越しにたくさんの林檎の枝が顔を出していた。青くて渋そうな実をつけている。

 庭はとても静かだった。

 この巨大な建物のどこかから剥がれ落ちてきた木の板が柔らかい地面に散乱している。
 板は湿った土の上で腐敗しかかっていた。足を乗せると、ひたひたと地面から泥水が湧き出した。一歩一歩踏みながら進んで行くと、庭中が私にはなじみの腐敗の甘い匂いに満たされていった。

 庭を囲む壁の四隅には、太くてたくましいごぼうが群れになって茂っていた。

 ちょうど正午ごろだった。世間からほとんど忘れ去られ、過去の記憶のみが残る庭に立ち、各層ごとに並ぶたくさんの窓を眺め、幾つもの階段が上の層へと通じているのを眺めた。

 だが私はその階段を上らなかったし、くもの巣がぶら下がっている窓の中を覗きこんだりはしなかった。
 なぜなら私は信じないわけにはいかなかったのだ。静まりかえったたくさんの部屋の一つ一つに霊魂がいて、私という招かれざる客を声をひそめて窺っているのだ、と。

 このような空間の中にいるといつも、この世には本当に霊魂が存在していると信じられる。そして、この世には必ず霊魂が存在していて、私たちにいにしえの誰も知らない秘密を語りかけているのだと信じずにはいられなくなる。

 正午の光を浴びながら、庭中に満ちる木が腐敗していく時の甘い匂いの中に立ち、私はこんなふうに自分の幻想に浸っていた。このような幻想の中で、私の心はいつまでもかすかな痛みを感じ続け、宿命とでもいうべき感覚を受け入れるのだった。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





阿来「大地の階段」 51第4章 ツァンラ

2009-09-22 02:17:51 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



10 土司の伝記 二 その2


 一人で旅していると、足を休めている時に、絶えず誰かが現代版の暴力的な物語を語りかけてくる。もし、あの過去の虐殺と集団暴力の物語が、悲壮な激情と英雄的な気骨を伴っていたとするならば、現代に語られる暴力の物語はただ酒と金だけに関わるものばかりである。

 たとえこのような物語を語らない人に出会ったとしても、彼らは心の苛立ちを伝えようとするだろう。それは貧困から抜け出せない焦りであり、手っ取り早く富を手に入れられない焦りである。

 だからこの旅の、たかだか数十キロの2日の行程をまだ歩き終わらないうちに、遠くからウオリ土司官寨の聳え立つ石の砦のぼんやりした姿が見えた時、懐かしさに伴って湧き上がった詩情はすでに跡形もなく消えていた。

 現在、多くの人が私に一つの質問をしてくる。それは、この地の文化とこの地の仲間の生活について好ましい表現をしてきた作家が、なぜ最後にはここを去ることを選んだのか、という質問である。

 今ならそれに答えることができる。答えは非常に単純だ。去ったのではなく、逃げ出したのである。
 私の愛するギャロンに対して、私を育ててくれたギャロンに対して、私がただ一つ出来るのは、できるだけたくさんの美しい記憶を残すことだけだったのだ。

 今、ウオリ土司の官寨が私の目の前に現れた。
 これまで私は一度ならずギャロンの土司官寨を訪れて来た。今日はそこにもう一こま付け加えるつもりだった。このような場所で、歴史の姿を微かに見ることができるからだ。
 だが今日、私がウオリに着いた時、歴史という老人は始めて私に背を向けた。

 これまで私は常に思っていた。
 ものを書く者に対して、歴史は常にある方法でその者に向って顔を向け、その者に姿を現し、その者に触れさせ、過去の時代、過去の生活に対して確かな感覚を確立させてくれるものである、と。
 このような感覚は全て私の最も大切な創作の資源にとなってきた。

 だが今日は、何故だろう、何も書く気になれそうにない。間違いなく、あの日ウオリに着いた時、ダーウェイ河の南岸で、ウオリ土司官寨は広々とした谷の台地の上に姿を現したはずなのに。

 ギャロンでは、徐々に高く昇って行く階段のような群山のそこここに、常にこのような広々として美しい山間の窪地が出現する。このような広々とした谷には、どこよりも多くの緑がある。

 強烈な日差しが照りつける昼ごろだった。果樹園とトウモロコシ畑は、高原の強烈な光の降りそそぐ中、きらきらと輝いていた。私は河を隔てて夢のような緑を眺めていた。
 だがその時、顔中に吹き出した汗が目に流れ込んだ。

 汗に刺激された目からは涙が次々とあふれてきた。まるで思い切り泣くためここへ来たのかのように。

 涙を拭き、もう一度目を上げた時、ウオリ土司の官寨が濃い緑の中に静かに聳え立っているのが目に入った。



阿来「大地の階段」 50第4章 ツァンラ

2009-09-16 21:46:43 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



10 土司の伝記 二 その1

 ツァンラ土司の物語と同じように、ウオリ土司の物語も、その姿を日毎に曖昧にしていく物語である。
 
 ウオリ土司は、もともとツァンラ土司と隣り合っていた。
 ツァンラ土司と同じく、その祖先はボン経の呪術師を代々受け継ぐ家柄である。

 今に伝えられているバビタイという名の遠い祖先は、順治15年、清王朝に帰順し、沃日灌頂浄慈妙智国師に冊封された。
 授かった称号にある「沃日(ウオリ)」という言葉は、チベット語で「領地」という意味である。

 そしてその領内から四姑娘山に源を発するウオリ河は、まさしくその領地の大部分の地域をくまなく流れている。そのため、ウオリ河と名づけられた。猛固橋のたもとで小金川に流れ込む。

 ウオリの首領は両金川の戦いが火蓋を切った後、当時のギャロンの大多数の土司と同じように、清軍に協力して戦い、清軍のために食糧を提供し、少なからぬ功績を立てた。

 乾隆の第二次大小金川出兵は、そもそもこの土司と直接の関係がある。

 当時小金川土司ツェワンの子センゲサンは一人息子で、センゲサンの子も一人息子だった。小金川土司の行く末はこの一本の線のみに懸かっていた。

 あろうことか、ツェワン土司の孫が突然重病に見舞われて世を去った。

 隣り合った二つの土司は、平素からことあるごとに衝突していた。

 この時、ツァンラ土司一族は、これはウオリ土司がボン経の呪文と呪術を使い、これから後土司の祖先を供養するはずだった後継者を呪い殺したのだと考え、一瞬の怒りのままに、すぐさまウオリ土司に向けて攻撃を仕掛けた。

 このことは乾隆帝に再び金川を討つ口実を与えた。

 言い伝えでは、ボン経の呪術師であり強い法力を身につけたウオリ土司は、ツァンラ土司父子の人型を作り、経文を唱えて呪い、まじないのため矢で射抜いた。目的はツァンラ土司を呪い殺し、その一族の後継者を断つことだった。
 ツァンラ土司のたった一人の孫はそのために命を落とした。

 そこでてツァンラ土司は、報復のためにウオリに対して攻撃を開始した。官寨を攻め領地を奪い、四川総督の仲裁も聞かず、ついには再びこの地に刃を交える音を響かせることになった。

 もしかして、後になって小金川父子は、ボン経の呪術師の法力を信じすぎるのは過ちだと気づいたかもしれない。
 乾隆が二度目に両金川に対して大軍を送り込んだ時、内地に近い小金川は真っ先に矢面に立たされたのだから。

 要塞の地を固守し必死に抵抗しただけでなく、資料の記載によると、小金川土司も多くのボン経の呪術師に方術を使わせ、清軍の高官を不慮の死に遭わせ、日夜止むことなく石の砦を攻撃する清軍の大砲を爆発させようとしたのだが、想像していたような強い力を発揮することは出来なかった。

 その時彼らは、ボン経の方術の超越的な力を簡単に信じて軽率にウオリ土司に兵を向け、清の大軍を国境まで攻め込ませたのは、絶対的な過ちだったと気づいたにちがいない。

 当然ながら、領土拡大の野心のある統治者にとって、独善的な小国の王にとって、呪術の力への信服とは、強い者が弱い者を踏みにじるための口実なのである。
 だがまさか、この小規模な同族間の攻略が、更に野心の強い帝国皇帝が兵を動かし、国家を統一するための口実となるとは誰も思わなかった。

 朝廷の大軍が山間のこの狭い地に進軍してから、苦しい戦いは何年も続き、ついには、大小金川の戦いの混乱の中で、無傷でいられた者はいなくなった。

 だが、窮地に立たされていたウオリ土司は逆に再び蘇った。
 清軍が到着してから、ウオリ土司は積極的に戦いを支援し、両金川の戦いが終わった後、戦いに功績があったことにより、二品の位を頂いたのである。

 ウオリ地方の土司制度はそのまま1937年まで残り、その年国民政府によって廃止された。ウオリ土司の領内は国民党県政府の保甲制に組み入れられていった。
 だが当時、国民党政権は内憂外患に明け暮れ、設けられた制度は正しく施行されることはなかった。

 ウオリ土司は称号のないまま存在し、その統治の実体は解放まで維持されていた。

 全てこのような受け継がれてきた歴史物語は、いくらかの世の変遷を表している。
 そして、今回旅した、山や川や谷の、無制限に破壊され略奪された自然界の満身創痍の有様は、まさにこの物語と同じ変遷の姿であり、私の心の中の想いとぴったりと重なりあう、外在の一場面となった。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)






 

阿来「大地の階段」 49第4章 ツァンラ

2009-08-31 21:57:24 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



9  過去の橋と今日の路 その2


 1991年、私は上海からマルカムに帰る途中だった。

 当時、異常気象のため、至る所で大雨が降り災害を引き起こしていた。
 成都から出発し、マルカムに帰るいつもの道は、何箇所にもわたるがけ崩れで、交通が遮断されていた。その途中で目にしたのは、武装警官達が大学入試の試験用紙を背負って、土石流を一つ一つ超え徒歩で進んでいく姿だけだった。

 私たちの小型バスは向きを変えてウォロン保護区からバラン山脈を越え、猛固橋から、小金を経てマルカムに行こうと考えた。その結果、バラン山を超えてまた土石流に遭い、夜も更けてから日隆に着き、食堂で大急ぎで飯をかき込んだ後に、空に蠢いている黒い雲を眺めて、また土石流によって行く手を阻まれるのではないかと心配になった。みなで話し合った結果、続けて進もうと決めた。

 車の一団は出発した。私は自治州のテレビ局の車に乗り、局長である友人と同道した。今回は、私の車が先頭に立つことになった。

 日隆から10kmほどのところまで来た時、雨に濡れ柔らかくなった斜面の上から、大きな雷が空を転げまわるような音が聞こえてきた。車が完全に止まる前に、同じ車に乗っていた女性たちの叫び声が聞こえ、その後で、車のライトが、私たちのクルーザーよりもっと大きな石が公道の中央にいくつも転がっているのを映し出した。

 車の一団は暗闇を軽々しく引き返すわけにも行かず、運転手はアクセルをエンジンの音が聞こえない程度に調整し、全員が耳を澄ませて山の上の動行をうかがった。
 だが、黒々とした切り立った崖が重苦しい灰色の天幕の下に聳えているのが見えるだけだった。
 そして、路の外側の細い木々が作る陰の下から、洪水が河岸のあちこちに力いっぱいぶつかっている、ごんごんという音が伝わってきた。

 水の音から、この路面はかなり高いところにあるとわかった。

 私は勇気を奮い越し、山から転がり落ちてきたばかりの大きな石の前まで歩いて行った。

 私が懐中電灯で照らしている間に、運転手は板を使って残った路面を計り、また車に戻って慎重に車体と比べて、ふっと息を吐いて言った。
 「上手い具合に車幅はそれほど広くない、試してみよう。来てくれ」
 
 私は、彼が深く息を吸い込む音を聞いた。気持ちを奮い立たせているのだと分かった。

 運転手は車の中でちぢこまっている二人の女性を降ろし、私と局長はそれぞれに懐中電灯を持ち、路面に腹ばいになって、運転手のためにあまり頑丈とはいえない路面を見張った。

 腹ばいになる時は思わず体が震えた。夜の寒さと、湿気のためではない。路の下の計り知れない深淵から、荒れ狂う水の音が、埃っぽい匂いと共に次々と立ち昇って来て、背中に襲い掛かってきたからだ。

 ジープは動き始めた。

 前輪が通った時、路の外側の緩んだ地面が崩れかけた。

 自分がもう一つの手で自分の口をしっかり押さえているのが分かった。そして、暗闇の中、局長の目が恐怖で光っているのをはっきりと見た。
 私たち二人は幸いにもこのような危険を幾度か潜り抜けてきた。
 こういう時、車はただ前に進むしかない。そうしなければ危険を脱出することは出来ない。停まったり、もしくは後ろに戻ったりしたら、今崩れ始めた地面と一緒に底の見えない河へと滑って行くしかないのだ。

 車の後輪が目の前を通り過ぎて行く間、その時間は、人の一生と同じくらい長く感じられた。これ以降、私はこんなに長く、じりじりと焦りながら時の過ぎるのを待ったことはなかった。

 二つの後輪が私たちの懐中電灯の光の中をゆっくりと進んで行った時、外側のタイヤは完全に空中に乗り出していた。そしてその時、私たち二人の体も地面と一緒に下へと滑っていた。

 運転手の話によると、私たち二人は同時に叫んだそうだ。「がんばれ」と。
 だが、私達は自分の叫び声は耳に入らず、車のエンジンのうなりだけを聞いていた。

 タイヤの回転が急に速くなった。車が通り抜けた!

 その時自分がどうやって崩れていく地面から抜け出して路面に立ったのか、覚えていない。

 後ろの仲間たちの中から喜びの声が上がった。

 私はその場に立っていた。局長がやって来て、笑いながら言った。
 「俺の目がギラギラ光っているのが見えたか」
 私は言った「叫びだすんじゃないかと心配したよ」
 「俺もお前が叫ぶんじゃないかと心配したよ」

 運転手は車から飛び降り、私の手から懐中電灯を奪い、地面を照らしタイヤの跡を見るなり、へなへなと座り込み、すぐには言葉が出なかった。

 この様子を見て、後ろの車の一団は向きを変え、日隆へ戻って行った。
 車のライトがどんどん遠くなる。照らし出される山、岩、樹もはっきりとしなくなり、最後には山々の暗がりの中に姿を消した。まるで私たちの後に長い車の列などなかったかのように。

 全てが落ち着くと、河の水がまた響き始めた。

 運転手はまだ地面にしゃがんだままだ。私たち三人は一緒にしゃがんで、それぞれに煙草に火をつけた。運転手はこの時初めて言った。
 「もしあの時、誰かが一言でも叫んだら、終わりだった」

 二人の女性がおっかなびっくり泥道を歩いて来て、数人でまた走り始めた。

 次の日からは、この危機的状況も笑い話に変った。

 その夜、我々の車はウォリイ官寨の対岸の公道を通っていた。だが、あのように暗い雨の夜では、官寨のぼんやりとした輪郭さえ見ることはできなかった。

 次の朝、また別の場所で土石流に阻まれた。
 ここで私達は他の数台の車と一緒になり、再び5台の車からなる一団を形成し、マルカムに向って出発した。
 万一に備え、まるで強制でもされたように、こんな時でも規則どおりに仕事をしている道路工事人の所から、爆薬と簡単な道具を貰って来た。

 途中、自分たちで爆薬を使って路を作り、木を切って橋をかけた。
 5日後のある夜、山の中の街マルカムに帰りついた。

 二度目にこの路を通ったのは、10月だったが、四姑娘山の近くの海子溝氷河の下にある山の上の湖の辺りで大雪に遭った。
 我々一行は慌てて山を下りた。丸一日かかって麓に戻り、そこから車に乗って小金川に戻った時には、空はすでに暗くなっていた。そのため、帰り道でウォリイ土司の官寨を見学しようという計画は、取り消すしかなかった。

 そして今、20世紀最後の年、私はやっとその宿願を果たす機会を得た。

 そこで、猛固橋のたもとから、リュックを背負い、そこへ向って歩き始めた。私はこのような方法で、ギャロンではたった一つまだ行ったことのない土司官寨の跡に近づいて行こうと思った。
 


阿来「大地の階段」 48第4章 ツァンラ

2009-07-31 03:26:08 | Weblog
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9  過去の橋と今日の路 その1

 小金県を発ち、ツァンラ大地の旅を続けた。

 どこの場所でも、いつの時でも、私の旅は過去の旅の記憶をなぞることになる。そして今回も、「大地の階段」と名づけたこの本の契約を北京でした後、凶悪な神のように大きく高い山が連なっているためにツァンラと呼ばれている山の中を、再び歩いてみることにした。

 その一歩を踏み出す時の心持ちは、以前丹巴県城で「野人」を書いた時とまるで同じだった。

 ちょうど長江文芸出版社から私の二冊目の小説集「月光の中の銀細工師」が届いた。旅の途中でもう一度「野人」を読み直し、次の段落を書き写してみた。
 10年の歳月が過ぎてはいても、途中の感動と感情の昂ぶりは当時とまるで同じだった。


 「地図の上の河の流れを表す青い曲線に沿って、目線をうねうねと北に走らせ、大渡河の中流へ、上流へと走らせた時、大きな山の陰で涼しげな風がそよぐのを感じた。すでに旅が始まり、山路を歩いているかのように。
 山々の作る巨大な影と眩い光の間を幾度となく突き進み、様々な場所を通り過ぎていく自分の姿が見える。路は絶えずその先へと伸びていく。
 人々の服飾、肌の色、話す言葉、心のありようが、いつのまにか様々に変化しているのも見えてくる。
 そうして、人生に身を投じ、広い大地に身を投じ、芸術に身を投じようという、高邁な感情が自然に沸き起こってくるのだった」


 だが、今回私はほとんどの時間を車の中で過ごし、小金県に着いてやっと車を置いて歩き始めた。
 私がこのような方法をとったのは、ただ、空白の部分、過去の旅でうかつにも見落としていた部分を補いたいと思ったからだ。

 小金県を出て北へ2km、小金川の主流に鉄の鎖が架かっていて、当地の人はこれを猛固橋と呼んでいる。
 このような橋を鉄索橋と呼んでいるようだが、それはあまり正確とは言えない。こう呼ぶと、工業生産されたケーブルの橋を思い起こしてしまう。
 正確に言えば、このような橋は鎖橋と呼ぶべきだろう。

 一つ一つの鉄の鎖は、昔の名もない鍛冶屋が一つ一つ打ち出したものだ。
 その当時、鍛冶屋の炉は橋の袂に作られていたという。

 赤々と燃える炉の火、熱せられて火花を散らす金床、加治屋たちのたこだらけの手が、硬い鉄の塊を丸い鉄の輪へと変える。鉄の輪は一つ一つ繋がれ、繋ぎ目がきつく閉じられる。そうしてやっと激流の上に架かる鉄の鎖となる。

 猛固橋は、このような鉄の鎖五本から出来ている。
 三本は橋の床面、二本は手すりである。

 このような構造の鎖橋は、大渡河流域ではこの橋が初めてではない。
 初めて現れたのは、映画の中でおなじみの濾定橋である。次が、小金県城の三関橋、そしてこの橋が現れた。私はすでにこれら三つの同じ構造の橋を見たが、ただ大きさが違うだけだった。

 前の二つの橋は、今も使われている。そのため、橋の床面に板が敷かれていて、更に、橋の両側の袂に櫓のついた門が作られている。ただ猛固橋だけは、付属する建物が何も無い。
 だが、その勇壮さはこの地の人がつけた名にふさわしい。
 床板を並べさえすれば、その上を歩いても、安全に関しては何の心配も感じないはずだ。

 ただし、もう永遠に鉄の輪と輪をしっかりと絡み合わせた鎖に床板を敷く人はいないだろう。
 一つの時代が過ぎ去ってしまえばその時代と共にあった宿場も路もあっという間に荒草と流砂の中に埋もれてしまうのだから。
 そして今は、空に架かる鉄の鎖の下に、何の変哲もないコンクリートのアーチ型の橋が両岸の公道をつないでいる。

 この橋を過ぎ、小金川の主流に沿って北へ向うと、そこは紅軍が長征した道である。
 その年、朱・毛の率いる紅軍はここから北上し、長征の途中では二番目に大きな雪山・夢筆山を越え、現在のマルカム県のゾクジ土司の領内に至り、体勢を整えてから続けて北上した。

 だが、私の今回の旅は小金県のもう一つの土司、ウオリ土司のかつての領地を訪ねるのが目的である。そこで、この橋を渡らず、四姑娘山へと至る公道の道なりに、ダーウェイ河に沿って東へと進んで行った。

 この公道は四姑娘山の麓へ至り、日隆から、岷江と小金川の分水嶺である巴郎山を登り、ウォロン自然保護区を出て映秀で国道213号線と交わる。更に10kmほど行くと、岷江と共に、山々が作る障壁を突破して、岷江が運ぶ雪山の水を利用して四川盆地のほとんど全てがその恩恵にあずかっている都江塸に至る。

 都江塸から成都まではわずか50km程である。

 だが今回私はそのような遙かな道を歩く必要はない。
 私はただ、二日の道のりの村ダーウェイまで行き、河岸の台地の上に建てられたウオリ土司の官寨を見ればそれでいいのだから。

 20世紀80年代に二、三度ここを通ったことがある。だが、その当時私はまだ土司の歴史について特別な興味を持っていなかった。

 そのため、傾き崩れかかった建物は、通りすがりの風景であり、特別な印象を残さなかった。
 土司の時代のすべてに特別な興味を持つようになるまで、うかつにもさっさと通り過ぎていたのである。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)






阿来「大地の階段」 47第4章 ツァンラ

2009-07-06 23:44:01 | Weblog
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8  血縁と族別

 この本を書いている間に、西南民族学院でいくつか資料を探し出すことが出来た。50年代初め、小金県結思郷に関する社会調査で、署名は四川民族調査班となっている。

 結思郷とは土司制度を改め屯(村)を設置した後の別思満屯の一部である。

 その中の人口統計の項目はとても興味深い。当時、漢族の人口がかなりの比率を占めていたというのである。
 現在の結思郷の戸籍調査の書類に目を通すには、私には時間もなく、必要性もなく、また権利もないのだが、私が故郷にいた30年余りの間に見聞きしたところから考えて、現在の結思郷では、戸籍の上では漢族の比率は50年前の調査より低くなっているのは、間違いないだろう。
 ただし、実際生活している人には、この数年来漢族のこの地での比率はかなりの部分で増加している、と感じられるかもしれないが。

 どうしてこのような状況が現れたのだろうか。
 理由はとても簡単である。解放前は、チベット人は、漢文化が主流を占める社会で厳しい差別を受けていたからである。
 解放後、有効な少数民族政策が採られ、特に、進学と幹部登用でいくつかの優遇策の目標が設定され、かなりの人が漢族の身分を捨てて、再びチベット族になったのだ。

 本来、両金川の戦いが終わり、駐屯した兵がこの地に次の世代を誕生させ始めた時に、血縁は混ざり合い明確でなくなった。
 そのため、この土地の新しい世代が、登録すべき民族を選ぶ時には、当然、利益に預かり損はしないという原則のもとに、遙かな生命の源である血縁を確認する必要が出来たのである。

 血縁の問題は、このように漢・チベット族の交わる地域では、多くの人にとって敏感な問題であり、そしてまた、暗黙のうちに了解している問題でもあった。

 だから、同じ人が場合によって、自分はこの民族であると言ったり、あの民族であると言ったりするのは、一般の人には奇妙と思われるかもしれないが、実はごく自然なことなのである。

 私の場合を話そう。

 私は回族とチベット族の混血で、チベット族を自分の民族として選んだ。
 ただ単に、小さい頃からチベット族の地域で成長したからであり、生活習慣が最終的に自分の血縁のアイデンティティーを決定した。

 私が成長し学んでいた年代は、ちょうど極左路線の統治下で、チベット地区でのチベット語の教育は学校では完全に停止されていた。
 そこで私は、チベット族の地域で、漢語を使う学校に入った。
 前後して教わった二人の小学校の教師は、四川省の内地の村の師範学校の卒業生だった。特に一人目の教師・張玉明は、50年代初めに、すでに私の母を教えていた。

 その後、私も師範学校に入り、漢語で国語と歴史を教える中学教師となった。最後に教えた中学で、漢族の英語の教師を妻とした。

 2年後息子が生まれ、公安局で彼の戸籍を届ける時、民族を漢族と申請した。

 自分の民族を恥ずかしいと思ったわけではない。
 息子の民族を選んだ時の考え方はとても単純だった。
 息子は完全に漢語の環境の中で成長し、将来も血縁が原因でチベット文化とチベットの風習を完全に残している村に戻る可能性はない。そこで、私は彼の民族を漢族と申請した。

 だが、これは多くの人から、しかも漢族の妻からも反対された。

 私はこの間違いを11年も続けていた。
 故郷を離れ、四川省の省都で仕事をすることになった時、やっと、この決定は間違いだったとして変更する決心をした。それは、息子が私に随って、学生のほとんど全てが漢族の学校で学ぶことになったからである。

 私は、民族を改めることによって、新しい環境の中で、息子に自分の血縁を忘れさせないようにしようと決めた。
 私たち夫婦と息子が共に描いた未来の道を行く時、息子が父の生まれた育った土地の背景と今より多くの関係を持つようになる可能性はほとんどなくなってしまったのだから。

 そうであれば、ただ登録された民族だけが彼に自分の生命の来た場所を覚えさせることが出来る。
 自分の生命の水源の特別な一筋を覚えさることが出来る。

 その結果として、公安局に行き、簡単に終わるだろうと考えていた手続きをした時、大変な面倒にあった。
 この手続きをした若い戸籍係りの警官は、かつて私と妻との共通の学生であったが、彼女は書類どおりに処理せざるを得なかった。民族登録に関する書類は中央のある部門から下されたものだった。

 この問題を解決するため、県知事をしている私の友人を訪ねた。
 県知事は小金県の古くからの人で、回族である。その祖先は乾隆帝が大小金川を平定した後移民してきた、と考えて間違いないだろう。回族がギャロンチベット地区にやって来るのは大体が商売のためである。

 周県知事は私を事務室に呼んで一通の証明書を出し、息子が父親の血縁に従ってチベット族に変更できるよう証明してくれた。

 ちょうどこの時、この県の幹部がもう一組やって来て、一家二人の民族を変更する申請をした。彼らはチベット族から漢族に変更しようとしていた。
 原因は私と同じで、内地に配属されるからだった。ただし、変更の方向は反対だった。

 何も言わなくても皆、この二人の行動の理由を理解していた。だが、純粋なチベット族の血統である事務局主任は判っていながらわざと尋ねた。

 そこで、二人は答えた。
 彼らは二人とも漢族だが、チベット地区で仕事をしている、子供たちが受ける教育がかなり質の低い教育であることを考慮して、チベット族と申請した。そうすれば、大学受験の時に点数の優遇が受けられて、それほど不利ではなくなるからである。今、彼らは内地に配属された。もしこの民族のまま行ったら、人々から馬鹿にされるかもしれない。

 その日、役所で出された証明は、三人の民族登録をあっという間に変更した。その背景はみな同じである。そして、証明を出す人も証明を要求する人も、誰も間違ってはいなかった。

 この話を書いたのは、文化上の変化、文化上のアイデンティティーは、生物学上の血縁問題のような単純なものではない、と言いたかったからである。
 巨視的な目ではこの変化について把握しようがない時、私はこのような小さな事実を読者に知ってもらおうと思いついた。一人一人の人に、私の経験を元にして、一つの地域、一つの民族、一つの文化の自然な崩壊に対してその人なりの思考と判断をしてもらおうと考えたのである。

 私は信じている。私たちの読者はまだこのような力を失ってはいなだろう、と。

 青蔵高原に関する多くの書籍、青蔵高原で生活するチベット族の生活に関する多くの書籍の中には、一種の単純化の傾向が見られる。

 まるで、青蔵高原に行ったとたん、このような特別な文化の風景の中に行ったとたんに、全ての物事の判断が非常に単純になってしまうかのようである。

 良くないものそれは悪いものだ、文明的でないものそれは野蛮なものだ、といったように。
 更に恐ろしいのは、山奥の村の文化が、現代都市生活の心のありようを映し出し、対比するための一つの手段となってしまうことである。

 山奥の生活がシャングリラのような天国だと思ってはいけない。

 青蔵高原の辺境の、少しずつ天に近づいていく大地の階段にも、多くの苦しみがある。ただ、長い間未開だったこの地の民は、まだ自分の声でそれを表現できないだけなのだ。

 そう、私たちは常に注意深くなければならない。自分の心の内側と二つの目が見るものに注意深くなければならない。

 

(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 46 第4章 ツァンラ

2009-06-21 15:51:44 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



7  土司の伝記  その一 その5




 私は向きを変えて図書館に入り、漢文で記された清代の朝廷の記録に助けを求めた。

 「清実録」に集められた、ツァンラとツーチン土司がわずかな領地と十数万の民をもって全盛期の清王朝に対抗した歴史に関する記録は、5、6冊分ほどもあった。
 だが全ては、強力な軍隊を率いて討伐に向う将軍の上奏文と、皇帝が自ら下した命令である。
 これらの頻繁な公の文書のやり取りの中で、天地を揺るがす戦い、大小金川という地の様相変えるほどの戦いもまた、ぼんやりした情報となってしまった。

 我々はただこれらによって大体の輪郭を知るしかない。
 やむを得ず、再び魏源の記録を引こう。

 「皇帝は兵たちに、先に小金川を討ち、大金川の罪を述べないようにと命じた」

 皇帝は怒りを滾らせ、戦いに敗れた後で、冷静さを取り戻し、真剣に事に当るようになった。

 「5月、桂林は薛等将兵3000に5日分の食糧を携帯させ、墨壟溝に入った。退路を立たれ我軍は救いを求めたが、桂林は挟み撃ちに駆けつけることなく、全軍が敗れる事態となった。泳いで帰ってきたものはわずか200人余、桂林は身を隠して報告せず、弾劾された。そこで、阿桂を桂林の代わりの参賛大臣として南へと向わせた。
11日、阿桂は夜、皮船で河を渡り、要害の関所を奪い、そのまま匪賊の巣窟を叩いた。12月、軍は美諾に至る。センゲサンはすでにその妻と妾を大金川に送っていた。自らはツェワンのいる底木達へ向った。ツェワンは門を閉じて入れず、そこで、美臥溝から大金川に逃げこんだ。我軍は底木達に至ってツェワンを捕らえた。また、ソノムにセンゲサンを捕らえて献上するよう命じたが、応じなかった」 

 ここにいたって、ツァンラ土司の全領土は陥落した。

 乾隆帝は大軍に続けて大金川へと進むよう命じた。
 
 最後には、この戦いは大清王朝の勝利をもって終わりを告げた。
 そのため私たちが検索できる資料はみな勝利者の記録である。もし、敗者側の記録と反応を見ることができたら、更に興味深いものになるだろう。

 だが、それは今のところ一つの空想でしかない。もしかして、この想いが実現する日が来るのかどうか、それも分からない。地方史の専門家が我々のために更に詳しく更に感受性のある資料を探して出してくれるように期待している。今はただそう言えるだけだ。
 我々は永遠に期待している。

 だが、現在の状況はどうかといえば、我々がこの地を歩いた時には、昔のチベット族の地名の多くは、新しい漢語の地名に変えられていた。

 乾隆40年12月、大金川の戦いは終わった。

 乾隆41年1月、乾隆帝の詔が下り、小金のツァンラ土司と大金川のツーチン土司は永遠に排除された。

 大金川の領地には阿爾古(アルコ)庁が設けられ、小金川には美諾(ミンリャン)庁が設けられた。
 小金川の美諾庁の下には八角、汗牛、別思満、宅壟(ザイロン)の村が設けられた。

 聞くところによると、二つの金川の戦いが終わった後、両地の領内にはギャロンチベット族の民は1万余しか残っておらず、多くが女性や子供や老人だった。
 だが前に述べた二度の戦いの記憶も新しく、清王朝はこれを戒めとして、残された人口の大部分を戦いで功のあった土司に分け与えた。

 残った一部の女性は、戦いに勝利した後もこの地に駐留した漢族の兵に従って、ごく自然に、当地の妻となった。
 これら一部の人々は、気候が穏やかで農耕に適した大小金川の谷間で子孫を増やして行き、チベット・中国の血統と文化の混ざった豪放で頑強な文化地帯を生み出した。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 45 第4章 ツァンラ

2009-06-13 02:04:32 | Weblog
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7  土司の伝記  その一 その4



 チベット族の社会では、文字はかなり早い時期にすでに発明されていた。

 だが、大変不幸なことに、これらの文字はすぐに寺院の高い壁の中に入ってしまい、僧たちの、図り知れないほどに高度で奥深く、捉えどころのない思想を大量に記録したが、民間には伝わらず、後の人のために歴史の姿をきちんと記録することはなかった。

 ある寺院で、その寺で最も学問のあるといわれているラマに、この寺にはどのくらいの歴史があるのか、と尋ねた。
 彼は大真面目に答えて言った。一万年以上だ。
 私は当然彼の考えには同意できなかった。

 世界が認める進化論を引用して、人類が知恵を持つようになってからまだこのくらいの年月しか経っていない、などという必要はないだろう。私はただ、仏教の始祖である釈迦が生まれてからまだどのくらいしか経っていなくて、仏教の寺院がその創始者より歴史が長いというのはなんと不思議なことか、と言っただけだった。
 ラマは怒った。大勢の前で、私は仏教に対して敬虔な信徒ではない、だから、本当のチベット人ではない、と公言した。

 この地で、多くの教派と寺院が起こっては滅びた。だが、彼らが手に入れた文字を用いて、誰もが納得できる歴史の記録を残さなかった。
 これは本当に残念なことだ。

 そして、この地での活動の長くないキリスト教の、西洋から来た宣教師たちは、彼らから見れば野蛮な地に、教会を建て福音を伝えただけではなく、足を踏み入れたばかりの土地の一木一草、一筋の流れ一つの谷に対しても深く興味を抱いた。

 これらの宣教師は専門の、またはアマチュアの自然学者、考古学者、地理学者だった。

 小金川の人々が四川盆地に出入りする時に必ず通る、元はワスウ土司の領地だった臥龍で、デヴィッドというアメリカの宣教師が、1869年、中国人の隣で数千年暮らしていたパンダを発見し、生物の進化史上非常に大きな潜在的価値を掘り起こしていった。

 ワスウ土司の領地に近い岷江の上流で、今世紀30年代に大きな地震が起こった。巨大な山崩れが、古い街道の賑やかだった宿場町を埋め尽くし、また、岷江の主流に数キロに渡る湖が現れ、当地の人はこれを叠渓溝と呼んだ。
 ただし、このような大きな自然災害について最も詳しく最も科学的な目で記録したのも、ある外国の宣教師だった。

 このことは、我々東方文化の中の、ある種の悲しむべき欠陥に気付かせてくれる。
 このような東方文化の欠陥は、チベット族の文化の中にも同じように存在している。

 このような文化は、長い歴史を持つすぐれた文明が、自らの確実な歴史の記録を持っていない、という事態を招いた。

 そのため、私はツァンラ土司の領地で長い年月活動した宣教師たちが残した、この地に関する記録を見つけることが出来なかったのだ。

 だが、私は信じている、このような記録は必ず存在したのだ、と。ただ、よく似た神話の物語の山の中に埋没してしまっただけなのだ。
 チベットの貴族や精神的な指導者の伝説の中では、あまりにも多くの神格化による無理やりな辻褄あわせと、あまりにも多くの超現実的な解釈のために、歴史本来の姿があいまいになり、陰に隠れてしまった。

 現在、科学的歴史観は、世界でまさに起こりつつある全ての異変を、どのように取り扱い、どのように記録するのかを我々に教えてくれる。だが、我々が歴史の本当の姿を洞察しようとする時、常にそこには、大きな体躯の、だが、ぼんやりした後姿が見えるだけである。

 ぼんやりした後姿の中には、血と火の残照があり、戦士たちの戦いの余韻がある。

 ぼんやりした後姿は、これまで目にしてきた恐るべき残酷と無念を濾過してしまう。
 
 残るのはただ、多くの想像を書き加えることの出来る、感動的な神秘とロマンだけなのである。



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阿来「大地の階段」 44 第4章 ツァンラ

2009-06-02 00:16:03 | Weblog
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7  土司の伝記  その一 その3



 この時ランカは年老いて病のため亡くなり、ツェワンはもとより臆病で、大小金川土司の権限は両人の息子の手に握られていた。
 若く血気盛んな二人の土司は事件の進展を速めた。

 更に魏源の文章を引こう。

 「ツェワンが年老い病で明日をも知れぬ時、ランカもまた死を目の前にしていた。その子ソナムとセンゲサンは、エクシェ土司の領地に攻め込んだ。36年、ソナムはグブシェザ土官を誘い出して殺害した。センゲサンは再びエクシェとミンゼンを攻めた。わが兵はエクシェを援護に行き、センゲサンは官兵と戦った。前回の出兵は小金川を救うためだったが、今回は小金川が道に背いたためである。その罪は許されるものではない。アルタイはこれまで打つべき手を打たず、事ここに至っても、ダルツェンド(康定)に兵を留めて半年も攻撃しなかった。罷免され、死を賜わった。大学士温福に雲南から四川に赴くよう命じた。桂林をアルタイの変わりとしてともに戦わせた」


 乾隆帝の一つまた一つと下される詔に急き立てられ、温福は兵を率いて成都を出、都江郾を経て岷江を逆溯り現在のアバ州の映秀に着いた。そこから、ワスウ土司の領地である現在の臥龍自然保護区の耿達溝に向きを変え、巴郎山を越えて小金川土司の東側の険要の地の入り口に到着した。巴郎山は海抜4000mを超える山である。

 桂林は兵を率いて大渡河に沿って上りダルツェンドに至り、ここを前方の基地として、現在の丹巴県から南の路を進んでいった。

 大勢の兵が押し寄せてきた時、小金川土司ツェワンの子センゲサンはソノムに領地の一部を譲って救援を頼み、ソノムはやっと応援の兵を派遣した。

 この知らせを聞いて、北京の紫禁城にいる乾隆帝は続けざまに命令を下し、遙か彼方の西方の戦いを指揮した。小金川土司を極度に嫌い、根こそぎ取り除くことを決めた。

 36年8月の詔で以下のように述べている。

 「前の命で、センゲサンを捕らえた後、小金川に適当な人物を立てて土司とし、管理させる、と述べた。今思うに、小金川で土司となるべき者は、センゲサンの身内の範囲を出ないだろう。これらの蛮人たちは、あまりにも深い山々に囲まれていて、長い間の習慣を改めるのは難しい。まして、金川と姻戚関係にあり、惑わされやすく、この後面倒を引き起こさないという保証はない。凶悪な首領を捕らえた時に、小金川の所有する土地の境界を測量して、付近の、例えばウクシェ、ミンゼン、ムーピン、ザグなどの土司に分けて管轄整理させ、小金川土司の名を再び残す必要はない。その地の(小金川)土司と関係のある蛮人を密かに他の地へ移住させ、それぞれを手なずけて法の恐ろしさを知らしめることにしよう」


 ここに至って、小金川土司の運命は決定した。

 残っているのは、血と火を主題とする歴史劇の上演である。
 すでに結末の決まっている、歴史的な戦いの一幕である。

 ギャロンの土司・センゲサンたちは、持てる限りの知恵と武力を用い、この土地に、多くの人々の煮え滾る鮮血を流し尽くし、この大芝居を更に波乱に富んだ、更に熾烈なものとした。

 小金の県城美興鎮の後ろの、岩が重なりあう山道を登ると、目の前に現れるのは、もはや、史書に描かれている、石の高い塔が林立し、関所が築かれ、あちこちで戦いが繰り広げられている情景ではなかった。そして、鎮の回りの村々にも、もはや、チベット族の地に特有の畑と草地の混ざり合う風景やのどかで粗野な趣はなかった。

 凄惨な戦いから沸き起こる殺し合いの声は、すでに時間の奥深くに消え去り、今ほど、歴史の後姿が遙か彼方のあいまいなものとなったことはい。

 私はついに誰にも会えず、弔う場所も見つけられなかった。

 記載に寄れば、ツァンラ土司の官寨はかつて、小金の県城の漢式の民家の立ち並ぶこの場所のどこかに静かに聳えていたはずなのだが、そこには、レンガや柱や、崩れた壁の一部や、装飾された棟のかけら等、微かな手がかりも、大体の位置を示すものもなかった。



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阿来「大地の階段」 43 第4章 ツァンラ

2009-05-25 17:56:16 | Weblog
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7  土司の伝記  その一 その2



 清の乾隆年間、ツァンラ(小金川)土司は末日へと向っていく。

 第一の原因は、前に述べた魏源の文章の中に見える。
 乾隆11年、大金川土司サラペンが一族の争いの名を借りて小金川土司の印を奪い、その領地を占領したことに始まる。

 次の年、サラペンは近くのグシザ土司とミンゼン土司の領地を占領する。朝廷は動揺し、貴州で苗族の氾濫を平定するのに功のあった雲貴総督・張広泗に大軍と共に討伐に向わせた。ツァンラ(小金川)土司ツェワンは四川の成都へ逃げた。

 乾隆13年、皇帝は将軍・岳鐘を用い、同時に大学士・訥親に前線で戦いを監督させた。その後戦果は揚がらず、前線は立て続けに敗れた。乾隆帝は張広泗と訥親の首を刎ねさせ、続けて大学士・傅恒に監督させた。

 乾隆14年、金川の役が長期に渡り、財政を圧迫したため、清王朝が次にどんな手を打つか決めかねている時に、サラペンはみずから朝廷に対して和解の協議を申し入れた。皇帝はこれを受け入れ、サラペンはツァンラ(小金川)土司の領地を返した。ツァンラ土司ツェワンはその地の管轄権を取り戻した。
 ツーチン(大金川)土司サラペンは年老いて後、甥のランカに土司の位を継がせた。

 乾隆23年、ランカは再び周りの土司の領地を窺がい始めた。領地を接する、年老いて気の弱いツァンラ(小金川)土司ツェワンはランカの遣わした兵によって追放された。
 こうして、この地区の政治と文化を完全に変える戦争の火種がくすぶり始めた。

 ランカはツェワンを追い払った後、驕り昂ぶり、四川総督・開泰がツァンラ(小金川)土司の領地を返すようにと脅すのも、まるで気にも留めず、相変わらず周囲の土司の領地に絶えず攻撃を仕掛け、争いの元を作っていた。ランカの勢力は日増しに大きくなり、清朝の再三にわたる勧告もまるで相手にしなかった。

 これはもとよりランカ土司の尊大さのためであるが、それだけではなく、四川総督の優柔不断のためでもあり、複雑な地形の山と谷の間で戦う当地の兵士たちの作戦に対する恐れと疑いのためでもあった。

 清代から民国にかけて、中央政府を代表してチベットのはずれで号令をかける政府の役人はみな、ギャロンの土司の領地を恐ろしい場所と考えていた。正史にはないが四川の役人の間に広く伝わっているある民間の伝説が、このような恐れを抱く心理を説明している。それは四川に配属された朝廷の役人たちが正史と信じている伝説と大渡河とが関係している。

 その伝説によると、宋朝開国の皇帝・趙匡胤が国を開いたばかりの時、地図を広げて将軍たちと宋朝の力の及ぶ境界を定める時に、大渡河以西の広大で険しい地域を皇帝の教化の届かない野蛮の地とした。宋の太祖は玉を嵌めた斧で大渡河に沿って一本の線を引き、宋軍は河の西に出てはならないと指し示した、という。

 このような正史には見えない言い伝えが四川の役人の間に広く伝わっていたということに、深い意味が含まれている。

 このような心理に支配されたまま四川に赴いた役人は、名目上統轄権を持ったギャロンの土司の間の争いに見て見ぬふりをした。そしてまさにこのような統治状況の下で、大金川土司ランカは朝廷からの警告に耳を貸さずにいられたのである。

 乾隆帝はこのようななおざりな態度をどうあっても許すことは出来なかった。
 初めの戦いに勝利して兵を収めた時、すでに、野蛮な民に対する朝廷の懐柔策を出来る限り顕したのに、金川土司が再び反乱を起こしてはもうこれ以上甘やかすことは出来ない、と考えた。
 そこで、乾隆31年、四川総督アルタイを呼び寄せ、ツーチン付近のザグ、リンモ、ターペイ等の九つの土司に檄を飛ばし、四方から兵を進めて討伐することにした。

 だが、アルタイは態度を決しかね、それに加えて九土司にもそれぞれの思惑あり、面従背反したので、大金川への挙兵は遅々として進まなかった。
 アルタイは何度か大金川土司ランカに占領した土司の土地を返すよう諭しただけで、兵を進めて紛糾を鎮めるという実際的な行動を起こさなかった。一方、ランカはサラペンと同じ方法を用い、近くの土司と婚姻によって関係を作っていった。

 この事件の結末について魏源は「乾隆再定金川土司記」の中で次のように簡単に記している。
 
 

 「31年、皇帝の詔により総督アルタイは九土司に命令して、これ(金川)を攻めさせた。アルタイは寛大で、ただ占領した土地をそれぞれの土司に返すよう命じただけで、その後、安撫司の印をランカに与え、且つ、ディャオスジァとの婚姻を許した。そして娘をツェワンの子セングサンに嫁がせた。……土司の中でバワンとターペイは土地が狭く金川の敵ではなかった。ミンゼン、ワスウは地勢によって隔てられ、何とか金川に対して兵力を持ちこたえていた。ただ、硬直状態にあったのはディャオスジァと小金川である。アルタイは(金川と)徒党を組み、これまでの恨みを捨てて結託し、両金川が悪事を働くのに任せた。諸土司はみな抵抗できず、辺境の争いは激しくなるばかりだった」


 この文章は、主に、満人の総督アルタイを厳しく非難している部分だが、その中からギャロン人ランカというこの一代の暴君が知力と計略に傑出しているのが見て取れる。

 今に至るまで、この地の人々の心の中では、ランカは伝説の人物である。
 多くの人が残念そうに言っている。もしランカが清朝のような広大な国土と兵を治め、周囲のギャロンの土司が清朝の遣わした者の言うことを聞かずに清朝の兵への攻撃を助けていたら、歴史はまた違っていただろう、と。
 だが、分かっているように、歴史にもしもは無い。

 魏源の文章からだけでも、ランカという野心いっぱいの土司が、地政学的にもかなりの謀略を持っていたことが見て取れる。

 バワン土司の領地は今の丹巴県で、その土地は大金川の東南にあたる。ターペイ土司は大金川土司の領地の北側に位置し、現在のマルカム県境から村二つ分ほどの土地である。南と北のこの土司は大金川の激しく迫る気勢に圧倒され、言いなりになるばかりで、強力な対抗力とはならなかった。
 そして、その他の大きな兵力を持ち実力のある土司、たとえばリンモ、ザグ、ワスウなどは、山と河に隔てられ、大金川と直接に境界を接していないため、実際の利益上の衝突は無かった。

 ランカの野心の障害となったのは、東西両側の小金川土司とディャオスジァだった。ランカは婚姻を通して彼らを自分の側へ引き寄せた。

 このような急速な勢力の膨張は、大金川土司の野心を更に刺激し、そして清の重臣の優柔不断な態度は、それを更に狂気じみたものへと高めていった。

 こうしてギャロンチベット区の姿を完全に変えてしまう大戦は、避けることの出来ないものになっていった。



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阿来「大地の階段」 42 第4章 ツァンラ

2009-05-14 23:47:38 | Weblog
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7  土司の伝記  その一 その1

 清代のツァンラ土司は「ギャロン・シャカーチェジ」と呼ばれたギャロン18土司の一人である。

 前文にも触れたが、ギャロンの貴族のほとんどが、吐番の統治代にチベット本土から東へ移って来た人々である。ギャロンの口承の伝説と土司の家系図の中で、まるで申し合わせたように、祖先はチベットのラサから馬で18日離れた西北のチオンブから来た、と述べられている。

 聞くところによると、古代チベットのチオンブ地方は人口が多く、部族は39に及び、日ごとに土地が痩せていったため、東へと移住して、青蔵高原東北のはずれにある大渡河流域と岷江流域のギャロンまでやって来た。

 チベットの吐番政権が瓦解分裂した後、これら貴族の子孫たちは、それぞれ兵を集めて自衛し、深い谷あいの自然の障壁に寄り添うように小さな国を作った。貴族たちはそれぞれにガンポと称したが、ガンポとは国王と言う意味である。
 ただし、小国の時代は長くは続かなかった。

 元代以降は、蒙古の統治者の勢力が青蔵高原を席巻していった。

 元代はチベット地域全体でこれまでとは異なった統治方式が始まった時代である。
 チベット本土では新しく興ったサキャ派の勢力を利用して、数万戸の土地を領土とした。
 そして、青蔵高原の東部で土司制度が始まった。

 明は少数民族問題に関しては特別な政策を施さなかった王朝である。基本的には元代のチベット地域統治方式をそのまま用いた。

 清代では、満州族が中国中央部を制圧し中原を手に入れた後、全てのギャロン地区を正式に土司に分封した。土司制度の最も栄えた時期、ギャロン全域には清政府が冊封した18の土司がいた。俗にギャロン18土司と呼ばれている。
 大渡河上流のムルド神山を中心とする大、小金川流域が、18土司の治めるギャロンの宗教、文化の中心地帯だった。

 その中の小金川の流域内、現在の小金県はツァンラとウオリ(沃日)二つの土司の土地だった。

 「ツァンラ」という言葉は、チベットでは凶悪な神という意味を持っている。
 なぜこの言葉が使われたのか。一つには当地のチベットの兵たちが戦いに長けていたからであり、そしてまた、この地域には高い山や深い谷が多く、高い山々のほとんどはムルド神山に付き従う臣下と武将であり、ギエルモンド・ムルドを護衛する神々であったからである。そこで、この名を地名にしたのだと、この地の人々は信じている。
 その後、地名が土司の名前となった。

 小金川のツァンラ土司と大金川のツーチン土司は、元は同じ祖先から生まれた。チベット語の表現では、「同じ骨から出たもの」と言う。同じ骨とは、すなわち同じ根である。根という言葉はチベット語ではごく短く、そして神聖な単語「尼」である。漢語に訳すと「血縁」という意味になる。

 チベットのチオンブから来たこの一族は、ギャロン地区でとびぬけて繁栄していった。
 明代、ハイムラと呼ばれる族長が、その名声を遙か遠くまで鳴り響かせた。

 私にこの話をしてくれた老ラマ僧に、ここで言われている遠いというのはどの位なのか、幾つの河、幾つの山を越えるのか、と尋ねたことがある。
 物語の中ではよく99の河、99の山などと語られたりするが、それは一種の形容詞として使われているだけであって、現実の地理的な概念からは想像できない。
 もし本当にこのような状況になったら、とっくに海岸線まで出てしまい、大海を目の前にしてため息をつくことになるだろう。

 遠いか近いか、それは相対的な概念である。
 それは知識と見職に関係している。

 20世紀50年代、ギャロンでも文武にすぐれた頭人(部族の首領)、部族間の争いでほとんど負けを知らず、日々領地を拡張していたある頭人が、解放軍が派遣した交渉役に、無邪気に尋ねたことがある。「中国と我々の領土とどちらが大きいのか」と。
 そこで、人民政府は彼を招待し、山を出て中国を視察させることにした。数日馬に乗り、彼はやっと自分の領土を出た。だが、内地に入ると、飛行機に乗り、車に乗り、汽車に乗り、1月、2月経ってもまだ、自分の領土と比べようとした中国を走破できなかった。 

 話がそれてしまったようだ。

 そう、あの時、私は小さな寺に座って唐突に老ラマ僧に尋ねた。すごく遠いというのはいったいどのくらい遠いのですか、と。
 老ラマ僧は質問の意味を図りかね、私を見つめ、そして激しく咳き込んだ。

 答えはなかった。それでよかったのだ。このようにとらえどころのない問題を出して、幹部の肩書きを持つ人間の前でかなりへりくだっているラマを困らせるべきではなかったのだ。それでなくても、彼は役に立つことをたくさん教えてくれたのだから。

 この訪問で分かったのだが、ハイムラは強い法力を持ったボン経の法師だった。そのため、明代のある皇帝から印を賜る一方で、演化禅師の称号も与えられた。
 清の康熙5年(西暦1665年))清王朝はこの一族のために再び演化禅師の印を与えた。この一族は清王朝に臣下として仕え、その兵は清王朝の徴兵に応じ将軍・岳鐘に従ってチベット本土へ遠征し、チベットへ進行したネパール人を撃退した。てがらを立てて国に戻った後、この一族はツーチンとツァンラ土司の職を与えられた。

 この史実に関しては、清代の学者魏源が「乾隆初定金川土司記」の中で次のように記している。


 「ツーチンの水は松蕃を出てチベットの国境を越え、ターペイ(党壩)を経て土司の領地に入る。非常に深く広い。これが大金川である。そのツァンラに水源が近いのが小金川である。二つとも河の近くに金鉱があるので、この名がついた。二つの河はともに東北から西南に流れている」「康熙5年その土司ギャレバが帰順したので演化禅師の印を与え、その民を与えた。その孫、サラペンは土地の兵を率い鐘将軍に従ってチベットのヤントンを征服するのに功を立て、雍正元年、金川安撫司の位を授かった。サラペンは自ら大金川と名乗り、古い土司ツェワンを小金川とした。サラペンは娘のアコウをツェワンに嫁がせた。ツェワンは気が弱く妻に支配された」
 

 この中で、清代の学者の中でも地理研究を志していた魏源でさえも、大きな過ちを犯している。
 ツーチンの大金川は青海を源としているのであって、松蕃ではない。
 松蕃は明代以来、四川西北の軍事上重要な辺境の要塞であったが、ただし、松蕃の街のはずれから出ている川は大渡河ではなく、そこより北にある岷江である。

 四川西北の群山の中を駆け抜けていく二つの大河は、四川盆地に入ってから、楽山の大仏の足元で青衣江と一つになり、三つの川は合流したまま東南に向って流れ、有名な酒の街、宜賓で金沙江と合流し、そこから一瀉千里の雄大な長江となるのである。



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阿来「大地の階段」 41 第4章 ツァンラ

2009-04-18 01:04:23 | Weblog
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6 過去の影が見つからない その2


 今回私は丹巴を出発して、西から東へ向い、新格(シング)、宅壟(ザイロン)を通って小金の県城へとやって来た。ここに着いた後、公道に沿って進むには二つの選択がある。
 続けて東へ行くと、達維(ダーウェイ)、日隆(リーロン)に行くことが出来る。

 達維は第一、四方面軍が合流した地である。
 日隆はここ数年で少しずつ名が知られてきた。

 日隆は昔の古い街道の宿場で、四川盆地から小金(ツァンラ)へと入る入り口である。そのため、一世代前の土地の人の話の中では、日隆という地名にもう一字加えて日隆関と呼ばれている。
 時がたち、この宿場の商業が衰退した時、日隆は人々の記憶から薄れてゆき、一部の人の中だけに仕舞い込まれた記憶となってしまった。

 だが、80年代に入ってから、旅行業の出現とともに、日隆は再び発見され、人々の視野に入り、探検好きの旅行者によって地図の上でたびたび指し示される名前となった。
 登山愛好家にとっては、日隆は海抜6,250mの「蜀の皇后」の称号を持つ四姑娘山である。
 一般の旅行者にとって日隆といえば、四姑娘山の麓にある東方のアルプスとも呼ばれる双橋溝風景区を思い浮かべるだろう。

 ある雪と風の混じる3月、激しい吹雪のために日隆で行く手を阻まれたことがあった。

 村の料理屋で牛肉の塊を食べながら酒を飲んで寒さを紛らわせていると、料理屋の壁に、登山愛好家の団体が残していった鮮やかなペナントがたくさん掛かっているのが目に入った。ペナントには、よくあるように幾つものサインがしてあり、「四姑娘山花の旅」、「氷山の旅」などの文字が見えた。それらは旅行客が夏の間に残していったものだ。

 そして、3月の吹雪の夜、四姑娘山の次第に高くなっていくピラミッドのような四つの高峰は、雪を孕む清涼な雲から抜け出して、星の光を浴びているところだった。
 そして、この小さな料理屋の中では、ほの暗い電灯の灯りが、酔って朦朧とした私の目に、より陰鬱に揺らめいていた。

 荒れ狂う風の音が世界を満たしていた。

 やはり小金の話に戻ろう。

 この小さな県城を去る時はいつも、街のはずれの山の上にある烈士の墓を訪ねることにしている。

 山の形なりに階段状に連なる墓の中に眠るっているのは、ほとんどがこの地の者ではない。彼らの故郷は遠い場所にある。
 入ってすぐの一帯は紅軍の将校と戦士の墓である。戦士には名は無く、将校には名がある。次に並んでいるのは解放の初期にこの地に倒れた解放軍の兵士である。

 私がここへ来るのは、石碑の後ろにどのような人物が眠っているか、ということとはあまり関係が無い。私が心を動かされるのは、ここに眠る者たちが、このような見知らぬ土地、足を踏み入れる前までは夢に見ることさえなかった見知らぬ土地で、どのように突然の死と向き合ったのかということだ。

 ある者は焼け付くような弾丸の一撃で倒れ、ある者は残酷な刀を浴びて苦しみあがいた。
 彼らは、この世を去ろうとする瞬間、空を見上げただろうか。この異族の地の空はあまりにも澄み渡り、その一瞬、空はいつもより高く、いつもより青く見えたに違いない。どの青よりも美しい青だったに違いない。

 美しい青はいまだ至らない未来を想わせる。優しい母と故郷を思い起こさせる。
 その後から、死神が黒いマントをひろげ、猛然と近づいてくる。黒い色が全てを覆い隠す。紅く燃える希望さえも。

 烈士の墓は見晴らしの良い高台にあって、小金の街を一望している。

 現在美興と呼ばれているこの小さな街は、昔のチベット語の名をメイヌオという。それはツァンラ土司の官寨のあった場所である。
 だが現在、両側の高い山の斜面を覆うつぎはぎのような耕地と、耕地の間のいくつかの漢・チベット折衷の民家以外、この街にはもう、歴史的な遺物は何も残っていない。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 40 第4章 ツァンラ

2009-04-07 01:03:41 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


6 過去の影が見つからない その1

 小金の美興という街は、私にとってかなり馴染みの県城である。

 私に言わせれば、街にはこれといって見るべきものはない。
 だが、旅人とは目を大きく見開いて、いつも何か発見があるのではないかと期待しているものだ。だからといっていつも何か発見があるわけではないのだが。
 県城にはチベットの特徴を持った建物はないし、過去のギャロンの面影を残すものもない。

 ただ一つ取り上げるべきものといえば、県委事務所に近いキリスト教会である。残念なことに、この教会は異国情緒のある外観以外には、大きな扉を開けても、中にはすでに宗教と関係のあるものは何もない。

 この県城の茶館で、そこにいる客たちにこの教会の過去を尋ねてみた。そうして、この教会はフランスの宣教師が民国13年、すなわち1924年に建てたということが分かった。
 もう少し詳しく尋ねたかったが、茶館の客が話すことは皆、分かりきったことばかりでそれ以上尋ねようがなかった。

 ある人が教えてくれたのだが、教会の神父は初め、信者であるこの地の女性を雑役として雇った。その後、この女性はこの外国の神父のために女の子を産んだ、ということだ。

 皆が自信ありげに言った。彼女の混血の娘はこの町の美人の一人だと。

 その後もっと公式な場で、ある人がこの女性を指し示して教えてくれた。
 強い暗示を受けていたためか、それとも、実際に血統の名残と混血のためか、その顔から、どことなく西洋人らしい面影を見たような気がした。

 もしうわさが本当であっても、このような血統による特徴は、この女性をこの地の人が美しいと思うのとは違った美しさにした以外、大して大きな意味を持ってはいない。
 私が最も興味を持ったのは、このような、今でも美しいといえる建築が代表するある種の異質の背景を持った文化が、この小さな村に一体どのような足跡を残したのだろうか、ということだ。私が特に鈍いためだろうか、何度もこの美興と呼ばれる山を背にし河に面した村へ来ているのに、キリスト教がこの地でかなり長い間教えを伝えた何の形跡も見つけることは出来なかった。

 私は何故か、かつて苦難の末に入ってきた文化が、こんなにも簡単に跡形もなく消えてしまうことに悲しみすら覚えた

 私は西洋を崇拝し、外国に媚びる者ではないが、それでも信じている。当時、教会にはオルガンの音が響き渡り、チベット人が慣れない口調で祈りのことばを唱える時、敬虔な思いに包まれていただろうし、彼らが歌う賛美歌は、硬さの中にも独特な美しさがあっただろう、と。

 だが今、教会の門は閉じられている。私が県書記の友人であるから特別に開けて貰えただけだ。
 そして中は、ごく普通の講堂としてしつらえられている。きちんと並べられた椅子、前の壁に聖像はなく、祭壇もない。机が台の上に一列に並び、会議が開かれる時にテーブルクロスを被せ、マイクを設置する。そうすれば指導者は演説をすることが出来る。

 私は台の下に座り想像してみた。
 パイプルガンの音が部屋中にあふれ、外国の宣教師が文化の遅れた土着の民に教義を伝えている様子を。
 その結果目の前に現れたのは、県書記が数百人に向ってこの貧しい土地の美しく豊かな前途を描写している状況だった。おかしくなって、思わず声を出して笑ってしまった。

 門の外に出ると、太陽の日差しが眩しくて、めまいがした。体中土ぼこりだらけだった。

 教会の入り口に案内板が掛かっていて、この教会もまた革命のゆかりの地であると記されている。なぜなら、この教会は紅軍の長征と関係があるからである。

 1935年6月13日、紅軍の一方面軍は長征の途中の最初の雪山、海抜4,000mを超える夾金山を越え、東南側から小金の県境に入った。そして、夾金山のふもとのダーウェイで予定より早く到着していた紅軍四方面軍の李先念部隊と無事に合流した。また、ダーウェイラマ寺で合流大会を開いた。
 二日後、軍について行動していた中国共産党中央が小金県城に到着した。

 この地で、毛沢東、朱徳、周恩来は中央工農民主政府と中央軍事委員会の名前で「日本軍による河北併呑と蒋介石の売国宣言に反対するために」を発表した。宣言の中で、もう一度紅軍長征の目的を述べている。それは、北上して抗日するためである。だが、当時の状況では紅軍は続けて西に進む道を選ぶことしかできなかった。

 その夜、この教会で、紅軍は一、四両方面軍の幹部大会を開き、その後、交換会を行った。

 これは政府側の簡単な記載で、具体的な状況がどうだったのか、すでに想像することはできない。

 当時、四方面軍でこの会議に参加したのは、李先念が率いる紅三十軍の幹部だった。合流した後、兵力の充実した四方面軍は、疲弊し多大な損傷を受けた一方面軍に多くの糧秣と弾薬を援助した。
 毛沢東、周恩来たちは、この教会で数日を過ごした。
 高い雪山を超え、国民党の包囲網を抜け出し、更に、比較的力のある四方面軍と合流できて、この幾晩かは長征の途中でのいくらか気の休まる夜、安心して眠れる夜だっただろう。

 それから又しばらくして、四方面軍の主導者張国濤がやっと毛沢東たちと面会しに現れた。そしてこの時から、張国濤は兵と武器の多いのを笠に着て、江西、江蘇から来た毛沢東を代表とする党中央、中央軍事委員会と各地で対抗することになった。
 こうして、紅軍の両方面郡のアバ地区の雪山や草原での苦しい行軍は、毛と張二人の、力と知恵を比べ合う戦いの物語となったのである。

 この物語はすでにこの本の求める範囲ではないので、ここまでにしておこう。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



阿来「大地の階段」 39 第4章 ツァンラ

2009-03-10 01:35:22 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




5 時空をかけめぐる踊り その2


 目の前にいる男たちはほとんどが中年、または老人だった。そして多くは、頭も髭も白くなっていた。
 先ほど山を降りる道で、彼らは山を轟かすような雄叫びを上げていた。今彼らは盛装した姿で、郷役場の庭に集まり、静かに時を待っている。それはあたかも、過去の時代が目の前に現れたかのようだった。

 彼らの身に着けている衣装の、ギャロンのその他の地方と違うところは、特に狐の毛皮の帽子に現れている。彼らが被っている帽子は、どれも尾が残されていて、頭の後ろに自然に垂れ下がっている。ほんの少しの風でも、長くて柔らかい狐の毛はさらさらとなびく。そこに独特の美しさが生まれる。

 男たちが整列してからしばらくして、同じように盛装した女たちが長い列を作り、ゆったりとした足取りで入って来た。先に来た男たちと比べて、女たちの中には、若く照れくさそうな表情も見られた。

 郷長は甕に入った酒を二つ庭の中央に並べさせ、それから、県知事が積み上げた薪に火をつけた。
 山から下りて来た白い髭の老人が祝詞を唱え、酒甕の泥の封印を払った。
 このような幕開けの過程は私がこれまで見てきたものと同じだった。

 酒甕を開けた痩せた老人は、自然と輪になっていた隊列の先頭に移り、手に持っていた、真鍮の鈴をぐるりと止め付けた赤い革の輪を振り鳴らした。

 十以上もある鈴の澄んだ音が一度に起こると、なぜか独特のかすれたような響きとなり、聞く者の心を打った。
 この響きあう沈鬱なリズムの中、老人の足が動き出す。輪になった隊列の全体も体を揺らしながら踊り始める。

 女たちのゆっくりと張り上げた声は、高く美しい。

 男たちの踊りはすこしずつ早くなっていき、仮想の敵に向って威嚇する叫び声を上げる。

 私は本来静かに考えごとをするのが好きで、活動的な人間ではない。だから踊りや運動はあまり好きではない。更に、各地の踊りの違いを専門的に研究しているわけでもない。だから、特別に名の知られたザイロンの鍋庄舞とギャロン地区の他の踊りとの大きな違いは何か、見分けることは出来なかった。

 おまけに、その時私にはゆっくり鑑賞している暇などなかった。
 鄢長青が撮影機を担ぎ、息を弾ませて「いいぞ!」と掛け声をかけながら、一方では私に向って、ライトを男性の手に当てろ、女性の足に当てろと指図していたからだ。
 強烈なライトを当てると、当たった部分以外、踊り全体の姿は暗闇の中に隠れてしまう。電池がなくなって初めて、私は座って踊りを見ることができた。

 世話好きな当地の役人が何度も強調したように、これは私たち二人のために設けられた貴重な鍋庄舞の実演なのだが、踊っている者の顔、特に男たちの表情を見ていると、私たちがいるかどうかなど彼らにはまるで関係ないのは明らかだった。
 彼らが踊るのは彼ら自身の踊りであり、踊りの中で自分の激情と激情に呼び覚まされた思い出に浸りきっていて、観客がいるかどうか、テレビの撮影をしているかどうかは関係ないのである。

 この踊りの中で、人々は過去に、無限に遠く遥かな記憶の中に戻ることが出来る。
 踊りは、文化館が招いたチベット族歌手のゆるやかな歌の中で終わった。

 盛装した農民たちは、また、曲がりくねった山道を月の光を頼りに戻っていった。谷間にはまた、彼らの力強い叫び声が響きわたった。
 この夜、男たちの胸には出征する戦士の高ぶった感情が脈打ち、女たちの心は消えることのない切ない愛情で満たされていた。
 月の光の降りそそぐ野には艶やかな情愛の花が開こうとしていた。
 それは私たちが自らの手で触れたいと切に望んでいる、人間の心の最も美しい部分だった。

 県城の招待所に戻ってから、私はしばらくの間寝付けなかった。思い浮かべたのは月の光の下での愛情、望んだのもまた、月光の下での愛情だった。

 2年前、私は一人ザイロンの夜明け前の公道を歩いていた。
 気の向くまま歩みを止めたりしながら、昼になろうという頃、小金の街に入り、小金県委員会の林檎と柏の木が植えられているなじみの庭に入っていった。
 庭に入ると突然、以前ここに住んでいた漢族の若い女性のことを思い出した。

 あの頃、私は長い旅の途中でここに留まり、この招待所に泊まって体を休めながら短編小説を書いていた。彼女は毎日庭を通って、ひまわりや胡桃や林檎などを私の部屋に届けてくれた。こうして、一日に二、三回の彼女の訪問が、ついには私がこの庭に泊まっている間のささやかな期待となった。

 そうしたある日、彼女は私の胸に飛び込んできた。
 これは旅の途中ではまれにしかめぐり会えない、あまりにも短くあまりにも突然で、だから忘れることのできないときめきの花である。
 その後、この女性はこの土地を離れ、永遠に姿を消した。今ではその姿をはっきりと思い描けなくなってしまった。だが、あの時彼女が私の胸に飛び込んできた瞬間の自分自身に対する心のざわめきは、あの時のまま永遠に鮮やかである。

 今、この庭に彼女はいない。新鮮なときめきもなくなってしまった。あるのはただ一叢の菊と、木々の枝に実る青い果実と、私の全身を覆う疲労だけだ。私は県委員会書記の扉を押した。

 このなじみの人物は私を一目見て、その様子に驚くこともなく、自ら入れた茶を私の前に置き、言った「招待所に君の食事と部屋を用意さよう」
 彼が全ての手配を終えた時、私はソファーでぐっすりと眠り込んでいた。階下のどこかの部屋にまだ甘い記憶が残っていたとしても、疲労の勢いにはかなわなかった。
 後で知ったのだが、私が三人分のソファーを占拠してしまったために、書記が召集した重要会議は場所を移して開かれたという。

 書記と県知事たちは会議を終えてから、私を食事に誘った。
 その席で、彼らはフランスの葡萄の移植について討論していた。私は旅の間の、犬遠吼えと月の沈んだ後の暗闇を思い出していた。

 彼らの議題はまだ終わりそうもなく、私は街をぶらつくことにした。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)






阿来「大地の階段」 38 第4章 ツァンラ

2009-02-22 22:23:30 | Weblog
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5 時空をかけめぐる踊り その1



 その2年後、私はテレビ番組のライターとして再びザイロンに戻って来た。
 ぼんやりとした頭で一晩を過ごし部屋代も払わず夜中に抜け出したあの庭に戻ってき来た。だが、あの庭のある部屋には泊まれなかった。

 テレビカメラは、必ずと言っていいほど人々から熱狂的な歓迎を受けるものだ。 その時は、四川省国外チベット同胞受け入れ事務所の鄢長青が、私を巻き込んで、対外宣伝用の作品を撮影する任務を引き受けたことによる旅だった。
 鄢長青は、嘗ては才能を嘱望されたチベット族の作家だった。その後映像関係に転向し、その方面では名の通った作り手となった。

 その時、番組撮影の機会を得て、私は彼についてマルカム、大小金川と理県などの場所をたっぷり二ヶ月あまりかけて歩き回った。それは一人で気ままな旅をするのとはまったく違っていた。

 テレビ番組を撮るということで、関係部門から特別に扱われたのである。
 特別扱いされると、往々にして特別なもてなしを受けることになる。その二ヶ月間、私たちはホンダのクルーザーを使い、どこへ行っても、そこに接待係がいて、美味しい食べ物や飲み物が用意されていた。
 まさにその旅の中で、私は再びザイロンを訪れたのである。

 その前に、私と鄢長青は県の職員の同行のもと四姑娘山を歩き、野宿しながら3,4日を過ごした。時は秋も深い10月だった。もし、大雪が私たちと多くの飢えた動物たちに下山を迫らなかったら、私たちは我慢強い当地の職員を連れて氷河の下にある谷間を更に何日も歩き回っただろう。だが、大雪が降って私たちは下山を余儀なくさせられた。

 小金の県城に戻ると、県知事がもてなしてくれた。県知事はこの地のチベット族で、同席の政治協商会議の楊副主席は美術系出身の文化的な人物だった。現在の小金と昔のツァンラの長い歴史と特別な風土に対して深い知識を持っていた。

 酔った私は、あのザイロンでの夜のことを話し始めた。

 職員は笑った「その踊りは簡単には見られません。今の若者はもう踊れないでしょう。踊れるのは中年や老人だけです。新年や祭りの時でなければ見られなくなってしまってね。特別にやってもらう以外には無理でしょう」

 接待係の統一戦線部長は、胸を叩いて、特別にやってもらう、と請合った。

 私は酒の席の勢いだろうとすぐに忘れてしまった。次の日、県の運営する大理石工場と新しく作った冷凍倉庫を見学した。ここ数年、この地の果物の生産量が増え、それに加えて日本への輸出用のマツタケも盛んに採れるので、このような大型の冷凍倉庫を建てたのである。
 午後、招待所に戻って休んだ。だが、突然車が来て、機材を持ってザイロンに行くように言われた。

 三台の車は秋深い乾燥した公道にもうもうと埃を巻き揚げ、30分もかからずに、以前私が深夜に立ち去ったあの庭に入って行った。
 私はその庭だと分かった。あの時のままの剥がれかけた石灰の壁と、壁に一の行文革時代の標語が残っていたからだ。

 郷の幹部の出迎えで、茶を飲み、田舎の名物料理が出された。とうもろこし団子入りの漬物スープである。スープにはこの地の唐辛子を細かく叩いたものが入っていて、香りと辛さで汗が噴出した。とうもろこし団子はもちもちして独特の香りがあり、ゆっくり味わうとほんのりと甘かった。
 郷の幹部は県の長官に仕事の報告をしている。私と鄢長青はその場に居ずらくなり、外に出てぶらぶらした。

 ビリヤード台はやはり道端に置かれていたが、その周りにあの勇ましく喧嘩っ早いが愛すべき若者の姿はなかった。

 ちょうど収穫に忙しい時期で、若者たちも畑に行って刈り入れをしているのだろう。村は前に通り過ぎた時より少し美しく感じられた。霜が降りて紅葉した梨の木のせいだろうか。
 一巡りして戻ってくると、郷役場でもある荒れ放題の庭の真ん中で、人々がトラクターから篝火用の薪を卸していた。

 郷長が状況を説明してくれた。
 「鍋庄舞」を本当に踊れる人々はみな山の途中の村で暮らしている。彼らは畑仕事を終え、食事をし、きちんと支度したら山から降りて来るだろう、と。そこで私達は部屋に戻って茶を飲みながら待った。

 黄昏がゆっくりと山に降りて来た。

 ちょうどその時、後ろの山道から微かな音が伝わって来た。山の木々のざわめきのようだった。
 だが、この辺りはもう何年も前に禿山になっていて、木々を吹き過ぎる風の音はもはや聞こえるはずがない。もう一度じっと耳を傾けてみた。
 なんとそれは、たくさんの人が険しい山道を走っていて、走りながら単調な雄たけびを上げているのだった。

 ほー
 ほ、ほー
 ほほほほほほー

 まさに、松風が地を揺するような自然の中から生まれて来た音である。

 まもなく、正装したギャロンの男たちが庭を埋め尽くした。
 私の感覚の中では、彼らこそ過去の時代から来た者たち、小金がまだツァンラと呼ばれていた時のギャロンの男たちだ。

 彼らは毛並みのよい狐の毛皮の帽子を被っている。肩幅が広く袖の長いプルで出来た外套を纏い、膝丈の裾には手のひらの幅のカワウソの毛をつけている。そのうちの何人かは、斜めの襟に手のひらの幅二つ分の豹の皮をつけている。
 ギャロン・チベットの男性の服装で最も装いが凝らされているのは腰である。男性はみな粗い織りの赤い腰帯を巻きつけ、腰帯に、銀の鞘に珊瑚をはめ込み象牙の箸を刺した美しい刀を提げている。腰帯の正面には小さな皮袋を提げ、皮袋の中には火口と石英がいくつか入っている。袋の下側には半月形の鉄で出来た火打ち鎌が付いている。

 こうして、過ぎ去った時代がいきなり目の前に現れた。

 それはマッチのない、ましてやライターなど無い時代である。出征する男たちは、野外で料理する時、まず、地面に乾燥した草や木の枝を組み上げ、それから、体の前に提げている皮袋から石英を取り出し、一つまみの火口を石英の上に置き、皮袋に付けた半月形の鉄の板を力いっぱい打ち付ける。何回か打つと、飛び散った火花が火口の上に落ち、火口の中から微かな煙が幾筋か立ち上る。その火口を組み上げてあった枝に近づけ、ほほを膨らませて思いっきり息を吹きかけると、小さな炎が吹き出して来る。

 これは出征の途中の情景である。戦地に着くと、火打ち鎌は更に大きな働きをする。それを使って火縄銃の導火線に火をつけるのである。

 私は火縄銃を打ったことがあるが、目標に照準を合わせてから、銃の音が響くまでの間、銃床にぴったり貼り付けた顔半分は火縄の吐き出す炎に焙られるのを我慢していなくてはならない。今でも、私の頬には細かい黒い点が密集している部分がある。それは火縄銃で野鴨を撃った時に焼け焦げた跡である。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)