goo blog サービス終了のお知らせ 

塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 37 第4章 ツァンラ

2009-02-06 01:22:07 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




4 道端のビリヤード


 もう一つの、胡桃の木々に覆われた村に着いた時、すぐに私を泊めてくれる家が見つかった。

 そこでは、このあたりの村が過去に阿片を植えていた時の状況を尋ねることができたし、紅軍の物語を聞くこともできた。
 紅軍の第一、第四の二つの方面軍が長征の途中でこの地域を通っており、県の東南部のダーウェイこそ第一、第四方面軍が長征の途中で合流した場所だった。

 そういうわけで、人々の間に様々な解釈の物語が伝わっていたとしても不思議ではない。

 そのような物語をたくさん聞くうちに私も、それらとはまた違った解釈で、しかも紅軍の偉大さと長征の悲愴さを損なわない小説を書いてみたいと考えるようになった。
 だが、編集者を驚かせてはいけないと、何度も書きかけては、途中でやめてしまうのだった。

 こんなふうに気ままに歩きながら、次の日の夜はザイロンに泊まった。

 ザイロンという名前は随分早くから聞いていた。なぜならそこには「鍋庄舞」という特別な民間舞踊が盛んに行われていたからである。
 専門家の考証では、この舞踊と吐蕃時代の出陣の踊りとは一定の関係があるという。私はこの踊りを見たことはないのだが、雄壮で力強いものに違いない。

 吐蕃時代、このあたり一帯はチベット兵の駐屯地だった。チベット族の体には、駐屯兵と同じ戦いを好む血が流れている。乾隆年間の大小金川の戦の時、このあたりはまた、四川省や陝西省の兵たちの駐屯地となった。長期に渡って兵たちが民の間で暮らしていたので、ギャロン地区、特に大小金川地区に勇猛果敢な気風ができあがった。
 この土地の踊りの中に、出陣踊りの名残が残っていたとしても、至極当たり前のことなのである。
 言い方を変えれば、このような風習が残されていない方がかえって不思議である。

 この土地独特の踊りを見たいという思いがあったためだろう、やっと正午になったばかりだったが、そのままザイロンに留まることにした。

 まず見たところ、ザイロンには土地の踊りなどなさそうだった。
 埃の舞い上がる一本の道が、山のふもとに散在する村々の真ん中を貫いている。村の外は河岸の台地で、台地の上には、お決まりのように、花をつけ始めたばかりのトウモロコシが植えられている。トウモロコシ畑の中にもまたお決まりのように、かなり大きなリンゴの木が数本植えられている。そして、村の中心には、古めかしい梨の木が聳えていた。

 村の中心の通りの両側には、雑貨屋が置いた露天のビリヤード台があった。
 これは、今まで通って来た道路沿いの村でも同じだった。そこにはいつも、何もすることのない若者が何人か台を取り囲んで、ナインボールのゲームをしている。ゲームをする時には、どこでも同じように、誰かが埃に汚れた緑のラシャの上に一元か五元の金を放り投げる。

 私は足を止め、進行中のゲームを観戦した。
 そのゲームは最初に撞いた者が負けた。
 彼はチベット語と漢語の中のありとあらゆる下品な言葉で悪態をつきながら、顔はそれほど気にしていないかのように笑っていた。
 賭けに勝った者の口から出たのもチベット語と漢語を混ぜこぜにした汚い言葉ばかりだ。
 彼らの一代上の世代の間ではこんなことはなかった。いつから、そして何故こんなに変わってしまったのだろう。 

 また、ゲームが始まった。

 今回登場した若者は思い切り力を込めて撞いた。撞いた途端、台の上の球はあちこちでぶつかり跳ね返り、その結果、三つの球がそれぞれのポケットに入った。だが、白い手球は回転しながらそのまま台の外に飛び出してしまった。

 私はため息をついた。そんなに力を入れなくてもいいものを。

 球を撞いている若者だけでなく、台を囲むすべての若者が私に対して非友好的な眼差しを向けた。
 若者たちは、ここを行き来する見知らぬ者に対して、いつも警戒心に満ちた非友好的な目線を投げかける。

 だが私はひるまなかった。理由は簡単である。もし故郷を離れずにいたら私もきっと彼らの一員になっていたはずなのだ。
 彼らの眼差しの中にある虚勢や嫉妬や見掛け倒しの強がりを、私は知っている。

 球を飛び出させた若者はキューを横にして持ち、私に近づいて来た。それは人を脅す時の構えだ。

 オスのやぎが相手に攻めかかろうとする時は必ず、頭を低くし尖った角を前に向け、蹄で足元の石をガリガリとこする。
 そうやって動きや音で威嚇するのである。

 このあたりの村ではどこでも、このような好戦的なやぎを何匹か飼っている。実際に、私の足元のこの固い道の上にも、早朝やぎが村を出て行く時に道一面に撒きちらした黒い丸薬のような糞が残っていた。

 こういう時は私のほうから何か言わなくてはならない。

 そこでこう切り出した。「たいした気合だ。だからってそんなに力を入れるのはどうかな」
 もちろんチベット語を使った。この土地の人が今でも聞き取ることのできるギャロンのチベット語だ。

 キューを持って近づいてきた若者はそこで止まり、一瞬戸惑ってから笑い出した。
 「あんた、ここの者じゃないんだろう。よそ者のくせに、よくそんな強気でいられるな」

 「ご先祖さまから受けついだしきたり通りに、外からき来た客人にはもう少し気を使ったほうがいいんじゃないかな」

 若者は何も答えず、キューを私に手渡し「勝負しようぜ」と言った。
 私は首を振りながら言った「いや、やったことはない」
 彼は言った「なら、俺が勝つか負けるか、賭けな」
 私は答えた「どちらが勝っても、ビールを奢ってくれるんだろうな」
 彼はちょっと考えて、既に台におかれている五元の掛け金に、更に五元を加えた。

 そのゲームでは、相手が入れた球は二個だけだったが、彼が負けた。三回続けて手球を台の外に飛び出させたからだ。

 その頃、私達の周りには若い娘たちが集まって来ていた。

 娘たちは一代前の女達が若かった頃と同じように、一塊になり、一人の見知らぬ男を目にして訳もなく騒ぎ立て、お互いに体をつつきあってはくすくすと笑っていた。

 彼女達の笑い声に囲まれて、私たちは一本ずつビールを手に取った。
 何時間も歩いて来た者にとって、一本のビールは何よりも渇きを癒し元気付けてくれる飲みものだ。
 私は一気に飲み干した。娘たちはまた笑い出した。
 若者たちも一気に腹に流し込んだ。
 私は更に十元出し、皆でもう一本ずつビールを飲み干した。

 私は梨の木の下の、何のために置かれているのかわからない真四角の花崗岩に座り、木に凭れて眠ってしまった。目が覚めた時、夕日は既に傾き、娘たちとほとんどの若者はすでに帰った後だった。

 私と一戦交えるはずだった若者だけが傍らで見守ってくれていた。

 彼に、眠れる場所に連れて行ってくれと頼んだ。彼は自分の家に来ればいいと言った。

 私は首を振り「すぐに眠れる場所が欲しいんだ」と答えた。
 「郷の役所へ行けばいい、きれいな寝床がある」と教えてくれた。

 きれいな寝床があるといわれた場所には、古い木のベッドが並べられていて、部屋中に埃っぽい匂いが立ち込めていた。
 それでも私は布団にもぐりこみ、眠りについた。
 もし喉が渇かなかったら、そして窓の割れ目に吹きつける怪しげな風の音がなかったら、深夜に目覚めたりはしなかっただろう。
 壁のスイッチを手探りし、やっとのことで電気をつけたが、飲み物は見つからなかった。二本のペットボトルは空っぽだった。

 部屋の中の様子から見て、これは5、60年代に建てられた漢式の古い家だ。
 壁に塗られた白い石灰が所々ごっそりと剥がれ落ちていて、麦わらの混じった土壁を覗かせていた。

 私は庭に出た。
 透明な月の光に満たされた、清涼な夜だ。

 だが、私はやはり喉が渇いていて、水はやはり見つかりそうもなかった。

 突然、今晩ここに泊まったのは、出陣の舞でもあるザイロンの民間舞踊を見るためだったのを思い出した。

 だが今は、広い庭には月の光が創り出す数本の木の影があるばかりで、一つ一つの窓の奥を支配しているのは音のない深い眠りだった。

 星空を見上げると、夜明けを告げる明星は、すでに山の尾根から昇り始めていた。

 私はリュックを担ぎ靴紐をきつく結んで出発した。

 石造り家の影をいくつか通り過ぎ、公道に出た時、村中の犬が一斉に吼え出した。犬の甲高い鳴き声はしばらくの間、谷あいを震わせた。

 村のはずれまで来て振り返った時、何匹もの犬が尻尾を立て、村を貫く公道の出口で、私に向かって吼え続けていているのが見えた。

 山道を一つ曲がると、犬の声は消え、ただ自分の影だけがついて来た。
 更に一時間ほど歩き、月が山の背に沈むと、あたりに響くのは、ざくざくと地面を進んでいく私の足音だけになった。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





阿来「大地の階段」 36 第4章 ツァンラ

2009-01-29 01:35:59 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


3 山の中の家


 その年、生い茂った胡桃の木の間から、疲れを知らないカッコウの長く尾を引く啼き声が聞こえていた。

 村の周りに散在するトウモロコシ畑の間には、ちょうど実をつけた林檎の果樹園が見える。トウモロコシ畑と果樹園の間には大きな金色のひまわりがいくつも咲いていた。家の前と後ろには麻が群がるほどに植えられている。

 一面の果樹と緑と涼しげな木陰につられて、私は公道を離れ、一つの村へ入って行った。

 私が声をかける前に、一軒目の家の入り口で、主人の熱心な招きを受けた。

 主人は野胡桃の木の皮で鍬の柄を削っていた。
 彼には張という漢族の名前と、ザシというチベット族の名前がある。張ザシ。チベットと漢族混合の名前である。中国と西洋を合わせた張ヨハン、チャーリー王と同じようなものだ。

 ツォツォという彼の妻は、この地の人の足元に良く見られる、チベット風と中国風が一つになった山用の靴を作っていた。靴の大体の格好は中国式だが、底の形と、靴の前半分をキョンの皮で包むやり方は、チベット式の靴の作り方だ。使っている糸は家の裏手の麻の茎の皮を剥いて縒った丈夫な麻の糸だった。

 麻の種は熟すと良い香料になる。
 主人が入れてくれた茶にも、この香料の香りが微かに漂っていた。

 それよりも興味を引かれたのは、主人夫婦が二人とも漢語もギャロンチベット語もあまり流暢ではないことだ。
 彼らとの会話の中に挟まれる、二種類の言語を使った言葉を聞いて、私の舌は、言葉が入り混じることによるもどかしさを感じていた。だが、彼らの表情には私が感じたような不自由さは見られなかった。

 一つはっきりしているのは、このようなごちゃまぜの言葉の中でも、チベット語の発音はとても正確なのだが、表現が豊かで肝心な部分や、漢語の単語が続けて話される時になると、その音があいまいでたどたどしくなってしまい、一つ一つの言葉が、どうしてもぎこちなくなってしまうのである。

 だが私にはこのことに対して個人的な好みを言う権利はない。
 
 これは歴史が特別な方法でこのあたりの土地の上を歩み去った時に残された特殊な足跡なのである。

 女主人は食事の用意のために家の中に入り、張ザシは仕事の手を止めて言った「息子が帰ってきたら、やつの話ならあんたにも分かるんだがな。わしらの漢語はおかしいだろう」

 私はチベット語で返事をした。「私はチベット族なんです。あなたと同じギャロンチベット族ですよ」

 この時、主人はチベット族が驚いた時の典型的な表情になって、舌を出した。主人は言った。「わしらのような者は、あんたに比べたらお恥ずかしい限りだ」
 この時は完璧なチベット語だった。

 女主人が昼飯を運んできた。

 庭の木陰で、目の前の皿に盛られたのは、熱々の湯気の上がる蒸したジャガイモだった。その隣には塩の入った小さな皿があり、塩の皿のそばには畑から採って来たばかりの青唐辛子があった。私は芋を一口、塩をつけた唐辛子を一口、と食べていった。
 これこそ典型的なふるさとの味だ。

 一皿のジャガイモがあっという間になくなった。女主人は大きな碗に漬物のスープを運んできた。濃厚な豚の油の香りがした。
 これもまたふるさとの料理だ。大きなどんぶりのスープが腹に収まると、額から汗がじわじわと染み出してきた。

 女主人はすまなそうに言った。この漬物はキャベツから作ったものでね、もし冬なら上等の円根があって、もっと美味しいんだけど…

 女主人の言った円根とは、カブの一種で、大根と同じ根茎だが葉がゴワゴワしている。だがこのゴワゴワのおかげで、漬物にすると私たちにとっては特別に食欲をそそる一品となる。そして、キャベツは他の料理にすると柔らかく、円根と比べて十倍美味しいが、漬物にするとかえって円根に及ばないのである。

 遠慮深い主人と話していると、話題はどうしても林檎の苗木や、今年の作物の出来具合といったものになる。これ以外のことには彼らは関心がないようだ。

 私が話題を村の歴史に変えようとすると、言うことが途端にあいまいになり、信じがたいが信じないわけにはいかない言い伝えへと移っていった。

 子供の頃この山に森はあったかと尋ねると、彼は首を振って言った。まばらな柏の木はあったがそれも日を追うごとに少なくなっていった、と。

 彼は言った。
 村の裏山には一面の森が湖を取り囲んでいて、湖から渓流が流れてきて、村の真ん中を貫いていた。湖には一つがいの金色のアヒルがいた。だがある日、誰かが罪を犯したために、金色のアヒルは湖を出て渓流に沿って下って行った。アヒルがいなくなってから湖は乾いてしまった。

 私は尋ねた。森は?

 主人の眼差しがあいまいになった。
 彼は言った。「これはもう何代も前から伝わってる話でな」
 彼は生まれてからこのかた、山に森があるのを見たことはないのだ。

 この村は私が通り過ぎた無数のギャロンの村の一つである。

 村を出てしばらく歩くと、村はまばゆい陽光の中で、胡桃の木の葉陰に姿を隠していた。まるで老人が眠ってしまったかのように。歳月はすでにすっかり古ぼけていた。

 太陽に照らされてチカチカと光を跳ね返している公道の先から、突然起こった小さな竜巻が埃を巻き込みながらこちらにやって来る。

 昔のチベット族は、これが異なる温度の気流がぶつかって空気をかき混ぜた結果だなどとは考えもしなかった。彼らはそれを成仏しない亡霊の祟りだと考えた。そこで私も村の農民と同じように、この小さな竜巻に向ってペッとつばを吐いた。 

 その音とともに、竜巻は姿を消した。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



阿来「大地の階段」 35 第4章 ツァンラ

2009-01-16 01:38:48 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



2 小金風景画

この辺りの、荒涼としているが雄大な谷間を歩いていると、一つまた一つとあらわれる村が特別美しく感じられる。
常識では、山々の荒涼は人類の勝手な行いの結果だと分かっている。だが、目の前に広がっているのは、そんなこととは関係なく、遥か昔と変らぬかのような風景である。
そうして、一つ一つの村が現れるごとに、特別な感動が呼び覚まされていく。

 後にした村がゆっくりと遠ざかり、両側の峰が迫ってきて、平坦な階段状の谷は姿を消す。突き出した岩の落とす寒々とした影が道路を深く覆っている。
河の水は、この辺りから急に逆巻き始め、疾走し、ごうごうと猛りながら幾重にも水しぶきを上げる。時には、風化した岩が風を切りながら転がり落ちて来て、次々と道の上で砕け、跳ね返っては逆巻く波頭の中に落ちてゆく。

 昔、この岩の上は猿や岩羊の生息地だった。今ではもうその足跡は見つけられない。今でも生息しているのは、岩の洞穴に巣を作る野鳩と雨ツバメだけだ。

 昔、この道を一人で行くのは非常に危険だった。道が狭かったので、もし足を滑らせたら体が粉々に砕けて一巻の終わりとなる。
当然、足元の危険な道には誰もが十分に注意するだろう。だが、財宝を待ちうけている強盗に対しては、空を見上げて大きなため息をつくより仕方がなかった。

 今では、バスの運転手にとっては多くの危険が隠れている公道も、私の両足にとっては十分にゆったりしている。体を内側の崖に貼り付けてもまだ外側の絶壁から吹き上げてくる冷たい風に目眩をおこす、などということもなくなった。

共産主義になる前にも、待ち伏せして、道を行く人の持ち物から必要なものを盗ろうとする者はいた。だがそのやり口は、もっと以前の時代の、生業としての強盗と比べたら、結局のところそれほど恐ろしいものではなかった。

 狭い山道をしばらく過ぎると、峡谷はまた開け、明るくなる。

 谷の両側の階段状の台地に、また村落と緑が現れた。
村には必ず大きな胡桃の樹が幾本かあって、村全体がその木陰で覆われている。そのため、そこは静かで独立した場所となる。

村の周りは一面の林檎畑である。小金林檎は、少なくとも四川の内陸の市場では、かなり知られた名前である。この地の役人は林檎の栽培を農民の収入を増やす重要な方策と考えた。

中国の農民が市場へと向かい始めた80年代中期にはすでに、農民は有り余っているとはいえないトウモロコシ畑いっぱいに林檎の苗を植えた。夏、そばを通りると、あまり大きくない林檎の樹々にまだ青い実がたわわに実っていたものだ。

 このような努力は、土地から富を得ようという農民たちの願いの現れである。

 過去には、こうした農民の先代たちは、この地に阿片を植えていた。
村の入り口の胡桃の樹の下に座っている、穏やかだが虚ろな眼差しの老人は、もしかしたら一面の色鮮やかなけしの花の中で、輝かしい富の夢想を抱いたことがあったのかもしれない。だが、彼も最後には、ぼろぼろの服を着て胡桃の樹で覆われた村に埋もれて、時をやり過ごしているだけだ。

 今、彼の孫が再び彼の夢想を受け継ごうとしている。

十数年があっという間に過ぎた。
今世紀が過ぎ去ろうとする時、彼らの林檎は徐々に当時の魅力を失いつつある。技術者が足りないために、病虫害、特に品種の退化に対して何の方策も見つけられないでいるからである。

成都では、仕事を終えて家に帰る途中に果物市場を通るのだが、そこで、私の故郷からの林檎の量が日増しに減少しているのがよく分かる。
それを上回るのは、陝西省産の「紅フジ」とアメリカの「デリシャス」である。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


      

阿来「大地の階段」 34 第4章 ツァンラ

2008-12-10 01:41:18 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



1 いくつかの村を通り過ぎる


 現在では小金と呼ばれるツァンラと大金と呼ばれるツーチンは、ムルド神山を取り囲む、山々が屹立する広大な地域である。
 二つの地域は小金川と大金川の流れによって、一つの纏りとなる。二つの河は、私が後にして来た丹巴の街辺りで一つになり、そこから大渡河となるのである。

 この二つの河とその多くの支流は、チベット文化の中でも独特な趣きを持つギャロンの村々の文化を育んできた。

 朝の空気はしっとりとして爽やかだった。私は小金川の河岸に沿って進んで行った。

 二時間後、数日前に来たばかりのユエザと呼ばれる小さな村をもう一度通り、再びムルド山の麓を通り過ぎた。

 この大河の両岸は、頂上が見えない程の高い山の連なりである。
 山々は固い岩肌を見せ、岩の間から伸びた木々はみな忍耐強く強靭である。
 孤独で曲がりくねった松の木が高い岩肌に貼り付いている。

 かなり長い時間歩いても、この大きな河の両岸の景色は少しも変化しない。
 運良く、今日は薄雲の漂う良い天気である。道を急ぐにはこのような天気が一番ふさわしい。

 こうして私は、一つまた一つと村を過ぎて行った。

 二階建てや三階建ての家も、屋根が平らなため、また雄大な山々に囲まれているために低く感じられる。家は全て、レンガや石を積み上げた厚い壁で囲まれ、堅固に作られている。

 過去には、間の戦争が繰り返され、そしてその後、中央政府が各級の役所を設立した後も、土匪が横行する時代が続いた。
 そのため、これらの家はどれも銃眼のような小さな窓が開いているだけだった。

 そのような時代には、これらの村の家は、それ自体が一つ一つの要塞だった。一つの村には、このような要塞のような家が十数戸、数十戸とひと塊になり、生産上の自給自足の村落を形成するだけでなく、武装した自衛のための村落を形成していた。

 だが、50年代初めのあの最も激しい社会変動の後、これらの村は、それぞれが基本的な政治単位となり、生産のための普通の村落となった。

 これら文化の交わる地帯の村々は、全てが破壊しつくされた時に、やっと平和を手に入れたのである。

 平和がこの村にもたらした最も大きな変化は、窓に現れている。
 銃の穴だった窓は徐々に大きく開かれていった。

 この一帯の村々は、乾隆年間の歴史上に例のない大戦の後、漢族の文化に同化する勢いをますます強めていった。
 そこで、それらの窓の半分以上が漢族政府の建てた郷の役所の窓を真似て、診療所や派出所の窓のように長方形の両開きの窓になり、その窓に三枚のガラスが嵌められた。
 三枚ガラスの格子窓があるのは、ほとんどが政府と関係ある建物で、農家の窓はほとんど正方形に近い両開きの二枚ガラスの窓だった。このような窓は、かえって農家の素朴な様子とよく合っていた。

 建築史家が社会の変遷を考える時、家の目にあたる窓に特に注意を払うのかかどうかは分からない。だが、この地方で、私はこの変化が特に気になった。

 ここまで書いて、また一つ昔のことを思い出した。
 1979年のことだ。

 その時、私は師範学校の実習生として辺鄙な村の学校にいた。

 学校に着いた第一日目、校長は私を訪ねて来て言った。核心校である本校を出発し、歩いて半日程の一つの村へ行って、学校を建てるように、と。
 校長は大変厳粛だった。なぜなら、その村ではこれまでに学校を建てたことがなかったからだ。
 校長は言った。私はその学校の創始者になり、そしてまた、その学校の第一代校長になり、また、仕事に就いてすぐにもう自分で自分に責任を負うのだ、と。

 厳格に言えば、私が新しい学校を建てに行く場所は、村とは呼べないだろう。なぜなら、20数戸の家が20kmばかりの谷の両側の原始林の中に散在しているのだから。

 だが、この当時の村とは自然に生まれた村のことではなく、最も基本的な行政機構だった。

 当時校長が私に準備してくれた開校のための費用は500元だった、と覚えている。
 校長は私を郷の役所へ連れて行き、郷長に引き合わせた。郷長は書記を呼んできて、書記が書類を書き、重々しく郷役場の大きな印を押し、はーっと息を吹きかけて印の油を乾かし、しっかりと封筒に入れて私に渡し、言った。村の書記に渡しなさい、書記が労働力を調達して学校を建ててくれる、この数百元の金は村の書記に手渡せばそれでいい、と。

 今私がこのことを思い出したのは、やはり、窓と関係があるからである。

 郷役場から学校に戻ると、校長は保管係も兼ねているアシ先生を呼んで、私に二枚の窓を受け取らせた。

 いくつかの漢族の言葉はチベット人の間で――たとえそれがチベット族の教師の間であっても――正確に理解されていない。そのため私は、校長は私にアシ先生のところからガラスを受け取らせるのかと思った。
 ところが、アシ先生は保管室のドアを開け、ガサゴソと埃とガラクタを掻き分けて2枚の古い窓を運び出して来たのだった。その時私は、自分の目を疑った。それは古い家からはずしてきた二枚の窓枠だった。そこにガラスは嵌められていなかった。

 校長は私の戸惑いの眼差しを見て言った。
 「これを持って行きなさい。村の木工細工師ではこの様な窓を作れないから」
 私の目ははっきりとこう語っていた。どうしてこのような窓にしなくてはいけないのか、と。

 校長は言った
 「このような窓でないと学校らしくないのだ」

 校長は確かに言った。このような役所の建物にあるような窓がなければ、その建物は学校らしくないのだ、と。
 こう言い終わった時、校長の子供が、家に帰って蜂蜜を採るようにと呼びに来た。そこで校長は手を後ろに組んで帰って行った。

 アシ先生は私の顔をチラッと見て、次に、二つの窓をチラッと見て、何も言わずに帰って行った。

 残された私は、その場でぼんやりと二つの窓枠と向き合っていた。どうやってこの二つの大きな木の枠を数十里離れた谷まで運ぶのだろう。
 私は保管室の入り口に、日の暮れるまでじっとたたずんでいた。

 ついには、この大きな窓枠は、私がどこかの学校の創始者になり、第一代校長になるという夢を打ち砕いた。

 夜、私は一睡も出来ず、早朝に起き出すと、郷電話局の入り口にやって来て待った。ついに番人が起きてくるまで待って、中に飛び込み、電話器のハンドルを回した。
 私の電話の声は、何人もの交換手を経て、幾つもの山を隔てた県の文化教育局に届き、そこの局長とつながった。
 私は言った。私は実習生です。どうやって学校を作っていいか分かりません。
 そこで、局長は私に校長を呼ばせた。校長が駆けつけた時、電話はすでに切れていた。
 校長は再びハンドルを回し、県文教局に繋ぐようにという言葉を何回か繰り返し、局長の机の前へとつながった。

 その後、私は村営小学校を創設するという栄光の任務を解かれた。

 電話を置いてから校長は私に、局長とはどんな関係なのかと尋ねた。私は、何の関係もないと答えた。校長は振り向いて言った。
 「もし何か関係があったら、こんなところに実習に来させされたりしないはずだ。だとしたら、最後に振り分けられるのもやはりここだろう。今年行かなくても、来年正式に任命されたら、また行ってもらおう」

 そこでアシ先生は二つの窓を再び保管室に運んだ。

 一学期が過ぎ、正式にここに配属された時には、校長はこのことを忘れたようだった。
 また半年過ぎた時、私は、公道の通じていないこの学校を去った。去る時この件を話題にすると、校長は言った。
 「見たところ君は学問を愛している。それに、成績もいいと聞いていた。こんなところに来るだけでも可哀想なのに、更に辛い思いをさせるわけにはいかなかったのだ」

 私は本当に聞きたかったのだ。なぜこの二枚の窓を運ばなければいけなかったのかを。
 だがその問題を持ち出すことは出来なかった。なぜなら、私は校長の家の蜂蜜酒を飲んで、あやうく息を詰まらせそうになったからだ。

 これが、小金へ行く道のチベット建築の漢族風の窓によって呼び覚まされた思い出である。

 だが当時の私は、このような連想はまるでしていなかったようだ。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 33 第3章 ギェルモン・ムルド 現実と伝説

2008-11-24 01:23:31 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


5 山神の民たち



 チベット族と漢族の血が何代にも渡って混ざり合い、しかもチベット語がほとんど通じない家で、要領を得ない言い伝えをたくさん聞いた。これらの言い伝えは文化的にはチベット族よりも漢族の民間のそれに近かった。

 客好きな主人は大きな豚の脂身の塊を出してきた。主人がナイフを入れた時、私は丹巴の街から持ってきた二本の白酒をリュックから取り出した。大きなどんぶりに注ぐ。

 どんぶりは囲炉裏を囲む男たちの手から手へと回された。脂身とナイフが私に回ってきた。一塊切り取ってナイフの先に刺し、火にかざすと、火にあぶられてじわじわと油が滴り、炎がぱちぱちと立ち昇って、囲炉裏の周りに並ぶ顔を赤銅色に照しだした。その火は、頭の上に吊るされている煙で黄色く燻された電灯よりも明るかった。

 酒が三巡し、何切れもの脂身が私の腹に納まった。

 主人が言った「驚いたよ。あんた、この土地のモンには見えないな」

 この時、外でトラクターの音が響き、まもなく、ジーンズ姿の青年が入ってきた。高校には行ったが大学には受からなかった息子が帰ってきたのである。

 主人が、今日は運ぶ荷はあったのか、と尋ねた。青年は不機嫌な顔で言った。行っては見たが、道が塞がっていて途中で空で帰ってきた、稼ぎは無しだ、と。

 彼はどんぶりを取り上げて一気に口に注ぎ込んだが、次に回さず、自分の前に置いた。今時の、伝統的な文化が崩れつつある村には、このように態度の悪い若造がたくさん現れている。
 私は酒の勢いで、彼の前からどんぶりを取りあげ、たっぷり一口飲んでから、彼の父親の手に渡した。

 若造の顔色が変った。

 まるでたった今私に気づいたかのように、剥き出した目で私を睨みつけた。私もそのまま彼を睨み続けた。引くわけには行かなかった。

 彼は目をそらし、また一口飲んでから、言った「あんた、どこへ行くんだ」
 私は「ツァンラ」と答えた。
 「ツァンラ?」

 彼の父親が言った「小金のことだ」

 彼は言った「小金なんてたいしたとこじゃないぜ。小金の薬屋が何人かやって来たことがあるが、俺たちに散々叩きのめされたよ」

 それから、人を威嚇するような話をいくつかしてから、私のリュックとカメラを見て言った「北京と成都で騒動があったんだってな。今どこもかしこも、通行止めだ」
 彼は私を大都市から来た人間と思っているようだった

 彼の父親は、粗暴で、都会から来た人間を恨んでいる息子を制止できなかった。ただ私に向かってこう言っただけだった。
 「こいつは酔っ払ってるんだ。相手にしないでくれ」

 私はリュックを片付けて出て行こうとした。

 彼はまた一つ話を持ちかけてきた。
 「道が塞がっててジープは通れないぞ。よかったら明日俺がトラクターで小金まで送ってやるよ。二百元にしとくぜ」

 このような吹っ掛けには、当然乗るわけには行かない。

 終には、彼の父親は彼を部屋から追い出し、私をここに置いてくれることになった。

 次の日目覚めたのが遅かったので、昨日の夜から今までただ微笑んでいるだけで一言もしゃべらなかった老人以外、みな仕事に出かけていた。
老人は茶を入れてくれ、チベット語で言った
 「道でうちのろくでなしに会っても相手にしないようにな」
 私は言った「彼のこと怖がってませんから」

 老人は自分の耳を指して言った。
 「もうだいぶ前から聞こえないんじゃ」
 仕方なく、微笑んで別れを告げ、出発した。

 二時間後、丹巴に戻った。

 招待所で紙を取り出し「野人」という小説を書き始めた。
 書くのに飽きると、招待所の前の曲がりくねった階段を下り、バス停まで散歩した。ここは相変わらず静かで、木陰はひっそりとしており、時間は静かに大地の中にちぢこまったまま、動き出そうとする気配がなかった。 
 そこで、また招待時に戻って、私の「野人」を書いた。

 あの頃、私は旅先の旅館で短編小説を書くのが何よりも楽しみだった。ゾルゲで、理県で、丹巴の県城から50kmと離れていない小金の街で。この小説を書き終えたら、道はまだ開通していなくても、また旅に出なくてはならない。

 旅の中で書くことが、25歳を過ぎてから30歳になるまで、私の生活方式だった。
 あの時私は、この方法が私の人生で唯一つの生き方なのだ、などと考えていた。

 私は出発した。目的地は50km先の小金の街だ。

 出かける前、以前の同僚であり上司であり、そして友人でもある小金県委員会の書記、侯光に電話をした
 彼は、行程の半分くらいのところにある新橋という村で私を待っている、そこはまだ山崩れが起こっていない、と教えてくれた。それから何度も繰り返し言った。村役場に着いたら電話するように、そこで飯を食おう、迎えの車がすぐ着くから、と。

 その夜、県城の空を吹き抜ける風の音を聞きながら、すぐに眠りに着いた。

 眠る前、私の口から出たのは、小金の以前の名前、ツァンラだった。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



阿来「大地の階段」 32 第3章 ギェルモン・ムルド 現実と伝説

2008-11-14 08:24:24 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



4 ある地区の一つの山 その2




 ムルドを神々の主役としたのは、自分たちが何かの中心になりたいという、この地の部族の人々の強い願望の、遠まわしな表現である。
なぜならこの地の人々は知っている。チベットから伝わった仏教の、守護神である山神の序列の中で、位の高い系列にはムルド山神の名前がない、ということを。

 それでも、当地のギャロンの人々は、この東方の山神についていくつかの神話を作り出し、ムルド山を取り囲む大渡河流域に、山々の神が警護する「ネンチン」と「ゴウラ」と呼ばれているような守護神を冊封したのだった。

 ムルド山の周囲の山々を取り囲む大渡河中上流とその豊かな支流は広く「ギャムウォチ」と呼ばれ、河の両岸は「ロン」と呼ばれている。ということは、ギャロンという部族の名称は、地理的な概念であり、ムルド山を取り囲む河に沿った農耕地区を指している。

 ムルド山の険しい山道を歩いている時、私の心に強く刻み込まれたのは、ここはすでに過去の神山になってしまった、という想いだった。
この旅は、自分の足で歩きながら何かを見つけようとするギャロン人にとって、心を締めつける失望の旅である。
 更に西の方、どこかの、一度も神となったことのない雪山に登ったなら、強い心の震えを感じるかもしれない。だが、目の前の、生存する力を失い全身に傷を負った山の姿は、岩の間から採れる灰白色の塩の苦さを思い起こさせる。

 山羊たちは棘の多い潅木の間で青草を探している。それは私たちが頭の中で詩の一行を探すのと同じくらい困難なことだ。

 このような文化的な衰退はムルド山の麓のムルド寺を見ればよく分かる。

 ギャロンチベット区には他で見られるような大きな寺院はほとんどない。だが、寺院はその大小にかかわらず、所属がはっきりしているものだ。第一に、ボン経かまたは仏教か。もし仏教に属しているなら、さらに、ニンマ派か、サキャ派か、カギュ派か、ゲルグ派か。それぞれの宗教、それぞれの教派には、それぞれにはっきりした特徴と教義がある。

 だが、ムルド神の寺で、私は不思議な光景を見た。この寺を外から見ると三つの建物からなる亭閣式建築で、中国式の道教寺院のように見える。チベット建築の特徴はほとんど見ることはできない。

 道観、いややはり、寺と言っておこう。その寺院の正殿の一階に入ると、そこにはムルド山神の像が祭られている。
 もともと、ムルド山神が乗っているのは戦いの馬ではなく、黒いたくましいラバである。山神は黒い毛織物の大きな外套を羽織ってラバ乗っている。更に驚いたのは、ラバの綱が山神自身の手に取られているのではなく、前にいる従者の手にあったことだ。おまけにラバの後ろには、大きな刀を持った武将が従っている。

 どうあってもこれは、私の想像していた山神の姿とあまりにかけ離れている。そしてこれはまた、私が始めて見た、人間によって作られた山神の神像だった。

 同じ階の正殿の西南に千手観音が祭られている。

 二階には漢族が崇める水を治める竜王。

 三階には、更に、漢、蔵が混在していた。漢族の道教が崇める玉皇大帝と、チベット族の人たちがあまねく信じているパドマサンバヴァとツォンカバ、ヴァイローチャナの像がそれぞれ一体ずつ置かれていたのである。

 このような寺院には、チベット寺院に常に見られるような、歴史、文化、芸術のどの角度から見ても高い価値のある、あの壁画を期待することはできない。

 この寺を出た時、私の心には何かを失ったような物寂しさがあった。

 私は決して、復古を主張する、文化に頑なな保守主義者ではない。
だが、このような場所には、ただ、文化の荒廃があるばかりで、その発展は見られない。劣った文化が寄せ集められているだけで、文化の本当の融合と構築は見られない。

 ムルド山の周りの地域は、チベット文化の中でも特色のあるギャロン文化区の中心地であった。だが、現在は、自然界の至る所に開いた傷口とともに、永久に取り戻すことのできない文化の凋落を見るばかりである。

 どの神山にもその山神を崇拝する民が山を巡るための道がある。

 ボン経とチベット仏教の信者は皆、神山をめぐる立派な道、あるいは細い道を一巡りすれば、それなりの功徳を積むことができると信じている。
だが今、この巡礼の道は徐々に荒れ果てていった。

 いや、この場所で、荒れ果てる、という表現は正しくない。荒れ果てるとは、一本の道が、草や蔓や木々の緑によって徐々に覆われていくことである。この辺り、人がめったに踏み入らない山道にはもうそのような現象は起こりえない。

 この辺りの林はもう消え失せてしまった。強い生命力を持つ草でさえ根を張る場所がない。
 強烈な風と雨水が山の表面の土を少しずつ剥がしていき、草の根はもはや掴むものがなく、年を経るごとにまばらになり、枯れ果てていった。
 山羊たちの砂で汚れた舌が、最後にすべてを舐め尽くすのを待っているだけなのである。

 この巡礼の道は、そのはじめは、草や樹や森の中の腐葉土を踏み固めてできたものである。今は、土砂の流失とともに日一日と、その跡を消してゆく。

 私はこのような道を通って神山を参拝したことは一度もないが、古く神聖な巡礼の道がこのような方法で消えていくのを目にして、心の中にしきりに苦いものがこみ上げてきた。

 私は詩の中で、このような苦渋は岩の間から染み出すアルカリの強い塩のようだ、と書いたことがある。 
 このような塩の塊は硫酸ナトリウムを作り、硫酸ナトリウムを使って質の良くない火薬の原料を作ることができる。

 山の麓の家で一夜の宿を借り、次の日丹巴に帰ることにした。
                            

(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



阿来「大地の階段」 31 第3章 ギェルモン・ムルド 現実と伝説

2008-10-31 02:01:10 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



4 ある地区の一つの山 その1

 前回私は、ギャロンの意味は、漢族の地に近い農地である、と書いた。他にも違った解釈があり、大きな河の谷という意味だとも考えられている。

 更にもう一つの解釈が、ここ数年来、研究が進むにつれて多くの人々に認められるようになった。
 この解釈は、ギエルモン・ムルド神山と関係がある。

 そう、私が何回もこの地を訪ねるのは、ただ野人の神秘的で美しい伝説のためばかりではないのだ。

 大小金川は大丹巴で合流した後、地理、そして地図の上で大渡河と表示されるようになる。大小金川と多くの支流が次々と合流していくこの地の山々の中に、雲母と金砂を豊富に含む大きな岩肌の山が聳えている。当地の人はそれをギエルモン・ムルドと呼ぶ。

 ギエルモン・ムルドとは、チベット語で王母または土地の神を意味する。
 また、この地の僧の説では、この単語はチベット語の文章語で、はげ頭が光っているという意味が含まれているそうだ。

 この文字に隠されている意味は、山の麓に立ってみるとすぐ分かる。
 この山の峰は、周りの山々から高く突き出し、岩肌をむき出して天に向かっている。一本の草木もその肌を覆ってはいない。そのうえ、岩の中に雲母が含まれていて、日が射すとキラキラと光る。この輝きによって高く聳えるムルド神山はさらに抜きんでて、大渡河中流地帯の多くの山々を圧倒している。

 この地には、広く伝わっている一つの物語があり、多くの人々はそれを信じてきた。

 はるか遠い古代、神々が常に大地に姿を現して自由に歩き回り、その振る舞いを隠密にはしなかった時代、チベット高原の主だった神山は、数知れぬ峰ごとの万を越す山神を集めた大集会を開いた。目的は席次を決め、隷属関係を明確にし、それぞれが向く方向をきちんと規定することにあった。

 その時、青蔵高原で最も高いヒマラヤ山を中心にして、東西南北の四方を見渡すと、各方面ごとに九万九千の神山があった。各方面の神々が自分たちの代表を選出してこの大集会に参加させた。集会の最後に、文では教えを説く方法を競い、武では武術と力を競って、最後に勝ち残った者を群山の首領とすると決議した。
 集会が始まった時、出席した山神たちにはそれぞれ指定された座席があった。ただ会場の一番上座の龍の肘掛のある玉石に彫り物をほどこした宝席だけが空いていた。出席の山神たちは皆暗黙のうちに、これは勝負によって決まった山々の法王がこれから永遠に座る宝座である、と了解していた。

 発起人であり主催者であるヒマラヤ山神は、会場に空席がないのを見て、山神はすべてそろったと考えた。そこで、祝福の詞を高らかに唱えてから、開会を宣言した。

 突然天が掻き曇り、山神たちが見上げると、東方に一人の山神が雲を駆って飛んでくるのが見えた。山神は雲とともに降りてきた。腰には雲豹の皮を纏い、意気揚々として会場に入り、上座の唯一の宝座以外に空席が残されていないのを目にした。 
 山神は礼をして、他に空席は無いか尋ねたが、すでに着席している山神たちは誰もこの招かれざる客に取り合おうとしなかった。そこで、山神はさっと向きを変えると神々の座席を通り過ぎ、まっすぐに玉の宝座に上がった。

 場内は騒然となった。

 だが、この山神は腰を浮かせて敬意を示し、落ち着いて口を開いた。
 「道理か言えば、弁論によって席次を決め、武術の腕前によって優劣を分けるべきなのは分かっております。だが、下には私の席はなくそれはきっと方々が私にこの席を勧めてくださったに違いありません。方々の好意に背くわけには参りません」
 そう言って宝座から立ち上がり、皆に向って礼をして感意を表した。

 山神たちはこの言葉を受け入れず、弁論を競おうと申し出た。
 ところがなんと、この東方の山神は仏法に対する造詣が深く、また弁も自由自在で、七七四十九日の後、最後の一人もついに敗れてしまった。
 山神たちはやはり納得せず、武術を競うよう申し出た。そこで、更に九九八十一日の戦いを繰り広げた。その間、この山神は様々な神通力と技術を顕した。例えば、太鼓の一面に立ち、思うままに飛びまわり、手で光線を切り取り、それを刀に変えた。このようにして、優れた技を持つ相手を一人一人すべて打ち負かしてしまった。

 そこで、山神たちは心から敬服し、この山神を再び宝座に登らせた。

 彼が宝座に着き、かぶりものを取って感謝の意を表した時、山神たちは彼がはげ頭で、しかもそのてっぺんっがことのほか光を放っているのを始めて目にした。
 群がる神々は思わず口をそろえて言った。
 「ムルド、ムルド!」

 もともと、仏教がチベットに伝わる以前から、釈迦牟尼は天上から雄大に続くチベット高原を見下ろしていた。その東北のある場所から黄金の光が発しているの気付き、更に目を凝らしてみると、自然は美しく気候は穏やかで、人々は勇敢で誠実だったので、いつの日か仏の教えはここに伝わり更に広まるだろうと予言していた。
 
 そのためだろうか、ムルドには、古代のチベット語で、はげ頭の頂が光る、という意味を持っていた。

 だから、宝座を獲得した山神が帽子を取った時に現れた輝く禿頭を見て、群がる山神は仏の予言を思い出し、思わず驚きの声を上げたのだった。

 思うに、この物語は、この地の人々の美しい想像なのだ。ムルド山とその周辺の地域は、おおむね中華の唐宋王朝に相当する時代、ずっとギャロン文化の中心だった。このような中心にいる人々は、壮大な想像をするものだ。そして更に大きな世界から注目を集める中心になりたいと願うのである。

 もちろん、これは美しい希望でしかないのだが。

 清王朝の統治する乾隆年間になると、数十年にわたる悲惨な戦いに敗れたため、ムルドと大小金川はギャロン文化の中心としての地位を徐々に弱めていった。

 さて、ムルド山神の物語を語り終えなくてはならない。

 ムルド山神がヒマラヤから勝利を収めて戻ってくると、集会に間に合わなかったある西方の山神が承服できず、大渡河のあたりまで追って来て、ムルドに勝負を挑んだ。多分、この西方の山神も武力の達人で、そうでなければダルジとは名乗らなかっただろう。ダジルにはチベット語で「金剛のごとく堅固である」と言う意味をもっている。

 ムルドはダルジとの試合を受け入れ、挑戦者からかかってくるように言った。
 ダルジも遠慮せず、剣を抜くと一振りごとに風が起き稲妻が走り、そのままムルドに向って続けざまに斬りつけた。
 剣は火花を放って向ってくるが、ムルドは軽々と身をかわす。剣はムルドの足元の山に振り下ろされ、ムルド山の険しく硬い岩壁は切り取られて、階段となった。

 ダルジ山神は山上へと追っては行かなかった。剣を振るうごとに体が伸びていき、その場に立ったままで、一気に百八回斬りつけた。こうして,ムルド山にはの麓から頂上まで、険しい山全体に百八の階段ができ、山神に参拝する人々が登るための道となった。

 百八回斬りつけられ,ムルドは山頂まで飛びのいた。後ろは深淵のような青い空のみ、もはや逃げ道はなくなった。そこで、微笑みながら言った。
 「百八回打たせたのだから,そろそろ私の番であろう」

 そう言い終わるや、ムルドは弓を一杯に引き絞しぼった。絹を引き裂くような音が響いたかと思うと、ダルジ山神の被っていた房のついた冠が射抜かれて地に落ちた。
 西方から来た挑戦者は驚きのあまり冷や汗を流し、その場で跪いて負けを認めた。

 ムルド山の西北側に一つの峰があり、ちょうどムルド山の方を向いている。身を屈め傍らに付き従っている姿のように見えなくもない。そこで人々は、戦いに敗れた山神の名をこの峰につけたのである。

 ムルド山の中腹から、目線をダルジ山神の峰に移し、更に北を眺めると、丸い小さな山がある。いうまでもなくムルド山神が射落とした冠である。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



阿来「大地の階段」 30 第3章 ギェルモン・ムルド 現実と伝説

2008-10-13 01:33:41 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


3 早朝の法螺貝の音  その2



 「野人の石?」
 ラマはうなずき、こう言った。これは野人の武器である。野牛を打ち、豹を打ち、猪を打つ。一発で命中し、しかも石は獣の額に当たり、だから一発でしとめてしまう。

 ラマはまた、言い伝えにある、ある貧しい一家が富を手に入れた物語をしてくれた。
 この物語はチベット族が好んで使う豹の皮と関係がある。

 当時、吐蕃の大軍がギャロンを征服したばかりの時、軍隊の軍師は皆、斜めの襟につける獣の皮によって階級を区別した。ただし、襟に豹の皮をつけている者は皆勇敢な軍師か戦士だった。
 そこで、豹の皮は男性が何よりも好む貴重なものとなった。

 豹という猛獣は、過去の時代に於いても数の多い動物ではなかっただろう。近代的な武器の無い時代、この猛獣をしとめることは簡単なことではなかったはずだ。 豹の皮は貴重で高価なものとなった。

 その名残で、今でも豹の皮は非常に貴重な物である。いや、昔よりももっと貴重になっている。

 この物語では、野人は麓の村の出戻りの娘を好きになった。出戻りの娘は普通、憤懣やるかたない思いを抱えているように見えるものだ。だが、物語の中ではこのようなやるかたない風情が野人に気に入られたのかどうかは語られていない。

 ある月のない夜、野人は山を降りて来てこの娘をさらって行った。

 野人が山を降りて来るのを見た者はいなかった。次の日、娘の姿が消えているのが発見されただけだ。
 だが、娘の寝床の前に二枚の豹の皮が見つかった。豹の皮には鉄砲で撃たれた跡も、矢で射られた跡も、刀で切られた跡もなかった。
 それは完璧な二枚の豹の皮だった。

 人々は山を見上げ、これは野人の仕業だと考えた。

 娘が野人にさらわれて、野人の洞窟の中で妻となるという物語は、一つや二つではなかった。
 だが今回に限り、娘の家族は良い野人にめぐり会えたのだ。

 その後定期的に家の中のどこかに一枚か二枚の豹の皮が現れた。こうしてこの家族は豹の皮を売って少しずつ裕福になっていった。
 何年か経ってから、屋根の上に二包みの豹の皮が現れ、そのうちの一つに、生まれたばかりの男の赤ん坊が包まれていた。

 この男の子は成長して、体格の良い、穏やかだがとても勇敢な戦士になった。
 豹の戦士と呼ばれた。

 私はこの物語がムルド山のあたりに起こったとは肯定しないし、この豹の戦士の末裔がこの谷あいの山村のどこかにいるとも肯定しない。ただ、野人とは物好きが勝手に作り出した架空の存在なのではないと信じるだけだ。
 少なくとも、昔、この荒涼とした場所がまだ森林に覆われていた時代には、野人は実際に存在したことがあったのだ。

 ここまで書いた時、私と同じ成都に暮らしている蕭蒂岩先生の電話を受けた。ビジネスで成功を収めた夫人の陳女史が街の西部にある駝鳥園でご馳走してくれるという。

 蕭先生は、前にも述べたチベット野人、世界的にはヒマラヤの雪男と呼ばれているものに関する本を出している。また中国野人研究会の副会長でもある。
 そこで私はパソコンを閉じ、喜んで招きに応じた。

 駝鳥園にはやはり、ヤクよりも大きな駝鳥が飼われていた。私たちは傍らの建物の中でお茶を飲みながら楽しい時を過ごした。
 その間私は何気なく先ほどの野人の石のことを話題にした。

 蕭先生の細いが表情豊かな目が、突然輝きを増した。「あなたは本当にその石を見たのですか」
 「それは本当に野人の武器ですよ」

 蕭先生は言った「私は長年野人の研究をしているが、見たことはない。だがそういうものがあるというのは知っている」

 先生の話では、それは多分硬い火打石である。野人は常にその石を腋の下に挟んでいて、獲物を見つけると投げつける。百発百中でしかも額の中心に命中する。どんな動物もこの猛烈な一投に遭ったら、生きては帰れない。石を投げると、野人はそれをまた拾って腋の下に挟む。日が経つにつれ油や汗が滲み込んで、私が見たようなものになるのだという。

 この物語については、あのラマは何も話してくれなかった。

 ギャロンで、この地域の風習の成り立ちやこの狭い地域の歴史の源を知りたければ、このようなパズルをしなくてはならない。
 ある場所に一回行っただけで全てのピースを手に入れたり、寸分違わずきっちりと仕上がることを期待してはならない。
 チベット族の地域、特にギャロン地区の地方文化史を研究しようとする者は、永遠にこのようなパズルをしなくてはならないのである。

 これはもちろん、ただ野人の伝説に限ったことではない。

 ギャロンという部族の名前でさえ、長い年月を費やしてもまだ、はっきりと結論を出せないでいるのである。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)

阿来「大地の階段」 29 第3章 ギェルモン・ムルド 現実と伝説

2008-10-01 01:01:23 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


3 早朝の法螺貝の音  その1
 
 法螺貝の音がひとしきり響き渡った。

 紅い衣の僧が、あまり大きくはない寺の、土を塗った平らな屋根の上に立っている。手にしているのは大きな左巻きの法螺貝だった。

 私は寺に向った。
 胡桃の木を迂回し、寺の前の小さな石の橋を渡り、大きな門が目の前に現れた時、あの紅い衣のラマはすでに寺の門の前に立っていた。昨晩火が盛んに揺らぐので、朝占ってみたところ、今日賓客が来ると知った、と言った。そうして、腰をかがめ両手を平らに並べて、中へ入るよう促した。彼は私を本堂の隣の棟へ案内した。

 強烈な太陽の下を長い間歩きまわった後なので、部屋に入った時、目の前は暗闇だった。手探りで腰を下ろすと、ラマがほっぺたを膨らませて息を吹いている音が聞こえた。すると、部屋の中央に赤黒い火がゆっくりと輝き始め、まず炉を照らし出し、それから火に掛けられた薬缶を照らし出し、薬缶からぐつぐつという音が聞こえてきた。
 ラマは熱いお茶を私の前に差し出した。その頃には目も慣れて、すべてが見えるようになっていた。

 ラマは言った。「ラマというものは貧しく、寺も狭いのです。どうぞお許しください」

 「あなたの寺は由緒があり、しかも神の山のすぐ下にあります。まして私は特別な客などではありません」

 彼は私を繁々と見つめ言った。
 「あなたの目は多くのことを見通しておられます。今は世の中が変りましたが、もし早くにお生まれになっていたら、きっと出家され、すばらしい学問を成し遂げられたことでしょう。あなたは特別なお客様です」

 考えてみれば、もし五十年代以後にチベット族の社会に大きな変化がなかったなら、私のような文字と戯れるのが好きな人間は、僧侶になる以外に書物と関係を持つことはできなかっただろう。
 だが、歴史にもしもはない。そこで、大きな変化が起こった後、私と、私と同時代の人々は、それぞれの場所で、国家が運営する漢語を教える学校へと入学した。

 私はついに漢語を生業とするチベット族の一人となった。よく考えてみるとこれはなんとも興味深い状況である。
 
 茶を二杯飲んでから、私はついに野人のことを持ち出した。
 
 ラマは笑った、そして言った。
 「どうして寺についてお尋ねにならないのですか。ほとんどの方はそうされるのに…」

 私はこの簡素な寺を見まわし、首を振った。この寺は簡素でありながら、また非常に複雑である。この寺に住んでいる者でもはっきりと説明できないのではないだろうか。このことについては後でまた討論することにして、私はやはり野人の問題を取り上げた。

 彼は立ち上がって言った「そのことについては私も少しは知っています」

 私は尋ねた「この山には野人はいたのですか」

 彼はうなずいて言った「いましたとも」
 すると、彼の顔になぞめいた表情が表れた「少しお待ちください、いいものをお見せしましょう」
 そう言って彼は鍵を一束取り出し、出て行った。

 私はこの隙に部屋の中を観察した。
 部屋は新旧不揃いな板で出来ていた。板の上には印刷された仏像と、経典の中の物語絵が貼られていた。この物語絵はすべて「百喩経」から採られたもので、どれも釈迦牟尼が成仏する前に経てきた、輪廻の物語だった。

 だがここは、元々は仏教と熾烈な戦いをしてきたボン経の中心地であったのだ。

 ムルド山の百八の洞穴から掘り出された伏蔵と、次々と建てられたボン経の寺院が、仏教の進出によって退歩を迫られていた局面をくつがえし、青蔵高原の東北の辺境であるこの一帯をボン経の中心地としたのである。そして、経典を持つようになったボン経は広く伝わってゆき、この一帯の文化の発展をさらに推し進めた。

 思考がこのように頭の中を巡っている時、ラマが戻ってきた。

 彼の表情は先ほどと同じで、異常なまでに謎めいていた。私は先を急ぐ人間ではなかったので、静かに彼を見つめた。

 彼は懐から黄色い袱紗に包まれたものを取り出し、私の手に乗せた。
 目を凝らしてみると、その絹の袱紗はたった今包まれたばかりのようだった。黄色い袱紗は上等な絹で、厚みがあり水のように滑らかな光を湛えていた。寺以外では目にすることのできないものだ。袱紗が徐々に開かれ、中から丸くすべすべした石が現れた。

 石の大きさは卵より少し大きいほどだが、かなりの重量感があった。
 新しい袱紗とは異なり、石はかなり古めかしかった。ただの石ではないのが分かった。全体が油を塗ったように黒く、手の上でただならぬ光を放っている。

 ラマは言った「これは私たちの寺を守る宝物です」

 私は笑った。ラマのまやかしに対してである。
 ここは仏教の寺だ。イスラムの寺院ではない。イスラムのメッカのある寺院にだけ、寺の守りとして黒い石がおかれている。それは一つにはその石が空のかなたの別の星からやってきたからであり、また、イスラム教は偶像崇拝をしないからである。
 だが、仏教、特にチベット仏教では、複雑で膨大な神々のほとんど一つ一つに具体的な偶像があり、様々な地で祭られている。また、それぞれの寺にはその位と来歴が掲げられていて、少なくとも一つや二つ寺を守るための宝があるはずだ。その宝とは、いわれのある仏像か、さもなければ、多くの金銀宝石を散りばめた活佛の霊塔である。

 石を宝としている寺など、私は今までに聞いたことがない。たとえこの石がただの石とは大いに違っていたとしても。
 それは他の石よりも、より重く、より黒く、より丸く艶やかだった。

 ラマは私が興味津々と見て取るや,満足げに笑い、言った。「これは野人の石です」



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



阿来「大地の階段」 28第3章 ギェルモン・ムルド 現実と伝説

2008-09-24 01:24:02 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




2 山の神の軍馬と弓矢 その2

 ここ数年、神の山に近い村落を巡り歩く時、年月を経たルンタの版木を手に入れたい、と強く願うようになった。

 厚くて硬い梨の木の板には、名もない絵師の高い技術が残されているのだが、今に至るまで私のこの想いは満たされていない。
 私はこれまで収集の趣味はなかったが、なぜかこの古い版木には特別に心を惹かれる。もちろん収集欲を満足させるためではない。

 ただこんなふうに考えてみる。
 ある暖かい春の日、花の開く頃、どこかの雪山のふもとに青く澄み切った湖を見つける。湖の縁には小さな氷河があり、氷河と氷河の間には絨毯のようにやわらかい青々とした草地が広がっている。そのような風景の中、私はそこに座り、版木からルンタを刷りだし、風に乗せて高く舞い上がらせる……

 だがそれは私の想像でしかない。
 この世ではあまりに美しすぎる想像である。

 モアルト山に近づいた時、またルンタに対するこのような想像が浮かんできた。

 私の心の中にこのような、実現しなくてもかまわない、美しい想像がたくさん残されているようにと願っている。

 この土地を愛しているのなら、このような想像は自然に生まれてくるだろう。

 このような想像の中には、月の光の下で伝説の野人と遭遇することも含まれている。
 ある日、上等の酒と踊りのうまい美女を伴って、野蛮で学習に餓えている野人と月の光の下で出会うのである。想像の中では、私は罠を仕掛ける竹の筒も、冷たく光る刀も持っていない。

 もちろんこれもまた、想像の想像でしかないのだが。

 モアルト神山に向う山の中では、私はどうしてもこのような想像にとらわれずにいられない。そして、このような想像によって、群がる山の中をさまよう時間がより空想的で詩的なものになってゆく。

 太陽が少し高くなって、上空の霧があっという間に消えた。青い空の下、高く低く聳える山々を仰ぎ見る。ただそれだけで、登るつもりはない。
 この重要な神の山には、きっと尋ねるに値する貴重なものがたくさんあるのだろうけれど。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



阿来「大地の階段」 27 第3章 ギェルモン・ムルド 現実と伝説

2008-09-21 02:47:34 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)






2 山の神の軍馬と弓矢 その1


 パタパタとはためく五色のタルチョを高く差し上げている杉の棒は細く長く、先端は鋭い矢尻の形に削られている。そして、この棒は一年に一度山上の寺に参拝する祭の時に、山の神に奉納された矢なのである。

 山の神は既に年老いている。年老いて、一千年の歳月よりも遥か彼方の神秘の域に達している。だが、雪山のふもとで暮らす黒い頭のチベットの民は、依然として、山の神は今でも威風堂々と風馬を駆って天と大地の間を巡行している、と信じている。
 山の神は勤勉である。そのため人々は、年に一度の祭に弓矢を奉納するほかに、絶えず軍馬を届けなくてはならない。

 山の神の軍馬は、弓矢よりも更に象徴的な意味を持っている。

 それは紙を一枚一枚版木にのせて摺りあげるのである。
 山の神の軍馬はタバコの箱より小さな四角い紙の上に摺りあげられる。紙の周囲はチベット文字で描かれた呪文や吉祥八宝の図案で縁取られている。
 
 吉祥八宝とは、チベットの各地にある宗教的な意味のあるものや、人々の生活でよく見かけられるもので、法螺貝、珊瑚、シャコ貝、如意などと決まっている。
 これら数種類の単純な図案も、異なった場所、異なったものの上で、生き生きと、重複することなく組み合わされると、人々に無上の感動を与える。人類の知恵はある種の硬直した規則の中でも、絶対的な自由を得られるのだと感嘆させられる。
 規則の中の自由は、往々にして束縛された中でほっと息つくようなものである。だが、このような自由は境界のない世界と同じように、伸びやかで気持ちがよい。

 それは、騎手たちが山の中で風に向って風馬を撒く時の、山々に鳴り響く雄叫びのようだ。そして雄叫びは、白や赤や緑、黄、そして様々な色の小さな紙片へと吸い込まれていく。

 山の神の馬はこの四角い紙の中央にいる。
 風馬を印刷する梨の版木は、年を重ね幾度となく使われてきた。そのため、馬の体の輪郭はぼやけ、南画や拓本のような古びた味わいがある。

 このような紙を風馬――ルンタと呼ぶ。

 車でも馬でも、あるいは徒歩でも、峠を過ぎる時、私達は胸の奥深くから原始的な力を呼び起こし、その力で長く息を吐き、一掴みのルンタを何度も何度も風に向って撒きあげる。
 ルンタはそれぞれに舞い上がり、天空を駆け巡り、風に乗って四方へ散らばり、青い山に溶け込んでいく。紙片がすぐに足元に落ちてこずに、風に舞いあがれば、山の神に新しい軍馬が届けられたことになる。

 ここ数年、木版で刷られたルンタは日に日に減少し、ほとんどが、印刷工場で印刷された、鮮明な印刷物になった。インクの色が豊富なため、ルンタは黒一色から赤や様々な色へと変っていった。
 私はアバ州の首府、マルカムで十年以上文化部幹部として働き、しょっちゅう印刷所に出入りして、整理された民間文化の資料を印刷してきた。その時、まもなく使われなくなってしまうだろう旧式の印刷機が、連日連夜稼動してルンタを印刷するのを目にした。

 一頁印刷すると、数百匹のルンタが完成する。

 もし、この時代に山の神たちがまだ様々な悪魔と戦っているとしたら、神々に捧げる軍馬が足りなくなるのではといった心配は、もうしなくてもよいのだ。

 印刷業が発達したため、ギャロンチベット族の地域では、チベット族が営んでいる小さな店には一包みになったルンタがいくつも売られていて、峠を通って行く人は一二元のお金を出して、真四角に縛られた大きな塊のルンタを買うことが出来る。

 ルンタがこのように簡単に手に入るようになったので、多くの人が集まる集会などでは、気分を盛り上げるために、何万枚ものルンタを撒くようになった。 

 もちろん、この時のルンタにはルンタ本来の意味はない。
 山の神がこのような情景を見下ろしたら、がっかりして腹を立てるかもしれない。
 民間に伝わる伝説では、山の神の多くは、力と技はすぐれているが、同時にケチで心が狭い。神々は怒ると、守護している民に災難をふりかけ、その存在を知らしめるのだという。 



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 26 第3章 ギェルモン・ムルド 現実と伝説

2008-09-09 01:02:43 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



1 東方の神の山 その2



 ヴァイローチャナが生きていた吐蕃の時代、大軍の討伐を目前にして、文化と宗教の同化は、それに伴って始まった。仏教は吐蕃の軍人、貴族、僧侶が到着するのに伴って、日毎に広まっていった。

 これは、万物に霊験があると信じる原始シャーマニズムであるボン教にとって、大きな挑戦だった。ボン教は時代の変化に適応するため、自らを改造し、仏教のやり方に習って自分たちの経典と、神々の体系を創り出し、数多くあった原始的な祭壇を寺院へと改造した。

 私たちが現在目にするのは、このように改造された後のボン教で、白ボンと呼ばれている。

 言い伝えによると、ボン教は仏教の経典に倣い、「十万龍教」などの大規模な経典を著した後、それをどのように世に出したらよいかということが大きな問題となった。もし突然、自分たちは経典を手に入れたと公表したら、仏教徒のあざけりの種にされてしまうだろう。仏教徒たちは、ボン教の高僧は物まねの名手だとあざ笑うだろう。

 ついにすばらしい、神秘的色彩を帯びた方法が考え出された。

 彼らは新しく作った経典を塔の中や、風水に優れた場所に埋める。そうしてから、ボン教の師が神降ろしの時に宣言する。あそこに、ここに、千年以上も姿を現さなかった経典が埋められている、その経典には天啓である知恵の言葉が溢れている、と。

 この知恵の言葉を求め探し出した者は、蒙昧な人類に大いなる光をもたらした者として人の世に永遠にその名をとどめ、天の国で永遠の命を得るのである。

 埋められ発見されるのを待つ経典には特別な名前がある。伏蔵である。

 この時代の多くのボン教の僧は生涯をかけて至る所を訪ね歩いた。いくつかの伏蔵を見つけるためだけにである。こうして特別な商業僧が現れた。掘蔵師である。

 言い伝えによると、ムルド山には百八の洞穴があり、そのどれにも偉大な伏蔵が埋められている可能性があるという。一時期、大金川と小金川に囲まれたムルド山には、掘蔵師がまるで雲のように集まっていた。

 もしかして、まさにその時から、ムルド山の名前が知られるようになり、人々に信仰され、拝礼されるようになったのかもしれない。

 ムルド山を訪れたとき、一人のラマがまじめな顔で教えてくれた。ムルドの山の神は今から千二百数年前のチベット暦馬の年の七月初旬に生まれた、と。
 私は多くのチベットの山の神を訪れたことがあるが、このように具体的に山の神の生まれた日を聞いたのは始めてだった。

 私の顔にいぶかしげな表情が表れたためだろうか、ラマは話を止め、茶を継ぎ足
し、喉を潤してからまた話し続けた。

 私は、ムルド山の神になぜ誕生日があるのか尋ねた。
 彼は私に尋ね返した。釈迦はもっとも偉大な神です。その釈迦牟尼にも誕生日があるのはなぜでしょう。
 私は答えられなかった。

 教義からいえば、山の神は調伏された神である。
 例えば、チベットで一番知られている山の神ネンチンタラはバドマサンバヴァに調伏され仏教の守護神になった。

 だが、ムルド山はこのような守護神の体系には入っていないようだ。
 そして、山道で偶然に出会ったこのラマは、教義に精通し土地の故実に深い造詣を持っている人物ではなく、ただ山で祈りのために燃やす柏の枝を集めていただけなのだ。

 昼ごろ、彼は仕事の手を止め、さらさらと流れる小川の近くの草地で茶を沸かし、自らをねぎらった。

 私の後ろ、尾根近くの道にはマニ塚があり、そこにたくさんのルンタが捧げられていた。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 25 第3章 ギェルモン・ムルド 現実と伝説

2008-08-09 21:32:21 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



1 東方の神の山 その1



 昔のギャロンについて、ある神の山から語り始めよう。

 この山は、私が丹巴の県城に着いたその日からすでに目の前にあった。目線が大渡河を超えた時、北岸の折り重なる山々の間から、最も高く聳えるその頂が銀色に輝いているのが目に入る。

 この山をギェルモン・ムルドという。

 ギェルモン・ムルド。チベット族本土の宗教ボン教の中で、それは有名な神の山である。チベット族の膨大で煩雑な神の山の体系の中で、最も東にある神の山だ。一般的に、このような山の神はすべて戦いの神である。
 人々が山の神に祈りを捧げ崇めるのは、間の戦争が頻繁に起こった時代に、山の神から超人的な戦いの能力を授けて欲しいと願ったからである。
 そして、ムルドの神は幾度も奇跡を起こし、人々の望みを叶えてきた。

 私達はもうギェルモン・ムルドが東方の神と崇められた昔に遡ることはできない。
 だが、吐蕃の大軍が大渡河の中流や上流に攻めて来た頃は、ボン教はこの一帯ですでにかなり盛んだった。

 ボン教はギャロンの人々の間で、歴史の段階ごとに、二つの異なった形態を表していた。一つは仏教の挑戦を受ける前の原始のボン教。民間では黒ボンと呼ばれる。教団の権力を握る僧侶は多くの場合呪術師に近い役割を演じていた。当時のボン教はそれほど大きな寺院と系統的な経典を持ってはいなかった。

 仏教が伝わってから、ボン教の地位は厳しい挑戦に脅かされた。

 前の章ですでに触れた伝記的な人物、ヴァイローチャナ。彼はギャロン地区へのチベット文化の伝播に優れた貢献をした。
 ヴァイローチャナはチベット仏教史上最も早く出家した七覚士の一人として、ギャロンでは放浪者の身分だったが、西の仏の言葉を伝える使者として忘れられることはなかった。

 当時の人々は、仏の教えはまだ文化的に未開だった人々を目覚めさせ、知恵と光をもたらした、と考えた。
 ヴァイローチャナという法名にも、そこにはこのような使命という意味があったのである。現在でも、人々は当然のことのように、ヴァイローチャナがムルド山にやって来て、裾野まで雲に覆われた山の洞穴で法力を顕し、洞穴の岩の壁にはっきりとした手の跡を残しのだ、と語っている。

 空がぼんやり晴れてきた頃、私は丹巴の街を出て、雲母の砿区を通り、大渡河橋で大渡河を渡り、小金川に沿って北上した。

 二時間後、美しく穏やか村が緑濃い谷間に現れた。これがムルド山の主峰の麓のユエザ村である。

 ちょうどその時、羊の群れが村から出てきた。私は羊飼いを呼び止めてムルド山の状況を聞いた。だが、彼女よく分からないといった表情だった。そこでヴァイローチャナの名前を出した。すると彼女はにっこりして、先ほどから見えている木々で覆われた山の中腹を指差した。
 羊たちはメエメエなきながら山へ登っていき、湿った黄色っぽい泥道の上に、小さくはっきりとしたひずめの跡を残していった。

 村の周りには大きな胡桃の樹が聳え、河岸の台地は青々とした麦畑である。果樹や麦の苗はたっぷりと露が置かれ、早朝の清らかな光にキラキラと輝いていた。
 しばらくして、カッコウのゆったりとした鳴き声が聞こえてきた。

 ここの建物は、途中に見られた埃っぽい土の家とは違っている。このあたりから、典型的なギャロン風の二層または三層の石の建物が現れる。扉の上の横木と窓の縁に魔よけの白い石英が現われる。扉の上の横木と窓の縁にはまた、鮮やかな色彩の絵と浮き彫りも見える。石の建物の山形になった壁にはさらに、白い色で卍と金剛橛の図案が白で描かれている。

 金剛橛は密教の中で重要な法具である。もし私の推測が間違いでなかったなら、金剛橛はパドマサンバヴァが雪域に仏教を伝えに来た時、チベットの地に伝わり始めた。そして、ギャロンにこの図案をもたらしたのはヴァイローチャナだろう。

 このような村が、本当のギャロン人の村である。

 だが、この村を通った時、ギャロン語を流暢に話す若者とは出会わなかった。もちろん彼らは自分たちの母語を聞き取ることはできる。ただ、話すとなると少し難しいようだった。そのため、計画していた聞き取りを続けることはできなかった。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



阿来「大地の階段」 24 第2章 大渡河に沿って歩く

2008-07-15 01:36:15 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




6 乗客のいないバス停 その2


 野人は誘惑に駆られ、手に持ったトウモロコシを捨て、少しずつ火の方に近づいて行く。

 この時農民ははかりごとに長けた狩人になる。この狩人は酒を飲み雄たけびを上げながら、次の演出に必要な道具を準備する。空洞にした太い竹筒と鋭利な長い刀である。

 野人は火のそばにやって来ると、好奇心旺盛で、真似事の好きな子供に変る。

 野人は、狩人の真似をして酒の入った茶碗を持ちあげる。だが、野人は酒を飲んだことがない。酒を飲み干すと、胸の辺りが燃えるように熱くなる。この時、狩人は歌いながら胸をたたく。野人も真似して胸を叩き、狩人よりも太い声で吼える。

 狩人は簡単なステップの踊りを踊り始める。

 この時アルコールは狩人の頭に充満している。空がぐるぐると回り始める。空の月も星も回りだす。
 野人は笑う。
 野人はこの時やっと、トウモロコシを植え自分が収穫に来るのを待っている農民が、なぜぐるぐる回っているのか理解する。空でぐるぐる回っている月と星を追いかけているのだ。

 そこで野人も、狩人の真似をして回り始める。

 野人は思う。ぐるぐる踊りはなんて素晴しいんだろう。自分の大きな体も浮き始めた。もう少し回ったら天の上まで飛んでいけるかもしれない…

 狩人は二つの椀に酒を注ぎ、大声で笑いながら一杯飲み干す。
 野人も飲み干す。

 胸の火は更に盛んに燃え上がり、空の回り方がどんどん速くなる。踊りは踊るほどに楽しくなる。狩人は、野人の胸の火がまもなく体の外に逃げていくのを知っている。そこで刀を取り上げ自分の胸に向け、刀で服を跳ね除け、大声で笑いながら火を捧げ持つ。

 ほとんどの場合、野人も真似して刀を取り上げ胸を切り裂き、笑いながら…、だが残念なことに、野人が取り出すのは火ではなく自分の心臓である。

 野人が真似をしない場合もある。その時は野人に続けて酒を飲み、踊るようにしむけておき、野人と戦う準備をする。
 力では、十人の狩人も一人の野人にかなわない。だが、人間には知恵がある。そこで、もう一つの道具が登場する。太い竹筒である。竹筒は狩人の両手には太いが、野人の両手には細すぎる。

 狩人は竹筒を自分の手にかぶせ、踊り、野人の前に近づいていく。

 野人は狩人を真似て、両手を無理やり竹筒の中に入れる。野人の手がついに中まで入る。その時、狩人は竹筒から軽々と手を抜き取る。だが野人の手はきつく挟まれたままだ。仕方なく狩人のなすがままになる。
 狩人は笑いながら鋭利な刀を抜く。
 野人もつられて大笑いし、目を見開いて刀が自分の胸に刺さっていくのを見つめる。

 これは、面白おかしくはあるけれど、じつは血なまぐさい物語だ。
 どうして野人を殺すのか、本の中から知りたかったが、そのことについては触れていなかった。
 昔、私が聞いた物語の中でも、語り手は説明しなかった。

 今、私はこの問題を老人に聞いてみた。老人は首を振って言った。

 「この物語はわしが子供の頃大人から聞いたものでな」
 
この七十歳の老人も、本当の野人を見たことはなかったのだ。

 だが、私にはやはり分からない。なぜ人間はこんなに手の混んだことをして、自分たちから学ぼうとする野人を殺さなくてはならないのか。この学生がある日、自分たちを乗り越えるのを心配したわけではないだろう。
 では、人間はこの人熊と呼ばれる生き物の肉を食べようとしたのだろうか。本当にそうだとしても、野人の伝説が広く伝わる地区に三十年暮らした私でも、まだ一度も人熊の皮を見たことはないのだ。

 誰か人熊の肉を食べたことがあるのだろうか。
 老人は答えた。
 「人熊の肉は生臭いそうだ」
 それなら食べた人がいるということだ。

 老人は私をちょっと見て、腰からキセルを取り出し、がん首をほじってマッチで火をつけ、言った。
 「ヒトはな、ヒトの肉を食ったことがあるんじゃ。何だって食ってきたんじゃよ。あんた、ヒトがカラスを食ってるのを見たことはあるか。んだが、みんな、カラスの肉は酸っぱいという話は聞いておる。馬の肉は汗臭いというのも知っているじゃろが」

 この日の午後まで待っても、バスはまだ動きそうになかった。そこで私は次の日に出発し、大・金川両岸の聞きなれた名前の場所を訪ねることに決めた。これらの地名が、昔、ギャロンが繁栄していた時代を思い起こさせるからだ。

 ギャロンの中心は、時代の推移に伴って、つまり、情勢の変化に伴って一度大移動した。移動が起こる前は、丹巴、大金川のある金川県と小金川の途中の小金県がギャロンの中心だった。

 ただし、その時代、金川県と小金県には今のような漢語の名前はなかった。

 この二つの地域のチベット名は、ツーチンとツェンラだった。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 23 第2章 大渡河に沿って歩く

2008-07-09 00:27:22 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




6 乗客のいないバス停 その1

 長距離バスのターミナルの前は、それほど大きくない広場だった。

 広場の端には例によってかなり太い杉の木が積まれていた。積み上げられた木材の上に座ると、向かい側は大小金川の合流する河口である。

二つの河が交わる時、とても静かで、水煙や水しぶきがあがったり、水音が轟いたりしない。ただ、二つの水が交わる時、突然広さを増した河の表面に、一つまた一つと巨大な渦が起こるだけである。
渦の力はかなり強く、河に漂う大きな原木を直立させ、原木はそのまま回転しながら渦の中心でまっすぐに河底へと引き込まれていき、そのまま、百メートルも離れた所で再び姿を現す。

 多くの人が河岸の石の上に立って、釣りをしている。

 それは私が見た中で最も疲れる釣り方だった。

 釣人の持つ竿はとても長く、針には餌が付いていない。釣り人は一時も休まず釣り糸と釣り針を水の中に投げ入れ、それから間髪を入れずに竿を戻す。釣り針を水中で素早く移動させて魚の体に引っ掛けるのである。
 大渡河、そしてそれとほとんど平行して流れる北の岷江にはマスの一種がいて、大きさは五百グラム前後、とてもおいしい。
 餌なし針をゆすって釣っているのはこの魚である。

 丹巴に滞在している間、午前中は野人について書いた本を持って河辺に座り、釣りを見ていた。

 午後、谷では決まった時間に風が起こる。風が強い時や向かい風の時は息ができなくなるほどだ。
 そうなったら、招待所のベッドに横になり風の音を聞き、青蔵高原の獣医薬書のページをめくる。
 その中の多くの植物は私が小さい時から知っている。名前は分かなくても見たことがあるものばかりだった。そして、それらの薬草は、野山にある時の露を含んだ姿で、私の目の前に現れた。

 例えば、あやめに似たイチハツ(鳶尾草・とびおくさ)。  
 青いイチハツの花は青蔵高原の大家族で、様々な海抜の場所に生息している。
 だから、この医薬書の中にある解熱解毒作用のある万能薬・イチハツ膏は、イチハツの種から作られているが、必ず異なった海抜のイチハツを混ぜて作らなくてはならない、というのを今でも良く覚えている。

 暑さが厳しく、乾燥し、風の強い大渡河の谷で、最もよく見かけるのは様々な種類の桜草である。

 そして、丹巴では、午後の光の中、強い風が通りのごみを掃き清めていく。風は土埃を空いっぱいに巻き上げる。土埃はどんな小さな隙間にも入り込む。深夜、風は徐々に収まっていく。湯飲みの中、飲み残しの茶の底には、キラキラしたものが沈殿している。茶碗をゆすってみると、キラキラしたものは茶碗の中の液体全体にゆきわたり、漂い、キラキラと光り続ける。
 この薄い破片はこの辺りにたくさん含まれている鉱物、雲母である。

 県の中心から1km離れた所は、県の中心よりずっと管理の行き届いた鉱山区である。
 雲母は、このように植生が失われ風化によって破壊された山で採掘される。

 経済学の書籍や経済学者によると、工業の発展は工業自体だけでなく、その地域全体の経済発展を促すそうだ。
 だが、実際の生活では、特に私のこの本が描いている地域では、私が見たのはそれとは違った光景である。そもそも、この工業そのものが、野蛮で遅れた工業である。もしかして、こういった工業は遠い場所で繁栄をもたらしているのかもしれない。だがここでは、もたらされるのは破壊された自然であり、工業は依然として大多数の人々の生活とは無関係なのである。
 
 たくさんの雲母が巨大な山から採掘され、その一部は原始的な採掘方法のため使い物にならず捨てられ、最後には風の中の塵となり、早朝の残された茶の中に再びその存在を現すのである。

 三日目、広場の隅に座って蕭氏の本の中のチベットの野人に関する物語を読んだ。

 その物語はヤルン・ツアンポ河流域、ヒマラヤの山の中から伝わった。

 細切れの野人の物語を読んで私はとてもびっくりした。なぜなら、この河の上流の私の故郷にもたくさんの野人伝説があり、その野人伝説とこの本の中のヤルン・ツアンポ河流域の伝説があまりにも似ていたからだ。例えば、ある一つの物語。

 収穫の頃、野人は森の近くのトウモロコシ畑に降りてきて、トウモロコシを折ってしまう。その頃畑には猿と猪と熊も降りてくる。
 そこで、農民たちは、簡単に動物たちに盗まれてしまう畑の周りに掘っ立て小屋を立てる。
 熊と猪に対しては猟銃を使う。群れを成して来る猿には銃では間に合わないので、ガンガンと響き渡り、余韻の長い銅鑼を使う。野人に対しては少し面倒だ。だが、それはとても面白い方法である。

 野人が降りて来た時、見張り役は酒を取り出し、飲みながら歌い踊る。

 物語の中の野人は生まれつき楽観主義で娯楽第一主義の動物である。この様子を見て、普段は人目を避けている野人、いや、この地方の方言では野人を野人とは呼ばない、漢語に直訳するなら「人熊」と呼ばなくてはならない。この人熊は普段は滅多に姿を見せない。どのような動物も人を避けるが、人熊も例外ではない。

 だが、秋の畑で、人熊がトウモロコシを盗む時、作物を見張っている農民は銃を撃たないし銅鑼も鳴らさない。火を囲んで酒を飲み歌を歌う。炎に映し出されるのは手を振り足を踏み鳴らす楽しそうな姿である。

 警戒心の強い人熊は、始めは酒を飲んで歌い踊る人たちを遠くから見ている。
 そのうち持っていたトウモロコシを手から離し、少しずつ火の方に近づいていく。

 あの日、丹巴県城の、大・小金川の交わる場所の、積み重なった木材の上で、一人の青年にこのような物語を聞いたことがあるかどうか尋ねた。
 彼は首を振った。
 その時、木材の山の後ろから一人の老人が現れた。先に書いた旅館の女のような、チベット式、漢式混合の格好をしている。しかも過去と現在が一緒になったようなスタイルだ。老人はキセルを腰帯に挟んでいて、強烈なタバコの匂いのする息を吐きながら、手で円を描いた。

 「ちょっと前、この辺の山が柏や杉の林だった頃にゃ、林に野人がいたんじゃ」

 現在ここはつるつるの禿山となり、野人のいる可能性は異星人のいる可能性よりもはるかに少ない。
 私は空を見上げた。もちろんテレビや新聞が盛んに報道しているような円盤は現れず、目の前にあるのは心の中を空っぽにしてくれる藍色だけだった。

 そこで、もう一度野人の物語に戻ると、老人の語った物語と私が知っている物語とはまるで同じだった。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)