塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 46 第4章 ツァンラ

2009-06-21 15:51:44 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



7  土司の伝記  その一 その5




 私は向きを変えて図書館に入り、漢文で記された清代の朝廷の記録に助けを求めた。

 「清実録」に集められた、ツァンラとツーチン土司がわずかな領地と十数万の民をもって全盛期の清王朝に対抗した歴史に関する記録は、5、6冊分ほどもあった。
 だが全ては、強力な軍隊を率いて討伐に向う将軍の上奏文と、皇帝が自ら下した命令である。
 これらの頻繁な公の文書のやり取りの中で、天地を揺るがす戦い、大小金川という地の様相変えるほどの戦いもまた、ぼんやりした情報となってしまった。

 我々はただこれらによって大体の輪郭を知るしかない。
 やむを得ず、再び魏源の記録を引こう。

 「皇帝は兵たちに、先に小金川を討ち、大金川の罪を述べないようにと命じた」

 皇帝は怒りを滾らせ、戦いに敗れた後で、冷静さを取り戻し、真剣に事に当るようになった。

 「5月、桂林は薛等将兵3000に5日分の食糧を携帯させ、墨壟溝に入った。退路を立たれ我軍は救いを求めたが、桂林は挟み撃ちに駆けつけることなく、全軍が敗れる事態となった。泳いで帰ってきたものはわずか200人余、桂林は身を隠して報告せず、弾劾された。そこで、阿桂を桂林の代わりの参賛大臣として南へと向わせた。
11日、阿桂は夜、皮船で河を渡り、要害の関所を奪い、そのまま匪賊の巣窟を叩いた。12月、軍は美諾に至る。センゲサンはすでにその妻と妾を大金川に送っていた。自らはツェワンのいる底木達へ向った。ツェワンは門を閉じて入れず、そこで、美臥溝から大金川に逃げこんだ。我軍は底木達に至ってツェワンを捕らえた。また、ソノムにセンゲサンを捕らえて献上するよう命じたが、応じなかった」 

 ここにいたって、ツァンラ土司の全領土は陥落した。

 乾隆帝は大軍に続けて大金川へと進むよう命じた。
 
 最後には、この戦いは大清王朝の勝利をもって終わりを告げた。
 そのため私たちが検索できる資料はみな勝利者の記録である。もし、敗者側の記録と反応を見ることができたら、更に興味深いものになるだろう。

 だが、それは今のところ一つの空想でしかない。もしかして、この想いが実現する日が来るのかどうか、それも分からない。地方史の専門家が我々のために更に詳しく更に感受性のある資料を探して出してくれるように期待している。今はただそう言えるだけだ。
 我々は永遠に期待している。

 だが、現在の状況はどうかといえば、我々がこの地を歩いた時には、昔のチベット族の地名の多くは、新しい漢語の地名に変えられていた。

 乾隆40年12月、大金川の戦いは終わった。

 乾隆41年1月、乾隆帝の詔が下り、小金のツァンラ土司と大金川のツーチン土司は永遠に排除された。

 大金川の領地には阿爾古(アルコ)庁が設けられ、小金川には美諾(ミンリャン)庁が設けられた。
 小金川の美諾庁の下には八角、汗牛、別思満、宅壟(ザイロン)の村が設けられた。

 聞くところによると、二つの金川の戦いが終わった後、両地の領内にはギャロンチベット族の民は1万余しか残っておらず、多くが女性や子供や老人だった。
 だが前に述べた二度の戦いの記憶も新しく、清王朝はこれを戒めとして、残された人口の大部分を戦いで功のあった土司に分け与えた。

 残った一部の女性は、戦いに勝利した後もこの地に駐留した漢族の兵に従って、ごく自然に、当地の妻となった。
 これら一部の人々は、気候が穏やかで農耕に適した大小金川の谷間で子孫を増やして行き、チベット・中国の血統と文化の混ざった豪放で頑強な文化地帯を生み出した。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




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