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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 67 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2010-11-09 02:43:08 | Weblog
6、村から街へ その3

(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)






 澄んだ河の水は休むことなく雪のように白い浪を躍らせている。
 この河があるから、河に沿って作られた細長い山の街に、異なった様式の三つの橋ができた。橋があるから、街は自然に区域に分けられ、人為的な連携ができあがった。

 中国人が都市の構造上で最も理解できないのが区分けであり、区分けが理解できないと当然連係が理解できない。中国人の連携とは、すべてのものを一つに纏めることなのである。

 四川省のもう一つのチベット自治州の首府で、数年前のある日、洪水による大きな被害が発生した。
 聞くところでは、本来ならこの被害は避けることが出来たはずだという。 
 だが、そこである人物が突然おかしな発想をしてしまった。
 内陸部ではすでに大きな危険性が知られている、湖や海や河の要の場所に対する処置を、悲しいことに、ここで再び繰り返すことになった。

 彼らは、莫大な費用をかけて、街を突き抜けて流れる急流の上にコンクリートの蓋をして、その蓋の上に市場を作ってしまったのである。

 設計者の想像の中では、河は永遠に彼らの思い通りに蓋の下を流れていくはずだった。
 だが、自然界が重んじるの、政府とも違う、人知とも違う規則である。
 そこで、洪水が起こったその時、洪水と洪水が運んで来た木や石が、太さに限りがある河の通り道を塞いでしまった。洪水は地面にあふれ出し、もとからあった道路や居住地として計画された街に氾濫した。私はテレビで災害の後の光景を知った。

 本来なら、洪水が起こらないとしても、河を塞ぐべきではない。河のもたらす広がりのある空間と、その流れが街にがもたらす特別な美しさを拒んではいけないのだ。

 なぜなら、中国の辺境の街が美しいのは、それを作り上げた人々が特別な計画を立てデザインしたからではなく、周囲の自然が与えてくれる何ものにも変えがたい美しさによるのだから。

 私の故郷、マルカムも同じである。
 街の中にはわたしたちが自慢すべき特別な建物は何もない。

 街をぬけて流れていく梭磨河の、四季によってリズムと音階を変える水の流れは、住民の誰もが耳を傾ける自然の音楽である。
 河岸の柵に凭れて一心に耳を済ましてみれば誰も、絶え間なく変わっていく自分の想いに、河の音がぴったりと答えてくれているのに気づくだろう。

 河と向かい合っているのは山である。山は川の両側に聳えている。

 そこにあるのはふるさとの原野と森林の作り出す風景である。
 特に河の左岸の、高い山頂から麓まで一面の森林で、四季の移り変わりによって刻々と変わる風景は、街で生活している誰もが、見上げさえすれば鑑賞できる一幅の巨大な絵画なのである。

 冬、もの寂しげな林の中で、太陽に照らされてきらきら輝く残雪。落ち葉は地に横たわり、雪の積もった大地を風が駆け上り、駆け下りる。

 春が来る頃には野の桃の花があたり一面咲き誇り、続いて柳が芽吹き、その後に、白楊、そして樺の木が、河の縁から山の頂上へと競い合うかのように緑に染めていく。

 5月、最も低い場所にあるつつじが一斉に開き、そうして、その濃い陰が山を覆う夏となる。

 夏は美しいが故に、あっという間に去っていく

 最も心に残るのは、秋の山である。滑らかな斜面一面の白樺の黄葉は、一年のうちで最も澄みきった光の注ぐ中、この世で最も煌めいて透明な喜びと想像を私の心に残していく。

 今回私が戻って来たのは、緑まぶしい夏だった。すべてはまだ昔のままだった。
 ほんの少し変化があるとしたら、それは、街を歩いている人がよそよそしく感じられることだろうか。多くの友人が私と同じようにここを離れていくことを選んだのだから

 もしある場所から家族と友人がいなくなってしまったら、そこが自分の故郷であっても、見知らぬ場所と感じられてしまうだろう。

 マルカムだけでなく、ギャロン地区のどこでも、この半世紀ほどであわただしく作られた街では、若い頃は誰もが抱く沸き立つほどの熱情は日々薄れていき、発展と覚醒の緩やかさが、社会の中の生き生きしたものを抑えつけていき、そして、多くの若者はここを離れることを選択した。

 私もその中の1人である。

 人々の群れは私の目には馴染みのないものに映っているが、人の流れが刻んでいるおっとりとしたリズムは、昔のままだ。

 それは、青年たちから先取の精神を失わせるリズムであり、健康的な社会では排除されてしまうリズムである。

 だが、強い日差しが街の傍らのニセアカシアの木に降り注ぎ、埃だらけの柏の木に降り注ぎ、そこから生まれる大きな日陰に、私は知らぬ間にうとうとと眠気を誘われてしまうのだった。。

 私が熱愛する街は、まだ私を待ってくれている。
 だが、どのような契機が訪れればここの人々は自分たちの前途とこの場所の前途に真剣に向き合って、活気を取り戻せるのだろう。

 それは誰にも分からない。




阿来「大地の階段」 66 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2010-10-05 17:13:39 | Weblog

6、村から街へ その2


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



 新しくできた街が、四川盆地から青蔵高原へと徐々に高くなっていく谷間に姿を見せる時、その街はどれも粗雑で横暴な印象を与える。
自然界を前にして謙虚な姿を見せることが出来ず、周囲の自然や文化と協調的な姿になることが出来ない。いや、もともとそのようなことは考えたことがないのかもしれない。

 だが街に入る手前の村は、それとは逆に、周りの山や水と一つになった慎み深さと静けさを永遠に保っているかのようだ。

 私は思う。
 どうして梭磨河の流れるあたりで、ギャロンの村々は特別に美しくなるのだろう。

 私が自分にこのように問いかけてみるのは、梭磨河が私の故郷の河であるからだ。そのため、特別な想いいれが邪魔をして、客観的ではない判断をしているかもしれないと、心配になるからだ。

 だが、今、私は信じることが出来る。それは、まぎれもなく客観的な判断である、と。

 マルカムという街は、中国では、ほとんどの場合、知る人の少ない場所である。
 だが、そのような場所であっても、中国のあらゆる街へ入っていく時と同じように、街と農村をつなぐあやふやな周辺地帯がある。

 このあやふやな一帯は、身元のはっきりしない流民たちの仮の棲み家であり、また、意識の隅にある記憶の破片のような、あまり重要ではない団体の拠点である。
 流民の仮の棲み家と、葬り去られながらも永遠に存在する拠点は、独特の景観を作り出す。
 そこにある建築物は、決まって大雑把で、古ぼけて、しかも計画性に欠けている。
 壁の隅から雑草が生え、排水溝にはゴミがあふれ、夏にはハエやカの天国になる。

 そこは都市の掃き溜めである。街を追われた者たちが三日と経たずに現れる場所である。
 そこは中国の街と村の間にあって、第三の運命を持った絶望的な景観を作り出す。

 街が大きければ、このような場所も当然大きい。街が小さければこのような場所も小さくなる。そうやって、常にその均衡が保たれている。

 マルカムという、半世紀の歴史しかない街に入る時も、状況は同じである。

 道路の両側に低く埃にまみれた建物が現れる。
 少し大きいのは使われなくなった工場、流行遅れの製品を作っていた工場跡である。
 狭く雑然とした作業場もある。
 そこよりも広い、小さな村のような一塊の建築群は、かつてはどの谷にも散在していた、伐採場の監督所である。
 今は、大渡河流域の伐採され尽くした山林と同じように崩れ落ち、荒れ果てている。

 ここでは、何もすることのないたくさんの人間が、河岸に並ぶバラックの簡易旅館の前に座って、ここまでは出来上がっている、でこぼこの公道をぼんやりと眺めている。
 天気の良い日には、アスファルトで舗装された公道も、以前と同じように土埃を巻き上げる。

 この情景はひとつの予言である。

 予言は告げている。
 根拠のない繁栄は瞬く間に終焉し、名づけようのない自らへの憎悪の中で世の中から忘れ去られていくのである、と。

 地球上にこのような場所がなければいい、と願う。自分の故郷にこのような場所が存在しなければいい、と願う。
 なぜならこのような場所が増えれば、そこにはまた一群の人々、自分の運命を決められない一群の人たちが現れることになるのだから。

 この場所を思い出すこと、それは心の中の永遠の傷なのである。

 マルカムも中国の他の街と同じである。

 このようないたたまれない場所を通り過ぎると、多くの人が心血を注いで営んできた、明るく清潔で、かなりの賑わいを見せる中心部が現れる。

 この中心の部分は、当然、美しい。

 この美しさは、もちろん、ニューヨークやパリや上海とは比べ物にならない。
 思い込みとも言える、われわれの誰もが認めたものを基準とした場合の清潔さであり、相対的な風格、相対的な賑わいである。
 例えば、野外の運動場、例えばデパート、例えば新華書店、例えば政府の建物が集まる行政センター。

 そして、マルカムの美しさは、なによりも、街を流れる河にある。

 中国の多くの都市には河や他の水系がある。だがそれらはほとんど汚染されている。
 もしそれらの水が汚染されていなかったら、われわれの河は自慢するに値しないだろう。
 
 だが、中国の有名な河と水がすべて深刻に汚染されている今、我々は、街を勢いよく流れる河の澄み切った美しさを誇りに思っていいのである。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





阿来「大地の階段」 65 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2010-09-24 03:37:12 | Weblog

6、村から街へ


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 卓克基から梭磨河に沿って下っていくと、その9kmという短い道のりの間に、河の両岸に美しいギャロンの村が一つまた一つと現れてくる。

 査米村という石の集落は山の斜面に寄りかかるように一塊になって、胡桃の樹の大きな日陰に涼しげに覆われている。
 村の前の広いアスファルトの道を車がけたたましく行き来するが、すぐそばにあるこの村は、何事もないかのようにひっそりとしている。深々とした日陰がいくつも重なり、辺りには果物の淡い香りがただよっている。

 更に下っていくと、河の向かい側の谷間の台地は、更に低く、広々としてくる。

 開けた畑の中では、ギャロンの家々が美しい点景となる。

 壁に巨大な日月同輝の図案や、宗教的意味合いを持つ金剛や、擁忠と呼ばれる卍の法輪が描かれた石の家が、黄色く熟した麦畑と青々したトウモロコシ畑の間に顔をのぞかせている。

 果樹園、麦畑が石の集落の周りを囲み、小さな集落は大きな集落を取り囲み、周辺にある集落は中央の集落とつながっていく。
 こうして、阿底と呼ばれる村が出来あがる。

 次に現れるのは査北村、その次に現れるのは、人々に忘れられたかのように名前がなく、だが、だがそのため却って穏やかに存在している村である。

 これらの村は、過ぎ去った時代、ただ一面の荒野でしかなかった。
 だが、今世紀の後半、ギャロンでは土司の姿が政治の舞台に現れ、そして消え去り、、歴史の重い幕が降ろされた。
 土司たちの姿が再び現れ、統一戦線の相手役として現代の政治の舞台に上った時には、過ぎ去った時代のすべては、彼らにとってもぼんやりとした幻となっていた。

 歴史は一度幕を降ろし、もう一度幕を開けた。
 強いライトに照らされたそこには、以前とは違う真新しいセットが用意されていたのである。

 この午後、私が通り過ぎたいくつかの村の中だけでも、1950年代から90年代にかけて、新しい建物が次々と現れ始めていた。

 兵営、学校、ガソリンスタンド。林業局と呼ばれる実際は伐採の労働者の根城。防疫所と呼ばれる場所は、この土地から天然痘とハンセン病を消滅させた。

 今、様々な名目の建物が大量に現れている。これらの建物は、この土地の景観を変えつつある。
 だが、少なくとも今のところ、街から遠くない村の中では、ギャロンの伝統的な建物が、ギャロンの地の景観の基本の姿を今に伝えている。

 私はこのような伝統的な姿がいつまでも続いていて欲しいと願っている。

 だから、私がここで一つ一つ文字を連ねているのは、ちょうど、建築の職人がレンガを一つ一つ積み上げていくのと同じ気持ちなのである。
 だが、その文字はつまるところは一冊の本という形をとるだけで、この土地の景観に変化を与えることは出来ないのだ。

 今はデザインの時代である。
 チベット族の中から新たに育ってきた優秀な人材の中で、その方面で仕事をしている仲間が、近頃話題の民族文化を現実のものにして欲しいと願っている。

 そして、この地に新しい形の建築が現れて、私たちが作り上げた街を、外観をも含めて、この地の文化にそぐわない、まるで別のものにしてしまわないようにと願っている。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





阿来「大地の階段」 64 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2010-07-18 03:52:57 | Weblog
5 梭磨河 本当のギャロン



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


 ジープが谷を抜け出した時、そこで車を停めてもらった。
 運転手は不思議がった「マルカムへ帰るんじゃなかったのかい」
 私は言った「ここでちょっと休んでいこうと思って」
 
 運転手の目には、私の行動への疑問がありありと浮かんでいた。

 私が車から飛び降りると、彼はリュックを背負うのを手伝ってくれた。
 私はそこに立って、まだ不思議そうにしている運転手がエンジンをかけ、車がすさまじい音を立てて動き始め、車の後ろから舞い上がる土埃が私を覆い隠すまでの間のことを見ていた。

 埃が全て納まってから私は再び足を踏み出し、ナチュ溝の最後の1kmを進んで行った。 この1kmの道はこれまでの全ての谷と同じように急な角度で下へと下っている。

 私がどうしてこんなに確かに距離が分かるのかというと、それは、1kmを示す道標が渓谷に近い道端に建てられているからだ

 この1kmは私にとってとても重要である。
 この3000歩は重要な過程であり、私をゆっくりと自分が本当に帰属する場所、故郷へと近づけてくれる。この3000歩は、美しい物が本来の姿を失いつつある世界の中で、ギャロンの昔からの美しさを保っている田畑や村へと、少しずつ近づけてくれるのである。

 私の後半生でここを離れている時間は長く、帰って来たとしても、それはほんのしばらくの間だけだろう。

 公道に沿った急な流れの淵に、小さな草地とまだ若い胡桃の樹々がある。
 ギャロンを旅する時、道端に胡桃の樹を見かけたら、それはすでに村に近づいているという証拠である。

 続いて、もう一つの、よく知っている風景が目の前に現れた。
 それは小さなダムである。

 コンクリートの用水路、コンクリートの堰、黒いレンガで出来た機械室。水が堰を超える時、小さ人工の滝となり、そこから、電線が目には見えない電力がギャロンの一つ一つの村に届けられるのである。

 これと対照的なのが、ダムの少し下流の、伝統的な粉引き小屋である。
 石でできた低い壁、平らな泥の屋根の上にはびっしりと雑草が生えている。粉引き小屋の上流の木の水門は閉まっていて、木の樋に沿って流れてきた渓流の水は堰き止められ、そこで扇形の水しぶきをあげる。

 ダムと粉引き小屋を通り過ぎ、山道を曲がり険しい岩壁の陰から抜け出すと、目の前が一気に開け、西索(シースオ)という名のギャロンの村と、梭磨河が流れる広々とした谷が現れる。

 私の目線は河岸の辺りの西索一帯に翻るタルチョと、木の瓦と石の板で覆われた屋根を越えて、河の対岸にむけられる。

 対岸は、地理学上では沖積台地と呼ばれる地形の典型的な形状をしている。
 千年何万年にも及ぶ河の流れは、それぞれの高度に大小さまざまな扇形の堆積を残している。一つの地質の時代が始まると、河の流れは深く谷を削っていく。ある深さまで削り取ると次の何百年から千年の間は穏やかに流れ、両岸に平らな台地を堆積させる。そして、また次の地質変動の時代を待って再び谷を深く侵食して行くのである。

 地質学者は、河の水が浸食していった地球の表面の一つ一つの断層を、一冊の巨大な本の中の情報量の豊かな一つの章と考える。
 この地の住民はそのような理屈を知る由もなく、彼らはただ代々受け継がれてきた労働によって、この幾層にも重なった台地を肥沃な畑へと開墾してきたのである。

 現在、村はこちらに一つあちらに一つと、この台地の良く肥えた畑と森林の周辺に散在している。

 このような台地は段々と下に下っていき、楊柳と白柳が影を落とす河岸の辺りまで続いている。
 このような広々とした谷では、河の水は浸食によって広い河原を形成し、金を含んだ砂と滑らかな小石を敷き詰めている。洪水の時には、河の水は広い河原からあふれ出て、河岸に襲いかかっていく。

 梭磨河にかかる花崗岩の橋の上で歩みを止め、四方を見渡す。

 風は上流から吹いてきて私の背中に吹き抜ける。風は強くないが十分な力を持ち、私の着ているシャツがパタパタと幡のような音を立てる。

 河の下流は東南へと向っている。水は高原の光の下、どこまでもキラキラと耀いている。

 河の左岸は山の懐の斜面にもたれるように並ぶ西索村である。

 村の裏手には、緑を湛えた山が迫っていて、屋根の上に清らかな白い雲が二つ三つ浮かんでいる。
 尾根の辺りでは、険しかった斜面も緩やかになり、潅木の林は山の上の草原へと移っていく。草原では村の牛や山羊が放牧されている。

 ギャロンのどの村も、午後のこの時間帯が一日で最も静かな時である。
 子供は学校に行き、働いている大人たちはは村から最も離れた場所にいる。
 村の中では厚い木の門に銅の錠前がかけられている。鍵は静かに金属の冷たさを帯びてどこかの壁穴の中に静かに身を潜めている。
 家の中のいろりの火は消され、火種はそっと灰の中に埋められている。銅の壷の中の水や、缶の中の牛乳は、静かに考え事をしているかのようだ。

 外では、果樹の木陰で猟犬が昼寝をしている。
 小さな菜園ではちょうど実をつけた山椒の木の下に、にんにく、ねぎ、香菜、唐辛子が植えられている。これらはみなギャロンの農民がよく使う調味料である。

 村に入るまでもなく、このような親しみ深い光景を目にすることができる。大きな金色のひまわりがまだ盛んに咲いている菜園もあった。

 近頃は、屋根に美しい花を咲かせている家が多い。この時期盛んに咲いているのは花期の長いヒメジオンである。より美しいのは、野から採ってきて植えた赤、黄色、象牙色の百合の花である。

 これらすべては、私の良く知っている、そしてこれからも永遠に愛し続けていく光景である。

 村はナチュ河の対岸にあり、そのため、流れの上に小さな橋が現れるのは、必然のことである。ただし、今では、村の前に架かる木の橋はすべて以前より広く丈夫になったている。なぜなら、以前は橋を渡るのは人と牛と馬だったが、現在、ほとんど一家に一台トラクターがあり、毎日自分の家まで運転して帰ってくるからである。

 これらのすべてを、私は川風が強く吹き抜ける橋の上に立って見ていた。

 大きな河の右岸では、この公道ともう一本の公道が交わっている。そして、その公道のあたりで、台地が一層また一層と積み重なっていって、私の目の及ばない高さまで続いている。台地は白い雲が寄り添っている山頂まで積み重なり、そこにもやはり田畑と村がある。

 大きな橋を通り過ぎ、河の流れていく方向へ更に8km進むと、そこが私のよく知っている山の中に開けた街、すべてのギャロンの心臓、明かりの燃え盛るマルカムである。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)

阿来「大地の階段」 63 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2010-06-28 01:44:37 | Weblog
5章4 昇っていくのか下っていくのか  その2


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





 二次林の主体は低い灌木で、その中で松や杉はとても孤独に見える。
 森林学者は、このような二次林がもう一度破壊にあったら、その山々は永遠に元には戻らないだろう、と警告している。

 四川盆地を後にして、大渡河と岷江の河岸を歩くたびに、土石流の無残な痕跡をそこかしこに残している荒涼とした山や野を見かける。
 それこそ森林が一度ならず伐採にあった最後の姿なのである。

 このような二次林はすでに、水を蓄え、風土を保ち、気候を調整する機能を大幅に後退させてしまった。一度ならず、いくつかの場所で農民が私にこう言った。森林が斧によって消されてから、山の中の気候は年を追うごとに把握しにくくなった、と。

 夏の雨と冬の風はますます激しくなり、農民の収穫にとって一番大きな影響を与えるのは、森林の減少につれて夏の洪水が毎回いとも簡単に河の水を溢れさせるようになり、冬になれば、それとは逆に、四季を問わず水を湛え水量の安定していた渓流が、累々と積み重なる巨石をさらすだけになってしまうことである。

 また、山の中でとうもろこし、冬小麦、ジャガイモに頼って暮らしている農民にとっては、森林の気温調整作用がますます弱まり、秋に霜の降りるのが以前よりも早くなったことである。霜害のため多くの作物は完全に成熟することが出来なくなった。

 カルナという村で、農家の主人が囲炉裏の中から良く焼けた粗引きの粉で作ったモモを取ってくれたが、手に取ると、ふにゃふにゃした感じがした。

 主人は私の不思議そうな表情を見て、すまなそうに言った。
 「ここではもういい香りのする小麦粉が食べられなくなってね」

 私はどうしてかと尋ねた。

 女主人は顔を赤らめた。まるで全てが彼女のせいであるかのように。彼女は小さな声で言った。
 「麦がよくないんですよ」

 ここもまた二次林が山を覆っている村だった。

 主人の説明を聞いて私はやっとその訳が分かった。
 毎年、麦が乳熟する時に霜害に見舞われてしまうのである。そのため、麦は突然成熟の過程を止め、急速に枯れて行く。一年一年、農民の収穫時期は早まってきた。だが、共同広場で脱穀した後、保存用の櫃に収められるのは、萎びて形の悪い麦の粒ばかりである。

 このような麦を挽いて出来た粉からは、もはや光と土の良い香りは漂ってこない。そして小麦粉特有の粘り気が失われている。
 囲炉裏の中でよく焼かれても、象牙のようなおいしそうな色にはならない。

 私は何軒かの農家で、あの美しい色を失った小麦粉でできたモモを手にした。
 両手でそっと割ると、中は真っ黒な塊で、漂ってくるのはもはやおいしそうな麦の香りではなく、カビが生えて腐っていくものを思い起こさせる甘く饐えた匂いだった。
 思わず眉をひそめそうになった。

 口に入れるが、なかなか飲み込めない。
 ついには、申し訳なさでいっぱいの女主人がにんにくと唐辛子を持ってきてくれてやっと、小麦と呼ぼうとすれば何とか呼べる物でできた食物を無理やり腹に収めることができた。

 私が背負ってきたリュックの中にはもう少しましな食べ物があったのだが、申し訳なくて食べることはできなかった。
 私はただ一度か二度このような物でしのげばよい。だが、彼らは来る年も来る年も辛い耕作に励んで、その後に期待できるのは、このような収穫なのだ。

 この家の汚れた顔の、だが目は泉のように輝いている二人の子供が、大きな口を開けてこの食べ物にかぶりついているのを見た時、私の心は針で刺されたように痛んだ。

 だが、このことで役に立たない涙を流したりしたら、それはあまりにも自分勝手な思い込みと言えるだろう。

 私はラサのある集まりで言ったことがある。私のギャロンの旅は発見ではなく、追憶であると。
 今私は、本当にその通りだと気づいた。

 今回のギャロン大地の旅は、時間があまりにも少なく、また、旅行のための旅行と言ってもいいものであったので、本当に何の発見もなかった。だが、全ての草や木々が私をどこまでも絶えることのない思い出に誘いだしてくれた。

 甘く幸せな思い出、辛く苦い思い出、夢のように遠くて近い思い出!

 重要なのは、自分がこのような思い出を大切にしているということだ。

 でこぼこの公道を絶えず跳びはねながら走るぼろぼろのジープに乗って、谷の両側にどこまでも続く緑を眺めている時でさえ、たくさんの記憶の中の情景がそのままの姿で、くり返し私の目の前に現れて来た。

 しばらくして、後ろに埃の尾を長く引きずりながら、ジープはナチュ溝を走り抜け、ゆったりとしたリンモ河が目の前に現れた。

 そこに広がるのはこれまでとはまた異なった風景であり、それこそが本当のギャロンなのである!

 車はそのままずっと下に向って滑るように降りていく。

 だが、成都を離れて十数日かかって、私はやっと高原へと登り着いたのだった。或いは、青蔵高原へと通じる一つの段階へ登り着いたのだ、と言ってもいい。

 そして目の前の道はまだそのままに下へと向っている。
 実際に、リンモ河のある谷底まで降りて行ったとしても、それでも、海抜2,800メートルはあるのだ。

 私は下って行くことによって、すでに登り着いていた。もしくは、登っていくすべての過程の中で、ほんのしばらくの間下っていた。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)






阿来「大地の階段」 62 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2010-05-21 02:11:14 | Weblog
5章4 昇っていくのか下っていくのか  その1



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 次の日、朝早く出発した。
 それは夏だった。夏の野山では、木の葉の上、草むらの中、あらゆる緑の上に朝露が結び、震えるたびに光を煌かせていた。

 それは私が何よりもよく知っている光である。

 早朝の野山は、少しひんやりした澄み切った空気の中、一面に静まり返っていた。風もなく音もなかった。

 尾根の後ろの、まだ姿を見せない太陽が徐々に高く昇り、あたりはすこしずつ明るくなる。

 私は葉をいっぱいにつけた枝を持ち、歩きながら振り回す。行く手の露を払うためである。そうしているのに、わずかの間に、靴は早くも冷たい露で湿っていた。

 このような静寂の中にいると、本当の朝はまだ始まっていないかのように感じられる。

 本当の朝は、真っ赤な太陽が山の尾根から勢いよく顔を出したその時から始まる。

 太陽はまるで突然尾根の上に躍り出たかのように、一瞬のうちに鮮やかな金の光を解き放つ。全てはそのほんの短い間に光を受けとめて、キラキラと輝きはじめるのである。まるで頃合をはかったように、森の鳥たちもまた、太陽が光を放ったその瞬間に、突然声をそろえて歌い始める。

 その時、ようやく、正真正銘の新たな一日が野山に訪れるのだ。

 山の麓にたどり着き、再び公道の硬い砂利の路面を踏んだ時、草や樹の上の露はすでに乾いていた。

 公道は谷底の渓流に沿って更に広い谷の方へと下降していく。
 そしてこの急角度で下降していく谷に向って、更に多くの小さい谷が下降してきて、ここで全てが一つになる。このような集合は森林が育んだ多くの水の集合でもある。下に向かって行くほどに谷は開けて行き、谷を流れる河は少しずつ大きくなっていく。

 一台の車が猛スピードで近づいてきた。手を挙げると、急ブレーキをかけて停まった。たちどころに、後方の土埃が舞い上がり、車も人も全てがその土埃の中に包まれる。
 車に飛び乗ると、エンジンが一瞬うなり、舞い上がった埃はそのまま置き去りにされた。

 運転手はその時やっと私に笑いかけて言った。「あんたが山から降りて来るのを見かけたよ」
 では、昨日の夜、彼はナチュ村に泊ったのだ。

 彼がタオルを差出してくれて、私はゆっくりと顔の汗を拭いた。
 運転手は更に尋ねた「どこへ行くんだね」
 私は言った「家に帰るんだ」

 間違いなく、私は家に帰る途中なのである。

 夏の盛りのせいだろうか、山の中の植物は数年前より豊かなように感じられた。

 この細長い谷間は、かつて207号という番号で呼ばれた伐採場だった。
 遠く離れた貧しい村から来た多くの農民が、ここで作業服を着、鋭いのこぎりを手にして、あっという間に労働者へと変身した。
 あの時代、どこの谷間も伐採の労働者の数のほうが当地の土着の民の数よりも遥かに多かった。
 今、森林資源の枯渇に伴って、彼らは永遠に去って行った。そのため、これらの谷間はゆっくりと生命力を回復し始めている。

 もちろん、伐採する前の森林と伐採された後の森林の間には大きな違いがあるのだが。

 伐採前、この森は常緑の針葉樹の天国だった。
 主要な部分は、低い所から順に、アカマツ、銀ねず色の樹皮のトウヒ、紅柄色の樹皮のツガ、樹皮の上に一塊一塊松脂を染み出さているモミである。

 これらの天を突くような樹々の間で、丸みのある葉を茂らせている落葉樹は美しい点景となっていた。
 例えば、シラカバ、シラカバより高いキハダカンバ、カエデ、サワグルミ。

 更に、山の麓の谷からモミの林より更に高い場所まで、這うように咲くツツジは、5月の谷底から始まって7月の山頂までずっと花を付け、一夏を賑やかに彩っていた。

 このような群をなす喬木が存在していた頃は、夕方近くなるといつも、山中に潮が満ちる時の波音かとまごう木々のざわめきがこだましていた。
 だが、今の森林はすでに、熱い生命力を滾らせたごうごうといううなりを発しなくなってしまった。

 私の目も、記憶の中では特別に広い場所を占める、巨大な傘を広げたような広葉樹の樹冠を見ることはほとんどなくなった。

 目の前にある、このような伐採の後再び生長してきた林は、森林学者の間で特別な名称がある。二次林である。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)






阿来「大地の階段」 61 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2010-04-28 23:42:06 | Weblog
5章3 星空のもとに眠る その4




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 私はかつて宗教史研究家と地方史の専門家と一緒に、アワンザパが仏法を伝え寺を建てた道に沿って、その足跡を辿ったことがある。
 私は地方史や宗教史の専門家ではないし、またそのような専門家になりたいという望みも、学術上必要な修練の経験もない。
 私はただ精神が伝わっていく過程を辿ってみたかったのである。

 実際に目にしたものは、想像していたものとそうかけ離れてはいなかった。

 多くの伝説の中でかつて彼が寺を建てたとされている場所は、今では生い茂る草木が残っているばかりで、いくつかの場所では、荒れ果てた草むらの中に廃墟や崩れた壁が見え隠れしていた。
 そう、このような情景は私の想像とぴたりと重なり、歴史の流れとも符合していた。

 事実、アワンザパが建てた寺院の中で、確実な場所が見つけられるもの、あるいは今でもギャロンの地に残っているものは、三十あまりのみである。

 最後の一つの寺はチャカから百キロほどの大蔵郷にあり、寺の名前は大蔵寺(ダチャン寺)という。

 「ダチャン」とは、完成、功徳円満の意味である。
 つまり、アワザンパが大蔵寺を建てた時、彼は誓を全うし、功徳を円満に成就したのである。
 大蔵寺は、私が訪ねたアワザンパが建てたと伝えられる寺院の中で、最も壮麗なものではないだろうか。
 だが、たどり着いて仰ぎ見た時、そこは広大な廃墟でしかなかった。

 古い歴史を持つ寺は、文革によって跡形もなく破壊されていた。

 そして今、目の前の、山の奥深くにひっそりと建つチャカ寺も、文革という大きな災禍から逃れることはできなかった。
 聞くところによると、紅衛兵たちは完全な姿で残されていたアワザンパの遺骨を霊塔から引きずり出し、踏みつけにした後、草むらの中に投げ捨てた。その後、信徒達はそれらをまた霊塔に収めたという。文革が終わってからやっと、再び改めて供養することができたのだった。

 強烈な午後の日差しのもと、大蔵寺の巨大な柱の残骸に座り、つる草の間に散乱している色鮮やかな壁画の破片を見つめながら深く思いに沈んでいたのを、今でもはっきり覚えている。

 その後、大蔵寺の管主が国外から帰って来て、寺を再建した。

 この寺の近くで生まれた私の友達は、この寺の復旧工事の様子を逐次伝えてくれた。
 また、この管主の権威と財力に就いて多くの人が話題にしているのも耳にした。

 ある程度の時が過ぎ、ついに、寺院の再建が滞りなく達成されたという知らせが伝わって来た。
 落成の式典はかなり盛大なものだったようだ。信徒が続々と集まっただけでなく、政府関係者や記者、西洋からの参列者もあった。

 だが、私はその盛大な式典に出かけることはしなかった。

 アワンザパが寺を建立した当時、それらの寺はどれ一つとして、このように華やかではなかったはずだ。
 当時、彼は異教徒の敵対的な眼差しに囲まれて仏の教えを伝え、教義を説いてまわっていたのを知るべきだろう。

 大蔵寺で盛大な式典が行われていた数日、私が思い出していたのは、この静謐な場所だった。霊塔のことはほとんど思い出さなかった。
 目に浮かんだのはあの草むらと草むらの中の柏の樹、そして柏の樹の下の澄み切った湧き水だった。

 そして今夜、星空の下、柏の樹の枝が風にそよぐ音を聴きながら、満天の星の輝きの中で、一人の古人、一人の賢人を思っていた。

 彼が最後に目を閉じたのも、このような星の輝きのもとだった。
 もちろんそれは、中世の星の光ではあるが、だが、宇宙全体からみれば、一千年の時の流れなど大したことではないだろう。
 
 そう、今夜空を満たしているのは、涙のような星の光、宝石のような星の光である。

 このように澄み切った夜に空を見上げると、星の光は、まるで針のように私の心の秘められた場所を突き刺し、振るわせる。

 柏の樹の下で寝袋を広げ、満天の露のような星の輝きの下で野宿する。

 眠りに入ろうとする時、私はまたひそかに思う。
 これらの星の中に智慧の光明は煌めいているだろうか、そしてその智慧の光明は、月の澄み切った清らかな夜に私のもとに降臨するのだろうか、と。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





阿来「大地の階段」 60 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2010-04-14 02:50:21 | Weblog
5章3 星空のもとに眠る その3



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





 ある時アワンザパは、ギャロンを出て、より高い地であるチベットに向かって旅立った。 そうしたのはきっと、呪術師の怪しげな儀式を行う中で、自分の心のありかを見失ってしまったと感じたからだろう。

 彼がチベットへ行ったのは巡礼のためではなかった。なぜなら当時、ボン教の聖地はチベットではなくギャロンの大金川の岸辺に建つヨンチョンラディン寺だったのだから。

 ウェンポ・アワは捜し求めに行ったのだった。

 何を捜し求めたのか。たぶん、彼本人もよくわからなかったのではないだろうか。
 出発の時、彼の心の中にはきっと、私たちが何かを捜し求める時と同じように、深い迷いとかすかな憂鬱があったにちがいない。

 だが、彼は出発した。

 その時彼は、チベットで何を捜し求めたらいいのか、まるで分かっていなかった。

 多くのギャロンの人々がかつて彼と同じように出発し、そして、結局何も捜し出せなかった。
 
 だがアワンザパはこれらの人たちの誰よりも幸運だった。
 何故なら、彼が高原へとたどり着いた時、宗教の中で悩み迷う一群の人々が、高原のあちこちを尋ね歩き、歩きながら思索し捜し求めているのに出会ったからである。

 かつては穢れのなかったいかなる宗教も、時間の流れにつれてみな世俗化、政治化してゆき、その過程で、哀しいことに礼楽を失っていくものである。

 そこで、アワンザパは高原で、捜し求めている一群の人々と共に、チベットから伝わった仏教の経典を一つまた一つと読み比べていき、一つの教派から別の教派へと転々と移っていったが、待ち望んでいた最高の悟りは現れなかった。

 最後に、彼らは、彼らよりも早くから捜し求め始め、すでに答えを見つけ、迷い苦しみから解脱した、と説いてまわる大師に出会うことが出来た。
 たくさんの捜し求める魂がすぐさま彼に帰依した。

 ラマが教えてくれたチベット暦で計算してみると、アワンザパが出発したのは1381年ということになる。ラマによると、彼は他に三人の仲間と一緒に出発したという。だが、出発した後、この三人は私たちの視野から永遠に姿を消してしまった。このように消え去っていくのも歴史の厳格な法則である。

 アワンザパはゲルグ派の創始者ツォンカバを正式に師と仰いだ。

 1407年には、アワンザパはこの教派の教義を深く会得していた。そこで大師に遣わされて、後にパンチェン一世を追贈される兄弟子ケートプ・ジェとチベットのあちこちを遊説し、この教派の教義と教えを説いて回った。

 15世紀、アワンザパと同じような人々が次々とツォンカバの周囲に集まってきた。
 他の教派が規律を緩め、世俗や政治に徐々に深くとらわれ、日々堕落していった時、ツォンカバの新しい教派は清らかな精神と遥かを見通す眼差しをもたらしたのだった。

 こうして、アワンザパは帰依し、ツォンカバの八二人の上座の弟子の一人となった。

 程なくして青蔵高原の各地にツォンカバの初期の弟子達の姿が散在するようになった。彼らは広大な青蔵高原にこの清新な教えを広めようとしたのである。

 彼らは人々の心に、輝きに満ち、生命力旺盛な新しい悟りを育て、沁み込ませようとした。

 後の世の信徒達に語り継がれ、かえって姿の曖昧になってしまったツォンカバの伝記の中に、私は故郷のもとボン教の呪術師の記載を見つけることができた。

 それはあまり人の目をひかない一つの段落だった。この段落によると、このもとボン教の呪術師は、その時すでに、さとりの心を深く理解し、日々修行を重ねる黄教のラマだった。

 そうした中、ツォンカバは夢を見た。
 樹冠が傘蓋のような形をした巨大な白檀が、黒い雲に覆われたチベットの東北の方にすっくと立っている夢である。
 枝にも葉にも仏教の教義が高々と掲げられ、そのまばゆい光に追われる様に、逆巻く黒雲は散り散りに姿を消していった。

 大師の夢には必ず多くの意味が含まれている。
 そして、この夢の寓意はあまりにもはっきりしていた。

 チベットの東北部とはまさにアワンザパのふるさとチャカであり、そこは、黒教と呼ばれるボン教の盛んな一帯だった。そのため、何もない時でも、ツォンカバの目にはその地は黒い炎が天へと立ち昇っているように映っていたのだった。

 偶然名なことに、同じ頃アワンザパも夢を見た。
 夢の中で、二つの大きなほら貝が天から彼の手の中に降りてきた。そこで、東の故郷に向かってほら貝を吹き鳴らした。法螺貝の音は厳かに鳴り響いた。

 アワンザパは大師に夢の解釈を願い出た。

 大師は語った。
 お前の仏縁は東のお前の故郷にある、と。

 この時アワンザバは大師の元に来て28年が経っていた。

 そこでアワンザパは故郷に帰ると心に決め、大師の前に進み出た。

 大師は彼に数珠を授け、アワンザパは居並ぶ弟子の前で大きな誓いを立てた。
 故郷ギャロンでこの数珠と同じ数のゲルグ派の寺院を建立する、と。数珠は108粒ある。ということは、彼は故郷に戻って108の寺院を建立することになる。
 
 アワンザパが再び青蔵高原を越えて行った時、すでに15世紀の始めになっていた。
 
 その昔のニンマ派の高僧ヴァイローチャナと同じように、ギャロンの大地のあらゆる場所にアワンザパの面影と伝説が残っている。

 彼が建立した108の寺院の一つが現在彼の霊塔を祭っているこの寺である。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



阿来「大地の階段」 59第5章 灯りの盛んに灯る場所

2010-03-29 01:59:01 | Weblog

5章3 星空のもとに眠る その2



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





 だが、この場所に来た者でなければ、彼方まで名の通った寺院がこんなにも簡素なものだとは信じられないだろう。
 簡素をとおりこして粗末と言えるかもしれない。
 この言い方は、豊とはいえないチベット地区の、煌びやかで、多くの僧をかかえる寺院と比べてのことであるが。

 この簡素な寺院は山の奥深くに身を潜め、南に向いた山腹の、わずか一、ニムーばかりの土地に建てられている。
 だが、精神の世界に属する建築とは、本来このように簡素で控えめであるべきなのではないだろうか。

 もし、回廊にマニ車がなかったら、もし、入り口にある、木の枝を焚く祭壇から煙が立ち昇り、柏の樹が燃える煙があたり一面に漂っていなければ、山奥に建つ一軒家だとしか思えなかっただろう。

 私はしばらくの間寺の前にいた。軒の風鈴の音に耳を傾け、祭壇に新しい柏の枝をくべながら。

 その時、後から朗らかな笑い声が聞こえた。
 振り向くと、年取ったラマが赤銅色の顔いっぱいに笑みを浮かべて私に合掌した。
 彼の腕には使い込んでつやつやになった数珠が掛けられ、腰には小刀ほどの大きさの鍵がぶら下がっていた。

 「扉を開けましょうか」と彼が尋ねた。
 私は「お願いします」と答えた。

 それから、彼について回廊に足を踏み入れた。
 彼が先を歩き、私は彩色された木のマニ車を一つ一つ回していった。
 マニ車のてっぺんにつけられた鈴がそれぞれにチリンチリンと鳴った。一回りして戻って来た時も、マニ車はまだカラカラと回っていた。

 ラマは正門を開けてくれた。
 仏殿の扉が開かれると、私の目は簡素な塔に釘付けになった。

 その塔は、一階を突き抜けていて、更に一階上がらなければ徐々に細くなっていく塔の尖頭を見ることができなかった。
 つまり、一階の仏殿の中で見ることができるのは、仏塔の宝瓶のような胴体の部分だけだった。
 これは肉身塔で、塔の中にはアワンザパが入寂した後の即身仏が祭ってある。

 塔の胴体の中央あたりにはガラスをはめ込んだ小さな窓が開いていて、ラマの話ではこの窓からアワンザパの即身仏を見ることができるという。

 この土地の人々は、アワンザパの即身仏は、生命の働きが止まった後もかなり長い間爪や髪が伸び続けた、と信じている。
 このような言い伝えは少しばかり荒唐無稽で、ここだけに限らず、チベットの多くの場所で、それぞれの高僧や活仏にまつわる、よく似た物語が伝えられている。

 そういうわけで私は、窓に近づいて中を覗いてもかまわない、というラマの勧めを断った。
 ただ塔の前に、宗教的意味あいの最も少ない白いハタを捧げるだけにした。

 そうしてから、その場に立って、静かに塔の尖頭を仰ぎ見た。

 高いところ、塔の頂上にある天窓からいく筋かの光が差し込んでいて、その中を細かい埃が舞っている。くもの巣までもが、頂上から差してくる光に照らされて、キラキラ輝いていた。

 私がこの仏殿が好きなのは、ここには他の仏殿によくあるような息の詰まりそうな煌びやかさがなく、そして、バター油の灯明が大量に燃える時のむせ返るような匂いがないからである。

 それ以上に、上から差し込んでくる神々しい天の光があるからだ。

 光は上から差し込んできて、私の頭の上に落ち、そこから私の体を突き抜けて外へと光を放っているかのようだった。

 もちろんそれは、ただこの空間の中にいることによって生まれる特別な感覚だ、というのは分かっているのだが。
 仏殿から出ると、この感覚は消えていった。

 だが、私は信じている。このように簡素な環境が、優れた古人へ想いを馳せたり、偉大で清らかな魂を祭るのに適しているのだと。

 なぜなら、宗教そのものは慎み深い魂に属するものだからである。

 煌びやかな装飾や、金銀宝石や、窒息しそうになるほどに焚かれる線香やろうそくが、本来人生と世界の究極の目的を追い求めようとする宗教を、富の堆積と眩さによって、その本来の姿を見失わせてしまうかもしれないのである。 

 ラマは私を彼の住居に案内してくれた。

 ラマの家は、寄り添うように建ち並ぶ木の家の一つだった。
 屋根は雨水で色褪せた木の瓦で覆われている。
 背の低い家の数から見て、ここには十数名のラマがいるようだ。

 だが今は、この一人のラマだけが、よろよろしながら私の前を歩き、斜めになった小路に沿って、彼の住居の前まで案内してくれたのだった。

 ラマの家の前は柳の枝で囲った庭で、庭の隅は小さな菜園になっていた。菜園はまばらで、霜にあたった白菜がいくつかあった。

 ラマの方をちらっと見ると彼は笑って言った。
 「肥料がなくてうまく育たないんです」
 
 私も笑って言った。
 「素晴らしいです、ラマがご自分で野菜を作られるなんて」

 夕日が山に落ちる頃、彼が作った酸菜のスープを味わった。
 彼は、酸菜の材料は自分が作った白菜だと言った。

 夕方の太陽が山野に柔らかな金色の光を敷き詰めていた。

 それほど離れていないところにある柏の樹の下で、泉の水が一筋の流れとなって地表に姿を現し、それを筧を通して木の桶まで引いている。そのため、絶え間ない水の流れが、辺りに爽やかな水音を響かせていた。

 砕けた水の玉が、傾きかけた夕日に照らされて宝石のように耀いていた。
 
 このような情景の中、私たちはアワンザパについて語り始めた。 



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)







阿来「大地の階段」 58第5章 灯りの盛んに灯る場所

2010-03-20 01:19:44 | Weblog
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5章3 星空のもとに眠る その1



 1999年の夏、夢筆山の北側の斜面を下り、群生するツツジと、以前より高くなったモミの樹の木陰を通り過ぎた時、山の麓のあの村を思い出した。そして、あの10月の巡礼の旅を思い出した。

 しばらくして、草むらでアヒルの卵茸を見つけた。これはきのこの中でも上等なものだ。

 そこで私は枯れ枝を探してきて、モミの根元の土を掻いて、乾燥した場所を作り、木の先からとってきた乾燥した木花(枝にかかる苔)で小さな炎を熾した。

 このような野原で火を熾すと、炎がなかなか見えてこない。かざした手が熱さを感じ、銀ねず色の木花から一筋の青い煙が立ち昇るのを見て、やっと火が熾ったかどうか分かる。
 点きの悪いライターをきちんとしまった頃、乾燥した枝のパチパチとはじける音で、きちんと火が熾きたのが分かった。
 そこで、もう一度モミの樹から厚い木の皮を剥いで来て火の中へ投げ入れ、そうしてからいよいよ、あのきのこを取りに向った。

 このきのこは、てっぺんが鮮やかな黄色で、ふちに向かってだんだん色が淡くなる。象牙色の軸の部分はあらゆるきのこ類の中でも最も肉付きが良い。

 こうして猟師たちのやり方に習った山の幸を楽しむ準備が整った。

 深い山の中では時間の流れがゆっくりになる。火にくべた木の枝が燃え尽きるのを待つた。赤い熾き火の上でこそ、新鮮なきのこを焼くことができるのだ。

 ナイフで黄色いきのこを二つに裂き、煙が消えた火の上に並べ、ほんの少しの塩と唐辛子の粉をふる。

 水分を豊富に含んだきのこは、薪の上で焼かれて細かな泡をあふれさせ、ジュ―ジュ―と音を立てる。
 水分が半分ほど蒸発するとその音は止み、あたり一面に香ばしい香が漂う。

 十数年前狩に来て、きのこを焼いて腹いっぱい食べた時と同じように、ごくりと唾を飲み込み、それから、やわらかいきのこを口の中に放り込んだ。

 その、やわらかくみずみずしく味わい深いこと!
 野山の至高の味わいに我々はなんと遠ざかっているのだろう。

 大きなきのこを二つ食べ終え、木の根元から湿った苔の塊を掘り出して、火の上にかぶせてから、再び麓を目指した。

 近道を通ってしばらく行くと、森を抜け、公道に出た。
 ジープが一台走ってきて、手を振ると止まった。運転していたのは遠方から来た商人だった。この時期山里へ来て、あちこちから薬の材料やきのこを買い付けるのである。

 彼は、私がもう少し遠くまで行けばちょうどいい道ずれになると期待したようだが、私はナチュと言う村まで乗せていってくれればいいと告げた。

 ちょっとうとうとしている間に、あの村の、木の瓦を載せた石の建物がいくつか目の前に現れた。
 正午をすぎたばかりの村は静かだった。何台かの手押しトラクターが道路の脇に止まっていた。畑では女たちが麦の間で草をむしっている。
 村の反対側の斜面には、棗と白樺の間に五色のタルチョがはためいていた。

 さらに少し下った谷川の上は粉挽き小屋である。

 畑で草むしりをしていた女達は立ち上がって腰を伸ばし、手をかざして、強い日差しを浴びながら私の方を見ている。

 この時、もし喉が渇いていたり腹が減っていたら、どこかの家の戸口まで行けばいい。そうしたら畑で作業中のその家の女主人がすぐに仕事を放り出し、大急ぎで戻って来て、熱いお茶やツァンパを振舞ってくれるだろう。おまけに、大きな茶碗いっぱいの新鮮なヨーグルトを飲ませてくれるかもしれない。

 だが、私はただ彼女達に向かって手を振っただけで、すぐに向きを変え、木の柵に添って、査果寺に向かう小道の手前まで歩いていった。

 公道から数歩離れたところで、柵の門を開け麦畑に入った。

 麦は穂を出し乳熟する時期で、豊かな緑色が日の光をうけてキラキラと耀いていた。それは、人の心に喜びをもたらす光である。
 夏の小道は湿り気を含んで柔らかかった。

 麦畑を抜け山の斜面に面したもう一つの柵の門を出ると、花の咲き乱れる斜面の上に出た。そこに咲く美しい花々の中でも最も目を引くのは、群がって咲く紫色のリンドウだった。

 小道はうねうねと上に向かい、体中にうっすらと汗をかいた頃、小さな山の尾根を隔てて、寺の本堂の軒にかかっている風鈴が微かな風に吹かれて立てる心地よい音が聞こえてきた。

 私は仏教徒ではないが、それでも、このすみきった響きは、清らかな泉の水が心の中を私の体の中を流れていったような感覚を味あわせてくれた。

 続けて、柏の木立の先端の濃い緑が目の前に現れたので、思わず歩調を速めた。

 こうして、遥かにその名を伝えるギャロンの寺院が目の前に現れた。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)







阿来「大地の階段」 57 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2010-02-13 02:36:29 | Weblog
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2 いにしえの人を想う その2


 村の周りに、数頭の小さくてまだらの母牛がいた。これらの母牛は、赤牛とヤクとの交配種の後代である。これらの雑種の牛の体にはもはや、父方のたくましさと母方の優雅さはない。ただし、どのような場所でも食べるものを見つけることは出来るようだ。

 棘のある樹、路端の土埃だらけの枯れ草、牧人たちの捨てたぼろぼろの服、廃墟の崩れた壁に浮き上がった剥げ落ちそうな壁土。母牛たちは口に入るものなら何でも胃に収め、そうして薄い乳を作り出す。

 現在、このあたりの村の周りには、このような萎びた姿の雑種の乳牛の数がどんどん増えている。
 厳しい冬がやって来ると、牛たちは群となって列を作り、周囲の村から鎮に入って来て、通りをぐずぐずと歩きながら、あちこちで食物を捜す。

 そういった食物は実に様々だ。風に巻き上げられいたる所を転げまわっている紙くず、壁に貼ってある標語や告示の裏に塗られた糊、市場に捨てられた野菜屑。牛たちはゴミ箱に頭を突っ込み、かき回し、舌で選り分け、その都度腹を膨らませるものを探し出す。

 そんな乳牛たちの様子を見て、我が家では郊外の農民が毎日届けに来る牛乳を取るのを止めた。

 巡礼の道とも言える路で、家畜と生命についてこのように描くべきではないのかもしれない。だが、このような光景は絶えずあちこちで繰り広げられ、どうしても人の目に触れる。牛たちが黙然と食べものを捜す時の様々な姿が誰の目にも焼きついてしまっているのである。

 幸いにも今はナチュにいる。
 郷の役所のあるチョクツェ鎮からすでに10数キロの距離があり、県城の所在地は更に遠い。

 あきらめを知っているかのような雑種の牛たちは、10月の薄霜を踏みながら、収穫の終わった畑で、何をするでもなしにとうもろこしの茎を齧っている。これならまだ清潔な食べ物である。
 村の子供たちもたまに畑に入り、抜き取った茎を手に持ってゆっくりと齧りながら、かすかな甘さとわずかなみずみずしさを入念に味わう。

 私にもこんなふうに、薄汚れた顔に泉の水のような清らかな瞳を輝かせていた少年時代があったのだ。

 日々遠ざかる少年の頃を思うたびにいつも、心の中にぼんやりとした痛みと名づけようのない哀しみが湧いて来る。

 だが、畑に薄い霜の降りた10月の朝、私はナチュ村のあたりでやはりこのように少年の頃を思ったのかどうか、覚えていない。
 覚えているのは、ナチュ村の近くのこの朝もまた、すべての霜の降りた10月の早朝と同じように、日差しが特別明るく照り輝いていたことだけである。

 山の斜面のまばらな樹々の間から聞こえてくる画眉鳥の鳴き声は、特別に澄み切って伸びやかだった。

 はじめに長く、次に二回短く啼く、澄み切った鳴声。
 人々はその声を聞くと、三つの音からなる言葉や文を想像するのだった。

 ギャロンの他の場所では、この三つの音をそれぞれ異なった音としてはっきりと聞き分けている。
 ナチュでは、画眉鳥が奏でるこの三つの音を天気予報として耳を傾ける。
 ある家の庭に車を停めた時、女主人は私たちに、画眉鳥はこう伝えているんだと教えてくれた。
 「 レイ――ツェチャ、 レイ――ツェチャ 」

 ご存知のように、このチベット語は、もうじき暑くなると言う意味で、つまり、画眉鳥たちは、今日の天気は晴れ、という予報を私たちに告げているのである。

 女主人はさらにこう言った。あんたたち、アワンザパを拝みに行くんだね。山へ参拝に行く人がいる時はいつも、この谷は穏やかな良い天気になるんだよ、と。

 この庭を出る時、誰かが冗談を言った。
 毎日のようにアワンザパを参拝に来る人がいたら、この村では、作物や果物がみんな枯れてしまうね、と。

 これを聞いて、いつもの冗談を聞いた時のようには笑い出す者はいなかった。そこで、冗談を言った本人も自分で自分の頬にびんたを食らわした。
 巡礼の路では、いつもなら何でも笑いのタネにする私達も、突然ほんの少し慎みの心を取り戻したのだ。

 その時、また別の種類の鳥が啼き出した。鳴声は四音節だった。
 すると、みんなの心の中である一つの名前が響き始めた。
 
 アワンザパ!アワンザパ!  
 
 私達はみな特別な磁場の中に引き寄せられていった。

 山道はくねくねと上に向い、路の両側の樹は葉をすべて落とし、乾いた硬い枝が靴とズボンの裾に当たってかさかさと音を立てた。
 オウレン、ノザクラ、ノバラ、サクラソウ、ツツジ、タマリクス、クスノキ、多くの樹々が密集し、夏にはそれらが様々に咲き誇っていたことだろう。だが今は、硬直した古ぼけた色の枯れ枝を伸ばし、あたり一面ひっそりと物寂しげだ。
 ただ、柏の樹だけがまだ緑をたたえ、そよ風の中でため息のようなかすかな音を立てている。

 太陽は高く昇り、石や枯れ草の上の霜はゆっくりと融けていく。すると、森の中の黒土の濃厚な香りが鼻腔を通して全身を満たしていった。

 風の当たらない枯れ草に腰を下ろして休んでいると、巡礼の一団が私たちを追い越して行った。彼らの顔には敬虔さと期待があふれていて、そのためか、彼らは私たちよりもずっと明るい眼差しをしていた。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 56 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2010-01-29 17:24:51 | Weblog
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2 いにしえの人を想う   その1


 寺の話がでたところで、再び過去の時代、15世紀へと戻り、ギャロンの大地のいにしえの人、ギャロンの人々が永遠に忘れることのないいにしえの人に思いを馳せよう。
 このいにしえの人とは、ギャロンの歴史においてヴァイローチャナと同じように名望のある僧侶、チャク・ウェンポ・アワンザパである。

 音節の連なった長い文字の中で、アワンという三文字だけが彼の本来の名前である。
 その他の文字はみな一種の付加成分といえる。
 
 チャクはチベット語の書物で用いられるギャロンの別名であり、この二文字がアワンの前にあるということは、当然、彼の出身地であることを表している。
 実際に、彼はマルカム県の領域、当時リンモ土司の領地だったクチュで生まれた。クチュとは、彼の出生地のチベット語の名前である。
 
 周囲の山の斜面に白樺、トウヒ、矢竹の生えるその小さな山村と、山村の裏の谷あいに、ここ数十年ばかりの間で、新しい名前がついた。203である。
 この呼び名は、解放後に現れた伐採工、道路修理工と長距離バスの運転手の間で広まった。
 同じ場所に対して、異なった言葉を使う人々は、それぞれに異なった地名を使うものなのである。
 
 203とは伐採場の名前だった。その伐採場の何百何千という労働者たちは、この地で数十年間、原始林を伐採した。森林資源の枯渇とともに、この伐採場はすでに閉鎖されたが、名前だけはそのまま伝わり、多分、永遠に伝え続けられるだろう。

 さて、再び、数百年前に生まれたあのともし火のような人物アワンザパに戻ろう。

 彼の名前の二番目の文字、ウェンポとはボン経の呪術師を言う言葉である。つまり、彼がチャク地方のボン経の呪術師だったということを表している。

 呪術師だった彼は、ある日突然、慣れ親しんだ美しい土地を後にし、この地方の多くの知恵を求める人々と同じように、歩むにつれて幅を狭めて行く大河と、徐々に高度を増す雪山に沿って、青蔵高原へと向かい、チベットへ、ラサへと向かって行った。
 チベット高原の高みにある場所、まさに、どこよりも濃密な仏教的雰囲気の中で、仏教徒になった。

 彼は心の中の知恵のともし火を更に明るく輝かせようとチベットへ行った。その結果、自分の信仰を変えることになったのである。
 そのため、彼の名前の後ろにはさらにザパという文字がある。
 ザパとは、チベット族仏教の寺院では、教義を知って間もない僧のことを言う。

 これでチャク・ウェンポ・アワンザパの意味が分かっただろうか。
 つまり、チャクから来たボン経の呪術師であったアワン坊主である。

 きっとこれは、アワンザパがチベットで新しい教義に帰依した後、同じ志で学ぶ友人たちがつけた、温かみと親しみのこもった名前なのだろう。

 夢筆山の峠に立ち、これから遠ざかっていく小金を背にし、公道がカーブを描きながら森林をつき抜け、ゆっくりと深い山へと入って行き、谷が底へ向ってまっすぐに落ちて行くのをはるかに眺め、私の故郷が目に入った時、この高僧の名前が思い出された。

 心の中でその名を唱えると、あたかも心地よい音節が耳元で響いたようだった。

 しかも、目の前に突然一筋の清らかな泉が現れた。
 その泉は夢筆山マルカム側の日当たりの良い小さな斜面の上にあった。斜面の草地には柏の木がまばらに立っていた。
 古い柏の樹。枝は曲がりくねっているが、幹のしっかりした柏の樹だった。

 私は多くのギャロン人が聖地としているあの場所に行った事がある。

 最後に行ったのは2年前だった。それは深まった秋の日だった。
 私達はトヨタのシープでマルカムを出発し、一時間もかからずに、夢筆山のふもとの急な斜面の下にある谷へと着いた。

 昔、この谷は狩人たちの天国だった。わずか数十戸の、農家でもあり、牧民でもあり、狩人でもある家が数十キロの谷に散在している。
 この谷をナチュという。

 もし私の思い違いでなければ、この言葉の意味は「深い谷」である。そう名付けられてはいるけれど、四川盆地から青蔵高原に向って少しずつ高くなっていくキレン山系の中で、この程度の谷はそれほど深いとはいえない。
 となれば、このような名前がついたのは、きっとその当時のこの谷にあった森林によるのだろう。
 白樺、赤樺、杉、松、柏、そして高山のツツジからなる樹林が谷を埋め尽くし、その様子はことのほか神秘的で深遠だった。
 
 そこで人々はこの谷にこの名前をつけたのである。
 そうして、わずかの家が散在するこの谷の集落も同じ名前となった。

 20世紀の後半、建設の名のもと、進歩の名のもと、伐採人夫たちがこの谷を切り開いていき、伐採場の建設は、静かな山村に20数年にわたる喧騒と繁栄をもたらした。
 その代価は当然、豊かな森林の消滅である。

 その後伐採場は閉鎖され、かつて現代生活という芝居を演じていた工事現場や伐採場は再び静寂にもどり、最後に残った間に合わせの木造の建て物は、ある雨の夜ひっそりと崩れ落ち、捨て置かれた斧やのこぎりが、泥沼の中で時を経ずして錆びていった。

 ただナチュの村の住民だけは永遠にこの谷とともにあり、子から孫へと、世々代々続いていく。

 伐採され裸になった山肌が、ここに一つあちらに一つ、点々と斜面に跡を残している。
 その傍ら、渓流に沿った太い道の傍らに、石で作られた大きな家々が静かに聳え立っている様は、どこか現実味のない、夢か幻のようだった。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)







阿来「大地の階段」 55 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2010-01-18 23:42:34 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


1 マルカムという地名について


 チベット語で「マル」という単語は「油、バター油」を意味している。「カム」の意味は「家、場所」ある。そこで、直訳して、マルカムという場所の意味は「バター茶の家である」と言われることが多い。

 このような解釈は言葉の意味を裏切ってはいないのだが、心情的な理から見ると筋が通っているとは言いがたい。

 チベット人は人や物や場所に名前をつける時、吉祥を祈る傾向がある。ところが、「バター油の家」は幾久しく続いていくものではないのだから。
 
 チベット族の芸術の中で、バター油によって作られるものはみな永久のものではない。例えば、正月の縁日で仏の前に供えられる酥油花などがそうである。

 そこで、より普遍的で多数の人が認めるのは、マルカムというチベット語の組み合わせでできた地名の意味を解釈する時、元の意味から導き出される「灯りの盛んに灯る場所」という、特別な意味に重きを置くべきだ、というとらえ方である。
 
 大渡河上流にある支流、リンモ河に臨むマルカムは、現在、高原の新しい都市と呼ばれている。そのリンモ河にある水力発電所が供給する尽きることのないエネルギーは、確かにこの山や谷を名前の通りの灯火の明るい場所に変えた。

 だがこうした情景が現れたのは、解放後のわずか40年あまりのことである。

 ある時、私は学識のあると言われているラマを尋ねた。別れを告げて坂の上にあるその寺から出てきた時、すでにたそがれ時になっていた。
 ラマは山のふもとの数え切れないほどの灯りを指さして言った。
 その昔、マルカムと命名したのは一人のラマで、その時すでにこのすぐれた人物は、今日のような家々の灯火が盛んに灯る光景を予見していたのだ、と。

 彼は、真に徳のある高僧は未来を予言できるのだ、と言った。
 彼は予言と言った。未来を占うとは言わなかった。

 私はこの老僧に、この話はいつの頃から伝えられ、その高僧の名前は何というのかたずねようと思った。だが、そうしたなら、みなを興ざめさせてしまうだろう。そこで、山のふもとの灯りを眺めながら暗闇の中で密かに笑い、何も言わなかった。

 私は、だが、マルカムという地名はすでに永い年を経ている、と知っていた。

 その頃、マルカムの広い河原は狐や狸の天国だった。
 マルカムにこの名がついたのは、この広い河原にマルカムという寺があったためである。その寺は、当時の荒れ果てた河原では、相対的に見れば、確かに灯火の明るい場所だった。

 光明と暗黒はいつの時代でも相対する概念となる。

 一つの仏教の寺が、このように、光明と関係のある名前をつけたのは、その目指すところが、蒙昧な時代に人々を啓蒙することにあると示す、一種の象徴的意味があったからだろう。仏教の書籍の名称にも、灯りと関係のある言葉を持ったものが次々と現われている。

 前に述べたように、初めてギャロンの地に文化と知恵の光をもたらしたのは、チベットに生まれたヴァイローチャナである。それから後、大渡河の上流と岷江の上流の一部では、かなり統一されたギャロン文化が形成され、全チベット文化の中で、一貫して他とは顕かに異なる地方文化の特徴を保ってきた。

 だがその後のかなり長い年月の間、当地のギャロン土司たちは、自分たちの利益に考えをめぐらせた結果、チベットとは異なる政教合一の制度を作り上げた。
 チベットでは、神の力は至上であり、世俗の政治的権力は神に従属するものである。だがギャロン地区全域では、中央の王朝に柵封された土司が世俗の大きな権力を握り、僧侶階層は世俗の権力に依拠して始めて存続できた。
 また、多くの場合、土司一族は神の力をも同時に手にしていた。
 例えば、すでに述べたように、小金川流域のツァンラ土司とウオリ土司の祖先は、ボン教の呪術師だった。

 15世紀以前、ギャロンの土司と貴族が頼みとし、庇護したのは、主に当地の宗教ボン教の勢力だった。
 マルカムの河沿いの広い台地には広大な寺院が建立された。当時はボン教に属し、その後、周囲の政治的環境の変化につれてチベット仏教のゲルグ派に改宗された。だが、マルカム寺という名前はそのまま変わらなかった。

 193、40年代になると、この寺に因んで、寺の前の白楊がまばらな林をつくる広く平坦な河岸で、季節的な市が開かれるようになった。
 商人たちはギャロン各地の土司の領地からやって来た。更に、四川盆地からやって来る漢人や、甘粛省からやって来る回族の商人も多かった。

 鮮やかな花が群山に咲き乱れる美しい夏。それぞれの方角から商人たちが続々とやって来て、草花の生い茂る河岸に、一夜の内にたくさんの美しいテント現れた。

 ある老人がこの時の様子を振り返ってこう語った。
 まるで一夜の雨の後に、きのこが一斉に生えてきたようだった、と。

 私がこのような回想に触れられるのは、アバ州政協の年に一度の会議の宴席でである。
 文章を書いている関係で、私は政教の常任委員会の一員となった。そのため、労せずして先輩たちから昔の思い出を聞き出すことが出来るのである。
 これらの先輩たちの中には、その昔、テントの持ち主だった人も何人かいた。

 これらの思い出話は、会議でもてなされるうまい酒と並ぶ、極上の味わいがある。

 別の先輩は、テントときのこの喩えを聞くと、愉快そうに笑った。
 彼は言った。
 「きのこ、か。2年くらいの間かな、夜雨が降るとテントの周りに必ずきのこが生えたものだ。その時付き合っている女がいてね。きのこを集めて牛乳で煮てくれたんだが、その味と言ったら……」

 人々は、季節によってしばしの間だけ賑わう通りもマルカムと呼んだ。

 解放後、政治的な必要からここに永久的な建物が建てられ、規模の大きな鎮になっていった時、その地名もマルカムと呼ばれた。

 そして、あの輝いていた寺院は、日々忘れられていったのである。



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阿来「大地の階段」 54 第4章 ツァンラ

2009-12-14 23:41:31 | Weblog
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11  上昇する大地

 猛固橋のたもとに戻り、小金川に沿って北上し、夢筆山へと進んで行く。

 進むにつれて海抜はあきらかに高くなっていった。
 私は旅の専門家ではないので、海抜計を持ち歩いてあれこれと煩雑な記録を取ったりしなくてもいい。植生の変化から足元の大地が高くなっていくのを感じ取るのである。

 これもまた私が考える、大地の階段を昇るという感覚である。

 これまでもずっとそうだった。
 まず、道路の両側のチベット式、漢式混在の石の住居から、漢族の影響が少しずつ減っていき、それにつれて純粋にチベット的なものが多くなっていく。窓や扉のまわりの装飾が徐々に鮮やかではっきりしたものになっていく。
 村中のすべての建物が高く大きくなり、力強く堂々としてくる。
 路を歩く人々が挨拶する言葉の中に、チベット語の丁寧な言い回しが多く聞かれるようになってくる。

 いつものように、村の周りに風を受けてはためくタルチョの数がだんだんと多くなっていく。

 いつものように、清らかな渓流は丸まる一抱えもある杉の木をくり抜いて作った水槽へと引き込まれ、そこから粉引き小屋の下の巨大な水車へと突き進み、重い石臼を廻す。

 いつものように、地勢が高くなるにつれて、空はいよいよ青くなり、純白の雲が、私がこの足で測量している土地を永遠に世俗を超えた遥かな空間へと変えている。

 こうした風景への移り変わりはいつも、村を取り巻いている場所に現れる。
 まずとうもろこしから小麦へと変り、小麦はまた裸麦へと変る。あたり一面の裸麦を目の前にした時にはもう、私はすでに緑に覆われた深い山と川に抱かれていた。

 陽光の下、目に刺さるほどの眩い光を照り返していた大きな岩は消え、それに変って現れるのは一面に広がる樹林である。カエデ、シラカバ、アカマツ、灰色の皮のトウヒ、赤い皮のツガ。
 風が樹林を吹きぬけ、満ち溢れる太陽の光が、まるで湖の面に降り注いでいるかのように、木の葉の上できらきらと透明に輝いている。

 私は林の中の柔らかい草に腰を下ろす。

 この草地の花の盛りはすでに過ぎ去っていた。
 7月、それは木々に囲まれた草地の野いちごの季節である。
 鮮やかな赤い野いちごが翡翠のような穢れのない緑の草の上に一粒一粒横たわっている様子は、まるで緑のビロードの上に並べられた赤い宝石のようだ。

 腰を下ろし野苺を摘み、一粒ずつ口の中に放り込んだ時、私はふと昔の自分に帰っていった。放牧をしていたあの頃、学校が終わると野菜摘みをしていたあの頃。

 顔をあげると、遥か彼方の山が雪の冠を載せてきらきらと輝いていた。

 故郷であるギャロンにこのように広やかな人間界の浄土がまだ数多く残されているのは、なんと幸せなことだろう。
 だが、私の目にとって、私の脚にとって、私の心にとって、この浄土に辿りつくまでの荒涼とした時間と空間は本当に、本当に長かった。

 この時私は、感激の涙があふれ出るのを抑えることができなかった。

 いつものように、海抜が高くなるにつれて、山あいに現れる谷間は広さを増し、谷の両側の山並みも穏やかになっていく。

 私はリュックを担ぎ、更に先へと進んで行った。
 このような場所だったなら、一生涯歩き続けても私の足と心は絶望や疲労を感じないだろう。

 最後の耕地と村が私の後ろから姿を消した時、私は高地の牧場を歩いていた。

 このような青々とした高地の牧場では、数時間歩いた頃にやっと木の柵で囲まれた牛小屋があらわれる。板を敷き詰めた牧人の小屋があって、ほのかな青い煙が静かに立ち昇っている。

 牧用犬が、見知らぬ人物が近づいてくるのを警戒して吼え始める。牧人が、狩の銃を持って小屋から飛び出してくる。
 私は故郷の言葉で大声で挨拶する。
 すると牧人は銃をおろし再び家の中に戻っていく。

 私はどこよりも澄み切った泉の縁にしゃがみ、心行くまでその水を味わう。
 その時主人は私のそばまで駆け寄って来て、先ほどの牧用犬も尾を振りながらぴたりとその後に付き添っていた。

 泉から顔をあげると、ひんやりとした水の粒が、私のあごから滴り落ちた。

 主人は腹を立てている。
 「客人よ、オレの家に客人をもてなすための熱い奶茶がないとでも思っているのかね」
 再び歩き始めた時、私の腹は主人が精一杯もてなしてくれた、あらんかぎりの美味しい食べ物ではちきれそうになっていた。

 このようにして私は、山の麓の埃の舞い上がる灼熱の夏から、山の上の明るく美しい春の世界へと入ってきたのだった。

 私の前でも後ろでも、草叢の中でも林の中でも、鳥たちの歌声はなんと楽しげなのだろう。
 そして私は、訪れるたびごとにいつも、こんなにもたやすく無上の喜びを味わえる幸運に感謝するのである。

 雪を冠った峰の下にある高地の牧場は、その時まさに花の咲き誇る春だった。

 すでに長くなった都会での日常生活の中で、多くの時間、私は青蔵高原の植物図鑑を一冊一冊と開いていく。そうすると、見慣れてはいるのに呼び名の分からなかった多くの花の名前を知ることができる。
 今日、図鑑の中でその花たちと再会した。

 羽根のような葉を持ち、長く伸びた力強い茎の周りに宝塔のように蕾をたくさんつけていて、その塔のような蕾がまさに季節の移り変わりと同じように、下から上へと順々に紫色の花を開かせる。その花の名はシオガマギク。

 満開となってあたり一面を埋め尽くしていた黄色い花たちはほとんどが野菊の家族だった。この家族の成員のあるものは真っ青の中に少し紫を含んだ色に変異することがある。

 このような草地で最も美しいのは、もちろん青いハナショウブである。
 一つ一つの花を見ると、かすかな風の中でそれぞれの意志を持って飛び立とうとしているかのようだ。
 このような姿の花が幾つも連なって群れをなしている様は、遠くから見上げると、様々な想いが昇華した青いけむりのようである。

 私はこれらの花を歌にすることは出来ない。
 ただ、いつでもたくさんの花を目にすることの出来る幸運を感謝するばかりである。

 こうした道程はなんとも心楽しく、ウオリ官寨を出てから5日後、夢筆山の峠まで登って来てはじめて、この旅の数日がこんなにも早く過ぎていたことに気づいたほどだった。

 夢筆山の峠に立つと、ヒューヒューと鳴る山風の音が更に強くなった。
 峠のこちら側の草地と鮮やかな対比をなして、峠の向こう側は密集した森林である。

 公道が森林をつき抜け、一気に山の下の渓谷まで下って行く。
 この渓谷を抜け出た辺りが私の故郷、現在のギャロン地区の中心地マルカムである。






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阿来「大地の階段」 53 第4章 ツァンラ

2009-11-09 01:41:59 | Weblog
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10 土司の伝記 二 その4


 こうして私はまた、ウオリ土司の終末に思いをはせた。

 この、混じりけのない正統なギャロンチベット族の土司も、終焉を迎える頃には、漢族の血がかなり混じっていたようだ。
私は、跡絶えてすでに半世紀近い一族のために、改めてきちんとした家系図を作り上るには時間もなく特別な興味もなかった。

 ではなぜこう判断したのか、それは、最後のウオリ土司にはすでに楊という漢族の姓があったからである。

 聞くところによると、最後の楊土司もまた、多くの土司の一族が没落していった時の宿命と同じように、政治や経済の面だけで一族全体が徐々に衰えていったのではなかった。つまり、純粋に生物学的な繁殖という意味において、一族の遺伝子と血統が幾百年という年月を経て徐々に疲弊し、ついには最後の生命力まで失ってしまったのである。

 私の知っている多くの土司の物語の中でも、それに相当する部分がある。物語の中で、土司たちは祖先を祭る火を絶やさないようにと、常に恐れを持ち続けている。

 特別に強大にはならはなかったが、優れて柔軟に血縁と財産や地位を守り伝えてきたウオリ土司も、ついにはこの宿命から逃れられなかった。

 最後の一代である、漢族の姓と漢族の名前を持った土司は、性格がひ弱で、愚鈍な一面があった。
 このような性格の土司は、当然当時の国民党政府の派遣した小金県の県長の手の中で弄ばれた。

 また、あらゆるパターンの政治的な宿命の物語と同じように、楊と名乗った土司は政略結婚から逃れることはできなかった。

 当地の美女孫永貞が彼に嫁いだ。
 これもまたギャロンの地の土司の物語の中でよく見られるパターンである。
 有能で聡明、かつまた美しい女性は、土司の権力を掌握していった。

 もちろん、時代の変化に合わせて、繰り返し語られる物語にもそれまでとは違う新しい筋書きが加えられていくのだが。

 ウオリ土司の物語の終盤で登場した楊孫永貞は、やはり国民党軍事統計局の訓練に加わったスパイだった。

 時はすでに20世紀の40年代。国民党の大陸での統治はまもなく幕を引こうとしていた。
 中華人民共和国が北京で成立を宣言した時、ウオリ女土司は再び成都で軍統の特別上官の訓練を受け、遊撃隊の指揮官を命ぜられた。領地に戻った後、彼女は積極的に地方の武力を組織し、やがてチベット地区へと進んでくる解放軍との戦いに備えた。

 解放軍の部隊が押し寄せてくると、女土司は予定通り領地内の兵を率いて解放軍と戦った。初めの1,2年は、成立したばかりの共産党政府をかなり手こずらせた。
 
 この美しい女土司に関して多くの英雄的な伝説があるが、今ではその真偽をはっきりさせるのは難しくなってしまった。
 だが、彼女がよく馬を乗りこなし、二挺拳銃の使い手でほとんど弾を無駄にしなかった、というのは確かな事実である。

 それでも、大軍の進むところ、味方が離れていく中で、彼女は少しずつ敗退するしかなかった。
 最後には解放軍に生け捕りされ、最も重い罪を犯したとして、人民政府によって容赦なく処刑された。

 ほとんど時を同じくして、ギャロンの土司制度はついに歴史の舞台から姿を消した。

 ウオリ土司は解放後もかなり長い間生きていたが、土司の時代はすでに終焉し、彼という人間の存在は、人道的な意義のほかには、もはや特別に深い意義を持つことはなかった。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)