塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 47第4章 ツァンラ

2009-07-06 23:44:01 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


8  血縁と族別

 この本を書いている間に、西南民族学院でいくつか資料を探し出すことが出来た。50年代初め、小金県結思郷に関する社会調査で、署名は四川民族調査班となっている。

 結思郷とは土司制度を改め屯(村)を設置した後の別思満屯の一部である。

 その中の人口統計の項目はとても興味深い。当時、漢族の人口がかなりの比率を占めていたというのである。
 現在の結思郷の戸籍調査の書類に目を通すには、私には時間もなく、必要性もなく、また権利もないのだが、私が故郷にいた30年余りの間に見聞きしたところから考えて、現在の結思郷では、戸籍の上では漢族の比率は50年前の調査より低くなっているのは、間違いないだろう。
 ただし、実際生活している人には、この数年来漢族のこの地での比率はかなりの部分で増加している、と感じられるかもしれないが。

 どうしてこのような状況が現れたのだろうか。
 理由はとても簡単である。解放前は、チベット人は、漢文化が主流を占める社会で厳しい差別を受けていたからである。
 解放後、有効な少数民族政策が採られ、特に、進学と幹部登用でいくつかの優遇策の目標が設定され、かなりの人が漢族の身分を捨てて、再びチベット族になったのだ。

 本来、両金川の戦いが終わり、駐屯した兵がこの地に次の世代を誕生させ始めた時に、血縁は混ざり合い明確でなくなった。
 そのため、この土地の新しい世代が、登録すべき民族を選ぶ時には、当然、利益に預かり損はしないという原則のもとに、遙かな生命の源である血縁を確認する必要が出来たのである。

 血縁の問題は、このように漢・チベット族の交わる地域では、多くの人にとって敏感な問題であり、そしてまた、暗黙のうちに了解している問題でもあった。

 だから、同じ人が場合によって、自分はこの民族であると言ったり、あの民族であると言ったりするのは、一般の人には奇妙と思われるかもしれないが、実はごく自然なことなのである。

 私の場合を話そう。

 私は回族とチベット族の混血で、チベット族を自分の民族として選んだ。
 ただ単に、小さい頃からチベット族の地域で成長したからであり、生活習慣が最終的に自分の血縁のアイデンティティーを決定した。

 私が成長し学んでいた年代は、ちょうど極左路線の統治下で、チベット地区でのチベット語の教育は学校では完全に停止されていた。
 そこで私は、チベット族の地域で、漢語を使う学校に入った。
 前後して教わった二人の小学校の教師は、四川省の内地の村の師範学校の卒業生だった。特に一人目の教師・張玉明は、50年代初めに、すでに私の母を教えていた。

 その後、私も師範学校に入り、漢語で国語と歴史を教える中学教師となった。最後に教えた中学で、漢族の英語の教師を妻とした。

 2年後息子が生まれ、公安局で彼の戸籍を届ける時、民族を漢族と申請した。

 自分の民族を恥ずかしいと思ったわけではない。
 息子の民族を選んだ時の考え方はとても単純だった。
 息子は完全に漢語の環境の中で成長し、将来も血縁が原因でチベット文化とチベットの風習を完全に残している村に戻る可能性はない。そこで、私は彼の民族を漢族と申請した。

 だが、これは多くの人から、しかも漢族の妻からも反対された。

 私はこの間違いを11年も続けていた。
 故郷を離れ、四川省の省都で仕事をすることになった時、やっと、この決定は間違いだったとして変更する決心をした。それは、息子が私に随って、学生のほとんど全てが漢族の学校で学ぶことになったからである。

 私は、民族を改めることによって、新しい環境の中で、息子に自分の血縁を忘れさせないようにしようと決めた。
 私たち夫婦と息子が共に描いた未来の道を行く時、息子が父の生まれた育った土地の背景と今より多くの関係を持つようになる可能性はほとんどなくなってしまったのだから。

 そうであれば、ただ登録された民族だけが彼に自分の生命の来た場所を覚えさせることが出来る。
 自分の生命の水源の特別な一筋を覚えさることが出来る。

 その結果として、公安局に行き、簡単に終わるだろうと考えていた手続きをした時、大変な面倒にあった。
 この手続きをした若い戸籍係りの警官は、かつて私と妻との共通の学生であったが、彼女は書類どおりに処理せざるを得なかった。民族登録に関する書類は中央のある部門から下されたものだった。

 この問題を解決するため、県知事をしている私の友人を訪ねた。
 県知事は小金県の古くからの人で、回族である。その祖先は乾隆帝が大小金川を平定した後移民してきた、と考えて間違いないだろう。回族がギャロンチベット地区にやって来るのは大体が商売のためである。

 周県知事は私を事務室に呼んで一通の証明書を出し、息子が父親の血縁に従ってチベット族に変更できるよう証明してくれた。

 ちょうどこの時、この県の幹部がもう一組やって来て、一家二人の民族を変更する申請をした。彼らはチベット族から漢族に変更しようとしていた。
 原因は私と同じで、内地に配属されるからだった。ただし、変更の方向は反対だった。

 何も言わなくても皆、この二人の行動の理由を理解していた。だが、純粋なチベット族の血統である事務局主任は判っていながらわざと尋ねた。

 そこで、二人は答えた。
 彼らは二人とも漢族だが、チベット地区で仕事をしている、子供たちが受ける教育がかなり質の低い教育であることを考慮して、チベット族と申請した。そうすれば、大学受験の時に点数の優遇が受けられて、それほど不利ではなくなるからである。今、彼らは内地に配属された。もしこの民族のまま行ったら、人々から馬鹿にされるかもしれない。

 その日、役所で出された証明は、三人の民族登録をあっという間に変更した。その背景はみな同じである。そして、証明を出す人も証明を要求する人も、誰も間違ってはいなかった。

 この話を書いたのは、文化上の変化、文化上のアイデンティティーは、生物学上の血縁問題のような単純なものではない、と言いたかったからである。
 巨視的な目ではこの変化について把握しようがない時、私はこのような小さな事実を読者に知ってもらおうと思いついた。一人一人の人に、私の経験を元にして、一つの地域、一つの民族、一つの文化の自然な崩壊に対してその人なりの思考と判断をしてもらおうと考えたのである。

 私は信じている。私たちの読者はまだこのような力を失ってはいなだろう、と。

 青蔵高原に関する多くの書籍、青蔵高原で生活するチベット族の生活に関する多くの書籍の中には、一種の単純化の傾向が見られる。

 まるで、青蔵高原に行ったとたん、このような特別な文化の風景の中に行ったとたんに、全ての物事の判断が非常に単純になってしまうかのようである。

 良くないものそれは悪いものだ、文明的でないものそれは野蛮なものだ、といったように。
 更に恐ろしいのは、山奥の村の文化が、現代都市生活の心のありようを映し出し、対比するための一つの手段となってしまうことである。

 山奥の生活がシャングリラのような天国だと思ってはいけない。

 青蔵高原の辺境の、少しずつ天に近づいていく大地の階段にも、多くの苦しみがある。ただ、長い間未開だったこの地の民は、まだ自分の声でそれを表現できないだけなのだ。

 そう、私たちは常に注意深くなければならない。自分の心の内側と二つの目が見るものに注意深くなければならない。

 

(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




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