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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 82 第6章 雪梨の里 金川

2011-11-15 23:07:38 | Weblog
1 河の両岸の風景 その2



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 このように辺鄙で小さな街では、若者は一種異様な精神状態になるものだ。

 自分たちと少しばかり違う身なりの人間を好まず、都会から来た人間が目の前をうろついているのだと思い込む。
 もし、誰かがしょっちゅう異質な身なりで彼らの前に現れたら、自尊心を傷つけられたような気持ちになってしまうのである。

 だから私はまず、登山用のリュックをどこかに置かなければならない。
 リュックを背負っていなければ、私はこの街の人たちとほとんど変わらない。
 そうすれば、少しばかり酒を飲んで、なんでもいいから発散する理由を探している人たちの目に留まることもないだろう。

 私は、各県城にある、おおむね最も安全できちんとしている県の招待所に部屋を取った。

 15.6年ほど前には、私は大きな街に行ったことがなかった。その頃はよく、大きな街へ行った人が持ち帰る、自分とは縁のない世界の噂話をいくつか聞かされた。

 このような噂話は、世慣れた人々の大都会での旅を、すべて華麗な冒険に変えていった。

 その当時、私の印象では、都会は私達のような者が行くところではなかった。

 たとえば、ある噂では、都会の旅館や招待所は、入り口の扉まで来ると、頭の先から足の先まで品定めさる。しかも、どんなに立派な服を着ていても、小さな村から来た、世間知らずな人間だと見抜かれてしまう、というのだ。
 
 都市が歓迎するのは世慣れた人なので、庶民は旅館の門さえ入ることは出来ないのだ。

 当然、この話をしたのは中へ入ることが出来た人だ。入れなかった人がこのような耐え難い経験を、まるで醜い傷跡のように人々にひけらかすはずがないのだから。

 もちろん、このような物語がもてはやされる年代はとっくに過ぎてしまったが。

 現在の中国人は、ほとんどが遠くに出かけたことがあり、多くの人がもっと遠い所まで行っている。

 私は都会の旅館で中に入れてもらえないといったひどい目に遭った事はなく、かえって、ドアボーイが笑顔でドアを開け、タクシーから荷物を下ろしてくれて、ちょっと申し訳なく思えたものだ。

 だが、地方を旅すると、様子はまた変わってくる。

 たとえば、その時、私が入って行ったのは、まあまあ立派といえるロビーだった。
 二三人のスタッフがおしゃべりに夢中になっていて、この地の独特な方言が功を奏しているのか、討論会のような空気を本物より更に熱くしていた。

 私はカウンターの前まで来て、リュックを下ろし、中から身分証と財布を出した。
 美人と言えなくもない一人が私をチラッとだけ睨んで、すぐまた自分たちの話の中へと戻っていった。

 私はあまり口を利きたくなかった。長いこと水を飲んでいなかったし、とても暑かったので、のどがからからだったのだ。だが、声をかけない訳にはいかない
 「誰か、手続きを、宿泊で」

 もう一人の女性の目線が飛んできた。
 彼女たちのおしゃべりは続いていき、何分かがそのままゆっくりと過ぎていった。
 もう一度声をかけた。今回はカウンターから言葉が返ってきた
 「大きな部屋はないわよ」

 私は言った
 「そんな大きな部屋でなくていいんだ」

 しばらく間があいて、また言葉が返ってきた
 「二人用のスタンダードならあるけど」

 私は言った
 「熱いお湯の出るバスルーム付きで」

 こうしてやっと、一人がめんどくさそうに私の目の前までやって来て、一枚の紙を差し出た
 「これ、書いて」

 紙はあるが書くものがない。私はまたリュックの奥からペンを取り出した。
 すべて書き終えると、相手はよく見もせずに脇へほおり投げ
 「お金は」

 こうして支払いとなった。
 私は何時もの癖で言ってみた
 「少し安くならないかな」 

 先程の紙が投げつけられ
 「泊まる気があるの。ホテルを相手に値切るなんて」

 支払いを済ませ、部屋に向った。
 上の階に行き、しばらく待ち、何度か声をかけ、下から人がやって来て、ドアを開けた。さっき下のカウンターでおしゃべりしていた女性の一人だった。
 さっきまではご機嫌で世間話に花を咲かせていたのに、今はぶすっとした表情でいかにも眠そうにしている。

 洗面所に入り鏡をのぞいて見た。長い旅のせいで、確かにぼろぼろに疲れきっていて、頭も顔も埃だらけだった。
 もし車に乗って来たならこんなふうではなかっただろう。
 私だって役所の車に乗ってここに来たことはあるのだ。
 その時受けた適切なサービスが思い出された。
 
 昔からの伝統で、親切で客好きだった私の故郷ギャロンは、いつからこんなにまで様子が変わってしまったのだろう。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)







阿来「大地の階段」 81 第6章 雪梨の里 金川

2011-10-24 01:26:17 | Weblog

1 河の両岸の風景



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



 
 長距離バスは、狭く、だが平坦なアスファルトの道を飛ぶように前へ進んで行く。

 一本の河が影のように公道によりそい、ずっと窓辺に姿を見せている。
 
 両岸の山が遠くへ退くと、あっという間に谷は広がって、河は公道から離れ、その間を柳とポプラによって隔てられる。時には、公道と河の間を、耕地と村が隔てることもあり、そこが人々が穏やかに暮らしている場所なのである。
 
 両岸の山の峰が再び近づいてきて、絶壁となって大河の両側に垂直に迫ってくる。河はまた窓の外で咆哮し始める。
 
 人々の暮らす広い谷間と、木々に覆われた狭い谷が旅の途中に交互に現れる。

 この旅の間に、一つまた一つと現れる地名はみな慣れ親しんだ名前だ。
 かつて「旅立ち」という詩の中で書いたことがある。

 毎回、気ままな旅に出ようとする時、
 そこに列なる名前を思うだけで
 一つ一つの文字がきらきらと光を発し、
 その名前をそっと読み上げるだけで
 旅はもう始まっている。

 
 今、私はまた旅をしている。車窓の風景が幻へと変わっていく。

 次々と現れる地名がそれぞれに具体的な姿を持った村へと変わっていく。
 白湾、石光東、可璽因、周山、党覇、その一つ一つが大渡河の谷にあるギャロン人の村の名前である。

 一つのカーブを曲がると、一つの村が河岸の開けた地に現れる。ほどなく、その村は後方へと退き、谷の両側の高い山が迫ってくる。
 バスが狭まった道をしばらく進んでいくと、山は再び退き、咆哮していた水は開けた川床に身をゆだね、伸びやかに広がっていく。

 その時、また一つの村が濃い緑の中から現れるのである。

 最後に、バスが党覇を通った後、大きな山は再び開け、一旦開けると、そのままはるか彼方へと退いて行った。
 そして、花崗岩の山は、厚い黄土の何層にもなる堆積へと変わった。黄土のゆるやかな斜面が幾層もの棚田へと切り開かれているのである。

 河は広い河床をゆっくりと流れていく。一つ一つと現れる村は、谷間や、幾層もの黄土の階段の上に散らばっていた。

 この広々として豊かな谷間は、清の乾隆年代前は、常にギャロン文化の中心だった。
 そして、チベット族本土の宗教、ボン教の中心地だった。

 だが今、これらの谷は、伝統的な意味でのギャロン地区という外在者としての面影は見られなくなっていた。
 村の民家はほとんどが漢族の様式で建てられている。
 それでも、一面の梨畑と、河から山の中腹へと伸びる幾層もの畑は、そのままで一種特別な美しさを生み出している。

 これらの豊かな村を歩きながら、出会った人々に何族かと尋ねると、誰もがみなチベット族と答えるだろう。
 それでも、ここではギャロンの文化が日増しに薄らいでいるのがはっきりと見て取れる。

 だが、河の両岸の村や田や野のたゆみない力には、昔と同じように、強く心を打つものがある。
 金川の県城の周りの広い谷間には、チベット語でツーチンと呼ばれる場所が、かつてギャロン文化の中心だったというかすかな痕跡も見られないのだが。

 金川の県城も同じである。

 バスが停留所に停まった時、私はちょうど降りようとしていた。
 すると、運転手が尋ねた。古い町に行くかね、と。そこで私はまた座りなおした。
 運転手は煙草を一本差し出して言った。
「ここまで旅して来る人たちは、みんな古い街へ行きたがるんだよ」

 私は金川へ始めて来た訳ではない。だから、今目の前にある一部の新しい街は、ほとんどが解放以後に建設されたのを知っている。
 それ以前から、金川は県城として早くから中国の版図の中にあった。

 バスはまた動き出した。
 険しくなった公道は、新しい県城の後ろ側から蛇行しながら山の斜面を登っていく。

 あっという間に、もう一つの台地が目の前に広がった。

 この台地に昔の金川の県城がある。金川の地元の人が言う老街である。
 この老街にも、ギャロンの文化の息遣いを感じられる場所はどこにもなかった。

 何年か前、ここには壁板が黒ずみ軒に草の生えた、店と宿を兼ねた古い家がいくつかあった。だが今、このような家はほとんどなくなってしまった。

 金川は豊かな地である。気候は穏やかで、生産量は豊かだ。
 それに加えて、ここではチベット族と漢族の血が混ざっていて、漢文化の精神をより多く受け継いだ人々は特別勤勉である。
 住民たちはみな美しい家を建てる。

 だが、私の今回の目的はこの美しい家を見ることではない。
 そこでまたリュックを背負い、山のふもとにある県城を目指して歩き始めた。

 まず、夜を過ごす寝床を見つけて、体を休ませなくてはならない。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)








阿来「大地の階段」 80 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2011-09-26 22:30:01 | Weblog
12 長征と関係のある寺



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 清らかに渓流が流れている深い谷を隔てた向かい側の山の斜面がこの村の残りの半分である。
 こちら側の半分の中心は、古代の石の砦である。そして、向かい側の半分は正殿だけしかない寺である。夕日に照らされて、寺の薄い鉄の屋根は目を射るような光を放っている。

 私は谷のこちら側の胡桃の木の下にじっと座っているだけで、谷底に降り、それからまた険しい道を登ってまでして、その寺に参拝する気にはならなかった。

 昔、ここで村の学校の教師をしていた時、数え切れないほどその寺に行った。
 ただし、その頃の寺はまだ完全には崩れ落ちていない廃墟だった。

 その頃、同じ学校の美術の教師が、日曜日に私と連れ立ってこの廃墟へ行くのを楽しみにしていた。
 私がこの寺を好きなのは、壊されて完全でなくなったものが持つある特別な美しさに深く心を奪われたからだった。

 同僚は、毎回スケッチブックを持って行った。何とか持ち堪えている壁の一つ一つに多くの壁画が残っていたからだ。雲紋、神仙の体にたなびく帯、牛頭馬頭といった奇怪な神像の絵、細切れになった地獄絵。
 寺はなぜか風雨を防ぐ屋根を失っていて、そのため、残っている壁画は雨水に浸食されてぼろぼろになっていた。

 同僚は切れ切れになった壁画を模写し、私は廃墟が醸しだす特別な美しさに心を震わせていた。

 この美しさが私に、詩への最初の衝動を与えてくれた。
 私が初めて発表した詩は、後日この寺の廃墟を想って書いたものなのである。

 それは、中国中が過去の過ちを改めていた時代だった。
 そこで政府の金と人民の寄進を使って破壊された寺の修復が始まった。だが、寺に大地のすべての精髄を集められる時代ではなかった。そのため、寺の屋根が鉄の板で葺かれたのは至極当然のことだったのだ。

 この寺の修復が開始され、私と私の同僚はここを訪ねる楽しみを失ってしまった。
 私はと言えば、廃墟特有の美しさを味わうことが出来なくなったからである。
 彼女にすれば、気の向くままにあたりを歩き回り、筆遣いの息づく壁画を思いのままに模写できなくなったからだ。

 それほどの時間がたたないうちに、私も絵を描く同僚も相次いでこの地を去った。

 80年代の中頃、有名なアメリカ人がギャロンにやって来た。『長征、語られざる真実』を書いたソールズベリーである。

 その時私はすでに文化部で仕事をしていた。
 私たち若者は、ソールズベリーというアメリカ人が、多くの役人を従えて、中国人には秘密の史料を自由に閲覧し、望むところどこへでも訪ねて行くのを目にして、いささか憤りを感じていた。
 同時に、得意げにアメリカ人に纏わり付いて世話を焼く輩に恥ずかしさを覚えてもいた。

 その中の一人は、このアメリカの作家に付き添って戻って来ると、得意満々に、アメリカの作家はああだったこったうだと、繰り返し説明するのだった。
 更に奇妙なのは、ある時、この人物が私たちにひけらかすように、なんと、アメリカの作家が長征の道をたどった時重大な発見をした、と語ったことである。

 私は、何の発見かと尋ねた。

 彼は、張コクトウが長征の途中で中央と紅軍を分裂させる有名な会議を開いた場所だ、と言った。

 彼が行って発見する必要はなかったのだ、と私は言った。
 何故なら、張コクトウが会議を開いたその小さな寺とはここなのだから。地方史を少しばかり知っているものなら皆、この寺とは、目の前にある白杉村の寺であると知っている。

 その年、一、四方面軍は合流した後、ギャロンの谷で糧秣を集め、それから青蔵高原の階段を上って行き、再編された一、四方面軍は左、右の二つの路軍に分けられ、四川、甘粛両省に跨るゾルゲ草原に入って行った。
 だが、途中まで来て戦力旺盛な張コクトウは、損傷甚だしい党中央から困難な指令を押し付けられるのを嫌い、部隊に命令を下して、四川、甘粛が境を接する大草原から再び大渡河流域のギャロン地区へと引き返した。四川盆地を取り戻し、豊かに開けた平野に根拠地を築こうと考えたのである。

 張コクトウの部隊が岩の上に残したスローガンを見たことがある。
 そのものずばり、「成都に戻って米を食べよう」、と書かれていた。

 草原からギャロンに戻った後、張コクトウは白衫の地で会議を開き、第二中央を作ると宣言した。
 長征の途上で有名な、いわゆる「タクギチョウ会議」である。

 その時、寺は修復の最中で、張コクトウが本殿の中でモーゼル銃を背負った一群による大会を開いたという話は伝わっているが、寺の中、または、周囲にこの会議が確かにここで開かれたと証明できる手がかりはなかった。

 その後、張コクトウは大群を率いて広野に現れ、四川盆地に向って攻撃、前進し、現在茶の産地として知られる蒙頂山の下で四川の軍閥部隊に強硬に阻まれ、重い代価を支払った。
 やむなく、雪山と草原を越えて再び北上し、毛沢東率いる中央紅軍の一部と合流するのである。

 太陽が山の後ろに落ち、寺の屋根のから時折放たれていた光が消えた後、夕風に吹かれながら、私はこの村を後にした。

 村を去る時、若い画家は住所を尋ね、絵が出来上がったら送ります、と言った。私は住所を書いて渡したが、絵が送られてくるのを期待してはいなかった。

 熱足で車を降り、もう一度、ここを通る車に私の行き先を選んでもらおうと考えた。
 上に向って行けばマルカムに戻り、リンモ河の源流へと遡っていく。この旅を始める時、必ず一本の河の源流を遡り、山に登ろうと決心していた。
 下に向って行けばその昔のギャロンの中心だったツーチン、現在の金川県に行く。

 熱足の橋で2時間ほど待ったが、行き来するトラックも車も、私のあげた手を見て見ぬ振りをした。
 これでは、哀願をこめて立てた親指に気付いてくれるのは望むべくもなかった。
 
 最後に、長距離バスがやって来て、私が手を上げるのを待たず、ぎいっと音をたててすぐそばでブレーキを踏んだ。

 私はバスに乗った。目的地は70キロ離れた地、金川である。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)









阿来「大地の階段」 79 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2011-07-13 15:35:22 | Weblog

11 チベット画の絵師を訪ねる その2


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 この季節は、確かに、一年かけた作物が霰の被害を受けやすい時期である。

 夏、この辺りの谷間では強い熱気流が絶えず上昇し、雨を含んだ雲を絶えず上空に押し上げる。その度に、細かい雨粒が上空の冷たい風に吹きつけられて霰となり、終にはそれが降ってきて、果樹と作物をダメにしてしまう。

 霰を防止する一番の方法は、小型ロケットを霰になりそうな雲に向かって発射し、爆発の振動波で雨水を早めに落下させて、上空で上に行ったり下に行ったりと漂っている間に凍って、作物の殺人者になるのを防ぐことである。

 このような近代的な霰防止策があるのだが、この付近の村ではやはりラマを呼んで呪文を唱え、法力を施してもらっている。現代の技術と古い迷信の二つの方向から攻めていくのである。
 その結果、みんなが信じたいと願っている二つの方法は両方とも効果を上げている。時には失敗することもあるが、そのためにラマの権威が疑われるのを見たことはない。

 私たちが話している時、晴れた空から重々しい雷の音が響き始めた。まもなく、真っ黒な雨雲が天の果てから漂って来るのが見えた。これが例のいつでも霰を降らせることのできる雲だ。

 彼は言った。これは師匠が呪文を唱えた後、その村から追い払われてきたのです。
 そう言うと、彼もまた何か呪文を唱え、ハダカムギの種を掴んで雨雲に向かって力いっぱい投げた。
 すぐに、豆粒くらいの雨がぱらぱらと落ちてきた。

 私は尋ねた「シャマルジャ、君は自分に法力があると信じてるのかい」
 彼は何も答えず、私を見て微笑んだ。
 私も微笑んだ。

 私たちのいるこの小さな一角が豪雨に閉じ込められている時、広々としたズムズ河の谷間にあるもう一つの村と畑は、何時もどおり太陽が明るく輝いていた。
 
 豪雨はあっという間に通り過ぎ、薄らいで力を失った雨雲は、上空の風のままに細かくちぎれ、漂い、消えていった。
 雨あがり、太陽は輝きを増し、雨に濡れたすべてものが、日を受けてきらきらと光を発していた。

 あまり遠くない寺のあたりに、美しい虹が現れた。虹の一方は渓流の流れる村のはずれの大きな谷間に架かっている。

 それを見て、若い画家は言った。あれは龍が天から水を飲みに来ているのです。

 私は、目の前の美しい光景を味わいながら、一方で考えていた。私たちが十年に渡って行った正規の学校教育は、なぜ今彼の中にその痕跡を留めていないのだろうか、と。

 若い画家は私のリュックを取り上げ、そうしてから外出を許してくれた。
 彼は言った。こうすれば、私が夜必ずここに帰ってくるからだ、と。

 私を見送りに降りて来てこう言った。私をここに泊まらせ、絵が完成したら贈り物として捧げたい。今、自分は民間の画家であり、一枚の絵が百元から十元で売れる。しかも、みな喜んで買ってくれるのだ、と。

 彼の暮らす建物を出て、村の中へ歩いて行った。

 村の中央に小さな広場がある。
 広場の傍らの胡桃の木は枝葉を大きく伸ばし、濃い影が辺り一面を覆っていた。

 広場の反対側には、過ぎ去った時代にこの村を守っていた高い石の堡塁がある。堡塁は少なくとも、十階ほどの高さはあるだろう。
 村の中の他の石造りの建物はほとんどが二、三階である。その中にあって、この高い石造りの塔は、特別に際立って見える。

 ただ、堡塁に入る入り口は二階の高さのところにだけ開いている。その下には出入り口がない。
 堡塁に入る時は、高い梯子をかけなくてはならない。梯子を抜き取ってしまえば、下にいる人は入ることは出来ず、上にいる人は降りることが出来なくなる。

 中に入ってみたいと思った。だが、村の人の話では、そのように高い梯子を作れる良い木材は今はもうなくなってしまったという。

 梯子とは、一本の原木に一つ一つ足場を切り取ったものだ。

 堡塁の中ほどにあるその入り口を見ながら、確かにこのように長い木は見たことがない、と考えていた。

 今、戦の絶えなかった封建割拠の時代から遠く隔たってはいる。
 だが、このような石の塔があることによって、村全体が一つにまとまっている。この堡塁がごく自然に村の中心になっているのである。

 そうして、堡塁の下には小さな広場が出来た。
 広場の周りには、ひとつまたひとつと石造りの家々が並んでいる。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 

阿来「大地の階段」 78 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2011-07-05 00:42:57 | Weblog
11 チベット画の絵師を訪ねる その1



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 ふとしたきっかけから今回の故郷の旅が始まり、そして更に偶然を重ねてここまで来た。

 学校を後にし、目的地をここから遥かに眺めることの出来る白杉と呼ばれる村に決めた。
 そこで、鎮を貫く公道を離れ、トラクターの真新しい轍の刻まれた道を進んでいった。

 道の下方には河岸に沿って一段一段積み上げられた果樹園がある。
 かつて生徒をつれてこの畑でりんごの収穫の手伝いをした。
 今、その樹々は成長し、ずっしりと重そうな実をたわわに実らせている。1,2ヵ月ほどすれば、りんごの緑はゆっくりと黄色や赤に染まり、そうなれば収穫となる。

 路の上方は一区画ごとに、黄色く熟れた麦と花粉を飛ばしているトウモロコシが入り混じっている。麦とトウモロコシの間は、長い畝を持つジャガイモ畑である。ジャガイモの深い緑の葉の間に白と青の花がかさなり合って開いている。

 この広い畑を抜け、さらに山を一回りすると、私が目指す村である。

 突然、麦畑で腰をかがめて収穫していた女たちが一斉に腰を伸ばし、再びこの地を尋ねた私に目を向けた。女たちは驚きとうれしさに高い声で叫び始めた。
 こんなに大騒ぎしなくてもいいのに、と思ったその時、後ろでパタパタという足音が聞こえた。
 先程子供を抱いて恥ずかしがって逃げていった女生徒が追いかけてきたのだ。


 畑の農婦たちのはやし立てる叫び声の中、彼女はシャツの中から真っ赤な早生のりんごを私の手に押し込んで、また向きを変えて走り去って行った。
 この時、畑にいる女たちの中には鋭く口笛を吹くものまでいた。

 このように友好的で少したがの外れた女たちを前にして、私としては、相手にせずに自分の道を進むしかなかった。そうでなければこの女たちは一斉に集まって来て、面倒な状況を引き起こさないとも限らない。女性がたくさん集まると、解放的で大胆になりがちだから。

 しばらく歩いてから振り返り、女たちが追ってくる様子がないのを見て、再び速度を緩め周りの景色を眺めながら歩みを進めて行った。
 山道を回り、小さな尾根に上がればそこが今回の目的地白杉村である。

 数あるギャロンの村々と同じように、白杉村も日当たりのいい緩やかな斜面に位置している。
 石造りの集落を覆っているのは、やはり胡桃の木の涼しげな日陰である。
 
 遠くから眺めると、村の中央にある、この地方のすべての村よりも古いかもしれない高い堡塁が見える。
 そのほかには、不規則に放たれる金属の輝きが見えた。それが規模は大きくないが、かなり位の高い白杉寺だ。
 
 私がこの村へと進んで行った時、シャマルジャはすでに村の入り口で待っていてくれた。
 昔の生徒はすでにりっぱな大人になっていた。

 彼はすぐに私を建物の3階の屋上まで連れて行った。
 黄土を突き固めた屋上には黒いじゅうたんが敷かれていた。画布は画架の上に載せられ、仏画は半分くらい仕上がっていた。

 師匠はどこにいるのかと尋ねた。

 彼は、自分は師匠と一緒に住んでいるわけではなく、ある時は師匠が来て見てくれるし、ある時は絵を師匠のところへ持っていって、批評と指導をしてもらうのだ、と言った。

 彼の絵を見ると、比率と大きさは伝統的なチベット画と同じだった。
 そこで私は言った。

 「チベット画の大きさと比率はみな「度量経」にはっきりと決められているのに、こんなに長い間師匠について学ばなくてはいけないのかね」

 彼はただ笑って、茶碗いっぱいに奶茶を注ぎ、出来立ての青稞酒を私の前に置いてから、やっと座って、言った。

 師匠について学んでいるのは、実は絵を描くことではないのです。

 私は尋ねた。では何を学んでいるんだね。

 彼の答えは、二つのことを学んでいる、一つはチベット語だ、というものだった。

 彼は言った。
 先生、考えてみてください、あの頃先生たちが教えてくれたのはみな漢語です。学校に受かって幹部になる少数の人を除いて、田舎に残る私たちにとって漢語は何の役にも立ちません。

 私は彼のこの言葉に反論しようと思った。だが、しばらく考えても、一人のチベット族の農民のためにこれといった使い道を思いつくことは出来なかった。そこで、彼の話を聴き続けるしかなかった。

 彼は言った。
 先生のおっしゃることはその通りです。絵を学ぶのに師匠の説明を聞く必要はありません。「仏画度量経」に決められた大きさと色にのっとって、定規で下絵を描き色をつければいいのです。
 ただ、「度量経」はチベット語で書かれています。漢語ではないのです。そのため、絵を学ぶ第一歩は、実は師匠についてチベット語を学び、度量経の示す指導を理解できるようになることなんです。

 私は尋ねた。もう一つは?

 彼は何も言わずに、部屋から山ほどの物を持ってきた。しかも、その中に同じものは一つもなかった。様々な色のある木の根、様々な鉱石、他に、金粉、銀、真珠といったものだった。
 一目見て分かった。
 彼が言いたかったのは、絵を学ぶとは、師匠についてどのようにして鉱物の顔料を作るかを学ぶことなのだ。

 木の根と鉱物の中の顔料は我慢強く抽出しなくてはならない。
 銀と真珠は細かく研磨しなくてはならない。
 このような化学によって作られたのではない顔料がチベット画の耐久性に確かな保証を与えている。
 多くの寺の壁画はこのような顔料を使うことによって千年を越える時を経ても、その色には少しの変化もない。

 これらはすべて、特別な技術であり、師匠の丹精をこめた指導が必要なのである。

 この師匠に会おうと思った。だが、シャマルジャによると、師匠は今近くの村から頼まれて経を読みに行っていて、まだしばらく帰ってこられないという。

 何の経を読むのかと尋ねた。
 
 霰を防ぐ経だという。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)






阿来「大地の階段」 77 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2011-06-22 20:12:43 | Weblog


10 永遠の道班と過去の水運隊 その3




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



 車は走り出した。公道の縁の石垣も、集落も、ほとんどのものが20年前と変わっていない。
 その当時、私はここから15km離れたズムズ郷中学で一年間国語の教師をしていた。

 車に乗るとすぐに、彼は大きなりんごを手渡してくれた。彼の弟の様子を尋ねた。
 彼は言った「弟はあるラマの弟子になりました」
 「シャマルジャは出家したのか」
 彼は首を振って、言った。「ラマについて絵を学んでいるだけです」

 ほんの一眠りしている間にズムズに着いてしまった。
 戸惑いながら慌てて車を降り、リュックを背負い、かつて、毎日たよりを待っていた郵便局の前に立った。
 突然今自分はどこにいるのだろう、という感覚にとらわれた。

 あの時、この村の建物の多くは新しく建たられたばかりだった。その中で最も新しかったのがこの郵便局と私たちの新築の学校だった。

 昔、ここはとても賑やかな場所だと思っていた。だが今受ける印象は以前と違っている。
 閑散としてうら寂しい場所になってしまった。
 そして、自分がいつの間にか、このような都市と村の間に介在する場所を疎ましく思っていることにも気付いた。

 私はかつて一年教師を務めた学校に行って一巡りしてみた。

 当時この村で最も大きく美しい建築だった校舎の窓は壊れかけ、ペンキがはがれ落ちている。
 すでに学制からはずされた中学は、本当に短い存在でしかなかった。徐々に薄れ最後には消えてしまう記憶でしかなかった。
 
 広い場所を占めている校舎は今では郷の中央小学校になっている。
 ちょうど夏休みで、校庭に人の姿はない。運動場の周はどこも雑草が伸び放題だった。

 運動場の真ん中に立つ。
 ふと、当時の若い教師と教師を囲む学生たちの笑い声が聞こえてきたようだった。

 その時、誰かが私の袖を引っ張った。振り返ると、十歳くらいの男の子が私の後ろに立っていて、背負っている荒織りの袋を下ろそうとしている。
 男の子はいささか大人びた口調で言った。
 「やあ、社長さん、マツタケは要らないかね」

 男の子は袋の口を開けた。たくさんの木の葉や草で一つ一つ包まれた松茸だった。
 あたりはあっという間に独特なすがすがしい香りでいっぱいになった。

 松茸はこのあたりの山林に自生する数ある野生のきのこの一つである。
 ここ数年、野生のきのこ類に抗癌作用があると発見されたため、海外輸出の主力商品となり、価格は一気に1kg百元以上に跳ね上がった。

 私は男の子にチベット語で言った。
 「俺はマツタケを買いに来たんじゃないんだ」

 すると、垢で真っ黒な顔に頬だけ赤く、格別に美しく澄み切った瞳を持つ男の子は、なんとも申し訳なさそうにちらっと舌を出し、飛ぶように走り去った。

 この表情は昔のいたずらな生徒たちを思い出させた。
 その中に、客を乗せ走り回っている兄の話によると今ラマの元でチベット画を習っているシャマルジャがいた。


 校門を出る時、また見覚えのある顔に出会った。当時の女生徒だった。
 彼女は赤ん坊を抱いていた。たぶんそれは彼女の息子だろう。当時は今の自分より若かった教師に出会って、彼女はぽっと顔を赤らめ、ちょっと舌を出し、かすかに驚きの声を上げ、走り去っていった。


 ここに戻って来て、まさに、「物は是なるも、人は非にして」の思いを味わった。
 だが、自分がこのような感覚が好きなのかどうか、はっきりと分からないでいる。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)









阿来「大地の階段」 76 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2011-06-09 00:13:40 | Weblog
10 永遠の道班と過去の水運隊 その2





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





 大真面目な文字の遊びの例はたくさんある。
 ローズウという小さな地方だけでも一つにとどまらない。

 たとえば、道班(道路工事の飯場)という言葉、これは公道を補修する道路工事の労働者が住み込む所である。
 だが、70年代、ある日突然、飯場に掛かっていた表札がすっかり変えられた。
「道班」が「工班」に変わったのである。

 たとえば、今私の目の前の、ローズウの飯場の入り口には一つの表札がかかっている。
 「ローズウ工班」である。
 このように改変したのは飯場を率いる機関にある日、「道」は「盗」を連想させやすいという、おかしな発想が生まれたからだ。そこですべての表札を「○○工班」という表現に変えた。
 だが、人々はすでに呼び方までは変えられなかった。

 もう一つ、先程書いた水運隊という呼び方。
 昔からこれまで、木材の流れてくる河の辺りの人々はこのようには呼んでこなかった。この名称は、耳にしただけでは、水上運送をする船団の名前のように聞こえる。話し言葉ではずっと「流送隊」と呼ばれてきた。

 実際にそこで働く人たち自身も自分たちをそう呼んでいだ。

 「流送」。彼らにとってこれはより具象的で、より適切な名前なのである。だが、文字の上ではあくまでも固執して水運隊と呼んでいる。

 あまりにも文字の魔力を信じすぎると、どの言葉もみな呪術師の呪文となってしまうかもしれない。

 だが今、私がローズウの橋の袂に立っているのは言語の問題を考えるためではない。私はここでこれから進む道を選ばなければならない。

 今私は花崗岩でできたアーチ型の橋の上で徘徊している。橋の下では増水期を迎えた河の水が疾走し、咆哮している。黄色く濁った水の上には白い浪が次々と飛沫を上げる。

 橋からそれほど遠くないあたり、数百メートルの下流で、水量を増したスムズ河が左岸の二つの大きな岩の間から溢れ出すように流れて来て、リンモ河の流れと一つになる。
 二つの流れが激しくぶつかり合い、花崗岩の高い岸壁の足元で巨大な波を舞い上がらせ、激しい波音が雷鳴のように山の間をこだましていく。

 ここで公道からまた細い枝道が分かれている。

 本道はリンモ河に沿ってひたすら下って行き、金川を過ぎ、もう一度以前訪れた丹巴に至る。橋を渡るとズムズ河に沿って枝道が更に深い山の中に伸びていく。そうして、また途中で細かな枝道が分かれていき、最後にはそれらは一つ一つ山の奥に消えていく。

 今考えているのは、この道を行くべきかどうかだ。もし行ったら、またその道を戻ってこの橋の上帰ってきて、それから、改めて旅の路線を考えなければならない。

 それはとても面倒なことだ。

 そうしている内に、終には、一台の小型バンがやって来て、私の前に停まった。運転手が「先生」と叫んだ。私はゆっくりと思い出した。
 その顔は20年ほど前の垢じみた学生の顔へとゆっくりと変わっていった。

 私はためらいながら尋ねた「シャマルジャかい」
 彼は首を振って言った「僕はシャマルジャの兄です。乗ってください」
 
 そこで、私は車に乗った。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





 

阿来「大地の階段」 75 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2011-05-25 18:12:36 | Weblog
10 永遠の工事現場と過去の水運隊 その1




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





 リンモ河の流れがローズウに至るあたりは、両岸に花崗岩の山が険しく切り立って、谷間を行く河へと迫っている。
 柏の木は岩の間に深々と根を下ろし、意外なほどに青々とした林をなしていて、まるで奇跡を目にしているようだ。

 村を出て、切り立った河岸に立つと、狭まった河底では水の流れが雷のように鳴り響いていた。
 強い河風が吹きあげてきて、この風に乗って舞い上がれそうな感覚をおぼえた。
 だがそれは、あくまでも感覚でしかなかった。私の足は相変わらず河岸の公道を上を歩いている。

 公道が出来てから…、老人は私が彼の家を去る時に言った。オレたちが呼んできたローズウという村はもうローズウじゃなくなったんだ。

 私を見送って外に出た時、老人は、今ではより多くの人からローズウと呼ばれるようになった場所を指差した。そこは、急流の上に架かる花崗岩で出来た橋の袂で、中華式の瓦屋根と白壁の家が這いつくばるように並んでいた。

 老人は言った「あそこがあいつらにとっちゃ、今のローズウさ。オレたちのとこなんて、まるで知らんと言わんばかりだ」
 このいささか憤りを含んだ言葉はどこか歯切れが悪かったが、言いたいことは理解できた。

 事実、これは時代の大きな変遷の中の、人には知られにくい小さな変化である。

 あの家々は、この時代になって始めて現れた地形上の目印であり、公道の縁、主要な橋の袂にあるために、ローズウという地名の新しい目印となったのである。
 静かな山の中の、人の目に触れないような狭い土地でも、重心の移動はあるものなのだ。

 すでに過ぎ去った、孤独な修行者が街道を足早に歩き回っていた時代、ローズウといえば、それはまばらな畑の中に散在する石造りの家々を指していたのである。
 だが今、長距離バスの運転手とその乗客がこの地名を口にする時、思い浮かべるのは、道路の縁のまるで生気のない瓦屋根の家々なのだ。

 今、村を後にして、畑の縁の折れ曲がった細道を抜け、公道に沿ってあの興ざめの家々に向かって歩いている。

 しばらくして土ぼこりで覆われた地名を示す標識が目に入った。
 老人の恨みのこもった話をもう一度思い出し、思わず笑いがこみ上げてきた。

 その家々の中に、まぎれもなく道路工事の班場と思われる建物が一軒あった。

 何軒かの家はすでに使われなくなっていた。うち捨てられた家の周りには小さな菜園が作られ、生気のない葉の中に緑色のトマトが成っていた。
 家の壁には決意表明のような言葉が書かれていた。
 このような言葉を私たちはスローガンという。
 だが、チベット語の中にこれに対応する言葉はない。もしそのまま直訳したら、呪文という言葉がそれに近いだろうか。

 以前ある村で村長が若者に言うのを聞いたことがある。
 君たちのように漢語のできる若者は、壁や岩に呪文を書きなさい、郷の役人が来てそれを見たらきっと喜ぶぞ、と。

 うち捨てられた家の壁に書かれているスローガンは

  「流れてきた木材を勝手に引き上げてはいけない」

  「国の財産を守ろう、木材を盗む行為を許すな」

 確かに、流されてきた木材が岸に乗り上げて、知らぬ間に姿を消してしまうことはある。往復する長距離バスの運転手に売られるのだ。
 更には、大きな原木が河の中でぶつかって細かく砕けてしまうことも多い。

 沿岸の多くの場所では、森林が消失したために燃料を手に入れるのはますます困難になっている。そこでいつの間にか、河の中のすでに利用価値のなくなった原木のかけらを人々が探し求めるようになった。
 担いで家に帰り煮炊きに使うのである。水運の人たち自身も、河からの燃料で火を起こしている。
 洪水の季節になると、大渡河と泯江の流域の人口の比較的多い鎮では、河の両岸は砕けた流木をあさる老若男女で埋め尽くされる。

 どこの河岸にも、濃い墨でスローガンがいくつも書かれている。
 だが、多くの鎮で、河に浮かぶ木のかけらだけが唯一の燃料なのである。

 聞くところによると、一本の木が山で切り倒され、河に流され、四川盆地の荷揚げ場所まで着いた時、残っているのは全体の四分の一位だという。
 また一つの観察によると、このような方法で運ばれた木材の最終的な利用率は、およそ三分の一だという。
 このように提出された数字を見れば、ギャロンの山奥の訳もなく消滅させられた森林のために、私たちは大声をあげて泣き叫ぶ理由があるのである。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)







阿来「大地の階段」 74 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2011-04-21 00:46:03 | Weblog
9 土司の物語二  その3


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


 昔、この発電所の工事現場で働いていた時、ときたま、当地の人から土司の時代の面白い逸話を聞いた。
 その中に、土司の裁判に関する話があった。

 それによると、刑の中で最も軽く最もよく用いられたのは笞杖刑だった。
 ほとんどの土司のもとでは、この刑は鞭によって行われていた。松崗土司の領地で、村人たちがこの地の言葉で言うムチウチノケイとは、漢語に直訳すると、細い枝で打つことだった。

 鞭打ちの刑は、平素は獄吏を務めているラリグワという専門の役職の者が執行する。
 そして、鞭は専用の木から作られ、十数戸しかないローズウという村が請け負っていた。
 当地の人の話では、この枝は十本で一束になっていて、一本は十回しか打てない。一束を打ち終わるとちょうど百になる。

 土司の館では専門に一部屋を設け、人を打つための枝を保管してあったという。

 大金川の公道に通じているこのローズウという村へは何度も行ったことがある。

 ある時村の老人に尋ねた。村人が団結してこの木を切り倒し、土司の賦役に抗議したことがあったのかどうか、と。老人たちはちょっと笑って、酒を客の前に差出したが、答えはなかった。
 もちろん、この山の奥のある決まった種類の木から人を打つための枝が作られている、ということは、誰も教えてくれなかった。まして、土司がどうして他ではなく、この種類の木を選んだのか、教えてくれる人はいなかった。

 一番記憶に残っているのは、ローズウの村のどの家の門の前にも菜園があり、一叢の唐辛子が燃えるように赤く天を指していて、食欲を刺激されたことだ。だが、よく練ったツァンパと一緒に塩漬けの唐辛子を一口かじると、その辛さに、両方の耳がウオンウオンと鳴り始め、まるで巣を追われたすずめ蜂たちが脳の中で飛び回っているかのようになるのだった。

 誰も、どの木が鞭打ちの刑の木なのか教えてくれなかったが、最後に、どのような状況の下で鞭打ちの刑に遭うのかを教えてくれた。

 老人は指を一本折った。
 第一,食糧を納めず賦役に出ない時。館に呼び出され牢に入れられるのだが、その時土司に賂をしないと鞭で打たれることになる。即ち鞭打ち数百の刑である。さらに、賦役に出て食糧を納めることに同意して、やっと放免される。

 老人はもう一本指を折った。
 第二、盗みをした時。鞭打ち数百の刑の後、牢に繋がれる。

 立っている指はまだたくさんあった。だが、老人は三本目の指を折ってしばらく考えてからまたもとに戻し、頭を振って言った。終わりだ。だが、私はまだ何か足りない気がして、老人にもっと教えてくれと迫った。

 老人はぼんやりと周り見回してから言った。
 何を話したらいいのかね。
 彼の表情から、彼が私にではなく、自分自身に、自分の記憶に尋ねているのが分かった。

 その時、彼の目が銃の上に止まった。
 それは壁に掛かった猟銃だった。

 猟銃のそばには牛の角が掛かっていた。
 牛の角の太い方の端には木の底板がはめられている。
 とがった方の端は、小さく口が開けられ、切り口は薄い銀で包まれ、柔らかい皮で作った栓がついている。

 これは猟師が火薬を入れておく道具である。
 狩の時に火薬を詰めるのに便利なように、牛の角の四分の三ほどの所で二つに切り離す。この二つをつなぎ合わせるのはキバノロの革で作った雉の首のような皮袋である。火薬を入れる時は雉の首のように長い皮袋を摘み上げると、先にある角の中が、ちょうど一回撃つのに必要な火薬の量になる。

 もし火薬が多すぎると、猟銃の筒が爆発して、猟師自身を傷つけてしまうかもしれない。この皮の首は開閉装置として、また調節装置として、銃の中の火薬が適量になるように調節することが出来るのである。
 大きな獲物を撃つ時は、火薬を送る手を少し緩めれば、銃の中の火薬が多くなり殺傷力が強まる。
 普通の獲物を撃つ時は手をきつく握っていればいい。

 だが、そのようしても、ある日雉を撃ちに行き、銃声の響いた辺りに目をやると、木の上にぱっと羽が舞い上がり、その美しい羽が辺りに漂って行くのだが、拾い上げた獲物の肉は鉛の玉によって跡形もなかったりするのである。

 火薬を入れた牛の角のほかに、猟銃のそばにはタバコ入れと同じくらいの大きさの皮袋があった。中には砂の鋳型で猟師が自ら鋳造した円形の鉛の弾が入っている。

 これらの物が、猟銃と一緒に壁に掛かっていた。

 老人は壁から猟銃を下ろし、牛の角から火薬を出して手の平に並べた。
 火薬は本来青っぽく、野菜の種のようなものなのだが、今では一塊に固まっていた。

 老人はため息をついた。

 私は知っている。この銃は土司の統治のもと、兵が村で民とともに暮らしていた時代では、土司が武装する重要な武器だったのだ。
 土司制度が終焉した後、これらの銃は獲物を獲るための武器となった。
 5、60年代では、村の農民は秋が来るたびに、猟銃を手に作物が実った畑の畦で見張りをし、猿や熊や猪から一年の収穫を守らなくてはならなかった。

 だが今森林の消失とともに、猟銃はすでに一種の装飾品となり、徐々に薄れていく思い出となってしまったのである。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)










阿来「大地の階段」 73 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2011-04-06 00:44:21 | Weblog
9 土司の物語二  その2


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 松崗土司の一族は、もともとは雑谷土司の領地の一地方長官だった。
 だが、乾隆16年になると、数百里離れた地に領地を持つ雑谷土司は、リンモ土司とチョクツェ(卓克基)土司の地に侵攻したため、清朝の兵によって制圧された。雑谷土司ツァンワンは殺され、雑谷土司の領地は、土司の統治から清朝の役人による統治へと移った。

 松崗の飛び地はリンモ土司の弟ズーワンホンジョオが管轄地として賜り、松崗長官の印を受けた。
 これが松崗土司の始まりである。

 初代の土司は位を受けて2年で亡くなった。
 12代目のサンランポンツォが土司になると、悪の限りを尽くしたため、民の蜂起によって1928年に殺され、しかもその屍は河に捨てられ、土司を継ぐくものはいなくなった。

 土司の配下の八大部族長が二組に分かれ、交代で15年間土司夫人の執政を助け、末代土司となるソシションに土司の印を伝えることができた。
 7年後、ギャロン全域が解放され、土司の時代は少しずつ遥かな過去の事となっていった。

 あの日、土司の砦の廃墟を望む小さな食堂の窓辺で、数ページの表紙の失われた活版印刷の冊子を目にした。
 その中で、詩のように改行されて並べられた文字は松崗の土司の館を讃えたものだった。

  東側は灰色の虎が踊っているかのようである
  南側では一対の青い龍が天に昇っていく
  北は長寿の亀
  東は視線が遠くまでひらけ
  西は幾重にも山が折り重なる
  南の山は美しい珠で造られたかのごとく
  北の山は天を支える柱のようである
  静かに守られた天嶮の地
  飛ぶかのごとく聳えているのは
  松崗土司の館、その名を日郎木甲牛麦彰措寧という


 私はかつて何度も聞いたことがある。土司がその館を造る時には、専門の絵描きがその全景を描き、そこに賛美の言葉を添える、詩と絵がそろっているものを形勝図という、と。
 そうなら、この文字はどこかで発掘された賛美の詩なのだなのだろうか。

 まだその原文が見つからず、信頼できる翻訳が見つかっていないうちは、この文がそうだとは私には断定できない。
 だが私は、これは確かに伝えられた形勝図の詩句であると考えている。

 ただ、漢語に訳した人は、チベット語には通じているが、漢語の表現、特に詩歌における漢語の表現にあまり通じてなかったのだろう。
 装飾を重んじるチベット語では、韻律はきっともっとなめらかであるべきだし、もっと美しく厳かな言葉を選ぶであろうから。

 この冊子の中に少し興味深い話が載っていた。
 土司の臣下たちの役割と裁判執行の様子である。
 これも記憶のままに書いておこう。

 毎日、土司の館では、土司が領地の民に号令を下し、館および領地のさまざまな事柄を決めるが、その他に、配下の各村の部落長のうち一人が、土司の館の中で輪番の担当部落長となり、土司が日常の努めを行うのを助け、更に、年貢の督促や賦役の手配の責任を負っていた。
 能力があって土司から信頼されている部落長は、土司に代わって大小の争いごとや訴訟の受理も行った。
 更に、文書を送り届ける指示や、罪人の捕獲などの責任も負った。

 部落長の輪番の期間は普通半年くらいだった。
 その果たす役割は執事長に相当していた。

 輪番の部落長の下には小執事がいた。二級の部落長が順番に受け持ち、館の中の燃料や食糧を管理し、倉庫の鍵を掌握していた。

 部落長の中の身分の低い者も輪番で土司の館に来ていた。
 村にいれば長である部落長も、土司の館に入れば、その主な役割は土司の身の回りの世話であり、お茶汲みとまるで変わりがなかった。

 その他に、土司には世襲の書記官がいた。
 世襲の書記官は土司から土地を下賜され、税を納めず、賦役に就かず、任期の間はまた別の報給があった。
 その地位は時には一般の部落長を越えていた。

 松崗土司には、他にチベット語の教師がいた。
 最後に土司のチベット語の教師を務めたのはアッツオといった。土司の館で毎日食事を与えられるほか、別に月に穀物六斗の俸給があった。

 最後のチベット語の教師は、土司が年若く武を尊び、戦いの真似事をすることばかり好んだため、最後には館の執事の地位に就いたという。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)








阿来「大地の階段」 72第5章 灯りの盛んに灯る場所

2011-03-19 20:27:59 | Weblog
9 土司の物語二  その1



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





 リンモ河に沿って下り、15km行くと松崗である。更に下ると金川、金川を更に下ると、すでに見てきた丹巴である。

 発電所は松崗の街から2kmほど行ったところにある。

 松崗発電所のダムが目の前に現れた。
 だが、まるで感激がなかった。
 
 私が入学通知書を胸にここを去った時、ダムはちょうど基礎の部分が出来上がったところだった。
 
 現在、ダムのたっぷりと水を蓄えている部分は、当時は大きな果樹園だった。春、そこは昼休みの格好の場所となった。
 トクラクターのエンジンを切り、公道に停め、果樹園に入って花の咲いたりんごの木に寄りかかると、ほんのりと暖か味を佩びた日の光の下、心地よく眠りの中へ引き込まれて行くのだった。

 当時、睡眠不足が当たり前だった。一台のトラクターに二人が交代で乗っていて、更に残業をすれば、1.5元の残業代が手に入り、小さな店で赤いもち米の酒を二杯飲めたからだ。
 時には仲間たちはちょっとした賭け事をした。だが私はただただ眠いばかりで、16,7歳の若者の永遠に足りることのない眠りを貪っていた。

 けれども、そのダムは、私の目に映った限りでは、なんの感激もなかった。
 なぜなら、私の支払った労働と、私の記憶の中にある、千を越える人々が夜を徹して働くすさまじい労働の様からすれば、このダムはもっと雄大で迫力に満ちたものであっていいはずなのだから。

 ダムの上に上がってみたかったが、当直の作業員から容赦もなく断られた。
 そのために、余計に興味をそがれてしまった。
 
 幸い、あと2kmくらい山肌に沿って曲がりくねる公道を進めば松崗だ。そこで、発電所を後にして、松崗へ向かって急ぐことにした。

 正午、小さな食堂に着き、料理とビールを頼んで窓辺に座り、向かいの突き出した山にある松崗土司の官塞を眺めていた。

 目の前にある多くの建物は傾き崩れていた。ただ、二つの「石ちょう」と呼ばれる石の砦だけが廃墟の両端に聳え、今でも雄壮で威厳を保っていた。
 石ちょうの一つは、下の部分が大きく崩れ落ちていた。だが、空へと伸びている上の部分は依然として遥かな青空に向かって高く聳えている。

 松崗という地名はすでに完全に中国化されているが、実はこれはチベット語のロンガンという言葉の音を採ったものなのである。
 この地方の名前は、あの斜面の一面の廃墟から来ていて、その意味は“山の中腹の土司の館”である。

 食堂の親父を私は知っていた。当時私たちは彼の畑から少なからぬとうもろこしをこっそりもぎ取っていたからである。
 そのことで、彼は私たちの隊長のところへ怒鳴り込んできたことがあった。
 もちろん彼は私の顔など知らない。だから弁償させられる心配はなかった。

 親父とは松崗土司だけを話題にして話をしてみた。

 彼は言った。あの天を突く望楼は文革の戦闘の時、重要な砦となった。攻めて来た方は迫撃弾で攻撃したが、下半分に大きな穴を開けただけだった、と。

 私は尋ねた。あと何発か撃ったら倒れたんじゃないだろうか、と。

 彼はちょっと笑って、言った「あの頃はな、ただ戦っている振りをしていただけだ。誰も真剣やっつけようとはしなかったのさ」

 彼の年齢なら、末代の土司のことを知っているはずだ。思ったとおり彼はうなずいて言った。小土司を見たことがある、と。
 私もこの末代の土司については少し知っている。

 この土司は、50年代末、チベットからインドへ逃げ、その後カナダに移民した。80年代には再びこの地を訪れ、故郷でのひと時を過ごして行った。
 これもまた、多くの土司の物語の中の興味深い一節、一人の末代土司の物語である。

 風流を好んだと言い伝えられた末代土司の名はスシションといった。

 スはもともとは土司の家柄の出身ではなかった。彼の家は私の故郷のリンモ土司が管轄する黒水地方の部落長でしかなかった。
 その後、リンモ土司の力は日々衰えてゆき、黒水の部落長は、国民政府が西方を顧みる暇のなかった民国の時代にほしいままに力を伸ばし、長い間、その威信と権力はギャロンの土司たちよりも上にあった。

 そのころのことを語れば、事情は、偶然が重なっただけというような簡単なものではない。

 土司制度がその終末に至った1950年代、ギャロン地域の土司たちは血縁継承者の問題に悩まされていた。
 松崗土司も例外ではなかった。土司の男子の系統に血縁を受け継ぐものが欠落していったのである。
 そのような中、勢い天を衝く部落長の息子が、養子となってその土司となった。

 この物語は、多くの末代の王の物語とよく似ている。
 王宮の帷の中であたりまえのように繰り広げられる多くのドラマの一つなのだ。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





阿来「大地の階段」 71第5章 灯りの盛んに灯る場所

2011-03-02 15:18:04 | Weblog


8、灯りの盛んに灯る場所  その2


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 街を埋め尽くす灯りを見て、20数年前のことを思い出した。
 十数歳の若者たちの、トラクターの運転手として水力発電所建設の工事現場で過ごした二年間の生活を。

 リンモ河を堰きとめて建設された水力発電所は、現在、この街の主要な電力源となっている。
 当時、マルカムからリンモ河に沿って15キロ下ったところにある松崗で、滴る水さえ凍ほどの厳冬に、数千人もの人々が北風吹きすさぶ河辺で、コンクリートのダムを作っていた。そういった寒さの最も厳しい深夜、重い荷を積んだトラクターのエンジンは沸騰するほどに熱せられたが、屋根のない運転席に座っている労働者たちは、氷のように冷えきっていた。

 これでは私が、ひどいリュウマチにやられたのも当然だろう。何年にも渡る治療のおかげで、毎年の春に治療していた病院にはもう行かなくてよくなったが、右手の面倒な震えを治せる医者はいなかった。
 どのくらい震えるかというと、カメラを構えて覗き込んだ時、目の前の風景がすべてゆらゆらと揺れてぼやけてしまうのである。だから、この本の中の写真は、私の友人たちに提供してもらった。私も試しに撮ってみたが、その結果は数枚のぼやけた写真でしかなかった。

 今日、山のふもと一面に広がる美しい灯りを見ながら、私は始めて、ここで輝いているのは、私の青春時代の理想の光でもあるのだ、と意識した。

 当時あの工事現場には、この地方の村の労働者から選抜された10名のトラクター運転士がいた。
 その中で最も温厚だったインポルオ村のアータイが、トラクターと一緒に公道から銃数メートル下の河岸に転落したのである。

 その時私はすでに現場を離れ、マルカムの師範学校に進んでいたのだが。
 あるたそがれ時、全校の学生が寒風が骨に突き刺さる運動場に立って、顔面麻痺を患っている党委員会の書記の話を聞いていた。その当時の学生はあまりにも冗長な話には常々怒りの感情を抱いていた。

 あたりはちょうど暗くなり始め、校長の顔も声もぼんやりとし始めた。
 その時、普段からあまり真面目とはいえないクラスメートの女子が私に言った。
 「ねえ、松崗の発電所工事でトラクターの運転手が死んだんでしょう。あなた一緒だったんじゃないの」
 なぜ、彼女がこのことに興味を持つのか分からなかったが、すぐに尋ねた。
 「誰が?」
 彼女は笑って言った。
 「私が知ってる分けないでしょ」

 実は、一緒に転落して亡くなったのは彼女のクラスメートで、受験に合格できなかったため、労働者として招かれていった知識青年だったのだ。

 聞くところによると、ある幹部が現場に女性の運転手がいたほうがいいだろうと考えたそうだ。
 そこで、私と一緒にガソリンの煙を腹いっぱい吸い、二つの冬、河っぷちの寒風を受けてきた若者には、それぞれ女性の助手が付くようになったのである。

 その後、正確な話を聞くことができた。

 河で命を落としたのはアータイだった。
 たまたま、10人のうち一番技術が高く性格も落ち着いていたアータイだった。

 実を言うと、私は非業の死を遂げるかもしれない若者たちに順位をつけたことがあるのだが、彼がそうなるとは、まるで思いつかなかった。

 最もたまらないのは、彼が落下した場所の対岸が、彼の家のある、古い石の集落だったことだ。
 その石の村の上から、彼の妻と娘は、毎日、彼が命を落とした瓦礫の重なる河原を見ることになるのである。

 その後何年か経って、当時の仲間の一人、スタルジアから来ていた若者が、工事現場の村で婿養子になったが、さらに何年か過ぎて、彼も死んだという。原因は酒だった。
 一緒に仕事をしていた頃、もともとみんなあまり彼が好きではなかった。理由は簡単だ。彼は酔っ払うと家長になりたいという胸の内をすべて暴露してしまうからだった。

 アータイの死の知らせを聞いて、私は涙した。
 そして、マルカムのバス停の露天の茶館で、その次の死の知らせを知らされた時、私はただため息をついただけだった。それから茶を一口すすり、天を仰いだ。

 マルカムの空はほとんどの時、とても青い。
 ただ、このような気持ちの時は、空を埋め尽くす青が、かえって虚しく、空洞のように感じられるのだった。

 山を下りる道で、街にあふれる灯りを眺めながら、二人の故人を想い、青春時代の労働を想った。
 もし、数字の上で見たなら、街中の灯りのうちには、ほんの少し私の貢献があり、私の仲間たちの貢献がある。そう考えて足を止め、最も明るい灯りを数えていった。一つ二つ三つ…

 そう、この街はあの木と関係あるだけでなく、私自身の記憶と労働とも関係していたのだ。

 これからは、マルカムのチベット語の意味は灯りの盛んに灯る場所だ、と誰かが言うたびごとに、そのすべての光の中に、私の青春時代の汗の光と夢の光があるのを、思い起こすだろう。

 そこで、松崗に行ってあの発電所を見ようと決めた。






(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 70第5章 灯りの盛んに灯る場所

2011-02-04 01:22:48 | Weblog
8、灯りの盛んに灯る場所  その2


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)






 太陽はゆっくりと峰の向こうに沈んでいった。
 私は黄土の土手に座って、日を追うごとに大きく膨らんでいく山の中の街を眺めながら、雄大という感覚を少しばかり味わっていた。
 
 この雄大という感覚とは、高度だけから生み出されるものではない。このような俯瞰の視界の中では、面の広がりも同じような感覚をもたらしてくれる。

 私はそこに座っていた。
 夜の帳がゆっくりと降りて来る。
 
 そうしていると、眼下に散りばめられた建物や、縦横に走る街路に灯かりが煌めき始めた。
 夜の色が街の美しいとは言えない細部を消し去って、目に入るのは、一面に広がる色とりどりの明かりだけとなり、それが絶えず瞬いている。

 こそうして山の街はその名の通り、灯りの盛んに灯る場所となった。

 それに比例して、背後にある寺はゆっくりと暗闇に包まれてゆき、てっぺんの瑠璃色の瓦だけが、星あかりのもと、かすかな光を放っている。

 寺より下にある山には、高い場所に建てるべき二つの建物があって、その一つが気象台である。
 気象台の白い建物はぼんやりとした灯りに浮びあがり、ことのほか美しく見える。
 ここで山の下の小さな街の天気を予報しているのである。

 小さな街の大多数の住民にとって、天気とは、それ自体の法則があってそれに則って気象台が予報するものではない。明日雨が降るかどうか、風が吹くかどうかは気象台が決めているのである。

 気象台が、これから何日か晴天が続くと予報すると、人々は、いい加減にしてくれ、少しは雨を降らせてくれよ、と文句を言う。
 気象台が二日間曇りが続くだろう予報した時には、この私でさえ、くそったれの気象台め、少しは太陽の姿を見せろ、と罵ったものだ。
 高原の人間は曇りの日が二日以上続いたらもう我慢できない。太陽の光が明るく降り注ぐすがすがしい晴天が好きなのである。これは天気がはぐくんできた一つの習性だろう。

  気象台の下の平らな場所、空に向かって高く聳えるポプラの林の中央には、てっぺんに赤いランプを載せた高い鉄塔があり、鉄塔の下には大きな皿のようなアンテナがいくつか置かれている。
 テレビ局の衛星放送の地上基地である。
 山の下の小さな街の家々に写し出されるテレビの信号は、すべてこの巨大な鉄塔から送られている。

 テレビ局に勤めている友人の話によると、この山の上で電波中継の仕事をしていると、一般には放送できない外国の番組を見ることができるという。彼らは私を招待してくれたが、まだ行ったことはなかった。
 今回、ついでに寄って見てみようかと思ったが、その友人ももうこの街にはいない。

 そこで私は、山道を降り始めた。

 山の下では街中に灯りがあふれているのに、私の足元の山道は夜の闇の中に埋もれている。
 幸い、山道は歩き慣れているし、山の中の夜道にももう慣れているので、足どりはなんとか安定している。ただ速度が少し遅いだけだ。

 この街に溢れている灯りに、実は私も関係している。
 だがそれは、その灯りの下で読書し文章を書いたとか、その灯りの下で友人と語り合い、冬の暖かな炉を家族で囲んでいたということでは、勿論ない。
 

(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)










阿来「大地の階段」 69第5章 灯りの盛んに灯る場所

2011-01-20 01:41:55 | Weblog
8、灯りの盛んに灯る場所  その1



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





 文革が終わった後、あの老人たちは政府が新しく建てた建物へ次々と移っていった。楡の木の傍らにある建物もその中の一つである。

 壊された寺、この地の歴史を代表していた寺を元の場所に建て立て直すのはもはや不可能だった。そこで、運動場と高原の新しい街を俯瞰できる日の良く当たる山の上へと場所を移して建造された。
 マルカムの、郊外の農民のトラックや各機関の小さな車が常に行き来している街角に立って顔を上げれば、この新しく建った寺が目に入り、寺の金色の屋根飾りが目に入る。

 太陽が沈み始めるころ、私は山道に沿って登り始めた。

 太陽が沈んでいく時、山の影が河の対岸からゆっくりと迫って来て、街道と建物を徐々に覆っていった。
 最後に金色の太陽はすべての街道や建物を離れ、山道の一番高い所を照らした。
 私はその間、移ってゆく光の前を歩いていた。

 寺の前に立った時、太陽はすでに遥か後ろへと遠ざかっていた。

 寺の門はしっかりと閉まっていて、タルチョが風に吹かれて寂しげな音を立てていた。
 寺に入るつもりはなかった。
 新しく建てられた寺は、時を経ていないため、何も心に呼び起こしてくれないからだ。

 もしも、過去のマルカム寺が必然の存在であったとするなら、目の前にある新しい寺はただの象徴でしかない。

 私がここへ来たのは、過去の時代に少しばかり思いを馳せることが出来るかもしれないと思ったからなのだが、目の前にあるこの建物は、そのような感慨をもたらしてはくれなかった。

 突然、文芸工作団でチャルメラを吹いていたルオバのことを思い出した。
 彼は年の離れた友人で、同じ故郷の山の中からふもとの新しい街へ出て来て、もう長い年月そこで生活している。
 私は離れて行ったのだが、彼はずっとこの街に留まっていた。

 解放前、彼はある寺の年若いラマだった。
 20年前、田舎の暮らしを離れこの小さな街にやって来た頃は、彼が演奏会用の服を着て舞台のライトの下でチャルメラを独奏するのをよく見に行った。オーケストラが演奏する時は、銀色に光るフルートも吹いていた。

 どうして知り合ったのかは、覚えていない。また、チャルメラがうまく吹けるのは小さい頃寺にいたのと関係があるか聞いたかどうかも覚えていない。

 はっきり覚えているのは、この寺が建てられてから、毎日この位の時間に、彼が疲れた顔に笑みを浮かべて山の上から降りてくるのを見かけたことだ。
 何をしているのかと尋ねた時、最初の答えに私はびっくりした。塑像に金を貼って本堂の菩薩を作るように寺から頼まれたとのことだった。
 いつ彫塑を習ったのか尋ねると、少年時代、寺で坊主をしていた時だ、と答えた。
 寺にいる時にチャルメラを覚えたのかということは聞かなかった。

 彼は、山へ行って自分の作った仏像と壁画を見てくれ、とも言った。
 それを思い出して、ふと寺に入ってこの同郷の友人の技を見てみたくなった。
だが、彩色された門には大きな銅の鍵がかかっている。

風が吹いて、庇の前に掛かった垂れ幕の縁取りのあたりが巻き上がり、絶えずバサバサと寂しげな音をたてていた。

 勿論、彼はいつもチャルメラや笛を吹いているわけではないし、寺で菩薩を作ったり壁画を描いているわけではない。ほとんどの時間、この小さな街のさまざまな役所に出入りし、文工団のために経費の申請をしているのである。
 なぜなら、彼は同時に、すでに黄金期を過ぎた文工団の資金繰りと実質的な運営を担当しているからだ。
 こうして彼の激しい気性が表面化する。

 一度、成都のアバ賓館で彼と他の文工団の団長と会った。木里に行ってある寺院の菩薩を作って来た、と話していた。
 木里は四川のもう一つの民族自治州のチベット自治県であり、現在女人国と呼ばれている、四川と雲南の境界であるロコ湖に近い場所である。
 私は冗談で、お前の技は遠くまで伝わっているんだな、とからかった。
 
 以前の少年ラマ、現在文工団の団長である彼は言った。
 
 なに言ってんだ、ちょっとばかりの金を稼ぐためさ。ほんのわずかの報酬を受け取り、そのわずかなものを文工団に渡すのさ。
 私は何も言えなかった。
 
 そして、すぐにこの街にいる友人たちのことを思い出した。
 みな黙々と仕事をし、それぞれに理想を抱いている。だが、この街が向かうところは、彼らの努力とまるで噛み合わず、そればかりか、まったく反対の方向に進んでいると言ってもいいほどなのだ。そこで私は離れることを選んだ。

 だが、誰もが簡単にこのような選択が出来るとは限らないのである。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





阿来「大地の階段」 68第5章 灯りの盛んに灯る場所

2010-12-07 11:36:09 | Weblog
7 楡の木を眺める



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



 マルカムの街で私が本当にやりたかったのは、ただ二つのことだけだった。
 そのひとつは一本の木を見ることである。
 
 そう、一本の木。それは楡の木で、はるか山西省の五台山からやって来たといわれている。

 マルカムに暮す2万人ほどの人々の中で、この木の歴史とマルカムの歴史の関係を知っているのは、ほんのわずかだろう。
 この木は、アバ州政治協商会議の宿舎の庭にある。木の根の周りには形の整った清潔なコンクリートブロックが敷かれている。

 以前、私はしょっちゅうここに出入りしていた。
 それは、この庭にギャロンの少し前の伝説の人物たちが暮らしていたからである。
 解放後、彼らはそれぞれに伝来の領地を離れ、統一戦士という身分で、過去の彼らの先祖が思いもしなかった人生を歩み始めた。

 あの頃私がその庭に出入りしていたのは、そこには暇そうにしている年寄りたちがいて、その口から語られる何気ない話の中から、過去の時代への想いが覗えるからだった。
 私が興味を持ったのは、当然ながら、彼らが年老いて抱く懐旧の念ではなかった。そうではなく、彼らの何気ない思い出話の中から、過去の生活感情の残片を掴み取ることだったのである。

 私たちの歴史にはもともとこのような感覚情的な断片が欠けているから。
 まして、ギャロンには、ある程度整った歴史さえも無いのである。

 そうしたある時、私はこの大木に気づいた。それがギャロンのどこにも見られない木だったからだ。
 そのためか、私は何時も無意識のうちにその木を眺めていた。

 一人の老人が言った。これは漢族の地から来た木で、楡の木である、ずっと昔、一人の高僧が五台山から持ってきたものなのだ、と。
 私は尋ねた「その高僧とはどなたですか」
 老人は首を振って言った「わしにも分からん。ずっとずっと昔のことだからな」

 私がたびたび行っていた建物の一方が、庭と庭の中央にある楡の木で、もう一方は、数千人収容できる露天の運動場になっている。

 これは街の重要な公共の空間である。
 数千の階段状の座席が三方から運動場を囲んでいる。
 そして、山寄りの一帯は、やはり公共の空間、民族文化宮である。文化宮の三層の建物は、休暇の間芸術作品を展示することもあるが、ほとんどの場合、その空間は会議場になる。大規模な会議の時は、会場がこの文化宮から外の運動場に移される。

 中国の街には、その大小を問わず、どこにでもこれと似た施設と、似たような公共の空間があるはずだ。だからもし、ただこれだけなら、ここで特にとりあげる必要は無いのだが。この街での暮らしが長い人々は、この公共の場所の移り変わりを通して、常々ひとつの街の変遷を浮き彫りにし、凝縮させたがる。

 そこはもともと、日干し煉瓦を積み上げて作った舞台の下の、土埃が舞う広場に過ぎなかった。
 現在の大きな文化宮の建物の前が、いかにもこの地らしい土の舞台で、その一時期、指導者が話をする時はその舞台の上に立った。裁判官が犯人に罪を宣言するのも舞台の上だった。
 こういった話は、ほとんどの人が既に聞かされてきた。

 そして、この運動場とあの楡の木を隔てている建物の中で、私はこの地方のさらに古い歴史を知ったのだった。


 その頃の歴史は、この楡の木と関係があり、そして、この山の中の街の名前の由来とも関係がある。

 世の変遷を生き抜いてきた老人たちの話によると、運動場と民族文化宮のある辺りは昔は寺だった。
 寺の名前をマルカムと言った。
 その当時の寺はとてもに賑やかで、線香やろうそくが盛んに焚かれていた。そのため光明と関係のある名前がつけられたのだ、という。

 マルカム寺はかつてボン教の寺だった。

 乾隆朝に於ける十数年に及ぶ両金川の戦いが終わった後、土司とこの地を統治する力を持つボン教は、お互いに協力しあい、持ちつ持たれつの関係にあった。
 乾隆帝は、戦いの後命を下し、ギャロン地区、特に大渡河流域のすべてのボン教の寺院を仏教の寺へと改めさせた。

 マルカム寺に祭られる神像が、ボン教の始祖シェンラブ・ミボから仏教の釈迦と、黄色い僧帽をかぶったゲルグ派の大師ツオンカバへと改められた。

 マルカム寺は仏教へと改まった後も、依然として両金川の戦いで領地を与えられた土司と宗教的な関係を持ち続け、ズォクジ土司の重要な法事はすべてこの寺で執り行われた。

 その当時のマルカム寺の前は、白楊が風にたなびく広い河原だった。

 特に人々の心に残っているのは、毎年春と冬の間に一度、この地から邪悪ものを払い、平安と吉祥を祈る儀式が寺の前で行われたことである。

 毎回、信徒の中の不運な者がラマによって「悪霊」に選定され、氷のように冷たいリンモ川へと追い払われる。
 このような群集的集会では、不運な者は死を賜る前に、となる恐怖を味わうことになる。
 そして、多くの人にとって、これは野蛮でありながら刺激的でもある、一種のゲームだったのだろう。

 宗教が、毎年非常に崇高な名目の元で、無知な大衆に、生と死、人とに関わる一種のどたばた劇を提供していたのである。
 人々もこれを楽しみ飽くことを知らなかった。

 今、この地方で、最も刺激的なのは、現在の運動場で時たま行われる死刑判決の言い渡しである。

 そこでは観衆たちは、死の恐怖に打ちひしがれている者の体から、早くも死の色を感じ取り、死の匂いを嗅ぎあてている。
 時代が変わり、判決を言い渡される者の死は、他人による決定としてではなく、彼らの心の中の罪悪が自らの生命に対して行う選択となった。
 ただし、昔も今もずっと、それを見る者の心理はあまり変化していないようだ。

 話をしてくれた老人の中には、過去に民の生殺与奪の権力を握っていた者も何人かいた。
 だが、今彼らは物静かな表情でこの広場でかつて行われたことを語ってくれる。

 彼らが教えてくれたのだが、今の政治協商会の建物のある場所こそ、マルカム寺のラマたちが日々寝起きしていた場所なのである。
 その中の一人のラマが五台山へ参拝に行き、帰ってきた時からこの木が現れた。

 この木については、老人たちの間に二つの意見がある。

 ひとつは、そのラマが長く苦しい旅の間に、木の枝を折って杖として使い、戻った後土に挿すと、次の年の春、新しい枝と若葉が伸びていた、というもの。つまり、この木は遥かな道のりを経て異郷にやって来たのではなく、偶然の賜物ということになる。

 もうひとつは、すでに亡くなった高僧が話してくれたものである。
 彼のラマは、五台山の仏殿の前から一粒の種を懐に入れて帰ってきた。帰ってきたのが冬だったので、僧はその種を枕元に置いておくと、大木に枝や葉が盛んに茂っている夢を見た。自分で夢を占ったところ、それは無辺の仏法がギャロンで栄える象徴だと分かった。そこで春、雪解けの頃、扉の前にこの種を植えた。

 今、木は大きくなった。だが、仏法はいまだに必ずしも夢の予示どおりに天下を覆い尽くしているとは言いがたい。

 マルカム寺は50年代に衰退し始め、60年代の文革によっては破壊された。当時の僧たちはみな民のもとへと散っていった。ただこの木だけがまだここに立って、この小さな空間の中、上へ伸びていこうと、日の光を追い求め、鳥と風とのふれあいを求めている。

 風が吹く時、その大きな葉は、ことのほかざわめくのだった。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)