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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 95第7章 河の源流へと遡る

2012-07-25 03:01:58 | Weblog
3パンダを発見する



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)





 パンダは非常に古い生物で、生物学者にとっては、一種の生きた化石である。植物界のソテツや鳩の木と同じように。
 ウォーロン保護区の中にはたくさんの別種の植物がある。だが、パンダが発見され保護計画が起こり伐採する労働者の斧が止まらなければ、パンダと同じように生物学的意義のある植物も、滅亡の運命を逃れられなかっただろう。

 中国人は自然界に対する認識能力が非常に貧弱である。そのため、ウォーロン地区の中に人類が初めて足を踏み入れた時には、パンダが生存してかなり長い歳月が経っていた。
 最後には、やはり西洋人がさまざまな動機からパンダを発見し、この動物の名前を世界中くまなく響かせることになった。

 過去の中国の象徴は想像の架空の生き物、龍と鳳凰だった。
 そして今は、パンダが、世界各地の人々が中国を語る時、最初に思い浮かべる動物になった。

 パンダはすでに中国の象徴になったのである。

 ギャロンので、人々は皆、パンダのおしっこには神秘的な薬としての価値があると信じている。誤って飲み込んだ金属を溶かすことが出来るというのである。
 だが、人が誤って金属を飲み込む機会はとても少なく、更に、当時の、ウォーロンの森の中の人口は極めて少なくて、だから、この動物を殺しても大して役に立たなかった。もしかしたらそれが原因で、パンダ一族の弱々しい血脈が辛うじて代々伝わり、今に至ったのかもしれない。

 パンダのおしっこが金属を溶かすことが出来るという伝説は、実はパンダの特殊な習性から来たものである。
 ウォーロン保護区内、あるいは他の一部の地方では、パンダはしょっちゅう農家や、保護区のスタッフの宿舎に入ってきて、なべの中のものを食べつくし、さらに、アルミ鍋などの金属の容器を噛んでぼろぼろにし、しばらくして、消化出来なかった金属の塊の混ざった糞をするのである。

 今世紀の初め、西洋の伝道師と探検家たちが四川西北のギャロン地区に入って来て、伝説の中の珍しい野生動物の足跡を探し始めた

 1869年3月、群山の中の春の初め、一人の狩人が一枚の毛皮をフランスの宣教師アルマン・ダヴィッドに贈った。
 神父はこれを根拠として、この動物を西洋に紹介した。

 これが科学的な観点を持った科学者たちがパンダの運命に注目する起点となった。

 ということは、パンダが科学的な視野に入った歴史はたかだか100年と少しに過ぎないのである。

 ダヴィッド神父は日記の中で書いている。


 「この異教徒の里で、私は有名な黒白熊の毛皮を見た。見たところ体格はかなり大きいようだ。これはめったに出会えない動物だ。狩人は言った。間もなくこの動物を一頭しとめることが出来るだろう、と。とてもうれしい。彼らは、明日この動物を捕まえに出発するそうだ。きっと新しくて興味深い科学的な材料を提供してくれるに違いない」


 同じ野蛮な狩ではあっても、西洋の神父は科学に思い至り、種に思い至る。
 中国人の常識では、パンダの毛皮は布団として使うものである。その上で眠ると邪悪なものを避けることが出来、夢を見ることが出来、パンダの毛皮の上で見る夢の中で、未来を予見することが良くあるのだという。

 ダヴィッド神父は果たしてパンダの毛皮を手に入れることが出来た。未成年のパンダのものだった。更に一週間経って、神父はまた成年のパンダの毛皮を手に入れた。
 神父は、これらから結論を出した。

 「パンダはたぶんクマ科の動物の新しい品種で、色が特殊なだけでなく、足の裏に毛が多く生えていて、他にこれまで見たことのない特色をたくさん持っている」





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)











阿来「大地の階段」 94第7章 河の源流へと遡る

2012-07-12 21:17:14 | Weblog
2 土司たちの源に関する言い伝え その3





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)





 アヘン戦争の間、ギャロン各地の土司の兵馬は命により沿海作戦に借り出された。
 
 瓦寺の兵はハクリに率いられ、金川の兵は土司緑営の隊長アムランに率いられた。
 数百のギャロンの兵は三ヶ月の長く苦しい旅を経て、江浙の寧波に着き、提督段永福の指揮を受けた。
 大宝山の一戦で瓦寺の兵たちは勇敢に敵に立ち向かい、イギリス軍に痛手を負わせ、兵を率いたハクリは戦死した。
 寧波の戦いでは金川の隊長、ギャロン人アムランが勇敢に敵を倒し、英雄的な最後を遂げた。

 ギャロンの兵は江浙の前線でイギリス軍と幾度も激戦を繰り返し、最後にはほとんどが異郷の祖国防衛の戦場で命を落とした。

 1869年、瓦寺土司などの領地でアヘンが植えられ始めた。
 アヘンが入ってきたことでギャロンの土地の多くのものが変わった。

 1890年、辛亥革命の間、四川で清朝に反対する保路運動が巻き起こった。四川の首府成都は保路同志軍に何重にも囲まれた。

 四川総督趙爾豊は、辺城松藩の巡防軍を調達し、岷山を出て成都の囲いを解くために向わせた。
 岷江の河の近くの白水駅で、瓦寺チベット人千人あまりが松藩から救援に向う清軍を次々と阻み、痛手を負わせた。
 支援軍は途中で投降を宣言し、最後にはチベット民間軍の部隊に加わった。
 瓦寺などのチベット兵数百人は成都平原に入り、保路同志軍と共に戦い、数百人が成都平原に於ける大小の戦いの中で犠牲になった。

 民国28年、即ち1939年、瓦寺土司は21代目の索代賡へと伝わっていた。この時瓦寺土司は一貫した伝統を保ち、再び国民党二十八軍を助けてリンモ土司の治める黒水地方を討伐し、軍の最前線で戦死した。これ以降、民国政府は位を受け継ぐことを許さなかった。

 瓦寺土司とギャロンの土司たちの歴史は日を追って人々の記憶から薄れていく。
 ギャロン文化の栄えた時代もすでに過去のものとなった。
 だが、この荒野に立つ時、私の心には克服しがたい淡い憂鬱が湧いてくる。

 憂鬱とは人を傷つける美である。
 憂鬱とは現実には役に立たない個人の心のありようである。

 時間は相変わらずゆっくりと過ぎて行く。それ自身の固有のリズムに従って。
 神は時間を作った時、私たち個人の感情という要素を考慮しなかった。

 ある説によると、どの固有の存在にもすべて内在する合理性があるという。更に言えば、我々は文化を考察する中で社会ダーウイン主義の考え方を取り入れることが出来る。
 最も根本的な意味から言って、私もそのような考え方に賛成する。
 
 だがそれは、私たちがある種の死と消滅を目の前にして限度を持った憂鬱を表現するのを妨げることは出来ない。
 しかも、この必然の消滅を前にして、すでに消滅したものの真実で完全な姿を明らかに示すことはほとんど不可能なのである。

 もしかして、このような理由によって私たちは心に憂鬱を芽生えさせるのかもしれない。
 そして、現実を見つめることでこの憂鬱を克服することが出来るのかもしれない。

 ならば、私はこの場所で、自分の関心をパンダに移すことにしよう。
 全世界からの注目があれば、もしパンダが生物界から必ず消滅するのだとして、それでも、大規模な保護計画を通じて、生物界の種が消滅する時間表を延ばす事ができるかもしれない。
 その間に、私たちはパンダに関する完璧で詳しい学問を立ち上げることが出来るだろう。







(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)

 
 

 


阿来「大地の階段」 93第7章 河の源流へと遡る

2012-06-24 20:05:07 | Weblog
2 土司たちの源に関する言い伝え その2





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)





 土司たちの祖先は高原の頂を西から東へと向かい、青蔵高原周辺の群山の梯子を一段一段下り、そのままこれらの群山の奥深い場所へと至ったのだが、それは一つの時代の中で完成したのではかった。
 最も早い土司の祖先は唐代にすでに移動を始めていた。
 臥龍(ウォーロン)を統治した瓦寺(ワス)土司がギャロンに来たのはすでに明の時代だった。

 以前読んだ書籍によると、瓦寺土司の先祖チォンブスロペン・サンランナスバは明朝の宣徳帝元年、即ち1642年に北京へ朝貢し、臣下として命に服す意思を示した。彼は皇帝から直接引見を許され、手厚い恩賞を賜った。

 明英宗帝の正統6年、即ち1441年、岷江上流のが明の統治に従わず、明は兵を出した。だが、何度出兵しても降伏させることが出来なかった。
 そこで明の王朝は異民族を以って異民族を制す策略を採り、臣として服した瓦寺土司に、まず兵を率いて東に向うよう命じた。
 サンランナスバは老いを理由に辞退し、弟のヨンディンロロスに部族を率いて東征することを薦めた。

 ヨンディンロロスは大小の頭領43人、兵士3150人を率い、一ヶ月余の長い行軍でブンセン県の境に到着し、兵を分けて攻め滅ぼした。
 戦いの後、「詔を受けてブンセン県の塗禹山に留まり、西の谷と北の道の羌族を抑え」、宣慰司の職を受け、48両の重さの銀製の印を授けられ、これより「その職を世襲した」。
 ヨンディンロロスは再び西には帰らず、初代の瓦寺土司となった。
 その統治した土地は漢の地に近く、そのため、瓦寺土司が第一番目の寺を建てた時、チベット仏教の寺院のこれまで続いてきた様式を改め、屋根を黒い漢式の瓦で覆った。
 ある記載の中に次のように記されている「瓦寺の原籍は西蔵で、土の家に住み、寺のみ瓦を用いた、故にこの名がある」

 明朝が満人に取って代わられてから、当時の互寺土司は明代に賜った印を清朝に返し、進んで帰順する意志を示した。
 清朝政府は1652年安撫司の職を授けた。

 清の康煕9年、即ち1670年、互寺17世土司サンランウェンガイは詔を受け、兵を率いて清軍に従い雑谷土司と大小金川土司を討伐して戦功を立て、花翎を帽子に飾ることを許された。
 皇帝は詔を下して、土司サンランヨンディンの始めの字と同じ音をとり、瓦寺土司の漢の姓を「索」とした。
 これ以後、瓦寺土司はこれを姓とし、代々漢の名と姓を用いた。
 これもまた民族同化の中の際立った例である。

 乾隆52年、台湾の林爽義が反清の兵を起こし、事が起こった後、総兵の職にあった袁国コウはギャロンの兵を統率し福康安の作戦に従って海を渡った。
 事が収まった後、各土司は賞を頂きそれぞれ自分の故郷に帰った。

 乾隆56年、グルカ人がたびたび後蔵(チベット中央)を犯し、後蔵の要衝シガツェを攻め落とし、タシルンポ寺を占拠した。
 清王朝は瓦寺などのギャロンの兵を召集し、清軍と共にチベットへ遠征させ、総督福康安の統率の下、六戦六勝、後蔵を取り戻した。
 
 
 戦いの中で、瓦寺土司に属する兵の多くが、英雄的な最期を遂げた。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)



 
 


阿来「大地の階段」 92第7章 河の源流へと遡る

2012-06-15 00:54:43 | Weblog
2 土司たちの源に関する言い伝え その1





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 私の手元には四川省社会科学院の編纂になる『四川省アバ州チベット族社会歴史調査』がある。
 その中のまばらな資料が、わずかだが臥龍(ウォーロン)について取り上げている。
 その一つが50年代初めの統計である。

 当時の臥龍郷に登記したギャロンチベット人の数は315人、この郷の人口の85%を占めていた。つまり、その当時数十キロほどの深さの臥龍谷全体の住民は500人を超えていなかったということになる。

 現在の人口はどのくらいのなのか。今の私には関係機関に行って尋ねる時間はなく、しかもそれが、この本の興味のありどころでもないのだが。だが、50年ほど後のこの谷で、生涯をここで過ごす住民は十倍よりもっと多くなっているのは確かだと思われる。

 ただし、この増加した人口の中でギャロン人の増加は取るにならないほどの比率であるのは間違いない。比率の低下と、それに加えて、少数派になって加速した同化作用のため、ギャロン文化の消滅は必然の状況となっている。
 旅行社の宣伝文句も含めて、臥龍について語る時、異民族のもつ情緒がキャッチフレーズにされることはないのである。

 早くから臥龍に入りパンダを捜し求めた外国人の記述の中から過去の臥龍のぼんやりした姿が見えてくる。


 「小さな丘の上に寺の廃墟がある。建物はチベット式で、二階建てである。下は石、上は木で出来ていて、ほとんどにベランダがあり、建築様式はアルプスの山のものとよく似ている。この地の女性はチベット式のくるぶしまである長着を着ている。彼女たちの頭の飾りは特殊で、黒く硬い布を何層にも折って、上に琥珀や珊瑚やトルコ石や銀を飾り、編んだ髪で頭に固定している」



 だが、目の前のかつての互寺(ワス)土司の領地が当時の様子に戻ることは、もはやできないだろう。

 パンダのおかげで破壊を逃れた森で、私ははるかに互寺土司の歴史を思った。

 どの土司の歴史もかなりの年月が経ち、詳細で整った記録がないため、口から口へと伝えられる過程で歴史というよりは伝奇的な色彩を多く佩びるようになった。

 ギャロンでは、ほとんどすべての土司の言い伝えの中で、その祖先は鵬の大きな卵から生まれたとされている。
 私は互寺土司官塞の高い山の上にある旧跡に行ったことはない。だが、そこへ行った人の話を聞くと、官塞の土司の大きな扉の上に、鵬が卵を温めている姿が彫られているという。

 ギャロン土司たちに共通の伝説はこうである。

    はるかな昔、天の下には民はいたが土司はいなかった。

    その後、天から虹が降りてきてオルモルンリンに降りた。

    虹の中から明るい星が一つ輝き始め、その眩い光が直接ギャロンの地を照らした。

    ギャロンには一人の天女がいて、名をカムルミといった。

    星の光に感じて孕み、すぐに鵬に変身してチベットの瓊部の山の上へと飛んで行き、
    黒、白、まだらの三つの卵を産んだ。

    人々はこの三つの卵を神聖なものとして、持ち帰り寺に供えた。

    三つの卵からそれぞれに子供が生まれた。

    三人の子どもは成長し東へ向ってギャロンまで来ると、それぞれに領地を持ち、民を育て、
    ギャロン土司の共通の祖先となった。

 


 ギャロン土司の伝説の中にあるオルモルンリンは、ギャロン土司たちがかつて共に崇拝した本土の宗教ボン経の興った地である。

 瓊部については、伝説の中で、地理上の方角はラサの西北部、馬で18日の距離となっている。
 阿里高原はその黄金時代、人口も豊かで39もの部族があった。その後、徐々に土地が痩せていき、人々は他の場所へと移り始めた。世界の屋根である青蔵高原の要塞の地阿里は衰退の道をたどり始めた。
 一部の阿里の人々は潤いのある東の風を受け、一路東へ向いそのまま現在のギャロンへ至り、やっと身を落ち着けた。

 更に遠くへ行けば、そこは高原の風景と気候ではなくなってしまう。

 ギャロン土司の起源である神聖化された伝説の中の三つの神秘的な大きな卵は、きっと、最後に定住したギャロンの地とその土地に徐々に溶け込んで一体となった39部族のうちの3つの部族を指すのだろう。

 ここ数年、ボン経の神秘の起源である古象雄文明の突然の衰退と、阿里高原に輝かしい文明を作った古格(グゲ)王朝の突然の消滅は、阿里を神秘的な青蔵高原の中でも最大の神秘とした。

 私は専門の民俗学者ではなく、専門の文化人類学者ではない。
 だが私は思う。
 もし人々がこれらの伝説の伝わって来た過程を遡ったとしたら、そして、ギャロン文化の特徴と阿里文化の遺物とを比較研究したら、必ず新しい発見があるのではないだろうか。

 だが、私は知っている。これは私一人の想像でしかないのだと。しかも、間違いだらけで常識を欠いた考え方でもあるだろう。

 もしかしたら私はあまりにロマンティックすぎて、そのためいつも、ギャロンと阿里の関係がただ土司一族の起源のみに留まるような簡単なものではないと考えてしまうのである。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)











阿来「大地の階段」 91第7章 河の源流へと遡る

2012-05-31 02:57:59 | Weblog
1 ウォーロン パンダの里


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




「小道は尾根に通じていた。春の馬鈴薯畑とトウモロコシ畑を見下ろしながら、そのまま皮条河に至る。さらさらという水音だけが聞こえる。峰の周りは灰色の空が見えるだけだ。小道の両側は密集して生い茂る雑草。私たちは時々足を止め、秋明菊、かたばみ、その他の野の花を楽しみ、満開のつつじを記録し、日陰に顔を出した親指ほどのたけのこを点検した。去年のはしばみの実の莢が地面に落ちていて、棘だらけの形はまるで針鼠のようだ。頭の上の樺の木と樅の木の間からヒマラヤホトトギスの甘い鳴き声が聞こえて来た」

 これは、私が書き写した『最後のパンダ』という本の一部である。
 作者はアメリカの生物学者シャーレー。

 金川を去って一ヶ月、成都に戻って間もなく、また私のギャロンの旅を続けた。成都から100km足らずで、博士の筆になるこの見慣れた風景が私の目の前に現れた。

 今回は、通いなれたルートでギャロンに入った。
 それは岷江から入るルートである。

 過去、ギャロンに入るほとんどの地区の街道もまた、このルートだった。成都から出発して55キロ、天下に名高い都江堰に着いた。ここから山々は険しくなり、そのまま四川盆地の縁へと迫っていく。岷江峡口から20kmほどの映秀に入ると、ウォーロン保護区に通じる公道は国道213号線を離れ、右側の山の谷間へと折れ曲がっていく。

 シャーレーは80年代、この谷間で長年にわたってパンダの生態の研究をした。自分の国に帰ってから、この本を出版した。
 出版後長い時が経ち、昨年ついに中国語に訳され、中国の読者にお目見えした。
 ただし、ウォーロンはシャーレーが当時味わった静寂とはまるで変わってしまった。

 山の中のこの美しく堅固に舗装されたアスファルトの公道は、すでに旅行案内書の中での主要な観光ルートになっている。
 ここはパンダのおかげで十分な保護を受けている美しい野山であり、繁殖基地内で飼われているパンダは、この辺りを成都の旅行社のセールスポイントにした。

 更に重要なのは、小金県内に通じる、現在積極的に開発中の四姑娘山自然風景区の公道もウォーロンを経由していくことである。
 そのため、この辺りの山がもはや昔のような静寂を保てないのは必然の勢いといえる。

 石がごろごろと重なるウォーロン河を隔てて、保護区のパンダ繁殖センターが目の前に現れた。

 人工的に植林された小さな林の木陰に座り、一団の旅行者ががやがやと橋の袂でチケットを買い、手に小さな旗を振っているガイドに連れられて、小さな橋を渡って行くのを見ていた。

 小さな橋の近くの囲いの中で、パンダたちは一匹ずつ小さな部屋で眠っている。
 庭の中央にはコンクリートで作られた柱が立っている。それらの柱は、街の公園のコンクリートの飾り物と同じで、杉の木の形をしていて、鱗のような皮、曲がった枝も作られている。ただ、枝には青々とした針状の葉はついていない。

 二匹のパンダが、観光客の騒がしい声の中、コンクリートの木に登り、太くて丈夫なコンクリートの枝の分かれ目に大きな尻を乗せて座っている。
 少しして、管理員が葉の青々した笹を持って、太ったパンダ一匹をあやしながら囲いの外へ連れて行った。囲いの片側は河である。河には雪のような波が逆巻いていた。

 飼育場の扉は山の方向に向って開かれている。山の上の植生は前に書いたものと同じである。ただ、九月に近く、つつじの季節はすでに過ぎ、樺の木と楓の木の葉は微かに紅葉し始めていて、山はすでに浅い秋の色に染まっていた。

 管理員は緑の笹の枝で重そうなパンダをあやしながら、そのままカバノキの下の草地を間を歩いて行った。

 空は曇って雨が降りそうだった。草地の緑は少し悲しげだった。だがそれは、観光に来た着飾った若者たちの気持ちには何の影響も与えなかった。彼らはよちよちと歩くパンダを目の前にして興奮して大声で叫んでいた。そうして、それぞれ順番にパンダと写真を撮った。

 私が知っている限りでは、このようなやり方は以前は許されていなかった。

 好奇心から私も小さな橋を渡って様子を見に行った。
 そこで見たのだが、管理員はパンダが怒り出しそうなな時にはなだめ、興奮している旅行者にあまり関心を示さなければ、刺激する方法を見つけては、パンダを旅行者と同じように興奮させていた。

 別の管理員は旅行者から金を取っていた。金を払った旅行者だけがパンダと写真を撮ることが出来た。

 パンダと写真を撮るのには二種類の基準があった。一つはパンダを抱かないもの、一つは抱くもの。それぞれに違った値段が付けられていた。
 私には後者のやり方がはっきりと見えた。抱いて撮るのは50元だった。金を受け取った管理員は、特に喜ぶでもなく、パンダの顔と同じように冷静だった。

 パンダの目のまわりは黒く、サーカスのピエロにちょっと似ているが、ピエロほどの滑稽さはなく、それよりもピエロのような言いようのない悲哀の方がより強く感じられた。
 私はそこに万物の長である人間の悲哀をも感じた。

 そこで、楽しげに笑っている人の群れを離れ、橋のたもとの旅行の記念品を売る店に行った。

 当然、ここにある多くはパンダの姿と関係のあるものだった。だが、私はとりたてて書くほどの美しさを感じなかった。

 私は信じている。パンダや、またはどんな野性動物でも、その姿はただ彼らの世界でだけ力を発揮できるのだ。その世界とは、あの雲と霧に纏わり着かれている森林の中にあるのだ、と。

 パンダに関係ある本を二、三冊買おうと思った。

 たった一つあるガラスのケースに陳列されている本や画集の表紙には、すべてパンダの、世界で何が起こっているかにお構いなく、自分たちの種族がすでに危うい状態にあることもお構いなく、永遠に無邪気で、永遠に幼げな愁いを佩びたかわいい姿が描かれていた。
 だが、この高価な画集を初めから終わりまでめくっても、パンダの本当の知識といえるようなものは得られることはない。

 もしかして、不思議に思う読者がいるかもしれない。ギャロンを描く本の中で、どうしてパンダのように、総ての人が知っている瀕死の動物の描写にこのようにこだわるのか、と。

 それは二つの理由からだと思う。

 一つは、私が今いる保護区は同時に科学研究の基地であり、中国政府の支持以外にも世界野生動物基金の援助を得ている。にもかかわらず、
ここではパンダの生存状況や自然生態方面の公衆に適した読み物を見つけられなかったからだ。

 もう一つの理由は、ウォーロンはかつてギャロン十八土司の中の最も漢の地に近いワス土司の領地だったからだ。この美しい谷間はかつてはギャロン人の暮す繁栄した場所だったのだ。

 だが、私の目には深い山の中の谷間に散らばる民家から、人々の言葉、衣服まで、ギャロンチベット区のわずかな特徴も見ることは出来なかった。
 
 そこで私は目をパンダに向けたのである。うまい具合に、パンダはとてもよい話題である。
 私自身もこの話題が好きだ。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





  
 

一休み そして お知らせ

2012-05-22 17:44:27 | Weblog

ふう~ また一休み。

やっと6章まで終わりました。
残りあと1章。焦らずに続けていきたいと思っています。


お知らせです。
阿来の「空山」が翻訳され出版されました。昨日、やっと手に入れました。


コレクション中国同時代小説 1 

「空山 風と火のチベット」  阿来 著 山口守 訳   勉誠出版社




六つの物語が花びらのように重なって、一つの作品になっています。
ジル村という、チベット族の暮す地域を舞台としています。
「大地の階梯」で阿来が歩き回ったそのどこかに、ジル村はあるのでしょう。いや、その総てがジル村だ、と言ってもいいかもしれません。
今回出版されたのは、始めの二つの物語です。

実は、原文で読んだのですが、あまり頭に残っていません。日本語に訳されたのはとてもうれしいことです。

普段はあまり人の目に触れることのない場所、でも、とても大切な意味を持つ場所の物語を、じっくりと味わいたいと思っています。
















阿来「大地の階段」 90第6章 雪梨の里 金川

2012-05-22 17:01:47 | Weblog

7 さらば金川 さらば歴史



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 今回、第二回金川の戦いの最後の砦の跡も見ようと考えていた。
 だが長い年月にわたって開拓され、人家の密集した地では、つる草の生い茂るままの風景などは、もう見ることは叶わないのだろう。

 実際には、金川土司の官塞の遺跡は金川県城の対岸のそれほど遠くない勒烏村にある。歴史書の記載によると、それは金川の戦いの最後の砦の一つである。数千のギャロンの兵がここで戦死した。

 広大な土地を占めていた石の建物は砲火に遭って一掃されてしまった。金川土司ソノムと大量の俘虜たちは、この時から死刑囚へと地位を貶められ、護送され、遥かな苦難の道程の後、北京の太廟で祖先を祭ってから打ち首になった。

 第二回金川の戦いは西暦1765年に始まり、1776年に終わった。合わせておよそ11年間である。

 停留所で次の日の成都に戻るバスの切符を買った。

 その時、近くの食堂の入り口に立てられている「新鮮な細甲魚あります」という看板が目に入った。当地の漢語の方言では、鱗を甲という。細甲魚とは細鱗魚の意味である。そこで、その食堂に入った。魚が運ばれて来ると、それは想像通り、真っ白なスープの上にふっくらとしたウイキョウの葉と真っ赤なとうがらしの細切りがたっぷりと浮かんでいた。

 自分のために、棗を漬けた薬酒を注文した。

 ほんのりと酔って宿に戻り、続けて当地の歴史を読んだ。

 私は常に文字の中の真実を疑っている。だが、今回の金川の旅を終えて、私にはもう歴史の身近な姿を探し出す方法がなくなっていた。日々の生活に満ち溢れている細部のように、真実味のある姿はもう見つけられないのだ。

 窓の外を見ると、この小さな街は、あい変わらず騒がしさと混乱によって活力を溢れさせている。だが、この光景はすでに内地のどの小さな県城とも大差がなくなってしまった。

 そこで、仕方なく、大雑把に書かれた書物、細部についての細やかな記述のない書物に戻った。

 乾隆帝が作った金川平定の碑文を読んだ。全文に才気があふれている。だが、長すぎて、この本の中に写し取ろうという気持ちにはならなかった。そして私が一つ指摘したいのは、この碑文も今はただ歴史書の中でしか読めないということだ。

 もとの碑は乾隆五十一年、即ち金川が平定された十年後、金川土司官寨の跡に建てられた。
 当地の人の話では、碑の上には東屋が建てられていて、瑠璃の瓦の二重の屋根がかかり、東屋の外には囲いがあったという。文化遺産とも言うべきその碑は、文革によって壊された。石碑は当地の村民によって三つに割られ、石工を頼んで碾き臼にされることになった。だが石工は、碾き臼にしようと鑿を当てた時に爆死してしまったという。こうして、割られた石碑は幸いにもその姿を残すことが出来たのである。

 そこで、もう一度魏源の「乾隆再び金川土司を平定する」を読んだ。

 その夜は風雨が激しかったが、却って、魏源の筆のもと金川土司の官寨が巍然と目の前に聳え立っているのを目にしたようだった。


 「その官寨は頑丈で壁は厚い。西に大河を臨み、南にはマニ車の堂がある。官寨と直角に、木の柵、石の壁、長い垣が設けられ、東は山を負い、崖は八層になっていて、それぞれの層に高い石の塔が建っている。敗れてそれぞれの道を戻った賊は、皆これを死守した」


 私は金川へやって来たのだが、なぜか、書物の中の簡要な叙述に導かれて、再び歴史に思いを馳せたのだった。

 
 成都へ戻る道路は、大金川に沿って遡り、再び梭磨川と交わった。途中で大渡河水系と岷江水系を分ける鷓鴣山を越えた。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)








阿来「大地の階段」 89第6章 雪梨の里 金川

2012-04-16 02:14:11 | Weblog
6 増水する大河の岸での午睡




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 ここを去る前、河辺の柳の下で、波が岸を打つ音を聞きながら一眠りした。

 目が覚めた時、体中にじっとりと汗をかき、耳はやかましい蝉の鳴き声でいっぱいだった。
 木の葉の間から眩い空を見つめていると、「山の中の一日は、地上の千年」の意味が理解できた。ここでは時間の流れが世の中と違って感じられる。

 そこで突然おかしな考えが浮かんだ。
 もしヨンドゥン・ラディン寺の予言の術に通じたラマが、寺の最も栄えている時に眠りに着き、今この時に目覚めたなら、自分のした予言の中から的中したといえるものを発見できないばかりか、自分はある強い魔法にかけられ、まるでなじみのない世界へ連れてこられたと思うにちがいない。

 だがこれは、歴史がうまい具合にいくつかの偶然を重ね、ここまで続いてきたから起こった一種の必然なのである。

 現在、私の後ろにある廃墟に代表されるギャロンの歴史の一時期の輝きは、今まさに人々から忘れられつつある。
 それでも、この出来上がったばかりの寺を建てた人々は、そのことによって、あの輝かしい過去、人々に深い感銘を与える過去と、なんらかのつながりを持ちたいと考えたに違いない。
 だが、世の中は移ろうものだ。この寺は完成したばかりの時に、すでにほとんど忘れ去られていたのである。

 忘却は人に悲しみを抱かせる。
 忘却はかえって人をあきらめの境地にさせる。
 では、この忘れられた地でもう一度気持ちよく眠ろう。この騒々しい世界を駆け回っていれば、誰にでも、きれいさっぱりと忘れたいことが山ほどあるのだから。

 私はまた横になった。うとうとしかけた時、朝私を乗せた船頭が駆け寄ってきて私を揺さぶり、河の水かさが増してきた、と言った。
 彼に背を向けてまた眠った。大げさなやつだと思ったし、河の水かさが増すなど聞いたことがなかったからだ。
 彼はまた大声で叫んだ。
 「河の水があふれるぞ」

 そこで私は仕方なく起き上がり、河の方を見た。
 太陽は明るく輝き、蝉は声を合わせて鳴いている。だが、河の水は確かに増え始めていた。
 私は頭を岸に、足を河に向けて細かい草の生える砂浜に寝ていたが、この時、河から打ち寄せる波の飛沫がすでに私の足にかかっていた。

 あたふたと体を起こすと、トウモロコシ畑で草むしりをしていた船頭の家の二人の女性がけらけらと笑い出した。河の水が増しているのがよく見えなかったようだ。

 まず、河の水がどんどんと濁っていくのが目に入った。川面から泥の匂いが立ち昇ってきた。
 徐々に重々しさを増す流れは、河の中心から、力強くゆっくりと上へ向って盛り上がった。
 岸に打ち寄せる波は益々高く、益々強くなった。浪が岸を打つごとに、水面は少しずつ上がり、一時間も経たずに私がさっき寝ていた砂地はすべて水の中に埋もれてしまった。

 上流のどこかで激しい雨が降ったのだろう。

 河の水が増えると、流れは逆に重々しく緩やかになった。さらさらと流れていた水の音が重く湿り気を佩びてきた。
 水に埋もれた草の中に、まるで句読点のような、大きく開けた魚のくちばしがいくつも見え隠れしている。大量の土砂のために河の水の酸素が急激に減ってしまったためだ。河の深い淵にいた魚はみな岸辺に近づいて来て、争うように生命にとって重要な酸素を吸っている。

 毎回河水が増すと、河辺には大勢の人がやって来て、魚を採る絶好のチャンスを逃すまいとする。
 もし今私が小さな魚採りの網を持っていて、河辺の浅い流れに仕掛けて掬いあげたら、びっくりするほどの収穫があるだろう。
 魚の網から伝わってくるずっしりと重い振動を感じたような気がした。

 大渡河の急流が育んだ細鱗魚は魚の中でも上等で、その味は天下一品である。
 金川の県城に戻れば、どこかの店で必ず新鮮な魚を食べることができる。
 真っ白なスープの上に浮かぶふっくらとしたウイキョウの葉が目に浮かんだ。

 船頭とその家族は、木に繋いだ船を岸に上げ、草地の上にさかさま伏せ、言った。
 「上の橋から帰るしかないな」
 そこで私は彼らに別れを告げ、上流のつり橋に向かって行った。

 金川の県城に戻った時、一度もヨンドゥン・ラディン寺を振り返って見なかったのに気付いた。
 後になって、何故なのか考えてみた。
 それは、どのように振り返っても、歴史にかかる靄を透して、歴史本来の姿を見ることはできないと分かっていたからではないだろうか。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)






阿来「大地の階段」 88第6章 雪梨の里 金川

2012-04-06 01:48:48 | Weblog
5、ギャロンのかつての中心 ヨンドゥン・ラディン寺 その3



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)






 だが、今この時の太陽の光の中、この場所へやって来た時、広法寺の輝きはすでに跡形もなく消え去っていた。

 私たちが食事をした草地の傍らには壊されたままの幾つかの石碑が転がっていた。絡まる草をどけてみると、石碑には何代目かのカンプの名があった。これらの石碑は、歴代のカンプが円寂した後の墓碑だったのだ。
 石碑の形から見て、チベット族の高僧たちは、漢の方式によって葬られている。そうでなければこのような墓碑があるはずはない。石碑の上の装飾的な図案が宗教的な色彩と並々ならぬ技巧を表している他は、これらの墓碑は烈士墓地や共同墓地の墓碑と何の変わりもなかった。
 いくつかの石碑を目の前にして、私の心には突然複雑な感情がわいてきた。

 かなり長い時間、私はずっと考えていた。
 これらの石碑の美しい漢字は誰が書いたのだろうか、それはいつのことで、寺には漢字に通じた僧がいたのだろうか、それとも、朝廷が家臣に命じて書かせた後、宿場ごとに引き継ぎながらこの地に運ばれてきたのだろうか。

 私にはこの答えを思いつくことが出来ない。そして、中国の歴史書も往々にして、このような些細な事柄を述べては来なかった。

 同行の友人が教えてくれたのだが、これらの墓碑はすでにばらばらになっていて、残っているものは、ここ何年かの間に民間から集められたものだという。しかも、見つかった場所はかなり不可解である。たとえば、その一つは農民の豚の囲いの中から見つかった。また別の一つは小さな流れに架けられていて、小さな橋の役割をしていた。

 乾隆年間から解放まで、セラ寺は12代のカンプを送り出し、最後のカンプのアワバダンは、1953年に亡くなった時には、すでにこの寺の住職ではなかった。

 広法寺が最も盛んだった時、寺には二千人あまりの僧侶がいた。そのうち85人はギャロン全域の土司から派遣され、清王室から生活費が交付され、満族の師に付いて学んだ後、各土司の領地に戻り、正しい教えを広めることになっていた。
 だが、ギャロンの地では、清軍を助け大小金川を討伐した土司たちは、一方で命令を守り広法寺に人をやってツォンカバの創立したゲルグ派の教えを学ばせたが、実際には、やはりこの教派に抵抗感があった。

 そのため、今日に至るまで、ギャロンの寺院は、多くがチベット仏教ニンマ派の寺であり、大金川土司に隣接するディャオスジア土司は、解放の時まで、その家廟はボン経の僧が管理していた。

 だが、土司制度の日ごとの衰退に伴って、広法寺の力も日を追って弱まっていった。

 清王朝の崩壊後、寺はより衰退を早めた。
 
 1935年、紅軍の長征が金川を通り、国民党の二十四軍と当地の武装軍は、この寺を根拠地として紅軍を阻止した。こうして、寺は再び砲火の中に置かれることになった。
 最後に、国民党軍が潰えた時、彼らは寺の財産をすべて略奪し、周囲の山に沿って立てられた数百の僧坊を焼き尽くした。戦いの後、寺の僧はたちまち二百名に減少した。

 文革の間、広法寺は徹底的に打ち壊された。
 私の古い同僚は、文革中地方の走資派として批判され、労働につかされていた間、主な仕事は寺の数千の僧が茶を煮た巨大な銅の鍋をのこぎりで切断することだったという。
 乾隆帝から賜った額でさえ、農民が持って行って洗濯板にして、最後には細かく割って薪としてかまどにくべられたそうだ。
 
 その後の「農業は大塞に学べ」という運動の中で、寺の跡は立派な畑に切り開かれた。
 わずかに残されたのは、寺の本堂の跡と、山道の僧坊と廃墟となった仏塔だけだった。

 これらの廃墟は私に多くのことを思い起こさせてくれたが、新しく建った寺には少しも興味を覚えなかった。
 なぜなら、このあたりの土地では、チベット仏教の寺はすでにその基礎を失ってしまったからだ。民衆という基礎と信仰という基礎を。
 無理やり維持していくことは却って時代に外れた無様さを顕わにするものだ。たとえそこにある種の悲劇的な色彩があったとしても。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)









阿来「大地の階段」 87第6章 雪梨の里 金川

2012-03-30 02:12:20 | Weblog
5、ギャロンのかつての中心 ヨンドゥン・ラディン寺 その2



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 大金川小金川土司が再び勢力範囲を拡張し、再び清の大軍を国境に迫らせることになった第二回金川の戦いでは、ヨンドゥン・ラディンのボン経の僧たちは呪術と神秘的なのろいの言葉でこの地の土司を支えただけではなく、武器をてにしてかなりの戦闘能力を備えた勇敢な兵士にもなった。

 大金川がついに陥落した時、寺の数千におよぶ僧兵のほとんどが戦死した。生け捕りになった五名の大ラマと、乱を起こした大小金川の土司たち200余名の俘虜は北京に護送され、神の前で打ち首になった。

 伝えられるところによると、乾隆帝はヨンドゥン・ラディンの壮大華麗を伝える上奏を受けて、前線の将軍阿桂たちに、寺の図面を描いてから解体し、使われていた材料のすべてを北京に運び、元通りに復元するよう命令を下したという。
 だが、定西将軍阿桂たちは、大金川は僻地であり、内地と通じているのはすべて細く曲がりくねった道で、更に、ギャロンの建築を解体しても、寺院の金の頂と菩薩以外は細かい石ばかりで、元通りに組み立てるのは至難の業だろうと、再三にわたって報告した。乾隆帝は仕方なくあきらめた。

 それとは別に、乾隆帝はヨンドゥン・ラディンの姿を描いた図を北京に送らせ、じっくりと鑑賞した後宮中の宝としていた。

 そして、その前よりも前、大小金川で戦う八旗の兵へのギャロンの要塞攻略の訓練のため、数百名のギャロンの捕虜を北京に護送して来て、香山の麓にギャロンの石の要塞と村の砦をそのままの形に建てさせ、これから前線に赴く満族の八旗の兵に攻略の演習をさせた。

 歴史書を見ると、近代的な兵器のなかった時代の前線では、清の兵士がギャロンチベットの地の石の望楼に対抗する方法は、火で焼くか、銅の大砲で鉛の弾を撃ち込むしかなかった。最終的には、地下道を掘り火薬を使って爆破するという方法もあった。
 これらの戦法のどれが、香山のふもとに造られたギャロン人の要塞のような石の家を前にして考え出されたのか、歴史書のから見つけることは出来なかった。

 北京の擬似建築に護送されたギャロンの村のチベットの民たちの総てが、戦いが終わった後首を撥ねられた訳ではなかった。乾隆帝は寛大な態度で、彼らに生き延びる道を与えたのである。ただ、彼らが故郷へは戻らなかっただけだ。
 今でも、北京郊外の香山のふもとのいくつかの村の人々は、自分たちの祖先がギャロン人だと自覚している。

 ある年の秋、北京で仕事をしているチベット人が、その村へ行って調査したらどうかと私に勧めた。
 彼にギャロン風の建物がまだあるかと彼に尋ねると、答えは、もう無いようだ、たぶん無いだろう、だった。それを聞いて私の好奇心はあっという間に消え、訪ねてみたいという衝動は無くなった。

 もし本当にいくつかの村でギャロン人の末裔を訪ねあてたら、みなが顔を合わせた時にとても気まずい雰囲気になるのではないだろうか。
 たとえば、彼らは北京語を使わずに私に何を尋ねたらいいのか、私は彼らに何を伝えられるのか、そして何を尋ねるのか。

 中国人は血縁の力を特別に信じることがある。
 だが、長い間漢とチベットの文化の交わる場所に生活していたチベット人として、私はたくさんの異化の力を見てきた。それはとても強い力だった。

 話が少し逸れてしまった。

 今現在、私はすでに跡形もなく打ち壊されたヨンドゥン・ラディン寺にいる。

 見渡す限りの文化の廃墟に立った時、人は、文化は伝承によって永遠の命を得る、という考えを持つことは出来ないだろう。

 大金川の土司がこの狭い土地で集めることの出来たすべての財力と人力を注いだ、最盛期の清王朝との10数年にわたる抗争は、血で血を洗う殺戮が終わりに近づいた時、ヨンドゥン・ラディン寺の末日をも招いたのである。全ギャロン地区のボン教の地位もまた崩れ去っていった。

 民間の言い伝えによると、乾隆帝はヨンドゥン・ラディン寺を北京に移築できないと知ると、命令を下して、徹底的に寺を破壊させた。そしてその基礎の上に、チベット仏教グル派に属する黄教の寺を建てさせた。完成後の寺院は、正面の扉がもとのボン教寺院の裏側に移された。

 新しい寺の入り口には、皇帝が自ら書いた金の額が掛かっている。
 「広法寺」
 この三つの大きな文字はまぶしいほどに輝いている。
 
 そして、知力と計略に長けた皇帝は、異民族によって異民族を制す、という思想支配の術を用いた。寺の住職、即ち歴代のカンプはダライラマ管轄下の黄教三大寺院の一つ、セラ寺から派遣された。







(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)






阿来「大地の階段」 86第6章 雪梨の里 金川

2012-03-07 23:12:40 | Weblog
5、ギャロンのかつての中心 ヨンドゥン・ラディン寺 その1



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





 胸の中に何か感慨が湧いて来るのを期待していた。だが蔓草に覆われた寺の庭に立った時、期待していたよう感動はなかった。
 いずれにせよ、私はかつての輝かしい一時期、全ギャロン文化の心臓だった地に再びやって来たのだ。

 ただ、すべてはもう当時の姿に戻ることはないのである。

 何年か前、アバの草原でボン経の寺院の管主を訪ねたことがある。
 その日寺の僧たちは、開いたばかりの花で埋め尽くされた、寺のまわりの草地にテントを張っていた。私はそのラマを訪ね当てることができなかった。

 彼の弟子たちは、肉汁たっぷりの牛肉饅頭と出来たばかりのチーズを分けてくれて、こう教えてくれた。
 管主はツーチンに行きました、そこで、破壊されたままの偉大なヨンドゥン・ラディン寺を作り直すのです。

 
 その年の秋、ヨンドゥン・ラディン寺を訪れた。新しく出来た寺が目の前に現れた時の私の思いは、失望の極みと言ってよかった。

 私はこれまで壊れたままになっている建物を復元しようと主張したことはない。なぜなら、建物とは生きている存在であり、歴史と生活が自然と凝集したものなのだから。
 時は移り、世の様は変わっていく。
 建物をどんなに元通りに復元したとしても、それは外側の形式を復元しただけで、内にあったものはすでに無常な時の流れにつれてすべて消え去っているのである。

 更に言えば、私には目の前にある石とセメントをいい加減に混ぜ合わせた建物が当時のヨンドゥン・ラディン寺だとはとても信じられなかった。

 前回ヨンドゥン・ラディン寺に来た時は、私たちは寺の本堂には入ることは出来ず、草原で尋ねたいと思いたったラマにも会えなかった。寺の厚く重々しい木の門には重そうな大きな鍵がかかっていた。

 当時寺には他に僧の姿はなく、一緒に行った統戦部の友人は彼の推測をそっと私にささやいた。
 役人が来ると知って、寺の者たちはどこかに隠れたのかもしれない、と。
 

 どうしてかと尋ねた。
 友人はちょっと笑って答えた。
 「それは少しばかり敏感な問題です」

 
 どの部分が敏感なのか、と更に尋ねてみた。
 相手はヒントを与える形で言った。
 「阿来先生、ヨンドゥン・ラディン寺は以前は何派だったか知ってますか」
 ボン教。これは簡単な問題だ。

 
 彼は続けてヒントを出した。
 「乾隆帝が金川を倒した後、寺は何派になったでしょうか」
 仏教のグル派。地方史に興味のある人なら、これもまた同じように簡単な問題だ。

 
 彼の笑いにはわずかに神秘的な色彩があった。
 「正解です。現在の定説によると乾隆王朝が起こしたのは中央政権を守るための戦いでした。皇帝は寺を仏教に改めましたね。今、またそれを叛乱した土司の重んじたボン教に戻すのです…」


 相手が用いたのはヒントだけ出すという方法で、ここまで話すと、その先はもう何も言わなかった。

 私は少し分かったようでもあり、だが、十分には分からなかった。
 私たちの生活の中で政治は時に、よく分かっていないのに、心を読み合って口では述べない、といったような特別なロジックをもたらすものだ。

 その日私たちは新しいヨンドゥン・ラディン寺で何も見ることができなかった。

 そこで、寺の傍らの漢人の農家から鍋を借りてきて、庭で火を起こし、今回の聖地の旅を秋のピクニックへと変更した。

 その日、この庭で小人のように背が低く、特別寂しげなみかんの木を見つけた。
 皮の青いみかんが2,3個生っていた。その青い皮のみかん、このままずっと黄金色にはならないかのようなみかんを見て、口の中に苦さと酸っぱさとがあふれて来るようだった。

 食事を終え、日の当たる草地に寝転んだ。頭の上は深い藍色の空、白い雲が渡し場の船のように天に停泊している。
 そうしているうちに、伝説の中のヨンドゥン・ラディン寺の歴史が思い起こされてきた。

 今日再びここに来たのは政府の役人としてではなく、心のままに文化を楽しむ者としてである。
 ある時期の歴史に近づきたい、また、この寺の現在の本当の姿を見たいと思ったからだ。
 だが、以前と同じように扉には大きな鍵がかかっていて、長い間風雨に晒された扉の彩色画はかなり色褪せていた。

 現在の姿が見られないのなら、もう一度更に壮大な廃墟と向き合い、想像の中で伝説の歴史を復活させよう。

 明清より遥か以前、ギャロンチベット区全域で信じられていたのは、青蔵高原土着の宗教ボン教だった。そしてヨンドゥン・ラディン寺は全ギャロン地区の中心の寺だった。
 だがその時、青蔵高原の大部分はすでにチベット仏教の各教派に相次いで統治の地位を欲しいままにされていた。
 そこで、ボン教を信じるギャロンはチベット文化の中の特異な存在となってしまった。

 ギャロンは地理の上で漢の地に近いので、政治の上でも、時には内地の政権との妥協を求められた。また、内地の政権の交代により以上に敏感にならざるを得なかった。

 14世紀40年代、張献中が四川に大西政権を打ち建てた時、この寺の大ラマ、ズレン・トージエは、金川の谷のの首領たちを率い、長く苦しい道程を越えて成都へ赴き、服従を示し朝貢関係を作った。

 明朝が起こった時、この寺の大ラマ・ハイラムを演化大師に封じ、ギャロン地区の政治と宗教を統率させたので、ヨンドゥン・ラディン寺の勢いは全ギャロンで最も盛んなものとなった。
 清の康熙三年、朝廷は前王朝の物語を踏襲し、再びギャナバに演化大師の印を授けた。これによりギャロン地区での宗教・文化の中心としての地位はより一層確固たるものになった。

 だが後になって状況は少しずつ変化し始めた。
 乾隆帝が始めて大金川へ兵を送った時、ボン教の法師が常に陣の前で呪術を施しているのがたびたび発見されたのである。

 対立する双方の軍隊はみな迷信を信じ、呪術の力を恐れていた。そのため乾隆帝が事の大小に関わりなく発する命令の中に、前方の将兵はボン教の法師をどのように区別し処理したらよいか、という具体的な指示が何度も示されている。
 ただ、私はまだ清軍がボン教の法師を捕らえたと言う具体的な記載を見たことはない。

 だが、完全な武功を立てた乾隆帝のもとでは、チベットの宗教に対して、すでにはっきりとした比較がなされていた。

 一方は、青蔵高原で最も盛んなダライ・パンチェン系列のチベット仏教のグル派で、周辺との揉め事を収拾出来ず、討伐のための派兵を、何度も王朝に請願していた。清朝の初期は、ずっと協力関係を保ち従順な態度を取った。

 それに反し、漢の地に近い大渡河の谷間のギャロンには服従しない一つの教派があった。漢の言葉の中に、この教派にはもう一つ民間での呼び名があった。
 黒教である。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)








阿来「大地の階段」 85 第6章 雪梨の里 金川

2012-02-21 01:38:44 | Weblog
4大金川の渡し場 その2



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





 もちろん、当時の寺は目の前にある寺の規模と景観をはるかに超えていただろう。

 車は去って行き、私は岸辺に立って太陽がゆっくりと低い山に昇っていくのを見ていた。
 日の光はゆっくりと山の上から谷の底へと注いでいた。
 
 その時、一人の男が対岸にやって来て、両方の手を口元でラッパのようにして私に向って叫んだ。
 「船に乗るかね」
 私も両手をラッパのようにして力をこめてそちらに向って叫んだ。
 「乗せてくれ」

 その男は纜を解き、ゆっくりと漕いできた。水流のため船はまっすぐには進まず、川面を斜めに漕いで来る。岸に着くと船頭は岸に飛び移り、縄で船を引いた。流れに逆らってかなり長い間引っ張って、やっと私の前まで来た。

 船に乗ってから尋ねた
 「牛の皮の船じゃないね。いつから皮の船をやめたんだい」
 船頭はただ簡単に答えた。
 「木の船のほうが牛の皮の船より安全なんだよ」
 これは私の問いに対する答えとはいえない。

 船に乗ると、見た目には穏やかな大金川の水の力を感じた。河の水が下から押し上げ、船を通して力強い振動が感じられる。

 船頭は懸命に櫂を使うのだが、重い水流に船は下流に押し流される。すぐに目の前に白い飛沫を上げる早瀬が見え、逆巻く波の音が聞こえた。

 ユンドゥン・ラディン寺に関する本の中に、ここを流れる大河が八宝吉祥を象徴する二つの山の間で岩とぶつかり波しぶきを上げる音は、自然が唱える六字真言のようである、と書かれている。
 だがこの時、少しずつ近づいていく早瀬の波の音も、私の耳には引付を起こして狂ったように走り回る馬の群れのように聞こえ、めでたさは少しも感じられなかった。

 船が軽く振動して船底が岸辺に当たった。広い大河を渡り切ったのだ。
 私と船頭はまた綱を引いて流れを遡り、船を次に出発する場所へと移動させた。
 足が河岸のしっかりした岩と砂を踏みしめ、辺りに響く波の音に再び耳を傾けると、確かに歌のようなもを聞き取ることが出来た。

 トウモロコシ畑の中に入っていくと河の水音は消えた。寺の建物も視界から消えた。
 辺りにあるのは、水分と栄養を吸い込んだ緑の葉と、黒くほのかに紫がかった大きなトウモロコシの、生命そのものの呼吸だけだった。

 このように旺盛な緑の生命の中に身を置くと、多くのもの――歴史と人生の究極の疑問などは何の意味も持たなくなってしまった。
 ここでは、人々を包み込むもの、まっすぐに向き合わされるもの、それは唯一つ、生命そのものである。

 この時太陽の光は谷の中心に降り注ぎ、すべての緑の葉がきらきらと光を発した。
 大きな露の玉がころころとぶつかりあい、土の上に落ち、私の体に落ち、すぐに私が着ている服に浸み渡った。
 もし、このトウモロコシ畑が更に200m程広かったら、私の体は完全にびしょびしょになっていただろう。

 ちょうどこの時、目の前がぱっと開けた。トウモロコシの囲みを突破し、私は暖かい陽の光の下に立っていた。

 足元の道は、今では通る人が少なくなり、柔らかな青草に埋め尽くされている。瞬く間に、寺の前に着いた。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)









阿来「大地の階段」 84 第6章 雪梨の里 金川

2012-02-11 02:14:53 | Weblog
4大金川の渡し場 その1



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 夜通し過ぎ去った金川について読む。だが、少しも飽きることはなかった。
 昼間はやかましい県城も今は静まり返っている。夜半過ぎに雨は止んだ。あちこちから聞こえる鶏の鳴き声が私に眠るよう促している。
 本を置き、しばらく目を閉じた。
 だが、空はすぐに明るくなり、そのまま起き出した。

 また旅を続ける。

 昨夜は、本の中から過去の物語を読んだ。今日は、道すがらそれらの物語を振り返ることにしよう。

 宿を出て、ヨンドゥン・ラディン寺に向った。

 早朝の澄み切った川風が吹いてくる。
 風は微かな冷気を佩び、私は少し歩みを速めた。体がすぐ温かくなり、うっすらと感じていた寒気は消えていった。

 私が向かっているのはギャロンに名を馳せていた、以前はユンドゥン・ラディンと呼ばれていた寺である。この寺は大金川の西側、安寧郷に属するモモザ村の近くにある。金川の県城から34kmの場所だ。

 歩き始めて一時間位だろうか、一台の車が後ろから走ってきた。
 手を挙げたが、車は止まってくれない。おまけに、車の中から私に向って指で払いのけるような仕草をしている。
 二台目がやって来たのでまた手を挙げると、車は停まった。東風のトラックで、運転手は現地の人だった。

 彼に漢族かチベット族か尋ねてみた。

 この質問はある人々に対しては避けなければならないものだ。
 だが、この運転手は中年で温和な顔つきをしていたので、尋ねてみた。

 運転手はハンドルを握って前方の道をじっと見つめていたが、かなり経ってからやっと口を開いた。
 逆に私にこう尋ねた。
 「どっちだと思う」
 私も前方の道路を見つめながら、何も答えなかった。

 彼はため息をついて言った。
 「オレのような人間は一体何族なんだろう。
 ここで暮して何代にもなるが、元からいる人たちはオレたちを漢族と見ているし、本当の漢族の所へ行ったらオレたちみたいのはチベット族ということになる。
 純粋なチベット族と純粋な漢族はオレたちをどこか見下している。口には出さないし、気を遣ってくれてはいる。
 だが心の中で見下しているんだ」

 この話題を持ち出したのを少し後悔し、それからは口をきかなかった。
 運よく、すぐに目的地に着いた。

 鎖の吊り橋に着くと、運転手は車を停めた。
 ここから橋を渡り、東岸へ行き、流れに沿って川下へ1kmほど進むとユンドゥン・ラディン寺である。

 数年前の秋、金川県委員会統戦部の幹部に付き添われて、この道を歩いたことがある。
 その時、統戦部の人は野菜と肉を持って行って、寺のラマにチベット式の料理を作ってもらった。
 具体的に何を作ってもらったのかはっきり覚えていない。
 寺の様子もまたはっきり覚えていないのだが、庭に青い実をぽつぽつと2,3個ぶらさげたみかんの木があったのを、今でも覚えている。

 私は多くのみかんの木を見てきたが、それはみな内地でのことだった。
 ギャロンの、歩き回って来た数百kmを越す道程の中で、これは私が見た唯一のみかんの木だった。

 私は思った。このみかんの木には、以前マルカム寺の跡で見たあの楡の木と同じように、特別な物語があるのかもしれない。
 もはや本来の姿を取り戻すのが難しいいくつかの物語が…

 だが、私は今までずっとこのみかんの木を覚えていた。

 運転手は私が動かないのを見て言った
 「寺まで行くんじゃなかったのか」

 私は答えた
 「渡し場から行きたいんだ」
 
 運転手はエンジンをかけ、言った
 「前にも来たことがあったんだな。渡し場を知ってるなんて」

 すぐに車は入り江を廻り、河に沿ったカーブを進み、小さな山の凹みへと向って曲がった。
 車を降りると、渡し場は目の前だった。

 向こう岸の柳の木の下に小さな木の船が繋ながれている。
 岸の上には緑の折り重なるトウモロコシの畑が広がっていた。

 畑の突き当たり、山裾に接する辺りが、その昔ギャロン全域に名を知られたユンドゥン・ラディン寺である。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





阿来「大地の階段」 84 第6章 雪梨の里 金川

2012-01-25 21:37:59 | Weblog
3.雨の夜に金川の物語を読む



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 回族の店でかなりの量の牛肉を食べ、少しばかりの酒を飲んでから、四角い焼餅をもらって宿へ戻った。
シャワーを浴び、ベッドに入る。

 外ではしとしとと雨が降っている。

 ベッドの背にも垂れて、本を開いた。

 窓の外の雨が心のどこかの思いをふつふつと醸している。
 そこで私は、時間を閉じ込めている文字に連れられて、過去の金川へ、過去のギャロンへと遡って行った。

 このような夜、雨は山肌の岩や樹々に降り注ぎ、谷間の村に降り注ぎ、畑の作物に降り注ぎ、緑の草むらに降り注ぎ、すべてのものの埃を洗い落としてから、小さな谷川に流れ込み、小さな流れは大きな河へと集まっていく。
 こうして、夏の大河は小雨の降り続く夜に少しずつ広さを増してゆく。

 河にたち込める霧は果てが見えず、私の思いは歴史の遥かなこだまの中に迷い込んでいった。

 その中で最も重要な章は、もちろん乾隆朝の2度にわたる大金川の戦いである。
 すでに、人々の暮らしや山々の中に歴史の痕跡を探すことが困難となった、かつてツーチンと呼ばれ、時を経て金川と呼ばれることになる地方について、歴史書の中から断片を記していこう。



 [お詫び:
 ここから後15ページにわたって、歴史書からの抜書きになります。きちんと訳すべきなのですが、私の力ではそれをやっていたら何年もかかりそうなので、ここは簡単な説明だけにさせていただきます。
 これから時間がある時に少しずつ取り組んで生きたいと思っています。
 

 ここに描かれるのは1747年から始まる、第一回目の金川の戦いに関する記述です。ほとんどが乾隆帝からの命令と、現地で戦っている役人からの上奏文で、それを通してこの戦いの進展が読み取れます。

 まず、大金川の土司サラペンが小金川を攻めます。乾隆帝はこの争いに乗じてこの地を平定しようと考えました。その思いは強く、矢継ぎ早に命令文を発し、かなりのお金をつぎ込んでいます。

 土司たちの抵抗はかなり強く、役人たちが窮状を訴える上奏文も何度も送られます。

 この地に今も残る50mはあろうかと思われる石造りの高い塔は、清軍をくいとめる強力な砦となりました。

 1749年サラペンはついに捕らえられ、この戦いは一旦終結します。]





 ここに至って、大金川の戦いの一つの段落が終わった。
 
 響いてくるのはすべて殺戮の音ではあるが、私には本当のギャロンが充分に感じられた。

 ここに引用した文の中には、今日まで残されている地名もある。
 党壩、卡撒、勒烏、更に曾達。
 それらの地名はすべて金川の県城からそう遠くないごく小さな地域の中にある。

 読者はこれらの文字から、武器が光りを放ちながら交わる時の殺気を感じるだけでなく、金川の当時の風習や美しい風景も読み取るだろう。

 ただ、現在の公道が通じてから、当時の山道にあった関所はただの記憶でしかなくなり、すでに歴史の流れと生い茂る荒れ草の中に消え去ってしまった。
 歴史を改めて眺めてみてはじめて、歴史は実は早くも人々から忘れらていることに気づくのである。


 朝早く宿の門を出て、本の中に書かれた場所を尋ねようと思った時、歴史の記載とまるで違っている現在の大金川両岸の風景を目にして、私は、歴史書の中の記載は、まるで勢いに満ちた虚構のようだと思い始めていた。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)







阿来「大地の階段」 83 第6章 雪梨の里 金川

2012-01-20 01:59:58 | Weblog
2.理想の街を想像する


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



 水でさっと顔を洗い、街に出た。
 金川に来るのは初めてではない。
 長い間マルカムに暮らしている者にとって、金川で春に一つ大切な行事があるからだ。

 陽春の三月、金川の両岸の梨園や村には、数え切れないほどの梨の木が、雪のように、雲のように、霧のように真っ白な花を開かせる。だが、上流の海抜が数百kmも高いマルカムでは、春風はまだ肌寒く、吹いてくるのは粉のような、砂のような、空を埋め尽くして舞う雪である。
 そこで、人々は車を走らせて100kmあまりの金川まで遠出して、大渡河の谷を埋め尽くす梨の花を愛でにやって来る。

 高原の春は訪れるのが遅く、人々はいつも今か今かとそれを待っている。
 長い間待ち望んでいた人々は毎年ここにやって来て、一足早い春を味わうのである。

 夏になると、すべての谷が一面の緑に覆われ、群がる山々から更に奥まった金川はすぐに忘れ去られてしまう。
 そのまま次の年になり、春を待ちきれなくなった頃、人々はまた山や川にあふれる梨の花を思い出す。
 雪のように白い梨の花の中には、紅の陽気な桃の花も混ざっている。

 この県城には何人か知り合いがいる。だが、彼らを訪ねようとは思わない。
 このあたりでは酒のもてなしが盛んなのだが、私には余り時間がない。この限りある時間の中で、どこかの家の庭の梨の木の葉陰で酔いつぶれるわけには行かないのだ。
 何年も来なかったが県城はほとんどもとのままのようだ。後ろの山から落下してくる土石流は依然として県城の安全を脅かしている。

 山の中のこのような県城はすべて、あまり大きいとはいえない。だが、その統括する地区や人々の生産能力や、流通の機能から見ると、すべての街や村は少し大きすぎるように見える。
 だが、これらの街は、美しく印刷された、会議の席で配られる文章の中では、一つの成功例としておおいに宣伝されている。

 私は以前は正真正銘の理想主義者だった。今でも少なくとも二分の一の理想主義者で、だから、このような、あまり清潔とはいえず秩序のない村の通りを歩く時、いつも理想の街を想像してしまう。

 村を出て街へ行こうと試みる娘の物語の中で、このような村の理想を描いたことがある。
 「扶美、あるいは街へと通じる道」という小説である。

 物語の中で、街へ行こうとした娘は失敗する。なぜなら、その街は彼女の想像していたようなものとは違っていたからだ。
 扶美と呼ばれる村の娘は中学生で、走るのが特別得意だった。そこで運命は彼女にこの二本のよく走る脚をイカシテ街へ行く機会を与えた。 実は、彼女の家は街からそれほど離れていない村にあった。多くの夜、彼女は夜露に濡れた小さな丘に座って、灯りに滲んだ遠くの街を見つめながら、もう一つの生活への幻想に浸っていた。
 そこで彼女は、その長い足を踏み出して街の中へ飛び込んで行き、多くのマラソン大会で栄光を勝ち取るのである。

 この小説の主人公は実は私の中学時代のクラスメートである。

 だが、街は彼女の想像したような場所ではなかった。
 ということは、私たちの時代の多くの村の青年が想像していたものではなかったということだ。私たちは理想を求め、更に多くの街へ行き、更に遠くの場所へ向った。
 だが、扶美は村に戻り、村に戻ってからは、二度と街の方角を眺めなかった。

 この小説の中で私は次のように語った。
 街は多くの村の夢である。清潔、文明、繁栄、幸福…これらの文字がその灯りの中で魅惑的な光を放っている、と。

 私はまた小説の中で空想した。
 村もまた街が夜毎に見る夢である。その瞬く星空の元には、長い時を経た意味の深い、私たちが最も欲している安らぎがある、と。

 だがそのすべては現実離れした理想でしかなかった。

 街であれ村であれ、どちらも苛立ちと不安に満ち、も早私たちの希望の地ではなくなってしまった。そこで私たちは休むことなく捜し求め、さすらうのである。

 連綿と綴られた文章以外、この休むことのない追求がどのような結果をもたらすのか、私はまるで分からない。
 同時に、たとえ追求の先にあるのが虚しさだとはっきり分かっていても、私はやはり絶えず捜し求めるだろう。

 私は今でも想像の中で、すべてのギャロンの街の姿を描くことができる。
 道に沿って建つ家には、乾燥した広い木の張り出しがついていて、少しばかりの酒、少しばかりの花、少しばかりの歌声がある。
 どこかの家の前を過ぎる時、冷淡でわずかに敵意を含んだ表情を見たいと思う人はいないだろう。だが、その街を行き過ぎる時、誰もが絶えずその表情に出会うことになるのである。

 いつしか、私の顔にもそのような表情が浮かぶようになった。

 私は理想の街を想像しているのだが、同時に、この街には本当に行くべきところがないのに気付かされる。
 茶館ではマージャンに余念がない。近頃現れたカラオケでの怪しげな夜の生活はまだ始まっていなかったが。
 
 そこで、私の足は自然と書店へと向うことになる。
 本棚に並ぶのはほとんどが古い出版物だ。そして、分類と陳列は乱雑でまとまりがない。だが、根気さえあれば、意外な収穫がある。思ったとおり、私はここで地方史に関する資料を集めることができた。

 これで、所在無い夜を過ごす心配はなくなった




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)