塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 76 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2011-06-09 00:13:40 | Weblog
10 永遠の道班と過去の水運隊 その2





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





 大真面目な文字の遊びの例はたくさんある。
 ローズウという小さな地方だけでも一つにとどまらない。

 たとえば、道班(道路工事の飯場)という言葉、これは公道を補修する道路工事の労働者が住み込む所である。
 だが、70年代、ある日突然、飯場に掛かっていた表札がすっかり変えられた。
「道班」が「工班」に変わったのである。

 たとえば、今私の目の前の、ローズウの飯場の入り口には一つの表札がかかっている。
 「ローズウ工班」である。
 このように改変したのは飯場を率いる機関にある日、「道」は「盗」を連想させやすいという、おかしな発想が生まれたからだ。そこですべての表札を「○○工班」という表現に変えた。
 だが、人々はすでに呼び方までは変えられなかった。

 もう一つ、先程書いた水運隊という呼び方。
 昔からこれまで、木材の流れてくる河の辺りの人々はこのようには呼んでこなかった。この名称は、耳にしただけでは、水上運送をする船団の名前のように聞こえる。話し言葉ではずっと「流送隊」と呼ばれてきた。

 実際にそこで働く人たち自身も自分たちをそう呼んでいだ。

 「流送」。彼らにとってこれはより具象的で、より適切な名前なのである。だが、文字の上ではあくまでも固執して水運隊と呼んでいる。

 あまりにも文字の魔力を信じすぎると、どの言葉もみな呪術師の呪文となってしまうかもしれない。

 だが今、私がローズウの橋の袂に立っているのは言語の問題を考えるためではない。私はここでこれから進む道を選ばなければならない。

 今私は花崗岩でできたアーチ型の橋の上で徘徊している。橋の下では増水期を迎えた河の水が疾走し、咆哮している。黄色く濁った水の上には白い浪が次々と飛沫を上げる。

 橋からそれほど遠くないあたり、数百メートルの下流で、水量を増したスムズ河が左岸の二つの大きな岩の間から溢れ出すように流れて来て、リンモ河の流れと一つになる。
 二つの流れが激しくぶつかり合い、花崗岩の高い岸壁の足元で巨大な波を舞い上がらせ、激しい波音が雷鳴のように山の間をこだましていく。

 ここで公道からまた細い枝道が分かれている。

 本道はリンモ河に沿ってひたすら下って行き、金川を過ぎ、もう一度以前訪れた丹巴に至る。橋を渡るとズムズ河に沿って枝道が更に深い山の中に伸びていく。そうして、また途中で細かな枝道が分かれていき、最後にはそれらは一つ一つ山の奥に消えていく。

 今考えているのは、この道を行くべきかどうかだ。もし行ったら、またその道を戻ってこの橋の上帰ってきて、それから、改めて旅の路線を考えなければならない。

 それはとても面倒なことだ。

 そうしている内に、終には、一台の小型バンがやって来て、私の前に停まった。運転手が「先生」と叫んだ。私はゆっくりと思い出した。
 その顔は20年ほど前の垢じみた学生の顔へとゆっくりと変わっていった。

 私はためらいながら尋ねた「シャマルジャかい」
 彼は首を振って言った「僕はシャマルジャの兄です。乗ってください」
 
 そこで、私は車に乗った。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





 

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