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ダイハツは「大阪の発動機」...

2018年11月22日 | eつれづれ

第二次世界大戦前は日産コンツェルンの一員であった。
「日産」という名称は、当時グループの持株会社であった日本産業が由来となっている。
創業期より先進技術の吸収に積極的で日産自動車は日本フォードや日本ゼネラル・モータースなみの大型乗用車を製造するため、1936年(昭和11年)にアメリカのグラハム・ペイジから設計図や設備などを購入し、また戦時中の技術的空白を埋めるため、1952年(昭和27年)にイギリスのオースチンと技術提携している。
1958年(昭和33年)には当時世界で最も過酷なオーストラリア大陸一周ラリーに自社開発のダットサン・210型で出場してクラス優勝を飾り1960年(昭和35年)には業界初のデミング賞を受賞するなど、創業時より技術力の高さから「旗は日の丸、車はダットサン」、「技術の日産」として親しまれ、故障が少なく高速走行を得意としたことで医者の往診に愛用されたことから「医者のダットサン」としても親しまれた。
1966年(昭和41年)8月1日には経営難に陥ったプリンス自動車工業を通産省主導により合併。
スカイライン、グロリアなどの車種と、中島飛行機・立川飛行機の流れを汲む人材を戦列に加えた。
またプリンス自動車工業の宇宙開発事業を承継し宇宙航空事業部を発足させた。
1973年(昭和48年)の米国環境庁 (EPA)の燃費テストでサニーは第1位となり、この間、燃費向上のための高張力鋼板およびボディの防錆性の向上のための亜鉛ニッケルメッキ合金を用いた防錆鋼板(同社では「デュラスチール」と命名)、エンジンの燃焼制御技術の開発からCAD/CAM、産業用ロボットの開発まで「技術の日産」として先端技術分野の先駆的役割を果たしてきた。
しかし、その反面、戦時中に自動車の配給を独占していた「日本自動車配給株式会社」が戦後に解散となった際、日本国内各地の地元の有力ディーラーの大半がトヨタ自動車に組織化されたために販売力でハンデがついてしまい、技術面では「技術の日産」と評されるほどに優位を保っていた反面、販売面ではマーケティングと販売戦略で業界トップとなったトヨタには及ばず、1970年代までトヨタに肉薄していた日産の販売シェアは、特に1980年代以降、トヨタとの差は広がる一方となる。

ニッサンは流れるリアウインカーのダットサン1600ccブルーバートSSSクーペ、トヨタはマークⅡハードトップとか人気車だった。
カリーナハードトップも有ったが...ブルーバートU当たりからデザインもオカシクなってしまった。

最近はサファリラリー他、トント聞かれなくなった過酷なレース...三菱ランサーなどが有名だったが!。



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