豊口 和士氏の作品
先日の展覧会のギャラリートークで、豊口氏がこんな話をされていて。
ふむふむ・・と思ったので、ご紹介。
篆刻というのは、方寸の中で彫った部分と彫らない部分があり。
彫った部分には時間の運動があり、彫らない部分には時間の運動がない。
けれどその、時間の運動のない=彫っていない部分にも意味があるのだと。
つまり、書や絵画で言うところの余白の部分。
先日の豊口氏の作品は、そんな余白、余韻を感じさせる作品。。
タイトルはこの2点で一つの作品 「作品2009 Ⅰ・Ⅱ」
右の作品の太い縦の線の左側下には、土のはね返りのような点点・・
跳ね返っている時間の運動が確かにそこにあり、けれどその運動の意味は
何も書かれていない余白(運動のない時間)の部分がないと生きてこないわけで。
その余韻というか、見えない聞こえない、あるいはにおわない・・部分を
いかに余白、空間でもって表現するか・・そして感受するか。
白を生かすか、白を攻めるか、それはそのときの作品によって違ってくる。
そして、余白のきいた作品だけではなく、墨で一杯に書かれた作品にも、
実は意識された白(運動のない時間)があるわけで。
そう考えると書は、時間を表現するゲイジュツなんだ・・と改めて思った
先日の展覧会のギャラリートークで、豊口氏がこんな話をされていて。
ふむふむ・・と思ったので、ご紹介。
篆刻というのは、方寸の中で彫った部分と彫らない部分があり。
彫った部分には時間の運動があり、彫らない部分には時間の運動がない。
けれどその、時間の運動のない=彫っていない部分にも意味があるのだと。
つまり、書や絵画で言うところの余白の部分。
先日の豊口氏の作品は、そんな余白、余韻を感じさせる作品。。
タイトルはこの2点で一つの作品 「作品2009 Ⅰ・Ⅱ」
右の作品の太い縦の線の左側下には、土のはね返りのような点点・・
跳ね返っている時間の運動が確かにそこにあり、けれどその運動の意味は
何も書かれていない余白(運動のない時間)の部分がないと生きてこないわけで。
その余韻というか、見えない聞こえない、あるいはにおわない・・部分を
いかに余白、空間でもって表現するか・・そして感受するか。
白を生かすか、白を攻めるか、それはそのときの作品によって違ってくる。
そして、余白のきいた作品だけではなく、墨で一杯に書かれた作品にも、
実は意識された白(運動のない時間)があるわけで。
そう考えると書は、時間を表現するゲイジュツなんだ・・と改めて思った