帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの『金玉集』 雑(六十六) 大中臣能宣

2012-12-28 00:12:03 | 古典

    



             帯とけの金玉集



 紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。

公任の金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が撰ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。



 金玉集 雑(六十六)よしのぶ朝臣

  産の七夜にまかりて(産屋の七夜にいきて)、

 君が経む八百萬代を数ふれば かつがつけふぞ七日なりける

 (君が過ごすだろう八百万世を、数えるとやっと今日で七日目なのだなあ……子の君が経るだろう八百万夜よ、数えればやっと、京は七日だけだったことよ)。


 言の戯れと言の心

 「君…幼児のこと…おとこのこ」「やほよろずよ…八百萬代…数多い世…八百万夜…数多い夜」「を…経過する時間を示す…詠嘆を表す」「かつがつ…かろうじて…やっと…且つ且つ…十分でない」「けふ…今日…京…山の頂上…極み…感の極み…和合の極み」「なぬか…七日目…七日間…七回…何か…ものの数で無い」。


 歌の清げな姿は、誕生七日目の乳児の長寿を言祝いだ。歌は唯それだけではない。

歌の心におかしきところは、あふ坂の山ばを共に越えて京にて合うことの難しさを乳児に言った。

拾遺和歌集 賀、能 宣。



 もう一首、能宣の賀の歌を聞きましょう。

 ある人の産屋にまかりて(或る人の産屋にいきて)、          

千年とも数はさだめず世中に 限りなき身と人もいふべく

(千歳とも数は定めない、世の中に限りなき身だと、人々も言うでしょう……千門背共に、数は定めない、夜の仲に限りなき身だと人々が言うでしょうね)


 「千とせ…千年…千歳…千門背…お好きな門と背の君」「とも…だとは…共に」「数はさだめず歳の数は定めない…子供の数は定めない…限りが無い」「世中…男女の仲…夜の仲」「限りなき身…長寿の身…お好きな身」「べく…べくあり…(言う)だろう…(言う)にちがいない」。

 

 生まれた子の長寿と、すでに子などあまた居る夫婦を言祝いだ歌。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。