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帯とけの金玉集
紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。
公任の金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が撰ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。
金玉集 雑(四十六) 人 麿
ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島がくれゆく舟をしぞ思ふ
(ほのぼのと明けゆく明石の浦の朝霧の中で、島かげに隠れ行く舟をしみじみと思う……火の火のと赤しの心の浅切りのために、肢間隠れ逝く夫根を、おしいと思う)。
言の戯れと言の心
「ほのぼのと…うっすら、ぼんやりと…ほのかに…火の火のと…炎のように」「あかしの…明石の夜明けの…赤しの…真っ赤な…熱く燃える」「うら…浦…裏…心」「あさぎり…朝霧…浅限…浅切り…浅はかな中断」「に…さ中に…時・場所を示す…のために…原因・理由を示す」「しま…島…肢間…女」「かくれゆく…隠れ行く…隠れ逝く…ひっそりと逝く」「ふね…舟…夫根…おとこ」「をしぞ…上の語を強く指示す意を表す…惜しぞ…愛しいぞ…愛着するぞ」。
歌の清げな姿は、夜明けの明石の浦の景色と感想。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、炎のように真っ赤に燃える心の、あさはかな中止のために、しまに隠れて逝くふ根を、惜しい、愛しいと思う男心。
古今和歌集 羇旅歌。左注に「この歌は、或る人の曰く、柿本人麿が歌なり」とある。
この歌は、暴風に流された人(仲麻呂)、流罪で流された人(篁)、京を逃れ陸奥へ流れて行った人(業平)の歌の中にあるので、都から遠ざかる人の不本意な旅での歌と直感できる。「ふね」は、よみ人自身であるとすれば、この歌の「心深きところ」「姿清げなところ」「心におかしきところ」が、おのずから明らかになるでしょう。
藤原俊成のいう「歌はただ読み上げもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞こえることのあるなるべし(古来風躰抄)」の「艶」なるところと「あはれ」なるところも、浮言綺語のような歌言葉の戯れを知っていれば聞こえてくる。
俊成はこの歌を評して、「柿本朝臣人磨の歌なり。この歌、上古、中古、末代まで相かなえる歌なり」と述べている。今の人々に、上古、中古の人々と同じように聞こえているか疑問である。歌の様と言の戯れを知り、言の心を心得れば聞こえる。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。