帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの『金玉集』 雑(四十七) 柿本人麿

2012-12-06 00:04:12 | 古典

    



             帯とけの金玉集



 紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。


 公任の金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が撰ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。

 
 金玉集 雑(四十六) 人 麿

 ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島がくれゆく舟をしぞ思ふ

 (ほのぼのと明けゆく明石の浦の朝霧の中で、島かげに隠れ行く舟をしみじみと思う……火の火のと赤しの心の浅切りのために、肢間隠れ逝く夫根を、おしいと思う)。


 言の戯れと言の心

 「ほのぼのと…うっすら、ぼんやりと…ほのかに…火の火のと…炎のように」「あかしの…明石の夜明けの…赤しの…真っ赤な…熱く燃える」「うら…浦…裏…心」「あさぎり…朝霧…浅限…浅切り…浅はかな中断」「に…さ中に…時・場所を示す…のために…原因・理由を示す」「しま…島…肢間…女」「かくれゆく…隠れ行く…隠れ逝く…ひっそりと逝く」「ふね…舟…夫根…おとこ」「をしぞ…上の語を強く指示す意を表す…惜しぞ…愛しいぞ…愛着するぞ」。


 歌の清げな姿は、夜明けの明石の浦の景色と感想。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、炎のように真っ赤に燃える心の、あさはかな中止のために、しまに隠れて逝くふ根を、惜しい、愛しいと思う男心。


 古今和歌集 羇旅歌。左注に「この歌は、或る人の曰く、柿本人麿が歌なり」とある。


 この歌は、暴風に流された人(仲麻呂)、流罪で流された人(篁)、京を逃れ陸奥へ流れて行った人(業平)の歌の中にあるので、都から遠ざかる人の不本意な旅での歌と直感できる。「ふね」は、よみ人自身であるとすれば、この歌の「心深きところ」「姿清げなところ」「心におかしきところ」が、おのずから明らかになるでしょう。


 藤原俊成のいう「歌はただ読み上げもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞こえることのあるなるべし(古来風躰抄)」の「艶」なるところと「あはれ」なるところも、浮言綺語のような歌言葉の戯れを知っていれば聞こえてくる。


 俊成はこの歌を評して、「柿本朝臣人磨の歌なり。この歌、上古、中古、末代まで相かなえる歌なり」と述べている。今の人々に、上古、中古の人々と同じように聞こえているか疑問である。歌の様と言の戯れを知り、言の心を心得れば聞こえる。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。