帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの『金玉集』 雑(五十五) 菅原道真

2012-12-15 00:03:33 | 古典

    



             帯とけの金玉集



 紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。

公任の金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が撰ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。



 金玉集 雑(五十五)菅原贈太政大臣

 きみが住むやどの梢を行くゆくも かくるゝまでも返り見しはや

 (きみが住む家の木々の梢を、行きながらも、隠れるまでも返り見たことよ……きみの澄む屋門の、小枝お、ゆくゆくも、かくれるまでも、くり返りし見たことよ)。


 言の戯れと言の心

「きみ…君…妻への呼びかけ」「住む…済む…澄む…清む」「やど…宿…家…女…屋門」「と…門…女」「梢を…こずえを…小枝お…身の枝…おとこ」「ゆくゆく…行く行く…流され行くにつれて…逝く逝く」「かくるゝ…隠れる…亡くなる…没する…逝く」「返り見し…返り見た…くり返し見た」「見…覯…媾…まぐあい」「はや…深い詠嘆の意を表す」。


 歌の清げな姿は、流罪による妻との別れの感慨を、わが家を隠れるまで返り見た有様に寄せて表現した。歌は唯それだけではない。

歌の心におかしきところは、妻との愛の極みの果ての名残惜しさに、男の惜別の思いを託した。


 拾遺和歌集 巻第六 別。詞書に「流され侍りて後、言ひおこせて侍りける」とある。



 古今集仮名序の冒頭を読み直しましょう。

 「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞ成れりける。世の中に在る人、事、わざ(業)、繁きものなれば、心に思ふことを、見る物、聞く物に付けて言い出せるなり」。

 

人の心の種とか、人のごう(業)などといわれる事柄は決して清げなことではない。人の心のその奥底を言葉で表現する方法を和歌は持っていた。言の戯れを利して清げに包んで、清げな姿にして表現する様式である。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず

  
  『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。