帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの『金玉集』 雑(五十) 沙彌満誓

2012-12-10 00:05:00 | 古典

    



             帯とけの金玉集



 紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。

公任の金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が撰ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。



 金玉集 雑(五十)沙彌満誓

 世の中を何にたとへむ朝ぼらけ こぎゆく船のあとの白波

 (世の中を何に譬えようか、朝ぼらけ、漕ぎ行く船の跡の白波よ……女と男の夜の仲を、何に譬えようか、あさぼらけ、こぎ逝く夫根の、あとの白々しい汝身よ)。


 言の戯れと言の心

 「世の中…世間…男女の仲…夜の仲」「あさぼらけ…朝の薄ぼんやりしたさま…浅洞け…浅い空洞の感じ…あさはかで空しい感じ」「こぎゆく…漕ぎ行く…こき逝く…おとこの果て」「ふね…船…夫根…おとこ」「あと…跡…航跡…後…のち」「しらなみ…白波、体言止めで余情がある…白波よ…白汝身…白々しくなったおとこ」。


 歌の清げな姿は、世に常なるもの無し、水の泡のようなもの。歌は唯それだけではない。

歌の心におかしきところは、夜の仲は、浅い空洞、ものの後の白々しい汝身よ。
 
  拾遺和歌集 哀傷にある。公任は『新撰髄脳』に「これは昔のよき歌なり」と記す。満誓 (俗姓笠朝臣磨呂)は万葉集の大伴旅人らと同じ時代の人。


 
 万葉集 巻第三 雑歌にある満誓の本歌を聞きましょう。

 沙彌満誓歌一首

 世間を何物に譬えむ旦開き こぎ去りし船の跡無き如し

 (世の中を何ものに譬えようか、朝みなとを出て、漕ぎ去った船の跡無きが如し……男と女の夜の間を、何物に譬えようか、あさ開いて、こき去ったふ根の跡の無いようなものよ)。


 「旦…日の出…朝」「開…船がみなとを出ること…とをひらくこと」「と…門…女」「こぐ…漕ぐ…こく…体外に出す」「船…夫根」。


 歌の清げな姿も心におかしきところも同じ。「旦開→あさぼらけ」「跡無如→あとの白なみ」は、世につれて歌語が優雅に変化した結果でしょう。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず

 
  『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。