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帯とけの金玉集
紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。
公任の金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が撰ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。
金玉集 雑(六十一)高光少将
かくばかりへがたく見ゆる世の中に うらやましくもすめる月かな
(これほど過ごし難く思える世の中に、羨ましくも住み澄んでいるように見える月だなあ……欠けるばかり、重ね難く見ゆる夜の中に、羨ましくも済み澄ましているような、つき人おとこだなあ)。
言の戯れと言の心
「かく…斯く…このように…欠く…不足する」「ばかり…程…程度を表す…だけ…限定の意を表す」「へがたく…経難く…過ごしづらい…ふたへと重ね難く…一過性おとこのさが重ね難く」「見ゆる…見える…思える…まぐあっている」「世の中…男女の仲…夜の仲」「すめる…すめり…住むようにみえる…澄むようにおもえる…済むようだ」「月…月人壮士(万葉集の月の歌語)…壮士…男…おとこ」「かな…感嘆の意を表す」。
歌の清げな姿は、人の世は無常、うらやましい澄んだ月よ。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、おとこのさがは無常、うらやましい、澄んだつきひとをとこよ。
高光は藤原師輔の八男、兼家の弟、若くして比叡山で出家し多武峰に住んだ。「多武峰少将物語」や「高光集」がある。無情観の表れたこの歌は、「高光集」の詞書に「村上の帝かくれさせ給ひての頃、月を見て」詠んだ歌とある。
この歌が、高光の歌の中でも絶唱とされるのは、心深く、姿清げで、「心におかしところ」があるからである。言の戯れを生かされた言葉使いも絶妙である。
人麿、赤人の歌に及ばないのは、余情が妖艶とはいえないところ。すでに紐解き、帯びとけた人麿の「しまかくれゆくふねをしぞ思ふ」や赤人の「あしべをさしてたづなきわたる」の「心におかしきところ」と比較すればわかる。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。