帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの『金玉集』 雑(五十八) 橘 直幹

2012-12-19 00:07:10 | 古典

    



             帯とけの金玉集



 紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。

公任の金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が撰ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。


 
金玉集 雑(五十八)橘 直幹

  白雲千里外(白雲千里遠ざける)

 思ひやる心ばかりはさわらじを なにへだつらむ峰の白雲

 (君を思いやる心だけは、障害となるものなどないのになあ、どうして遠ざけ隔てるのだろう、峰の白雲よ……思火をはらす心だけは支障ないのになあ、どうして女を遠ざけるのだろう、山ばの峰の白々しい心雲よ)。


 言の戯れと言の心

 「外…そと…遠ざける…遠ざかる」「思ひやる…気を配る…思いを晴らす」「さわらじ…障害が無い…支障ない…妨げられない」「へだつ…隔てる…遠ざける…遠ざかる」「峰…山ばの頂上…極限」「白雲…白い雲…白々しい心雲…男の心に感の極みで生じる白々しさ」「雲…心の雲」。


 歌の清げな姿は、餞別の宴での挨拶。歌は唯それだけではない。

歌の心におかしきところは、峰に達すると急に白々しくなる、はかないおとこのさがを嘆くところ。


 後撰和歌集 巻第十九 離別 羇旅。詞書「遠くまかりける人に餞し侍りける所にて」とある。遠い国へ赴任する人の餞別の宴で詠んだ歌。

 

この歌は、後撰集では次の二首の歌に挟まれてある。


 関係のあった男が他国へゆくので、桜花の形に御幣を作って遣った歌。よみ人しらず、女の歌。

 あだ人のたむけに折れる桜花 あふ坂までは散らずもあらなん

 (浮気な人の手向け用に折った桜花、逢坂の関までは散らずに在ってほしいね……いいかげんな男が、わたしへたむけに折るおとこ花、合う坂の山ばまでは散らずに在ってほしいわ)。

 
 「桜花…木の花…男花…おとこ花」「逢坂…関所のある山の名…合う坂の山ば…感の極みが合致する山ば」。

 

 他国へゆく女に鏡に添へて遣った歌。よみ人しらず、男の歌。

 ふたご山ともに越えねどます鏡 そこなる影をたぐへてぞやる

 (二子山、共に越えられないけれど、真澄みの鏡、そこに映る影を我の同類として贈る……二人で二度越えるべき山ば、共に越えられないけれど、増す彼が身、底にある蔭の代わりに贈る)。


 「二子山…山の名…名は戯れる、二人の山ば、二度の山ば」「ます鏡…真澄みの鏡…増す彼が身」「そこ…其処…底…山ばから堕ちた底」「かげ…影…鏡に映る像…蔭…おとこ」。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。