扇子と手拭い

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立川流の陰の功労者

2015-03-05 09:16:40 | 落語
▼立川流は談幸ショック
 落語立川流の功労者、立川談幸が落語芸術協会(芸協)入りして2か月が過ぎた。彼が抜けた穴は大きく、立川流はいまだ談幸ショックから抜け切らない様子だ。”談志商店”と呼ばれた立川流。この先、どうなるのか?

 「初席と二之席のワリを前座さんから渡された。芸協に入会して初めて頂くワリである。寄席のワリをもらうのは三十数年ぶりである。噺家ならば誰でもそうそうだと思うが、金額はともかくとして、ワリは何か嬉しい。余禄のような感じがする」―。古巣である定席に帰った喜びを、談幸は素直にそう表現した。

▼噺家の最後は定席で
 師匠の談志が落語協会を脱退したことで以後、弟子たちも新宿末広亭などの定席に出られなくなった。定席は噺家にとって修行の場だ。「定席で噺家としての最後を終えたい」。そんな思いから談幸は昨年末、2人の弟子を引き連れて芸協に移った。

 今回の移籍について兄弟子の立川談四楼は言った。「理由を聞けばもっともで、(談幸は)人一倍の功労者だ。事情は呑み込んだ。顔付けを一手に引き受けたのが他ならぬ談幸師であったからだ。送り出すしかなかった。師匠が死んで3年、この区切りも後押ししたようだ」。

▼「馬糞の川流れ」を阻止
 少し補足しよう。師匠の没後、立川流は主を失い「馬糞の川流れ」、つまり空中分解状態になるのではと噂された。立川流は談志あっての組織だから、カリスマがいなくなればどうなるかわからなかった。

 そんな事態に危機感を持った談幸は、「真打はなんとか食っていけるだろうが、問題は前座、二つ目の若手たちだ。彼らを放置できない。なんとかしないと」と、たった一人で東奔西走。定席ではないが、「お江戸日本橋亭」(銀座)や「お江戸広小路亭」(上野)を経営する永谷商事と掛け合い、定期的に公演できるようにした。

▼東奔西走した談幸
 日暮里サニーホールとも同様の契約を結んだ。談幸の努力で立川流は空中分解を免れた。若手も定期的に高座を務めることが可能となった。志の輔をはじめ談春、志らく、談笑たちが立川流存続のために努力したという話は聞いたことがない。

 談幸一人が身銭を切り、手弁当で走り回った。売れっ子の中には、何の協力もしないで、「ああしろ、こうしろ」と文句だけ言う者がいるそうだ。談幸は、そんな自分のことしか考えない連中に、嫌気がさしたのではないか、とみる向きが多い。

 芸協や落語協会の噺家たちは、こうした談幸の陰の苦労を知っていて、移籍問題を温かい目で見守っているという。



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