今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

叶山 三宝院 願成寺(福島県喜多方市上三宮町上三宮字籬山833)

2024年03月31日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月12日

叶山 三宝院 願成寺
浄土宗の寺院
嘉禄3年(1227年)法然上人の高弟 隆寛律師の開山、開基はその弟子 實成房上人

表門



願成寺縁起



山門(福島県指定文化財)
元禄11年(1698年)に竣工した楼門造りで、禅宗様と和様を混ぜた建築



扁額には山号の「叶山」






鐘楼






鐘楼から本堂を眺める



本堂(福島県指定文化財)



慶長16年(1611年)慶長三陸地震による震災で現在の場所に移転
会津藩主 初代 保科正之、正経、正容(正信)三代を通じて大施主となったもの



時代が流れ
明治初年(1868年)以降、廃佛のことあって寺勢衰え、無住の時代もあった
昭和の時代になり、63世映譽上人は、大戦後の混乱の中で幼児教育園を興し、寺域の整備につとめた
本堂、庫裡及び大佛殿の屋根大修理さらに三門、鐘楼の銅板ふき替え、新阿弥陀堂を建立した






扁額には社号の「願成寺」



本尊:阿弥陀如来像






手水舎



旧阿弥陀堂<千佛堂>(福島県指定文化財)






階段横に千佛堂の札がある



扁額には「阿弥陀堂」



千葉の梅沢徳次郎氏奉納による十三佛が正面に安置されている






内陣に描かれる飛天女






大仏殿



木造阿弥陀如来及び両脇侍坐像(重要文化財)
通称:会津大仏
左脇侍(向かって右)は観音菩薩、右脇侍は勢至菩薩
両脇侍は大和座りで、この形式は、京都三千院の阿弥陀三尊像と同じであり、東北地方では珍しい



鎌倉時代の作
寄木造り
阿弥陀如来像の像高は2.41m



「来迎印」を示し、千仏舟形光背を負う



「観音菩薩」
「大和座り」とは、両膝を地面につけて座る形で、正座に近い
両足を揃えて座るが、やや前傾姿勢で腰を浮かせている
三千院及び願成寺の観音、勢至菩薩がこの座り方である



「勢至菩薩」
かなり前になるが「三千院」を最初に訪れた時に
タクシーの運転手から「お迎え」の仏像だから手を合わせるなと助言されたことがある



願成寺庭園
願成寺は、「花の寺」としても親しまれている
桜、あやめ、シャガ、さつき、紫陽花等の四季折々の花々で彩られる



五重塔



パワースポットの祠らしい



池は「心字池」になっている












撮影 令和5年10月12日
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長命山 幸徳院 笹野寺<笹野観音堂>(山形県米沢市笹野本町5686-5)

2024年03月30日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月12日

長命山 幸徳院 笹野寺<笹野観音堂>
真言宗豊山派の寺院
坂上田村麿呂が国家鎮護を願って観音菩薩を勧請
弘仁元年(810年)、現在の地に観音堂が落成し観音菩薩と羽黒権現を祀り、会津の高僧「徳一上人」により入仏供養が行われた



仁王門
天保11年(1840年)に民家より出火して仁王門が焼失
明治6年(1873年)、米沢の豪商が南原の「常慶院」より金10両で買い受け移築して再建






健康や足が丈夫になるようにと願って、下駄やわらじなどの履き物が奉納されている



仁王像
仁王像の前には格子か柵状の木材、または金網などにより像が護られている
ここの仁王像は、格子の奥にさらに金網があり二重に護られている









境内一面に植えられたあじさいは七月中 咲き誇るという
紫陽花の名所として別名「あじさい寺」と呼ばれている






千体地蔵堂
嘉永3年(1850年)に「長厳寺」より釈迦堂が移築、焼失より28年後に再建された



中風除けの地蔵として信仰され、中風除けの箸を授与している
最近「中風」という言葉は使われなくなった
現在では脳血管障害の後遺症である半身不随、片麻痺、言語障害、手足の痺れや麻痺などを指す言葉として用いられている



本尊は「いびた地蔵」
「いびた」とは、米沢では長患いして寝込むことをいう
本尊の周囲には土人形の「相良人形」で造られた地蔵が祀られている



境内の石仏






芭蕉句碑①
「観音のいらか見やりつ花の雲」



芭蕉句碑②
「物言えば唇寒し秋の風」



漱口場



案内板



観音堂(米沢市指定文化財)
征夷大将軍の坂上田村磨呂が千手千眼観世音菩薩を安置
旅の僧が羽黒大権現を祀って、笹野山の山上に大悲閣と羽黒堂があったと伝えられている



歴代住職の第一世に会津の高僧「徳一(とくいつ)上人」の名がある
法相宗の僧で、最澄との間で交わされた「三一権実諍論」や、空海に対して密教についての疑義を提示したことなどでも知られている



天保4年(1833年)に火災に遭い焼失、現在の堂は同14年(1843年)に再建されたもの
大きな茅葺の屋根、精巧な彫刻などが特徴の建物



竜や鳳凰の彫物は、庄内地方の彫物師後藤藤吉・政吉の作















扁額の文字は「施無畏」と読めるが自信はない
観世音菩薩の異称



奉納額


















内部の様子



本尊:千手千眼観世音菩薩















弘法大師堂
昭和59年(1984年)弘法大師の生誕1200年を記念して建立









みちびき観音






三重塔
宝暦7年(1757年)の建立 高さ5m



延命地蔵菩薩
天保3年(1832年)の建立



基礎及び台座は米沢の赤崩石、身体は上山の川流石で造られ、総高さ約5mの県南一の石像






再び観音堂



茅葺屋根は貴重で美しい






撮影 令和5年10月12日
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松心山 善光寺<堂森善光寺>(山形県米沢市万世町堂森山下375)

2024年03月29日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月12日

松心山 善光寺(堂森善光寺)
道の駅「米沢」の屋内にある大きな看板である
前田慶次は趣味だったパチンコ台「花の慶次」で随分愉しませてもらった
その後、NHKの歴史ドラマでも扱われ、毎週、視聴していた



道の駅近くに「天下の傾奇者(かぶきもの)」と称された前田慶次の供養塔が建立されているということを知った
上杉家には謙信を筆頭に直江兼続など魅力的な武将がいるが前田慶次もその一人だ



駐車場に車を駐め、周辺を散策する



案内板には寺の歴史が記されている
真言宗豊山派の寺院
伝承によると善光寺阿弥陀堂の別当として大同2年(807年)に開山されたとある



仁王門



仁王像
仁王像の前には細かな金網があり鳥類などの侵入を防いでいる
写真を撮る側としてはこれが難敵でいつも苦労している












手水鉢



仁王門の正面に見えるのが阿弥陀堂



阿弥陀堂へ向かう短い参道周辺の石仏





















十王堂



堂内の様子



扁額の文字が薄くて読み取ることができない






阿弥陀堂
建久3年(1192年)に長田庄司忠次の妹益王姫が中興、中世に入ると地頭職にあたる長井氏が庇護
現在の阿弥陀堂は、寛延3年(1750年)に建立された
入母屋、銅板葺、正面千鳥破風、平入、桁行3間、梁間2間、正面3間軒唐破風向拝付









本尊:(善光寺式)阿弥陀三尊
   木造阿弥陀如来立像<見返り阿弥陀如来>(山形県指定文化財)像高50.8㎝



伝承によると
長田庄司忠次が源頼朝に敗れ、妹である益王姫は守護神である阿弥陀如来像を守る為、像を担いで出羽国まで逃れたが、頼朝軍に追いつかれた
姫は死を覚悟したが、阿弥陀如来像が急に後ろを振り返り敵軍を睨み付けると、兵は皆卒倒した事から姫は無事に危機を脱する事が出来た



姫は堂森に辿り着くと尼となり草庵を設けて後ろを向いたままの阿弥陀如来像を安置
その故事を聞いた人々は「見返り阿弥陀如来」として信仰の対象となった



前田慶次供養塔
堂森は前田利家の甥で「天下の傾奇者(かぶきもの)」と称された前田慶次の別邸「無苦庵」があった
実父は織田信長の重臣・滝川一益の一族だったとされるが、確証はない
上杉景勝や直江兼続との関係は深く、関ヶ原の戦いの後は上杉軍とともに米沢に移り、1612年に没したとされている



前田慶次供養塔碑文



前田慶次は奇怪な行動が多かったといわれている
「大ふへん者」と大書きされた旗を掲げて上杉の陣に参加したという



周囲の武士たちが「“大武辺者”とはずいぶん調子に乗っているじゃないか」と言うと
慶次は「そうじゃない、“大不便者”という意味だ!」と説明、人々をからかったという



隆慶一郎の小説「一夢庵風流記」などによって、慶次のイメージが形成された部分が大きいという
これを機に読んでみたいと思った






供養塔周辺の石仏






光明殿



光明殿前の石仏









本堂
明治28年(1895年)の再建



鐘楼






撮影 令和5年10月12日
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松高山 大聖寺<亀岡文殊>(山形県東置賜郡高畠町亀岡41)

2024年03月28日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月11日

松高山 大聖寺<通称:亀岡文殊>
真言宗智山派の寺院
「亀岡文殊」は、奈良県桜井市の「安倍文殊院」、京都府宮津市の「切戸の文殊」とともに、日本三文殊の一つに数えられる



関ヶ原の戦い後、上杉家は米沢30万石の大名として会津から米沢へ移転した
慶長7年(1602年)上杉家執政「直江兼続」が主催者として亀岡文殊堂で詩歌の会が開催された
直江兼続の漢詩をはじめ前田慶次、大国実頼ら有名な武将の詩歌「亀岡文殊堂奉納詩歌百首(高畠町指定文化財)」が残されている



石中に彫られた石仏



独国和尚
宮城県女川町出身の僧
亀岡文殊で修業を積み、女川町や福島市、いわき市を拠点に布教活動をしていた



この石像は、独国和尚を慕う高畠の人々の寄進






筏舟(がっしゅう)和尚
越後・草水観音寺の住職で、ここから続く十六羅漢は自身の顔に似せ造立したといわれている






十六羅漢①
写真を整理し石像の数を数えてみると17体あった
この十六羅漢①と最後の石像が曖昧になっている



手水舎






緩やかな上り坂の参道が続く
羅漢像はこの参道の左右に点在する



十六羅漢②



十六羅漢③



十六羅漢④



十六羅漢⑤



十六羅漢⑥



十六羅漢⑦



十六羅漢⑧



十六羅漢⑨



松尾芭蕉句碑
「春の夜は 桜に明けて しまひけり」
春の夜に桜を見つめていたら、いつの間にか夜が明けてしまった






鐘楼堂
41,000人余の衆生の浄財喜捨を受け享保15年(1730年)に鐘楼堂と観音堂を「待定法師」が建立
待定法師は、苦行する念仏者として知られている
金づちで手指を打ち砕いて火を灯す「指頭供養」など、肉体的な苦行を重ねたという



享保16年7月17日、この地に47歳で入定した「待定法師」の偉業を伝えるお堂
翌年より命日に法師の冥福を祈り供養のため念仏踊りが奉納されている



鐘楼堂前に羅漢像が集まっている



十六羅漢⑩



十六羅漢⑪



十六羅漢⑫⑬



十六羅漢⑭⑮⑯
足元が悪く正面から撮ることができない



安全な場所から後ろ姿を撮る



鐘楼堂前の参道の向こう側にあったため十六羅漢なのか迷った



大師堂(厄除弘法大師)



観音堂(別名:縁結び観音)
享保15年(1730年)に鐘楼堂と同じく観音堂を「待定法師」が建立






堂内の様子



本尊:阿弥陀如来
脇侍:西国三十三観音



奉納額









一木造りの「邪鬼」






観音堂から鐘楼を眺める



亀岡文殊本堂
本尊の文殊菩薩は、宣化天皇の2年(約1480余年前)、震旦国(中国)五台山より伝来、伊勢国神路山に安置されていた
この文殊菩薩を、大同2年(807年)徳一上人(奈良東大寺住持)が勅命でここに移した



本尊:文殊菩薩
本堂の柱に「御開帳順路→」があり、それに従って進んだ
撮影禁止でその姿は記憶にないが、後に秘仏で12年に一度の御開帳だと知った



狛犬












縁起



駐車場に戻る



目線と同じ高さだと同じ鐘楼堂でも違って見える



こちらは手水舎



高い木に囲まれた参道



大聖寺と書かれていたが、この時は亀岡文殊と結びついていなかった



ここに来て初めて「秘仏御開帳」を知った



撮影 令和5年10月11日
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熊野大社(山形県南陽市宮内3476-1)

2024年03月27日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月11日

熊野大社
熊野大社は、大同元年( 806 年)平城天皇の勅命により再建されたと伝えられている
実際にはそれより前の国分寺建立(741年)のときに創建されたものと推定されている

手水舎
熊野大社境内とその周辺で「南陽菊まつり」が開催されていたため、手水舎周辺は作品で飾られていた
手水鉢にも菊が浮かんでいて美しい



お御坂 (おみさか)
46段の石段
馬に乗り参拝する方がいたことから通常の石段よりも大きな造りとなっている



狛犬1






幸神社(さいわいじんじゃ)






大社神社 (おおやしろじんじゃ)



湯殿山神社(右)、月山神社(左)



狛犬2
顔面部分が欠損している






鐘楼



洪鐘(南陽市指定文化財)
寛永3年(1626年)阿部右馬助から寄進された
第二次世界大戦中に金属の回収を命じられたが、文化的な価値から免除された



おみくじ掛け(花結び)



階段を上がると黄金色に輝いた拝殿が視界に入ってくる



風車も数が増えると美しい



参拝者の多くはこの場所で写真を撮っていた



拝殿(山形県指定文化財)
拝殿は山形県内最古の茅葺屋根建築



平成18年の屋根修復事業において天明7年(1787年)の墨書が発見され、この年以前の建築であることが判明した



拝殿の彫刻









扁額には社号の「熊野大社」



拝殿内部はガラスが反射して確認することができなかった



五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)
明治元年(1868年)3月14日に明治天皇が京都御所の紫宸殿で神々に誓約する形式で示した、明治政府の基本方針



唐破風(からはふ)、千鳥破風(ちどりはふ)を萱でふくのは山形県独自の建築様式



神楽殿
菊まつりの作品が展示されている



第111回 南陽菊まつりの作品
今、出発の刻(たびだちのとき)

今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅<名所旧跡を訪ねる>【今、出発の刻(たびだちのとき)】

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八幡神社(はちまんじんじゃ)



愛宕神社(左)、保呂羽神社(中央)、羽黒神社(右)



菅原神社



この場所にも風車のトンネンルが設置されている
足もとからはドライアイスと思われる白い煙が何かを演出している



案内によると奥に行けと



稲荷神社






千手堂



本殿裏(南陽市指定文化財)
祭神:伊弉冉命(いざなみのみこと)



周辺の人が見上げているのは、この鳳凰の彫刻ではないらしい
「うさぎ」とつぶやきながら何かを探している様子だ



「三羽のうさぎ」の彫刻を見つけると願いが叶い幸せになると書かれている
「三匹」じゃないのかと調べて見ると、正式には「一羽、二羽」と数えるようだ



願いは叶わないと頭で考えながら、目はうさぎを探していた
一羽も発見できず、その場を離れた



風車の場所に戻る
この通路が、拝殿と本殿・二宮・三宮を繋ぐ場所になっている
熊野神社の総本社である熊野三山では家津御子大神(素盞嗚尊)・熊野夫須美大神(伊弉冉命)・熊野速玉大神(伊弉諾尊)を祭神としている
全国の熊野神社もこの三神を祀っている



三宮神社(南陽市指定文化財)
祭神:素盞鳴尊(すさのおのみこと)



二宮神社(南陽市指定文化財)
祭神:伊弉諾尊(いざなぎのみこと)



皇大神社



厳島神社



和光神社



招魂社






拝殿に戻る



南陽市の熊野神社は「日本三大熊野」の一つに数えられている
和歌山県の熊野三山(速玉、本宮、那智)は二度訪れているが、碓氷峠の熊野はまだ訪れていない
旅の新たな目標が増えた









撮影 令和5年10月11日
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南陽菊まつり(山形県南陽市宮内3476-1)

2024年03月26日 | 伝統工芸他
訪問日 令和5年10月11日

第111回 南陽菊まつり
熊野大社境内とその周辺で「南陽菊まつり」が開催されていた
南陽の菊づくりの歴史は上杉藩時代から始まった
菊人形を飾る「菊まつり」としては全国一の歴史を誇る

作品1「菊華屏風絵図」斎藤 哲裕






「南陽菊まつり」は宮内会場(10/6-10/16)と花公園会場(10/17-11/5)の2カ所で約1ヶ月間の開催
幸運にもこの期間に訪れることとなった

作品2「メルヘンの森」野口 俊明






例年、この時期に神社などを訪れると「菊花展」に巡り合うことがある
ここ南陽市は、菊以外の要素も加わり、作品を黒色の箱に入れるなどして芸術性を高めている

作品3「枯山水と菊の出会い」大沼 尚嗣






作品の横には制作者名と経歴等が記載されている

作品4「梅欄竹菊」鈴木 悠介






「全国一の歴史と技と文化を誇る 南陽の菊まつり」のタイトル通りの作品ばかりだ

作品5「和華の雅」小松 弥生






作品6「鶴の恩返し(夕鶴)」






作品7「穏やかな秋の風」蛭田 謙一郎






作品8「菊編み」栂瀨 真
制作者の経歴をみると、元高校野球甲子園出場者で「ニットクリエイター」
この作品の展示場所の「熊野大社神楽殿」と見事に調和している






熊野大社参拝後に車を走らせていると、道路沿いにも作品が展示されていた
古道とアートの調和を十分愉しむことができた

撮影 令和5年10月11日
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守國山 吉祥院(山形県山形市大字千手堂509)

2024年03月25日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月11日

守國山(しゅこくざん) 吉祥院(きちじょういん)
前夜は土砂降りの中、道の駅「寒河江」に到着、朝まで雨が降り続いていた
近くの慈恩寺は何度も訪れているので、この日は一度も訪れたことのない場所を選んでみた



重要文化財の「木造千手観世音菩薩立像」を拝観したいと思い訪れた
石柱には「國寶 千手観世音菩薩」とある



境内では落ち葉などの清掃作業をしている男女の老人がいた
地域の檀家さんと思い「お疲れさまです」と挨拶をしたが、後に住職だということがわかった



カメラを縦にして少し離れてやっと高い木が画角に収まった



参道の正面に観音堂
創建から1280有余年の歴史を刻む天台宗寺院である



延命曼荼羅塔復元建立趣旨



門の額には「抜苦殿」



五輪塔



抜苦(ばっく)」は、仏教の用語で、衆生の苦しみを除くことを意味する












観音堂(山形市指定文化財)
奈良時代の天平9年(737年)出羽国にひどい悪病が流行蔓延し万民塗炭の苦しみに喘いでいた
聖武天皇は「行基」を遣わしてその悪役の消除と庶民の救済にあたらせた折、開山したと伝えられている



案内板



延文5年(1360年)斯波兼頼が本堂を再建
天文12年(1542年)最上義守によって寺が再建されたという



本堂右側の額には「観音堂」



中央の額には「出羽一佛」



左側の額には「抜苦殿」



この後に秘仏の「木造観世音菩薩立像(重要文化財)」を拝観した際に、「出羽一佛」の「出」の字について説明を受けた
山が二つで「出」という字が成り立つが、山と山が離れていて出羽(秋田県・山形県)の2つの山を……(後の記憶がない)



堂内に入ると外観の様子とは一変する



奉納額が所狭しと掲げられている



このような額は初めて観た(拡大)
明治時代で宮川鐵太郎の銘がある









「千手観世音御霊験縁起」とある



これまで、たくさんの奉納額を観てきたが、記憶に残るものとなった
感性も理解力も乏しい私にも、この絵は理解できる(ような気がする)



観音堂中央には「千手観世音菩薩」



私が拝観を希望していたのは重要文化財の木造の方で堂内に拝観できるとの記載があった



「不動明王」



本堂の天井を飾る巨大な画



若い頃は何も感じなかったと思われるこのような画も、年齢を増すと真剣に観てしまう



現世でも十分満足しているが、来世もこうだと楽しいだろうなと思う



この後、奥の院宮殿にて秘仏の木造観世音菩薩立像を拝観(有料)する
寺巡りをしても住職とお話しする機会などほとんどなく、貴重な時間を過ごすことができた

(下記 吉祥院HPにて宮殿内仏像写真等を公開)
秘仏参拝/一乗院 | 山形市にある天台宗のお寺・吉祥院

千手稲荷大明神



鐘楼



参道の曼珠沙華



撮影 令和5年10月11日
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ニッカウヰスキー宮城峡蒸溜所(宮城県仙台市青葉区ニッカ1番地)

2024年03月24日 | 蒸溜所・酒蔵
訪問日 令和5年10月10日

ニッカウヰスキー宮城峡蒸溜所
NHKの「マッサン」視聴後から、ウイスキー蒸溜所巡りも旅の目的の一つに加わった
春の旅では、鹿児島県の「嘉之助と津貫蒸溜所」、広島県の「桜尾蒸留所」を巡りウイスキーを購入してきた



この秋の旅の最初の訪問地は「余市蒸溜所」の売店であったが、望むものを入手することができなかった
この日、宮城峡蒸溜所を訪れる予定ではなかったが、大崎八幡宮拝観後に雨が強くなり予定していた寺社を諦めた



仙台市内から20km程度で雨でも大丈夫な場所で、思い浮かんできたのがこの蒸溜所であった
旅に出る前から宮城県でなければ購入できない「伊達」というウイスキー入手が目的である



蒸溜所到着後、雨が止み青空が見えてきたので蒸溜所見学を申し込む
9時から30分毎にツアーがあるためとても便利だ(無料)



時間になるまでゲストハウスで見学









ニッカウイスキー製品の歴史



第1号ニッカウイスキー



竹鶴政孝とリタ夫人の物語を知ると愛飲したくなる



現行品はないが、ネットで購入すると50万円程度か






蒸溜所ガイドツアーが始まった



ガイドツアーも今回で3回目になる
現在は使用していないという「キルン塔」は大麦麦芽を乾燥させる棟であった



象徴的な建物のため保存工事のようだ












正面には「鎌倉山」






ウイスキーを蒸溜する以前の糖化・醗酵工程を行う









この時間帯のツアー参加者






NHK朝ドラ「マッサン」にも使われたというポットスチル






貯蔵庫



仙台工場竣工時の樽(1969年)






天使の分け前



残念ながら購入目的のウイスキー「伊達」の姿はなかった
というより、余市蒸溜所もそうだったが陳列棚にウイスキーがない




撮影 令和5年10月10日
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大崎八幡宮(宮城県仙台市青葉区八幡四丁目6番1号)

2024年03月23日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月10日

大崎八幡宮
国宝の社殿があるということで訪れた
カーナビが案内した国道46号線沿いには鳥居は見えたが車の入る場所がない
駐車場の検索してみると社殿の裏側にあることが分かった

北参道鳥居
御鎮座400年奉祝事業の一環として平成17年に建造された 
木材には樹齢250~300年の青森ヒバ、袴石には茨城県産の御影石を使用



駐車場からは緩やかな坂の北参道を進んで行くことになる



長床(重要文化財)
長床(ながとこ)とは、神社の本殿の前方の細長い建物
拝殿のみならず、修験者の宿泊、参籠場所としても使われることがあった



額には社号の「大崎八幡宮」



拝殿・石の間・本殿(国宝)
東夷征伐に際して坂上田村麻呂は、武運長久を祈念すべく武門の守護神である「宇佐八幡宮」を現在の岩手県水沢市に勧請、「鎮守府八幡宮」を創祀
その後、室町時代に奥州管領大崎氏はこれを自領内の現遠田郡田尻町に遷祀し守護神として篤く崇敬した為、世に「大崎八幡宮」と呼ばれた



大崎氏の滅亡後は伊達政宗公が居城の玉造郡岩出山城内の小祠に御神体を遷す
仙台開府後仙台城の乾(北西)の方角にあたる現在の地に祀った






社殿は、伊達政宗の命により豊臣家召抱えの、当世随一の巨匠を招き、慶長9年(1604年)より12年にかけ造営された



拝殿正面
祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后



拝殿の彫刻















神輿殿内部



太元社



諏訪社



鹿島社



北辰社



龍神社と稲荷社






表参道に移動する(正面には長床)



石絵馬
大正14年(1925年)に神馬の銅像を奉納されたが、先の大戦で金属供出により撤去された



昭和33年、当時皇太子殿下(現上皇陛下)御成婚記念事業として神馬の姿を刻した建立
この「石絵馬」と呼ばれた碑は永く長床前にあったが、平成11年に移設された



表参道の階段を下まで下りる

一之鳥居
鳥居前の国道46号線は交通量が激しく鳥居は後ろ姿のみ



二之鳥居(宮城県指定文化財)






二之鳥居から一の鳥居を眺める



社号標
社号標には「大崎八幡神社」
歴代藩主の篤い尊崇を受け、明治以降は「大崎八幡神社」と称していた
遷座四百年を間近に控えその歴史的経緯を考慮し、平成9年6月、社名を「大崎八幡宮」に復した



大石段(仙台市登録有形文化財)









石燈籠
石燈籠だと思うが形が面白い



三之鳥居



狛犬1









額の「八幡宮」は伊達吉村の揮毫(享保3年)



表参道の提灯が灯った時のことを想像しながら歩く



正面に見えるのが長床



金刀比羅社



殉国碑



狛犬2






長床前から駐車場に戻る



撮影 令和5年10月10日
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鹽竈神社・志波彦神社(宮城県塩竈市一森山1番1号)

2024年03月22日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月10日

陸奥国一宮 鹽竈神社(しおがまじんじゃ)
鹽竈神社は、全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)神社の総本社
正式名称は「志波彦神社・鹽竈神社」

鳥居(重要文化財)



初めて訪れる場所なのでこの境内図を頭に入れる
普通は表参道を目指すのであるが事情があって止めた



額には寺号の「鹽竈神社」
「しおがま」という地名は「塩竈」「塩釜」「鹽竈」「鹽釜」と表記されてきた
市は1941年の市制施行より表記を「塩竈(塩釜可)」に統一している



狛犬1






女川の道の駅から鹽竈神社までずっと強い雨が降っていた
到着後、雨は止んだが階段の昇降には注意が必要だった






社号標



境内図






奉納額
「唐獅子(昭和5年)」



「騎馬武者(文久2年)」



「尾長鶏と太鼓(弘化5年)」



「騎馬武者(慶応5年)」



舞殿






仙台藩主伊達綱村公顕彰碑
「塩竈の礎を築いた恩人」とされている



撫で牛



絵馬掛け



奉納額2
「山部赤人と富士山(明治20年)」



「神功皇后と武内宿禰(文久4年)」



「神武天皇(昭和3年)」



表参道
表参道を断念した理由はこの階段



随身門(重要文化財)






狛犬2






長明燈



手水舎



狛犬3






門及び廻廊(重要文化財)



額には「一宮鹽竈三社大明神」



左右宮拝殿(重要文化財)
伊達家4代綱村は社殿の造営に際し、当時の名だたる学者を集めて研究し現在の三神とした



右宮 祭神:経津主神






左宮 祭神:武甕槌神






銅鐵合製燈籠(塩竃市指定文化財)






日時計(複製)



鹽竈神社の「多羅葉(たらよう)」(宮城県天然記念物)
樹齢500年 樹高22m



文治の燈籠



元禄2年(1689年)松尾芭蕉は鹽竈神社を詣でこの燈籠を観た
奥の細道に「…神前に古き宝燈あり…五百年来の俤、今日の前に浮かびてそぞろ珍し
かれは勇義忠孝の士なり…」と綴っている



別宮拝殿(重要文化財)



別宮に主祭神:塩土老翁神



そろそろ帰ろうと門を出た時、神職らが歩いてきた
調べて見ると毎月10日に開催される「鹽竈神社月次祭」のようだ



このような機会に恵まれることはないので戻って観ることにした



初めに「別宮」に入った
職位によって歩く順番や社殿に入ることのできる場所などがある事が分かった
本殿内の奥深い場所に入ることができるのが一人、宮司だと思われる



別宮の次に左右宮拝殿に入っていった



志波彦神社

社号標



神門



額には「志波彦神社」



狛犬4






拝殿(塩竃市指定文化財)



拝殿内部



上皇陛下御手植五葉松



塩釜港の眺望(境内から)



鳥居



撮影 令和5年10月10日
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大金山 陽山寺(宮城県石巻市十八成浜寺山31)

2024年03月21日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月8日

大金山 陽山寺
重要文化財の「十一面観音立像」があるということで訪れたが、調べて見ると予約制であることを後に知った
近くのコンビニから電話にて拝観できるかと確認すると、2時間後に予約があり、その時間帯なら可能だと……



普段なら、すぐ諦めるのだが大好きな「十一面観音」の為なら待とうと、拝観をお願いした
待ち時間を使い比較的近くにある「おしか御番所公園」で美しい景色を楽しんだ



山門
30分ほど前に寺に着き、時間がくるまで写真を撮っていた
観光寺院でないのか、案内板が設置されていなかった



山門の額には山号の「大金山」



本堂



本堂の額には寺号の「陽山寺」



この本堂に「十一面観音」があるものと、この時は思っていた……



10分程前に住職らしき人が車で出ていき
5分前になっても予約らしき人の姿もない(不安になる)












時間になったが誰も現れない
庫裏から出てこられた女性から「予約をされている方ですか」と声を掛けられた
「はい」と応えると。「ここではありませんよ」と、2・3km先にある場所を伝えられた



「重文の十一面観音立像」には管理者が必要で、それを担っているのが「陽山寺」のようだ
住職から寺に連絡が入ったようで、待ってくださっているとのこと(感謝)



収蔵庫
収蔵庫内に「重文の十一面観音立像」が保管されている
収蔵庫は写真のように少し高台にあったため、東北地方太平洋沖地震の難を免れた
ここはかつて「後山寺または持福院」という寺であった
現在は無住となり、持福院観音堂と収蔵庫の十一面観音像は、近隣の陽山寺が管理している
収蔵庫内は撮影禁止。この仏像は過去にも伝説があり今日に至っている



伝承によれば、陸奥の安倍氏が京都より名工を呼び寄せて作らせた
平安中期の前九年の役で安倍氏が滅亡する際に兵火を逃れて海に流され、仙台湾(石巻湾)の田代島に流れ着いた
後難を怖れた島民によって再び流され、対岸である牡鹿半島のこの場所に流れ着いたという

木造十一面観音立像 | 笑顔咲くたび伊達な旅

木造十一面観音立像 | 笑顔咲くたび伊達な旅

大正4年に国重要文化財に指定された十一面観音立像は、高さは3m余りあり、ふくよかな気品は昔から多くの人々に変らぬ慈眼を注いできました。この観音像は鎌倉時代に奥州藤...

笑顔咲くたび伊達な旅

 


収蔵庫までの道幅が狭く、駐車場も無かったため離れた場所に路上駐車をしていた
駐禁場所ではなかったが、早く戻らなければと気持ちは急いていた



持福院観音堂(宮城県指定文化財)
大同元年(806年)創建、現在のものは宝暦5年(1757年)改修といわれている



案内板



十一面観音立像は、この持福院観音堂に祀られていた



撮影 令和5年10月8日
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おしか御番所公園(宮城県石巻市鮎川浜黒崎1番地)

2024年03月20日 | 公園
訪問日 令和5年10月8日

おしか御番所公園
南三陸金華山国定公園の中にあったが、2015年3月31日、南三陸金華山国定公園が「三陸復興国立公園」に編入された
宮城県道220号牡鹿半島公園線(牡鹿コバルトライン)の南端にある



この橋を渡ろうと近寄ってみると、老朽化の為なのか通行禁止になっていた



公園中央の一番高い位置には、六角形の「展望棟」があり、360度パノラマの眺望が楽しめるようだ



周辺には高い木がないため
陸前高田市の「奇跡の一本松」のことを思い出した






金華山
今回の東北6県を巡る旅では「函館ー大間」のフェリーを利用したが、利用回数では「苫小牧ー名古屋」が圧倒的に多い
利用する太平洋フェリーでは「金華山沖を航行」との船内放送が入り、いつも船内から眺めていた
今回は牡鹿半島からの眺望になる
金華山は、島全域が山であり、最高点は445m



「奈良の大仏」建立に際して鍍金に要する金の調達に大和朝廷は苦慮していた
天平21年(749年)陸奥国から日本初となる金産出の報せとその金が齎された
その産出地が金華山であった
天平勝宝2年(750年)牡鹿連宮麿(おしかのむらじみやまろ)等が時の国守に産金を司る神を祀る神社の創建を申請
金華山に金山毘古神と金山毘売神の2柱を奉祀し、後に弁財天を本尊とする寺院となった
「黄金山神社(こがねやまじんじゃ)」は、金華山に鎮座している



展望棟からの眺望
額縁の中の絵のようにしたかった



網地島(あじしま)



田代島(たしろじま)



金華山へのアクセスは、女川港(女川町)発の女川-金華山航路
鮎川港(石巻市)発の鮎川-金華山航路がある
定期観光船のほか、不定期観光クルーザー・海上タクシー等での渡航も可能だ



平成23年(2011年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の際は、
潮が引き金華山までの海の底が現れ、牡鹿半島と金華山は陸続きのようになったという
そのあと津波が襲来した
公園内も地割れが生じたり、建造物にも被害が出た
展望棟は円形だったものを取り壊し六角形の外観になった



仏像拝観の予約時間が迫ってきたので駐車場に戻る
駐車場では、14・5台の中年ライダーが談笑していた



一昨日、太平洋フェリー「苫小牧港ー名古屋港」航路の予約をした
今回、少し知識を得たので金華山沖を通過する際には、これまでとは違った見え方になると思う



撮影 令和5年10月8日
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無夷山 箟峯寺(宮城県遠田郡涌谷町箟岳字神楽岡1)

2024年03月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月7日

無夷山(むいさん) 箟峯寺(こんぽうじ)
天台宗の寺院
宝亀元年(770年)鎮守府将軍大伴駿河麻呂の草創
大同2年(807年)坂上田村麻呂の創建と伝えられる



案内板によると、箟峯寺とは観音堂、白山社などを中心に24坊からなる一山寺院(総称)
当初、「霧岳山 正福寺」と称していたが、嘉祥2年(849年)に円仁が中興し、「無夷山 箟峯寺」と改称した



この寺を選択したのは
武光誠 著「地図でめぐる神社とお寺」に「笑みを浮かべたように見える仁王像がある」の記載があったからだ
これまで訪れた寺院の仁王像を地域別に発信した際に「笑顔の仁王像はないのか」とコメントを頂いたことがある
仁王像なので「ありませんよ」と応えただけに確かめたいと思った



仁王門
長い階段を上がっていくと、仁王門が見えてみた



仁王像の事ばかり頭にあり、狛犬を撮り忘れていたことに、今気づいた



仁王像を観る前に、呼吸と心拍数が落ち着くまで休憩した
仁王門は、文久2年(1861年)に再建された



仁王像(微笑み仁王)
確かに憤怒の表情ではなく、微笑んでいるように見える
最近のものなのかと思ったが、天保14年(1843年)完成とある

阿形像(金剛神・東王父)
これまで仁王門を通過する際、両側から睨めつけられていた



笑顔で迎えられるのはとても気持ちがいい



作者は、法橋雲竜安高



吽形像(執金剛仏・西王母)









奉納草鞋



観音堂(宮城県指定文化財)
仁王門から更に階段が続く
正面に観音堂が見えてくる



大同2年(807年) 京都清水寺より「十一面観世音菩薩」を御本尊として勧請
天保13年(1842年)火災によって消失
嘉永4年(1851年)観音堂を再建









一隅碑



国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり
道心ある人を名づけて国宝と為す
故に古人言わく、径寸十枚、是れ国宝にあらず
一隅を照す、此れ則ち国宝なりと
古哲また云わく、能く言いて行うこと能わざるは国の師なり
能く行いて言うこと能わざるは国の用なり
能く行い能く言うは国の宝なり
三品の内、唯言うこと能わず
行うこと能わざるを国の賊と為す
乃ち道心あるの仏子、西には菩薩と称し、東には君子と号す
悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり



観音堂の彫刻












額には「奥州鎮護」



本尊:十一面観世音菩薩(秘仏)
平成20年(2008年)33年に1度の本尊の御開帳が行われた



菩提樹



義啓・雄淳・六字名号供養碑









寛文の鐘



山本周五郎の歴史小説『樅ノ木は残った』を読んで感動したことを思い出した
平幹二朗主演のNHK大河ドラマも視たが、この寺とつながらなかった縁があったとは……



田村麻呂将軍一千年供養塔






天台大師像
頭に大きなこぶが乗っているように見える珍しい像



頭上のこぶは大師が座禅に打ち込んだ際に居眠り防止のために使用した禅鎮で
うとうとすると頭から落ちてしまう



四郎杉(涌谷町指定天然記念物)






三郎杉(涌谷町指定天然記念物)






夫婦杉(涌谷町指定天然記念物)






二郎杉(涌谷町指定天然記念物)



太郎杉(涌谷町指定天然記念物)



健康の鐘
苦しみは楽しみに  楽しみは喜びに
喜びは幸せに 幸せは健康に
健康は一生の宝物



「おくのほそみち」展望台



かつて、源義経が弁慶を供にして歩き、松尾芭蕉も曽良を供に眼下の道を歩いたという



東北6県を旅をするにあたり、芭蕉縁の地を訪れようと思っていた(思い出した)



忠魂碑



地蔵菩薩
寛保3年(1743年)の建立



秋の山唄発祥之地碑






山王堂



堂内の様子



鐘楼



観音堂前に戻った



眼下には仁王門



仁王像






白山堂






撮影 令和5年10月7日
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竹峰山 華足寺(宮城県登米市東和町米川字小山下2)

2024年03月18日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月7日

竹峰山 華足寺(けそくじ)
真言宗智山派の寺院
大同2年(807年)坂上田村麻呂が蝦夷征討で当地を訪れた際、戦没者の霊と戦死した愛馬を慰める為に馬頭観音(馬頭明王)を勧請
愛馬を埋めた塚の上に堂を造営したのが始まりとされる

山門(宮城県指定文化財)
寛政11年(1799年)に仙台藩9代藩主 伊達周宗から寄進された
屋根は、過去数回修理され更に吹き替えられたが、その他は創建時(225年前)のままの姿



2階には十二支の守り「本尊八神像」を安置



案内板



二天像

「増長天」南方を護る守護神 青い顔で宝剣を持った姿で表される



「多聞天」北方を護る守護神



二天像のピントが合っていない
格子の中央に(高い場所にある)空間があるが、そこにレンズを突っ込み、背伸びして腕を伸ばして震えながら撮っている
堂内は暗く、目視できない状態でシャッターを押しているため失敗している



仁王像は寺で唯一写真が撮れる場所なので工夫しているが、その姿は不審者そのものだ
過去にパトロール中の警察官から、職務質問を受けたこともある



新田次郎文学碑
「密航船水安丸」という小説が、この地方の取材作品で全国的に有名になったそうだ
明治39年、及川甚三郎が率いる82人の密航者は、宮城県の荻浜港から、帆船で新天地・カナダへ向かった……
日本人の理想郷をつくるため、あらゆる困難を乗りこえ、勇気と行動力とで、その夢の実現に生涯を賭けた男を描いている



高倉健主演の映画「八甲田山」は観たことがあるが、小説はこれまで読んだことがない



(違和感のある黒牛)
牛馬の守護神として関係者から信仰の対象とされた事からか



鐘楼堂






馬頭観音堂(登米市指定文化財)
馬頭観音は動物燐憫の守護仏であり、馬の霊場としては日本最古と伝えられる



平安時代には奥州藤原氏の庇護を受けたが、1570年(元亀元年)に焼失した



天明6年(1787年)に仙台藩8代藩主 伊達斉村から観音堂を寄進された



案内板









額には「観世音」



堂内の様子



絵馬が壁と同化している錯覚に陥る



回廊の床一つみても、匠の技が施されている



少し離れた場所から観音堂を眺める



観音堂から少し高い場所に建物が見えた



観音堂から3つの建物が一直線で並んでいる



奥之院






地蔵堂






納骨堂



小安観音堂



田村麻呂将軍姿見の池



客殿
建築年代は不明
特徴は玄関の位置が正面ではなく端に設けてある



床面の向きが逆向きになっていること、天井が竿天井であること、欄間の造りとなっていることが特徴



道路沿いに咲いていた「曼珠沙華(彼岸花)」



この薄紫色の花の名前は知らないが気に入っている
普段、花など興味は無いのだが、旅先ではカメラを向けてしまう



撮影 令和5年10月7日
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妙見山 黒石寺(岩手県奥州市水沢黒石町字山内17)

2024年03月17日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月6日

妙見山 黒石寺(こくせきじ)
強風警報が発令されていたようで、途中、倒木により道路の半分が塞がれていた場所もあった
平成28年(2016年)5月に重要文化財の仏像拝観を目的に一度訪れたことがある

寺号標
その時は残念ながら受付が開いていなくて拝観することができなかった
東北6県を巡る旅は今回が最後になると思い再訪することにした



黒石寺蘇民祭
今回、投稿するためにホームページを検索していたところ
千年以上続くとされる奇祭「黒石寺蘇民祭」は、2月17日 黒石寺で開かれ、惜しまれながら歴史に幕を下ろすことになった
その理由は、現在祭りの中心を担っている人の高齢化と、担い手不足により、祭りを維持していくことが困難な状況となったためとのこと





御供所・鐘楼
1階は御供所(ごくしょ)といって、本尊に供える供物を準備するところ
2階は鐘楼。この梵鐘は戦時中、鰐口とともに供出されたが、まもなく返還されたという



本堂(薬師堂)
天平元年(729年)行基菩薩の開山
東光山 薬師寺と称したが、延暦年間の蝦夷征伐の戦火に遭い寺は焼失した



狛犬






大同2年(807年)飛騨の工匠が方七間の薬師堂を再建
嘉祥2年(849年)慈覚大師「円仁」が復興し、妙見山黒石寺と改名した
現在の本堂と庫裏は、明治17年(1884)に再建された



本堂の彫刻









扁額には「薬師如来」






奉納額









実は今日も受付は閉じられていて仏像を拝観することができなかった
仕方なく、いつものようにこの格子にレンズを当て、堂内に何があるかを確認した



本尊:木造薬師如来坐像(重要文化財)<収蔵庫>
堂内は暗く肉眼ではよく見えないが、デジタルカメラなら堂内の様子をうかがうことができる



木造四天王立像(重要文化財)
須弥壇の四隅に安置される四天王像









収蔵庫
拝観料:大人500円(事前に予約が必要)



釈迦観音堂






黒石寺も今回が最後と思い訪れたが、念願が叶わず落胆していた
ところが……



前を歩く女性は「歴女」なのか、御朱印帳を持って歩いていた
駐車場から車を動かそうとしたところ、この女性が受付で手続きをしていた
急いで車を降り、受付で仏像拝観を申し出ると30分後に団体予約があるのでいいですよと解錠してくれた
ということで、念願の重要文化財の仏像を拝観することができた



撮影 令和5年10月6日
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