今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

金塔山 恵隆寺 <立木観音堂>(福島県河沼郡会津坂下町)

2016年08月30日 | 神社・仏閣
道の駅「会津」で得た情報で立ち寄った寺
駐車場には観光バスが数台駐まっており人気の寺ということを知った

仁王門
慶長16年(1611)の会津大地震で伽藍が倒壊し、3年後に再建した最初の建造物



残念ながら仁王像を観ることができなかった



仁王門の裏側は賑やかなことになっている



影霊堂
この地区から日清・大東亜戦争に出征し戦病歿された方々を護国守護神として祀っている



手洗石鉢「狐石」
約250年前に掘られた井戸からの清浄水



20リットルまで持ち帰ることができる
 


三仏堂
薬師如来、阿弥陀如来、六地蔵菩薩の三仏が安置されている
正面がガラス張りのため内部がよく見えない



苦労して撮った一枚となる。



観音堂<立木観音堂>(重要文化財)
鎌倉時代、建久年間(1190年~1199年)の建立
慶長16年(1611年)の会津地震で倒壊するが、元和3年(1617年)に修理・再建された



桁行5間、梁間4間の寄棟造で屋根は茅葺き



欽明天皇元年(540年)に梁の僧・青岩が高寺山に庵を結び、その後、舒明天皇6年(634年)に僧・恵隆が恵隆寺(えりゅうじ)と名付けた



山号「金塔山(きんとうさん)」の扁額
団体が堂内に入ったため周辺を散策してみる



「櫛の奉納」
江戸時代頃から女性(嫁)が櫛(苦と死)を納める風習がある



霊験あらたかな鰐口



堂内に入る。観音堂内に安置される42臂の千手観音像
一木造で総高8.5m、像高7.4mの大きさで、一木造としては日本最大級の仏像
立木を刻んだとする伝承があり、長年「立木観音」と呼ばれて親しまれてきた。鎌倉時代の作

狭い空間に御本尊の他に「二十八部衆」と「風神・雷神像」が安置されている
拝観する場所も狭く、立ち止まってゆっくりとは他の迷惑になるのでできない。満足できない人はぐるぐる回ることになる

内陣・外陣にある「だきつき柱」
抱きついて離れない老婆もいた。願い事が叶うらしいが…



小金塔(こきんとう)
会津風土記の記述により調査・発掘。発掘された4個の大石を四隅に配して再建された



御本尊は大日如来



歌手 春日八郎の少年時代を見守ったという地蔵
私の出身大学近くに邸宅を構えていたことを思い出した



参拝者に老人が多かったのは「安楽ころり信仰」のためか。死ぬまで元気に過ごし、最期はコロリと浄土に行く
高齢化社会、本人や家族にとっても理想だ。最期は楽に逝きたい



撮影 平成28年5月21日
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瑠璃光山 勝常寺(福島県河沼郡湯川村大字勝常代舞)

2016年08月28日 | 神社・仏閣
居心地の良かった道の駅「会津」で偶然得た情報で近くに訪れてみたいと思った寺が数カ所あった
一番近くにあった「勝常寺」だが寺の案内板を読んで驚いた

瑠璃光山 勝常寺
弘仁年間に最澄の論敵として有名な法相宗の徳一の創建と伝えられている。現在は真言宗豊山派の寺院
国宝の仏像が三体、残念なことに拝観には事前予約が必要とのこと



山門の様式は分からないが、多分初めて見たような気がする



扁額も文字の痕跡はあるが心眼でも読むことができない



仁王像も腰蓑を着けていて、記憶にないので多分初めて見る






後に副住職に珍しいですねと尋ねると、「そうですか」とあっさり






斜め横に回ってみると、このようになっている



薬師堂(重要文化財)
応永5年(1398年)に火災があり、室町時代初期に講堂(現・薬師堂)が再建された
薬師堂以外は近世以降の建物



仏像拝観には事前予約が必要のためあきらめ、せめて建物をしっかり見ようと周辺を歩いていた



桁行5間、梁間5間(「間」は柱間の数を表す)、寄棟造で、屋根はもと茅葺きであったが、昭和39年に銅板葺となった



内部には国宝の木造薬師如来坐像が安置されている



扁額には山号の「瑠璃光山」
参拝者は私一人であったが、振り返ると中年女性が一人歩いてきた



挨拶後に「参拝ですか」と尋ねると「ええ、仏像を観に」と
会話が進み事前予約していることが分かった
「できたら私も一緒に」と申し出ると快諾してくれた。女神に出逢ったような幸運
副住職の許可もいただきさっそく薬師堂内に案内される
勝常寺には30余体の仏像があることにも驚いた
多くは霊宝殿(収蔵庫)に安置されているが、住民の要望により国宝の木造薬師如来坐像は薬師堂に安置していると説明してくれた



霊宝殿(観音堂)
国宝の日光菩薩立像、月光菩薩立像。重文の仏像8体を含め12体が安置されている



仏像拝観はあきらめていただけに至福の時間となった



道の駅から歩いて来たという女神を車で送る



撮影 平成28年5月21日
コメント (2)
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史跡若松城址・鶴ケ城(福島県会津若松市追手町)

2016年08月27日 | 
裏磐梯「五色沼」で知り合った二人の男性から喜多方ラーメンの有名店を紹介してもらった
店のおすすめという「ネギラーメンとギョーザ」を注文
ふだん「札幌ラーメン」に慣れ親しんでいる私にとっては、違和感のある味
店員の対応も酷く久し振りに嫌な時間を過ごした

そこで学生時代一度訪れたことのあり、良い思い出のある「鶴ケ城」を目指すことにした
ところが悪いことは重なるもので、ナビの案内通りに走っていたら鶴ヶ城公園に入る際、一方通行を逆走
早くもボケ老人の仲間入りをしてしまった



八重の桜の影響なのか公園内は観光客で賑わっていた
「はるか」と命名された桜の木



大河ドラマ「八重の桜」で山本八重、後の新島八重を演じた女優 綾瀬はるかのメッセージである



「鐘撞堂」
時守を置いて昼夜時刻を城下に報じていた堂
戊申の役で新政府軍の砲火により時守が相ついで斃れたが、開城の間際まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞した



史跡若松城址
地元では鶴ヶ城、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い
文献では黒川城、または単に会津城とされることもある



学生時代、会津若松駅で近くを歩いていた孫を連れたお婆さんに鶴ケ城までの道を尋ねると。親切にも城まで案内(約3km)してくれた
この時の感謝の気持ちは40年以上過ぎた今でも鮮明に記憶に残っている
その思い出を胸に再び会津の地に



武者走り
この石垣は、鶴ケ城の大手門の渡り櫓などへ簡単に「昇り」「降り」ができるように造られている



V字型に造られ「武者走り」とも呼ばれ鶴ケ城石垣の特色の一つ



「石垣」
鶴ヶ城で一番古いのが天守閣の石垣で、蒲生氏郷が築いたもの



「野面積み」という自然石を組み合わせて積み上げる
慶長16年(1611年)8月21日、会津盆地を震源とするマグニチュード6.9と推定される大地震が発生
民家2万戸が倒壊し、多数の死者も出る大惨事だったが、天守閣の石垣は持ちこたえたという



蒲生氏郷が豊臣秀吉の命令で会津を治め、七層の天守閣を築いた
江戸時代、地震で被害を受けて再建した天守閣は現在と同じ五層
幕末の戊辰戦争では西軍の猛攻に耐え難攻不落の名城と称えられたが、明治政府の命令で取り壊され、現在の天守閣は昭和40年(1965)に再建されたもの



城内の様子。再建された天守は若松城天守閣郷土博物館として利用されている









最上階まで上ってきた



天気にも恵まれ市街まで眺望することができた



この城は七層あった天守閣が地震で傾き五層になった
会津戦争では1か月の間持ちこたえ、板垣退助勢に、薩摩の援軍の助けをかりても遂に城は落ちなかった
ここからの眺めを見て熊本城で見た景色を思い出した



什の掟―じゅうのおきて(ならぬことはならぬものです)
 一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
 一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
 一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
 一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
 一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
 一、戸外で物を食べてはなりませぬ
 一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
   ならぬことはならぬものです

什の掟のいくつかを思い出しながら城を出た



茶室麟閣(福島県指定文化財)
千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられ、千家が茶の湯の世界から追放された
氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんでその子、少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に働きかけた



その結果、少庵は京都に帰って千家を再興し、千家茶道は一子、宗旦に引き継がれた
かくまわれている間、氏郷のために造ったと伝えられているのが「麟閣」



「寄付(よりつき)」



外露地に構えられる建物で、茶会に先立って客が連客と待ち合わせたり身支度を整えて、席入りの準備をする



「中門」
内露地の出入口に設けられた門で、高さが低く抑えられ、茶室の躙口同様、潜りの意味が込められている



「腰掛待合」
客が露地入りして亭主の迎えを待ったり、中立の祭に一旦露地に出て、後の席入りの合図を待つ建物



「蒲鶴亭」
戊辰戦争で会津藩が敗れ、明治初年、鶴ヶ城が取り壊される際、石州流会津怡渓派の森川善兵衛(指月庵宗久)は貴重な茶室の失われるのを惜しんだ
明治5年(1872)、自宅へ移築し、以来百二十年にわたり、森川家はその保全に努めた









茶室麟閣から見える鶴ケ城



学生時代、会津藩の選択した道に魅力を感じ訪れ、40数年後に再訪することとなった
昔、この城まで案内してくれたお婆さんのおもてなしの気持ちを忘れず生きてきた



そのお婆さんの年齢に近づこうとしている。この先、何ができるのか城を見ながら考えた



撮影 平成28年5月20日
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