今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

皇大神宮<内宮>(三重県伊勢市宇治館町)

2020年10月31日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月16日

皇大神宮<内宮>
昼近くにもなっていたので内宮の有料駐車場は無理かなと思っていたが、何とか駐めることができた

「宇治橋」
五十鈴川にかかる宇治橋は内宮の入口
日常の世界から神聖な世界を結ぶ架け橋といわれている






宇治橋からの眺望



内宮では外宮とは反対の右側通行になっている



宇治橋を渡って玉砂利の敷き詰められた参道を歩き正宮を目指す
参道の距離は、片道約800m、往復で1.6km(外宮の倍の距離)



途中、右手に「五十鈴川」が流れている



景色も美しいが参拝者は別の目的で立ち寄る



倭姫命が、御裳のすその汚れを濯いだという伝説があり、御裳濯川(みもすそがわ)という別名をもつ



神路山を源流とし、皇大神宮 内宮の西端を流れており「御手洗場(みたらしば)」になっている



普段歩く習慣のない私にとってこの距離は長い
遠くに鳥居が見えてくるが安心はできない



まだまだ歩くことになる
疲れると写真を撮ることにしている



「正宮 皇大神宮」
皇室の御祖神であり、国民から総氏神のように崇められる天照大御神を祀る
約2000年前に鎮座された

いつものように参拝者で賑わっているように感じるが……



修学旅行生がいなくなるとこのような状態で、コロナの影響の大きさを感じる



三種の神器の一つである「八咫鏡(やたのかがみ)」が安置されている



「御稲御倉」
三節祭でお供えされる神田で収穫された米が納められている



修学旅行生とともにガイドの話を聞く。「神明造」の特徴をもつとのこと



「外幣殿」
神明造の高床式の建物



内宮は正宮御垣の外にあるが、外宮は御垣の内にある



「別宮 荒祭宮」
天照大御神の「荒御魂(あらみたま)」を祀る
内宮に所属する十別宮のうち、第一に位し、殿舎の規模も正宮に次ぐ大きさ



神様の御魂のおだやかな働きを、「和御魂(にぎみたま)」と申し上げるのに対して
荒々しく格別に顕著なご神威をあらわされる御魂の働きを、「荒御魂」とたたえる



「四至神」
内宮神域の守り神、四至とは神域の四方を意味する
社殿や御垣はなく、石畳の上に祀られる



「神楽殿」
御饌、御神楽などのご祈祷の奉仕や、お神札やお守りを授与している



参道左手奥に鳥居が見えてきた。ここへは行った記憶がない



「別宮 風日祈宮」
風雨を司る級長津彦命、級長戸辺命を祀る



元寇の際に神風を吹かせた神としても知られている



風日祈宮側から見た鳥居



歩き疲れたので途中休憩し、水分も補給した



宇治橋を通り駐車場へ戻る



宇治橋から国旗を眺める
日本に生まれ日本人でよかったと伊勢神宮は感じさせてくれる



伊勢神宮内宮参拝後のもう一つの楽しみといえば「おかげ横丁」である



私の場合はここ「赤福」
ここで食べるできたての赤福は格別である



今回はお土産用を購入し車内で食べた



撮影 令和2年9月16日
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豊受大神宮<外宮>(三重県伊勢市豊川町)

2020年10月30日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月16日

豊受大神宮<外宮>
外宮に入るもう一つの入口(裏参道)がある「北御門」近くの無料駐車場に車を駐める
駐車場からは少し歩くが、表参道から入る



「火除橋」
神域の入口には防火のためにつくられた掘川が流れ、火除橋がかけられている



左手に雰囲気のいい休憩所がある
博物館である「せんぐう館」前に位置し、ゆっくりと「勾玉池」を眺めることができる



「手水舎」
参拝の前にお清めをする場所になる



「鳥居」
中央は神様の通り道、伊勢神宮では参拝者は左側通行が遵守されている



「社務所」
いつもは通過するだけだが、今回は「御守り」を購入した



「神楽殿」
御饌、御神楽などのご祈祷の奉仕や、お神札やお守りを授与している



「四至神(手前)と五丈殿・九丈殿(奥)」



「古殿地」からの眺望
正宮と同じ広さの敷地を持ち、前回の遷宮まで御殿が立っていた場所になる



「正宮」は撮影禁止場所なのでここが最高の撮影スポットになる



奥の屋根に設けられた、金色の千木・鰹木の建造物が「正宮」である



これまで外宮には4回参拝に訪れているが、参拝者の少なさに驚いている



コロナの影響か高齢者の姿が少ないというより全くいない



「正宮 豊受大神宮」
天照大御神の食事を司る神であり、衣食住を始め産業の守り神でもある豊受大御神を祀っている



「三ツ石」
御装束神宝や奉仕員を祓い清める式年遷宮の川原大祓が行われる場所
以前訪れた時は観光雑誌にパワースポットと紹介されていたとかで若い女性達が沢山いたが、今は誰もいない



近くに住む老人にこの池で体を清め三ツ石でお祓いをすると聞いたことがある



「別宮 風宮」
風雨を司る級長津彦命、級長戸辺命を祀る






元寇の際に神風を吹かせた神としても知られている



「別宮 土宮」
地主の神である大土乃御祖神を祀る



別宮で唯一、東を向いている



多賀宮を目指し階段を上がる



若いカップルが前を歩く。神社がデート場所というのもいいものだ



「別宮 多賀宮」
豊受大御神の「荒御魂」を祀る






山の頂にあるので「高宮」とも呼ばれている



「下御井神社」
内部には井戸があり、お祭りにお供えする御水をいただく上御井神社で不都合があった場合に使われる



参拝者の少ない伊勢神宮もいいもものだと思った



裏参道を通り駐車場に戻る



撮影 令和2年9月16日
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恵日山 観音寺 大宝院(三重県津市大門32番)

2020年10月29日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月15日

恵日山 観音寺 大宝院(津観音)
現在の建物は昭和・平成のものだが、その歴史は古い
創建は奈良時代の初め、和銅2年(709年)に伊勢阿漕ヶ浦の漁夫の網に聖観音立像がかかり、これを本尊として開山したのが始まり
本尊は聖観音菩薩。浅草観音、大須観音と並んで日本三大観音の一つとされる

「仁王門」
度重なる災害に遭った寺院だが決定的だったのは、昭和20年(1945年)7月28日の夜
アメリカ軍が投下した焼夷弾によって、市街建造物の大半と共に観音寺の堂宇も一夜にして灰となった
観音寺の山内寺院7か寺、旧国宝の観音寺本堂と大宝院本堂を含む41棟が全焼し消失、総坪数900坪に及んだ



昭和55年(1980年)本格的な再建事業が始まり仁王門が完成した



「仁王像」






「撫で石」



「横峰寺」は西日本最高峰「石鎚山」の中腹に位置し、お寺までの道のりは「遍路ころがし」と呼ばれる、伊予の國最大の難所



境内全景



「手水屋形」 昭和61年(1986年)完成



「鐘楼堂」 昭和59年(1984年)






「梵鐘」






「観音堂」



永禄8年(1565年)織田・北畠両家の合戦の際、兵火に巻き込まれ焼失、信長の弟信包が、天正8年(1580年)一山を再興した
鈴鹿市国府の阿弥陀如来、両脇侍を本尊とした。これを「国府の阿弥陀」と称し、伊勢神宮天照大神の本地仏(神仏習合)として広く庶民に開帳
お蔭参りの際には道中観音寺に立ち寄って参拝することが習いとなり「津に参らねば片参り」と言われる由縁となった









堂内に入る



「外陣」



「天井画」






「小津安二郎記念碑」
小津は三重県飯南郡(現在の松阪市飯高町)にある宮前尋常高等小学校に代用教員として赴任した
小津の教員生活はわずか1年で終わったが、山村の児童たちに強烈な印象を残した



印象に残った「木造抜苦・与楽像」






「護摩堂」



「五重塔」 



平成13年(2001年)三重県下初の木造五重塔が完成









撮影 令和2年9月15日
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高田山 専修寺 その2(三重県津市一身田町)

2020年10月28日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月15日

「太子堂」



前回訪れた時、寺の行事の一つである「納骨堂法会」開催日と重なり、入ることができなかった場所に向かう



厳かな雰囲気の建物が並ぶ



広場があったので歩いて遠くから建物正面を眺める



御廟唐門(重要文化財)



正面は平入りの唐門






扉の隅々まで装飾彫刻で埋めつくし、工芸品のような美しさを見せている



透塀(重要文化財)
瑞垣は唐門の両脇から東西に長くつらなっている



「透塀と唐門(重文)」






拝堂(重要文化財)
屋根の正面と背面に大きな千鳥破風、正面の軒に唐破風をつける



唐門、瑞垣、拝堂とも幕末の建造であって、拝堂の瓦に安政5年(1858年)の銘がある



外観は見事な彫刻で装飾されているが、内部は構造材を露出させている






拝堂の横を通り奥を眺めると石造の橋があり、その奥に「御廟」がある



「御廟」
築地塀に囲まれた区域が「親鸞聖人」と歴代上人の御廟である



更に奥があるようで、女性が写真を撮っているのが見える



鯉が気持ちよさそうに泳いでいた。手を叩くと餌を貰いに寄ってくる
口を開けてパクパクしていたところを撮った



池周辺の景色






「納骨堂」



「御廟や納骨堂」がある場所だけに、鬱蒼とした樹森があって、静寂を漂わせている



普段は風景など興味も無く撮らないのだが……



「如来堂(国宝)」のある場所に戻ってきた



その横には「御影堂(国宝)」






茶所(重要文化財)
湯茶の接待所も重文に指定されていた






鐘楼(重要文化財)
1間4方で、入母屋造の屋根をのせている



棟瓦から正徳3年(1713年)の刻銘が発見、そのころ再建されたものと思われる



「銅鐘」
専修寺第15世住持「堯朝上人」の夫人高松院が、堯朝の7回忌を迎えるにあたって、慶安5年(1652年)に鋳造させたもの
高松院は津初代藩主「藤堂高虎の長女」
堯朝上人は、江戸幕府より「親鸞自筆の文書」を将軍家光へ献上せよとの働きかけに抵抗
正保3年(1646年)江戸で切腹したといわれている。その時堯朝上人は32歳の若さであった



鐘楼から見た御影堂



大玄関(重要文化財)
寛政2年(1790年)の再建



明治11年(1878年)に現在の位置に移築された
この移築も明治13年(1880年)の天皇行幸に備えたものと思われる



御対面所(重要文化財)
5室ずつ3列の座敷からなる建物
大正初年までこの第5室に法主が座を設けて、ここから第3室以下の門信徒に対面していた



進納所(重要文化財)
院號・法名を下げて頂く場所で、高田本山へ参詣者が御懇志を納めるところ






御影堂壁面を歩く



「山門(重文)」を後にして駐車場に戻る



壁の線からも寺の格式が高いことが分かる



帰りには唐門の扉が開いていた
奥に見えるのは「如来堂(国宝)」



撮影 令和2年9月15日
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高田山 専修寺 その1(三重県津市一身田町)

2020年10月27日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月15日

高田山 専修寺(別称:本山専修寺)
前回訪れた十数日後に「如来堂と御影堂」が国宝に、また、多くの堂宇が重要文化財に指定された

唐門(重要文化財)
駐車場から歩いて行くと最初に唐門が目に入ってくる
唐門の先に見える建物が国宝の如来堂



山門(重要文化財)
2階建で、間口20m、奥行9m、高さ15.5mの大きな門



明治天皇行幸の際のご休息の場所となった



扁額には山号の「高田山」
2階内部には釈迦三尊像を安置している



正面には国宝の「御影堂」



「手水舎」
遠くに歩いていた専修寺が運営する幼稚園児たちに大きな声で挨拶され気持ちよく迎えられた感じがした



「境内案内図」



この案内図はとてもわかりやすい
この日は気温が高く休憩所で水分を補給



唐門(重要文化財)
四脚門 良質の欅を用い、豪華な装飾で空間を埋め尽くしている



天保15年(1844)に上棟



如来堂(国宝)
間口25.66m 奥行26.62m 一重 裳階付 入母屋造 向拝三間付 本瓦葺



教義上この堂が伽藍の本堂となる



御影堂の西に配置され、御影堂とならんで南面するお堂



外観とは異なり浄土真宗は堂内は金ピカで豪華



「証拠の如来」と呼ばれる阿弥陀如来立像を本尊









通天橋(重要文化財)
御影堂と如来堂を結ぶ廊下で、両御堂の縁側にかかっている



国宝の御影堂につながる



御影堂(重要文化財)



間口 42.72m 奥行33.50m 一重(単層)入母屋造 向拝三間付 本瓦葺
畳七百八十枚が敷かれており、全国の国宝木造建築の中でも五番目の巨大な堂



御影堂側から見た「通天橋」



全長32m 幅7m 唐破風造 本瓦葺
両堂の縁側にかかっているため高床とし、板張りで、柱間はすべて吹抜け






宗祖親鸞聖人の木像を中央須弥壇上に安置



「見真」の額
智慧 によって真理を見きわめること



正保2年(1645年)の大火による伽藍焼失
寛文6年(1666年)に上棟、延宝7年(1679年)に落慶供養法要が行われた



細部にいたるまで豪華に装飾がなされている



次回に続く

撮影 令和2年9月15日
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長沼山 萬徳寺(愛知県稲沢市長野3丁目)

2020年10月26日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月14日

長沼山 萬徳寺
旅の目的の一つに、国宝と重要文化財の塔巡りがある
愛知県には、重要文化財の三重塔2・五重塔1・多宝塔7があり、その全てを回ることができた

「山門」
駐車場がなかったので近くのコンビニに車を駐め、駆け足の参拝となった






「鐘楼」



「楊柳観音」
三十三観音の一つで病苦からの救済を使命とする
右手に柳の枝を持つことにより楊柳観音と呼ばれる



「本堂」
神護景雲(768)に、称徳天皇の勅願によって慈眼上人が創建し、草堂に阿弥陀三尊を安置したという
その後、木曽川の決壊などにより本堂は荒廃し、承和元年(834)に弘法大師空海が当地へ巡歴したおり、真言の道場として再興した



天暦年中(947〜956)には火災、永祚元年(989)の風難で伽藍は破滅。常円上人は建長6年(1254)に本堂、鎮守堂等を建立した



本堂左手に重文の「多宝塔・鎮守堂」が並んでいる
境内一円に植栽されている約700本の「ぼたん」は、4月下旬に一斉に咲き揃い「ぼたん寺」で知られている



多宝塔(重要文化財)
様式・技法等から室町時代後期の建築と推定
下層を三間四方、内部に二本の円柱を立て来迎柱とし、前に仏壇を置く
屋根は宝形造、檜皮葺とし、頂に相輪をあげる



この多宝塔をもって愛知県内にある重文の塔(10塔)の全てを回ったことになる



鎮守堂(重要文化財)
一間杜流造で屋根は檜皮葺、棟札から享禄3年(1530)の建立
小規模ながら、建立年代の明らかな建造物として貴重な遺構である



八幡社とも呼ばれている






「六地蔵尊」



「水掛不動尊」
東海三十六不動尊霊場の第4番札所



弘法大師御請来 日本三体「如意宝珠安置霊場」






撮影 令和2年9月14日
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大塚山 性海寺(愛知県稲沢市大塚南)

2020年10月24日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月14日

大塚山 性海寺(しょうかいじ)
間違って近くの「西福寺」という寺に入ってしまった。「ボケ」にも効くというのでついでにお参りをしてきた
性海寺を「しょうかいじ」とは読めず「せいかいじ」は何処ですかと、そこで尋ねたが分からないと言われた
「あじさい寺」と呼ばれてといるというと、そこなら近くだと道を教えてくれた



周辺は、「大塚性海寺歴史公園」になっている



「案内板」で内容を理解したつもりでも数十秒後には忘れてしまう



「山門(稲沢市指定文化財)」



山門を入ると正面に多宝塔拝殿、左手に手水舎と鐘楼がある



「手水舎」



「鐘楼」



「多宝塔 拝殿(愛染堂)」
多宝塔に拝殿があるのは初めてだと思う。中には愛染明王が納められている
耳の病の信仰があり、この拝殿には全部底抜けのひしゃくが奉納されている



コロナ過での参拝だけにマスク着用を呼びかけているのか



多宝塔(重要文化財)
性海寺の中興開山である良敏上人により、建長5年(1253年)に建立されたと伝えられる
様式的には室町中期の建築と考えられる



陽射しが強くなりデジカメには厳しい条件だったが、あえて太陽を入れてみた






桁行3間、梁間3間、昭和42・43年の修理で、隣接する愛染堂から分離された
瓦葺から銅板葺に改められ、木部には丹彩が施された






本堂(重要文化財)
寺伝によれば、弘仁年間(810~24)に弘法大師によって創立されたとされる






昔話では
空海が京都の東寺から熱田神宮におまいりに行く途中、みすぼらしい姿をしたおじいさんに会い、「ここにお寺を作りなさい」と言われた
空海にそれを伝えるとすっと消えてしまったため、仏様のお告げだと考え寺を建てたのが性海寺だという



桁行3間、梁間3間、入母屋造、向唐破風の1間向拝付、杮葺の建物



「方丈」



「三宮社(さんぐうしゃ)」
熱田大宮司家出身の良敏上人が七堂伽藍を完成したときに置いた鎮守堂が、現在の三宮社



「 三宮社」の扁額



三宮とは、天照太神と素盞烏尊とが誓い合って生まれた五男三女の中の三女



旧暦正月12日、市指定文化財、無形民俗文化財に指定されている射的神事、御武射が行われる



撮影 令和2年9月14日
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鳳凰山 甚目寺(愛知県あま市甚目寺東門前)

2020年10月23日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月14日

鳳凰山 甚目寺(通称:甚目寺観音)
この日、最初に訪れたのは、重文の三重塔を持つ甚目寺(じもくじ)、数年前に訪れた事がある

南大門 (重要文化財)
鎌倉時代初め 建久7年(西暦1196年)の建築
聖観上人が寺の再興をはかった折、源頼朝の命で梶原景時が奉行となり普請したもの



柿葺、三間一戸楼門、入母屋造
街中にある寺だけに視界に電柱や電線が入ってくる



「木造金剛力士像(愛知県指定文化財)」



寺のホームページによると、仁王像は運慶作と伝えられているとのこと



境内には人馴れした鳩がいる。以前訪れた時には本堂で餌を売っていた
餌を貰うため女性の周りに集まる鳩



南大門側にある「手水舎」



三重塔(重要文化財)
この塔を拝観するためにこの寺を訪れた



高さ28mで、三重塔としては日本有数の高さを誇る



江戸時代の初め 寛永4年(1623年)9月の建築
名古屋両替商 吉田半十郎政次の寄進による



電線が入り込まない場所を探す



塔が好きでつい枚数が多くなってしまう
実際、撮った写真のの5~6割に塔が入っている



「案内板」



「梵鐘(愛知県指定文化財)」
鎌倉時代作、建武四年(1204年)三月廿日の銘



「不動堂」



「十王堂内部」
十王とは、仏教や道教などにおいて死者の魂を裁く十人の裁判官



閻魔大王像をはじめとする十王像と、三途の川で亡者の衣をはぎ取るという奪衣婆像が安置されている















枚数が多くなるので、あとはまとめて



「六角堂」



「手水鉢」
東門側の手水鉢は、鳩の水飲み場になっていて、人間が気を遣う(笑)



東門(重要文化財)
銅版葺、四脚門、切妻造
室町時代、寛永11年(1634年)の建造。桃山時代の様式を残している



「石仏群」



これには思わず吹き出してしまった



「釈迦堂」



「本堂」
推古5年(597年)のこと、伊勢甚目村の漁夫、龍麿の網に黄金の聖観音像がかかり、歓喜した彼は入り江の北にお堂を建て、像を納めた
これが甚目寺の始まりと言われている



法隆寺や四天王寺に次ぐ我国有数の古刹



扁額には山号「鳳凰山」
天智天皇が病気になったとき、甚目寺で祈祷したところ、快癒したことから、甚目寺は、勅願寺となった
天智天皇より宝鏡を下賜され、続いて天武7年(679年)に天武天皇から鳳凰山の額を勅賜した



本尊は「聖観音像」
高さ一尺一寸五分の秘仏であり、本堂に安置される「十一面観音像(50年に1回開帳の秘仏)」の胎内仏



聖観音像は、百済を経て日本へ渡り、敏立14年(585年)に海中に投じられた三尊仏の内の一尊
他の二尊もそれぞれ拾われ、阿弥陀仏は信州の善光寺に、勢至仏は九州大宰府の安楽寺にある






天正13年(1586年) 天正地震による被害、明治6年(1873年)火災により 本堂が全焼する被害
明治24年(1891年) 濃尾地震による造営物の倒壊・破損を経て、平成4年(1992年) 本堂が再建された



「明王堂」



「弘法堂」



「秋葉堂」



天気も回復し塔の姿が青空に映える



撮影 令和2年9月14日
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廣澤山 天恩寺(愛知県岡崎市片寄町字山下)

2020年10月22日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月13日

廣澤山 天恩寺
朝から降り続いていた雨もあがり、気持ちが高揚してきたので、この日4カ所目となる天恩寺を目指した
駐車場に車を置き5分ほど歩くと石段が見えてきた



「総門」
伝説の「見返り大杉」を見たいと思い訪れた



長篠の戦いに出向く徳川家康が泊まった寺院として知られている



「案内板」
あまり下調べをせず訪れているため案内板を見て重文の建物があることを初めて知る



総門から中に入ると眼前に整備された境内が目に入る






「見返りの大杉(岡崎市指定天然記念物)」
ただの大きな杉だが歴史(伝説)を知ると価値あるものに見えるから不思議だ






天正3(1575)年に武田の軍が長篠城を包囲し、落城目前にして城主奥平信昌は鳥居強右衛門に命じ、岡崎の家康に事の急を報告した
家康は急ぎ出陣し、天恩寺に一泊した。翌日、大杉のところで延命地蔵に呼び止められ、振り返ると敵の刺客が弓を射る寸前だった



危うく難を逃れた家康は、この大杉を何回も見返りながら長篠に向かったという
このことから「見返りの大杉」と呼ばれるようになった
1602年には家康から片寄村79石余の寄進を受けた



「石橋」
風情のある石橋だ



写真を見ると周囲が石に囲まれている



「石垣」



無骨な感じが美しい石垣が境内を埋め尽くしている






石橋の先に重文の物殿が見える



「山門(薬医門)と仏殿(地蔵堂)」



山門(重要文化財)
山門は、南面して建てられた一間の薬医門であり、屋根は切妻造、杮葺
建立年代不詳だが、様式的には、室町時代後期と考えられる



扁額には山号「廣澤山」



「方丈」



仏殿(重要文化財)
仏殿は、桁行三間、梁間三間、入母屋造で、屋根は檜皮葺
内部は土間で中央後方に来迎柱を立て、禅宗様の須弥壇を置く



寺伝によると矢作川の戦いに敗れてこの地に逃れてきた足利尊氏が、本尊延命地蔵尊に戦勝祈願をし、勝利したら寺院を築くことを誓った
翌日の戦いで尊氏が勝利したが、約束を果たすことができず、遺言で託された室町幕府第3代将軍足利義満により、1362年、天恩寺が建立された



1382年には、足利義満誕生日祈祷のため寺領の寄進及び、足利義満自筆の山号・寺号が下付された



「鐘楼」



「お願い地蔵」
旅の無事と好天をお願いした



伝説の大杉を眺め、総門から駐車場に戻る



撮影 令和2年9月13日
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陀羅尼山 蘇悉地院 財賀寺(愛知県豊川市財賀町観音山)

2020年10月21日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月13日

陀羅尼山 蘇悉地院 財賀寺
仁王像が重文に指定されていることを知り、運が良ければ写真を撮る事ができると思い訪れた

<バス利用拝観案内によると>
①仁王門・仁王像(P有)→②本堂(文殊堂P駐車 徒歩移動)→③文殊堂

観音山の中腹から山麓にかけて伽藍があるため、カーブの多い山道でを走る
初めて訪れるため何処に何があるかも分からず、仁王門を見逃し、文殊堂近くの駐車場に着く



「手水舎」



文殊堂(登録有形文化財)
平安中期の三河守大江定基は三河国に赴任中、愛妾力寿と死別したことをきっかけに世の無常を感じ出家し寂照と号した
大江定基の念持仏が財賀寺文殊堂に伝わる文殊菩薩(秘仏)であるとされる



大江定基ゆかりの文殊菩薩(秘仏)のほか、五大明王像、地蔵菩薩立像を安置
安政6年(1859年)の再建。木造平屋建、瓦葺






花の名前は知らないが綺麗に咲いていたので柄にも無く撮ってみた



「鐘楼」



「三十三観音堂」



数年前までは他人の為に合掌していたが、他人事ではない年齢になってきた



「本坊」
抹茶接待(500円)もあるようだ



周囲を探しても目的の場所が見つからない、ランニングをしている男性に訪ねると階段の上に本堂があるという



男らしく「男子厄除坂」を上がる



息が切れ苦しくなると周囲の石仏を撮る(笑)



本堂(登録有形文化財)
神亀元年(724年)聖武天皇の勅願により行基菩薩開闢。弘法大師中興
最盛期には七堂伽藍を有し、山内外に数百の院坊を備えていた



源頼朝が平家討伐を祈願、そのお礼として本堂ならびに仁王門を再建、寺領千三百石余を寄進した
文政6年(1823年)棟梁岡田五左衛門による再建









内陣と外陣を格子によって隔て、内陣壇上の厨子(重要文化財)に本尊千手観音(秘仏)
眷属である二十八部衆像(豊川市指定文化財)、宝冠阿弥陀如来坐像(愛知県指定文化財)などを安置



本堂内陣は特別拝観(300円)になる



帰りは「女子厄除坂」をトボトボ歩いて下りた



「慈晃堂」
本堂から階段を下りる途中にある



「弘法大師像」
仁王門の場所が分からずランニングしていた男性に再び尋ねる



5分ほど歩くと下りの階段があったが、また上ってくることを考えると急に足が動かなくなり諦めた
三度男性に車で行くことができないかと尋ねると駐車場があるという



車で山道を下りて行くと男性が仁王門近くで待っていてくれ駐車場の場所を教えてくれた
彼も車を駐めていると聞いたので行ってみると黒塗りの「フェラーリ」が駐まっていた
彼はすでに階段を駆け上がって行ったが、金持ちで親切な人もいるんだと嬉しくなった



仁王門(重要文化財)



室町時代の建立と推定されている
軒の形式から見て、当初楼門として計画されたものの2階部分が造られなかったものと思われる



仁王門の奥の階段(文殊堂・本堂へ続く)






木造金剛力士立像(重要文化財)
作風、技法などから平安時代後期、11世紀頃の作と推定される
檜材の寄木造で、前後左右の4材を矧ぎ合わせて根幹部を形成し、これに両腕などに別材を矧いでいる






向かって右の阿形は高さ381 cm, 左の吽形は高さ375 cm
東大寺南大門の像、多禰寺山門の像に次ぐ大きさである






堂宇は3つのエリアに分かれていて自家用車で行くなら
①仁王門(P有)②文殊堂・本坊(P有)③本堂(徒歩)の順がいいと感じた
最後になるが親切に教えてくれた「フェラーリ」所有の男性に感謝したい

撮影 令和2年9月13日
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円福山 豊川閣 妙厳寺<豊川稲荷>(愛知県豊川市豊川町)

2020年10月20日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月13日

円福山 豊川閣 妙厳寺<豊川稲荷>
朝からの強い雨が止む気配もなく、豊川稲荷の有料駐車場で様子をみることにした
この日の予定にはなかったが急遽変更して参拝することに
前回訪れた時はガイド付きで丁寧に回ったこともあり、今回は駆け足での参拝となる

「総門」
現在のものは明治17年(1884年)に改築したもの






門扉は「如輪目」の欅一枚板で造られている
柱の金具には鯉が龍に変化していく様子が刻まれている



向かって右側の扉の表面が浮き出ており、触れると幸運がくるらしい
左側の扉は反対に窪んでいる



「鎮守堂」
別名龍天堂。祭神は白山妙理大権現、曹洞宗の寺院では守護神として祀られている



「鐘楼」
昭和12年春、本殿落慶記念に寄進された



「山門」
総門の正面にあるのが山門



入母屋造楼門。天文5年(1536年)、今川義元により寄進される
扁額には山号の「円福山」



「仁王像」






「最祥殿」






山門と漱水舎



「豊楽殿」
文政7年(1824年)の建立で旧本殿の祈祷殿



「神輿殿」



「山頭火歌碑」
 春雨しとど 私も参ります
 どしゃぶりの 満員電車 まっしぐら






「鳥居」
日本三大稲荷の一つということで、前回訪れた時までずっと神社だと思っていた



豊川稲荷は神社ではないものの、境内の参道には立派な鳥居が立っていて、その先には本堂がある



「本殿」
嘉吉元年(1441年)曹洞宗法王派(寒巌派)の東海義易によって創建
室町時代末期、今川義元が伽藍を整備した
当時は、豊川(河川名)の近くに広がる円福ヶ丘という高台に伽藍があったが、元禄年間までに現在地に移転
現存する諸堂は江戸時代末期から近代の再建である



明治41年起工、昭和5年完成の御祈祷根本道場
総欅造妻入二重屋根三方向拝構造



一般的に「稲荷」と呼ばれる場合は、「狐を祀った神社」を想像するが



境内に祀られる秘仏「豐川吒枳尼眞天(だきにしんてん)」が稲穂を荷い、白い狐に跨っていることから、「豊川稲荷」が通称となっている






「賽銭箱」



これまで寺社巡りをしているなかでは一番大きな賽銭箱だ



「燭台」



「昇龍の装飾」



奥の院へ



「万燈堂」
文久3年(1863年)建立。かつては信者が燈明をあげられたお堂で、中央に不動尊を祀る



小窓を開けると内部に七福神が安置されている






准提観音



「弘法堂」



「大黒堂」



堂前の左右に立つ石像は、手に触れさすることで福徳を授かるといわれる



新しい石像が参詣者の手によって変化していく様子が面白い



「霊狐塚」









1,000体以上の狐の石像が安置されている






どん底の状況を表した狐



「奥の院」






拝殿の彫刻は名匠 諏訪ノ和四郎



「納符堂」



「景雲門」



安政5年創建。もとは奥の院拝殿であったが、昭和5年に移転



「三重塔」



「本堂」



撮影 令和2年9月13日
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龍雲山 妙音閣 三明禅寺(愛知県豊川市豊川町波通)

2020年10月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月13日

龍雲山 妙音閣 三明禅寺(通称:豊川弁財天)
今回の旅で愛知県にある重要文化財の塔(三重・五重・多宝塔)を事前に調べ、その全てを訪れようと考えていた
「豊川稲荷」には参拝したことがあるが、近くにある「三明寺」の存在には気付かずにいた

「鳥居」
駐車場は本堂横にあったため、山門の方に移動するが山門はなく鳥居が立っていたため不思議に思った
近くの妙厳寺(豊川稲荷)にも鳥居があるので調べてみた



<豊川閣妙厳寺 山主 本宮顯道によると>
釈迦が亡くなって五百年たった頃、釈迦を敬うための塔が建てられるようになった
そうすると、門が必要になる。門というのは結界
東西南北につくったその門が、石を二重にかけた鳥居のようなかたちであった
そうしたものがチベットから中国、朝鮮、そして日本に伝わった
それが山門であり、鳥居で、寺に鳥居があっても不思議ではない


「本願光悦入定の塚」
入定とは真言密教の修行のひとつで、精神を統一し、無我の境地に至るために瞑想することを指す
示寂とは高僧などが死ぬことを指す



「入定」と「補陀落渡海」には興味を持っている
修行とはいえ待っているのは死なのだが



「石仏群」



三重塔(重要文化財)
この日は朝から強い雨が降り止まず、左手には傘、右手には重いカメラを持ち車から飛び出した






初層を三間四方とし、杮葺の高さ15m程の塔
解体修理に際して発見された墨書により、享禄4年の建立と知られる
初層・二層を和様、三層を唐様とし、外観に変化を持たせている



雨の雫がレンズに付着し二層目がボケている
上向きに構えると雨に当たるので遠くからズームレンズで撮っている



「石橋」
平坦な石橋と太鼓橋が並んで架かっている



太鼓橋を渡って本堂へ向かう



「本堂(愛知県指定文化財)」



寺伝によれば、大宝2年(702年)文武天皇が三河国に行幸の折、この地で病にかかった
弁財天の霊験で全快したことから、大和の僧・覚淵に命じて堂宇を建立したのが始まり



平安時代後期、源範頼の兵火により焼失し荒廃する
応永年間(1394 - 1428)に禅僧・無文元遷(後醍醐天皇の皇子)が諸堂を復興し、この際に禅宗に改宗
千手観音を本尊とし、三重塔を建立し、大日如来像を安置した



享禄4年(1531年)三重塔が再建され、天文23年(1554年)には本願光悦により弁財天宮殿が再建される
現存する本堂は、正徳2年(1712年)岡田善三郎成房により再建されたもの



「辯才天」の額
弁財天像は、平安時代の三河国司・大江定基が、愛人の力壽姫の死を悼み、力壽姫の等身大の弁財天を自ら刻して奉納した
弁財天は裸身であり、十二単を着ており、12年に1度、巳年に御衣装替えを行う慣わしがある



院号「妙音閣」の扁額






般若心経写経道場の札がかかっている



本堂内に天文23年(1554年)に建立された宮殿(重要文化財)がある
弁財天を安置しているが目視することはできなかった



雨で服が濡れ車内ですべてを着替えたのは旅では初めての経験だった

撮影 令和2年9月13日
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成道山 松安院 大樹寺(愛知県岡崎市鴨田町広元)

2020年10月17日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月12日

成道山 松安院 大樹寺
この日の予定にはなかった急遽訪れることにした
徳川家の祖先である松平家の菩提寺である

「三門(愛知県指定文化財)」
寛永18年(1641)三代将軍徳川家光が建立した



応仁元年(1467年)松平親忠が井田野合戦の死者を弔うために千人塚を築いた
しかし、塚が振動し、悪病が蔓延するなどの事態となり、増上寺開山聖聡の孫弟子勢誉愚底(のちに知恩院23世)に念仏をさせて、抑えた



「大樹」とは征夷大将軍の唐名であり、松平氏から将軍が誕生することを祈願して、勢誉愚底により命名されたと伝わる



勅額「大樹寺」(重要文化財)
楼上に後奈良天皇の勅額「大樹寺」



<ビスタライン(大樹寺から岡崎城を望む歴史的眺望)>
三門の正面には「本堂」



本堂から見た「山門」



近くにいた参拝者が見つけてくれた「眺望点」



その先には大樹寺小学校校門があり「総門」が一直線上に結ばれている



総門を拡大してみると約3km先に岡崎城が見える
三代将軍家光が、寛永18年(1641)、家康の十七回忌を機に、大樹寺の伽藍の大造営を行う際に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため
本堂から三門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城が望めるように伽藍を配置した



江戸幕府の風水思想だが実に興味深い



多宝塔(重要文化財)
急遽この寺を訪れたきっかけになったのはこの多宝塔の存在である
前回うまく撮れなかったこともあり、曇天の中から青空が見えてきたため期待を込めて車を走らせた






この塔は防御柵等により横10mの範囲でしか撮すことができない



さらに今は何らかの理由で枝葉が払われているが、この木の枝で塔の1/3は隠れていた



「鐘楼(愛知県指定文化財)」
寛永18年建立、重層袴月、屋根入母屋造、本瓦葺



「手水舎」



「松平八代墓(岡崎市指定文化財)」









昭和44年、岡崎市民が家康の徳を顕彰して遺品を納めて墓と碑を建立した



元和元年(1615)家康は先祖松平八代廟所を寺内に建立した
元和三年には家康の一周忌が営まれ、現在の墓の姿が整ったとされる






「本堂(愛知県指定文化財)」
安政4年建立、屋根入母屋造、本瓦葺、前面に1間の向拝がついている



永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元討死の報を聞いた松平元康(徳川家康)は、追手を逃れて手勢18名とともに当寺に逃げ込んだ
絶望した元康は、先祖の松平八代墓前で自害して果てる決意を固め、第13代住職登誉天室に告げた



しかし登誉は問答の末「厭離穢土 欣求浄土」の教えを説いて諭した
これによって元康は、生き延びて天下を平定し、平和な世を築く決意を固めたという



「厭離穢土 欣求浄土(えんりえど ごんぐじょうど)」
「穢れたこの世を厭い離れたいと願い、心から欣んで平和な極楽浄土をこい願う」という意味



家康の遺言
1. 遺体は駿府城の近くの久能山に納めること
2. 葬儀は江戸の増上寺で行うこと
3. 位牌は三河の大樹寺に建てること
4. 一周忌を過ぎたあとに、日光に「小さな」堂を建てて、関東の鎮守として勧請するように

「木造阿弥陀如来坐像(愛知県指定文化財)」



平安末期、寄木造、彫目、像高140cm、安政の火災後、京都泉湧寺から迎えられた



欄間の彫刻



浄土宗開祖「法然上人像」



「弘法大師(空海)像」



最後に重文の「多宝塔」



撮影 令和2年9月12日
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滝山東照宮(愛知県岡崎市滝町山籠)

2020年10月16日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月12日

滝山東照宮
東照宮のある岡崎市には以前訪れたことがある
自宅に戻って調べているうちに「三大東照宮」の一つを見逃したことに悔いが残っていた

鳥居(重要文化財)



「瀧山東照宮」の額



境内の一番高い場所に白いシートで覆われた建物があった
実際は「日吉山王社」だったのだが、社殿の修復だと勝手に思い込み、落胆し帰ろうと階段を降り始めた



鳥居だけでは寂しいと思い戻ることにした
思い込みというのは恐ろしいもので、案内板を見ても目の前にある建物が社殿と認識していない



水屋(重要文化財)



拝殿(重要文化財)
正保元年(1644年)徳川家光は家康が生まれた岡崎城の近くにも東照宮を観請したいと考え、酒井忠勝、松平正綱らに命じてその場所の選定を行わせた



古跡であり家康もよく訪れていた「滝山寺」に観請するのが良いということになり、正保3年(1646年)9月17日に創建された



創建以来、滝山寺が別当職を兼務してきた
明治の神仏分離により、滝山寺の運営から独立して独自の神官が選任された






拝殿・幣殿・本殿(重要文化財)
未だ東照宮の社殿ではないと思って撮っていた



その夜、旅日記を投稿するときに参考にネットで検索し写真を見た時に撮っていたのが社殿だと知り愕然とした
今回、写真の枚数が少ないのはそういった理由からだが数枚でも撮っておいてよかった思っている(笑)



三大東照宮の他の二つは「日光東照宮と久能山東照宮」でどちらも凄い
滝山東照宮は二つと比較すると、あまりにも規模が違うので間違うきっかけとなった
東照宮巡りも良いなと思っていたが調べると全国に約130社もあるという(無理)

撮影 令和2年9月12日
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吉祥陀羅尼山 薬樹王院 瀧山寺(愛知県岡崎市滝町山籠)

2020年10月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月12日

吉祥陀羅尼山 薬樹王院 瀧山寺
「滝山東照宮」を目指してきたのだが、迷いながらも着いたのが「瀧山寺」の駐車場だった
駐車場を使用している関係で寺門から中に入り「宝物殿」に向かった



瀧山寺縁起によれば、朱鳥元年(686年)役行者が青木川の滝壺から薬師如来を拾い上げ、安置するために「吉祥寺」という一堂を建てたのに始まる



保安年間(1120〜24年)仏泉上人永救が、仏法興隆のためこの地に来住
荒廃した吉祥寺跡に物部氏の外護により本堂を造営した
境内には360もの寺院が建立され、官府の命によって寺名を「瀧山寺」と改めた



江戸時代には「青龍院・玉泉院・常心院・浄蓮院・観量院・密厳院」の六坊があった
現在「浄蓮院」のみが瀧山寺本坊として残っている



「宝物殿」
源頼朝の従兄弟にあたる寛伝上人は瀧山寺僧侶となり、縁故から頼朝の厚い信仰を得た
頼朝公没後には、菩提のため正治3年(1201年)頼朝公の3回忌にあたるこの年に惣持禅院を創建
本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩・梵天・帝釈天の三尊像を仏師、運慶・湛慶父子が造立した

宝物殿では、住職自ら説明してくれるのだが話の内容が実に面白い
運慶・湛慶父子作の重要文化財の聖観世音菩薩立像の説明には引き込まれてしまう



石碑「一隅を照らす此れ則ち国宝なり」
本堂へ向かう。石碑の右側にある(長く辛い)階段を上ることになる



案内板によると、重文の「三門」もあるが別の長く辛い階段を昇降することになる
急に膝に痛みを感じたので止めることにした



本堂(重要文化財)
貞応2年(1223年)には足利義氏が本堂立替を援助、泰氏・頼氏・家時・貞氏の歴代も所領や仏具を寄進
瀧山寺は足利氏の準菩提寺となっていった
室町時代には三代将軍義満の援助により本堂が造営された
現本堂は様式的に見て14世紀後半頃の建立と考えられている



江戸時代、比叡山天海僧正の命により住職となって入寺した亮盛上人は三代将軍家光に見いだされる
寛永18年(1641年)家光より朱印地を拝領
正保3年(1646年)には、家康誕生の地の守護である瀧山寺隣地に東照宮が設立された



冒頭に「滝山東照宮」を目指してきたのだが、ナビが案内したのが「瀧山寺」だったという理由がわかった
写真右側に「東照宮」の鳥居が写っている



外陣、内陣の間を格子で仕切る密教系の本堂
現在調査中ではあるが、堂内の仏像が「運慶・湛慶父子」作なら大変な事になると住職が話してくれたので堂内に入ってみる



「本尊 薬師如来座像」
肉眼では暗くてよく見えないがレンズを通すと内陣の様子がよく分かる
秘仏で50年に一度ご開帳と宝物殿で頂いた資料に記されているが、写真を見るとこの写真の仏像と同じだ



「日光菩薩」



「月光菩薩と十二神将」
堂内の仏像が「運慶・湛慶父子作なら左うちわだ」と冗談を交え話してくれた住職の笑顔が忘れられない
近いうちに結論が出るらしいが良い結果になることを願う



「毘沙門天立像」



「賓頭盧尊者」



「梵鐘」
瀧山寺は、寛文10年(1671年)と元禄10年(1697年)に徳川将軍家により修復を受けた
元禄10年時の集群綱吉による修復を跡づけるものが本品



銘文に「大檀主征夷大将軍源綱吉公」



パンフレット記載の伝教大師(最澄)遺言を最後に
 恨みをもって 恨みに報いれば 恨み止まず
 徳をもって 恨みに報いれば 恨み即ち尽く



撮影 令和2年9月12日
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