今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

龍護山 千光寺(福岡県久留米市山本町豊田)

2019年12月27日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年6月3日

龍護山 千光寺
車中泊した道の駅「くるめ」で得た情報でこの寺の存在を知った
「アジサイ寺」と呼ばれているらしい
寺でなぜ入園料なのか疑問に思ったが、後になって納得した



建久3年(1192年)に栄西が創建
日本最古の禅寺であるとの記載がある
気軽な気持ちで立ち寄ったが、凄い歴史を持つ寺院であることに驚いた



鐘楼






梵鐘(福岡県指定有形文化財)



祠の中の石仏









「文殊菩薩」



「水子地蔵尊」



本堂にはこの玄関から入ることになる



額の「欲少」 慎ましい生き方でも満足出来る=心の豊かさ=には程遠い私である



堂内には陶地蔵と住職が描かれたと思われるユニークな仏画が展示されている






本堂内の様子
























外に出る



一風変わった建物だが何だろう









祠が二つ並んでいる



右側には「弁財天」が祀られている



途中で話を交わしたが、地元テレビ局の女性だということがわかった
一人で取材しカメラを回している。決して楽な仕事ではないはずだ



この「あじさい園」には約7,000株のアジサイがあるとのこと
























ここから急に殺風景な写真に変わる









「○……○御陵墓」と微かに読めるがそれ以外は判別不能



寺の歴史から想像すると名を残した人が眠っているのだろう












ここから本堂の屋根が見える。






一番高い場所にある「征西将軍宮 懐良親王廟」が見えてきた






懐良親王(かねよししんのう)御陵墓
この寺院で一番神聖な区域と思っていたら……



何も手入れがなされていない感じさえした



陵墓前にある巨木も怒っているように見える



汗だくになりながら階段を下りる






歴史のある案内板もこれでは役割を果たしていないかな(笑)



本堂に戻る



これまで花など撮る機会はほとんどなかったが、撮っているうちに夢中になっている自分がいた



撮影 令和元年6月3日
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佐賀競馬場(佐賀県鳥栖市江島町字西谷)

2019年12月26日 | 競馬場・競輪場・競艇場
訪問日 令和元年6月2日

佐賀競馬場
九州に渡ろうと考えた時から、佐賀競馬場の開催日程を調べていた
北海道を離れて車中泊の旅もちょうど3週間、遊びとはいえ心身の疲れに加え懐具合も悪くなる時期である



全国の中央競馬・地方競馬巡りも私の旅の目的の一つである
前日、競馬場前の道路を通過し駐車場を確認したところ満車に近い状態で、この日は早めに行動した



門が開いていたので中に入り写真を撮る。コースもスタンドも立派で驚いた
忘れ物をしたので車に戻ろうとすると、入り口で警備員に呼び止められた



「勝手に入られたら困る」との内容だった
客が誰もいないと思っていたら開門前らしく謝罪して車に戻った
開門時間まで2時間以上もあることを知らされ、写真の整理と車内の清掃をすることにした



コーヒーを飲みながらボッとしていると開門時間になった
それでも発走までまだ1時間もある。高揚していた気持ちがだんだん薄らいでいく



入場料は100円。券を購入するのではなく、入場ゲートに現金を入れるというシンプルなものだ
目の前では若者3人がポーズをとって記念写真を撮っている
競馬は楽しいものだという始めた頃の自分を思い出した



場内を歩きながらパドックの場所などの確認を行う
後で知ったが、佐賀競馬の開催は土・日で中央競馬(JAR)の全レースに加え、何とこの日は北海道帯広競馬場の「ばんえい競馬」のレース中継と馬券の販売も行っていた



パドックに移動する。旅先では競馬新聞を購入せず「パドックと返し馬」で馬券を購入している



中央競馬の力強く美しい競走馬に比較すると見劣りはするが、予想する方としては楽しい



第1レース 軸馬は予想通りだったがヒモが馬券に絡まず外れ
佐賀競馬にも岩永千明という応援したくなるような女性騎手が在籍している



第2レースのパドックへ。電光ではなく馬名が手書きの掲示板。地方競馬らしい



スタンドの観客も増え始めてきた
九州では熊本県に荒尾競馬場があったが廃場となり、地方競馬場は佐賀だけになった



方言を聞きながらの競馬は実に楽しい
「競馬好きの馬券下手」懐具合は一層厳しくなったが、良い思い出となった



撮影 令和元年6月2日
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国営吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手)

2019年12月25日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年6月1日

特別史跡 国営吉野ヶ里歴史公園
私が最後に勤めていた職場では退職者の希望を優先し旅をする習慣がある
私の退職時、九州旅行と、ここ「吉野ヶ里遺跡」を希望した



その後、訪れる機会はあったが叶わず、今回が2回目になる



以前との違いは年齢を重ね、半額以下のシルバー料金となったことだ



逆茂木(乱杭)
米作りが盛んになるにつれて、水や土地を奪い合う争いが起こるようになった



自分たちの集落を守るため、集落の入り口など特に重要な区域には、尖った木の枝や幹でバリケードを築き厳重に守っていた






巧く作っている



順路に従い「南内郭」から歩き始める



南の守り
南門の「守り」には、正門と脇門があり兵士が待機



「正門」は監視を厳重にするため、楼門になっている



櫓門
櫓の四方に盾が置かれ、出入りする人を見張っている



物見櫓









ここの物見櫓には階段があり、上に上がることができる



上からの景色






およそ50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡
この写真からもその規模が理解できると思う






「大人(だいじん)」の妻の家
軍事や土木工事を取り仕切る「大人」の妻の家



中では母親が櫛で娘の髪をといている



「大人(だいじん)」の家
軍事や土木工事を取り仕切る「大人」の家族の家






中では、道具の出来具合を見ている



「王」の家
「王」と家族が暮らしている家



屋根の形が違っている



王と妻






王の力を示す品々が枕もとに置かれている



煮炊屋
食事を作る建物



ここで作られた食事は王や大人たちの家へと運ばれる



集会の館
王や大人たちが集まり、儀式や話し合いをする建物






「北内郭」の方へ移動する



「北内郭」(王の宮殿)
吉野ヶ里のまつりごとを司る最重要区域



田植えや稲刈りの日取り、戦いや狩りの祈りなど、重要な事柄は全てここで決定された



当時は、指導者たちだけが出入りできた神聖かつ特別な場所であった



主祭殿
最上階(高さ約16m)は最重要施設
最高司祭者(巫女)が祖先の霊に祈りを捧げる儀式などが執り行われていた



個人的な考えであるが、私はこの人物こそが「卑弥呼」だと思っている



斎堂
まつりのときに身を清めたり、まつりの儀式に使う道具などが置かれていた






高床住居
ほぼ正方形に近い形をしていることから、吉野ヶ里の最高司祭者の住まいだと考えられている



最高司祭者(巫女)は一般の人々の前には姿を現さなかった
ここはまさしくプライベートな空間だったと思われる



東祭殿
夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ線上にあることから、季節ごとのまつりの儀式が行われた施設と考えられている



織物の倉
祭りや儀式で使われる織物や衣類を収める倉



甕棺(かめかん)墓列
甕棺は棺おけのことで、弥生時代の北部九州だけに見られる



盛り上がった部分に甕棺が置かれている






祠堂
歴代の王の祖霊へお供えを捧げ、お祈りをする建物



北墳丘墓(2100年前の王の威光)



吉野ヶ里集落の歴代の王のものだと考えられている
遺構面と甕棺は本物を展示している



北墳丘墓では、大型甕棺を二個合わせて、そこに大人の遺体をおさめるという葬法を用いられた棺が14基出土している
組み合わされた甕棺の大きさは約2m



公園内を走るバスなども利用できるが、徒歩で戻ることにする






小学生の集団がガイドの話を熱心に聞き学んでいる



柱の近くに成人男性が立っている。比較すると、この建物が巨大であるということがわかる






日差しが強く、帰り際になって若い女性が被っている笠がいいなと思った



出口に着いた。歩きすぎたのか疲労困憊気味。入場する女性の手にも笠



歴史公園センター東口で水分補給をし暫時休憩



撮影 令和元年6月1日
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屏風山 鎮国寺(福岡県宗像市吉田)

2019年12月24日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年6月1日

屏風山 鎮国寺
道の駅「むなかた館」に置かれていたパンフによりこの寺の存在を知った
境内には多様な花木が植えられており、「花の寺」とも呼ばれている

金剛力士像
いつもは苦労して撮るのだが、障害物もなく楽だ






足下にオモシロイ注意書き。これだけでこの寺が好きになった



本堂前に数人の参拝者がいたので周辺を歩く
目の前に見知らぬ顔の石像が置かれている



「武丸正助像」 江戸前中期頃の宗像武丸の農民で、道徳生活を遵守した真摯な他力本願念仏の実践者で、浄土真宗で「妙好人」(在俗篤信者)と称された



像の鞍は、牛馬への愛情から自らかつぎゲタとゾウリは、雨を予想する父と晴れると思う母の言い分を聞き、片方ずつはいた姿だという



手水舎






文殊堂









「ぼけ封じいきいき観音」









次は小さなお堂(名称不明)



堂内の仏様










大師堂



「弘法大師像」



「薬師如来像」



「木食上人像」






本堂(五仏堂・本地堂)
慶安3年(1650)藩主黒田忠之により再建された
建立当時は瓦葺き、のち茅葺きに変わり、昭和54年の解体修理のときに銅板葺きとなった



堂内に入るとそこには驚くべき光景が



昔は「宗像大社」の神宮寺であった
右から「如意輪観世音菩薩」 織幡(明神の本地仏。伝教大師によって奉安されたと伝えられている
「釈迦如来」(伝弘法大師作)は中津宮・湍津姫神(たぎつひめのかみ)の本地仏



中央に「大日如来」(伝弘法大師作)、沖津宮・田心姫神(たごりひめのかみ)の本地仏



右に「薬師如来」 辺津宮・市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)の本地仏
「阿弥陀如来」 許斐(このみ)権現の本地仏。定朝仏師が奉安されたと伝えられている



五体の仏像は福岡県指定文化財
そのなかでも、「大日如来」の美しさは際だっている



妖艶な感じがする如意輪観音は、私の好きな仏像の一つ



護摩堂
空海は遣唐使船で入唐の際、大暴風雨に遭遇。危難を救わんが為、海の守護神宗像大神をはじめ諸仏菩薩に祈誓を込められたところ、波間に不動明王が現れた
般若の利剣で波を左右に振り払うと、荒れ狂う風波は瞬く間に静まり、無事唐土に着くことが出来た



大同元年(806)に帰朝した空海は、まず宗像大社に礼参
「この地こそは鎮護国家の根本道場たるべき霊地」と一宇を建立し、屏風山鎮国寺と号されたという
4月28日のみ開帳される秘仏の「木造不動明王立像(重要文化財)」が安置されている



護摩堂前には、私好みのモノ「ふくろう(不苦労)」が



「栄かえる」






「水子地蔵」






「聖観音」









撮影 令和元年6月1日
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宗像大社(福岡県宗像市田島)

2019年12月23日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年5月31日
関門トンネルを抜けて九州に入る。

世界遺産 宗像大社
宗像大社は、沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮(総社)の三社の総称
「神宿る島」沖ノ島は、古来より島に立ち入り見聞きした事を口外してはならず「お不言さま(おいわずさま)」と呼ばれ、島全体が御神体になっている
今回、訪れたのは、宗像市の「辺津宮(総社)」である

祈祷殿
800台収容できるという駐車場から視界に入る近代的な建物である
最初、祈祷殿を拝殿・本殿と思いこみ、期待していたものとは違っていたため、がっかりして駐車場でしばらく過ごす



参拝せず、トイレに寄ってから帰ろう歩いていると境内絵図があり、鳥居も見えてきた
急ぎ、カメラを取りに車に戻った



(上部が薄くて判別できないが)社号標には「官幣大社宗像神社」と彫られている






鳥居



太鼓橋



下にある池には参拝者が通ると、餌を待つ鯉が口を開けて群がってくる



鳥居から真っ直ぐ伸びた参道。綺麗に整備されている



史跡 宗像大社境内



神門









狛犬






手水舎






祓舎



拝殿(重要文化財)



天正18年(1590年)、時の筑前領主・小早川隆景が再建
切妻妻入造で屋根は柿葺



「宗像宮」の額



「神勅額」
神勅とは『古事記』『日本書紀』に記述されている天照大神の勅命
「筑紫の国に降り、沖津宮・中津宮・辺津宮に鎮まりなさい
そして歴代天皇のまつりごとを助け、丁重な祭祀を受けられよ」







本殿(重要文化財)



市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)を祀る



天正6年(1578年)に大宮司宗像氏貞が再建。 柿葺の流麗な屋根



五間社流造の建物で、安土桃山時代初期の特色をよく表している



儀式殿
靖国神社より移築された建物
皇族の行在所として使用された一室を含む由緒ある建造物



「御神木」









拝殿・本殿(重文)



末社









「高宮参道」 この時はこの先に何があるのか分かっていなかった



「神木 相生の樫」






第二宮(ていにぐう)



沖津宮の田心姫神(たごりひめのかみ)を祀る



伊勢神宮の第60回式年遷宮(昭和48年)に際し、特別に下賜された別宮の古殿を移築再建したもの



第三宮(ていさんぐう)






中津宮の湍津姫神(たぎつひめのかみ)を祀る



高宮祭場を目指す。高宮というだけあり、長い階段を上がることになる



上には祠があったが、ここではなさそうだ



おみくじの色が緑色だ。初めて見たような気がするが、周囲の緑と合って違和感がない



「高宮割符」 割符というのも初めて見た






高宮祭場
宗像大神「降臨の地」として、沖ノ島と並び宗像大社境内で最も神聖な場所









沖ノ島と並び我が国の祈りの原形を今に伝える全国でも数少ない古代祭場



現在も春と秋の大祭他、庭上祭祀が行われている



宗像三女神のうち、長女神(沖ノ島)と次女神(大島)は遙か玄界灘洋上に鎮座
往古より総社である当地・辺津宮(へつぐう)を第一宮(ていいちぐう)と称し、その境内地に両宮の分霊をお祀りしていた
第二宮と第三宮まで詣でれば沖津宮と中津宮まで、つまり宗像三宮を拝したと信仰されてきた



神宝館
玄界灘に浮かぶ絶海の孤島・沖ノ島の20数箇所の祭祀遺跡から発掘された一括遺物8万点が国宝に指定されている






境内を歩くだけでも時間を要するが、展示物の多さにも驚く。時間の余裕が必要だ



「三笠宮殿下応制歌歌碑」






絵馬堂






再び、拝殿・本殿(重文)



宗像大社は、またの名前を「道主貴(みちぬしのむち)」という
「貴(むち)」とは最も高貴な神に贈られる尊称で、「日本書紀」には宗像三女神が「道主貴」、すなわち国民のあらゆる道を導くという最も尊い神として崇敬を受けたことが記されている
道主貴(宗像三女神)以外には、伊勢神宮の大日靈貴(おおひるめのむち)(天照大神)、出雲大社の大己貴(おおなむち)(大国主命)のみ









道路沿いに大きな鳥居があることを忘れていた



撮影 令和元年5月31日
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角島大橋・角島灯台(山口県下関市豊北町神田)

2019年12月20日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年5月30日

角島大橋・角島灯台
退職後にキャンピングカーを購入し、最初の旅で山口県に住む学生時代の友人に案内されたのが始まりである



自然の美しさにはあまり興味がない私だが、案内された「青海島と角島」はトリハダものであった



特に「角島大橋」の約2kmの距離は運転をしていて極めて楽しい時間となる



6年間で4回目になるので、かなり気に入っている場所になる



人気スポットのためか駐車場はいつもいっぱいで観光客で賑わっている



横断歩道通行中に撮ったものである



橋の左側にある展望台に移動する



晴れてはいるがいつもと違い青空がない
干潮の時間帯に訪れたのも初めてとなる



角島大橋からゆっくり周囲の景色を楽しみながら10分ほど走ると「角島灯台」に着く



灯台付近から若者たちの甲高い声が聞こえていたので、海の方へ向かうことにした



海岸近くにヨットが…… この時は優雅な遊びでいいなと海を眺めていた






このヨットだがどうも様子がおかしい。舵の部分が岩に乗り上げているようだ



遠くには海上保安庁の巡視船が停泊している



今朝、道の駅「センザキッチン」のある港で出港準備をしていた船だろうか



浜辺を歩いていると漂流物の多くはやっかいな国からのモノ
海保や自衛隊のおかげで安全に旅ができていることに感謝したい



周辺に観光客がいなくなると危機回避のため人影が動き出す
無風で帆も動かない、満潮を待つしかない感じがする



爽やかな若者の集団が来たので声を掛けてみた
愛知県から来た修学旅行の高校生だった



久し振りに高校生と話をし、数年前まで高校教師をしていたことを思い出した



いつの間にか青空が見えてきた。灯台には青空がよく似合う






この灯台はジュース代程度で上ることができるので高校生に人気なようだ






撮影 令和元年5月30日
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龍伏山 天請寺 二尊院(山口県長門市油谷向津具下)

2019年12月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年5月30日

龍伏山 天請寺 二尊院
「楊貴妃の墓がある」という二尊院に(本当なのかという)興味を持ち車を走らせた
途中、「むかつく」というお店か何かの看板があり車を止めたが、この地域の地名「向津具」だということが後になって分かった



民家に許可を得て車を置かせてもらったが、階段を上ってきたこの場所の近くに大きな駐車場があった



手水鉢



本堂
堂内では祈祷が行われていたので周辺を散策する






大同2年(807)創建の古刹、最澄の開基という
これだけでも楊貴妃伝説の真実味が増す



「宝篋印塔」









少し離れた場所に「楊貴妃の墓」がある






二尊院 五輪塔(山口県指定有形文化財)



これが「楊貴妃の墓」といわれている












「盃状穴」






艶めかしい「楊貴妃の絵馬」



本堂の方へ戻る



作品「双葉」






「楊貴妃像」
二尊院に2冊の古文書が残されている
今から約230年前(1766年)当時の二尊院福林坊55世住職恵学和尚が、この地に伝わる話を古老から聞き取り書きとめたもの




日本で云えば奈良朝の昔、唐の国では天宝15年(756年)7月のこと。向津具半島の岬の西側に唐渡口という所に空艫舟(うつろぶね)が流れ着いた
舟の中には、長い漂流でやつれていたが、たいそう気品のある美しい女人が横たわっていた




お側の侍女が申すに「このお方は唐の天子、玄宗皇帝の愛妃楊貴妃と申される
安禄山の反乱により処刑されるところを、近衛隊長が密かに命を助け、この舟で逃れさせ、ここまで流れ着きました。」と涙ながらに云った




息も絶え絶えの楊貴妃を里人たちは手厚く看護したが、そのかいもなく間もなく息を引き取った
そこで里人たちは、西の海が見える久津の丘の上にに葬ったという
それが今、二尊院の境内にある楊貴妃の墓と伝えられている五輪の塔だという




玄宗皇帝は白馬将軍陳安を日本へ遣わし、楊貴妃の霊を弔らうために秘蔵の霊仏阿弥陀如来と釈迦如来の2体の仏様と十三重の大宝塔を持たせた
日本についた陳安は、楊貴妃の漂流地を探し歩いたが、何処の浜か、何処の浦かどうしても分からないので京都の清涼寺へ預け帰国した




朝廷は楊貴妃の墓が長門の国、天請寺にあることを知り、二尊仏を移すように命じた
ところが清涼寺では霊験あらたかな仏様を手放したくないので、このまま京都に置いておくように朝廷に嘆願した
困った朝廷では仏工の名手、天照春日に命じ、そっくりの2体の仏様を造らせた
阿弥陀如来と釈迦如来を本尊としたので「二尊院と名乗り、天下太平・五穀豊饒の祈願怠りなく奉るべし」との勅命を賜った<長門市HPから掲載>




阿弥陀如来・釈迦如来(重要文化財)



「一願地蔵尊」






参拝時には歴史的背景も知らずにいたが調べてみると実に面白く、夢のある寺院であった



撮影 令和元年5月30日
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金子みすゞ記念館(山口県長門市仙崎)

2019年12月18日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和元年5月30日
道の駅「センザキッチン」で「今日で3回目ですね」と旅人に声を掛けられた
鳥取県・島根県の道の駅でも一緒だったらしい
30分ほど旅について話をした。その後温泉施設でも一緒になった(笑)

金子みすゞ記念館
以前この地を訪れた時、山口県に住む友人から「金子みすゞ記念館」を勧められた



その時は興味がないと断ったが、頭の片隅に申し訳ないという気持ちがあったので、この日は自分の意思で訪ねることにした



金子みすゞについては、全く知識が無かった



受付の女性に北海道から来たというと、行ってみたい土地だということで話が弾み楽しい時間となった



この建物は金子みすゞの実家で書籍や文具の販売をしていた






2階に上がる。裕福な家庭に育ったようだ



所々に作品の一部が展示されている



金子みすゞの部屋
金子みすゞは、明治36年現在の長門市仙崎に生まれた
成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったという



童謡を書き始めたのは、20歳の頃
『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていった



23歳で結婚したが、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、離婚と苦しみが続いた



ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去った。(HPから掲載)



1階に下りる


















「金子みすゞ記念館」に入る
普段はあまり説明文など読まないのだが、今回は時間をかけて2度も読んでしまった
才能はあるが薄倖な女性に弱い自分を発見した



売店で童話集一冊を購入
道の駅では日本酒「みすゞ」を飲み仲間である国語教師のお土産に購入した



撮影 令和元年5月30日
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護国山 東光寺(山口県萩市大字椿東字椎原)

2019年12月17日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年5月29日

護国山 東光寺
元禄4年(1691年)萩藩3代藩主毛利吉就が建立
吉就は黄檗宗に帰依して、本山黄檗万福寺に範を求めて広壮な堂を建立
萩出身の高僧・慧極道明禅師を開山に迎えた
吉就の死後、ここを墓所とし毛利氏の菩提寺となった

総門(重要文化財)
三間二戸八脚門、一重切妻造段違本瓦葺きで、棟の端には鯱の代わりに摩伽羅を飾る、中央持ち上げの棟式屋根は黄檗風の様式



総門正面には慧極筆の「護国山」の額。「元禄癸酉六年孟春吉日(西暦1693年)」と年期が記されている



「乳鋲(ちびょう)」 寺院の門の扉などに打ちつけてあるオッパイのような金具



門をくぐると右手に受付所がある









参道を真っ直ぐ進むと大きな三門が見えてくる



三門(重要文化財)
この門は、東光寺が創建されて121年後の文化9年(1812年)に竣工した。藩主毛利斉熙が寄進した



桁行11.6m、梁間6.7mの三間三戸(柱間が三つ、戸口が三つ)の二階二重門。入母屋造り本瓦葺き



「最勝閣」の額は当山15世大愚衍操禅師によるもの
2階には十八羅漢等が安置されている



「解脱門」の額は即非禅師によるもの



緑の参道は歩いていても気持ちのいいものだ



仙台藩伊達家の両足山大年寺、鳥取藩池田家の龍峯山興禅寺と並んで黄檗宗三大叢林のひとつ



鐘楼(重要文化財)
黄檗宗特有の一重裳階付きの素木造二層式の建物
屋根は入母屋造りで上層部は本瓦葺き



鐘楼の上層には大鐘の外に大太鼓もあり、鼓楼も兼ねている



(植物には興味がないが)小枝の赤色が気になって撮ったことを思い出した



大雄宝殿(重要文化財)
黄檗宗では本堂を大雄宝殿と呼ぶ。「お釈迦様のいらっしゃる所」という意味
元禄11年(1698年)12月に竣工。一重裳階付き、入母屋造、本瓦葺き



大雄宝殿前には、行事や法要の時など堂内に入りきれない人々の為に月台という広場が設けられている
その中央の大きな石を梵壇石といい、戒律を破った僧が懺悔のため坐らされたという









堂内に入る
須彌壇上に長寿院夫人(開基毛利吉就公夫人)の寄付による……



本尊の「釈迦如来、脇士迦葉尊者、阿難尊者」の三尊仏が安置されている



実際の堂内は肉眼では暗くて見えない。文明の利器(カメラと画像処理ソフト)により何とかここまで……






「鬼瓦」 現存する創建当時の鬼瓦として貴重
NHK大河ドラマ「太閤記」放映時のタイトルバックに使用された



史跡 毛利氏廟所



萩藩主3代毛利吉就、5代吉元、7代重就、9代斉房、11代斉元の奇数代の藩主の5基と、それぞれの夫人の合計10基の他、側室など近親者20余基がある



廟所入り口。慧極禅師の書「無塵勝地(塵無き優れた地)」の額



入口の門より墓碑に到る参道の設計や仕切り石の捉え方などに、黄金分割や遠近法が巧みに用いられ、その荘厳美を見事に演出している



なお初代秀就と偶数代の藩主は萩市の大照院に廟所がある
秀就の父・輝元の廟所は萩市の天樹院跡にある



東光寺開基の3代藩主毛利吉就と夫人の墓












各藩主の業績が記されている



墓所には重臣諸家の献上した石灯籠500基が並んでいる






斎堂(食堂)前に吊されている開梛(かいぱん)は、時を報ずるための魚板



木魚の原形となった






東光寺から500mほど離れた場所に松陰の墓がある



久坂玄瑞の墓(禁門の変にて短い生涯を終えた英傑)



高杉晋作の墓(辞世の句「おもしろき こともなき世を おもしろく」)



吉田松陰の墓



「吉田松陰先生銅像」



題字は当時の佐藤栄作首相






撮影 令和元年5月29日
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松陰神社・松下村塾(山口県萩市椿東)

2019年12月16日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年5月29日

松陰神社・松下村塾
数年前の「萩・津和野巡り」以来、萩市は二度目の訪問になる
その後、大河ドラマもあり賑わいを避けての再訪



由緒を読むが拝殿に着くまでには忘れてしまう



石碑「明治維新胎動之地」
昭和43年(1968)、明治維新100年を記念して建立。揮毫は故佐藤栄作元首相



石碑「親思ふ・・・」
松陰が安政6年(1859)家族に宛てた遺書の中で詠われた有名な和歌が彫られている






世界遺産・史跡 松下村塾
平成27年7月5日、ユネスコの世界文化遺産に登録



松陰が安政4年(1857)年主宰した私塾



ここで、明治維新を成し遂げた、数多くの人材が育った
品川弥二郎の写真に変な人物が写っている……






当時からこの位置に建っていた



“自立学習”故に、わずか2年で多くの人材が育ったと想像する



学問は須(すべか)らく己が真骨頭(しんこっとう)を求得し、然(しか)る後工夫を著(つ)くべし
学問をするには、自分の特質をしっかり見きわめ、それを生かし育てることが大切である
それをふまえて、何をどう学ぶかを工夫すべきである




世界遺産・史跡 吉田松陰幽囚ノ旧宅









安政2年(1955)12月、萩城下の野山獄より出牢した松陰は、この邸内の3畳半の1室に幽囚される



「三余読書 七生滅賊」(木原松桂書)を幽囚室に掛けていた



ここで家族などに対して講義を行われ、これがやがて松下村塾の教育に発展していく



松陰神社本社



1890年(明治23年)、松陰の実家・杉家の邸内に小祠を建て、松陰の遺言により愛用していた赤間硯と松陰の書簡とを神体として祀ったのが当社の創建



1907年(明治40年)、伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、萩城内にあった鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造りの本殿に付し、同時に県社に列格した



手水舎



拝殿






末社 松門神社



松陰の塾生・門下生を御祭神として昭和31年(1956)に創建された









平成30年12月、境内北参道を「学びの道」と名して……



吉田松陰の語録(ことば)を、明治維新150年を記念して、25基のポール仕立てで設置した



「孝行竹」






撮影 令和元年5月29日
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補蛇山 大覺寺(山口県阿武郡阿武町奈古)

2019年12月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年5月29日

補蛇山 大覺寺
尼子義久の墓があるということで訪れたが、この武将については全く知識がない
駐車場が見当たらなかったので、近くのホームセンターの駐車場に車を駐めた



山門近くにある石仏



山門
山門には、「曹洞宗 補蛇山 大覺寺」の札



左右の祠に安置されている石仏









緑に囲まれた参道を歩く






階段を上がると本堂が見えてくる



本堂






位牌堂



周辺に安置されている石仏






風雨により石仏も風化して形を変えている



山口県指定天然記念物 ビャクシン巨樹






写真を撮っていると住職から声をかけられ、本堂内に入る許可をいただいた
扁額には寺号の「大覺寺」



堂内の様子



平山郁夫氏とどのような縁があったのだろうか
法起寺の塔もしばらく見ていない



「涅槃図」



「達磨大師」






「開基 尼子義久公」
尼子義久が永禄9年(1566)に毛利氏の軍門に降り、 安芸長田の円明寺に幽閉される
関ヶ原敗戦(1600)後、許されて一族がこの奈古の地に移る
慶長15年(1610)に義久は没し、義久の法号(大覺寺殿大圓心覺大居士)により、 寺号は大覚寺と改められた
























天然記念物のビャクシンと位牌堂






観音堂






尼子義久公の墓



観音堂奥の小高い場所にある。前年秋の台風の影響か足元が悪かった









尼子氏の家紋「平四つ目結(めゆい)」



小高い場所にある墓から下りてくる






緑に囲まれ綺麗に清掃されている境内は本当に気持ちがいい



撮影 令和元年5月29日
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須佐ホルンフェルス (山口県萩市須佐高山北海岸)

2019年12月14日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年5月29日

名勝 天然記念物 須佐ホルンフェルス
朝、道の駅で訪問先の予定を立てているとき、初めて見た横文字が気になり訪れることにした
「ホルンフェルス」とは何だろう……



駐車場の案内板を見てボンヤリだが見当がついた



海を眺めながら、遊歩道を歩くことになる



海側は崖になっているが柵により安全は確保されている



人の姿が見えているので、この場所が目的地のようだ






来た道を振り返ると、駐車場のあるハウスが見える



近づいてきた。高所恐怖症なので少し嫌な感じがしてきた



壁面にペンキを塗ったような岩が見えてきた



頭に浮かんできたのが北海道銘菓の「三方六」(柳月)
北海道住民の多くは理解できると思う



大岩の端にいる男性が飛び込むのではないかと不安になる



「ホルンフェルス」の語源はドイツ語で「角の岩」の意味で、硬く緻密な組織をもち、割るとガラスのように角ばって割れることから名付けられた



須佐ホルンフェルスは、高山斑れい岩等が長径3kmの岩株状岩体として露出している地形全体を指す
その一部である畳岩が観光地として有名なことから、特にこの畳岩を指して須佐ホルンフェルスと紹介している



大きな波を待っていたが、この日はこの程度
(ittokusanflyさん)のYouTube「須佐ホルンフェルスと打ち寄せる白波-ドローン空撮-」






須佐ホルンフェルス大断崖に魅了され、この男性の存在を忘れていた
この場に来てみるとのんびり海を眺めている気持ちが理解できる






足下に目を向けてみよう。ナイフで切ったように岩が割れている



ヒッチコックや横溝正史のように時々画面に登場する(笑)









自然の美しさを見てもあまり感動しない私だが、ここは凄いと思った



来た道を引き返す






遊歩道ですれ違ったグループの声が遠くから聞こえてくる



撮影 令和元年5月29日
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湧出山 西堂寺(山口県萩市大字江崎)

2019年12月13日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年5月29日

湧出山 西堂寺
朝から天気に恵まれた。初めて訪れる西堂寺、駐車場を探し民家の狭い道をさまよったが、少し離れた道路沿いにあった
風光明媚な場所にある寺院だ



仁王門



何処からやってきたのか小さな犬が尻尾を振って迎えてくれた



扁額には寺号の「西堂寺」の文字が輝いている。曹洞宗寺院



仁王像
湾内にある寺のため塩がガラスにこびりついていて、ピントが合わない






仁王門から境内を眺めると四方海に囲まれていることが理解できる



本堂
応永年間(1394~1428)に創建された曹洞宗の寺院で、当時は、済度寺といわれていたが、後に西堂寺と称されるようになった
大内から毛利の時代にかけて祈願所として世の信仰があつく、海の中の寺「浮島西堂寺」とも呼ばれ、広くその名を知られている



西堂寺六角堂(山口県指定有形文化財)












海に落ちそうになるキリギリの場所から撮る






「寿楽観音像」









撮影 令和元年5月29日
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亀甲山 無量院 初午観音 多陀寺(島根県浜田市生湯町)

2019年12月12日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年5月28日

亀甲山 無量院 初午観音 多陀寺
最近、記憶力の低下が著しく、半年前に訪れた、この寺のことをあまり覚えていない
写真を見ながらネットで調べ記載していく



狭い山道を走り階段下に車を駐めたが、階段を上がると大きな駐車場と広い道路があった



仁王門(山門)



両脇に仁王像が安置されているがガードが固く諦めた……



仁王像
帰り際になるが、横の隙間から撮ったもの



ネットでもこのアングルからの写真が多い



本堂が見える。全国に多くの寺院があるが、「多陀寺」というお寺はここだけだという



「摩尼車」



手水舎



本堂
開山の流世上人は、弘法大師の相弟子で、共に遣唐使船で唐に渡り、恵果阿闍梨より密法の直伝を受ける
唐から持ち帰った金色観音像を本尊として安置したのが始まり



扁額には山号の「亀甲山」



堂内の様子






本尊は「十一面観世音菩薩」(秘仏)






良縁子宝椿観音



新旧の石仏



「水子地蔵」






大師堂



扁額には「遍照」 仏の法身の光明があまねく世界を照らすの意



「弘法大師像」



「梵鐘」



「弘法大師尊像」






鐘楼堂









撮影 令和元年5月28日
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物部神社(島根県大田市川合町川合)

2019年12月11日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年5月28日

物部神社(石見国一宮)



初めて訪れる場所だけに気持ちが高ぶってくる。駐車場の前に大きな鳥居が見える



大鳥居
神社の多い島根県内でも木造としては最大の大きさだという






境内の左側から散策する。「納札所」の奥に大好きな動物の姿が……



神馬(種牡馬パーソロン号)
これまで多くの神馬を見てきたが、この神馬は他とは違い、競走馬だとすぐ感じた






日本競馬史上最強馬といわれた「皇帝シンボリルドルフ号」を誕生させた



参道に戻る



狛犬






手水舎






「富金石」という砂金を含んだ石で作られた珍しい手水舎



石の上には「浄」「勝」「財」「健」「徳」の御利益のある曲玉が彫られている



触れるとそれぞれの神徳を授かれるといわれている



拝殿
社殿は入母屋造、屋根は銅板葺



扁額には「物部神社」






勝石
宇摩志麻遅命が石見の地に降臨された際に腰を掛けたといわれる岩



神紋
御祭神・宇摩志麻遅命が鶴の背に乗って降臨されたという伝説が残っていることから物部神社の神使は「鶴」、神紋も太陽を背に負った鶴「ひおい鶴」となっている



「拝殿」内部



奉納品の巨大な天狗面






本殿(島根県指定有形文化財)
社伝によれば、宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて美濃国・越国を平定した後に石見国で歿した。



宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年(514年?)、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる



宇摩志麻遅命は大日本帝国海軍の戦艦石見の守護神とされ、神像が艦内に祀られていた



「禊石」 神職が神事の時に身の穢れを祓い清める祓所



「拝殿・本殿」






「境内全景」






この木なんの木、気になる木……



「石見尊徳岩谷九十老翁頌徳碑」 飢饉の時には私財をなげうって町民に食べ物を分け与えるなど地域に多大な貢献をされた






撮影 令和元年5月28日
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