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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

会津飯盛山白虎隊士墳墓域(福島県会津若松市一箕町)

2025年04月27日 | 名所・旧跡
訪問日 令和6年10月6日

会津飯盛山白虎隊士墳墓域(国の登録記念物)
会津若松市には何度か訪れたことはあるが、有名なこの場所には何故か足が向かなかった



白虎隊士 飯沼貞吉
この地で自刃を選んだ白虎隊17名の内、1名は一命を取り留めた
名を飯沼貞吉という。彼は死ぬ事ができなかった悔恨の念から二度と会津の地を踏む事はなかった
しかし、飯沼貞吉の語りによって、白虎隊の悲劇は後世に伝えられることとなった



「会津さざえ堂(重要文化財)」横の階段を上がった所に白虎隊の墓がある



白虎隊が敗戦し、鶴ヶ城へ急ぎ向かう道として通ったのが「戸ノ口堰洞穴」



会津藩殉難烈婦の碑
戊辰戦争(1868年)で自刃または戦死した婦女子230余名の霊を弔うために
元白虎隊士で東京帝国大学総長などを務めた山川健次郎らの篤志家によって建てられた



白虎隊の墓
戊辰戦争(会津戦争)において会津藩は年齢別に部隊を再編し、16歳から17歳の者で白虎隊を編成した
白虎隊士中二番隊は慶応4年(1868年)8月23日早朝から戸ノ口原の戦いに臨んだが、死傷者が多く出たため退却し、戸ノ口堰洞門を経て飯盛山にたどり着いた
しかし、鶴ヶ城天守を覆うほどの黒煙を目にし、捕まり生き恥を晒すよりはと自刃した



「白虎隊十九士の墓」には、年間200万人の観光客が訪れるという



狛犬






周辺を散策しながら、誰もいなくなるまで待った



白虎隊士の遺体に触れることは許されず、約3ヶ月後に飯盛山ふもとの宝光山妙國寺に密かに仮埋葬
明治2年(1872年)に改葬が許された



少年武士慰霊碑



石碑には「白虎隊外戦死者 14歳から17歳」と刻まれている



松平容保公弔歌の碑
「幾人の涙は石にそそぐとも その名は世々朽ちじとぞ思う」













白虎観音






ローマ市寄贈の碑
白虎隊精神に感銘を受けたローマ市より贈られた祈念碑



「武士道の精華に捧ぐ ローマ市元老院及び市民より」と刻まれている



フォン・エッツドルフ氏寄贈の碑
ドイツ大使館書記官で「若き少年武士へ 一ドイツ人」と刻まれている





飯盛山宇賀神堂



「会津さざえ堂」に隣接した堂宇に飯盛山で自刃した白虎隊士19人の霊像を安置している



寛文年間(1661-1672年)会津松平家第3代 松平正容が厳島神社の傍社として建設した



国史跡 旧滝沢本陣
参勤交代や領内巡視の際の殿様の休息所
戊辰戦争では藩主松平容保が指揮をとり、白虎隊も出陣した
弾や刀傷の跡が今も残っている



主屋および座敷は、旧滝沢本陣横山家住宅(主屋・座敷)として国の重要文化財に指定
敷地と建物は国の史跡に指定されている









撮影 令和6年10月6日
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史跡 足利学校(栃木県足利市昌平町2338)

2025年04月20日 | 名所・旧跡
訪問日 令和6年10月3日

史跡 足利学校
日本で最も古い学校として知られ、その遺跡は国の史跡に指定されている



この日の朝までその存在すら知らずにいた
道の駅で訪問地を検索していたところ「足利学校」の名がでてきた
岡山県の「閑谷学校」の印象が良かったこともあり、興味が湧いた



入徳門
「入徳」とは「徳に入る」という意味で、道徳心を習得する所、すなわち学校に入るという意味
扁額「入徳」は、紀州徳川家第11代藩主 徳川斉順(なりゆき)の書



参観料:480円を払うと「入学おめでとうございます」と言われた(面白い)
休憩所でDVDにより足利学校の概要を把握し移動する

休憩所内のジオラマ






「恕」の額



孔子像
道徳心を習得する所だけに、孔子はこの後に何度も出てくる



学校門
日本で唯一の「学校」の額が掛けられた門
寛年8年(1668年)に建てられ、足利学校のシンボルとして今日まで受け継がれてきた



「学校」という言葉は、「孟子」の中にある言葉
扁額の文字は、明の書家 蒋竜渓の書を縮小したもの



杏壇門
孔子廟の門が杏壇門(きょうだんもん)



扁額「杏壇」は、紀伊徳川家第10代藩主大納言徳川治宝(はるとみ)の書
「杏壇」は、孔子が学問を講じた場所、つまり学問所や講堂を指す
孔子の講壇の周囲に杏の木が植えられていたことから、転じて「学問所」を意味するようになった



孔子廟(聖廟)
孔子を祀っている



建物の名称は「大成殿」で寛文8年(1668年)に造営された



扁額「大成殿」は有栖川宮織仁親王の王子で、京都知恩院門跡「尊超法親王(そんちょうほっしんのう)の書



孔子坐像(栃木県指定文化財)
孔子の坐している姿は珍しいという



天保2年(1832年)渡辺崋山によって像の胎内銘が発見され、天文4年(1535年)に彫刻、納められたことが明らかになっている



小野篁公(おののたかむらこう)像(足利市指定文化財)
古くから『足利学校は小野篁の創建なり…』と伝えられるので創始者として祀られたとされる



南庭園



方丈






宥坐之器
「宥坐之器(ゆうざのき)」とは、常に身近に置いて戒めとする器のこと



欹器図(ききず)
空の時に傾き、ちょうど良い時に正しく、満ちると覆る
この器は、謙虚さや過不足のない状態(中庸)を象徴し、自己戒めとして用いられてきた



誰もいない時に試してみたが実に面白く、回数を重ねてしまった



方丈内に入る
この「杏壇」の額は、明治の大火で黒焦げになったもの



扁額「学校」は、新しい門に掛けるには大き過ぎたため、縮小して現在の門に掛けた



上杉憲実像






曝書



江戸時代からの伝統行事で、足利の秋の風物詩となっているとのこと



秋の天気の良い日に虫干し、点検を実施
虫食いやシミ、糸切れなどないか、保存状態を確認している



北庭園



孔子像



衆寮(しゅりょう)
僧房または学生寮






木小屋
薪や農具などの置き場のほか、漬物などの食料品を保管した建物



土蔵
大切なものを格納する耐火建築として建てられた
周囲は漆喰仕上げで屋根は栗板の柿葺き



庠主の墓(しょうしゅのはか)
室町時代、関東管領上杉憲実は、鎌倉円覚寺から僧 快元を招いて初代の庠主(校長)とし、足利学校の経営にあたらせた
明治元年までの430年間に23代の庠主が在任、このうち17人の歴代庠主の墓がある



元足利学校代官 茂木家累代の墓






遺蹟図書館
足利学校伝来の書籍の保存を目的としている









子貢がたずねた「たった一言で、一生かけて信条にできる言葉がございますか」
先生がいわれた「それは、恕(思いやり)だね。自分がいやなことはひとに押しつけないことだ」



撮影 令和6年10月3日
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大王わさび農場(長野県安曇野市穂高3640番地)

2025年04月03日 | 名所・旧跡
訪問日 令和6年9月27日

大王わさび農場
長野県安曇野市にあるわさび農場(山葵の生産・販売)
大正6年(1917年)に開場 年間約120万人が訪れる安曇野随一の観光スポット
ここを訪れるのは3度目になるが、一日平均3万人を超える来場者は凄い



今回は買い物目的で立ち寄ったため川辺だけで写真は少ない
下記は、過去に投稿したもの
大王わさび農場(長野県安曇野市穂高) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

大王わさび農場(長野県安曇野市穂高) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

大王わさび農場「安曇野ワイナリー」に勤務する複数の女性に勧められた場所であるわさびも美しい風景もそれほど興味はなかったが行ってみることにしたNHK朝ドラ「おひさ...

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黒澤明監督の映画『夢』のロケ地












収穫は年間通して行われている
直射日光に弱い為、4月から9月末まで黒い寒冷紗でわさび田を覆う



わさび田に引かれる湧水は一日12万トンで、水温は年間通して12℃









写真 令和6年9月27日
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清津峡渓谷トンネル(新潟県十日町市小出癸2119-2)

2025年03月27日 | 名所・旧跡
訪問日 令和6年9月25日

前日の夕方、故障したポータブルバッテリーのメーカーとの連絡がやっとついた
指示された対策をやってみたが駄目で修理を依頼することになった
この日の朝、ポタ電に向かって罵声を浴びせ、拳で物理的刺激を与えてみたところ復活した

清津峡渓谷トンネル
「あいたの~愛犬と楽しくお出かけ~」というYouTubeを視聴し訪れた
人気の観光地ということで駐車場の心配もあったが、近くの第1駐車場に駐めることができた



駐車場から200m程歩くとトンネルの入口が見えてくる



清津峡は、「上信越高原国立公園内」にある、信濃川支流の清津川が形成した峡谷である
歩行者用の「清津峡渓谷トンネル」が掘られているが仕掛けが面白い



少し歩くと受付所がある
料金:大人1,000円 小中学生400円



トンネルの全長は750m緩やかな上り斜面になっている
トンネル内は5色の色により、各見晴所へ到達する気持ちを高める効果をもたらせている



音響効果も抜群で前を歩く若い女性の鼻歌も耳に入ってくる



現在の「清津峡渓谷トンネル」に至るまで経緯であるが
昭和63年(1988年) 7月に清津峡温泉から八木沢にぬける清津登山道で落石事故があり歩道の通行は一切禁止となった
①閉鎖した遊歩道の再開は不可能
②岩が崩れやすく安全な歩道の整備は困難
③国立公園内であり、外観を損なう大規模な人工物の建設は認められない
④国立公園とはひろく国民に利用されることが目的であり、観光資源としてもこのまま放置しておくことはできない
などのことから、国立公園としての外観を損なわずに峡谷美を安全に鑑賞することができる「歩道トンネル」の建設が決まった



第1見晴所
平成8年(1996年)10月 清津峡渓谷トンネルを開坑



開坑後、20年以上が経過するなかで入抗者数が年々減少していった
こうした状況を打破するために平成30年(2018年)トンネル施設をリニューアル化した



清津峡は、黒部峡谷(富山県)、大杉谷(三重県)とともに日本三大峡谷の一つに数えられている



清津峡の岩崖は柱状の岩の寄せ集めで一枚岩ではないため、岩は硬いが、もろく崩れやすい



第2見晴所
令和3年(2021年)の「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」の作品
古い話だが1960年後半の米国SFテレビドラマ「タイムトンネル」という番組を思い出した



近代的アート作品の正体は1人用トイレである
中央はマジックミラーになっていて用を足していると覗かれている気分になる



さて、渓谷と峡谷は、山と山の間に川が流れている谷を指し、谷の幅や深さによって使い分けられる
「峡谷」とは、「渓谷」の幅と比較すると、さらに狭くて、両岸が険しい崖になっている谷、深いV字の谷のことをいう






第3見晴所
テーブルが数個置かれているのが面白い効果をだしている






柱状節理とは、節理と呼ばれる両側にずれの見られない規則性のある割れ目を持つ地質構造
割れ目によって多角柱の規則的配列構造が形成される
柱状節理は多くの種類の火成岩で起こり、岩が冷えて収縮すると形成される









第3見晴所まで歩いてきた、残るは「パノラマステーション」となる



トンネルの色も何かが起こりそうな期待の色に……



パノラマステーション
ステンレス板貼りの壁と、沢の水を湛えた床面を用い、渓谷の景色の映り込みが美しい



国立公園内という制約があるなかで、このアイデアは素晴らしい



何組かに声を掛け写真を撮ってあげたが、ここはカップルだと楽しいと思う



両サイドの水深は1・2cmで歩くことができる



私も歩いて行き、そこから見える景色を撮ってみた



写真左はステンレスの壁に写った景色



この女性は長身でモデルのような人だった



湧き水の上を歩き中央でポーズ
見ているだけで楽しくなる



平成30年(2018年)にトンネル全体が中国出身の芸術家マ・ヤンソン(MADアーキテクツ)の作品として改修された
作品「トンネル オブ ライト」は話題を呼び、5万人台だった来訪者は、平成31年/令和元年度(2019年度)は中途で20万人に達した






撮影 令和6年9月25日
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水原代官所(新潟県阿賀野市外城町10)

2025年03月20日 | 名所・旧跡
訪問日 令和6年9月23日

令和4年8月5日にオープンした「道の駅あがの」で朝を迎える
道の駅の観光案内パンフにより、この日の目的地を設定した

水原(すいばら)代官所
私は時代劇が好きで、映画やドラマをよく視てきた
代官所といえば「お前も悪のよう」という悪代官のイメージが強い



江戸幕府は基盤となる年貢、特に米が安定して確保できる地域、交通の要となる地域を「直轄領地(通称:天領)」とした
水原代官所は地方の代官所の一つであり、延享3年(1746年)から慶応4年(1868年)まで123年間続いた



代官所の主な機能は年貢の徴収や民政だが、水原代官所の場合はこの地方の豊かな生産力を背景にした年貢収納を確保することや、福島潟の開発、および新発田藩・村上藩の監視が主な目的だった
代官は江戸幕府を開いた徳川家の低い家格の旗本から任命され勘定奉行所の支配を受けた
代官に任命されると、役料150俵が与えられ各地の代官所(遠国代官)に赴任した
代官は世襲で死亡か幕府の許可を得て役を退くまで務めた
水原代官所は22代まで続いた



受付所
入館料 300円 駐車場 無料



廃絶から127年後、残された古文書の間取り図と絵図を元に平成7年8月25日に復元された



代官所入口



湯呑所
代官所で働く役人や奉公人の休み場



代官は必ずしもその任地へ赴任するとは限らず江戸に残る者もいた
代官所で働いていた人は30名程度で、半数は江戸詰
水原代官所には勤務は15名程度で、他に侍、勝手賄、足軽、中間、下女を含めると30名程度となる



江戸幕府機構図(将軍→老中→勘定奉行→代官)



代官所の事務は、「地方(じかた)」と「公事方(くじがた)」に分かれていた
地方:税や地理、出納などの民生に関すること
公事方:警察や裁判に関すること

御用場
耕地や税の取り立てなどに関する執務を行う






「訴所」:名主などの村役人が農地・年貢米・税などについて訴えにきたところ






白州
犯罪人の取り調べに使用
奉行所は外にある場合が多いが、代官所は中が一般的
白黒をはっきりさせるということから白い石を敷いている






抱石と拷問座



三角に切り出した拷問座



囚人篭



大玄関
正式な表玄関
江戸からの使者の出入りに使用



「脚下照顧」
禅宗の お寺の入口などに掲げてある言葉
「自分の足もとを照らして顧みる」ということで、他人 に対して理屈や文句を言う前に、しっかりと自分自身を振り返ってみなさいという意味



使者の間
江戸から水原までの距離95里(1里=4km)を14日かけてやってきた
1日約28.8kmの道中



幕府の巡検使などの控え室



水原城最後の城主「水原常陸介親憲」肖像画



中ノ間
上ノ間と会議などで使用



上ノ間
中ノ間と続いて会議などにも使用されていた






御用人部屋
侍などの控室






上御湯殿
運んできたお湯で体を流す湯室



御学問所(温故堂)
神と崇められた名代官「小笠原信助」が天保13年(1842年)学問奨励のため設けた



嘉永3年(1850年)昌平學から招いた「頼支峰(頼山陽の次男)」によって「温故堂」と名づけられた



希望者を募って月3回の授業が行われ、一般庶民にも門戸が開かれた



「詩経」なども学んでいたようだ



国学・日本外史(民間で書いた歴史)・培養学など47科目を学んだという
ここでの教科書は温故堂蔵書として水原図書館に保管されている






奥御台所
江戸からの使者が代官所に来て泊まるときなどに使用された
代官所は仕事場なので原則的には寝泊まりや煮炊きはしなかった



映画「殿、利息でござる!」のロケ地として使用された



屋外に出て散策



代官所内の案内が分かりやすく多くを学ぶことができたように感じた









撮影 令和6年9月23日
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鵜の瀬(福井県小浜市下根来)

2024年07月10日 | 名所・旧跡
訪問日 令和6年5月17日
鵜の瀬
小浜市に流れる遠敷川(おにゅうがわ)の中流にある鵜の瀬
3月12日に奈良の東大寺二月堂で行われる「お水取り」に先駆けて、3月2日に「お水送り」が鵜の瀬で行われる

良辨(ろうべん、りょうべん)和尚 生誕の地碑
持統天皇3年(689年)に生まれる
生誕地は(諸説あるが)、若狭国小浜下根来



聖武天皇の勅により、天平14年(742年)には金鐘寺が大和国分寺に指定
天平勝宝4年(751年)には、東大寺大仏建立の功績により東大寺の初代別当となった
天平勝宝8歳(756年)には鑑真とともに大僧都に任じられる



鵜の瀬公園資料館
「お水送りの」の資料を入手するために立ち寄った
ビデオなどで神事を視聴することができる

館内には役行者像が安置されている



役行者(役小角)坐像
桧材寄木造(室町時代の製作)



外には「お水送り」の大看板



今回でこの地には3度訪れているが、この看板は初めて見る
神事が行われる場所だけに違和感がある



遠敷川(おにゅうがわ)の川岸を散策



この川原で「お水送り」が行われる
若狭地方に春を告げる神事「お水送り」<中日新聞YouTubeから>




対岸へ移動する
鳥居



灯籠と社



行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし



若狭彦神社の由緒に
小浜市下根来白石に鵜ノ瀬というところがある
遠敷川の清流が突き当たって淵をなしている巨巌の上に、先ずは若狭彦神、次いで若狭姫神(遠敷明神)が降臨されたと伝えられる



「お水送りとお水取り」について
天平勝宝4年(752年)東大寺において大仏開眼供養が行われた(若狭ゆかりの「良弁僧正」が東大寺の初代別当)
若狭神宮寺に渡ってきたインド僧「実忠」が、東大寺に二月堂を建立
大仏開眼の2ヶ月前から天下世界の安穏を願い14日間の「祈りの行法(修二会)」を始めた



その初日に実忠和尚は「神名帳」を読みあげ、日本国中の神々を招き行の加護と成就を請われた
若狭の「遠敷明神」だけが漁に夢中になって遅れて現れた
遠敷明神は二月堂のご本尊にお供えする「閼伽水(御香水)」を献じる約束をして神通力を発揮すると
地面をうがちわり、白と黒の二羽の鵜が飛び出し穴から清水が湧き出した



若狭の根来白石の川淵より地下を潜って水を導かせたと伝えられている
この湧水の場所は「若狭井」と名付けられ、川淵は「鵜の瀬」と呼ばれるようになった
古来より若狭と奈良は地下で結ばれていると信じられてきた



お水送りの送水神事は、神宮寺から山伏姿の行者や白装束の僧侶らを先頭に3,000人程の松明行列が、ほら貝の音とともに2km上流の鵜の瀬へ向かう
河原で護摩が焚かれた後、白装束の住職が祝詞を読み上げ、竹筒からお香水を遠敷川へ注ぐ
このお香水は10日かけて東大寺・二月堂の「若狭井」に届くといわれ、奈良のお水取りは3月12日に行われる



この周辺は、かつて鯖街道として利用された
名水百選の「鵜の瀬の水」を汲み、翌朝、珈琲を飲んだ



撮影 令和6年5月17日
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関ケ原古戦場 決戦地(岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1202)

2024年07月05日 | 名所・旧跡
訪問日 令和6年5月16日
国史跡 関ケ原古戦場 決戦地
笹尾山・石田三成陣跡
関ケ原の北西、北国街道を押さえる位置にあり、西軍を指揮した石田三成が、約6,000の兵とともに布陣した



慶長5年(1600年)9月15日 濃霧と雨
西軍約8万2千人、東軍7万4千人が布陣
午前8時 東軍の井伊・松平隊が西軍の宇喜多隊に発砲し開戦



午前11時 全戦線で西軍は戦いを優勢に進める
*小早川・毛利・吉川ら諸隊は動かず
正午 小早川隊は寝返り、大谷隊へ攻撃開始
*大谷隊壊滅<大谷吉継自刃>



見晴台
午後2時 石田三成、宇喜多秀家、小西行長らは伊吹山中へ敗走し西軍は総崩れ
天下分け目の戦い・関ケ原の合戦の勝敗は、わずか半日程度で決した
*島津隊が伊勢街道方面へ敵中突破



石柱「史蹟 関ケ原古戦場 石田三成陣地」
現在は周辺一帯が国指定史跡となっている



皇太子殿下御野立所
御野立所は「おのだてしょ、おのたてしょ、おのだちしょ、おのたちしょ」と読む
移動中の貴人(主に天皇)が野外で休憩した場所という意味のようだ
明治43年4月15日と刻まれているので、大正天皇が皇太子の時になる



美男美女の外国人観光客(絵になる)
英語による音声ガイドを熱心に聞いていた



見晴台からは、関ケ原に布陣した東軍を正面から見下ろす形で、関ケ原古戦場が一望できる
400年前、石田三成がどのような思いでこの地に立っていたのか……



「関ヶ原の戦い」において、敗軍となった「島津義弘」の部隊が、敵陣を正面突破して退却した
このとき島津軍が選んだ戦法「捨て奸」(すてがまり)は、味方を犠牲にして追撃隊を食い止める壮絶な策だった
その結果、大将の島津義弘は薩摩国に生還し、断絶をまぬがれた島津氏は江戸時代を生き残り、幕末まで大きな存在感を示す大名家になった



この陣形図を見ると、小早川の寝返りによる大谷隊壊滅は致命的だということが分かる
個人的には西軍武将に魅力的な人物が多く、小早川の裏切り行為を苦々しく思ってきた



そのような事を考えながら古戦場を眺めるのも楽しい



雨が降ってきたので、駐車場に戻る



田圃の中央に「決戦地」の幟がたっている






撮影 令和6年5月16日
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山居倉庫(山形県酒田市山居町1丁目)

2024年04月19日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年10月18日

山居倉庫(国指定史跡)
明治26年(1893年)旧藩主 酒井家によって建てられた米保管倉庫
NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなった



今回は倉庫の正面から回ってみた



小鵜飼船
倉庫から舟までは、女丁持(おんなちょうもち)と呼ばれる女性によって運ばれた
一俵60kgの米俵を5つ(300kg)背中に担いだという記録(写真)が残っている






平成30年(2018年)時点で12棟が残り、このうち9棟は現役の米蔵として使用されていた
山居倉庫は令和3年(2021年)国の史跡に指定され、米倉庫としての使用は2022年度末で終えた



倉庫の中央に通路があり、その先に神社が見える






東宮殿下行啓記念館
東宮(後の昭和天皇)の山居倉庫行啓を記念して建てられた
昭和元年(1926年)に建てられた米穀貯蔵の研究施設



東宮は皇太子の居所、転じて、皇太子そのものを意味する言葉
大正時代は皇太子ではなく東宮が一般的だったのか



さんきょばし



歴史ある外観だが、竣工は平成5年7月



庄内米歴史資料館
12棟のうち1棟は資料館として改装された



奥まで歩き反対側に出る
陽射しの影響で倉庫の色が白っぽく見えているが実際は黒色に塗られている



観光客がいないこの瞬間を撮るには、それなりの忍耐力が必要になる



三居稲荷神社



12棟ある倉庫の中間に位置している



額には寺号の「三居稲荷神社」
山居倉庫の「山居」ではなく「三居」になっている



拝殿内の「奉納額」












振り返って一枚



欅並木
倉庫の西側には41本の欅が植えられ、陽射しを遮ると同時に冬の強い季節風から建物を守っている



欅並木は、様々なCM撮影等でも活用されている
酒田で一番人気のフォトスポットになっている
写真家 土門拳氏も冬の山居倉庫の作品を残している



山居倉庫の米の収容能力は10,800トン(18万俵)
夏の高温防止のために背後に欅並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にしている
自然を利用した先人の知恵が生かされた低温倉庫になっている









12棟ある倉庫の2棟は酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽」として利用されている
酒田の様々なお土産を購入することができる
前回は大阪に住む大学時代の朋友に勧められ、山形県産ブランド米「つや姫」を購入した

売店の奥にこのような場所があった

坂田山王祭祭礼用亀笠鉾(酒田市指定有形民族文化財)












連続テレビ小説「おしん」のロケ地
昭和58年(1983年)4月から1年間にわたって放送されたNHK朝の連続ドラマ「おしん」
私は平成31年(2019年)4月にBSプレミアムで再放送されたのを視聴した



最高視聴率62.9%を記録し、世界では60の国を超える国々が放送
少女期のおしん役の小林綾子の演技には感動した



人形作家 大滝博子
物産館「酒田夢の倶楽」では人形作家 大滝博子さんが、明治・大正・昭和と激動の時代を力強く生き抜いた女一代記を表現している

「おしんの生家」












「最上川の別れ」






「奉公先のおしん」






『おしん』の脚本を手掛けた橋田壽賀子は、山居倉庫の存在を知り、その倉庫を見た瞬間、これでドラマができると確信したという
貧しい農家に生まれた「おしん」が米一俵で、身売りされ、酒田に奉公に出される……






テレビの内容など忘れかけていたが、この小さな人形を夢中で撮っているうちにいくつかの場面が鮮明に蘇ってきた



「我々は、おしんに忍耐を学ぶのではない、心の美しさと、その持ち方を学ぶのだ」






撮影 令和5年10月18日
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乙女の像(青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋)

2024年03月08日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年10月4日

乙女の像<高村光太郎>
20年ほど前に一度訪れたことがある
数年前、福島県二本松市で「智恵子の生家・智恵子記念館」を訪れたことがきっかけとななり、再び訪れようと思った



駐車場から「乙女の像」まで少し歩くことになるが、木道が設置されていてとても歩きやすい



「智恵子の生家・智恵子記念館」は下記で発信済
智恵子の生家・智恵子記念館(福島県二本松市油井字漆原町) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

智恵子の生家・智恵子記念館(福島県二本松市油井字漆原町) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

訪問日令和元年11月6日走行中「智恵子の生家」の案内板が突然目に入ってきた「高村光太郎」との関係に興味をもっていたので立ち寄ることにした智恵子の生家・智恵子記念館明...

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「智恵子の生家・智恵子記念館」では智恵子本人よりも高村光太郎の方に興味を持った
昨夜、記念館で購入した「智恵子抄」を読み直してみた



光太郎は「智恵子抄」のなかで
「私はこの世で智恵子にめぐりあったため、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の廃頽生活から救い出される事ができた……」
「自分の作ったものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の人があるという意識ほど、美術家にとって力になるものはない……
私はそういう人を妻の智恵子に持っていた」と語っている



十和田湖を世に出した功労者3名の顕彰をねらいとした像の制作を高村光太郎に依頼した
光太郎は「自然美には、人工を受け入れるものと受け入れないものの2つがある。現地を見て決めましょう」と十和田湖入りをした
「十和田湖の美しさに深く感動し、湖上を遊覧しているうちにいくつも制作イメージが湧いた」という



乙女の像
「二体の背の線を伸ばした三角形が″無限″を表す」
「彫刻は空間を見る。二体の間にできるスキ間に面白味がある」と、モチーフを語っている



東京のモデルクラブに所属する藤井照子(当時19歳)がモデル
制作中、像の頻は白布で覆われ、だれにも見せることはなかったという



智恵子抄「裸形」
智恵子の裸形を私は恋ふ。
つつましくて満ちてゐて
星宿のやうに森厳で
 -中略-
わたくしの手でもう一度、
あの造形を生むことは
自然の定めた約束であり、
 -中略-
智恵子の裸形をこの世にのこして
わたくしはやがて天然の素中に帰らう。



完成後、「あれは智恵子夫人の顔」といわれるようになった
それを確かめた横山武夫(当時県教委教育次長でのち副知事、歌人)に対し
「智恵子だという人があってもいいし、そうでないという人があってもいい。見る人が決めればいい」と



原型となった小型像は青森県立郷土館に展示されている



昭和13年(1938年)に智恵子と死別
昭和16年(1941年)詩集『智恵子抄』を出版
昭和28年(1953年)10月21日「乙女の像」除幕式
昭和31年(1956年)4月2日 自宅アトリエにて肺結核のために死去(73歳没)
戒名は光珠院殿顕誉智照居士






「乙女の像」が最後の作品となった






撮影 令和5年10月4日
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奥入瀬渓流(青森県十和田市奥瀬)

2024年03月07日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年10月4日

奥入瀬渓流(特別名勝、天然記念物)
十和田湖東岸の子ノ口(ねのくち)から北東に、焼山までの約14 kmにわたる奥入瀬川の渓流
十和田八幡平国立公園に属する
渓流に沿って流れとほぼ同じ高さに車道と歩道がつくられている

銚子大滝
奥入瀬渓流本流にかかる随一の滝、銚子大滝は高さ7m、幅20m



十和田湖への魚の遡上を妨げ、魚止の滝とも呼ばれている
長い間、十和田湖には魚が住めないといわれてきた



奥入瀬渓流はミシュラン・グリーンガイドで二つ星に選ばれた観光名所
約14km続く渓流は絶景の連続
私は駐車スペースのある場所に車を駐め周辺を巡ったが、多くの人は歩いていた



雲井の滝
森林にかこまれた断崖から、三段になって落下するこの雲井の滝の高さは20m



この滝は、岩を少しずつ浸食しながら上流に向かって後退し、いつかは消える運命にあるという



観光客が集まっていた場所に近づくと地元の渓流画家が絵を描いていた



自然の中に絵が溶け込んでいるように感じた
筆が止まったので完成したのかと尋ねると、まだ2・3割程度で自宅に戻り完成させるという



画家が書いていた場所を撮ってみたが、絵の方が数段美しい
芸術家の感性には驚く



話しをしているうちに、画家から画商に変わる瞬間もあった(笑)



阿修羅の流れ
「奥入瀬を代表する」のが、この阿修羅の流れ
テレビや雑誌、ポスターなどでも頻繁に紹介されている



その名のとおり激しく流れる水がつくりだす景観は美しい




自然の美しさにはあまり感動しないが水の流れる音は心地よい



「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず……」
流れる水は飽きずに見ることができる



最近、水の流れる音に体内が反応し尿意を催す年齢になってきた



寒沢の流れ



奥入瀬渓流巡りは今回が2回目になる
初回は20年ほど前、アルファードというミニバンを新車で購入し函館までドライブ
急に思い立って、フェリーにて大間港へ
その流れで奥入瀬渓流をドライブした
車中泊もこの時初めて経験した(想い出の地である)

撮影 令和5年10月4日
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尻屋埼灯台と寒立馬(青森県下北郡東通村尻屋字尻屋崎1-1)

2024年03月03日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年10月2日

尻屋埼灯台(しりやざきとうだい)と寒立馬(かんだちめ)
尻屋埼灯台の周辺に寒立馬が放牧されている観光雑誌の写真に興味を持ち訪れた
灯台に向かう道路には門があり、滞在時間が決められている(9:00-16:00)

尻屋埼灯台(重要文化財)
尻屋埼灯台は、工事期間3年4ヶ月を費やし明治9年(1876年)10月20日に点灯開始した
「日本の灯台の父」と称されるブラントンによって設計された、二重のレンガ壁による複層構造の灯台となっている



高さ30mを誇る日本一高いレンガ灯台である
日本最初の霧笛が設置された灯台でもある



のぼれる灯台16のうちの一つで、日本の灯台50選に選ばれている
参観期間は、令和6年4月6日(土)から令和6年11月10日(日)まで
参観寄付金 300円(中学生以上)



訪れた日は風が強く、体重があり重心が低い私でも油断すると飛ばされそうになる



尻屋埼灯台百周年祈念碑



強風のため空模様がめまぐるしく変わる
文化庁の資料によると重要文化財に指定されている灯台は13基
①尻屋崎 ②犬吠埼 ③清水 ④御前崎 ⑤菅島 ⑥経ヶ岬 ⑦江崎
⑧美保関 ⑨出雲日御碕 ⑩角島 ⑪六連島 ⑫鍋島 ⑬部崎 *釣島灯台(答申中)



寒立馬とその生息地(靑森県天然記念物)
灯台周辺には「寒立馬」と呼ばれる馬が放牧されていると思ったら様子が違った
「寒立」とはカモシカが冬季に山地の高いところで長時間雪中に立ちつくす様を表すマタギ言葉



寒風吹きすさぶ尻屋崎の雪原で野放馬がじっと立っている様子がそれに似ていたことから「寒立馬」と呼ばれるようになった
寒気と粗食に耐え持久力に富む農用馬として重用されてきた



厳しい冬にも耐えられるたくましい体格の馬である
南部馬の系統で足が短く胴が長くて、ずんぐりしている



柵の近くでカメラを構えていると、警戒することなく近寄ってくる



時代背景により軍用馬、農耕馬、大型肉用馬として外来種との交配がなされ現在にいたっている



撮影 令和5年10月2日
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旧閑谷学校(岡山県備前市閑谷784)

2023年09月13日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年6月4日

特別史跡 旧閑谷学校
平成2年の秋に初めて訪れたが、その時、きっと再訪するだろうと思っていた
岡山県に入ってから道路地図で閑谷学校をずっと見ていた



この門の右側に受付がある
受付担当者やボランティアカイドの親切で丁寧な対応も魅力の一つだ



校門(重要文化財)
貞享3年(1686年)の造営
額には「閑谷学校(しずたにがっこう)」



中国最古の詩集である「詩経」の中の詩に因んで「鶴鳴門」ともよばれる



屋根は備前焼の本瓦葺き






廟の正門として建てられたもので閑谷学校の校門でもある



正面に最も重要な「聖廟(せいびょう)」がある



石塀(重要文化財)
学校全体を取り囲む765mにも及ぶ石塀(せきへい)



300年経つ現在も、石と石との隙間が無く雑草が生えないというから驚く



近くに寄り触れてみてもなめらかである



講堂(国宝)
一際目立つ建物が国宝の講堂
訪れた時期は燕が入るとのことで、障子が閉められていた



創建当時は「茅葺き」だったが、改築され現在の堅牢な「備前焼瓦」に葺き替えられた






講堂内の様子
以前訪れた時、女子中学生に対し論語の講義が行われていた



学而篇の冒頭部分であった
「子曰く 学びて時に之を習う また説ばしからずや
 朋有り遠方より来たる また楽しからずや
 人知らずして慍おらず また君子ならずや」



最初は戸惑っていたが、講師の読んだ後に続けと指示された後は大きな声で読み始めた
それはまるで合唱のように心地よかった



しばらくすると論語で一番重要と思われる「恕(じょ)」についての説明が始まった



2年前の講義の内容と生徒達の真摯な態度を思い出しながら過ごした



小斎(重要文化財)
閑谷学校は江戸時代前期の寛文10年(1670年)に岡山藩主池田光政によって創建された
現存する世界最古の庶民のための公立学校である



小斎は藩主御成の間であるが、子供達が学ぶ豪華な講堂に対して簡素であり下座に位置している場所にある



藩主の池田光政は子供達の学んでいる姿を笑顔で小斎から見ていたのではないかとガイドの女性が話してくれた



簡素とはいえ柱には飾り細工が施されている



飲室門(重要文化財)
日通いの生徒や、毎月朔日(ついたち)の朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門



文庫(重要文化財)
閑谷学校の教科書・参考書をおさめた書庫



飲室と習芸斎(重要文化財)
飲室は教師と生徒たちが、湯茶を喫した休憩室
習芸斎は農民たちも学んだ、教室として使われた施設



小斎と講堂



公門(重要文化財)
藩主臨学の際に使用した門で御成門ともいう






楷の木(かいのき)
聖廟前に植えられた二本の楷の木は、中国山東省曲阜の孔林から種子を持ち帰り苗に育てられた内の2本



聖廟(重要文化財)
儒学の祖、孔子の徳を称える最も重要な施設



最も重要な施設として中央の一番高い所に配されている



「孔子廟、西御堂」とも呼ばれている






奥の大成殿には孔子像が安置されている



閑谷神社(重要文化財)



閑谷学校の創始者、池田光政を祀っている









閑谷神社からの眺め



特別史跡旧閑谷学校 椿山
椿山には約400本近いヤブツバキが植えられている



木に(本物の)猿がしがみついているような感じがする



池田光政の髪・爪・歯などを納めた供養塚「御納所」



撮影 令和5年6月4日
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番所鼻自然公園・たまて箱温泉(鹿児島県)

2023年08月24日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年5月27日

番所鼻自然公園(鹿児島県南九州市頴娃町別府5202)
開聞岳の絶景を見ることができる観光スポットの一つに「番所鼻(ばんどころばな)自然公園」がある
番所鼻自然公園は、薩摩藩の番所があったことから名づけられた
走っていた道路から比較的近い場所にあることから立ち寄ることにした



海の池(ドラゴンホール)
番所鼻自然公園には火山活動と海の浸食によって岩礁がぐるりと円を描いている
海の池(ドラゴンホール)があり,竜宮城の入口だったという言い伝えもある
干潮時には池の周りを一周できる



幸せの鐘「吉鐘」
願い事に合わせて鳴らす回数がある
1回:幸運,2回:健康,3回:夫婦円満と縁結び,4回:子宝,5回:安産



遊歩道を歩く



南国の花?



花には興味はないのだが不思議と旅先では見入ってしまう



開聞岳は標高が924mで日本百名山の一つ
整った山頂となだらかな稜線が美しく「薩摩富士」とも呼ばれている



伊能忠敬・絶景の碑
日本地図作成のために立ち寄った伊能忠敬が「天下の絶景なり」と賞賛した
伊能忠敬が、測量の道に進むのは49歳のこと
日本全国を歩いて測量して回り、「大日本沿海輿地全図」を完成させた






目の前の「海の池」を歩こうと思ったが、潮風と塩水がカメラに悪いので止めた(理由付け)



特攻隊が見た「最後の本土」開聞岳
開聞岳の存在に興味を持ったのは「知覧特攻平和会館」を訪れてからだ
昭和20年(1945年)初頭には、最前線の沖縄はもちろん日本本土も連合軍から空襲を受けるようになった
日本政府は沖縄を本土の最前線と考えていたので、沖縄を守るために採られたのが、特攻作戦だった



特攻機の多くは、知覧(鹿児島県南九州市)や海軍鹿屋基地(鹿児島県鹿屋市)など九州南部の基地から飛び立った
遺書を残し、別れの杯を交わして知覧基地を飛び立った特攻隊員は2時間半かけて、一路沖縄に向かった
知覧基地を飛び立ち、開聞岳を見ながら海岸線を越えると「もう戻れない、行くしかない」と、何度も何度も振り返りながら覚悟を決めたという



出撃までの数日間を過ごす三角兵舎や基地周辺で、身の回りの手伝いをしたのが知覧高等女学校3年生の「なでしこ隊」だ
出撃の知らせがあると指揮所や滑走路の周りに並び見送った
敬礼して飛び立った飛行機が開聞岳に向かい、翼を3回振って、さようならの合図をしたという



ヘルシーランド露天風呂「たまて箱温泉」(鹿児島県指宿市山川福元3292)
旅の途中、本州の道の駅で声を掛けられた男性(温泉好きの宮司)に鹿児島に行くなら是非「たまて箱温泉」にと勧められた
入浴施設を探していた時にその事を思い出し調べてみた
「行ってよかった日帰り温泉&スパ」部門で4年連続1位に輝いた絶景露天風呂のようだ



竹山(別名:スヌーピー山)
垂直に突き出した岩肌が特徴的な「竹山」は古来から修験道の修行の場であったという



この山の麓に「たまて箱温泉」がある
小屋のような建物が入口(料金所510円)でそこから30m程歩く
2つの露天風呂は男女日替わりで、どちらも雄大で美しい大自然のパノラマを楽しめる
晴れた日には遠く屋久島や、竹島、硫黄島も見える



風呂に入って感動することなどないが、浴槽に浸かると目の前にある海と一体化した感覚になる
これを考えた人は凄いと思った
紹介してくれた宮司にお礼を言わなければならないと思い、帰りに管理している姫路市にある神社に立ち寄った



撮影 令和5年5月27日
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端島<通称:軍艦島>(長崎県長崎市)

2023年08月11日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年5月25日

端島<通称:軍艦島>(世界遺産)
平成27年(2015年)国際記念物遺跡会議(イコモス)により、端島炭坑を構成遺産に含む
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコの世界文化遺産に登録された



長崎港から「軍艦島上陸ツアー」というのもあるが年金生活者には厳しい価格帯だった
軍艦島を一番近くから見えるという野母崎総合運動公園(軍艦島展望所)に車を走らせた



長崎市内で渋滞はあったが海岸線を走る国道499号線は快適で軍艦島の姿を見ながらのドライブ
野母崎総合運動公園はきれいに整備されていて、そこから見える景色は美しい



端島での石炭の発見は一般に文化7年(1810年)のこととされる
江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった
明治23年(1890年)端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡した
譲渡後は端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜くまでに成長した



この頃には社船「夕顔丸」の就航、製塩・蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始
社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備され、島の周囲が段階的に埋め立てられた
大正5年(1916年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅が建設された
この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道



大正10年(1921年)に長崎日日新聞も、当時建造中だった戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいる
「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる



野母崎総合運動公園の小高い場所に「軍艦島展望所」がある



端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった
労働者のための福利厚生も急速に整えられていたが、仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制
「星を頂いて入坑し星を頂いて出坑する。陽の光に当ることがない」との言葉もある



大正5年(1916年)以降から少年および婦人の坑内使役が開始
大正中期からは内地人の不足を補充するために朝鮮人労働者の使役が開始される
昭和14年(1939年)からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化する



人口が最盛期を迎えた昭和35年(1960年)には5,267人の人口があった
人口密度は83,600人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した
1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退



1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、昭和45年(1970年)に端島沖開発が中止になり、会社側が鉱命終了期を発表
その後数百万トンの石炭を残したまま昭和49年(1974年)1月15日に閉山した
4月20日の連絡船の「最終便」で退去した担当者らの離島をもって、端島は無人島となった



軍艦島展望所からの眺め



野母崎総合運動公園



軍艦島展望所から軍艦島までの距離は直線で約4km
肉眼ではぼんやり見える程度だが、デジタルカメラで撮影しパソコンで拡大するとこの程度まで見ることができる
帰り際、「良い写真が撮れたかい」と高齢者に声を掛けられた
父親が戦艦武蔵に乗っていた(生還者)そうで戦争の話しに耳を傾けた



夫婦岩
バス停近くに、4億8000万年前にできた夫婦岩がある



近くに2階建ての展望室があり撮影スポットの一つになっている



遊び心で撮ってみた



撮影 令和5年5月25日
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九十九島(長崎県佐世保市)

2023年08月10日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年5月24日

九十九島(西海国立公園)
車での九州への旅は今回が最後になると決めていた
九十九島の美しい景色は雑誌等で知ってはいたが、自分の目で一度確かめてみたかった



九十九島は、佐世保湾の外側から北へ平戸までの約25kmの海域に点在する海域
この場所に来る途中、時折車から見える海の景色は最高で期待は高まっていた



複雑に入り組んだリアス海岸と島々が織りなす美しい自然景観が広がっている
九十九(くじゅうく)とは数がたくさんあるという意味で使われる例え言葉で、実際の島の数は208ある
平戸藩主松浦静山が、出羽国(秋田県)の「象潟九十九島」に倣い名づけたとされる



佐世保市内には「九十九島八景」と呼ばれる8ヶ所の展望スポットがある
ここは、その一つで佐世保市下船越町にある展望公園「展海峰(てんかいほう)」という場所



右側には佐世保市が遠くに見える






写真を撮っていると、ある男性から声を掛けられた
「平戸城の駐車場でも一緒でしたよね」と



私の車が札幌ナンバーだったので声を掛けてくれたようだ
現在は大阪に住み悠々自適の生活を送っているが、少し前まで北海道で競走馬の牧場を経営していたという
馬主でもあり武豊騎手や福永祐一騎手などにも騎乗してもらったという



競馬好きな私としては知り合いになりたかったが、あっさりと去って行った



こちらは1階の展望台



2・3m下がるだけで見え方も変わってくる






現地では気付かなかったが写真をよく見ると佐世保湾に軍艦がいる



調べて見ると前日の23日まで、世界最大級のアメリカ海軍原子力空母「 ニミッツ」が停泊していたという
広島で開かれたG7サミットに合わせた寄港ともみられている



撮影 令和5年5月24日
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