今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

樋口季一郎記念館(北海道石狩市八幡町高岡103-3)

2024年09月16日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和6年9月13日

樋口季一郎記念館
北海道に住みながら「北海道を救った恩人、樋口季一郎中将」の存在を知ったのは最近になってからだ
YouTubeの「真相深入り虎ノ門ニュース」という番組内で、ジャーナリスト井上和彦氏の説明を聴いて驚いた
しかも、その記念館が私の住む、北海道石狩市にあるという



館長の江崎幹夫氏(北海道古民家再生協会理事長)は
「自分の信念を曲げない素晴らしい人道主義者で北海道を救った恩人なのになぜ広く知られていないのか」
そんな思いから、ゆかりの地である北海道に記念館を作った
「旧山谷家」を宿泊施設「古民家の宿Solii」へと生まれ変え、その「石蔵」に資料を展示している



こちらが、一棟貸し切り宿「古民家の宿Solii」



<樋口季一郎 年譜より抜粋>
1888年(明治21年)淡路島の阿万村に生まれる(旧姓奥浜)
1909年(明治42年)5月 陸軍士官学校卒業(21期)
1918年(大正7年)11月 陸軍大学校卒業(30期)
1937年(昭和12年)8月 ハルピン特務機関長
1937年(昭和12年)12月26日~28日 第1回極東ユダヤ人大会開催(ハルビン)
1938年(昭和13年)3月 ユダヤ人難民事件(オトポール事件)
1942年(昭和17年)8月 札幌北部軍司令官
1943年(昭和18年)北方軍司令官、アッツ島玉砕、キスカ島撤退(対アメリカ)
1945年(昭和20年)8月 終戦 18日以降の占守島・樺太防衛戦を指揮
1946年(昭和21年)小樽市外朝里に隠遁<その後、宮崎県、神奈川県、東京都に転居>
1968年(昭和43年)7月 札幌護国神社「アッツ島玉砕雄渾の碑」除幕式・慰霊祭に参列
1970年(昭和45年)10月11日老衰により逝去(享年82歳)



偉大なる人道主義者
樋口は1925年(大正14年)から、ポーランドに駐在武官として赴任。そこでユダヤ人の老人に出会う
老人は、樋口が日本人だと知ると家に招きいれ、ユダヤ人が世界中で迫害されていること、
きっと日本の天皇が、ユダヤ人を救ってくれる救世主になるに違いないと思っていることなどを涙ながらに話した
この時の出会いが、樋口の運命を大きく変えていく



カウフマンとの出会い
1937年(昭和12年)ハルビン特務機関長に着任した樋口のもとをあるユダヤ人が訪れた
アブラハム・カウフマン博士は、ハルビンで病院を経営する内科医で、ハルビン・ユダヤ人協会の会長でもある人物だった
ナチス・ドイツのユダヤ人迫害を世界に訴えるために、ハルビンで極東ユダヤ人大会開催の許可をもとめてやってきたのだ
ユダヤ人の悲惨な境遇を理解し同情していた樋口はそれを許可した
ユダヤ人の念願だった第1回極東ユダヤ人大会は、1937年(昭和12年)12月26~28日に開催
樋口も出席し祝辞を述べたが、その内容は暗にナチス・ドイツのユダヤ人迫害を批判するものだったため、物議をかもした
日独防共協定が締結されたばかりだったこともあり、ドイツ政府から外務省に抗議文が届いたが、樋口は「だから、どうしろと言うのか」と一蹴した



ユダヤ難民を救おう 樋口の決断
1938年(昭和13年)3月10日、樋口のもとに重大事件の一報がもたらされた
満州国満州里と国境を接した連領オトポールに、ナチスのユダヤ人迫害から逃れてきた約2万人(諸説あり)のユダヤ難民が、吹雪の中で立ち往生しているという
これらのユダヤ人は、満州国に助けを求めるためにシベリア鉄道を貨車で揺られてきたが、満州国が入国を拒否
カウフマンは直ちに樋口のもとを訪れ、食料は既につき、飢餓と寒さのために凍死者が続出し危険な状態にさらされているという同胞の窮状を訴えた

樋口はこの緊急事態に、天皇陛下なら人道主義の道を取るだろうと考えた
保身と怠慢のために、助けを求める多くの人間を見殺しにしたら、それこそ世界に恥をさらす
困っている人を助けることこそ、日本の武士道だ
「カウフマン博士、難民の件は私が引き受けました。博士は難民の受け入れの準備にかかってください。食料と衣服をすぐに」
力強い樋口の言葉にカウフマンは感極まり声を上げて泣いた



樋口ルート
1938年(昭和13年)3月10日、樋口は直ちに満鉄の松岡洋右総裁に電話をかけて緊急の事情を説明し、救援を要請
松岡は直ちに、満州里からハルビンまでの救援列車の出動を命じた
オトポールに接する満州里からハルビンまでは900キロもの距離があり、列車の本数は1日1本だったが、13便の救援列車を出動させたと伝えられている
救出された難民の8割は上海経由でアメリカに渡った
後に建国されたイスラエルへ行った人々、残りの人々は開拓難民としてハルビンの奥地に入植したと伝えられている
ユダヤ難民たちは、その後もこのルートを使ってハルビンを経て上海などへと逃げることができたため、「樋口ルート」と呼ばれている



ヒトラーからの恫喝 関東軍の査問
オトポール事件が解決して2週間後、ユダヤ難民保護に対してドイツから強い抗議文が外務省に届いた
この抗議文は、陸軍省をも動揺させ、その日のうちに関東軍から出頭命令が樋口に通達。翌朝、樋口は関東軍のある新京へ到着した
樋口に対する査問は関東軍の実権を握っていた東条英機参謀長によって行われた
樋口は「日満両国が、かかる非人道的なドイツの国策に協力すべきものであるとするならば、これまた、驚くべき軽侮であり、人倫の道にそむくものであると言わねばならないでしょう。
日本はドイツの属国ではないし、満州国もまた、日本の属国ではないと信じています。
東條参謀長、あなたはどのようにお考えになりますか。ヒトラーの お先棒をかついで 、弱い者いじめをすることを 、正しいとお思いになりますか 」
東条の顔を正面からみすえながらこう言った
さすがの東条も一言も返す言葉がなく。「樋口君、よくわかった。あなたの話はもっともである。ちゃんと筋が通っている。私からも中央に対し、この問題は不問に付すように伝えておこう。ごくろうでした」と
東条は後年、敗戦の直接の責任者として、あらゆる弾劾をうけ、極東軍事法廷で裁かれる身となるが、樋口の行為を正常と判断する、冷静な良識を持って事件を処理した



アッツ島とキスカ島の戦い
アッツ島(熱田島)とキスカ島(鳴神島)はアメリカアラスカ州アリューシャン列島に位置し、北方地域における日米を結ぶ中継地点で、戦況を左右する重要拠点となりうる地域であった
この島を大本営はミッドウエイ海戦の陽動作戦も兼ねて1942年(昭和17年)6月に占領した
アメリカ軍は、潜水艦や爆撃機を投入し15,000名が1943年(昭和18年)5月12日 アッツ島(熱田島)に上陸を開始した
日本軍は守備隊長山崎保代大佐率いる2,600名が迎え撃った
樋口中将は増援部隊を準備したが海軍が船を出さず大本営の中止通告により断腸の思いで断念した
山崎大佐以下守備隊は士気が高く、3日で制圧すると言うアメリカ軍の想定を遥かに超える18日間を戦い抜いて玉砕した
樋口中将はこの18日の戦いで山崎大佐との応援部隊を出す約束を守れなかった苦悩で10gk痩せたと言われている

キスカ島(鳴神島)にはまだ5,800名の将兵が取り残されている
樋口中将はアッツ島は諦めるがキスカ島の将兵は絶対撤退させるとの思いで大本営を承諾させ、実行に移す
1943年(昭和18年)5月27日から作戦が始まり、第一期撤退作戦は潜水艦での撤退であったが損傷、損失が多く断念
第二期撤退作戦は濃霧に紛れて、駆逐艦・巡洋艦10隻で高速、素早く収容し離脱する計画
指揮は木村昌福少将で、7月10日から出撃するも、霧がかからず、反転、幌筵へ帰投した
7月22日再出撃し、7月29日にキスカ湾に突入、樋口中将は収容時間を短縮するために三八式歩兵銃を海に投棄させ身軽に撤退させた
55分で守備隊員5,200名を収容し、幌筵島に無事帰還した
アメリカ軍は日本軍が撤退したことに気が付かず2週間後に34,000名が上陸
霧が晴れて日本軍が全軍撤退した事が判明した。これをアメリカ軍はパーフェクトゲーム、太平洋戦争の奇跡と呼んだ



北海道を守れ 樋口季一郎の英断
1945年(昭和20年)8月8日、漁夫の利を狙うソ連は、日ソ中立条約を一方的に破り、日本に対し宣戦布告をした
スターリンは参戦にあたって、トルーマン米大統領に対し、日本の降伏条件として千島列島全部と留萌と釧路の北海道北半分の占領を要求した
樋口は作戦参謀会議で、ソ連軍兵力を二個師団と判断し、北樺太から南樺太に向かって、南下作戦をとると予想した
対ソ連戦略の研究を積み重ねてきた樋口には、ソ連の手の内はよくわかっていた
樋口は打電した「断固反撃に転じ上陸軍を粉砕せよ」ソ連軍の日本上陸を水際で食い止めなければならない



占守(シュムシュ)島と樺太の戦い
日本軍の占守島と幌延島の総兵力は陸海部隊合わせて32,000名、火砲200門、戦車85輌、艦攻機8機であった
18日午前零時、凄まじい砲弾の炸裂音。これがソ連軍による占守島への上陸作戦の開始だった
やがて凄まじい艦砲射撃とともに18日午前1時過ぎには、ソ連軍の上陸部隊が占守島北端の竹田浜に上陸してきた
激戦の末、21日午前8時にやっと双方は停戦
ソ連軍の損害は戦死行方不明者4,500名、艦隊撃沈14、舟艇20。日本軍の死傷者は600名
樺太でも日本軍はソ連軍の陸海空からの猛攻に耐え続け、南樺太を北海道侵攻の前線基地にしようとするスターリンの作戦を不可能にした



スターリンはトルーマン米大統領に対し、22日、不満ながら北海道占領を断念する旨の回答を送った
ついに樋口は、北海道という本土防衛を戦い抜いたのだった
もし北海道北半の武力占領が実現していたら、ソ連は北海道だけでなくさらに東北地方の占領、首都東京の分割統治まで視野に入れていたと伝えられている
その意味で、占守島と樺太の戦いは、ソ連の果てしない野望を完全に破壊したものといえる



樋口の孫の明治学院大名誉教授 樋口隆一氏の話しによると
祖父にはアッツ島(熱田島)の戦いを玉砕に終わらせ2,600名将兵を死なせた悔いがいつまでもあり
毎朝起きるとアッツ島を描いた絵の前で、戦死した部下の冥福を祈っていたという
その姿を見て、子供心に痛々しく感じていたという



樋口季一郎記念館(登録有形文化財)
令和6年3月に登録された
令和4年10月には、生誕地である淡路島の伊弉諾神宮に銅像が建立された 



「東洋のシンドラー」とも呼ばれる外交官 杉原千畝(すぎはらちうね)
彼は、第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスという都市で、
ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたことで知られている
杉原千畝が「命のビザ」を発行したのは、樋口季一郎のユダヤ人難民事件(オトポール事件)の2年後である
その時も「東条英機」がかかわっている

杉原千畝記念館にも2014年と2023年に訪れた事がある(2度目は館内撮影禁止になっていた)
初めて訪れたときの館内の様子 →「杉原千畝記念館2014年」

撮影 令和6年9月13日
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砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>(鳥取県鳥取市福部町湯山2083-17)

2024年09月10日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和6年5月20日

砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>



平成18年(2006年)の開館以来、毎年テーマを替えて開催
2024年 パリオリンピック・パラリンピックが開催されることから、テーマをフランスに選定



総合プロジューサー 茶圓勝彦
砂のプロフェッショナル 12カ国20名の砂像彫刻家による作品



作品01「ノートルダム大聖堂」「小説<ノートルダム・ド・パリ>」
制作者:アンドリウス・ペトクス/リトアニア
    ドナタス・モッカス/リトアニア

入口に入ると、大きな砂像が目に入ってくる
海外旅行の経験はないが、「ノートルダム大聖堂」の名だけは知っている



「我らの貴婦人」を意味し、聖母マリアを讃えるノートルダム大聖堂



1163年から約180年かけて完成した荘厳な大聖堂
ゴシック建築の最高傑作と称されている



18世紀のフランス革命で一部が破壊され、その後荒廃していく
1831年ヴィクトル・ユーゴーが小説「ノートルダム・ド・パリ」を発表すると
大聖堂の価値が見直され、修復が行われた(世界遺産)



ここに展示されている砂像は約3ヶ月の期間を要して制作されている
鳥取砂丘の砂と水だけで圧縮した砂の塊を彫刻して造形している
凝固剤を使用せず、展示が終わると作品を崩してもとの砂に戻し、新たな作品を制作している



砂は常に崩れるリスク、重力とのせめぎ合いといわれている
この高くて細長い塔はどのように制作されたのか、とても興味がある



最後の面は小説「ノートルダム・ド・パリ」を表現している
日本では「ノートルダムのせむし男」の邦題でも知られている
ノートルダム大聖堂のように直立する砂像は制作中に崩れるリスクが伴う
この作品はそれを回避するためにサポートする役割を果たしている



物語だが
ノートルダム大聖堂の前に、一人の醜い赤ん坊が捨てられていた
彼は大聖堂の助祭長、フロロに拾われ、カジモドという名をもらう
彼は成長し、ノートルダムの鐘つきとなる
パリにやって来た美しいジプシーの踊り子エスメラルダに、聖職者であるフロロは心を奪われる
欲情に悩み、ついにはカジモドを使ってエスメラルダを誘拐しようとする



カジモドは捕らえられ、エスメラルダは衛兵フェビュスに恋するようになる
フェビュスとエスメラルダの仲は深まるが、実はフェビュスは婚約者がいる不実な男だった
捕らえられたカジモドは広場でさらし者になるが、ただ一人エスメラルダだけは彼をかばう
カジモドは人間の優しさを生まれて初めて知り、彼女に恋をする
フロロも彼女に想いを募らせるが、エスメラルダの心はフェビュスにある
フロロは逢引をするふたりをつけて行き、フェビュスを刺して逃げる
エスメラルダはフェビュス殺害未遂の濡れ衣を着せられ、魔女裁判の元に死刑が言い渡される



カジモドはエスメラルダを救いノートルダム大聖堂にかくまう
しかし、エスメラルダはカジモドのあまりの醜さにまともに顔を見ることすらできなかった



フロロはパリの暴動の矛先をノートルダム大聖堂に向けさせ、混乱の中エスメラルダを連れ出す
助命と引き換えに愛人になるよう迫るが、彼女はフェビュスを刺したフロロを拒んだ
フロロは彼女を衛兵に引き渡し、エスメラルダは兵士達に捕まり、処刑される



大聖堂の塔の上からそれを見届けるフロロを、カジモドは塔から突き落として殺す
数年後、処刑場を掘り起こすと、白い服装をしていた女性エスメラルダと思われる白骨に、
異様な骨格の男の白骨が寄り添っており、それらを引き離そうとすると、砕けて粉になってしまった






作品02「パリの風景」
制作者:スラヴァ・ボレツキ/ポーランド
街の中心をセーヌ川が流れ、左岸にはドーム屋根の「裁判所」
フランス革命で牢獄とし素養していた「コンシェルジュリー」が見える



手前の橋はナポレオン3世が建造を命じた「シャンジュ橋」



この作品ではパリの風景よりも、この貴婦人に意識が向かってしまう









作品03「建国の王 クローヴィス」
制作者:オスカー・ロドリゲス/スペイン
ゲルマン系の民族であるフランク族を統一し、481年にフランク王国を建国したクローヴィス



ゲルマン民族が信仰していたキリスト教アリウス派から、アタナシウス派(後のカトリック)に改宗した
ローマ教会や貴族たちの後ろ盾を得て勢力を拡大したフランク王国はフランスの国名の由来とされ、歴代の王はクローヴィスから数えられる




作品はクローヴィスが洗礼を受ける様子



作品04 百年戦争
制作者:イリヤ・フィリモンツェフ/ロシア
フランスとイギリスの王位継承問題と領土争いを発端に1339年から1453年まで続いた「百年戦争」



この作品を例に砂像の仕組みについて説明したい
一枚の壁面に彫られているように見えるが実は違っている



上から見るとこのように2つの砂の塊で一つの作品に仕上がっているのだ
しかも、真横から見るとボリューム感などあまりないことが分かる



この立体感は「遠近法と光と影」によって作り出されていると何かで読んだ記憶がある
砂像彫刻家たちは室内灯や自然光を巧みに操り、計算して製作しているという



さて、百年戦争だが前半はイギリスが優勢であったが、1422年フランス王シャルル7世が即位すると形勢逆転し、フランスの勝利で終結した



作品では、兵士の重厚な甲冑



遺体にかけられた布の質感がリアルに造形されている






作品05 ジャンヌ・ダルク
制作者:ヘレナ・バンガード/オランダ
百年戦争の終盤に登場し、フランスを勝利に導いたジャンヌ・ダルク



信心深い村娘が神のお告げを受け、国王シャルル7世に進言したのは16歳の時だった
そこから一躍、軍を先導し士気を高める戦場のシンボルとして活躍する



砂像では、前景に「オルレアンの戦い」で拠点都市をイギリスから奪還した堂々たる姿が……



後景にはその2年後に異端裁判により火刑に処される姿が……
光と影を対比して構成することで、19年の生涯を劇的に表現している
ジャンヌは死後25年経って名誉復古され、1920年にはカトリック教会の聖人に列聖している



作品06 絶対王制
制作者:ドミトリー・クリメンコ/ロシア
絶対王制は国王が絶対的な権限を持つ政治体制のことで、16~18世紀の西ヨーロッパで成立した



フランスでは「太陽王」と呼ばれ、72年間在位したルイ14世の時代に全盛を極める
「朕は国家なり」という有名な言葉が示すとおり、独断で戦争を繰り返し領土を広げた



パリ郊外に豪華なヴェルサイユ宮殿を建造、王宮を移して貴族や官僚を住まわせ権力の一極集中を図った



晩年は戦費がかさみ財政難に陥った
作品では、貴族たちを世に、彼の黄金期を表現している



作品07 フランス革命
制作者:ミケーラ・チャピーニ/イタリア
18世紀後半に即位したルイ16世の時代には、14世から続き対外戦争の負債を抱え
さらに王妃マリー・アントワネットらの浪費が財政を脅かしていた



国王は財政難を新たな課税で賄おうとしたが国民が反発
国王からの武力弾圧に民衆が蜂起し、1789年フランス革命が勃発した



聖職者や貴族の特権廃止など、国民が自由・平等を求めた戦いの中で王権が停止された
ルイ16世ら王族・貴族は次々と有罪になり、ギロチンにかけられた



作品では、処刑場の革命広場に集まった人々の興奮と革命前の優雅な姿を対比的に表現している



作品08 ヴェルサイユ庭園~バッカスの泉水
制作者:ジル・ハリス/アメリカ
フランス式庭園の最高傑作とされるヴェルサイユ宮殿の広大な庭園には約1400の泉水がある



作品はそのひとつで、ワインを司るローマ神話の神「バッカス」の彫刻を中央に配している






作品09 ヴェルサイユ宮殿
制作者:レオナルド・ウゴリニ/イタリア
    アンゲフォン・ディビッド/ベルギー

ルイ14世によって建造されたバロック建築の最高傑作(写真上段)であり、ブルボン朝の最盛期を物語る宮殿である



宮殿内は王族の居室をはじめ礼拝堂や劇場など700以上の部屋がある



ルイ14世は贅の限りを尽くした宮殿と庭園を庶民にも公開し権力を示した



この宮殿は18世紀以降に建築された世界の宮殿に多くの影響を与えた



作品10 ナポレオンの戴冠式
制作者:ディビッド・ドゥシャーム/カナダ
    スザンヌ・ルセラ/オランダ




この作品はメインステージを飾る最も重要な作品である
砂像も素晴らしく、つい見入ってしまい、重大なミスを犯してしまった



作品の足元に作品の説明や時代背景など解説したものが置かれているのだが、それを撮り忘れてしまったのだ



時代的背景などの解説があるとそれに合わせた写真を選択できるのだが……









戴冠式は、1804年12月にノートル・ダム大聖堂で行なわれた
ナポレオンは、市民に支持されて皇帝になったことを示すため、冠を自分で頭に載せた



作品11 フランス文学~レ・ミレザベル
制作者:マリエレ・ヒーセルス/オランダ
ヴィクトル・ユゴーが1862年に発表した小説「レ・ミレザベル」
主人公は元囚人の男ジャン・バルジャン
社会を恨んでいた彼は無償の愛に触れて改心し、人を助けながら波乱の人生を送る



作品の中央にある小説の表表紙ではヒロインのコゼットが造形されている



右は女中として酷使される幼いコゼットとヴァルジャンが出会うシーン



左は成長したコゼットの恋人マリユスが暴動で重症を負いヴァルジャンに助けられて下水道に逃げたシーン



ヒロインのコゼットの子供時代が本当に可愛く表現されている



成長したコゼットの表情に不安な社会情勢なか、たくましく生きる姿を感じる



作品12 フランスの森
制作者:イネス・ヴァルテーレ/ラトビア
美しく広大なフランスの森はさまざまな豊かな文化を育んできた場所
古来よりおとぎ話や物語の舞台であり、かつては王侯貴族による狩猟の場でもあった



森に生息するシカや熊、猪など動物たちが生き生きと表現されている



遠景には雄大なアルプス山脈、手前には狩りに出かけてきたルイ14世とハンターが彫刻されている






作品13 フランス美術~民衆を導く自由の女神
制作者:トーマス・クォート/アメリカ
19世紀フランスの画家ドラクロワによる、ルーブル美術館所蔵の名画「民衆を導く<自由の女神>」
描かれているのは、1830年にパリで起こった七月革命



ナポレオン失脚後、1814年に復活したブルボン王朝に対する市民革命で「栄光の3日間」と呼ばれる



動乱を生き抜く市民の姿をドラマチックに描いている



革命期に誕生した三色旗と象徴的女性像マリアンヌも登場







作品14 ベル・エポック
制作者:スー・マクグリリュー/アメリカ
19世紀末から1914年第一次世界大戦前のフランスは「ベル・エポック/良き時代」と呼ばれている



エッフェル塔完成や1900年パリ万博に象徴されるように市民生活も豊かになった



美術の世界でも新しい時代を意識した造形が生まれた
ミュシャに代表されるアール・ヌーヴォーが流行したのもこの時期
ミュシャが描いた植物文様で彩られた優雅な女性像は今日まで多くの人を魅了している










作品15 自由フランス
制作者:ギー・オリヴィエ・ドゥヴァ/カナダ
フランスがナチス・ドイツに占領されていた第二次世界大戦中、1940年にロンドンにて亡命政府「自由フランス」が結成される



中心人物のシャルル・ドゴール将軍は、亡命先からラジオを通して国民にレジスタンス(ナチスに対する抵抗運動)を演説した



1944年8月ドイツが撤退した「パリ解放」後、凱旋門前のパレードでは名実ともに救国の英雄として讃えられた






作品16 観光大国フランス
制作者:ベノワ・デュトゥラージュ/フランス
世界で最も外国からの観光客を集めているフランス
豊かな自然と華やかな文化、誰もが知る歴史など魅力は尽きない



作品の中央は巨大な機械仕掛けの象「グラン・エレファント」
左は世界遺産「シュノンソー城」、右はカトリックの修道院「モン・サン・ミシェル」



作品17 フランスのファッション
制作者:チェ・ジフン/韓国
女性がコルセットから解放されたのは20世紀初頭



第二次世界大戦後には、クリスチャン・ディオールによって細く絞ったウエストとフレアスカートが特徴的な「ニュールック」が発表された



時代が求める女性らしいスタイルは平和のシンボルともいわれた



作品18 フランスの食文化
制作者:チェ・ジフン/韓国
世界三大料理にも数えられるフランス料理
フランス革命で宮廷を離れた料理人達が街にレストランを開店、庶民もフランス料理を楽しめられるようになった



屋外の高台から砂丘を眺める



平井信治知事の名言通り「スタバはないがスナバ(砂場)はある」



撮影 令和6年5月20日
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砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>最終回(鳥取県鳥取市福部町湯山2083-17)

2024年07月24日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和6年5月20日
砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>最終回

作品13 フランス美術~民衆を導く自由の女神
制作者:トーマス・クォート/アメリカ
19世紀フランスの画家ドラクロワによる、ルーブル美術館所蔵の名画「民衆を導く<自由の女神>」
描かれているのは、1830年にパリで起こった七月革命



ナポレオン失脚後、1814年に復活したブルボン王朝に対する市民革命で「栄光の3日間」と呼ばれる



動乱を生き抜く市民の姿をドラマチックに描いている



革命期に誕生した三色旗と象徴的女性像マリアンヌも登場







作品14 ベル・エポック
制作者:スー・マクグリリュー/アメリカ
19世紀末から1914年第一次世界大戦前のフランスは「ベル・エポック/良き時代」と呼ばれている



エッフェル塔完成や1900年パリ万博に象徴されるように市民生活も豊かになった



美術の世界でも新しい時代を意識した造形が生まれた
ミュシャに代表されるアール・ヌーヴォーが流行したのもこの時期
ミュシャが描いた植物文様で彩られた優雅な女性像は今日まで多くの人を魅了している










作品15 自由フランス
制作者:ギー・オリヴィエ・ドゥヴァ/カナダ
フランスがナチス・ドイツに占領されていた第二次世界大戦中、1940年にロンドンにて亡命政府「自由フランス」が結成される



中心人物のシャルル・ドゴール将軍は、亡命先からラジオを通して国民にレジスタンス(ナチスに対する抵抗運動)を演説した



1944年8月ドイツが撤退した「パリ解放」後、凱旋門前のパレードでは名実ともに救国の英雄として讃えられた






作品16 観光大国フランス
制作者:ベノワ・デュトゥラージュ/フランス
世界で最も外国からの観光客を集めているフランス
豊かな自然と華やかな文化、誰もが知る歴史など魅力は尽きない



作品の中央は巨大な機械仕掛けの象「グラン・エレファント」
左は世界遺産「シュノンソー城」、右はカトリックの修道院「モン・サン・ミシェル」



作品17 フランスのファッション
制作者:チェ・ジフン/韓国
女性がコルセットから解放されたのは20世紀初頭



第二次世界大戦後には、クリスチャン・ディオールによって細く絞ったウエストとフレアスカートが特徴的な「ニュールック」が発表された



時代が求める女性らしいスタイルは平和のシンボルともいわれた



作品18 フランスの食文化
制作者:チェ・ジフン/韓国
世界三大料理にも数えられるフランス料理
フランス革命で宮廷を離れた料理人達が街にレストランを開店、庶民もフランス料理を楽しめられるようになった



屋外の高台から砂丘を眺める



平井信治知事の名言通り「スタバはないがスナバ(砂場)はある」


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砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>その3(鳥取県鳥取市福部町湯山2083-17)

2024年07月22日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和6年5月20日
砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>その3

作品08 ヴェルサイユ庭園~バッカスの泉水
制作者:ジル・ハリス/アメリカ
フランス式庭園の最高傑作とされるヴェルサイユ宮殿の広大な庭園には約1400の泉水がある



作品はそのひとつで、ワインを司るローマ神話の神「バッカス」の彫刻を中央に配している






作品09 ヴェルサイユ宮殿
制作者:レオナルド・ウゴリニ/イタリア
    アンゲフォン・ディビッド/ベルギー

ルイ14世によって建造されたバロック建築の最高傑作(写真上段)であり、ブルボン朝の最盛期を物語る宮殿である



宮殿内は王族の居室をはじめ礼拝堂や劇場など700以上の部屋がある



ルイ14世は贅の限りを尽くした宮殿と庭園を庶民にも公開し権力を示した



この宮殿は18世紀以降に建築された世界の宮殿に多くの影響を与えた



作品10 ナポレオンの戴冠式
制作者:ディビッド・ドゥシャーム/カナダ
    スザンヌ・ルセラ/オランダ




この作品はメインステージを飾る最も重要な作品である
砂像も素晴らしく、つい見入ってしまい、重大なミスを犯してしまった



作品の足元に作品の説明や時代背景など解説したものが置かれているのだが、それを撮り忘れてしまったのだ



時代的背景などの解説があるとそれに合わせた写真を選択できるのだが……









戴冠式は、1804年12月にノートル・ダム大聖堂で行なわれた
ナポレオンは、市民に支持されて皇帝になったことを示すため、冠を自分で頭に載せた



作品11 フランス文学~レ・ミレザベル
制作者:マリエレ・ヒーセルス/オランダ
ヴィクトル・ユゴーが1862年に発表した小説「レ・ミレザベル」
主人公は元囚人の男ジャン・バルジャン
社会を恨んでいた彼は無償の愛に触れて改心し、人を助けながら波乱の人生を送る



作品の中央にある小説の表表紙ではヒロインのコゼットが造形されている



右は女中として酷使される幼いコゼットとヴァルジャンが出会うシーン



左は成長したコゼットの恋人マリユスが暴動で重症を負いヴァルジャンに助けられて下水道に逃げたシーン



ヒロインのコゼットの子供時代が本当に可愛く表現されている



成長したコゼットの表情に不安な社会情勢なか、たくましく生きる姿を感じる



作品12 フランスの森
制作者:イネス・ヴァルテーレ/ラトビア
美しく広大なフランスの森はさまざまな豊かな文化を育んできた場所
古来よりおとぎ話や物語の舞台であり、かつては王侯貴族による狩猟の場でもあった



森に生息するシカや熊、猪など動物たちが生き生きと表現されている



遠景には雄大なアルプス山脈、手前には狩りに出かけてきたルイ14世とハンターが彫刻されている






次回に続く
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砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>その2(鳥取県鳥取市福部町湯山2083-17)

2024年07月21日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和6年5月20日
砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>その2

作品04 百年戦争
制作者:イリヤ・フィリモンツェフ/ロシア
フランスとイギリスの王位継承問題と領土争いを発端に1339年から1453年まで続いた「百年戦争」



この作品を例に砂像の仕組みについて説明したい
一枚の壁面に彫られているように見えるが実は違っている



上から見るとこのように2つの砂の塊で一つの作品に仕上がっているのだ
しかも、真横から見るとボリューム感などあまりないことが分かる



この立体感は「遠近法と光と影」によって作り出されていると何かで読んだ記憶がある
砂像彫刻家たちは室内灯や自然光を巧みに操り、計算して製作しているという



さて、百年戦争だが前半はイギリスが優勢であったが、1422年フランス王シャルル7世が即位すると形勢逆転し、フランスの勝利で終結した



作品では、兵士の重厚な甲冑



遺体にかけられた布の質感がリアルに造形されている






作品05 ジャンヌ・ダルク
制作者:ヘレナ・バンガード/オランダ
百年戦争の終盤に登場し、フランスを勝利に導いたジャンヌ・ダルク



信心深い村娘が神のお告げを受け、国王シャルル7世に進言したのは16歳の時だった
そこから一躍、軍を先導し士気を高める戦場のシンボルとして活躍する



砂像では、前景に「オルレアンの戦い」で拠点都市をイギリスから奪還した堂々たる姿が……



後景にはその2年後に異端裁判により火刑に処される姿が……
光と影を対比して構成することで、19年の生涯を劇的に表現している
ジャンヌは死後25年経って名誉復古され、1920年にはカトリック教会の聖人に列聖している




作品06 絶対王制
制作者:ドミトリー・クリメンコ/ロシア
絶対王制は国王が絶対的な権限を持つ政治体制のことで、16~18世紀の西ヨーロッパで成立した



フランスでは「太陽王」と呼ばれ、72年間在位したルイ14世の時代に全盛を極める
「朕は国家なり」という有名な言葉が示すとおり、独断で戦争を繰り返し領土を広げた



パリ郊外に豪華なヴェルサイユ宮殿を建造、王宮を移して貴族や官僚を住まわせ権力の一極集中を図った



晩年は戦費がかさみ財政難に陥った
作品では、貴族たちを世に、彼の黄金期を表現している



作品07 フランス革命
制作者:ミケーラ・チャピーニ/イタリア
18世紀後半に即位したルイ16世の時代には、14世から続き対外戦争の負債を抱え
さらに王妃マリー・アントワネットらの浪費が財政を脅かしていた



国王は財政難を新たな課税で賄おうとしたが国民が反発
国王からの武力弾圧に民衆が蜂起し、1789年フランス革命が勃発した



聖職者や貴族の特権廃止など、国民が自由・平等を求めた戦いの中で王権が停止された
ルイ16世ら王族・貴族は次々と有罪になり、ギロチンにかけられた



作品では、処刑場の革命広場に集まった人々の興奮と革命前の優雅な姿を対比的に表現している



次回に続く
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砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>(鳥取県鳥取市福部町湯山2083-17)

2024年07月20日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和6年5月20日
砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>その1



平成18年(2006年)の開館以来、毎年テーマを替えて開催
2024年 パリオリンピック・パラリンピックが開催されることから、テーマをフランスに選定



総合プロジューサー 茶圓勝彦
砂のプロフェッショナル 12カ国20名の砂像彫刻家による作品



作品01「ノートルダム大聖堂」「小説<ノートルダム・ド・パリ>」
制作者:アンドリウス・ペトクス/リトアニア
    ドナタス・モッカス/リトアニア


入口に入ると、大きな砂像が目に入ってくる
海外旅行の経験はないが、「ノートルダム大聖堂」の名だけは知っている



「我らの貴婦人」を意味し、聖母マリアを讃えるノートルダム大聖堂



1163年から約180年かけて完成した荘厳な大聖堂
ゴシック建築の最高傑作と称されている



18世紀のフランス革命で一部が破壊され、その後荒廃していく
1831年ヴィクトル・ユーゴーが小説「ノートルダム・ド・パリ」を発表すると
大聖堂の価値が見直され、修復が行われた(世界遺産)



ここに展示されている砂像は約3ヶ月の期間を要して制作されている
鳥取砂丘の砂と水だけで圧縮した砂の塊を彫刻して造形している
凝固剤を使用せず、展示が終わると作品を崩してもとの砂に戻し、新たな作品を制作している



砂は常に崩れるリスク、重力とのせめぎ合いといわれている
この高くて細長い塔はどのように制作されたのか、とても興味がある



最後の面は小説「ノートルダム・ド・パリ」を表現している
日本では「ノートルダムのせむし男」の邦題でも知られている
ノートルダム大聖堂のように直立する砂像は制作中に崩れるリスクが伴う
この作品はそれを回避するためにサポートする役割を果たしている



物語だが
ノートルダム大聖堂の前に、一人の醜い赤ん坊が捨てられていた
彼は大聖堂の助祭長、フロロに拾われ、カジモドという名をもらう
彼は成長し、ノートルダムの鐘つきとなる
パリにやって来た美しいジプシーの踊り子エスメラルダに、聖職者であるフロロは心を奪われる
欲情に悩み、ついにはカジモドを使ってエスメラルダを誘拐しようとする



カジモドは捕らえられ、エスメラルダは衛兵フェビュスに恋するようになる
フェビュスとエスメラルダの仲は深まるが、実はフェビュスは婚約者がいる不実な男だった
捕らえられたカジモドは広場でさらし者になるが、ただ一人エスメラルダだけは彼をかばう
カジモドは人間の優しさを生まれて初めて知り、彼女に恋をする
フロロも彼女に想いを募らせるが、エスメラルダの心はフェビュスにある
フロロは逢引をするふたりをつけて行き、フェビュスを刺して逃げる
エスメラルダはフェビュス殺害未遂の濡れ衣を着せられ、魔女裁判の元に死刑が言い渡される



カジモドはエスメラルダを救いノートルダム大聖堂にかくまう
しかし、エスメラルダはカジモドのあまりの醜さにまともに顔を見ることすらできなかった



フロロはパリの暴動の矛先をノートルダム大聖堂に向けさせ、混乱の中エスメラルダを連れ出す
助命と引き換えに愛人になるよう迫るが、彼女はフェビュスを刺したフロロを拒んだ
フロロは彼女を衛兵に引き渡し、エスメラルダは兵士達に捕まり、処刑される



大聖堂の塔の上からそれを見届けるフロロを、カジモドは塔から突き落として殺す
数年後、処刑場を掘り起こすと、白い服装をしていた女性エスメラルダと思われる白骨に、
異様な骨格の男の白骨が寄り添っており、それらを引き離そうとすると、砕けて粉になってしまった






作品02「パリの風景」
制作者:スラヴァ・ボレツキ/ポーランド

街の中心をセーヌ川が流れ、左岸にはドーム屋根の「裁判所」
フランス革命で牢獄とし素養していた「コンシェルジュリー」が見える



手前の橋はナポレオン3世が建造を命じた「シャンジュ橋」



この作品ではパリの風景よりも、この貴婦人に意識が向かってしまう









作品03「建国の王 クローヴィス」
制作者:オスカー・ロドリゲス/スペイン

ゲルマン系の民族であるフランク族を統一し、481年にフランク王国を建国したクローヴィス



ゲルマン民族が信仰していたキリスト教アリウス派から、アタナシウス派(後のカトリック)に改宗した
ローマ教会や貴族たちの後ろ盾を得て勢力を拡大したフランク王国はフランスの国名の由来とされ、歴代の王はクローヴィスから数えられる




作品はクローヴィスが洗礼を受ける様子



次回に続く
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土門拳記念館(山形県酒田市飯森山二丁目13)

2024年04月18日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和5年10月18日

土門拳記念館
昭和49年(1974年)酒田市名誉市民第1号となった土門拳は、自分の全作品を郷里酒田市に贈りたいと語った
酒田市はそれに応え、昭和58年(1983年)写真専門の美術館「土門拳記念館」を開館した



20年ほど前に最初に訪れた時には400円だった入館料も現在は1,200円になっている(昨年は800円)
入館者も1時間ほど滞在したが、ほんの数人程度でかなり減っているような感じがしている



昔は、旅の始めに土門拳の写真を観て、感動した写真の寺や仏像を巡る旅をしていた
近頃は足が遠のいていたが、久し振りに寄ってみたいと思った



入館料は高騰したが、いつの間にか「写真撮影可」になっていた
これは、土門拳ファンとしては大変嬉しい出来事だ



記念館には、土門拳の写真を約13万5千点を収蔵している
ライフワークであった「古寺巡礼」をはじめ、「室生寺」「ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」「文楽」「風貌」などの作品を順次公開している



館内の様子






記念館で観た写真に感動し訪れた寺院の写真
展示している作品を撮っているのだが、立体感が凄い

下の写真の仏像は秘仏で常設展示はしていなかった



実物の前に立つと動けなくなるほど美しく感動する






思わずカメラを向けて注意された十一面観音像












毎年のように訪れている、一番美しいといわれている十一面観音像



私がこれまで観た仏像のなかでは、一番美しく魅力的なのがこの十一面観音像だ
お堂の内陣で拝観していたとき、偶々目線が合い「探していた物が見つかった」と心で叫んだ



展示室以外の場所



額のようになっている



老夫婦が休憩している






撮影 令和5年10月18日
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日清講和記念館(山口県下関市阿弥陀寺町4-3)

2023年07月18日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日

日清講和記念館(国登録有形文化財)
明治維新後、日本は朝鮮半島の権益を巡って清国(中国)と対立を深め、明治27年(1894年)8月、甲午農民戦争(東学党)の乱をきっかけに開戦した
日本軍が平壌、黄海で勝利し、遼東半島を制圧した戦況を受け、清国は講和を打診
会議の開催地は、長崎、広島などが候補に挙がったが、伊藤博文が「下関の春帆楼で」と発表した

伊藤博文・陸奥宗光胸像
下関の料亭春帆楼で日清講和会議が開催された
この講和会議には日本全権の伊藤博文、陸奥宗光、清国全権の李鴻章をはじめ両国の代表11名が出席した



日本側は内閣総理大臣 伊藤博文と外務大臣 陸奥宗光の両名を全権弁理大臣に任じた



日清講和記念館(国登録有形文化財)
明治28年(1895年)春、日清講和会議と、下関条約と呼ばれる講和条約の歴史的意義を後世に伝えるため、昭和12年(1937年)6月、講和会議の舞台となった春帆楼の隣接地に開館した
会議で使用された調度品や貴重な資料などを展示している



国の登録有形文化財で無料で入館できる



会場となった「春帆楼(しゅんぱんろう)」の屋号は伊藤博文が名付けた
春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様からとった



伊藤博文と李鴻章の写真
館内展示物はガラスケースにより保護されているため、太めの人物が亡霊のように写ってしまう



講和会議が開かれた春帆楼の二階大広間を再現



会議の様子



清国 李鴻章の座席



李鴻章の甥で養子の李経方と馬建忠の座席



会議期間中に、李鴻章が講和に反対する一日本人青年によりピストルで近距離から狙撃される事件が起こった
日本側は、あらゆる手段を講じて国際世論からの非難をかわそうと尽力したが、李鴻章もまたしたたかで、自身に起こった災厄を清国にとっての利益に転換させようと図った



陸奥外相は、即座に手を打ち、清がいま最も望んでいるはずの即時停戦を日本側のリーダーシップによっていち速く実現すべきことを伊藤に訴えた
伊藤はこれを受けて、反対する日本軍部を数日間でまとめ、かなり早い段階でこれを清に伝え、李鴻章狙撃事件のダメージを最小限にとどめることとした



このとき調印された講和条約は下関条約と呼ばれ、清国は日本に朝鮮半島の独立承認・領土の割譲・賠償金の支払い等を約束した



史跡 春帆楼 日清講和談判場
江戸時代の末、豊中中津(大分県)奥平藩の御殿医だった蘭医・藤野玄洋は、御殿医を辞し、下関の阿弥陀寺町(現在地)で医院を開いた
専門は眼科だったが、長期療養患者のために薬湯風呂や娯楽休憩棟を造り、一献を所望する患者には妻・みちが手料理を供した
明治10年(1877年)玄洋は「神仏分離令」によって廃寺となった阿弥陀寺の方丈跡を買い取り、新たに「月波楼医院」を開業
春帆楼は玄洋没後の明治14~15年頃、伊藤博文の勧めによってみちがこの医院を改装し、割烹旅館を開いたことに始まる



明治20年(1887年)の暮れ、伊藤博文が春帆楼に宿泊した折、海は大時化で漁がなく、困り果てたみちは打ち首覚悟で禁制だったふぐを御膳に出した
法律にも「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と定められていたが、禁令は表向きで下関の庶民は昔からふぐを食していた
若き日、高杉晋作らと食べてその味を知っていた伊藤博文は、初めてのような顔をして「こりゃあ美味い」と賞賛
翌明治21年(1888年)には、当時の山口県令(知事)原保太郎に命じて禁を解かせ、春帆楼はふぐ料理公許第一号として広く知られるようになった



撮影 令和5年5月20日
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島根県立古代出雲歴史博物館(島根県出雲市大社町杵築東 99 番地 4)

2023年07月07日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和5年6月18日

島根県立古代出雲歴史博物館
出雲を旅すると必ず訪れる場所がこの博物館(出雲大社の隣にある)
主に出雲大社を中心とした古代出雲についての展示を行っている
常設展示室では写真撮影が許されているため何度も訪れている



出雲大社境内遺跡出土の宇豆柱(重要文化財)



平成12年から13年にかけて、出雲大社境内遺跡からスギの大木3本を1組にし、直径が約3mにもなる巨大な柱が3カ所で発見された
これは、そのうちの棟をささえる柱すなわち棟持柱で、古くから「宇豆柱(うづばしら)」と呼ばれてきたもの



直径が最大で約6mもある柱穴には、大きな石がぎっしりと積み込まれ、掘立柱の地下構造も明らかになった
その後の調査などから、この柱は、鎌倉時代前半の宝治2年(1248年)に造営された本殿を支えていた柱である可能性が極めて高くなった



日本書紀
奈良時代(720年)成立
江戸時代(17世紀)刊行



古事記(真福寺本)
奈良時代(721年)成立
昭和20年(1945年)影印刷



訂正出雲風土記
千家俊信 著 江戸時代 文化3年(1806年)刊 



古代の神像と絵馬
青木遺跡出土品 奈良~平安時代(8~10世紀頃)

神像



絵馬(複製)



出雲大社復元設計(模型)
平安時代の出雲大社本殿1/10模型



復元設計にあたっての発掘成果の基本データにより各学者が復元したもの






巨大本殿の頃を描いた絵図<鎌倉時代(13~14世紀)>



出雲大社境内模型(慶長期)
 江戸時代 慶長14年(1609年)



出雲大社境内模型(寛文期)
 江戸時代 寛文7年(1667年)



現在の本殿や境内の景観とよく似ている



やはり平安時代のこの神殿には夢がある
平安時代中期に編纂された児童向けの学習教養書『口遊』(くちずさみ)に「雲太、和二、京三」とある
雲太謂出雲国城築明神神殿 和二謂大和国東大寺大仏殿 京三謂大極殿、八省



これは、当時の大建築の順位を表したのだという
1位は出雲大社 2位は東大寺 3位は京都御所、大極殿



笑っていない大黒さん



荒神谷遺跡より出土した銅剣358本・銅矛16本、銅鐸6個(国宝)









このようにまとめて発掘された



加茂岩倉遺跡出土銅鐸(国宝)



イノシシ・シカ・トンボが描かれた銅鐸






釣り手の中央に「×」が見える



顔が描かれた銅鐸









ウミガメが描かれた銅鐸



卑弥呼の鏡か



「景初三年」銘三角縁神獣鏡(神原神社古墳)(重要文化財)









撮影 令和5年6月18日
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柏崎市立博物館(新潟県柏崎市緑町8-35)

2023年05月01日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和4年10月14日

柏崎市立博物館
プラネタリウムが有名だと知り、雨対策も考え訪れた
残念な事に雨が降らず、プラネタリウムは上映していない日だった
入館料:300円



「通い徳利」
明治から昭和期に、酒屋が顧客に貸し出した徳利で客の欲しい酒を入れて販売した
徳利には酒屋の名前や屋号等が記され宣伝にもなっている



現在の広告よりインパクトがある



子供の頃使っていたグローブによく似ている(素手と変わらない衝撃を思い出す)
赤銅鈴之助、鉄人28号、少年サンデーの伊賀の影丸など懐かしい






薬師信仰の霊山・米山へといざなう展示室
「米山道標」
「米山道 此ところより 三筋左へ行」と刻まれている



米山信仰については全く知識はなく初めて知った



泰澄像
奈良時代の修験道の僧



縁起では和銅5年(712年)加賀の白山を開いた泰澄大師の開山と伝えられる



こちらは「役行者」のようだ



「めの字絵馬」
眼病治癒祈願のため密蔵院護摩堂に奉納された絵馬



ナウマンゾウ発掘調査資料展示
柏崎では約10万年前の安田層の上下二層準からナウマンゾウの化石が出ている



発掘された化石やナウマンゾウ骨格標本などを展示






右切歯(全長133cm)



歴史・民俗展示室
閻魔王像
明治28年(1895年)の火災の折、閻魔堂内から救出されたもの






木食(もくじき)上人
肉類,五穀を食べず,木の実や草などを食料として修行することを「木食」といい,その修行を続ける高僧を「木食上人」といった



木喰上人(1718-1810)は甲斐国(現在の山梨県)に生まれ、22歳で出家した



45歳の時に木喰戒を受け、56歳で日本廻国修行の旅に出てからは、93歳で生涯を閉じるまで各地に多くの仏像を残した



全国に残っている約620体の木喰仏のうち、半数近くの約260体が新潟県に残されている
そのほとんどが長岡、柏崎、小千谷と佐渡で確認されている






「娥眉山下橋標木」と良寛たち



「天神と随身像」






考古展示室
「弥生式土器」






「銅鏡」



「縄文式土器」






撮影 令和4年10月14日
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チューリップ四季彩館(富山県砺波市中村100-1)

2023年04月26日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日令和4年10月12日

チューリップ四季彩館
朝からの雨で何処へ行こうか迷っていたところ、「散居とチューリップのまち」の看板が目に入った
この道の駅は4~5回利用させてもらっているが「チューリップ」が有名だとはまったく知らなかった



調べて見ると屋内施設で、一年中花が咲いているようだ
花には興味がないので、駐車場で雨が止むのを待ったが、諦めて入館することにした
入館料:310円<シニア料金250円>



名前は分からないが、アフロヘアーのような形が面白い



平成8年(1996年)4月20日にオープン
チューリップを主体とした植物園・博物館






チューリップパレス
1年中チューリップが鑑賞できることを象徴的に表した、高さ3.7mのタワー型オブジェ



約500本のチューリップの切花を1年中展示している



地面に咲くチューリップしか知らない私だが、このような見せ方もあるのかと驚いた



小さな筒状の空間だが狭さをまったく感じさせない



これが普段目にしているチューリップの花だが……
訪れたのは季節外れの10月中旬
一年中いつでも花を咲かせることができる技術を有しているという






パレットガーデン
写真を撮っている本人が写っているということは、鏡を使って万華鏡のように四方へ広がる不思議な空間を演出している



咲き誇るチューリップの花を常時約5,000本展示



花を近くから撮ることはほとんどないが……



撮っている内に夢中になる






館内では、チューリップの原生地から、砺波での栽培が盛んになるまでをイラストや資料で紹介している

原産地であるトルコ伝統の「イズニックタイル」


















チューリップをモチーフにした陶器類も









女優 キャッシー中島さんの作品
彼女は「キルト作家」としても有名



日本画家 絵本作家 イラストレーター 中島潔氏の作品



雨が止んだようなので屋根のない場所にも移動






花を撮る時、瑞々しさを表現するため霧吹きを使う方法もあるようだが
雨でその必要もなさそうだ



1時間ほど滞在したが入館者は私一人



雨のお蔭で違った世界に足を踏み入れた
これもまた楽しい






撮影 令和4年10月12日
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越前竹人形の里(福井県坂井市丸岡町上久米田63-1)

2023年04月22日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和4年10月9日

越前竹人形の里
1986年(昭和61年)に越前竹人形協同組合が運営する形で開業
水上勉の小説「越前竹人形」と同名の施設に興味を持ち、最初に訪れてから14・5年は経つ



小説『越前竹人形』が芝居や映画になって以降、小説に登場する「玉枝」の竹人形が出回るようになったという
尾崎欽一が作品を次々と発表して「越前竹人形」はさらに知名度を上げ、ホテルや土産物店に並ぶようになった



1階店舗に入る






購入できそうな価格帯もあるが……



高価な物もある



同じデザインでも大きく価格が異なる



その理由を店員に尋ねてみた



説明文にもあるように「煤竹製」が高価になっているとのこと






1階店舗では最も高価な作品(95万円)



越前竹人形工房「篝」
入館料:300円(入館料は職人育成を目的)



竹は節の形や色がすべて違い、素材を活かしたデザインを考えるのも職人の腕の見せ所



煤けた色の竹が「煤竹(すすたけ)」



「人面竹」~人面に見えませんか~



竹を割いて繊細な髪の毛などを表現
手先の器用さと根気が必要とされる作業









工房内に展示されている作品






工房に置かれていた貴重な「煤竹」



創作竹人形館「黎明」
工房には、越前竹人形のギャラリーが併設されている



館内の様子



作品の一部を紹介したい















0.3mmの竹で植えられた髪の毛



























丸岡城



撮影 令和4年10月9日
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福井県立恐竜博物館(福井県勝山市村岡町寺尾51-11)

2023年04月20日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和4年10月8日

福井県立恐竜博物館
連日の雨対策として屋内施設でも十分楽しむことのできる恐竜博物館を選択した
2013年に一度訪れたことがあるが、コロナの影響で予約による入場ということに変わっていた



平日の午前中にもかかわらず駐車場は満車状態で県外ナンバーの車が多い
様子を見ていると、予約時間に関係なく入場している
常設展観覧料:730円(一般)



10年ぶりの入館になる












入館して驚いたのが人の多さ、一方通行で流れにのって歩くという感じである
ゆっくり写真を撮っていると流れが滞って迷惑をかける



この恐竜は動いて面白い

















































































目の前に本物の恐竜がいるような感じがする



これには高さを含め圧倒される



大人でも十分楽しめる展示内容だ


















撮影 令和4年10月8日
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砂の美術館・エジプト編 その4(鳥取県鳥取市福部町湯山2083番17号)

2023年04月18日 | 博物館・美術館・記念館
砂の美術館・エジプト編 その4


























































































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砂の美術館・エジプト編 その3(鳥取県鳥取市福部町湯山2083番17号)

2023年04月18日 | 博物館・美術館・記念館
砂の美術館・エジプト編 その3

15 ハトシェプスト女王葬祭殿






16 古代エジプトの神々






17 クレオパトラ













18 イスラムの時代












19 ナポレオンのエジプト遠征とロゼッタストーン












20 バステト












<屋外>
21 ミイラと来世信仰












22 ツタンカーメン









次回に続く
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