今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

龗神社(青森県八戸市内丸2丁目1-51)

2024年03月04日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月3日

法霊山龗神社
社号標には、法霊山龗神社(ほうりょうさんおがみじんじゃ)と刻まれている
旧陸奥國八戸藩総鎮守にして、八戸市内最古と言われる神社



鳥居



訪れるきっかけとなったのは、この案内板の内容を旅行雑誌か何かで知ったからだ



頼朝に追われた義経は平泉「高館」にて、文治5年(1189年)閏4月 頼朝の圧迫に耐えかねた泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられている
平成28年(2016年)5月に平泉の「高館義経堂」を訪れた時、面白い案内板(下記写真)があったことを覚えていた
「平泉を脱し北へ向かった」とあり、龗神社の案内板と結びついたのだ
若い頃、高木彬光の推理小説「成吉思汗の秘密」を夢中になって読んだことがあり、今でも義経の名が出てくると興味を持ってしまう



手水舎



お御籤掛け



社務所
義経に関係する資料を探したがなかった






狛犬






拝殿
この神社の創建は不明であるが、その歴史は記録上では約1000年前の平安後期にまで遡り、伝承を辿るとさらに遡るという



雑誌等では「龗神社」と記載されているが、正しくは「法霊山龗神社」といい、法霊神社、法霊山という通称でも呼ばれている



拝殿の彫刻






扁額には社号の「龗神社」
「おがみ」の漢字は珍しい文字で、雨かんむりの下に「口」を横並びに3つ、その下に「龍」を書く
一説によると、源義経の正室と言われる京の久我大臣(こがのおとど)の娘が自害した場所と伝わり
その御霊が祀られているという伝説が伝えられている場所だという
久我大臣が使っていたという手鏡が現在も所蔵されている
『類家稲荷大明神縁起』という古文書が所蔵されており、平泉を脱出した義経一行が八戸に到着し、滞在した経緯が記されている



本殿
現在の本殿は、約190年前に大名南部家より寄進されたもの
主祭神:高龗神、法霊大明神



八戸三社大祭(重要無形民俗文化財、ユネスコ世界無形文化遺産)発祥の神社
享保6年(1721年)に行われた長者山虚空蔵堂(新羅神社)への神輿渡御に始まる
その後明治17年(1884年)から新羅神社との2社祭礼となり、その5年後に神明宮が加わり、現在の形となった



少し離れた場所から社殿を眺める






周囲を散策して拝殿前に戻る
「成吉思汗の秘密」をまた読みたくなってきた



撮影 令和5年10月3日
コメント
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