今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

虎渓山 永保寺(岐阜県多治見市虎渓山町)

2013年08月31日 | 神社・仏閣


今から3年前に車中泊旅行をしたときの写真がパソコンのハードディスクのなかに入っていたので、当時を思い出しながら公開していく。

この旅行の前年に山形県酒田市にある土門拳記念館の一枚の写真がこの寺を訪れるきっかけとなった。
写真のタイトルは「永保寺臥龍池無際橋(1962年撮影)」
この写真を見て「永保寺ってどこにあるのだろう、一度行ってみたい」という気持ちが強くなった。


虎渓山 永保寺の歴史
鎌倉時代(1313年)に開創された、小高い虎渓山に佇む禅寺。
正式名称は臨済宗南禅寺派 虎渓山永保寺。
「虎渓」の名前の由来は、夢窓疎石がこの地を訪れた際、中国 蘆山の虎渓の風景(現在は世界遺産)に似ていたことに由来すると言われている。
鎌倉末期に建てられた「観音堂」と「開山堂」は国宝に指定され、池泉回遊式庭園は国の名勝に指定されている。


真夜中に舞鶴港から永保寺に向かう。
永保寺に近い道の駅を探し仮眠をとるが朝方暑さで目が覚めた。
時間は早かったが朝食もとらず永保寺駐車場に車を置き、案内板に従って7・8分歩くと小高い丘の上から下の方に池が見えた。




名勝 池泉回遊式庭園
朝の7時過ぎにもかかわらず日差しが強い。臥龍池と呼ばれている池の近くにたどりついた。
池の水が濁っていてがっかりした記憶があるが、最近になってそれもすべて計算されていることを知った。
下の写真は私の写真を撮している姿(偶然発見)が池に映っているが周囲の建物や山々の木々がこの池に映りこむようになっている。










実際はこのような池の色だが、太陽光の加減で変化していく。












日差しが強くモニターで確認できないためどのように写っているのか本人もわからない。
この写真のように池の色が青く変化しているなど想像すらできない。




土門拳氏もこの場所から撮していたので、一応真似てはみたが結果は似て非なるもの。
本物を見ていただくとよくわかる。




観音堂(水月場) 国宝
正和2年(1313年)6月18日に長瀬山の麓を目指していた夢窓一行が道に迷い、白馬に乗った女性に道を尋ねた所、返事が無かった。
そこで夢窓は「空蝉の もぬけのからか 事問えど 山路をだにも 教えざりけり」と歌を詠んだ。
すると女性は「教ゆとも 誠の道はよもゆかじ 我をみてだに 迷うその身は」と返歌して忽然と消え失せ、付近の補陀岩上に一寸八分の観世音菩薩像が出現した。
夢窓はこの観世音菩薩像を本尊とし、1314年に水月場(観音堂、国宝)を建立した。
  



屋根の反りに特徴があり、勢いを感じる。近くから見ても遠くからみても美しい。






臥龍池周辺を歩きながら撮影。






拝観料は無料で朝5時から解放されているため、近所の方と思われるご老人が散歩をしている姿、そしてお参りをしている姿をよく見かける。






無際橋
1478年からその存在が知られている。度々架け替えが行われ、現在のものは2003年に修繕が完了したもの。日本の橋100選の一つ。



渡ってもいいのかどうかわからなかったが、周囲に誰もいなかったので渡ってみたが、きっとこの橋を渡って観音堂(水月場)に行くのだろう。









六角堂(霊擁殿)・梵音巌
梵音(ぼんのん)岩上の六角堂には千体地蔵が祀られている。



願をかける人が地蔵を借り、願が叶うと新しい地蔵を添えて返される。



滝の水は虎渓山北西にある「しでこぶし」の群生地付近の湧水を集めた。







  


 

ここから見える風景が人間の目で見える色。不思議な感じがする。



僧堂・坐禅堂(海珠堂)
2003年の火災で本堂と庫裏が全焼したが、再建を願う市民を中心とした募金活動によって2007年に庫裏が、2011年6月に本堂が、以前と同じ姿で再建された。



永保寺開山 佛徳禅師 御手植銀杏樹



今年の猛暑と比較すると甘いといわれるかもしれないが、この日、2010年7月23日は日本の最高気温37℃を多治見市が記録した日である。
車の温度計では外気温は43℃を示していた。北海道では考えられない気温だ。


撮影 平成22年7月23日
コメント (1)
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豊受大神宮<伊勢神宮 外宮>(三重県伊勢市豊川町)

2013年08月08日 | 神社・仏閣
内宮から名古屋港フェリー乗場に移動予定だったが、時間に余裕があったので外宮に参拝することにした。
と言ったら聞こえがいいが、内宮正宮の階段における撮影禁止場所での警護員の高圧的な態度と言葉遣いに気分が悪くなり早々に引き上げてきたというのが真実。
駅前の専用駐車場は予想以上に広く、内宮とは違い無料で開放している。


内宮に比較すると参拝者の数がかなり多い感じがする。



正宮
一番近い位置にあるのが正宮で塀の外からの撮影は認められている。



参拝者が多く列になっている。



もう少し近づいてみる。






鳥居の右側に立つ雨傘を持ち、上下白色の男性に注目。
偶然に写真に写っていたので驚いているのだが、この後この男性には大変お世話になることになる。







パワースポットで話題の石
旅行雑誌を持った女性達が次から次とこの石に手を近づけ「感じる、感じる」と喜んでは去っていく。
それを周囲で見ている人も恐る恐る同じ動作を繰り返している。




遠くで観察していると実に面白く、しばらくそこに立っていると。
何も感じなかったと不満顔の女性3人組の一人が私に「あの石は何なのですか」と質問してきた。
「池上彰じゃないからわからない」と返してやろうかと思ったが、相手がそのような雰囲気ではなかったので「わからない」とだけ答えた。
「誰かに聞いてみましょう」ということになり周囲をみると、あの雨傘と白い服の男性が立っていた。




外宮近くに住むというその男性は20年以上毎日欠かさず参拝しているという。
伊勢神宮についても書物などでも研究しているそうだ。
この石についてだが、バブルがはじけ旅行客が激減したとき旅行会社が全国各地にパワースポットを設定し観光客集めのために創りだした場所の1つだそうだ。
男性は何度やっても何も感じることはないようであるが、多くの人が感じるというので不思議に思っているそうだ。
さらに鯉の泳いでいる池の方を指さし……。
 

正宮前にある池



昔、全国各地から伊勢神宮に参拝に来た人は、池の水で身を清め、穢れを落とし、石の前でお祓いをして参拝したと話してくれた。
20年前の式年遷宮の時も池と石は大事な役目を果たしていたのを見ていたようで、多分、他の観光客とは違った目で眺めることができたと思う。

さらに、外宮のお参り仕方など丁寧に教わりお別れした。


風宮 



土宮



多賀宮
男性によると多賀宮は正宮と同格で必ず参拝するようにと勧められた。



正宮と同じように参拝者が絶えることなく並んでいる。
これでいつもの3割位の人出のようで、参道も危険な状況に陥ることもあるようだ。




再び男性と会いさらに神宮のこと伊勢市のことなど話しを聞くことができた。
旅の最後にすばらしい人と出会い最高の旅となった。 


撮影 平成25年5月27日
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皇大神宮<伊勢神宮 内宮>(三重県伊勢市宇治館町)

2013年08月07日 | 神社・仏閣
旅の最終日は伊勢神宮と決めていた。出雲大社と伊勢神宮が同時に式年遷宮が行われるという記念すべき年になるからだ。
駐車場の混雑具合も考え早い時間に駐車場に入ったが、すでに満車に近い状態で運がよかった。


神宮(伊勢神宮)の歴史
伊勢神宮は、三重県伊勢市にある神社。神社本庁の本宗とされ、正式名称は地名の付かない「神宮」である。
伊勢神宮には、太陽を神格化した天照坐皇大御神(天照大御神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれる。
 
内宮と外宮は離れているため、観光で内宮のみ参拝の人が多いが、まず外宮を参拝してから内宮に参拝するのが正しいとされている。

皇大神宮は通称「内宮」といい、神路山・島路山を源とする五十鈴川の川上に鎮座している。ご祭神は、天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)。
国の内に隈なく光が照り徹ると称えられる皇大御神の御神体は、八咫鏡で、八坂瓊勾玉と草薙剣を加えて三種の神器と呼ばれる。


宇治橋
内宮への入口、五十鈴川にかかる宇治橋は、日常の世界から神聖な世界へのかけ橋といわれている。
宇治橋外側の正面から見る大鳥居の姿は感動的であり、身も心も正して清浄な宮域に入る心構えの大切さを感じさせてくれる。




宇治橋は20年毎に、かけ替えられる。
宇治橋の外と内に高さ7.44mの大鳥居が立っているが、内側の鳥居は、内宮の旧正殿の棟持柱が用いられ、外側の鳥居は外宮のものがあてられる。
さらに20年たつと、内側の鳥居は鈴鹿峠のふもとの「関の追分」、外側の鳥居は桑名の「七里の渡」の鳥居となる。
ともに正殿の棟持柱となって以来、60年の勤めを果たす。




宇治橋を渡り右方向に進んでいく。



第1鳥居が見えてくる。



五十鈴川と御手洗場(みたらし)
清らかさの象徴、内宮参道の右手のゆるやかな斜面を下りていくと、元禄5年(1692年)徳川綱吉の生母、桂昌院が寄進したものといわれる石畳を敷き詰めた五十鈴川岸の御手洗場にでる。



神路山を水源とする神路川と、島路山を源とする島路川の二つの流れが、合流して五十鈴川となる。
神域の西側を流れる五十鈴川は別名「御裳濯(みもすそ)川」と呼ばれ、倭姫命(やまとひめのみこと)が御裳のすそのよごれを濯がれたことから名付けられたという伝説がある。
五十鈴川の水で心身ともに清めてから参宮。




さらに進むと第2鳥居が見えてくる。



内宮神楽殿
参道の左側、銅板葺・入母屋造の建物で、向かって右端から「神楽殿」「御饌(みけ)殿」「御神札授与所」がある。
参拝者の申し出により、神恩感謝やご祈願の御神楽の奉奏、御饌(みけ)を奉奠しての御祈祷や献金、皇大神宮の御神札(おふだ)・御守・暦・御神号軸などの授与を取り扱っている。
内宮参拝記念の御朱印もここでいただく。







正宮



垂仁天皇26年にご鎮座してから、2000年。4重の御垣に囲まれた一番奥にある正殿に、天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)が鎮座している。
唯一神明造と名付けられる建築様式の正殿はじめ付属の殿舎ならびに御垣は、20年に1度、式年遷宮の大祭を行って建て替えられてきた。
遷宮によって、2000年昔と変わらない姿を今も拝することができる。




以前、訪れたときは確か階段からは撮影禁止となっていたはずだが、写真撮影は階段右で行って下さいと書かれていた。
時代の流れでこうなったのかとその時は思っていた。




しかし、階段の右側から堂々と撮影していると「撮影禁止です」と厳しく注意された。
写真が右側から写っているのはそのような理由から。




参拝客の多くはこの木に触れていく、係の人の話しでは特に意味はないとのこと。



外幣殿



荒祭宮 

 




神楽殿の方へ戻り御朱印をいただく。






ここでも多くの参拝客が立ち止まり手を合わせていた。



宇治橋からみた風景。



おかげ横丁
比較的早い時間帯だったので通行人は少なかった。



大好きな赤福を購入。美味に満足。



撮影 平成25年5月27日
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宀一山 室生寺(奈良県宇陀市室生)

2013年08月06日 | 神社・仏閣
室生寺を撮るため写真家土門拳は何度も足を運んだという。その写真集に感動し私も何度か室生寺を訪ねた。
1回目は路線バスに揺られ限られた時間内で五重塔と奥の院に、2回目は自家用車で来たのでたっぷり時間をかけて仏像を中心に、そして最高の仏像を発見。
今回が3回目になる。


真言宗室生寺派大本山 宀一山 室生寺の歴史
室生寺は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派大本山の寺院。
山号を宀一山(べんいちさん)と号する。開基は賢憬、本尊は釈迦如来である。

奈良時代末期の宝亀年間(770年-781年)、時の東宮・山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、室生の地において延寿の法を修したところ、竜神の力で見事に回復したので、興福寺の僧・賢憬が朝廷の命でここに寺院を造ることになったという。
賢憬は延暦12年(793年)没しており、造営は同じ興福寺の僧である弟子の修円に引き継がれた。
修円は承和2年(835年)に没しているが、現存の室生寺の堂塔のうち、この時期(9世紀前半)にまでさかのぼると見られるのは五重塔のみであり、現在のような伽藍が整うまでには相当の年数を要したものと思われる。


本坊表門
室生川に架かる朱塗りの太鼓橋を渡ると本坊の表門が見える。






仁王門
女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある。山号の「宀一」は「室生」の略だという。



鎧坂(最初の石段)
最初に急な石段があり、鎧坂とも呼ばれている。
年配者には両脇から支えてあげたり、手すりを使わせるなりの配慮が必要だ。
日本人は困っている人を放っては置かない。私はまだ大丈夫だが介助してもらうなら若くて美しい女性がいい。
上に屋根が見えるのが国宝の金堂である。




金堂(国宝)
屋根は寄棟造、柿葺き。桁行(正面)5間、梁間(側面)5間(「間」は長さの単位ではなく柱間の数を意味する)で、桁行5間、梁間4間の正堂(内陣)の手前に、梁間1間の礼堂を孫庇として付した形になる。
堂内須弥壇上には向かって左から十一面観音立像(国宝)、文殊菩薩立像(重文)、本尊釈迦如来立像(国宝)、薬師如来立像(重文)、地蔵菩薩立像(重文)の5体が横一列に並び、これらの像の手前には十二神将立像(重文)が立つ。




十一面観音立像(国宝)
数年前奈良1300年の時、金堂内陣から拝観が許された。
その時は十二神将を間近で観たくて入ったのだが、十一面観音像を真正面から観たときに「今まで探していたものがやっと見つかった」と感じた。
仏像は観る位置で表情を変えるが十一面観音は左端にあるため1回目に観たときは国宝か程度で何も感じなかったが、2回目のその時は全く違った表情に見えた。

今回は3回目で聖林寺の十一面観音とどちらが美しいのだろと確認したくてきたのだが、きっと聖林寺に行かなくても室生寺には来ていたと思う。
今回は内陣には入れないと思い、双眼鏡持参でいったが細かなところまで確認でき本当によかった。







弥勒堂(重要文化財)
入母屋造、杮葺き。桁行3間、梁間3間。鎌倉時代前期の建築だが、江戸時代に大幅に改造されている。
堂内中央の厨子に本尊弥勒菩薩立像(重文)を安置し、向かって右に釈迦如来坐像(国宝)を安置する。










本堂(国宝)
入母屋造、檜皮葺き。桁行5間、梁間5間。室生寺の密教化が進んでいた鎌倉時代後期、延慶元年(1308年)の建立。梁間5間のうち、手前2間を外陣、奥の3間を内陣とする。
この堂は灌頂堂とも称され、灌頂という密教儀式を行うための堂である。
内陣中央の厨子には如意輪観音坐像(重文)を安置し、その手前左右の壁には両界曼荼羅(金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅)を向かい合わせに掛け、灌頂堂としての形式を保持している。




五重塔(国宝)
800年頃の建立で、木部を朱塗りとする。
屋外にある木造五重塔としては法隆寺塔に次ぎ、わが国で2番目に古く、国宝・重要文化財指定の木造五重塔で屋外にあるものとしては日本最小である。
高さは16メートル強、初重は1辺の長さ2.5メートルの小型の塔で、高さは興福寺五重塔の3分の1ほどである。




五重塔は、1998年台風7号の強風でそばの杉(高さ約50メートル)が倒れた際に屋根を直撃、西北側の各重部の屋根・軒が折れて垂れ下がる大被害を受けた。
しかし、心柱を含め、塔の根幹部は損傷せずに済み、復旧工事を1999年から2000年にかけ行った。




修理に際し奈良文化財研究所により、当初材を年輪年代測定法で調査したところ、794年頃に伐採されたものであることが判明した。
このことからも塔の建立年代を800年頃とする従来の定説が裏付けられた。




名前を忘れたが私の好きな像である。最初観たときよりも風化が進んでいると感じた。



場所は分かり難いが写真家土門拳も被写体にしている。



再び鎧坂へ



いつもなら奥の院まで行くのが普通だが長い石段が待っている。
途中、緑に囲まれいいのはわかっているが、今日は最初から行こうと思う気持ちは全くなかった。
室生寺で過ごした半分の時間は十一面観音像が安置する金堂だったように思う。
写真の枚数はいつもより少なくなってしまったが、気持ちは満足感でいっぱいだ。
絵はがき、ファイルを購入、御朱印もお願いした。
気に入った寺、対応のよい寺ではお金を使うようにしている。また来ることになるなと思いながら寺をあとにする。
今回の旅もあと1日を残すのみとなった。


撮影 平成25年5月26日
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豊山 神楽院 長谷寺(奈良県桜井市初瀬)

2013年08月05日 | 神社・仏閣
昨夜は道の駅「宇陀路大宇陀」に宿泊したが、途中この先7mを越える車の通行はできませんと看板が出ていた。
私の車は6m弱なので大丈夫だと思い進むことにしたが、脱輪すれすれの細い道に加え、細かなカーブの連続でこれまでで走ったなかでは一番苦労した。
道の駅に着いてから、大阪から三重県に釣りに行った帰りだという人に話しかけられたので、その話をすると逆に驚かれ二車線の道路があるということがわかった。
朝には地元に住むという女性に声を掛けられた。
犬の散歩中であったが京都奈良を中心に古寺を巡っているとのことで、話しが合いしばらく立ち話をして多くの情報を聞くことができた。




長谷寺の歴史
長谷寺は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺。山号を豊山神楽院と称する。
本尊は十一面観音、開基(創立者)は僧の道明とされる。
西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。

初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬~5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、長谷寺は古くから「花の御寺」と称されている。
また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。
中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。


前を歩いていた若い女性だが一礼して中へ入る。
若い頃「礼は形、形は心」と習ってきたが、この女性注目してみていると、このあともこの形を崩すことはなかった。すばらしい。




仁王門(重要文化財)
長谷寺の総門で、三間一戸母屋造本瓦葺の楼門。両脇には仁王像、楼上に釈迦三尊十六羅漢像を安置している。
現在の建物は明治27年(1894)の再建。「長谷寺」の額字は、後陽成天皇の御宸筆。



仁王門であることも写真には写ってはいるが仁王像がここにあることも全く気づかなかった。


四季を通じ「花の御寺」として多くの人々の信仰をあつめている。



登廊5棟(重要文化財)
下登廊を上がって行くと繋屋がある。
長谷寺といえばこの登廊が有名である。今回初めて上るが段差があまりなく比較的楽であるが、上まで行くとなるとそれなりに苦しい。
自信のない場合は受付所に申し出ると対処してもらえるようだ。




繋屋から右に折れると中登廊がある



蔵王堂(重要文化財)
階段右に蔵王堂が見えてくる。






紀貫之「故里(ふるさと)の梅」
人はいさ 心も知らず故里の
   花ぞ 昔の 香に にほい ける  (古今集)




階段を上りきると一気に視界が広がる。



鐘楼(重要文化財)
右が本堂、左が鐘楼である。「尾上の鐘」と柱に書かれてある。
平安時代、寛仁3年(1019)に京都山城国木津の栗田助貞(人呼んで未来男)が観音様の霊験で出世した御礼に寄進、未来鐘と称する名鐘。
現在の梵鐘はその後室町時代、文亀元年(1501)のもの。

 藤原定家  年も経ぬ 祈るちぎりは初瀬山
             尾上の鐘の よその夕暮  (新古今和歌集) 




本堂(国宝)
「御本尊大観音特別拝観」期間ということで1,000円支払うと、受付所で係の女性から観音様との結縁がありますようにと、手首に紅白の紐を結んでくれる。
500円分の価値はあるかなと思いながら内陣に入る。もちろん内陣は撮影禁止だが狭い空間に10mもの観音像が立っている姿は圧巻でカメラを構える気にはならないほどだ。
周囲を取り巻く壁画も一見の価値はある。さらに係の女性も大変親切に受け答えしてくれ丁寧に説明してくれる。
「観音様の足に触れて下さい」とも言ってくれたので腰をかがめ無造作にふれてみた。
ところがこのあとに来た人たちの姿を見ていると、足の前に正座し合掌し両手で心をこめて触れている。もちろん、やり直した。




外陣から拝観できる観音様。内陣からは全身を拝観することができる。
10mを超える巨像は、国宝・重要文化財指定の木造彫刻の中では最大のものである。
私は見過ごしたが両脇に重要文化財の仏像が安置されているので広い視野で拝観されるとよい。




本堂は奈良時代の創建後、室町時代の天文5年(1536年)までに計7回焼失している。
7回目の焼失後、本尊十一面観音像は天正7年(1538年)に再興(現存・8代目)。







本尊を安置する正堂、相の間、礼堂から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり、舞台造とも)になっている。





京都清水寺の舞台造に似た場所からこの風景大好きな五重塔が見えたので撮した1枚。
あとでわかったことだが、三カ所あるビューポイントの一つだそうだ。どうりで多くの人たちに写真をお願いしますと頼まれた。
 




曽我地蔵



御影堂 



 


三重の塔跡
慶長年間豊臣秀頼公により再建されたが明治9年災いにより礎石のみを残す。




五重塔
昭和29年戦争殉難者檀信徒慰霊及び世界平和を祈願して建立



本長谷寺
天部天皇御悩平癒のため朱鳥(あかみどり)元年(686)道明上人がここに精舎を建立し、千佛多宝塔銅盤(国宝)を鋳造して祀る。
これが長谷寺の草創であるとして本長谷寺と称している。






奥の院に進むと



道沿いに墓石が並びここが寺であることを実感できる。



歴代能化(住職)墓所



墓から見た五重塔が美しい



奥の院方面から見た本堂



上登廊(重要文化財)
3つの登廊の階段の合計は399段。





長谷寺の周辺には過去2度来てはいるが「花のお寺」というイメージが強く敬遠してきた。
今回は蔵王権現を観たあとだったので大きな観音像を観てみたいと思い訪れた。
寺の規模は予想以上に大きく全てを廻っているわけでもないが来てよかったと思っている。
そのなかでも受付から始まりそれぞれの係の人たちの対応が親切ですばらしい。
心残りは2つのビューポイントだがきっと近いうちにまた訪れるであろう。




撮影 平成25年5月26日
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塔尾山 椿花院 如意輪寺(奈良県吉野郡吉野町吉野山)

2013年08月03日 | 神社・仏閣
金峯山寺から距離にして2Kmの所に如意輪寺があるが、道路の狭さは既に知っているので駐車場に戻り係員に2車線の道路はないのかと聞くと遠回りになるがあると親切に教えてくれた。
8Km程の距離になったが不安を持って走るよりずっといい。
しかし、最後の最後に如意輪寺駐車場と書かれた案内板の道は通ることができるのかなと思わせる狭さだった。


駐車場からの3分程度歩いた所に門が見えた。



山門
古刹という感じがいい。平衡感覚が狂ったかなと思うほど門が歪んでいる。



如意輪堂(本堂)
先帝後醍醐天皇陵に参拝し、如意輪堂に詣で、各々髪を切って佛前に奉納、過去帳に姓名を書き連ね、楠木正行公は堂の扉に鏃を以って、
 「かえらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」
   と辞世の歌を書き残し、その日吉野山を出陣。四条畷へ向かう。




役行者堂



鐘楼
歴史を感じる鐘楼である。



難切不動尊
吉野に登る途中の不動坂に祀られていたが、60年前のこと、ある信者に「如意輪寺に行きたい」というお告げがあり、如意輪寺に祀られた。
不動坂に祀られていたとき、牛車が転落したがその農夫の身代りとなって左手を負傷し、人命を救助したという記録があり、以来交通安全の守護神として霊験あらたかといわれている。
さらに、あらゆる災難を切ってくれるというので「難切り不動尊」とも呼ばれ熱心な信仰を集めている。




日本最大の石の不動尊。


宝物殿・庭園入口 



建物の絵は楠木正行公



桜井の別れ
建武3年(1335)5月21日、楠木正成公、湊川の決戦に向かうにあたり桜井の駅で、長男楠木正行と今生の別れを告げる。
正行は父に従わんと願ったが、正成曰く「後に残り忠孝を励め」と短刀一振りを与えて河内へ帰す。
時に正行11才である。




厨子入木造蔵王権現立像(重要文化財)
鎌倉時代 源慶作(運慶の高弟)
蔵王権現立像は桜の一本造で蔵王権現の木像としては、日本一と称されている。
蔵王権現は元来悪魔降伏の佛で右手右足を上げ天地の悪魔を鎮めんとする形相は、眼光爛々として辺りを圧する感に打たれる。
しかし、その恐ろしい御顔のなかにも自ら漂う慈悲心の現われを見逃す事ができない。
全身には、精巧な切金模様が入り御眼は水晶、後ろに燃える火焔の勢も亦見るべきもので権現の像としは、他に類がない。







木造阿弥陀如来立像









多宝塔
実に美しい塔である。緑に囲まれて塔もさらに存在感を増している。
桜の時期にはきっとすごい風景になっていると思う。







角度を変えて撮ってみた



正行公髷塚
正行公及び143人が出陣に先立ち如意輪堂に奉納した髻は、その後、御陵の 西方の小高き所に埋めて石の五輪塔を建て、霊をまつり、楠塚と唱えた。



後醍醐天皇塔尾陵
この先に何があるのか解らないが、石段を見て気持ちがすっかり萎えた。
石段○○段と書いていると違った決断をしたと思うが、今日はもう疲れた。




撮影 平成25年5月26日
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国軸山 金峯山寺(奈良県吉野郡吉野町吉野山)

2013年08月02日 | 神社・仏閣
駐車場の親切な女性係員から歩いて1Kmほどで金峯山寺に着くといわれた。
車で100Km走るよりも徒歩1Kmの方がダメージが大きい年頃になった。
のんびり景色でも見ながら歩くことにしたが、この吉野はこれまでの景色とはまるで違い雄大ですばらしい。
きっとこの先によいことが待っているであろう。




金峯山修験本宗 総本山 金峯山寺の歴史
大和の国 、吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と称し、古代より世に広く知られた聖域である。
この金峯山に役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得した。
この姿を桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀した。これが金峯山寺の開創と伝えられている。


黒門
金峯山寺の総門で、吉野一山の総門でもある。
この門の様式は高麗門と呼ばれ、城郭によく用いられる。昔は、公家・大名といえどもこの門からは槍を伏せ馬をおりて通行したという格式をもっていた。
現存する門は1985年の再興。




銅鳥居(重要文化財)
銅鳥居と書いて「かねのとりい」と読む。聖地への入口、俗界と聖地の境界を象徴する建造物である。
吉野から大峯山(山上ヶ岳)までの修行道には発心門、修行門、等覚門、妙覚門という、悟りへの4つの段階を象徴した門が設定されているが、そのうちの「発心門」にあたるのがこの鳥居である。
鳥居の柱が蓮台の上に立っているのは、神仏習合の名残りである。
東大寺大仏を鋳造した際の余りの銅で造ったという伝承があるが、現存するものは室町時代の再興である。




仁王門(国宝)
本堂(蔵王堂)の北側に位置する入母屋造、本瓦葺きの二重門(二重門とは2階建て門で、1階と2階の境目にも屋根の出をつくるものを指す)。
軒先に吊るしていた風鐸の銘から室町時代の康正2年(1456年)の再興とわかる。
本堂が南を正面とするのに対し、仁王門は北を正面とし、互いに背を向けるように建っている。
これは、熊野から吉野へ(南から北へ)向かう巡礼者と吉野から熊野へ(北から南へ)向かう巡礼者の双方に配慮したためという。










 
本堂(蔵王堂)(国宝)
山上ヶ岳の大峯山寺本堂(「山上の蔵王堂」)に対し、山下(さんげ)の蔵王堂と呼ばれる。屋根は入母屋造檜皮葺き。
2階建てのように見えるが構造的には「一重裳階(もこし)付き」である。豊臣家の寄進で再興されたもので、扉金具の銘から天正19年(1592年)の建立とわかる。
高さ34メートル、奥行、幅ともに36メートル。木造の古建築としては東大寺大仏殿に次ぐ規模をもつといわれる豪壮な建築である。
内部の柱には、原木の曲がりを残した自然木に近い柱が使われていることが特色で、ツツジ、チャンチン、梨などと称される柱が用いられている。
内陣には巨大な厨子があり、本尊として3体の巨大な蔵王権現像(秘仏)を安置する。




この奥に秘仏のご本尊が安置されているが目視することはできない。



秘仏本尊蔵王権現の特別公開
金峯山寺および大峯山寺の本尊であり、中心的な信仰対象となっているのは、蔵王権現という、仏教の仏とも神道の神ともつかない、独特の尊格である。
金峯山寺の本尊は3体の蔵王権現で、その像容は、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて忿怒の相を表し、片足を高く上げて虚空を踏むものである。
インドや中国起源ではない、日本独自の尊像であり、密教彫像などの影響を受けて、日本で独自に創造されたものと考えられる。

今から1300年ほど前、大峯山山上ケ岳の山頂で1000日の修行を積んだ役行者のもとに現れた権現仏のお姿を桜の木に刻んだのが、ご本尊の由来とされている。
3体は本地仏である釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩が権現、つまり仮のお姿になったもので、過去・現在・未来の三世にわたって人々を救済するという意味が込められている。
より強い力で人々を導くために、大きな像が造られたのではないか。




今回の開帳は国宝建造物である仁王門の修理勧進を目的に今後10年間にわたって定期的に実施するものである。

特別開帳拝観料1,000円を支払い内陣に入る。
その時は高すぎるのではないかと思ったが、寺名入りの靴袋、家内安全・諸願成就の如意析攸札を戴けることが解ると急に気持ちが和らぎなぜか嬉しくなった。いつものことだが物と金には弱い。
さらに、大広間で十分すぎる位の時間拝観した後、行列ができていたので訳もわからず並んでみると、ご本尊の周囲にある多くの仏像を拝観することもできた。
そして、極めつきはご本尊の前で、障子で仕切られた空間を個人に与えられ、ゆっくりお参りできるようになっていた。
これはすばらしい企画で私のように作法の疎い人間には大変有り難い。

金峯山寺のご本尊については何度か写真では見ていたが、どちらかというと全く興味が持てない方に位置していた。
特に青い顔は駄目で、数年前、青蓮院の秘仏である青不動を観たときも早々に席を立った程である。
だが、このご本尊の前に座ると別の感情が芽生えてきた。
肌の色の青黒い姿は、お互いを認め、お互いを許しあう、恕(じょ)という慈悲の心を象徴している。
参拝者には、慈悲の深さに触れ、力強い姿から生きる力を感じて欲しいとの寺の願いのようであるが、実に不思議な気持ちにさせてくれる。




仏舎利宝殿
昭和42年、金峯山寺初代管長がインドのガンジー首相より釈尊の御真骨を拝戴し、この仏舎利宝殿を建立し御奉安した。



天満宮



愛染堂



観音堂



役行者銅像
日本の正史『続日本紀』によると役行者は634年(舒明天皇6年)、御所市茅原で誕生.名は小角といい、幼少の頃より葛城山で修行するなど山林修行や苦行の末、金峯山にて金剛蔵王大権現を感得され、修験道の基礎を開かれたと伝えられている。
1100年忌にあたる1799年(寛政11年)に光格天皇より、神変大菩薩の諡号が贈られた。




脳天大神龍王院
読経の声が階段の下の方から聞こえてくる。そばによると脳天の文字が頭に入ってくる。
脳卒中で父も兄も亡くしているし、遺伝的に考えても私にも同じことが起こることは予測できる。
問題はいつ起こるかだ。俄然興味が湧き階段を下りていく。




鳥居があるから、近いのかなと思ったら甘くはなかった。脳の血管が破裂しそうになる。



やっと下に着いた。声が聞こえるのはこの建物からだ。



信仰心の無い者には入ることのできない凜とした何かが漂っている。
勿論カメラなど構えることさえも絶対に許されない雰囲気のため、偶然に写ったものがこの写真である。




周囲を散策しながら数枚撮影する。歴史的には新しい建物が多い。






時代劇に時々出てくる護摩経とでもいうのだろうか、やはり興味がある。
僧侶の経に合わせて参加者全員が経をあげている。やはり、宗教はすごい。 




最後にその現場を1枚撮ってしまった。
さて、苦労した階段の数だが往復1000段以上は確実にあるので、信仰心と脚力の無い中高年は止めた方がいいと思うが、苦労好きなのも中高年。
経験後は間違いなく想い出と疲労は残るであろう。


撮影 平成25年5月26日
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霊園山 聖林寺(奈良県桜井市下692)

2013年08月01日 | 神社・仏閣
昨夜は道の駅「アグリの郷栗東」に宿泊。この旅行も最終盤にかかってきた。
京都と奈良で1週間という予定を出発前には考えてはいたが、計画通りにはいかないのが気ままな旅。
今日の最初の訪問地を宇治平等院に設定。車の流れも順調で到着したが、駐車場の若くて美しい女性係員から「鳳凰堂が工事中ですよ」ということを聞かされた。
「生きているうちにまた見ることができますね」など会話を楽しみながら、あっさり中にはいるのをあきらめてしまった。

次のことは余り考えていなかったが、美しい女性と十一面観音立像が重なり写真で数回見たことのある聖林寺を目指すことにした。
比較的距離はあったが、この旅行で100Km以内なら普通程度に距離感には若干麻痺しているところもあるので気にはならなかった。
しかし、途中から予期せぬ渋滞も重なり到着まで苦労した。


聖林寺の歴史
聖林寺は奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院である。
山号は霊園山(りょうおんざん)、本尊は子安延命地蔵菩薩、開基(創立者)は定慧(じょうえ)とされる。
国宝の十一面観音立像を所蔵することで知られる。

駐車場から数分歩くと石段の上に石垣があり聖林寺の門が視界に入る。今日も天気がよく青空に緑が映える。







庭の大きさで寺院の規模はある程度理解できるが、聖林寺は小さいながらも美しい庭で拝観料を払う前に数枚撮すことにした。









鐘楼






反対側に受付所がある。



山号「霊園山(りょうおんざん)」






本堂に入るが堂内は撮影禁止になっているので写真はない。
本尊の子安延命地蔵菩薩を中央に左右にも3~4体の仏像が安置されているが、仏像の顔を含め全体が白くこれまで観たことのないものだったため多少違和感があった。

さらに階段を奥に進んでいくと国宝の十一面観音立像が安置されている「大悲殿」がある。
拝観できる場所は10畳ほどの広さで5・6人も入ると少し窮屈な感じがする。
中にはいると参拝客は自然に正座しその美しさに圧倒されてから合掌する。




十一面観音立像(国宝)
十一面観音は、かつては三輪山・大御輪寺の本尊であった。
大御輪寺は奈良時代の中頃、大神々社の最も古い神宮寺として設けられ、十一面観音はその本尊として祀られてきたという。
明治になると神仏分離・廃仏毀釈の嵐が吹き荒れるが、既に幕末はその前触れがあったのか、十一面観音はじめの三体の仏像は慶応4年5月16日、大八車で三輪からこの地に避難された。 




聖林寺に移った観音さまは明治20年、アメリカの哲学者フェノロサによって秘仏の禁が解かれ、人々の前にその美しい姿を初めて現した。
この時、フェノロサの驚き尋常でなく、門前から大和盆地を指して、この界隈にどれ程の素封家がいるか知らないが、この仏さま一体にとうてい及ぶものでないと述べたと伝えられている。 




明治30年、旧国宝制度ができると共に国宝に指定された。
さらに、昭和26年6月、新国宝制度が発足すると第一回の国宝に選ばれた。
この時指定された国宝仏はわずかに14を数えるに過ぎない。
美術的な解説はいろんな書物に述べられているが、まことに、これ程美しく、その尊厳な姿に胸を打たれて、自然に手を合わせられる仏像は少ない。







和辻哲郎も『古寺巡礼』(大正8年・1919年刊)でこの像を天平彫刻の最高傑作とほめたたえている。



この十一面観音立像は先人もそう感じたように驚くほど美しい。
写真の美しさと実際の美しさは違うということも感じた。
真の美しさや驚き、感動は現場で感じることができるものだ。
昔、この観音像を守るため、大八車でこの地まで運んできたというが、当時の人々のその気持ちが痛いほど理解できる見事な仏像で、多くの人に拝観してもらいたい。

私の中の十一面観音像はこれまで「室生寺」のものであったが甲乙つけがたい。もう一度、室生寺に行き確認したくなってきた。
 

撮影 平成25年5月26日
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