今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

十和田神社(青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋486)

2024年03月09日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月4日

十和田神社
乙女の像に至る道程、「開運の小径」と名付けられた分岐に入ると「十和田神社」の参道につながる
明治初年の神仏分離以前は「額田嶽熊野山 十灣寺」を号する十和田湖畔に建つ神仏習合の寺院であった

鳥居



鳥居の額には、社号の「十和田神社」
かつては、熊野や日光に比すべき北東北最大の山岳霊場であった
僧侶や修験者の山岳修行の場であり、民衆の信仰登山、山岳修行の山であった



正面に手水舎、右手の石鳥居の階段を上がると社殿が見えてくる



手水舎



石鳥居



狛犬1
石鳥居前の狛犬
拝殿前の狛犬との比較も面白い






階段の途中から木々に囲まれた社殿が目に入ってくる



拝殿
神仏分離以前は、十和田青龍権現を祀っていた
現在の拝殿の場所に観音を本地仏として安置する仏堂「十和田御堂」が建っていた



明治維新後に、十和田信仰は神仏分離と廃仏毀釈の嵐にさらされた
明治5年(1872年)には、修験宗が廃止され、修験は天台宗か真言宗に属するか、神職になるか還俗するかを命じられた
神仏習合による権現は排斥され、古事記や日本書紀の日本古来の神に戻すことが強要された。



十和田別当の織田氏は「十湾寺を十和田神社」として、青龍権現を外に移し、祭神をヤマトタケルと申し立てたが、認められなかった
明治6年(1873年)奥瀬の新羅神社に合祀され、御堂は取り壊された
2年後、復社を許され、御堂の跡地にささやかな社殿が建てられたが、十和田信仰は大きな打撃を受けた



社務所



狛犬2
鳥居前の狛犬と比べると随分細身になっている






さて、拝殿であるが遠目では分からなかったが、見事な彫刻で飾られていた



拝殿の彫刻


















拝殿内部



本殿
祭神:スサノオ、ヤマトタケル
創建についての縁起には2つの説がある
一つは大同2年(807年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂創建とされる説
東征のおり湖が荒れて渡れず、祠を建てて祈願しイカダを組んで渡ったという



もう一つは、南祖坊(南蔵坊、南草坊ともいう)によるもの
熊野で修行した南祖坊が、鉄の草鞋と錫杖を神から授かり、「百足の草鞋が破れた所に住むべし」と夢のお告げを得た
諸国をめぐり、十和田湖畔で百足の草鞋が尽きたという



熊野神社
十和田湖には八郎太郎というマタギが、湖の岩魚や水を喰らううちに八頭の大蛇となり、湖を支配していた
そこで、南祖坊は、その霊験により九頭の龍に変化し二十尋(約36m)の身体を、十曲(とわだ)に曲げ、八郎太郎を退治たという伝説が残っている



南祖坊を青龍権現として崇め祀った名残りが今もあり、境内の熊野神社には彼の履いていたという鉄の草鞋が奉納されている



稲荷神社



拝殿前の参拝者
20年ほど前に訪れていると思うのだが記憶が蘇ってこない
寺社には全く興味関心がなかった頃だ(もったいない)



撮影 令和5年10月4日
コメント
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