今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

出雲大社(島根県出雲市大社町杵築東)

2013年06月30日 | 神社・仏閣
2年前の夏、出雲大社参拝に訪れた。当日は猛暑で私の服装はTシャツ、短めのズボン、足下はサンダルという軽装。当時、大遷宮中のため現在の拝殿が御仮殿となっていた。
参拝を済ませ、他の参拝者が並んでいるところへ行くと、係員が寄ってきてその服装では中に入ることはできないと注意された。
苦い経験をして、今年は5月中旬にしては暑い日だったが、上着をはおりYシャツにネクタイまで、荷物にはなったが黒い革靴まで準備してきた。


勢溜の大鳥居






勢橋を越えると鳥居があり、ここからは参道の中央が閉鎖されていて左右の参道を歩いて行く。



銅鳥居
出雲大社の神域の荒垣正門に立つ。この碧銅の鳥居は、寛文六(1666)年六月毛利輝元の孫綱広の寄進。



拝殿
現在の拝殿は、昭和34年5月に竣功された。通常は参拝者の御祈祷が行われ、古伝新嘗祭等のお祭の他、さまざまな奉納行事が行われる。






本殿(国宝)
本殿は、大国主大神がお鎮まりになっている、大国主大神の御事蹟に対して建てられた宮。
高さ約24メ-トルの偉容は、神徳にふさわしく比類のない大規模な木造建築の本殿である。
「大社造り」と呼ばれる日本最古の神社建築様式の御本殿は、現在国宝に指定されている。



























出雲では、鳥も神様の前では身を清める






神楽殿
境内を西の門から出て川を渡ったところに神楽殿がある。
本殿と同じように朝夕のおまつりの他、御神楽や御祈祷が奉仕される。
また全国には出雲大社教のおしえを広く伝えるための教会や講社があるが、それら教会・講社に属する人々が揃ってお参りされおまつりを受けられることを「おくにがえり」と言い、ここ神楽殿でそのおまつりが奉仕される。
神楽殿はもともと明治12年出雲大社教が組織化された当時、その教化のために大国主大神さまを本殿とは別におまつりしたことに由来する。現在の建築は昭和56年に新築された。
その大広間は270畳敷きの広さをほこり、神社建築にはめずらしく、正面破風の装飾にステンドグラスが使われている。ここに掛かる注連縄は長さ13メートル、重さ5トンの巨大なもので「国引き神話」の出雲を象徴するかのようだ。










摂末社
荒垣をさかいとする境内・境外に合わせて23建てられている摂末社。
出雲大社の祭神である大国主大神の后神・御子神など特に関係の深い神々を祀る摂社と、それに次ぐ末社。


祓社(はらいのやしろ)



氏社(うじのやしろ)






十九社(じゅうくしゃ)二宇
神在祭の間(旧暦10/11~17)、集われた全国各地の神々の宿所となる社。
通常は全国各地の神々の遙拝所。







素鵞社(そがのやしろ)
祭神 素戔鳴尊(すさのおのみこと)
天照大御神の弟神で、出雲国の肥河上での八岐の大蛇退治はあまりにも有名。
また大国主大神の親神であられ、大神に国づくりの大任を授けられた。






釜社(かまのやしろ)



鎮守社






彰古館
出雲大社に伝わる各種資料を陳列




朝7時から約2時間出雲大社で過ごしたことになる。
本殿遷座祭が5月10日に行われたばかりで8時頃から参拝者の数が増えてきた。
駐車場も満車状態で長い車の列が続いていた。予想はしていただけに早い時間にきて良かった。
さて、服装のことであるが、私が以前注意を受けた格好でも何も言われている様子がない。
今日は数多くの神様にお参りしたので、この後、きっと良いことがあるに違いない。それにしても四拍手は数が多いだけに手が痛くなる。




撮影 平成25年5月15日
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出雲阿国の墓(島根県出雲市大社町杵築北)

2013年06月29日 | 名所・旧跡
出雲大社の駐車場を探している際、偶然に発見したのがお国の墓。
何故この地にお墓があるのかわからなかったが、出雲の阿国だから、出雲出身か。など、単純なことに気づきやっと理解できた。
出雲大社参拝の目的が、神さまから遠くからよく来たなという「贈り物」をいただいた気持ちになった。


出雲阿国について
安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍した阿国歌舞伎の創始者で,歌舞伎の始祖とされる女性。出雲大社の巫女(みこ)であったといわれている。
出雲大社本殿の修復勧進のため、芸能団を組織して各地を歩き,1603年京都四条河原で念仏踊りを興行して人気を得,さらに簡単な所作を加えて阿国歌舞伎に発展させた。
豊臣秀吉や徳川家康の前でも、この歌舞伎踊りを披露するほどに名をあげ、世に「天下一阿国」として知られた。また、阿国と名古屋山三との熱愛振りも今の世に語り継がれている。生没年未詳。










撮影 平成25年5月15日
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瑞光山 清水寺(島根県安来市清水町)

2013年06月28日 | 神社・仏閣
清水は清水でも安来の清水寺。しかし、京都の清水寺よりも歴史は古い。
今日初めて訪ねることになるが、五木寛之氏が出演している百寺巡礼を数年前視聴したときに石垣の上に立つ三重塔が印象に残っている。




瑞光山 清水寺の歴史
厄払いの寺としてしたわれる清水寺は、用明天皇2年(587年)、尊隆上人によって開かれた観音霊場である。
開基以前のこと、山上に瑞光が現れ、その光明を因として山を瑞光山と号し、また水の清く霊なるをもって清水寺と名づくと伝えられる。
その後歳月を経て荒廃するするも中興開山盛縁上人が復興に尽くし、大同元年(806年)平城天皇の詔勅を受け七堂伽藍を完備する。
その後承和14年(847年)、唐からの帰路立ち寄った円仁(慈覚大師)により光明真言会が創められ、天台宗に帰依したという。
その後幾度かの火災と復興を経て、明徳4年(1393年)にほぼ現在の寺域が定まったが、戦国時代兵火に襲われ根本堂以外の建物は焼失した。
伽藍はその後毛利氏及び松平氏により復興され、加えて安政6年(1859年)には信徒の手により三重塔が建立され、現在の形となった。


大門






開山堂



根本堂(重要文化財)

  








 

毘沙門堂



鐘楼と聖観音





三重塔(島根県指定有形文化財)









弁財天堂



不動岩像



撮影 平成25年5月14日
コメント (8)
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曹洞宗大本山 吉祥山 永平寺(福井県吉田郡永平寺町志比)

2013年06月27日 | 神社・仏閣
縁とは不思議なもので義父が亡くなって今日で1年になる。
我が家を訪ねたときに急逝したため、無念の気持ちもあったと思い、1周期を前に大本山である永平寺にお参りして霊を慰めたいと考えていた。
偶然ではあるが永平寺についてブログで掲載する日が命日と重なった。


吉祥山 永平寺の歴史
永平寺は、今から約760年前の寛元2年(1244)道元禅師によって開かれた座禅修行の道場である。 
永平寺を開かれた道元は正治2年(1200)京都に生まれ、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。
道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。
道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。
しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。
師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。
道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。
日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺を建立する。
これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。
現在は曹洞宗の大本山として、僧侶の育成と壇信徒の信仰の源となっている。









通用門
通用門から吉祥閣に入る。ここで参拝者に対し修行僧から永平寺の概略並びに注意事項が説明される。
以前は短時間だが正座して聞くことになっていたが、時代の流れか、今は椅子が用意されている。
永平寺内は修行僧にカメラを向けるのは禁止だが、それ以外は自由に撮影できるので嬉しい。



傘松閣
156畳敷きの大広間で、昭和5年(1930)当時の天井絵をそのまま修復した。
天井絵は当時の著名な画家144名による230枚の華や町を中心とした色彩画。別名「絵天井の大広間」。






僧堂
明治35年(1902)の改築で「雲堂」「座禅堂」とも呼ばれているこの建物は座禅、食事、就寝の修行を行う根本道場である。
堂内には智慧の象徴である文殊菩薩を安置している。



仏殿
明治35年(1902)の改築で、中国宗時代様式の二重屋根と床は石畳となった。
中央の須弥壇の上には本尊の釈迦牟尼仏が祀られ、三体の仏像は左側から過去・現在・未来の三世を現している。
欄間には禅宗の逸話が図案化された12枚の彫刻がはめられている。









承陽門、承陽殿
明治14年(1881)の改築で、道元禅師の御真廟いわばお墓であり、日本曹洞宗の発祥の根源として曹洞宗の聖地と言うべき場所。
中央に道元禅師の御尊像と御霊骨が安置されている。









法堂
天保14年(1843)に改築された。説法の道場で、朝のお勤め、各種法要などを行う。
中央には聖観世音菩薩を祀る。七堂伽藍のなかで最も高いところに位置する。






瑞雲閣



大庫院
昭和5年(1930)の改築で、1階には食事を作る典座寮と呼ばれる台所がある。
玄関には「韋駄尊天」が祀られ、柱には永平寺名物の「大すりこぎ」が掛かっている。






鐘楼堂
昭和38年(1963)改築で、中に吊された「除夜の鐘」で有名な大梵鐘は重さが約5トン。
大梵鐘は1日に朝、昼、夕方、夜の4回、修行僧によって撞かれる。






山門
寛延2年(1749)に再建された中国唐時代様式の楼閣門で、両側には仏教の守護神である四天王が安置されている。
正面の柱には「ここは出家修行の道場である家風はすこぶる厳格である。
求道心の在る者のみ、この門をくぐるがよい」と入門の第一関を提起している聯がある。






報恩塔(納経塔)
平成8年建立、写経を納める塔。毎朝のお勤めで祈願、供養している。






唐門



白山水
白山連峰に連なる湧き水で、道元禅師にお供えする霊水である。






寺の各所から修行僧の大きな声が響いている。おそらく禅の作法に則り一挙手一投足指導を受けている声だ。
何かを学び、習得するということは、時に心身に大きな負担や苦痛を伴うことがある。
巷では何か事故が起こると、すぐに、それを否定するような風潮に残念ながらなっていく。
永平寺を修行の場に選択するということは実は大変なことだと思うが、あえて門を叩き学んでいる若い僧の声を聞いていると精神が落ち着いてくるのは私だけだろうか。

撮影 平成25年6月13日
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国分山 医王寺(石川県加賀市山中温泉薬師町)

2013年06月27日 | 神社・仏閣
昨夜は道の駅「倶利伽羅源平の郷」にて宿泊、松尾芭蕉が奥の細道で峠を通ったと記憶していため気分を味合うつもりで選んだ。
このブログは旅行を終え、自宅にて撮影した写真を見ながら書いているが、今日のスタートとなる医王寺については、なぜそこに行ったのか、まったく思い出すことができなかった。


国分山 医王寺の歴史
聖武天皇の天平年間(729~748年)、僧行基が自ら薬師如来の尊像を刻み開基したと伝えられ、承平年間(931~937年)に兵火に焼かれ、温泉と共に荒廃したが、建久年間(1190~1198年)に至り、長谷部信連が温泉を再発見、この寺を再興した。
多宝塔など現在の建物は昭和初年の大火で消失後、昭和33年に再建されたもの。
京都の蛸薬師、出雲の一畑薬師とあわせて、日本三薬師の一つとしてもしられている。
山中節の一節に「東や松山、西や薬師」と唄われ、古くから温泉入湯客の心と身体のやすらぎの寺として親しまれている。



きれいに整備されている庭で「やすらぎの寺」の意味がよくわかる。
 
多宝塔









瀧不動(水不足なのか滝という感じではなかった)。瀧不動側は岩盤で石仏が各所に置かれている。









夫婦円満の石仏



撮影 平成25年5月13日
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高岡山 瑞龍寺(富山県高岡市関本町)

2013年06月26日 | 神社・仏閣
富山県の瑞龍寺の伽藍、石川県にある大乗寺の規矩が天下一ということを、「伽藍瑞龍、規矩大乗」という。
以前、瑞龍寺を訪れたとき寺の規模の大きさと美しさに驚き、前田利長と利常との心打たれる物語を知り、さらに、居心地の良さを強く感じていたので再び訪れることになった。


瑞龍寺の歴史
曹洞宗高岡山瑞龍寺は加賀藩二代藩主前田利長公の菩提を弔うため三代藩主利常公によって建立された寺である。利長公は高岡に築城し、この地で亡くなった。
加賀百二十万石を譲られた義弟利常は、深くその恩を感じ、時の名工山上善右衛門嘉広をして七堂伽藍を完備し、広山恕陽禅師をもって開山とされた。
造営は正保年間から、利長公の五十回忌の寛文三年(1663)までの約二十年の歳月を要した。当時、寺域は三万六千坪、周囲に壕をめぐらし、まさに城郭の姿を想わせるものがあった。
国の重要文化財として、指定されている建造物は、総門、山門、仏殿、法堂、僧堂、回廊であり、江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価されている。


山門(国宝)
正保2年(1645年)竣工、万治年間に場所を移して建てかえられたが、延享3年(1746年)の火災で焼失後、長らく仮の門が建てられていた。
現存する門は文政元年(1818年)に上棟、同3年(1820年)に竣工したものである。
二重門で、屋根は入母屋造、柿葺き。二重門では下層の屋根を上層よりも大きくつくることが多いが、この門では上層と下層の屋根の出があまり変わらない。
下層には金剛力士(仁王)像を安置、上層内部には釈迦如来と十六羅漢像を安置する。












仏殿(国宝)
棟札により万治2年(1659年)の竣工とわかる。
入母屋造、一重裳階(もこし)付きの総欅造りで、屋根は当初杮(こけら)葺きであったが、現状は総重量約47トンの鉛瓦葺きとする。
鉛製の瓦を用いる理由は、俗説では非常時に鉄砲の弾にするためともいうが、実際は冬季の積雪対策のためだという。
内部を土間床とし、天井の構造材を見せて装飾としている点、組物(柱上にあり、軒や天井を支える構造材)を密に配する点などは禅宗様建築の特色であり、柱、扉、窓などの細部様式も典型的な禅宗様になる。









法堂(国宝)
墨書から明暦元年(1655年)の建立とわかる。
総桧造りの入母屋造、銅板葺き。内部を土間床とする仏殿に対し、法堂は畳敷きで、横2列、縦3列の6部屋を配する方丈形式の間取りで建坪186坪である。
手前の3部屋の前面には広縁(板間)があり、その前面は左右に細長い土間廊下とする。
こうした平面形式は曹洞宗建築の特色を示す。二代藩主前田利長の位牌を建物中央奥に安置する。

僧堂
重要文化財。延享3年(1746年)に焼失したが直後に再建された。



大庫裏
結露を防ぐために天井には漆喰が塗られ曲線になっている。
建物正面に韋駄天尊像が安置される。









石廟
前田利長公は本能寺の変後、織田信長公父子の分骨を迎えてその霊を慰めたと伝えられる。
利長公の菩提寺瑞龍寺を造営した時、開山広山恕陽禅師が利長公も加えて同じ形式の5基(前田利長、前田利家、織田信長、同室正覚院、織田信忠を祀る)を建造した。






前田利長公墓所
1614年(慶長19年)に没した前田利長の冥福を祈るため、3代藩主前田利常(利長の異母弟、後に養嗣子)が33回忌にあたる1646年(正保3年)に造営したものである。
周囲に堀を構えたその墓所の豪壮なことは武将のものとして全国的に珍しい。












撮影 平成25年5月12日
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芹谷山 千光寺(南砺市)

2013年06月26日 | 神社・仏閣
 道路地図で千光寺を知ったばかりで、予備知識も全くない。比較的大きな無料駐車場には地域の方の所有と思われる車1台が駐車していた。上り坂を歩いていくと案内板がでていて、それに従って行くと山門が見えてきた。

 千光寺の歴史
 千光寺の創建は大宝3年(703)、天竺の僧法道上人の開基と伝える古刹である。
 当初は三輪宗の寺院だったが衰退し空海が再興、その後真言宗の寺院として寺運が隆盛し、桓武天皇から7帝続けて勅願所となり毎年勅使を迎え入れた。
 永禄年間(1558~70)上杉謙信の越中侵攻の兵火にあい多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失したが天正年間(1573~92)、越中を手中にした豊臣秀吉は霊夢で千光寺の観音様から御告げがあり境内の整備を行う。江戸時代に入ると、加賀藩主前田家から庇護され寺領などが寄進された。

 山門(市指定文化財)
 寛政9年(1797)に井波大工柴田清右衛門によって建立。本瓦葺き、総欅造り、禅宗様形式の三間一戸二階二重門である。





 鐘楼堂
 




 観音堂(市指定文化財)
 文政2年(1819)9月、井波大工の松井角平恒徳により建築された。総欅造り、複合入母屋造りに、さらに唐破風の向拝を取り付けた様式。



  

 閻魔堂



 行幸門(市指定文化財)
 千光寺の通用門で、高岡市の瑞龍寺裏門を移建したもの。
 昭和44年5月、全国植樹祭に行幸された昭和天皇がこの門を通られたので、行幸門と呼ばれている。



撮影 平成12年5月12日
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杉谷山 瑞泉寺<井波別院>(富山県南砺市井波)

2013年06月25日 | 神社・仏閣
早朝から気温が上がっているのか暑さで目が覚めた。昨夜は意図を持って道の駅「井波」に宿泊した。
今日のスタートである瑞泉寺へ参拝するためだ。今回が2度目の訪問になるが、前回、何かを見逃したり、悔いを残したからではなく、寺内各所にある井波彫刻をゆっくり観たいと思ったからだ。

 
杉谷山 瑞泉寺の歴史
明徳元年(1390年)、本願寺5世綽如上人の開創、後小松天皇の勅願所。
永和年中(1375~1979)綽如上人は、杉谷の山中に草庵を結んで、宗祖親鸞聖人の教義をひろめていた。
当時、中国から国書が朝廷へ送られてきたが、その文字が難解を極めたため、青蓮院門跡は、博学多識の綽如上人を推挙した。
上人は越中から上洛し、かくて国書の意義が明らかになり、返書までしたため国の対面を保つことができた。

天皇は大変喜び、周圓の号を授け、聖徳太子絵伝八幅と太子二歳の南無仏木像を下賜された。
また、上人に北陸真宗の中心寺院建立の願いのあることを知らされた天皇は勧進状を認める料紙を贈り、勅願所として当寺を建立することを許可された。
明徳元年(1390)越中へ帰った綽如上人は、直ちに「勧進状」(明治38年国宝に指定)を作り、広く加賀・能登・越中・越後・信濃・飛騨・6カ国の有縁の人々から浄財を募り、瑞泉寺が建立された。
この寺は、北陸の浄土真宗信仰の中心として多くの信者を集め、越中の一向一揆の重要拠点ともなった寺院となっていく。



山門(県指定文化財)
天明5年(1785)釿始。京都の大工柴田新八郎が棟梁となって再建が進められるが、工事中に本山(京都 東本願寺)が全焼し、井波大工、松井角平が棟梁を受け継ぎ、文化6年(1809)に上棟式を行い山門を完成させた。
総欅の重層伽藍造り。楼上には釈迦三尊の木像を安置している。





太子堂
大正7年(1918)に井波彫刻の粋を集めて再建された。約16間(29m)四面、総面積約255坪の重層伽藍。
本尊は後小松天皇が綽如上人へ下賜された太子二歳の尊像。
毎年、7月21日~29日までに行われる太子伝会は、聖徳太子の一生を八幅の絵伝をもとに絵解きされる全国でも稀な行事。









鐘楼堂
昭和8年(1993)に再建。大梵鐘の大きさ(3372Kg)は北陸随一。井波大工の代表的建造物として名高い。



勅使門
寛政四年(1792年)瑞泉寺勅使門 菊の門扉、両脇に彫刻した「獅子の子落とし」は番匠屋九代七左衛門の代表作で、狩野派風な図柄で浮き彫りの技法が駆使され、日本彫刻史上の傑作とされている。



井波彫刻の由来
江戸時代中期、瑞泉寺本堂再建のおり、本堂彫刻のため、京都本願寺より、御用彫刻師・前川三四郎が派遣、このとき地元大工・番匠屋九代七左衛門ら四人がこれに参加し、前川三四郎に彫刻の技法を本格的に習ったのが井波彫刻の始まりである。
以後、その門流が江戸時代末期頃まで主に神社仏閣彫刻などにその技法を競っていた。
明治時代に入ってから寺院欄間に工夫をこらして新しい住宅用の井波欄間の形態が整えられ、特に初代・大島五雲は欄間彫刻の研究に没頭して新生面を開いた。












駐車場から山門までの数100mは、落ち着きがあり雰囲気のある古い町並みが続く。
彫刻処に入ると若い女性が一心不乱に欄間の彫刻をしている。伝統を引き継ぐという強い意志が感じられる光景だった。



撮影 平成25年5月12日
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高山陣屋(岐阜県高山市八軒町)

2013年06月24日 | 名所・旧跡
高山陣屋の歴史
元来は飛騨高山藩主であった金森氏の所有する下屋敷だったが、1692年(元禄5年)に幕府が飛騨を直轄領として以降、伊奈忠篤らによって整備され、代官所として用いられるようになった。
1777年(安永6年)以降は郡代役所となった。
明治維新後は筑摩県高山出張所庁舎として用いられた。1929年に国の史跡に指定された。
1969年まで県事務所として利用されていたが県事務所が移転後、現存する唯一の陣屋であることから文化財として保存する方針が示された。
1996年(平成8年)3月、1830年(天保元年)の絵図を基に約20億円を掛けて蔵番長屋、郡代役宅、奥座敷などが、ほぼ江戸時代の状態にまで復元された。
敷地と建物内は有料(420円)で一般公開され、内部には江戸時代の歴史資料などが展示されている。
表門の手前では毎日朝市が催されており、高山市内においては宮川朝市と並び陣屋朝市として親しまれている。









古い町並みが重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。









休日でもないのに観光客で賑わっている。
特に若者の姿が多い、若者よ働かなくていいのか、これからの日本はどうなっていくのだと思っていたら今日は土曜日だった。
のんびりした旅といえば聞こえはよいが、私の曜日感覚がすっかり麻痺してきている。
麻痺といえば左手で傘をさし、右手にカメラを持って歩いているとカメラの重さに耐えきれず右手に異常なふるえがでてきている。

本格的な雨になってきた。高山から白川郷へ向かう。
しばらくして白川郷に到着したが、雨が強くなり車から降りる気持ちになれなかった。
駐車場の係りの人は仕事熱心で車を見ると腰の黒革のバックに手を入れ駐車券なのか釣り銭なのか用意して待っている。
今日は車の中から見るだけで満足しようと心に決めていたので、手を振り自分の意志を相手に伝えた。がっかりした姿が印象的だった。

撮影 平成25年5月11日
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飛騨大鍾乳洞(岐阜県高山市丹生川町日面)

2013年06月24日 | 名所・旧跡
今日は朝から雨が降っている。昨夜は道の駅「風穴の里」に宿泊した。
目覚めはよかったが雨予報のため、今日の予定が立たない。大雑把な計画だが日本海側を通って九州に行こうと考えている。
そのために、今いる場所から日本海側に出る、飛騨高山経由、世界遺産の白川郷に向かうコースを選択した。
7年前も同じ経路で白川郷まで車を走らせた記憶がよみがえった。
朝6時、新潟港から出発し白川郷に着いたのは確か午前1時か2時だったような気がする。
1日で約700キロの距離を走り抜けたことになる。
年齢も増し、今はそんな無茶な運転はできないし、やらない。しかし、道路環境が繰り返し運転者と車に試練を与えてくれる。道路幅の狭さ、坂の上り下りに連続したカーブ。ナビも「カーブです。注意して下さい」の連呼。
車の運転に疲れが出てきていた頃、鍾乳洞の案内板が目に入った。水分摂取量の関係で尿道からのシグナルも脳に伝わってきていたこともあり、急遽、車を右折させ2キロ先にある鍾乳洞を目指した。


飛騨大鍾乳洞
岐阜県高山市丹生川町の「飛騨大鍾乳洞」は日本全国に約80ヶ所あるという観光鍾乳洞の中でも、日本一の標高900mに位置し、1965年に大橋外吉により発見された。
このあたりは2億5千万年前には海だったため、海の中のサンゴなどから石灰石ができ長い年月の間に雨水に溶け、少しずつ堆積して鍾乳洞がつくられていった。










入場料金(1000円)を払い発見者のコレクションを見学後、洞内に入る。
恥ずかしい話だが鍾乳洞へはこれまで入ったことがない。どのような景色に遭遇するのか大いに期待していた。
予想とは違い、眼前に広がっているのはカラーの世界で白黒を意識していたので少し驚いた。















洞内の案内は特に老人にやさしい。
第1~第3洞内のなかで見所は第1洞内であり、特に、第3洞内へ行くには急坂があるため、足の悪い人は注意するよう各出口付近の案内板により呼びかけていた。
私は口は悪いが足は太くて短いだけなので最後の第3洞内まで進んでみた。もちろん第2や第3洞内にも見所は点在していたが、案内板の通りの結果だった。
初めての鍾乳洞の感想だがライトアップについて。ここまでカラフルにする必要があるのか、自然色の方が重厚感があるのではないか。
発見から公開に至るまでの苦労が歩きながら肌で感じることができるだけに残念だった。(個人の勝手な感想)

撮影 平成25年5月11日
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松本城(長野県松本市丸の内)

2013年06月22日 | 
松本城の歴史
永正年間(1504-1520年)に、松本平の信濃府中に井川館を構えていた信濃守護家小笠原氏が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まり。
後に甲斐の武田氏の侵攻を受け小笠原氏は没落、武田氏は林城を破棄して深志城を拠点として松本平を支配下におく。
武田氏滅亡後の天正10年(1582年)、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城に改名した。

天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ当時の松本城主小笠原秀政に代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う。
現存する天守を築造したのは石川康長で、文禄2~3(1593~4)年頃。別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている。


松本城(国宝)









松本城へは2度目になるが前回は午後8時過ぎに到着し駐車場も閉鎖され停めることができなかった。
近くのコンビニで買い物をして事情を話し短時間であればと駐車をさせていただいた。急ぎ足でお堀の周りを歩きライトアップされた城を観た。

今回は城内を見学したかったので善光寺からアクセルに力を込め松本に向かった。
午後3時30分駐車場に到着、閉門時間には比較的余裕があったが、小雨が断続的に降っていてカメラも無防備な状態だったので城内に入ることにした。
城内には見所がたくさんあったが、階段を含め狭い空間が多く、さらに外国人を含めたくさんの観光客がいたため、カメラを構えると周囲の動きを止めてしまい迷惑になってしまうので、残念ながら撮影を控えることにした。
天守4階(写真左側)6階(写真右側)には有事の時、城主の座所となる場所がある。










月見櫓の様子






同じような写真がまた出てきたが駐車場から城までの間では、城の美しさを感じ取ることができる一番好きな場所だ。
もし、次回があればの話であるが、青空の下で撮してみたい城である。



撮影 平成25年5月10日
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定額山 善光寺(長野県長野市元善町)

2013年06月21日 | 神社・仏閣
善光寺の歴史
善光寺は、1400年の歴史を持つ、本尊は「一光三尊阿弥陀如来」で、インド・朝鮮半島百済を経て、欽明天皇13年(552年)に日本に渡り、本田善光が信州の地に安置した。
本田善光が開山のお寺であることから、「善光さんのお寺(善光寺)」と呼ぶようになった。


三門(重要文化財)
寛延3年(1750年)に建立された二層入母屋造りの門。
屋根は大正年間の葺き替え時に檜皮葺きとなったが、平成大修理において、建立当時と同じサワラの板を用いた栩葺きに復原された。
楼上には輪王寺宮筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられている。これは通称「鳩字の額」と呼ばれており、3文字の中に鳩が5羽隠されている。
更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われ、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を如実に物語っている。



本堂(国宝)
本堂は創建以来十数回もの火災に遭ったが、そのたびに善光寺を慕う全国の信徒によって復興されてきた。
現在の本堂は宝永4年(1707年)の再建で、江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定されている。
間口約24m、奥行き約54m、高さ約26mという国内有数の木造建築で、T字型の棟の形が鐘を叩く撞木(しゅもく)に似ていることから「撞木造り」と呼ばれている。
屋根は総檜皮(ひわだ)葺き。
本堂内陣(畳敷きの間)とお戒壇巡りには内陣券500円(含史料館)が必要になる。
仏像を近くで鑑賞(お参り)できるということはとても大切なことで仏像好きな私にとって遙拝するよりははるかに価値があると思っている。



最奥の瑠璃壇には、御本尊・一光三尊阿弥陀如来様をお祀りしている。
善光寺のご本尊は三国伝来の「日本最古の御仏」といわれている。
善光寺縁起によると、善光寺如来は日本に渡って約100年後、信州長野に運ばれて10年ほどが立つ頃に自身のお告げにより、お隠れになったとされている。
それ以降、善光寺本堂奥の厨子の中に安置されている。
善光寺のご本尊は絶対秘仏であり、現在に至るまで参拝者ばかりでなく、善光寺の僧侶でさえ見たことがないといわれている。

経堂(重要文化財)
宝暦9年(1759年)に建立された宝形造りのお堂。内部中央には八角の輪蔵があり、その中には仏教経典を網羅した『一切経』が収められている。
輪蔵に付属している腕木を押し回すことでこの『一切経』を全て読んだことと同じ功徳が得られるといわれている。また、経蔵内には輪蔵を考案した傅大士、並びに伝教・慈覚の両大師像が祀られている。






鐘楼・梵鐘(重要美術品)
嘉永6年(1853年)に再建された檜皮葺の建物で、南無阿弥陀仏の六字にちなんで6本の柱で建てられている。
梵鐘は寛文7年(1667年)鋳造の名鐘であり、重要美術品に指定されている。
毎日午前10時から午後4時の毎正時に時を知らせる鐘として、更に長野オリンピックの開会を告げた鐘として親しまれている。






善光寺近隣にある有料駐車場だが屋外にあるのにもかかわらず、入口ゲートに枠があり2m以上の高さのある車は駐車できない。
渋滞していてやっと入口にたどり着いた瞬間駐車できないことがわかり後続の車には大変を迷惑をかけてしまった。
周辺に運良く東山魁夷の美術館があり駐車もできたので入館後、大急ぎで善光寺を参拝することになった。今回、写真の枚数が少ない理由でもある。

撮影:平成25年5月10日
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梅洞山 岩松院(長野県上高井郡小布施町大字雁田)

2013年06月20日 | 神社・仏閣
小布施町には7年前に一度訪れたことがある。なぜ訪れたのかは記憶にないが、北斎館での記憶は鮮明に残っている。
偶然入館したと思う。その時は葛飾北斎と小布施町との関係もよくわからなかった。
館内で晩年の北斎の作品にふれ、その日が猛暑ということもあったが、2時間近く館内にいたということは、私にとっては異例なことで心のどこかに火がついていた。
そして、その時悔いを残してきたことが、今日の訪問へと結びついた。    

道の駅「おぶせ」、この車での記念すべき初めての車中泊の地となった。
目覚めもよく快適な朝を迎えた。お湯を沸かし、コーヒーを入れ朝食を済ませ、NHKの朝ドラ「あまちゃん」終了と同時に私の今日が始まった。

浄光寺薬師堂の歴史
現薬師堂は、昭和21・22年の根本大修理の際発見された墨書や「お薬師さん」の胎内銘により、室町時代初期の応永15年(1408)の建立が明らかとなり、国の重要文化財に指定された。
茅葺き屋根の入り母屋造りで、天下屈指の最優秀作といわれる蟇股や巻き込み渦文の多い木鼻、外陣天 井を化粧屋根裏とした手法等にすばらしい技術が見られる。
特に板壁に残る極彩色の仏画、内陣柱上の斗供などは優秀で室町時代初期の代表的な建築 と高い評価をえている。


 
雁田薬師の七不思議のうち2つを写真により紹介していく
○その1 参道の石段 :雁田石の自然石を一見無造作に積み上げたように見えるが、下の方から体を低くして見上げると、石段の鼻先が一直線に揃っていて、何百年も崩れたことがない。

何も知らないで参道に進むといろいろな意味でこの石段には驚かされる。
参拝を済ませ山門に戻り、たまたま押した説明用のボタンにより、スピーカーから流された説明で初めてこの事実を知り、再び参道の石段へ戻ってみた。
置かれている自然石もこれまで踏みしめたことのないような感触で、無造作にみえるが実に歩きやすく理にかなった大変雰囲気のある石段である。
最初とはまったく違った感想になった、人間の不思議な所だ。
なお、このお寺は説明用のボタンを押し、説明に合わせて参拝するというしくみになっている。
終えてから押すとその場から去りにくくなるし、多くの時間を費やすことになる。









○その2 薬師堂の起源:天平の時代、この小布施に建立されたことが不思議といわれている。

見てのとおり姿形のよい御堂である。御堂の右壁に國宝薬師堂と読める額があったということは何らかの理由により重要文化財になったのか。
御堂の中には薬師瑠璃光如来十二神将 通称「お薬師さま」が安置している。
のぞき窓のような所から見ても堂内がとても暗くよく見えなかったため、いつものように機械の力をかり、長野県宝「お薬師さま」をやっと拝見することができた。












梅洞山 岩松院の歴史
荻野備後守常倫が雁田の辺に20端の城塁をつくり領し岩松と称した。開創は、文明4年(1472年)。常倫の開基で、開山は不琢玄珪禅師。
伽藍には、本堂(136,5坪)と庫裏、鐘楼、坐禅堂、仁王門がある。本尊仏は宝冠をいただく釈迦牟尼仏で、江戸時代初期の作。






鳳凰図
北斎88歳から89歳にかけての作品。北斎は小布施に4回訪れている。4回目の滞在約1年をかけて天井に鳳凰図を描き、翌年江戸に戻り、90歳で亡くなっている。大きさは畳21畳。

7年前小布施で悔いを残したと思ったのが北斎の天井画だった。楽しみにしていたが期待していたものとは違った。まさか極彩色の天井画だとは考えてもみなかった。
それでも、八方睨みには興味があったので場所をかえながら見ていると「お静かに座って鑑賞」と書かれている。性格の悪い私には良く理解できなかった。
受付けの方々の世間話をしている声がやけに耳についたのが原因だったのかも知れない。
帰り際、仁王門付近である女性に「どうでしたか」と声をかけられた。「さすが北斎ですね。素晴らしいですよ」と応えた。



福島正則公御霊廟
元亀天正年間の戦国武将豊臣秀吉の重臣として賤ケ岳の戦いでは「七本槍の第一」と称せられ、また関ケ原の合戦でも勇名をはせ、広島城(49万8千石)の大大名になったが幕府の謀略により元和5年(1619)秋、この信越地方(4万5千石)に国替えさせられた。
在信5年で悲運を嘆きつつ寛永元年(1624)7月13日64歳で薨じた。その際幕府検死役を待たずに遺体を火葬したとして領地は没収された。
当寺の第十世領国壽鑑大和尚が、福島正則公の遺骸を収めて本堂東北の山手に埋めて厚く供養した。これが岩松院にある「福島正則公のおたまや」である。






撮影:平成25年5月10日
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戸隠神社 奥社(長野県長野市戸隠)

2013年06月18日 | 神社・仏閣
戸隠神社の歴史
戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社。
その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしている。
平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場で、神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えた。
明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至る。
  
居多神社を出発したのは午後3時過ぎ、急いで行けば間に合うかも知れない。戸隠神社にナビをセット、いくつかの候補地から奥社を選択した。
ナビ任せで目的地を目指すが道が狭くてカーブが多い。実は運転している車は新車でフェリーに乗るまで家の周辺を数十キロ慣らし運転しているだけで、軽い気持ちで家を出ていたのだ。
車はハイエースのスーパーロング、自家用車としてはかなり大きい。奥社駐車場と思える場所にきたがナビはまだ先を案内する。
しばらくすると、道は一層狭くなり、対向車がきてもすれ違うことができない。
さらに、ナビはこの先道が狭くなりますと案内。車など通れる道ではなく苦労してUターン、最初の駐車場に戻った。







随神門
午後4時半を過ぎ参道入口の鳥居に到着、案内図によると片道2キロ、所要時間40分と書いてある。5時までには目的地に到着したいと思い急ぎ出発した。
まるで競歩をしているような感覚で中間点の「随神門」まで行く。
ところが、ここから雪解け水のため参道に水がたまり歩き難い、しかも平地から上り坂、さらに階段が続く。
捻挫している足も痛い、呼吸も苦しい。






2年前知人と宮崎県にある「天の岩戸神社」に参拝したところ、天の岩戸神社と戸隠神社の岩の成分が同じだと神職の説明を受けたこと。
また、違う知人からは、岩戸を隠したから「戸隠」の地名がついたのかな。などの話を聞いたことが今回この神社を目指すきっかけとなった。






戸隠神社 奥社
祭神 天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
日本神話にある、天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、無双の神力をもって、天の岩戸をお開きになった天手力雄命を戸隠山の麓に奉斎した事に始まる。
参道は約半里(2キロ)、中程には萱葺きの赤い随神門があり、その先は天然記念物にも指定されている樹齢約400年を超える杉並木が続いている。






平日、この時間帯になると参拝者もいない。奥社をあとにし周囲の風景を楽しみながら駐車場へと向かう。
7年前になるが車で東北旅行をしているときに旅行雑誌で戸隠神社のことを読んだことがある。
当時、神社にはまったく興味がなく、しかも7月の暑い日にただ4キロも歩くだけということで目的地にしなかった。
不思議なもので、今、この地に立ち、その記憶がよみがえった。

中間地点の「随神門」に到着。午後6時半にもなると随神門の赤い色もくすんで見える。
神様に手を合わせたお陰で疲れも、足の痛みも消えた。随神門内部からの風景も、あと15分で今日の旅が終わるかと思うと、なぜかすばらしく見える。



撮影:平成25年5月9日


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安国山 華蔵院 国分寺<五智国分寺>( 新潟県上越市五智)

2013年06月18日 | 神社・仏閣
五智国分寺の歴史
天平13(741)年に聖武天皇が日本の平和と繁栄を祈願して建立された越後の国の国分寺、本尊が五智如来なので、五智国分寺ともいう。


安国山 華蔵院 国分寺(五智国分寺)
春日山城跡から車に戻り道路地図を開くとこの近くに大きな赤文字で記載されている五智国分寺。
さっそく次の目的地に設定し、どんな寺なのかと想像しながら運転していると、ほどなく目的地である寺が見えてきた。
寺のすぐ近くに無料の駐車場もありリズムよく境内へと進むことができた。

山門
一礼して山門から入るとふつう受付所があり係の人が一礼して待っていることが多いが、このお寺にはそれがない。
ということは拝観料が必要ないということだ。切り詰めた旅行をしようと心に決めているだけに大変ありがたい気持ちになった。
さて、現在の山門は、天保6年(1835)能生谷小見村(能生町)の七郎左衛門が中心となって再建。
両脇には、仏教の守護神である仁王像が安置されている。
この像は、高さ2.7mの寄木造でできていて、天保7年(1836)に名立町出身の長井要壱と弟子2人によって製作された。









経蔵
山門の右側には大好きな三重の塔があったが、それ以上に気になったのが左方向にある年代物の建築物だ。
寺では古いものほど価値があると単純に理解しているで、さっそく裏側にも回ってみると壊れている箇所があり、しかも放置されたままになっている。
特に説明の立て札もなくやはり勘違いなのかとその時は思っていた。後に登場する男性が現れるまでは。
経蔵の棟札によって、元禄6年(1693)2月22日に上棟されたことがわかり、これは上越市内で記録のはっきり残っている最古の建物ともいわれている。
またこの経蔵には、鉄眼版一切経と呼ばれる一大仏教全集が納められていて、元禄5年の寄進銘が記されている。



三重の塔
寛政6年の火災以後、安政3年(1856)に宮大工曽武川常右衛門、江崎長三郎の手により着工された。その後、慶応元年(1865)に上棟され整備されてきたが、高欄などが未完成のまま現在に至っている。塔の壁面には高田の名工石倉正義銘の十二支と中国十二孝の半分の彫刻がはめ込まれている。






塔好きの私だがこの塔には何か違和感があった。よく見ると相輪部分が変形しているではないか。
写真を撮っていてもバランスが悪い、自然シャッターを押す回数が減っていく。この塔は未完成ということだがシンプルな美しさがある。一日もはやく美人さんになってほしい。



本堂
天平年間(740年代)に、聖武天皇の勅願によって建立された越後国分寺の所在地は現在わかっていない。
永禄5年(1562)上杉謙信によって、現在の場所に再建された。
その後幾度となく災興を繰り返し江戸時代には元禄2年、寛政6年と火災に遭い、現在の本堂は昭和63年焼失(本尊の五智如来も焼失)後の平成9年に再建されたもの。



梵鐘
この梵鐘は、世界初のステンレス製の梵鐘。住友金属直江津工場の鋳造修了記念として、国分寺の再建と人々の幸せを願い寄進されたもの。



竹之内草庵
承元元年(1207)、専修念仏禁止の弾圧により、親鸞聖人は越後の国に流罪となった。
その時、国分寺住職は、聖人とは比叡山で同学の友であり、国司に申し出て境内の五仏のそばに草庵を結び、この国分寺にお住まいになった。その草庵は、竹林に囲まれていたので竹之内草庵と呼ばれるようになった。
また、草庵には聖人が関東に旅立たれる際、別れを惜しむ同行の心根を思い、国分寺の北にある鏡ヶ池に姿を映し刻まれた親鸞聖人坐像が安置されている。






駐車場に戻ろうとしたとき、境内でお見かけていた男性から声をかけられた。五智歴史愛好会の会員でと紹介され、この地域の歴史について説明していただけるとの有り難いお話し。
再び寺に戻り、寺の歴史に加え会の研究結果やご自分の感想も含めて、詳細な説明(先に記載した経蔵の価値や私が気づかなかった細かな彫刻でしるされた意味、敷石の生産地にいたるまで)をしていただいた。さらに続きが。

親鸞聖人上陸の地
承元元(1207)年、念仏停止によって越後国府へ流罪となった親鸞聖人は、居多ヶ浜に上陸した。35歳から42歳までの7年間をこの国府で過ごした。



私は信仰心には欠けているが親鸞聖人は我が家にとっても大切な方である。
五木寛之の小説「親鸞」を含め数冊の書物によりある程度の知識はある。歴史を知るとただの海岸がそうでなくなるから面白い。 
展望台の階段の数が6段ずつに区切られている。「南無阿弥陀仏」の6文字を意識してデザインされているそうだ。



振り返ってみると道路のラインも違う。越後の七不思議「片葉の芦」がデザインされている。



居多(こた)神社<越後一の宮>
居多神社の歴史
大国主命、奴奈川姫、建御名方命を祭神とする式内社である。朝廷から弘仁4(813)年に従五位下を、貞観3(861)年に従四位下を賜った。古代、越後国司の厚い保護を受けて栄えた。
境内には、越後七不思議の一つ「片葉の芦」がある。これは、葉が片方にのみ生える芦が群生しているものである。親鸞が当社に参拝し念じたところ、一夜で境内の芦が片葉になったと伝えられている。



ご利益が縁結び、子宝、安産ということで若い女性の姿が多い。






歴史愛好会の男性の自家用車で私をここまで案内し説明を。そして「五智歴史散歩」という大変立派な冊子まで頂戴した。
また、次回この地にくることがあったら「明静院(木造大日如来座像)」がお勧めですよと笑顔で教えていただいた。あっという間の2時間、感謝の気持ちで一杯になった。
 
撮影:平成25年5月9日

    
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