今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

八重垣神社(島根県松江市佐草町227)

2024年07月31日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月22日
八重垣神社(旧称:佐久佐神社)
憧れていた神魂神社参拝後の予定については全く考えていなかった
スマホで最寄りの有名寺社と検索すると、徒歩2km圏内に八重垣神社があった
昨年、この神社を初めて訪れたのだが、神魂神社が近くにあるとは思わなかった

八重垣神社の夫婦椿(連理玉椿)
その昔稲田姫命が2本の椿の枝を立て、それが芽を出し一身同体になったと伝えられた夫婦椿
東京資生堂の花椿会の由来とされている



鳥居
額には社号の「八重垣神社」
日本神話に登場する「ヤマタノオロチ」を退治した素戔嗚尊とその妻になった櫛稲田姫縁の神社である



手水舎



随身像
神社境内の神門に置かれ、神社を警護するものとして造られた像






神門の先に拝殿が見える



狛犬
歴史を感じる狛犬



製作年代は不明
この地方の「出雲構え型」とも異なる容姿で、来待石を使った狛犬



由来記
素盞嗚尊と櫛稲田姫の故事から縁結びの神社として信仰を集める



拝殿
素戔嗚尊は天より降って出雲の國の簸の川上に到った。その時、川上で泣き声が聞こえた
そこで声の方を尋ねると、老夫婦がきれいな少女を間にして泣いていた
老夫婦は脚摩乳(あしなづち)と手摩乳(てなづち)といい、少女は二人の娘で奇稲田姫(くしいなだひめ)といった



素戔嗚尊は泣いていた理由を尋ねた
老夫婦にはもともと八人の娘がいたが、毎年一人ずつ八岐大蛇という怪物に食べられてしまい、末娘の奇稲田姫だけになってしまった
そして残った奇稲田姫ももうじき食べられてしまうので、悲しくて泣いていたのだという



素戔嗚尊は、「八岐大蛇を退治する代わりに奇稲田姫を嫁に欲しい」と申し出た
老夫婦は喜んでその申し出を承諾した。すると素戔嗚尊は奇稲田姫の体に触れ、たちどころに湯津爪櫛(ゆつつまぐし)の形に変えてしまった
素戔嗚尊は湯津爪櫛になった少女を御髻(みづら)に挿し、脚摩乳と手摩乳に八回醸した酒を作らせ、八面に塀を立て、各々一つずつ樽を置き、酒を盛らして待った



時が過ぎ八岐大蛇が現れた。頭と尾はそれぞれ八つずつあり、眼は赤い鬼灯のようであった。
松や柏が背中に生えていて、八つの丘、八つの谷の間に延びていた。
大蛇は酒を飲もうとして、頭を各1つの樽に入れて飲み、酔って眠ってしまった。
そこで素戔嗚尊は十握剣(とつかのつるぎ)を拔いて、ずたずたに八岐大蛇を斬った。
尾を斬った時、剣の刃が少し欠けた。そこでその尾を割り裂いて見ると、中にひとふりの剣があった。
これがいわゆる「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」である

本殿
祭神:素盞嗚尊、櫛稲田姫



本殿背面






参集殿



伊勢宮
祭神:天照大御神



脚摩乳神社
祭神:脚摩乳命(稲田姫命の父親)






手摩乳神社
祭神:手摩乳命(稲田姫命の母親)



貴布禰神社
祭神:高靇命



石碑
素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した後
「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」
と詠んで櫛稲田姫との住居を構えた



松尾芭蕉の句碑
「和歌の跡とふや出雲の八重霞」



社日社
社日とは春分及び秋分に最も近い戊(つちのえ)の日



山神神社
祭神:大山祇命



宝物収蔵庫
重要文化財の「板絵著色神像(本殿板壁画)3面」が収蔵されている



奥の院へ
奥の院 佐久佐女の森 入口



鏡の池
素盞嗚尊が八岐大蛇を御退治する際、稲田姫を難から救った場所
森の大杉の周囲に「八重垣」を造り、稲田姫を隠した



天鏡神社
祭神:稲田姫命



稲田姫命が八岐大蛇の難を避けるため、八重垣に隠れた時に飲料水とし、また姿を写した池と伝えられている






「鏡の池の縁占い」
近くに若いカップルが、池に占い用紙を浮かべていた
早く沈めば縁が早く、遅く沈むと縁が遅く、近くで沈むと身近な人、遠くで沈むと遠方の人とご縁があると伝えられている
硬貨を乗せた紙は遠くへ流されていく
そこで女性が放った言葉が「今度はどんな人と出逢うのだろう」



現代の「稲田姫」は頼もしい(笑)






撮影 令和6年5月22日
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神魂神社(島根県松江市大庭町563)

2024年07月30日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月22日
神魂神社(かもすじんじゃ)
国宝の社殿があるということで、何度も訪れてみたいと思っていた
ところが島根県には出雲大社を含め、魅力的な場所が多く、いつも忘れてしまう
今回は砂の美術館、松江城に加え神魂神社の3カ所は必ず訪問すると心に決めていた

二の鳥居
鳥居横にある駐車場で休憩と昼食を摂りながら参拝者の様子を見ていた
ハイキングの服装の人も多く険しい参道なのかと不安になった



社号の刻まれた石碑を通り参道を歩く



手水鉢



「女坂(まわり道)」という案内板があったが、今日は男らしくいくことにした



石段はあるものの数十段先に社殿の姿が見えていたことが強気になった理由だ



拝殿
歴史を感じる無骨な石段を上ると拝殿が見えてくる



出雲大社近傍にある意宇六社(熊野大社、真名井神社、揖夜神社、六所神社、八重垣神社、神魂神社)の一つ



拝殿内部






額のようなものだが文字は無い
濃淡を強調してみると動物のようにも見える(出雲なので兎か?)






社殿全景



本殿(国宝)
本殿は国宝に指定され、心御柱古材に「正平元年丙戌十一月日」の墨書銘がある
柱古材は、正平元年(1346年)の柱と考えられる



社殿は落雷により消失したため、現在の社殿は天正11年(1583年)に古式に則って再建されたもの
室町時代の造営形態を引き継ぐ神魂神社本殿は、出雲国にのみ分布する大社造のなかの最古の遺構である



出雲大社本殿に類似するが、規模は小さく広さは約5.5 メートル四方、切妻造り
屋根は栃葺き、3本の鰹木と「女千木」と呼ばれる内削ぎの千木が乗る



国宝の社殿を間近で観ることなどあまり経験できないが、ここでは屋根の構造などを確認することができる






社務所



御釜宮
天穂日命が、高天原から御釜に乗って大庭の里に現れたという伝説により、御釜神事が行われる



右から「熊野社、伊勢社、杵築社」



熊野社



伊勢社



杵築社



本殿背面に移動する



殿内の中心に建つ心御柱(しんのみはしら)



9本の宇豆柱



貴布祢稲荷両神社(重要文化財)
右側が「貴布祢社」祭神:闇龗神
左側が「稲荷社」祭神:倉稲魂神



狛犬












外山社



荒神社



これは何だろう



先へ進むと磐穴がある



磐穴内部



右から「蛭子社、武勇社」



蛭子社



武勇社



国宝と重要文化財



主祭神:伊弉冊大神(いざなみのおおおかみ)
配祀神:伊弉諾大神(いざなぎのおおかみ)






社殿を後にする



参道を歩き駐車場に戻る



撮影 令和6年5月22日
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松江城(島根県松江市殿町1-5)

2024年07月29日 | 
訪問日 令和6年5月22日
松江城(国宝)
国宝に指定された松江城を観てみようと、昨年周辺まできたが駐車場が満車で断念
この日は早い時間帯に駐車場に到着した



松江城には平成21年(2009年)7月に一度訪れた事がある
その時には、駐車場の男性が「札幌」ナンバーを見て「遠くからよく来てくれた」と歓迎されたことを覚えている
帰りには「いい物をあげようかな」と係の男性が笑顔で話しかけてきた
数回子どものようなやりとりの会話があり手に入れた「いい物」とは松江市内の観光マップが書かれている「うちわ」であった
「使わないけどもらっていく」と私。互いに笑顔で手を振りながら別れたことを今でも思い出す



二ノ丸下の段の遺構
江戸時代には米蔵や屋敷などがあったところ
明治維新となり不要になった建造物群は天守閣を除いて取り壊されてしまった






城といえば石垣



場所によって積み方が異なっている



いくつかの城巡りをしているが、石垣の除草作業を目にするのは初めてである



綺麗な石垣を維持管理していくには、かなり危険で地道な手作業が必要ということを知った



国宝 松江城(別名:千鳥城)
松江城は全国に12城しか残っていない現存天守の1つ
慶長16年(1611年)完成の松江城天守は、彦根城、姫路城と並び、近世城郭最盛期を代表する天守



山陰地方で唯一の現存天守であり、国宝指定された5城のうちの一つである
他は、犬山城、松本城、彦根城、姫路城



天守入城料は大人 680円



城内の様子



旧鯱



国宝指定の要因



祈祷札



通し柱
全国で同時期に多くの城が築城されていた中で松江城の築城も始まり、木材が不足していた



そのため姫路城の心柱のような大きな柱を作る木が手に入らなかった
心柱を使わない2階分の短い「通し柱」を配置して天守を支える構造となっている
天守の柱308本の柱のうち96本が通し柱



包板(つつみいた)
天守を支える柱には、一面だけ、あるいは二面、三面、四面に板を張って鎹(かすがい)や鉄輪(かなわ)で留められている物がある
この柱を覆う板を「包板」と呼ぶ
天守にある総数308本の柱のうち130本に施してあり、割れ隠しなど不良材の体裁を整えるためのものと考えられている



石落とし



松平直政公初陣之像
真田信繁(幸村)が守る真田丸を攻める14歳の松平直政の初陣姿
信繁は、その勇ましい姿に軍扇を投げ与えたという



刻を知らせた太鼓



天守からの眺望(宍道湖方面)



修復作業中の城内



歴史を少し
天正 18年(1600年)堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)、関ヶ原の戦功により浜松より出雲隠岐24万石加増移封
慶長16年(1611年)正月までに松江城が完成<同年6月吉晴死去>
寛永10年(1633年)堀尾忠晴死去 嗣子無く改易



寛永10年(1634年)若狭小浜藩から京極忠高が移封
三の丸を造営し、ここに松江城の全容が完成
寛永14年(1637年)京極忠高死去 嗣子無く改易



寛永15年(1638年)信濃松本藩から松平直政移封(約230年の治世)



写真では観光客の姿はないが、実際は平日でも予想以上に多い
半数は外国人観光客で高齢者も多く、急な階段の昇降には苦労していた



松江神社(島根県松江市殿町1番)
松江城に隣接している



明治10年(1877年)旧松江藩の有志により、西川津村(現松江市西川津町)楽山に松平直政を御祭神とする楽山神社として創建
寛永5年(1628年)堀尾忠晴が朝酌村(現・松江市西尾町)に創建した東照宮の御神霊を明治31年(1898年)に合祀
翌、明治32年(1899年)に現在地の松江城山二之丸に遷座して、神社を「松江神社」と改めた



狛犬






手水舎
寛永16年( 1639年)の建造 前述の東照宮から移設



拝殿
寛文元年(1661年)建造の権現造



本殿
寛永5年(1628年)建造
祭神:松平直政(松江松平家初代藩主)
合祀神・徳川家康(東照宮)



興雲閣(島根県松江市殿町1-59)
松江城内に明治36年(1903年)に明治天皇行幸時の御宿所として建設された擬洋風建築の迎賓館



松江市が松江工芸陳列所の名目で建設した明治天皇行幸の際の御宿所
日露戦争勃発により明治天皇の行幸は実現しなかった
明治40年(1907年)5月に当時の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が行啓し、当館を宿泊施設として使用した



石碑
明治21年(1888年)建立
「西南の役」と島根県民のかかわりを示す貴重な歴史資料



入館料は無料
ポーチ上にある応接室兼拝謁所



貴顕室
大正天皇が皇太子時代に宿泊された場所(立入禁止)で3部屋ある

「御寝所(畳敷)」



「拝謁の間」



「御座所」



駐車場に戻る
松江開府の祖 「堀尾吉晴公の像」



撮影 令和6年5月22日
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美保神社(島根県松江市美保関町美保関 608番地)

2024年07月28日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月21日
美保神社
創建の由緒は不詳であるが、8世紀に編纂された「出雲国風土記」の神社台帳に記載される古社である
近世頃から「大社(出雲大社)だけでは片詣り」と言われるようになり、参拝者が増えるようになった
出雲大社とあわせて「出雲のえびすだいこく」と総称される

鳥居
これまで二度訪れているが、鳥居の周辺は参拝者が多くこのように全体を撮ることができなかった



社号標と鳥居
石造りの鳥居を良く見ると、上下二つに分かれている



狛犬






手水舎



祓所(はらえじょ)



社務所



神門(随身門)



<神門廻廊内>
大鼕(おおどう)
国指定 重要有形民俗文化財「美保神社奉納鳴物」内の一点









御霊石(おたまいし)



巫女が拝殿に向かい歩いて行く



祈祷者の前での古式豊かな舞い



宮御前社



社殿
拝殿は昭和3年(1928年)の建築で新しいものだが、本殿は大社造りを二棟並べて装束の間でつないだ建築



本殿(重要文化財)
現在の本殿は寛政12年(1800年)の火災の後、文化10年(1813年)に再建されたもの
大社造の左右二殿連棟の特殊な形式で「美保造」または「比翼大社造」といわれている



祭神:三穂津姫命(みほつひめのみこと)
大国主神の后神。高天原から稲穂を持って降り、人々に食糧として配り広められた神様
美保という地名は、この神の御名に縁があると伝えられている



写真左 祭神:三穂津姫命
写真右 祭神:事代主大神



若宮社






祭神:事代主神(ことしろぬしのかみ)
大国主神の第一の子神。鯛を手にする福徳円満の神えびす様として世に知られ信仰されている
また、出雲神話・国譲りの段において父神・大国主神より大変重要な判断を委ねられた尊い神様






美保神社の絵馬
大漁や海上安全を祈願する絵馬も釣り竿をイメージされている



数年前にテレビ番組で美保神社の「氏子の祭祀組織」について放映されていた
役前(やくまえ)についてである
役前とは、頭人・両當屋・客人當・両休番の6人のことをいう



1年間(頭人は客人當から始まり4年間)毎日欠かすことなく、子の刻(真夜中)に潮掻(しおかき、海に入って心身を清めること)をして美保神社本社や頭人宮・末社等に参拝する
参拝途中に他人と出会えば「穢れた」として再度潮掻からやり直すというもの
これを日参(にっさん)という



役前の6人は日参時に紋付き羽織、下駄を着用して港内を行き来し参拝する
カランコロンという下駄の音が聞こえてきた時は、地元の方は、役前に出会わないように注意を払うという



このほか
・泊付きの出張で日参できなかった日は次の日に二度参り
・食事は1人で神棚の下で専用の膳・箸を使い鶏肉・鶏卵を食べない
・夫婦別床
・仏壇を閉じ、死穢等の一切を避ける
この外にも多くのしきたりを守りながら日々精進潔斎し、神事を奉仕するための準備をするという



青石畳の通り(未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選)
美保神社から仏谷寺に至る石畳の通りは江戸時代の参拝道の遺構
敷設されたのは文化年間から弘化年間(1804~1847年)の江戸時代後期



撮影 令和6年5月21日
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龍海山 三明院 佛谷寺(島根県松江市美保関町美保関530)

2024年07月27日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月21日
龍海山 三明院 佛谷寺
佛谷寺は、約1200年前に創建された(出雲市の鰐淵寺に次ぐ)山陰第二の古刹である
開基は行基菩薩
後に弘法大師により真言宗となったが、永正12年(1516年)に知恩院の僧 順慶により浄土宗となっている

山門
美保関にある美保神社を訪れた二度目にこの寺の存在を知った






個人的にこの寺には3つの魅力を感じている
<魅力その1> 後鳥羽上皇・後醍醐天皇行在所跡
この寺は、後鳥羽上皇は承久3年(1221年)の「承久の乱」で
後醍醐天皇は元弘2年(1331年)の「元弘の乱」で行在所(あんざいしょ)として隠岐に配流された



本堂
後鳥羽上皇は、承久の乱で鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが敗北し隠岐に配流され、暦仁2年(1239年)に同地で崩御した



鎌倉時代最末期、鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で全国的内乱が起こった
後醍醐天皇側近「後の三房」の一人吉田定房が六波羅探題へ計画を密告
後醍醐と尊良は間もなく捕縛され、尊雲(護良)と正成は逃げ延びた
後醍醐天皇は退位を強制され、隠岐島へ、尊良親王は土佐国に流された



扁額には山号の「龍海山」



日本海の荒波が収まるのをこの場所で待っていたことになる
元弘2年(1332年)楠木正成と還俗した護良親王が再挙兵し
さらに翌元弘3年(1333年)には後醍醐天皇と尊良親王が流刑地を脱出した



堂内の様子



本尊:阿弥陀如来



仏像の撮影は許可されている






聖徳太子像



<魅力その2> 国の重要文化財仏像5軀
大日堂(宝物殿)
重要文化財拝観料 300円






この寺の魅力の2つ目は5軀の重要文化財仏像を有しているということ
さらに、写真撮影ができ、その存在を発信できるということだ



薬師如来(重要文化財)
海に3つの怪火が現れ、波風が荒れ狂った。人々はこれを三火(みほ)と呼び恐れていた
そこに東大寺建立に尽力した僧行基が訪れ、三火を封じるために仏像を彫り一堂を建立した
5体の仏像はまさにその像であり、天平様式を残す貞観時代の作と確認され、山陰最古の木仏像、国指定重要文化財となっている






日光菩薩(重要文化財)






月光菩薩(重要文化財)









虚空蔵菩薩(重要文化財)






聖観世音菩薩(重要文化財)









阿弥陀如来



毘沙門天






<魅力その3>八百屋お七の恋人 小姓「吉三」の墓
八百屋お七は、 江戸本郷の八百屋の娘で、天和2年(1683年)12月の大火により家が焼け、円乗寺での避難中に寺小姓吉三と恋仲になった
お七は、再建して戻った後、吉三会いたさに放火をし、火あぶりの刑に処された



その後、吉三は発心し「西運」と称し江戸より西に向かい巡礼の旅に出、各地の名刹にお七の遺品を納め地蔵を立て佛谷寺に至った



元文2年(1737年)10月4日、70歳で生涯を閉じた
寺に残っている過去帳には「門の横に葬る」と記されている



井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになった
命日には、吉三の墓前でお参りが行われているとのこと



撮影 令和6年5月21日
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名和神社(鳥取県西伯郡大山町名和556)

2024年07月26日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月21日
名和神社
後醍醐天皇を隠岐の島から迎え、一族郎党を率いて船上山に立てこもり、
王事に奮戦した南朝の忠臣・名和長年をはじめ、一族郎党42人の英魂を祀る



元弘3年(1333年)名和長年は隠岐島に流されていた後醍醐天皇の脱出を助け
天皇を船上山(せんじょうさん)に迎え鎌倉幕府を破った
後醍醐天皇は天皇親政を復活(建武の新政)、名和長年はこの新政権で重用された



鳥居
額には「名和神社」
この日の朝の予定には訪問先の候補にもなかった神社であったが、
目的地の「佛谷寺(松江市美保関町美保関)」との関連性を知っていたため急遽立ち寄ることにした



二本の石柱には「義勇」「奉公」の二文字が刻まれている



手水舎



拝殿
参拝者は私一人だったが、結婚式の前撮りで新郎新婦とその家族にカメラマンが境内を占有していた



拝殿内部



歴史を少し
承応・明暦の頃(1652年 - 1658年)、名和長年の威徳を慕う地元の人々によって、名和邸跡とされる場所に小祠が建立されたのに始まる
延宝5年(1677年)、鳥取藩主となった池田光仲が名和長年を崇敬し、名和邸跡の東方の日吉坂の山王権現の社地に新たに社殿を造営して遷座
山王権現を末社として「氏殿権現」と称した
明治11年(1878年)1月、氏殿神社の社号を名和神社に改定し、別格官幣社に列することを太政官が決定し、名和長重以下の将士を配祀すべきことを命じた



祭神:名和長年



現在の社殿は昭和10年に完成、明治神宮を造営した「角南 隆」が手がけた






寺社巡りをしていると時折、結婚式や成人式の前撮りに遭遇する
美男美女の若いカップルで晴れやかな気持ちになった






この鳥居の先に、執権北条氏によって後醍醐天皇が流された隠岐島がある



撮影: 令和6年5月21日
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白兎神社(鳥取県鳥取市白兎603番地)

2024年07月25日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月20日
白兎神社(はくと じんじゃ)
私の旅ではよく利用する「道の駅 神話の里·白うさぎ」で島根県へ向かう途中休憩していた
白兎神社は数回訪れているし、今回は訪問予定はなかったのだが……



大国主と八上姫神との婚姻を取り持ったことから縁結びの神として信仰される
神話「因幡の白うさぎ砂像」も過去に展示されていたものと比較すると今風になっている



緩やかな坂道の参道



白兎神社社叢(国天然記念物)
白兎海岸沿いの小丘上に位置し、海岸の南側に位置するため、海風を受けて樹幹や枝張りが南側に傾いて発達したシイ林が見られる






参道の左右に置かれているウサギ
それぞれ違ったポーズをとり、参拝者の目を楽しませてくれる



手水舎



ここにもウサギの置物があり、下部より水が流れている



御身洗池(みたらしいけ)
御身洗池は旱天・豪雨のときでも水位の増減がないとされ「不増不減の池」とも呼ばれている



古事記の中で、白兎神が傷口を洗ったという池、「水門」(みなと)である






狛犬






拝殿
白兎神社は、日本最古の書物「古事記」の一節である神話「因幡の白兎」に登場する白兎神が祀られる事から、日本医療発祥、
また大国主命と八上姫との縁を取りもたれた日本最古の恋物語の地として知られている



注連縄は、出雲神社の注連縄と同じ「飯南町しめ縄クラブ」よって制作され、平成26年12月20日に奉納された



拝殿内の様子



お神籤掛け



本殿
祭神:白兔神(白兔神は『古事記』掲載の日本神話に登場する因幡の白兎のこと)
合祀:保食神(うけもちのかみ)、豊玉姫命(とよたまひめ)



大社造変形(白兎神社の本殿は明治29年に建立、平成24年に改修)



菊座石



本殿の土台には28弁の菊の紋章が彫刻された菊座石が使われている



当社の創建に皇室の何らかの関わりがあるのではといわれている








白兎海岸
周辺には想像をかきたてる神話の舞台が残っており、「白兎の神跡」と称されている



西端に突出した岬が気多之前で、白兎神が負傷して上陸したという岬
気多之前から北方150メートル沖合にある神話の島が淤岐之島、白兎神が流れついた島とされている



道の駅の出入り口に置かれている



郵便ポストも恋人の聖地を盛り上げている
この道の駅の他には鳥取駅と鳥取市役所にも置かれている



道の駅内にある「すなば珈琲」(面白い)



撮影 令和6年5月20日
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砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>最終回(鳥取県鳥取市福部町湯山2083-17)

2024年07月24日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和6年5月20日
砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>最終回

作品13 フランス美術~民衆を導く自由の女神
制作者:トーマス・クォート/アメリカ
19世紀フランスの画家ドラクロワによる、ルーブル美術館所蔵の名画「民衆を導く<自由の女神>」
描かれているのは、1830年にパリで起こった七月革命



ナポレオン失脚後、1814年に復活したブルボン王朝に対する市民革命で「栄光の3日間」と呼ばれる



動乱を生き抜く市民の姿をドラマチックに描いている



革命期に誕生した三色旗と象徴的女性像マリアンヌも登場







作品14 ベル・エポック
制作者:スー・マクグリリュー/アメリカ
19世紀末から1914年第一次世界大戦前のフランスは「ベル・エポック/良き時代」と呼ばれている



エッフェル塔完成や1900年パリ万博に象徴されるように市民生活も豊かになった



美術の世界でも新しい時代を意識した造形が生まれた
ミュシャに代表されるアール・ヌーヴォーが流行したのもこの時期
ミュシャが描いた植物文様で彩られた優雅な女性像は今日まで多くの人を魅了している










作品15 自由フランス
制作者:ギー・オリヴィエ・ドゥヴァ/カナダ
フランスがナチス・ドイツに占領されていた第二次世界大戦中、1940年にロンドンにて亡命政府「自由フランス」が結成される



中心人物のシャルル・ドゴール将軍は、亡命先からラジオを通して国民にレジスタンス(ナチスに対する抵抗運動)を演説した



1944年8月ドイツが撤退した「パリ解放」後、凱旋門前のパレードでは名実ともに救国の英雄として讃えられた






作品16 観光大国フランス
制作者:ベノワ・デュトゥラージュ/フランス
世界で最も外国からの観光客を集めているフランス
豊かな自然と華やかな文化、誰もが知る歴史など魅力は尽きない



作品の中央は巨大な機械仕掛けの象「グラン・エレファント」
左は世界遺産「シュノンソー城」、右はカトリックの修道院「モン・サン・ミシェル」



作品17 フランスのファッション
制作者:チェ・ジフン/韓国
女性がコルセットから解放されたのは20世紀初頭



第二次世界大戦後には、クリスチャン・ディオールによって細く絞ったウエストとフレアスカートが特徴的な「ニュールック」が発表された



時代が求める女性らしいスタイルは平和のシンボルともいわれた



作品18 フランスの食文化
制作者:チェ・ジフン/韓国
世界三大料理にも数えられるフランス料理
フランス革命で宮廷を離れた料理人達が街にレストランを開店、庶民もフランス料理を楽しめられるようになった



屋外の高台から砂丘を眺める



平井信治知事の名言通り「スタバはないがスナバ(砂場)はある」


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砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>その3(鳥取県鳥取市福部町湯山2083-17)

2024年07月22日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和6年5月20日
砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>その3

作品08 ヴェルサイユ庭園~バッカスの泉水
制作者:ジル・ハリス/アメリカ
フランス式庭園の最高傑作とされるヴェルサイユ宮殿の広大な庭園には約1400の泉水がある



作品はそのひとつで、ワインを司るローマ神話の神「バッカス」の彫刻を中央に配している






作品09 ヴェルサイユ宮殿
制作者:レオナルド・ウゴリニ/イタリア
    アンゲフォン・ディビッド/ベルギー

ルイ14世によって建造されたバロック建築の最高傑作(写真上段)であり、ブルボン朝の最盛期を物語る宮殿である



宮殿内は王族の居室をはじめ礼拝堂や劇場など700以上の部屋がある



ルイ14世は贅の限りを尽くした宮殿と庭園を庶民にも公開し権力を示した



この宮殿は18世紀以降に建築された世界の宮殿に多くの影響を与えた



作品10 ナポレオンの戴冠式
制作者:ディビッド・ドゥシャーム/カナダ
    スザンヌ・ルセラ/オランダ




この作品はメインステージを飾る最も重要な作品である
砂像も素晴らしく、つい見入ってしまい、重大なミスを犯してしまった



作品の足元に作品の説明や時代背景など解説したものが置かれているのだが、それを撮り忘れてしまったのだ



時代的背景などの解説があるとそれに合わせた写真を選択できるのだが……









戴冠式は、1804年12月にノートル・ダム大聖堂で行なわれた
ナポレオンは、市民に支持されて皇帝になったことを示すため、冠を自分で頭に載せた



作品11 フランス文学~レ・ミレザベル
制作者:マリエレ・ヒーセルス/オランダ
ヴィクトル・ユゴーが1862年に発表した小説「レ・ミレザベル」
主人公は元囚人の男ジャン・バルジャン
社会を恨んでいた彼は無償の愛に触れて改心し、人を助けながら波乱の人生を送る



作品の中央にある小説の表表紙ではヒロインのコゼットが造形されている



右は女中として酷使される幼いコゼットとヴァルジャンが出会うシーン



左は成長したコゼットの恋人マリユスが暴動で重症を負いヴァルジャンに助けられて下水道に逃げたシーン



ヒロインのコゼットの子供時代が本当に可愛く表現されている



成長したコゼットの表情に不安な社会情勢なか、たくましく生きる姿を感じる



作品12 フランスの森
制作者:イネス・ヴァルテーレ/ラトビア
美しく広大なフランスの森はさまざまな豊かな文化を育んできた場所
古来よりおとぎ話や物語の舞台であり、かつては王侯貴族による狩猟の場でもあった



森に生息するシカや熊、猪など動物たちが生き生きと表現されている



遠景には雄大なアルプス山脈、手前には狩りに出かけてきたルイ14世とハンターが彫刻されている






次回に続く
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砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>その2(鳥取県鳥取市福部町湯山2083-17)

2024年07月21日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和6年5月20日
砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>その2

作品04 百年戦争
制作者:イリヤ・フィリモンツェフ/ロシア
フランスとイギリスの王位継承問題と領土争いを発端に1339年から1453年まで続いた「百年戦争」



この作品を例に砂像の仕組みについて説明したい
一枚の壁面に彫られているように見えるが実は違っている



上から見るとこのように2つの砂の塊で一つの作品に仕上がっているのだ
しかも、真横から見るとボリューム感などあまりないことが分かる



この立体感は「遠近法と光と影」によって作り出されていると何かで読んだ記憶がある
砂像彫刻家たちは室内灯や自然光を巧みに操り、計算して製作しているという



さて、百年戦争だが前半はイギリスが優勢であったが、1422年フランス王シャルル7世が即位すると形勢逆転し、フランスの勝利で終結した



作品では、兵士の重厚な甲冑



遺体にかけられた布の質感がリアルに造形されている






作品05 ジャンヌ・ダルク
制作者:ヘレナ・バンガード/オランダ
百年戦争の終盤に登場し、フランスを勝利に導いたジャンヌ・ダルク



信心深い村娘が神のお告げを受け、国王シャルル7世に進言したのは16歳の時だった
そこから一躍、軍を先導し士気を高める戦場のシンボルとして活躍する



砂像では、前景に「オルレアンの戦い」で拠点都市をイギリスから奪還した堂々たる姿が……



後景にはその2年後に異端裁判により火刑に処される姿が……
光と影を対比して構成することで、19年の生涯を劇的に表現している
ジャンヌは死後25年経って名誉復古され、1920年にはカトリック教会の聖人に列聖している




作品06 絶対王制
制作者:ドミトリー・クリメンコ/ロシア
絶対王制は国王が絶対的な権限を持つ政治体制のことで、16~18世紀の西ヨーロッパで成立した



フランスでは「太陽王」と呼ばれ、72年間在位したルイ14世の時代に全盛を極める
「朕は国家なり」という有名な言葉が示すとおり、独断で戦争を繰り返し領土を広げた



パリ郊外に豪華なヴェルサイユ宮殿を建造、王宮を移して貴族や官僚を住まわせ権力の一極集中を図った



晩年は戦費がかさみ財政難に陥った
作品では、貴族たちを世に、彼の黄金期を表現している



作品07 フランス革命
制作者:ミケーラ・チャピーニ/イタリア
18世紀後半に即位したルイ16世の時代には、14世から続き対外戦争の負債を抱え
さらに王妃マリー・アントワネットらの浪費が財政を脅かしていた



国王は財政難を新たな課税で賄おうとしたが国民が反発
国王からの武力弾圧に民衆が蜂起し、1789年フランス革命が勃発した



聖職者や貴族の特権廃止など、国民が自由・平等を求めた戦いの中で王権が停止された
ルイ16世ら王族・貴族は次々と有罪になり、ギロチンにかけられた



作品では、処刑場の革命広場に集まった人々の興奮と革命前の優雅な姿を対比的に表現している



次回に続く
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砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>(鳥取県鳥取市福部町湯山2083-17)

2024年07月20日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和6年5月20日
砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>その1



平成18年(2006年)の開館以来、毎年テーマを替えて開催
2024年 パリオリンピック・パラリンピックが開催されることから、テーマをフランスに選定



総合プロジューサー 茶圓勝彦
砂のプロフェッショナル 12カ国20名の砂像彫刻家による作品



作品01「ノートルダム大聖堂」「小説<ノートルダム・ド・パリ>」
制作者:アンドリウス・ペトクス/リトアニア
    ドナタス・モッカス/リトアニア


入口に入ると、大きな砂像が目に入ってくる
海外旅行の経験はないが、「ノートルダム大聖堂」の名だけは知っている



「我らの貴婦人」を意味し、聖母マリアを讃えるノートルダム大聖堂



1163年から約180年かけて完成した荘厳な大聖堂
ゴシック建築の最高傑作と称されている



18世紀のフランス革命で一部が破壊され、その後荒廃していく
1831年ヴィクトル・ユーゴーが小説「ノートルダム・ド・パリ」を発表すると
大聖堂の価値が見直され、修復が行われた(世界遺産)



ここに展示されている砂像は約3ヶ月の期間を要して制作されている
鳥取砂丘の砂と水だけで圧縮した砂の塊を彫刻して造形している
凝固剤を使用せず、展示が終わると作品を崩してもとの砂に戻し、新たな作品を制作している



砂は常に崩れるリスク、重力とのせめぎ合いといわれている
この高くて細長い塔はどのように制作されたのか、とても興味がある



最後の面は小説「ノートルダム・ド・パリ」を表現している
日本では「ノートルダムのせむし男」の邦題でも知られている
ノートルダム大聖堂のように直立する砂像は制作中に崩れるリスクが伴う
この作品はそれを回避するためにサポートする役割を果たしている



物語だが
ノートルダム大聖堂の前に、一人の醜い赤ん坊が捨てられていた
彼は大聖堂の助祭長、フロロに拾われ、カジモドという名をもらう
彼は成長し、ノートルダムの鐘つきとなる
パリにやって来た美しいジプシーの踊り子エスメラルダに、聖職者であるフロロは心を奪われる
欲情に悩み、ついにはカジモドを使ってエスメラルダを誘拐しようとする



カジモドは捕らえられ、エスメラルダは衛兵フェビュスに恋するようになる
フェビュスとエスメラルダの仲は深まるが、実はフェビュスは婚約者がいる不実な男だった
捕らえられたカジモドは広場でさらし者になるが、ただ一人エスメラルダだけは彼をかばう
カジモドは人間の優しさを生まれて初めて知り、彼女に恋をする
フロロも彼女に想いを募らせるが、エスメラルダの心はフェビュスにある
フロロは逢引をするふたりをつけて行き、フェビュスを刺して逃げる
エスメラルダはフェビュス殺害未遂の濡れ衣を着せられ、魔女裁判の元に死刑が言い渡される



カジモドはエスメラルダを救いノートルダム大聖堂にかくまう
しかし、エスメラルダはカジモドのあまりの醜さにまともに顔を見ることすらできなかった



フロロはパリの暴動の矛先をノートルダム大聖堂に向けさせ、混乱の中エスメラルダを連れ出す
助命と引き換えに愛人になるよう迫るが、彼女はフェビュスを刺したフロロを拒んだ
フロロは彼女を衛兵に引き渡し、エスメラルダは兵士達に捕まり、処刑される



大聖堂の塔の上からそれを見届けるフロロを、カジモドは塔から突き落として殺す
数年後、処刑場を掘り起こすと、白い服装をしていた女性エスメラルダと思われる白骨に、
異様な骨格の男の白骨が寄り添っており、それらを引き離そうとすると、砕けて粉になってしまった






作品02「パリの風景」
制作者:スラヴァ・ボレツキ/ポーランド

街の中心をセーヌ川が流れ、左岸にはドーム屋根の「裁判所」
フランス革命で牢獄とし素養していた「コンシェルジュリー」が見える



手前の橋はナポレオン3世が建造を命じた「シャンジュ橋」



この作品ではパリの風景よりも、この貴婦人に意識が向かってしまう









作品03「建国の王 クローヴィス」
制作者:オスカー・ロドリゲス/スペイン

ゲルマン系の民族であるフランク族を統一し、481年にフランク王国を建国したクローヴィス



ゲルマン民族が信仰していたキリスト教アリウス派から、アタナシウス派(後のカトリック)に改宗した
ローマ教会や貴族たちの後ろ盾を得て勢力を拡大したフランク王国はフランスの国名の由来とされ、歴代の王はクローヴィスから数えられる




作品はクローヴィスが洗礼を受ける様子



次回に続く
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宝珠山 如意寺(京都府京丹後市久美浜町1845)

2024年07月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月19日
宝珠山 如意寺
高野山真言宗の寺院
関西花の寺二十五カ所の一つ

仁王門(山門)
団体の参拝者がバスに戻る時間帯でしばらく待つことに
古い様式をとどめたまま、昭和28年と51年に二度の大修理が行われている



扁額には山号の「宝珠山」



木造金剛力士像(京丹後市指定文化財)
鎌倉時代初期の木造金剛力士像
写真では分からないが金網が障害となりなかなかうまく撮ることができず……



苦肉の策だが望遠で撮ることによって金網の存在をぼんやり消すことができた



曼荼羅寶壺
壺の投入口からお金を入れると、水琴窟のような優雅な音を楽しめる



手水舎



鐘楼
左側に見える海は久美浜湾



鐘は自由に撞くことができる



不動堂



和・唐・天竺の三様式融合、我が国唯一の重層宝形造(高さ26m)



弘法大師爪彫と伝えられる日切不動尊をお祀りし、毎日御祈祷が行われる



六角堂
日切不動尊絵馬、縁結び絵馬、千羽鶴の奉納所



狛犬






不動堂蟇股の彫刻



扁額には「不動堂」



堂内の様子
「空海の爪彫り」と伝える石造不動明王像(日切不動)を安置



薬師如来像



役行者像



天井の高さに驚く



不動堂の裏側の壁は「願い叶う割り札守」奉納所



本堂
天平年間(奈良時代)、行基菩薩が当地に滞在していたとき、「山上より火出て海に入り、また海より火出て山に昇る」奇瑞を見て海士に綱を引かせたところ、過去七仏の如意宝珠の舎利塔を得た
菩薩は伽藍を建立しこれを納め、宝珠山如意寺と号された
院家十二坊の伽藍を有し栄えたが、応永年間(室町中期)の兵火でその多くが消失した
大正7年(1918年)、大雨で倒壊。現存の堂は昭和2年(1927年)、当時の様式そのままに再建されたもの



本尊:十一面観音立像(秘仏)






閼伽井の水
眼にご利益があると伝わる名水



珠山千年石の庭



季節が合えば満開の花に囲まれているところだが……



その中で目についた一輪の花(グーグル検索によると「ノアザミ」)



そこに蝶が飛んできて蜜を吸っている
大都会に住んでいるわけではないが、蝶の姿など目にすることがない



白山権現



庭から本堂を眺める









小安地蔵堂



安産、子育ての地蔵菩薩









持仏堂本尊 阿弥陀如来坐像(京丹後市指定文化財)
一木割矧造、寺伝に恵心僧都作というが、実際の制作は鎌倉時代









撮影 令和6年5月19日
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発信貴山 縁城寺(京都府京丹後市橋木873)

2024年07月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月19日
発信貴山 縁城寺
真言宗の寺院
丹後地方の真言宗寺院のなかでは屈指の規模と由緒をもち、「橋木の観音さん」と親しまれている



石段下にある石仏



水子地蔵



石段を上ると「本堂」が見えてくる
初めて訪れる寺院なので周辺を散策する



鐘楼(京都府暫定登録文化財)
京都府では、貴重な文化財の早期保護を図るため、平成29年4月から 「暫定登録文化財」.の制度を創設
文化財保護の裾野を広げ、 修復・保存・ 防災等のための補助を行っている
縁城寺の建造物では、本堂、鐘楼、多宝塔、庫裡門、総門の5棟が登録されている



宝篋印塔(重要文化財)
開基・善無畏の供養のために建立された高さ3.4mの石塔



「正平六年」の年記と「佛子行秀」の名が刻まれている
正平6年(1352年)の造立と推定され国の重要文化財に指定されている



本堂周辺の石仏



本堂(京都府暫定登録文化財)
本堂は貞享2年(1685年)や天保14年(1843年)の火災を経ながら嘉永元年(1848年)に完成した



前面1間に虹梁三斗を掛けた外陣に対し、内陣は3方に入側を巡らせ、中央に須弥壇を設け厨子を安置する



蟇股の彫刻



扁額には山号の「発信貴山」
弘仁年間(810~823年)、諸国を巡錫していた空海(弘法大師)が縁城寺に立ち寄る
縁城寺を「発信貴山」と呼んで山号の額を掲げた



仁王像
本堂の左右には、京仏師「鎌田喜内師」作という大きな仁王像がある
1927年(昭和2年)の北丹後地震で大きな被害を受け、勅使門、仁王門、庫裡が全壊
仁王門の仁王像は本堂に移された



このように何の障害もなく仁王像を間近で拝観できる機会は稀である



いつも仁王像の撮影には障害物で苦労している



自由に撮ることができることは嬉しいが、これはこれで難しい



目線が合うとやはり迫力がある



腕が欠損している場所などを観ると構造なのが分かり面白い



足元なども普段は目にしない場所



内陣の様子
本尊:木造千手観音立像(重要文化財)
鎌倉時代、網野庄の地頭であった後藤兵衛実基が源頼朝から下賜され、縁城寺の千寿院に納めたものと伝わる
秘仏とされて33年に1度の開帳



須弥壇上の厨子の扉が開き輝いているので一瞬「これか」と思ったが違った(残念)



本堂周辺を歩く



多宝塔下重(京都府暫定登録文化財)
昭和38年(1963年)の豪雪により多宝塔上層部が倒壊したとある



このお堂が多宝塔とは想像できなく、投稿するにあたりネットで検索して初めて多宝塔だと分かった



小安弘法大師
子供を抱いている空海像を初めて見た



鎮守



願掛不動






丹後半島巡りは二度目で最後になると決めていた
記憶に残る寺院を訪れることができて良かった



撮影 令和6年5月19日
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道の駅 舟屋の里公園(京都府与謝郡伊根町字亀島459番地)

2024年07月14日 | 道の駅
訪問日 令和6年5月18日
道の駅 舟屋の里公園
久し振りの丹後半島、伊根の舟屋を訪れた
予定では高い場所にある、道の駅から写真を撮って、海に一番近い酒蔵「向井酒造」に立ち寄って……
いくつか頭の中では考えていたが、道の駅駐車場満車で計画は狂い始めた



離れた場所にある駐車場に車を駐め、緩い坂道をのんびりと歩く
視界が開けた場所がいくつかあり、シャッターを押す



道の駅にある展望台からの眺望



レストランも混んでいるようで周囲からは1時間待ちとの声も聞こえる
この道の駅は3回目になるが、このように観光客が多いのは初めてだ



道の駅からは若狭湾を望み、全国でもめずらしい舟屋・約230軒の街並みを見ることができる
舟屋とは、もともと船を海から引き上げて、風雨や虫から守るために建てられた施設



望遠ズームレンズに交換
今では船もFRP(繊維強化プラスチック)製となり大型化したため、船を引き上げずに舟屋の前に係留している家もある



伊根浦一帯は国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている



NHK連続テレビ小説 「ええにょぼ 」の撮影地
ヒロイン役は大好きな女優の戸田菜穂だが、番組は一度も視たことがなかった






伊根湾めぐり遊覧船が観光客を乗せ通過していく
約30分の周遊 料金は1,100円
一度乗ったことがあり、海上から見える舟屋の景色は素晴らしかったという記憶がある



この後、下に下りてみたが駐車場も満車で駐車スペースも全く無かった
週末で最高の天気、考えることは皆同じだ

撮影 令和6年5月18日
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慈恵山 円隆寺(京都府舞鶴市引土72)

2024年07月13日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月18日
慈恵山 円隆寺
真言宗御室派の寺院
創建は、長徳年中(995 - 999年)という古刹
開創は「皇慶」平安時代中期の天台宗の僧

寺号標
「慈慧山 圓隆寺」と刻まれている



文化財指定の建造物



総門(京都府指定文化財)
宝暦3年(1753年)建立
三間一戸八脚門、入母屋造、桟瓦葺



額には山号の「慈慧山」



四天王像が安置されているが、金網が障害になり途中で断念した



隙間からも攻めてはみたが……



大師堂



空海像



本堂(京都府指定文化財)
石段の上に見えるのは本堂
本堂前の広場は駐車場になっていて、木陰で休憩している車が5・6台



天明6年(1786年)建立
桁行5間、梁行5間 入母屋造



文治4年(1595年)には山崩れで、万治2年(1659年)と享保17年(1732年)には火災に遭い、堂宇を失った
現在の本堂や多宝塔、総門などは、18世紀末までに再建されたもの
地元の大工・林田伝之丞房章などの手によるものである



本尊:木造阿弥陀如来坐像・薬師如来坐像・釈迦如来坐像 3躯(重要文化財)






鐘楼(京都府指定文化財)
宝暦10年(1760年)建立
桁行3間、梁行2間 袴腰付 入母屋造、桟瓦葺






多宝塔(京都府指定文化財)
宝暦元年(1751年)建立
三間多宝塔、本瓦葺



地元の大工・林田伝之丞房章などの手によるもの
多宝塔の亀腹を瓦葺にするなど独創的な建築として価値が高い



以前訪れた時、周囲の木々の枝が伸びすぎて建物が隠れてしまい、うまく撮ることができなかった
今回は光にも恵まれた感じがする






太子堂と観音堂



太子堂



観音堂



鎮守堂(京都府指定文化財)
元文2年(1737年)建立
一間社流造、檜皮葺






出世稲荷神社




朝代神社(京都府舞鶴市朝代13)
弘文元年(672年)9月、淡路島の伊弉諾神宮より勧請して創建されたと伝わる

鳥居1



鳥居2



狛犬





社記



社殿
享保17年(1732年)の大火によって旧社殿を焼失し、元文9年(1739年)に現在の社殿が再建された



祭神:伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
本殿は舞鶴市指定文化財



撮影 令和6年5月18日
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