今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

春日山神社(新潟県上越市大豆)

2017年11月30日 | 神社・仏閣
春日山神社
林泉寺に隣接している神社で、山形県米沢市の上杉神社より分霊され、謙信公を祭神に祀っている



一度上った事がある石段は負担にならないことを経験上知っているので、車でも行くことができるが徒歩で



明治20年(1887)、祭神の遺徳を慕う旧高田藩士小川澄晴(童話作家小川未明の父)が発起し、前島密らの援助を受けて同34年(1901)に創祀された



鳥居



手水舎



狛犬






拝殿



上杉謙信の肖像画。祭神は山形県米沢市の上杉神社より分霊された上杉謙信命






神輿殿



殿内には、総欅造り重量1.2tの「謙信公神輿」が置かれている



境内各所に心が和むカエルの像が置かれている
何事も衝動的で、自分には不足している…



車での旅ではもっとも重要なこと…



子には恵まれたが、宝には…



子供に影響を与えることができなかった…



人生を振り返る時期か…



未だ先人の智慧に学んでいる… 



謙信公銅像



謙信の居城であった「春日山城祉」に置かれ、今も上越市内を見下ろしている



前回は春日山に上ったのだが、雨天で足下が悪いのに加え膝痛もあり、気持ちが動かなかったため、駐車場に戻ることにした

撮影 平成29年5月25日
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春日山 林泉寺(新潟県上越市中門前)

2017年11月29日 | 神社・仏閣
春日山 林泉寺
5年前にキャンピングカーを購入して始めて訪れたのがこの林泉寺だ
同じくブログを始めて5年、最初の投稿もこの寺で撮った写真からだ。私にとっては記念すべき寺である

惣門
5年前JAFという雑誌の表紙に朝霧に包まれた惣門が掲載されていた。その写真に感動し記念の場所にしようと考えていた
惣門は春日山城の搦手門を移築したものと伝えられている



その時はこの寺が上杉謙信縁の寺などとは、まったく知らなかった
今回は川中島古戦場の一騎打ちの像に刺激され、来てしまった
ところが驚いたことに惣門の姿が大きく変わっていた



5年前の写真があったので掲載する。茅葺きの屋根が銅板になっていた(H25.5撮影)



山門
惣門から歩いて間もなく大きな山門が見えてくる



大正14年(1925年)、上杉謙信公生誕400年を記念して山門(二重門)が再建された



扁額には山号の「春日山」



寺を護る仁王像だが、金網に護られている



直江津の彫刻家滝川美堂作の仁王像



山門を通過する際、上を見ると龍の画がある。









鐘楼






以前訪れたときに印象に残っている小さな像が無くなっている



またまた5年前の写真。係の人に聞くと落下して壊れてしまったとのこと
可愛い像で個人的には寺のチャームポイントと思っていただけに残念である



上杉謙信公墓所
雨が小降りになったので墓所から



ネットで調べると、上杉家転封の際に墓所の下の甕(遺骸)も会津、その後米沢に移動したという記録は残っていない



寺の歴史(口伝)の中にも墓所を移したという情報はなく、この地に眠っていることとして供養されているそうだ
天正6年3月13日と刻まれている<(1578年4月19日)享年48歳>






川中島戦死者供養塔






墓所から降りてきた時に見かけたのだが思わず笑ってしまった



本堂
平成9年(1997年)、開創500年を記念して新たに本堂が建立された



長尾為景の四男(次男説もあり)として生まれる
嫡男ではないため、謙信が7歳になると林泉寺に預けられ、住職の天室光育に教えを受け育つ
謙信は仏教の教えを学ぶ一方で、兵学にも興味を示した



扁額には寺名の「林泉寺」



謙信は、越後国主に任じてくれた将軍家に感謝し、乱れた秩序を回復させ、天下を静謐にすることを大事にした
本来の領土を追われた武将を庇護し、復権させることが第一と考え、北条氏康・武田信玄との戦いに臨むことになった
信義など形骸化していた時代に、唯一人心から「義」を大事にした謙信の生き様は、敵味方を問わず戦国の世に生きる人々の心を捉えていった









宝物館から山門を見る






謙信筆の「第一義」(複製) 宝物館に本物がある



天井画。謙信は「越後の龍」と呼ばれていた






撮影 平成29年5月25日
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歓喜踊躍山 浄土真宗興行寺<浄興寺>(新潟県上越市寺町)

2017年11月28日 | 神社・仏閣
浄興寺(浄土真宗興行寺)
浄興寺は浄土真宗の宗祖親鸞聖人によって創設された寺院



山門からの参道の右に太子堂、左に鐘楼・経蔵と続き、正面に本堂がある



始めに重文に指定されている本堂の様子を伺う



鐘楼






親鸞聖人像
雨宿りをしているときに偶然この場所を見つけた。結構気に入っている一枚である






経蔵






太子堂






手水舎



本堂(重要文化財)
元仁元年(1224)『教行信証』を完成させた親鸞は浄土真宗の立宗を喜んだ
その気持ちを稲田草庵の寺号を「歓喜踊躍山(かんぎゆやくざん) 土真宗」(略して浄興寺)と改めた



本堂は、正面に三間の向拝を付けた一重、入母屋造りで、長野県の寺院建築では最大でかつ最古の真宗本堂



杮葺き、間口28.2m、奥行27.8mの大規模仏堂



扁額には寺名の「浄興寺」



本尊は室町時代中期の作とされる来迎形の木造阿弥陀如来立像


















水琴窟



親鸞聖人本廟






弘長2年(1262年)、親鸞が死去すると、遺言により頂骨と遺品が善性に託され、浄興寺に納められた



文禄元年(1592)に浄興寺の親鸞の頂骨が本願寺(現在の西本願寺)に分骨された



特筆すべきは、正面唐門と塀などのの装飾







柱や妻飾りなどの細部にいたるまで、花鳥、動物などの精巧で美しい彫刻が施されている






宝物殿
この場所のみ有料で展示物は撮影禁止だが、誰もいないためゆっくり拝観できるのがいい



帰る頃には雨も止み、空も明るくなってきた



撮影 平成29年5月25日
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松代城(長野県長野市松代町)

2017年11月27日 | 
史跡 松代城(海津城)
武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を競った川中島合戦で、武田側の拠点として築城された
千曲川の流れを外堀とする天然の要塞で、当時は「海津城」と呼ばれていた
江戸時代、真田が松代藩主となると、松代城を中心に城下町が発展し



太鼓門
本丸内では一番大きな門



太鼓門前橋



南の櫓門



少し高い場所から。枡形に石垣をまわし本丸を厳重に守っている



海津城址之碑



石垣
本丸周辺や出入口などの重要な部分に用いている



高さと勾配の美しさは、当時の石工の技術の高さ



十数年前に一度訪れたことがあるが、記憶にある景色とまったく違う



昭和56(1981)年、新御殿(真田邸)とともに国の史跡に指定された



その後、長野市により環境整備工事が行われ、平成16(2004)年に櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などが復元された



史跡 真田邸
関ヶ原の戦いの際に、昌幸の長男信之は徳川方に、昌幸と次男信繁(幸村)は豊臣方についた
徳川方が勝利した結果、信之は沼田・上田・松代と領地を移しながら大名として生き残った



元和8年(1622)以降、明治維新まで約250年の間、真田10代にわたり松代藩10万石領有し続けた



表座敷
年中行事や訪問客との対面が行われた部屋と考えられている
唐紙は武家が好んだ菱形



杉戸
杉戸には「境界」の意味があり、奥の私的な空間と手前の公的な空間を仕切っている



御寝所
主人の寝室。天井は花鳥の唐紙、床は寒さを防ぐ二重床になっている






手洗いの間



庭園
9代藩主幸教に好まれた庭園は「水心秋月亭」と名づけられた






史跡 松代藩文武学校
江戸時代後期に創設された信濃国松代藩の藩校である



剣術所
剣術を指南する道場で、剣術各流派を学ぶことができた






東序(とうじょ)
序は校舎を意味する。軍学を主として教えられた校舎






文学所
漢学、兵学、躾方(小笠原流)



弓術所



西序(せいじょ)



明治6年以降、初等教育の場として昭和40年代まで使われた






公園に置かれているブロンズ像






真田宝物館
1966年(昭和41年)に、真田家12代当主・真田幸治が同家に伝わる大名道具などを埴科郡松代町(当時)に寄贈
真田家から譲り受けた収蔵品は武具・刀剣・調度品・絵画・古文書などで、特に古文書が多く総数数万点ともいわれる



撮影 平成29年5月24日
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川中島古戦場(長野県長野市小島田町)

2017年11月25日 | 名所・旧跡
川中島古戦場
歴史上有名な場所で一度行ってみたいと思っていたが、その場所が何処にあるかなど確認していなかった
偶然の出来事だが、松代城に向かう途中、走行していた道路横に案内があった

「武田・上杉両雄 一騎打ちの地」
予期していなかった、さらに憧れの地だけに気持ちが高ぶる



八幡社
平安中期、源顕清が信濃に流されたとき、この地に八幡大神を鞘堂内の神殿に祀られたことから、この広原一帯を八幡原と名づけた。



手水舎






川中島合戦で破壊された神殿を信玄は高坂弾正に命じて社殿を再建させた
その後松代藩真田家が明治維新まで祭祀、修繕の管理運営をしてきた






執念の石
合戦の最中、身辺が手薄となった信玄めがけて謙信が切り込んできた時、中間頭の原大隅が傍らにあった信玄の槍を馬上の謙信めがけて突き出したが、鎧の肩の上にそれた
残念なりと返す槍で打下したとき馬に当たり、馬は跳ね上がってその場を狂奔し去った



謙信を取り逃がし、無念やるかたない原大隅は、傍らにあったこの石を槍で突き刺したという



芭蕉句碑
「十六夜も また更科の 郡かな」



武田信玄・上杉謙信一騎討像
雑誌等で何度か見たことがあり、この場に立ってみたかっただけに嬉しい















首塚「敵に塩を送る」
以前は屍塚と呼ばれ、永禄4年(1561)9月10日の戦いの後、武田側の海津城主高坂弾正が激戦地となった
一帯の戦死者(6000余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つ



これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田に対し
「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれている



川中島合戦をしのぶ田中月亀翁父子の歌碑
「跡しのぶ 川中島の朝あらし いぶきのさ霧 おもかげに見ゆ」



逆槐(さかさえんじゅ)
山本勘助等の進言による「キツツキ戦法」により、この場所に土塁を積み重ね、土塁の土どめに自生の「槐(えんじゅ)の杭」を打ち込んだ



その後、400年を経てこのような巨木に成長したという



三太刀七太刀之跡
馬上より謙信は信玄にむけて流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った
後に軍配を調べたところ刀の跡が七か所もあったといわれ、三太刀七太刀之跡という






この両雄、互いに戦いを楽しんでいたのではないかと思ったりしている。両者とも病死による引き分けか



撮影 平成29年5月24日
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水上布奈山神社(長野県千曲市大字戸倉上中町)

2017年11月23日 | 神社・仏閣
水上布奈山(みずかみふなやま)神社
本殿が重要文化財に指定されているということでナビに入力
途中大きな神社もあったが案内されたのは小さな神社
道路工事で鳥居の前に重機が置かれ、周辺を走っても駐車場もない

境内に入っても所謂神社らしい雰囲気をあまり感じさせない



「飯盛女の献燈籠」
稲荷神社の前に立つ燈籠が主役である



1839年(天保10年)7月に下戸倉宿に働く飯盛女52名と旅籠屋主人が奉納したもので千曲市の指定有形文化財



台座に刻まれた52名の飯盛女の名を確認することができる






二の御柱
諏訪大社にならい、7年毎(実際には6年に一度の申年と寅年)の4月中旬に御柱祭がある



拝殿
これまで経験したことのない雰囲気の異なった拝殿



額には「水上布奈山神社」



さて、本殿だが写真左の大きな建物になる



近づくと、このように固く護られている



水上布奈山神社本殿(重要文化財)
内部を覗き見ると、護りたいというのが理解できるほどの美しさだ
網と柵でガードされているなか、どのように撮したかは想像に任せるが、苦労はしている



寛政期に建立された本殿は一間社流造で、諏訪の大工柴宮長左衛門による彫刻が施されている






彫刻は「上り竜・下り竜」「唐獅子」「蘇鉄に兎」「鳳凰」「竹林の七賢人」「仙人像」など



この日は雨が降っていて左手に傘、右手にカメラと窮屈な姿勢で撮っていたため傘が写っているのを今日まで知らなかった



美しさよりも凄さを感じさせる本殿。雨で開放していなかったのか、わからないが近くで観たいと強く思った






撮影 平成29年5月24日
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新海三社神社(長野県佐久市田口)

2017年11月22日 | 神社・仏閣
新海三社神社
重要文化財の三重塔があるということで訪れた

手水鉢
手水鉢に家紋があるのは珍しい。写真を拡大してみると「松平兵部少輔乗友」の銘



石段の奥に拝殿が見える



狛犬にも歴史を感じる



拝殿



扁額には「新海三社神社」






拝殿の奥に「西本社」(写真左)と「中本社」。中央に「御魂代石」がある



中本社
諏訪大社上社の御祭神を奉祀する



西本社
出雲美保神社の御祭神を奉祀する



神楽殿



東本社(重要文化財)
「東本社・中本社・西本社」の三つの神殿があることにより、新海三社神社と呼ばれている



御祭神は佐久地方開拓の祖神「興波岐命」



古くは「新開(にいさく)の神」と記され、開(さく)が佐久に、新開(にいさく)が新海の社号になった






三重塔(重要文化財)
待ちに待っていた三重塔。正面からはこのような状態である



いつものように周辺を歩いてみる



社伝によると嘉祥2年(849)東隣にあった神宮寺の塔として建立された



室町期のものと認められ、全高約20m、和様を主とするが唐様(禅宗様)も混在
初重(唐様)と二、三重(和様)の垂木の方向の違い等にそれが見られる



明治初年の神仏分離では、新海神社三社神社の三重塔も破壊される予定だった
神社が「これは塔ではなく倉庫である」と申し出たところ、それが認められたという






塔を撮るためなら少し高いところでも上るため、よく転倒して傷を負う






構造については知識も興味もないのだが、凄い技術が詰まっていることだけは想像できる



塔巡りも旅の大きな目的。自然の中に溶け込んでいるような美塔に満足している



天神社



拝殿・神楽殿から重文の三重塔と東本社をみる



撮影 平成29年5月23日
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小諸城址「懐古園」(長野県小諸市)

2017年11月21日 | 
小諸城址「懐古園」
布引観音で出逢った地元の方に「小諸城」に行くと話すと「懐古園」の無料券をいただいた
その時、話しが噛み合っていないと思っていたが、城跡は、市営公園「小諸城址懐古園」として整備され、有料で公開されていた



小諸義塾塾長 木村熊二
石垣にレリーフが嵌め込まれている。この人物についての知識はない



二の丸跡
上田合戦時の徳川本陣跡。上田城を訪れたとき敵側の城も行かなければならないと考えていた



第二次上田合戦の総大将は徳川秀忠。小説やドラマでは無能な人物として扱われることが多い
妻は信長の姪で浅井三姉妹の三女の江である



なかなか攻め落とせない上田城と家康からの圧力との狭間で、もがいていたのだろうなと想像しながら旗を見ていた



南の丸跡



小諸城は、武田信玄のころ山本勘助らにより現在の縄張りとし、豊臣秀吉天下統一のとき小諸城主となった仙石秀久により完成された城



周囲には地面が削られた掘割らしき跡が見える



懐古園稲荷神社



黒門橋



黒門跡



荒神井戸
寛保の大洪水の後に掘られた、城内唯一の井戸



藤村記念館
1899年(明治32年) かつての恩師木村熊二に招かれて小諸義塾の英語教師として小諸町に赴任し、以後6年過ごす
小諸で過ごした6年余の間に「雲」「千曲川のスケッチ」「旧主人」などが生まれ、大作「破戒」が起稿された



武器庫



緑一色の城内で花の名前は知らないが、ここだけ暖色の花が咲いていた



水の手展望台からの景色



周辺を歩く。野面石積みの石垣は400年前の当時の姿で残されている









鏡石
山本勘助が愛用したとの説明書き。確かに私の姿も写っている



天守台跡



懐古神社



必勝の字に誘われように祈願をする。私の場合はギャンブルだが



ここまでが有料施設となる
出口で「門」の場所を尋ねると何もありませんよと、その場所を教えていただいた
当時の建造物は石垣と現在の懐古園の入り口の三ノ門、市街地に存在する大手門のみが現存している

三の門(重要文化財)
1615年に建てられたが、1742年に起きた洪水によって大手門、足柄門と共に損壊
現存する三ノ門は1765年に再建されたもの



扁額は徳川宗家16代当主・徳川家達の筆によるもの






大手門(重要文化財)
三の門からJRに線路の下にある地下道を通り数分歩く



近年まで民家として利用されていたが、平成20年(2008年)に再び門として修復、復元された






地元の女子高生が一人歩いてくる。どのような反応を示すのか興味を持っていた
すると相手が立ち止まり「こんにちわ」と挨拶。狭い道ではなかったが譲ってくれている
清々しい気持ちで「ありがとう」と応えた。旅の思い出の一つになった

小諸宿本陣主屋
参勤交代の大名などが休泊。現在は歴史資料館に



長野県をよく訪れる知人から教えられた蕎麦屋の本店が三の門の近くにあったので入店
「ざる蕎麦」を注文し食べてみた



撮影 平成29年5月23日
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布引山 釈尊寺<布引観音>(長野県小諸市大久保)

2017年11月19日 | 神社・仏閣
釈尊寺<布引観音>
重要文化財の観音堂があるということで軽い気持ちで訪れた
駐車場の大きな案内板を見て吃驚、山に上らなければならないようだ



しかも、落下物・滑落・転倒等の不測の事態は自己責任にて入山せよと






息が切れると写真を撮る。この繰り返しでリズムをつかむ



布引二段滝






見守り地蔵
この参道には木仏、石仏があり道行く人の安全を見守っている



牛岩
岩に牛の姿が現れていると云われているらしいが、私には見えない



善光寺穴
長野善光寺まで穴が通じていると云われている。善光寺火災の折には、この穴から煙が出たと伝えられている



仁王門
この時は気付いていなかったが、観音堂が右上に見える












更に石段を上がると鳥居なのか石門なのか






遠くに見えるのが観音堂






「牛に引かれて善光寺参り」で知られる布引伝説は、布引観音に伝わる物語



白山社社殿(長野県宝)
室町時代初期の建築



岩の中のお堂






岩のトンネル



六道地蔵



愛染明王堂






観音堂宮殿(重要文化財)
入母屋造、板葺、懸造(舞台造)。鎌倉時代の正嘉2年(1258年)の造立



高所恐怖症なので精神的に落ち着かない












観音堂内にある仏殿形の厨子で、「建造物」として国の重要文化財に指定されている
何故がどの写真もピントが合わない。カメラの問題か、違う力が働いているのか時々このようなことが起こる



格天井画






牛に引かれて善光寺参り
昔、不信人で欲深い老婆が、さらしていた布を隣の家の牛が角に引っかけて走り出した
その牛を追っていくうちに善光寺にたどり着き、それがきっかけで度々善光寺に参詣するようになり、信仰の道に入ったという言う
牛と思ったのはじつは仏様の化身で、この仏様こそが実は小諸の布引観音だったという



本堂
寺伝によれば、奈良時代の神亀元年(724年)に行基が開き、聖徳太子が作ったとされる聖観音を祀ったと伝えられている






本堂周辺の彫刻






駐車場から本堂のあるこの場所まで徒歩15分とある



肥満による息切れ、膝痛の私は40分も要して、この景色にめぐり会えた



帰りは地元のハイカーに説明を受けながら一緒に降りてきた
仁王門から見える新緑の観音堂



撮影 平成29年5月23日
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上田城跡(長野県上田市二の丸)

2017年11月18日 | 
上田城跡・真田神社
大河ドラマ「真田丸」人気で上田城跡に人が集まっていることはメディアを通して知っていた
放映も数ヶ月前に終わり、ほとぼりが冷めるまで時間をおいて、さらに週末を避けて訪れた

東虎口楼門
楼門付近でTV局の取材なのか、観光客に声を掛けマイクを向けている
真田丸は全て視聴し内容も覚えていたのだが、私の容姿がTV向きでないのか無視されてしまった



市の情報によると「おもてなし武将隊」というのが組織されているらしい
カメラを向けると幸村のカゲに「くの一」が隠れてしまった。隠遁の術か、見事に消えている



楼門の左右に南櫓(写真)と北櫓がある



天正11年(1583)真田昌幸によって築城された上田城は、第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城



真田石
真田信之が松代に移封を命じられた際に、父の形見としてこの石を持っていこうとしたが、微動だにしなかったという伝承がある



石垣に興味をお持ちの、大学そして人生の大先輩のために…



城を訪れたら必ず石垣の写真を撮るようにしている。



北櫓



受付をして南北櫓の内部に入る



武者窓



上田城金箔鯱瓦
真田氏の栄華と匠の技を後世に伝えるのを目的に復元したもの






北櫓



鉄砲狭間



火縄銃(種子島)保管庫



駕籠
旅の途中で死去した真田信之の妻大蓮院の遺骸を、上田まで運んだと伝える駕籠



この古写真を見て吃驚。昭和19年櫓は遊郭として使われていた



眞田神社
上田城本丸跡に鎮座し、真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を祭神としている。

手水鉢



鳥居
もともとは松平家の先祖を祀る御宮であり、松平(しょうへい)神社と称していた



拝殿



真田氏は上田城を築き、その武略によって上田城の名を高からしめ、仙石氏はその後をうけて上田藩政を発展されるとともに、関ケ原合戦後破却されていた上田城の復興にもあたった



昭和28年(1953年)に真田氏と仙石氏、そして松平氏の歴代全城主を合祀して、松平神社から上田神社と改称



昭和38年、初代城主である真田氏の名を冠して、眞田神社と再度改称し今日に至っている



真田井戸
ドラマでもこの井戸のシーンがあった



この井戸には抜け穴があって、敵に包囲されていても、抜け穴から兵糧を運び入れることも、城兵の出入りにも不自由しなかったという。



西櫓
立入禁止になっている



井伊の赤備え兜
大阪夏の陣で武具を赤で統一した。真田幸村が被った朱色で鹿角型の兜



東虎口櫓門の写真左に南櫓、右に北櫓



本丸土塁の隅欠(すみおとし)
鬼門除けのため、本丸の土塁は東北の角を切り込んでいる



堀や土塁の斜面が内側にへこんで見えるのはそのためである



この後、市立博物館に入館し(既に記憶にはないが)歴史を学ぶ

撮影 平成29年5月22日
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信濃国分寺(長野県上田市大字国分)

2017年11月17日 | 神社・仏閣
信濃国分寺
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、信濃国国分寺の後継寺院にあたる

仁王門



国道18号線に面している。門の右側を通行し駐車場を目指す



手水鉢



百体観音堂
江戸初期の百体の観音像を安置している



地蔵堂
郷土の名彫物師藤川仏師による地蔵尊と閻魔十王を安置している



三重塔(重要文化財)
車旅の大きな目的のひとつである国宝・重文の塔巡り



上田盆地にある4つの塔(信濃国分寺、安楽寺、前山寺、大法寺)のうち最大の三重の塔



三重塔古心柱
信濃国分寺の三重塔は室町中期ころの建立とされ、昭和の解体修理で心柱も取り換えられた
この心柱が創建当時のものとすると600年近く経った古材



できたら色々な角度から撮りたいのだが、避雷針が入ってしまうので場所が限定されてしまう



戦国時代になると、三重塔を除く諸堂が兵火によって焼失したと伝えられる



本堂(長野県県宝)



1845年上棟した江戸末期の建造で、東北信では、善光寺につぐ規模
五間×七間の重層、高さは約17m



薬師堂、八日堂ともいう



薬師如来を安置し巳年開扉以外は秘仏
日光月光両菩薩を脇侍とし、十二神将が安置されている






堂内に大きな白い象が…






鐘楼
上田藩主松平伊賀守の保護で享和元年(1801)棟上



大黒天堂






現存する国分寺の塔の中で最も古いものとされている塔をもう一枚。



撮影 平成29年5月22日
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独鈷山 中禅寺(長野県上田市前山)

2017年11月16日 | 神社・仏閣
独鈷山 中禅寺
塩田平の独鈷山の麓にある小寺で、信州最古の木造建築として知られる薬師堂がある

仁王門



木造金剛力士立像(長野県宝)



12世紀末頃の制作と考えられている



薬師堂(重要文化財)
約800年前の中部日本最古のお堂



「方三間の阿弥陀堂」という形式



方三間というのは、東西南北のどちらから見ても柱が四本立っていて、間が三つあることをいう



茅葺の屋根に、少し先のとがった丸い玉(宝珠)や、その下に四角な台(露盤)をのせて、ま上から見ると、真四角な同じ形の屋根に見える。これを「宝形造」という



さて、格子の奥に「薬師如来坐像」が安置されているはずだが…



木造薬師如来坐像 附 木造神将立像(重要文化財)
運良く格子内にレンズを入れることができた



桂材の寄木造、像高97.8cm。13世紀の鎌倉時代初期の制作と考えられている



木造神将立像(附重文)
檜材 寄木造 像高68.2cm。「十二神将」の一体で14世紀末の制作と考えられている



重文のお堂の中を覗き込んで何かをしている姿はどうみても不審者。怪しまれて注意を受ける前に深々と礼をして立ち去ることに。



水子子育て地蔵尊



本堂






調べでは、山号は独鈷山で、院号は竜王院及び延命院となっていたが…



本堂から駐車場に戻る。偶然、タイヤの一部が欠損していることを発見
不安を抱えて旅を続けたくなかったので、新品タイヤに交換することにした



撮影 平成29年5月22日
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獨股山 前山寺(長野県上田市前山)

2017年11月15日 | 神社・仏閣
前山寺
812年弘法大師空海が護摩修行の霊場として開創したといわれる

冠木門



風景が一変していることに驚いた。十数年前に訪れたときにはこの辺りは畑だった



今は花に囲まれ歩いているだけで楽しい



薬医門
少し石段を上ると薬医門がある



門の先には、この寺を訪れた目的でもある三重塔の姿が見える



三重塔(重要文化財)
「未完の完成の塔」と云われている
塔には、一層にも二層にも三層にも、縁と勾欄がついているものだが、この塔には二層、三層にはなく…



何かの理由でやめたようで、その他にも各所にやりかけと思われる所がある



和様・禅宗様の折衷様式。建立年代は不明だが、様式から室町時代と推定されている



三間三重で高さ19.5メートル、屋根は杮葺きである



十数年前、塔にはあまり興味が無い時期に訪れただけに、この塔の美しさを当時は理解していなかった



車中泊による車旅の目的の一つに国宝・重要文化財の塔巡りがある



調べてみると重要文化財の三重塔は42寺もある。先は長いが楽しみでもある






明王堂



本堂
独鈷山麓にある古刹。間口十間、奥行八間の木造萱葺



元弘年中(1331)讃岐国善通寺より長秀上人が来止し、正法院を現在の地に移し、前山寺を開山したと伝えられる
塩田城の鬼門に位置し、その祈祷寺として、武将の信仰も厚かった



存在感のある屋根



彫刻にも目がいく



本尊は大日如来



襖絵






廊下の奥に駕籠が



大僧正栄和和上尊像
根來寺座主第34世、前山寺住職第35世



惚れ惚れするような風貌だ










撮影 平成29年5月22日
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北向山 北向観音(長野県上田市別所温泉)

2017年11月14日 | 神社・仏閣
北向観音
北向観音堂は、天長2年(825)、慈覚大師円仁により開創
寿永元年(1182)に、木曾義仲の手により八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失
源頼朝の命のもと伽藍復興がおこなわれ、建長4年(1252年)、北条国時により再興されたという歴史を持つ

北向観音堂
北向観音という名称は堂が北向きに建つことに由来する



善光寺が「来世の利益」、北向観音が「現世の利益」をもたらす
善光寺のみの参拝では「片参り」になってしまうといわれる
本坊である常楽寺より参拝者が多いのもうなずける



御本尊は千手観音。確認したところ堂内の撮影は可とのこと



狭い外陣に所狭しと色々なものが置かれ賑やかな状況になっている









子育観世音



大黒天



お堂の外壁にも多くの額が。紙片に説明書きがあり画鋲で留めている









愛染堂



札所観音堂



額堂
現在は仁王尊が安置されている






金網にはいつも苦労させられる



鐘楼と愛染カツラ



この木が世に知られる契機となったのは、川口松太郎の小説『愛染かつら』である。



護摩堂(不動堂)






温泉薬師瑠璃殿
伝説には行基菩薩の創建、慈覚大師の再建といわれている



北向観音には十数年前に一度訪れたことがあり、一番印象に残っていたのがこの建物だった



撮影 平成29年5月21日
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金剛山 照明院 常楽寺(長野県上田市別所温泉)

2017年11月13日 | 神社・仏閣
金剛山 照明院 常楽寺
常楽寺は北向観音堂が建立された天長2年(825年)、三楽寺の一つとして建立された

本堂
本堂は茅葺で、平成15年の修復工事で、建立当時の建築様式に改めた



堂内には当時そのままの色彩を残すという格天井の美しさに、「おぅ」と声がでてしまった



後方から



扁額には寺名の「常楽台寺」。堂内撮影禁止の紙が貼られている



石造多宝塔(重要文化財)



本堂裏の北向観音像が出現した場所になる



弘長二年(1262年)の刻銘のある石造多宝塔(重文)



本堂から石造多宝塔に至る途中に、小さな石仏が安置されている



石仏は風雨に曝され年月を過ごしてきているだけに、観ているだけで心が和む



気に入った石仏を数枚












石造六地蔵



御舟の松
樹齢350年、少し離れて眺めると、宝船の形にみえてくると云われている



三楽寺の一つとして建立されたと書いたが、安楽寺、常楽寺、長楽寺(焼失)がその三寺
現世ではこの年齢に達し、やっと「安楽、常楽、長楽」を日々過ごしている



撮影 平成29年5月21日
コメント (2)
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