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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

金剛寳山 輪王寺(宮城県仙台市青葉区北山一丁目14-1)

2025年05月02日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年10月8日

金剛寳山 輪王寺
この秋の旅行、最後の訪問地が輪王寺となった
日光の輪王寺のイメージを持っていたが違っていた



 山門<仁王門>(仙台市指定文化財)
本堂に近い駐車場に車を駐めていたため、この山門の存在を知ったのは帰り際であった



明治9年(1876年)北山に発した野火のため、仁王門を残し七堂伽藍が全焼した



山門の額には「海東禅窟」(東海の国すなわち日本の禅道場の意味)
「この額が残っている以上、輪王寺は必ず再興できる」と決意を固め、輪王寺の復興が始まったという



仁王像
この像は、356年前に制作され、過去2回修復されている
老朽化、虫食いなどが進行し、平成21年に修理が完了し、無事山門に納められた



胎内の墨跡から、輪王寺開祖像(太菴梵守和尚)を彫った仏師である「雲海、霊夢」と推測されている






格子に金網という障害物がある割には何とか撮ることができた



山門から本堂へと向かう参道は緑に囲まれ美しい



階段を上がった所から振り返る



境内図



本堂
輪王寺は、嘉吉元年(1441年)伊達政宗の夫人、蘭庭明玉禅尼の所願により、持宗が、太菴梵守和尚を開山として福島県梁川に創建した
政宗夫人は、3代将軍足利義満の生母の妹に当たるため、6代将軍義教は、後花園天皇に奏請し、「金剛寳山輪王禅寺」の額を賜った



輪王寺の草創期は、伊達氏の躍進の時期と重なった
伊達氏の居城は梁川・西山・米沢・会津・米沢・岩出山・仙台と変わったが、輪王寺もこれに従って転々とする
仙台の現在地に移ったのは、慶長7年(1602年)9世久山光天和尚の時であった






本尊:釈迦如来坐像(仙台市指定文化財)



東屋



手水舎









平和観音立像



庭園見学受付所 入園料金:300円



鐘楼(吼月楼)






撮影 令和6年10月8日
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青葉神社(宮城県仙台市青葉区青葉町7番1号)

2025年05月01日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年10月7日

青葉神社
前日からの雨が、この先3日も続くとの予報もあり、この秋の旅を終わりにして仙台港から帰ることにした
前回、仙台を訪れた時も雨で仙台東照宮と大崎八幡宮のみの参拝で終えた
この日、訪れた青葉神社も候補地の一つに入れていた




狛犬






石灯籠だと思うがあまり見ない形をしている



手水舎



伊達政宗と手水鉢は美しい花で飾られている



旧愛姫社鞘堂(国登録有形文化財)



境内社として、政宗の正室・愛姫(めごひめ)を祀る「愛姫神社」があったが、現在は本殿に合祀されている









拝殿



創建が明治7年(1874年)とは驚いた
江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつのようだ



神社周辺の北山地区には伊達家に関連する禅寺が集まっており、この地域は「北山五山」とも呼ばれている
京都五山や鎌倉五山に倣ったもので、資福寺、覚範寺、東昌寺、光明寺、満勝寺を指す



祭神:武振彦命(伊達政宗公)



政宗公 五条訓
優しさも過ぎれば弱くなる
正しさを通そうとし過ぎれば考えが固くなる
相手を尊重しようとする気持ちが強過ぎれば媚になる
知に偏りすぎれば嘘つきになる
人を信じるばかりでは損をする



政宗公の御神徳
1. 統治者としての英明さ
2. 文化人としての深い教養
3. 人々への思いやり



境内社 祖霊社



伊達政宗の家臣を祀る






駐車場から拝殿を眺める



撮影 令和6年10月7日
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春日山 林泉寺(山形県米沢市林泉寺1-2-3)

2025年04月30日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年10月7日

春日山 林泉寺
曹洞宗の寺院
米沢藩「上杉家」の菩提寺であり、また同藩士「直江兼続」の菩提寺でもある



元は、上杉家の本拠地があった春日山城(新潟県上越市)の山麓に建立された林泉寺
上杉家の転封にともない謙信の遺骸、上杉家関係の文書、重宝の大半が米沢に移された
林泉寺もこれに従って移転したとされる



本堂内では上杉家についての説明と同時に質問もされるので油断できない
以前訪れた時には謙信の幼名からの名前を質問され恥をかいた記憶がある
今回は「仙洞院」について質問され困っていたところ、他の参拝者に助けられた
堂内は撮影禁止、レンズを通すとなぜか脳にも記憶されるが、すでに何があったのかも思い出せない



直江兼続、お船の方夫妻
直江兼続の名を知ったのは、「花の慶次」というパチンコ台でこの時代の名だたる戦国武将が登場する
直江兼続が登場するとほぼ大当たりが確定するという仕組みになっている
前田慶次は、直江兼続との間で言葉なくとも意志のつながる盟友だったという



直江兼続は、幼い頃から謙信の姉である仙桃院に才能を認められ、後に上杉景勝の側近として仕えた
謙信の死後、上杉景勝を支え、上杉家を繁栄させた
兜には「愛」の文字を掲げていた



妻、お船(おせん)の方は、上杉景勝の命令で直江家を残すために「樋口兼続」を婿に迎えた(再婚)
元和5年(1619年)、直江兼続はお船の方に看取られて亡くなった
63歳で身内すべてを失ったお船の方は、剃髪して出家し「貞心尼」と号した



直江兼続の墓
墓は「万年堂」と称される家型塔婆
正面の3つの穴は、直江家の家紋「三盛亀甲花菱紋」をかたどったといわれている



中には「五輪塔」がある



三股隼人吉親の墓



鐵孫左衛門の墓



甘粕備後守景継の墓



富所伯耆守一族の墓



上杉家廟所
元和9年(1623年)より歴代の藩主は上杉家御廟所に埋葬されてきたため、ここには墓はない






仙洞院の墓
上杉謙信亡きあとの後継者争いなどでは、異母姉であった「綾御前」が上杉家の発展や存続のために、その力を注いでいたと伝えられている
二代 上杉景勝の実母 綾御前が、元和3年(1617年)に林泉寺14世・万安大悦を招聘して林泉寺を建立した



上杉謙信の没後、後継者候補に名前を挙げられたのが、上杉謙信の2人の養子だった
越後の各地で戦が起こり、最終的な結果は上杉景勝が勝利した
慶長14年(1609年)綾御前は米沢の地でその生涯を終えた



甲州夫人 菊姫の墓
菊姫は武田信玄の五女として誕生し、甲越同盟の証として「上杉景勝」の正室となった
上杉景勝は武田家が滅びたあとも変わらず、菊姫を丁重に扱った
その姿勢が上杉家全体に影響したことで、菊姫は「甲州夫人」と呼ばれるようになった



才色兼備で質素倹約の賢夫人として、家臣達から敬愛された
菊姫は、慶長8年(1603年)の冬から病に伏せ、翌 慶長9年2月に伏見の上杉邸で、47歳で亡くなった



鍋島夫人 市姫
上杉景勝の跡を継いだのは息子 定勝で、市姫は正室
市姫の父親は肥前佐賀藩の初代藩主 鍋島勝茂



会津夫人 媛姫(はるひめ)の墓
米沢藩三代目藩主 上杉綱勝の正室で「会津夫人」と呼ばれている
父 保科正之は二代将軍徳川秀忠の四男(庶子)で三代将軍家光の弟
媛姫は19歳のときに急死(「摩須姫毒殺未遂事件」)している
媛姫が嫁いだのが上杉家なのに対し、側室が生んだ松姫が、大藩である前田家に嫁ぐことになったのが許せず、松姫の毒殺を企んだ
しかし、媛姫が誤って毒を飲んでしまい急死したと言われている



上杉鷹山側室 お豊の墓
米沢藩中興の祖 上杉鷹山は上杉家に養子に入り正室に先代で養父の重定の娘「幸姫(よしひめ)」を迎える
幸姫は、脳障害、発育障害があったといわれ30歳で病死
後継者が絶える事を心配した重臣の勧めで鷹山は10歳年上の上杉家分家の姫である、お豊の方を側室に迎えた



二人の間に生まれた子供はいずれも病死し、他に側室を設けなかったため結局、鷹山の血筋は途絶えた
お豊の方は歌道をたしなむなど教養が高く、治憲の改革を支えた賢婦として地元米沢に伝えられている



撮影 令和6年10月7日
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上杉神社(山形県米沢市丸の内1丁目4-13)

2025年04月29日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年10月7日

上杉神社
ここを訪れる数日前に、武田信玄を祀る神社に参拝した
信玄の好敵手である上杉謙信を祀っている神社を訪れなければ片参りとなる

上杉謙信公之像
享禄3年(1530年)1月21日、越後守護代・長尾為景の四男(次男、三男説もあり)として、春日山城に生まれる
幼名の虎千代は、庚寅年生まれのために名づけられた



初名は「長尾 景虎」、上杉憲政の養子となり、「上杉政虎」と改名
後に室町幕府の将軍・足利義輝より「輝」の字を受けて、最終的には「藤原輝虎」と名乗った
「謙信」は、さらに後に称した法号である



天地人「上杉景勝公と直江兼続公主従像」
米沢藩の初代藩主
上田長尾家出身で、同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を「上杉景勝」と改めた



上杉鷹山公之像
出羽国米沢藩9代藩主
米沢藩政改革を行った江戸時代の名君として知られる
鷹山は藩主隠居後の号



1964年東京五輪女子バレーボール監督、大松博文氏の「なせば成る」の言葉は、ここから引用されている



アメリカ合衆国大統領にジョン・F・ケネディが1961年に就任した際に、日本の記者団に「日本でいちばん尊敬する人物」を聞かれたときすぐに鷹山の名前を挙げた
ケネディの長女で駐日アメリカ合衆国大使をつとめていたキャロライン・ケネディは、2014年に米沢市を訪れた
父は一人でも世の中を変えることができるとよく話をしていた。しかし鷹山公ほど端的に言い表した人はいないとのスピーチをした



鳥居
上杉謙信が天正6年(1578年)、越後春日山城で急死した際、遺骸は城内の不識庵に仏式にて祭られた
次代の上杉景勝が会津を経て慶長6年(1601年)に米沢へ移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も米沢に遷された



手水舎



「越後の虎」は、上杉謙信の別名



上杉謙信公家訓十六ヶ条
<別名「宝在心」といい宝は心に在りと説いたもの>
物欲がなければ心はゆったりとし体はさわやかである
気ままな振舞いがなければ、愛嬌を失わない
無欲であれば、正しい行い、良識な判断ができる
私心がなければ他人を疑うことがない
驕り高ぶる心がなければ、はじめて人を諭し教えられる
心にやましい事がなければ、人を畏れない
間違った見方がなければ、人が従ってくる
貪欲な気持ちがなければ、おべっかを使う必要がない
おだやかな心である時は、言葉遣いもやわらかである
忍耐すれば何事も成就する
心がすがすがしい時は、人に対しても穏やかである
勇気を持っておこなえば、悔やむことはない
心が豊かであれば、無理な願い事をしない
孝行の心があれば忠節心が深い
うぬぼれない時は、人の長所や良さがわかる
しっかりした信念があれば、人を咎めだてしない



狛犬






神門



拝殿
拝殿前には参拝者の列が続く






本殿
大正8年(1919年)の大火で境内は本殿以下全焼し、大正12年(1923年)現在の本殿と宝物殿「稽照殿(けいしょうでん)」が再建された



祭神:上杉謙信公












稽照殿(宝物殿)
家祖謙信公、米沢藩初代藩主景勝公、重臣直江兼続、9代藩主鷹山公の遺品・遺墨等を中心に収蔵、展示



招魂碑



戊辰戦争、西南戦争、日清・日露戦争戦没者招魂碑



上杉謙信祠堂(御堂)跡
越後春日山城で急死した謙信の遺骸は、上杉景勝が慶長6年(1601年)の移封に合わせ米沢のこの地に遷された






上杉謙信の遺骸は、春日山城から米沢城本丸の御堂に遷され、現在は山形県米沢市「上杉家廟所」に安置されている



摂社 松岬神社



明治35年(1902年)に上杉神社が別格官幣社に列せられるに際し、上杉鷹山公は摂社「松岬神社」へ遷された
その後、「上杉景勝、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱・莅戸善政」が合祀された



以前訪れた時、この場所で猫に絡まれた記憶がある









拝殿



扁額には社号の「松岬神社(まつがさきじんじゃ)」



撮影 令和6年10月7日
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靈巖山 圓藏禪寺(福島県河沼郡柳津町柳津字寺)

2025年04月28日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年10月6日

靈巖山 圓藏禪寺(別称:柳津虚空蔵、福満虚空蔵)
臨済宗妙心寺派の寺院
日本三虚空蔵のひとつに数えられる

霊宝殿
初めて訪れる寺院で、駐車場から歩いた順で写真を掲載していく






傷病者慰霊碑
国民の義務として従軍し敵弾に傷つき病に倒れたが、障害を克服して生き抜いてきた傷病軍人の碑



水子地蔵尊



人形塚



庫裏






箒(ほうき)杉



慈母観世音菩薩









鐘楼



赤べこ発祥の地
赤べこ発祥の伝説
1611年の大地震で柳津も大被害を受け、虚空藏堂をはじめ僧舎・民家が倒壊し多くの死者が出た
本堂再建に使われた大材は、只見川を利用して運ばれたが、ここから巌上に運ぶのに大変困り果てていたところ、どこからともなく力強そうな赤毛の牛の群れが現れた
大材運搬に苦労していた黒毛の牛を助け、見事虚空藏堂を建てることができたのだ



大撫牛
赤毛の牛の群れはなぜか虚空藏堂の完成を待たずにいずこへともなく姿を消した
牛に感謝の気持ちと、ねぎらいをこめて建立されたのが開運「撫牛」であり、赤毛の牛を「赤べこ」と呼んだ
忍耐と力強さが伝わり、さらには福を運ぶ「赤べこ」として多くの人々に親しまれるようになった



水殿(手水舎)



中を覗くと不動明王像






菊光堂
大同2年(807年)法相宗徳一大師によって開創されたと伝えられている
本尊:福満虚空藏菩薩(伝 空海作)



日本三大虚空藏菩薩
能満虚空藏菩薩 千光山 清澄寺 (千葉県鴨川市清澄)
大満虚空藏菩薩 村松山 日髙寺 (茨城県那珂郡東海村)
福満虚空藏菩薩 霊巌山 圓藏寺 (福島県河沼郡柳津町)



扁額には「福満(ふくまん)」
*福を満たし、恵みを与えるという意味
菊光堂の外壁には同じ文字の奉納額が掛けられている



蟇股の彫刻をよく見ると、片手で額を支えている






堂内は撮影禁止
本尊の福満虚空藏菩薩は巨大で圧倒される



菊光堂欄干からの眺め
眼下の川は只見川



良寛もこの地を訪れている



奥の院に向かうため階段を下りる
建物の右は「仁王門」左が「菊光堂」



菊光堂は写真のように崖の上に建てられている



商店街の道を500m程歩くと、奥の院「國寶 辨天堂」の石柱が見えてくる



奥之院弁天堂(重要文化財)
階段の上に見える弁天堂は独特の雰囲気があり美しい



室町中期で禅宗様式を示す代表的な建造物



額の「辨天堂」の文字も歴史を感じる



宝形造りの茅ぶき屋根の三間堂
茅ぶき屋根のそりがゆるやかな洗練された建物



本尊に弁財天を祀っているため弁天堂と呼ばれている






釈迦堂



仁王門
仁王門に戻る



仁王像
各寺院で仁王像だけは自由に撮ることができるが、金網などの障害物が悩ましい
青っぽく霞んで見えるのが金網だ



つま先立ちになり片手で撮ったり、周囲から見ると「変なお爺さん」だ
実際これまで二度ほど警察官から職務質問を受け記録されたことがある(汗)









仁王像は地域毎に分類して発信しているが、持ち玉が増えて嬉しい



撮影 令和6年10月6日
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円通三匝堂<会津さざえ堂>(福島県会津若松市一箕町八幡弁天下1404)

2025年04月26日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年10月6日

円通三匝堂<通称:会津さざえ堂、さざえ堂>
人気YouTuber「あいたの~愛犬と楽しくお出かけ~」の映像で「さざえ堂」の存在を知って訪れた
今回の旅では「清津峡渓谷トンネル」も同様に参考にさせてもらった



さざえ堂までは階段もあり、少し歩くことになる



赤い鳥居が見えてくる
初めて訪れる場所なので、目に入るものを撮りながら進んでいく



子育地蔵尊






戸ノ口堰洞穴
猪苗代湖の水を、会津地方に引くため掘られた洞穴



戸ノ口原の戦いで破れた白虎隊士ら20名は、鶴ヶ城を目指して、この長さ約150mの洞穴を潜り飯盛山の中腹へと至った
飯盛山の中腹に辿り着いた末、彼らは城下の黒煙を目にすることとなる



厳島神社
かつては宗像神社といい、永徳年間に地元の豪族、石塚、石部、堂家の三家によって建てられた



厳島神社の名は明治元年(1868年)の神仏分離令に際して改名された




旧正宗寺三匝堂(重要文化財)
待ちに待った「さざえ堂」の姿が視界に入ってきた
重要文化財指定名称は「旧正宗寺三匝堂」
「三匝(さんそう)」は、右回りに3回巡ることを指し、仏教の礼拝儀式



「会津飯盛山 世界唯一 さざえ堂」



かつてこの地にあった正宗寺の仏堂として、寛政8年(1796年)に当時の住職 郁堂が建立したもの



神仏混交の信仰形態をもっていた正宗寺は、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となり、以後、栄螺(さざえ)堂は個人の所有となっている



入口上部の彫刻



案内



平面六角形の特異な建物



高い場所へ移動



下から眺める景色とは全く違う






堂内に入る
拝観料:400円






郁堂禅師像
正宗寺三匝堂を建立



内部には二重らせん構造の斜路が続き、右回りに上る斜路と左回りに下りる斜路が別々に存在する
入口から斜路を最上階まで上り、他者とすれ違うことなく、別の斜路を降りて出口から出ることができる



堂内中央部に6本の通し柱
側柱(建物外周に立つ柱)も6本の通し柱で、中央柱との間には繋梁を渡している



螺旋階段では自分が何階を歩いているのか分からなくなる



下りの階段が見えてきたということはここが最上階となる



最上部の天井は折上げ鏡天井



この階段を見ていると平衡感覚が狂ってくる



正宗寺開祖 残夢禅師像






撮影 令和6年10月6日
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白久山 清流院 長泉寺(栃木県那須郡那珂川町白久777)

2025年04月25日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年10月5日

この日は朝から激しい雨で、天気予報でも終日続くとのことなので今日は移動日にした
走行中に「三重塔」の写真を偶然目にした
戻って確認したところ三重塔を有する寺があることが分かった

白久山 清流院 長泉寺
延徳3年(1491年)創建の歴史ある曹洞宗寺院で、「花の寺」としても知られているそうだ
境内のお花の開花状況などをInstagramで発信されている

山門
平成18年(2006年)開山500年を記念して建立



扁額には山号の「白久山 」







三重塔(慈光殿)
昭和54年(1979年)完成
老朽化した観音堂と薬師堂を取り壊し、新たに三重塔を造り「釈迦如来、十一面観音菩薩、薬師如来」を安置した






本山永平寺貫首 泰慧玉禅師により命名された「慈光殿」の額



鐘楼堂から撮る



曹洞宗寺院の境内は美しい






鐘楼堂(白長楼)
昭和56年(1981年)に完成



額の「白長楼」も泰慧玉禅師により命名






本堂
現在の本堂は平成元年(1989年)の改修



本尊:聖観世音菩薩



寺号の「長泉寺」






虚空蔵堂
虚空蔵菩薩を安置









仲よし地蔵












撮影 令和6年10月5日
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笠間稲荷神社(茨城県笠間市笠間1)

2025年04月24日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年10月4日

笠間稲荷神社
日本三大稲荷神社の一つで、年間300万人を超える参拝者が訪れるという

大鳥居
確かに参拝者が多く、鳥居の前に人がいなくなる瞬間を撮るのに10分近く待った






三大稲荷と呼ばれている神社をこれまでいくつか訪れている(笑)
伏見稲荷、豊川稲荷、祐徳稲荷、千代保稲荷、最上稲荷、草戸稲荷、太鼓谷稲成



手水舎



楼門
「萬世泰平門」と言い、重層入母屋造で昭和36年の竣工



随身像






拝殿
昭和35年10月の竣工
拝殿前の賽銭箱の大きさに驚く
初詣には80万人以上の参拝者が訪れ、初詣参拝者数で茨城県1位を誇るのも理解できる



奉納額






おみくじ



本殿(重要文化財)
本殿が重要文化財ということで訪れたのだが、残念ながら修復中であった



狐塚
本殿の真後ろにある






末社
稲荷大神に由縁のある神様が祀られている



聖徳殿
聖徳太子を祀る



藤棚
境内の2株の藤樹は樹齢400年に及ぶもので、内1本の八重藤は昭和42年に県の天然記念物に指定された






神馬の姿が見えたので再び楼門へ









御神木「胡桃の木」



さざれ石



総門
文化10年(1813年)の建立、母屋造りの建物















大毛綱









楼門前の阿吽の狐






撮影 令和6年10月4日
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椎尾山 薬王院(茨城県桜川市真壁町椎尾3178)

2025年04月23日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年10月4日

椎尾山 薬王院
桜川市真壁町椎尾にある天台宗の寺院
道路脇の駐車スペースに車を駐め仁王門から境内に入る

仁王門(桜川市指定文化財)
樹木に囲まれた仁王門が見えてくる
境内は天然記念物のスダジイ(椎の木)の巨木群生地



仁王像は別の場所で拝観料:500円で公開されている






手水舎



本堂(桜川市指定文化財)
寺伝によれば、延暦元年(782年)、法相宗の僧・徳一によって開山
延暦2年(783年)、天台宗の開祖・最澄の高弟である最仙上人によって桓武天皇の勅願所として天台宗に改められた
<最仙上人が天台宗寺院として開山したとする説もある>



建長4年(1252年)忍性が真言律宗にしたが、観応2年(1351年)天台宗に戻ったという
天文19年(1550年)の大火で諸堂焼失、寛文6年(1666年)に来山した本孝法印らが約40年の歳月をかけて順次再建
本堂は延宝8年(1680年)、三重塔は宝永元年(1704年)に完成した






本尊:薬師瑠璃光如来



開山堂



最仙上人像



本孝上人像



奉納額









天井画「夜遊び竜」
この竜が天井の絵から抜け出し、弁天池の魚を食べてしまうので、天井の四隅に釘を打ち、竜を封じ込めたという逸話が残されている









椎尾薬師「巨大眼鏡」






鐘楼






三重塔(茨城県指定文化財)
宝永元年(1704年)桜井瀬左エ門を棟梁として建立 塔高25m
瀬左エ門はこの7年後、成田山新勝寺三重塔を完工









毘沙門堂






ふどうの水






茨城県天然記念物「スダジイ(椎の木)」



令和6年度1年間の愛称「千彩の椎さま」



阿弥陀堂



撮影 令和6年10月4日
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板倉雷電神社(群馬県邑楽郡板倉町板倉2334)

2025年04月22日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年10月4日

板倉雷電神社
関東地方に点在する「雷電神社」「雷電社」の総本宮

鳥居
朝からの雨、その後の降水確率も高かったが、この日の訪問地については調べていた
到着時には小雨になり、車内で様子をみていたが傘を片手に車を降りた



狛犬
雷電神社という名の神社にはこれまで訪れたことはなく「総本宮」ということに気持ちが動いた






拝殿(群馬県指定文化財)
文政2年(1819年)の建築
入母屋造平入り千鳥破風付向拝唐破風付瓦棒銅板葺



茨城県水戸市の「別雷皇太神」、つくば市の「金村別雷神社」と並ぶ関東三雷神の1社









雷童子
「ふっと現れて助けてくれる」という



本殿(群馬県指定文化財)
二間社流造千鳥破風付瓦棒銅板葺で幣殿とともに天保6年(1835年)の建築
創建:推古天皇6年(598年)聖徳太子とされる
延暦年間(782年 - 806年)に坂上田村麻呂が社殿を造営したとされる



古くから雷の被害が多い土地であり、また暴れ川で度々流路を変えた渡良瀬川と利根川との間にあって度々火災や水害に見舞われた
延宝2年(1674年)館林藩の藩主 徳川綱吉が社殿を再建(社殿に徳川家の葵紋を使うことを許された)



祭神:火雷大神、大雷大神、別雷大神



社殿の彫刻は、左甚五郎の流れを汲む10代目の親方「石原常八」の手による






























弁財天社



稲荷神社、金刀比羅神社、天満宮



西の神馬



末社 八幡宮稲荷神社社殿(重要文化財)
室町時代の天文16年(1547年)、飯野城主 篠崎三河守が造営
祭神:八幡大神、稲荷大神



全国に7か所あるのみの「二間社入母屋造」(二間社の社殿に2柱を祀る形式)
扉が2組あり、その真ん中に一本の柱が立っている
群馬県内に現存する最古の神社建築



狛犬









奥宮(群馬県指定文化財)
慶応4年(1868年)の造営



大工の棟梁は三村正秀
流造で、すべて白木の社殿に名工のノミの冴えを見ることができる






祭神:伊邪那美大神



東の神馬






参拝者は私一人だった



弁財天(別名:市杵島姫命)の石像
駐車場内にある美しい像



社号標「総本宮 雷電神社」の奥に建物がある



「じしんのなまずさん」
撫でると地震を除けて自信が湧き出る「なまずさん」として親しまれている



撮影 令和6年10月4日
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金剛山 仁王院 法華坊 鑁阿寺(栃木県足利市家富町2220)

2025年04月21日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年10月3日

足利学校を訪問する途中に「国宝 鑁阿寺」の案内矢印があった
初めて聞く寺名で「ばんなじ」とも読めなかった
近くということもあり立ち寄ることにした

征夷大将軍足利尊氏像
鑁阿寺に向かう途中にあった「足利尊氏像」
恥ずかしい話しだが、この像を観て、足利氏と足利市の関係が結びついた



金剛山 仁王院 法華坊 鑁阿寺
鑁阿寺はもともとは足利氏の館であり、「足利氏宅跡(鑁阿寺)」として国の史跡に指定されている
真言宗大日派の本山



楼門<山門・仁王門>(栃木県指定文化財)
足利幕府13代将軍 足利義輝の再建



仁王像
仁王像は桃山時代の作






太鼓橋(栃木県指定文化財)






楼門の正面に見えるのは国宝の本堂



弘法大師像



御水屋(足利市指定文化財)



大銀杏(天然記念物)
樹齢約650年、周囲約10m



多宝塔(栃木県指定文化財)
足利義兼の創建と伝えられるが、江戸時代の元禄5年(1692年)徳川5代将軍の母、桂昌院尼の再建






経堂(重要文化財)
寺伝では開基、足利義兼の創建となっている
現存の経堂は1407年に関東管領足利満兼により再建されたもの



内部に八角の輪蔵があり、一切経二千巻余(黄檗版)を蔵している






御霊屋(栃木県指定文化財)
創建は鎌倉時代ともいわれるが、現在の建物は徳川11代将軍家斉の寄進により再建



本殿に源氏の祖を祀り、拝殿に足利歴代将軍坐像を祀る



大酉堂(おおとりどう)
元来、足利尊氏を祀るお墓として、室町時代に建立された
明治中期より足利尊氏逆賊の皇国史観により、大酉大権現(おとり様)を本尊とした



大黒堂(校倉)
建築様式は校倉で宝物を収蔵した



42世忍空上人のとき、宝物は他へ移して、足利家伝来の大黒天を祀った






蛭子堂<時姫堂>(栃木県指定文化財)
当山開基、足利義兼の妻 北條時子(北條政子の妹)を祀る



本堂(国宝)
本堂は鎌倉時代、建久7年(1197年)に足利義兼が持仏堂として建立
尊氏の父・足利貞氏により正安元年(1299年)に再建したもの



鎌倉時代から室町時代にかけて寺院として次第に整備され、室町将軍家、鎌倉公方家などにより、足利氏の氏寺として手厚く庇護された









堂内の様子






本尊:大日如来









鐘楼(重要文化財)
鎌倉時代 建久7年(1196年)足利義兼による建立



鎌倉時代の和様、唐様折衷の代表的禅宗様式
梵鐘は元禄時代の再鋳であるが、戦時の供出は歴史的資料として免れる



「犬も歩けば棒に当たる」ではないが、思わぬ幸運に巡りあうことができた

撮影 令和6年10月3日
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世良田山 長楽寺(群馬県太田市世良田町3119-7)

2025年04月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年10月3日

世良田山 長楽寺
群馬県太田市世良田町にある天台宗の寺院
境内は「新田荘遺跡」の一部として国の史跡に指定されている

総門



額には山号の「世良田山」



勅使門(群馬県指定文化財)
徳川二代将軍秀忠が日光に建てられた東照社の社殿を長楽寺に移築する際に新しく作り建て替えられたもの



勅使または幕府の上使が参向する際、あるいは新住職が入山する時以外は開かれなかったので「あかずの門」とも呼ばれている



蓮池と渡月橋
「心」の字を型どっていることから、心字池とも呼ばれている



池の中央に「渡月橋」



擬宝珠の欄干が付く、石造りの太鼓橋



三仏堂(群馬県指定文化財)
承久3年(1221年)当時の開基 徳川義季の建立
慶安4年(1651年)三代将軍家光が再造
現在の建物は、昭和60年(1984年)に改修されたもの






額には「顕密禅」



三仏堂の中に安置されている三体の木造仏は「過去・現在・未来」を表している
「釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩」の三仏



太鼓門<鼓楼>(群馬県指定文化財)
時報や行事の合図のため、楼上に太鼓を置いていたことからこの名がある



現在、太鼓はなく、明治9年に旧鐘楼から移された鐘も戦時中に供出された









徳川義季公累代墓
境内に文殊山と呼ばれる前方後円墳がある
古墳の後円部頂上にある石塔群は、長楽寺の開基であり徳川氏の始祖である義季(よしすえ)以下、徳川氏累代の墓所と伝えられている



宝塔(重要文化財)
三代住職院豪が造立
開基 徳川義季供養のため建立されたものと考えられている



群馬県内で、鎌倉時代と推定される宝塔は13基
そのなかでも、石塔に鎌倉期の銘のある宝塔は2基しかない
その内のひとつが長楽寺の宝塔で優れた石造美術品として知られている



石塔群内に置かれている石仏



新田一族供養塔
石燈籠と十三重石塔



開山堂



開山 栄朝禅師の像が祀られている



「開山堂」の掛額は、松平定信の真筆



新田家累代墓









開山 栄朝禅師の墓



「開山 栄朝大禅師」と彫られている



本堂
平成17年檀信徒により再建された



三代将軍 徳川家光寄進による当寺の本尊:釈迦・文殊・普賢の三尊仏を安置



ぼけ封じ観世音菩薩



隣接して世良田東照宮へ向かう



世良田東照宮
各地の東照宮巡りも旅の目的の一つにしているが、残念ながら社殿修復中であった



奉納石灯籠



大きな写真の拝殿に「二礼二拍手一礼」
拝殿・本殿・唐門は重要文化財に指定されている



鉄灯籠(重要文化財)
元和4年(1618年)総社藩主秋元越中守長朝の命により造られた
高さ4.95mの当時とすると 日本一大きい鉄燈籠
明暦4年(1658年)当宮へ奉納される






撮影 令和6年10月3日
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少林山 達磨寺(群馬県高崎市鼻高町296)

2025年04月18日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年10月3日

少林山 達磨寺
群馬県高崎市にある黄檗宗の寺院
本堂が達磨で飾られている写真を見て訪れたのだが「縁起達磨発祥の地」とは知らなかった



カーナビに案内されたのは寺務所(瑞雲閣)に近い駐車場
「大石段」の下に総門がある



鐘楼



「招福の鐘」とある
指示通り「心静かに2回」撞く



達磨大師と思われる



鐘楼の真下に大石段がある



この石段の先に見えるのが本堂



だるまいし



大講堂



「無門会坐禅道場」「本尊:達磨大師」とある



水屋



霊符堂(本堂)
達磨寺を訪れる途中、工場内の敷地に沢山の「だるま」が置かれていたのを目にしてきた
群馬県指定のふるさと伝統工芸品に指定されていて、全国の張り子だるまの約8割が群馬県で生産されている



室町時代末期、鼻高村の高台に行基菩薩が彫ったとされる観音様を祀まつる小さな観音堂があった
延宝年間(1673~1681年)に碓氷川が氾濫した際に「黒光りした古木」が流れ着き、村人たちは霊木として観音堂に納めた
行者である「一了居士」の夢枕に達磨大師が立たれ「この私の像を彫りなさい、彫る木は鼻高にある」と
一了居士は、達磨大師の坐禅像を彫りあげ観音様の隣に安置した



元禄10年(1697年)前橋藩主・酒井雅楽頭忠挙が厩橋城(前橋城)の裏鬼門を護る寺として開創
享保11年(1726年)水戸徳川家から三葉葵の紋と丸に水の徽章を賜い、永世の祈願所とされた



本尊:北辰鎮宅霊符尊
   初祖 達磨大師、開山 心越禅師も祀られている



達磨寺は前橋城(現在の群馬県庁)から見て南西に鎮座しており、前橋城の裏鬼門を守護する寺として創建された
通常お堂は南向きや東向きに建てられることが多いが、達磨寺は北極星(北)を向いている









絵馬も勿論だるまの形をしている



観音堂
達磨寺では最古の建造物で、開創のころは経蔵であった



寛政4年(1792年)に大改修が行われ「霊符堂(本尊:北辰鎮宅霊符尊)」として一新された
現在のお堂の姿になったのはその時からと考えられている



明治の火災では諸堂が焼け落ちたが、この霊符堂だけが難を逃れた



額には「厄除観世音」



本尊:十一面観音菩薩






茅葺きの屋根



年月と共に周囲の自然と同化していく姿が好きだ



撮影 令和6年10月3日
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五徳山 水澤観世音(群馬県渋川市伊香保町水沢214)

2025年04月17日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年10月2日

五徳山 水澤観世音
天台宗の寺院で1300年の歴史をもつ
初めて訪れたが駐車場の大きさに驚いた(乗用車400台、バス30台)



納札堂



鐘楼
参道を進むと線香の匂いが漂ってくる



大和の鐘は撞くことができる(志納金100円)



遠くから見えた霞んだ景色は線香の紫煙だった



清昌稲荷
お堂の周辺には参拝者が多く、周辺を散策しながら様子をみることに



龍王辨財天



「此の水は、当水澤観音の霊泉にて、財を成し、病を癒し天寿を全うする事は、龍王辨財天の示す処也」






六角二重塔(群馬県指定文化財)
元禄年間に建立され銅板瓦棒葺の造りで、我が国における地蔵尊信仰の代表的建築物



宝暦5年(1775年)~天明7年(1787年)の間の建造
六地蔵と大日如来が安置されている












六地蔵を六角輪転の台座に安置
「地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間界、天人界」の六道を守る地蔵尊



回転する地蔵尊を左に3回廻すと御利益があるようだ



弘法大師









観音堂<本堂>(群馬県指定文化財)
水澤観世音はおよそ1300年前、推古天皇・持統天皇の勅願により、高麗の高僧 恵灌僧正によって開基
「五徳山 水澤寺」の名称は、推古天皇の御宸筆の額名によるもの






現在は、渋川市から群馬県指定文化財に







観音堂の彫刻



天井画









本尊:十一面千手観世音菩薩
国司高野辺家成公の三女 伊香保姫のご持仏



阿弥陀如来



賓頭盧尊者






水子地蔵尊



仁王門(群馬県指定文化財)
元禄年間の建立 楼門の上には、釈迦三尊(釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩)を安置



額には山号の「五徳山」



仁王像
もともとの仁王像は「釈迦堂」に移設したため、あらたに造像したもの












天井画



「法眼狩野探雲行八十五歳筆」の墨筆が残っている



風神雷神像






観音堂から偶然目にした仁王門だが盛りだくさんの内容であった



駐車場に戻る






撮影 令和6年10月2日
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一之宮貫前神社(群馬県富岡市一ノ宮1535)

2025年04月16日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年10月2日

一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)
上野国一宮 創立は社伝によると、現在の社地に社を定めた安閑天皇の元年(531年)とされている

大鳥居
今回が2度目の参拝になるが、帰り際に遠くにあるこの鳥居の存在を知った



総門(惣門)
大鳥居と総門は同じ高さにあるという



駐車場から歩いてくると、この場所にでる






銅製燈籠(富岡市指定文化財)



狛犬






くだり参道
社殿配置は独特で、本殿が境内入り口よりも低い位置にある
正面参道から石段を上がり大鳥居・総門をくぐると、今度は石段を下ってから本殿に参拝することとなる



このような配置の神社は「下り宮」・「下り参りの宮」と呼ばれている



末社 月読神社
楼門への石段の横に鎮座する
社殿は寛永12年(1635年)以前の本社の旧拝殿で、牛王堂として使用されていた



斎館



楼門(重要文化財)
江戸幕府第3代将軍徳川家光による寛永12年(1635年)の造営



社務所



手水舎



拝殿(重要文化財)
江戸幕府第3代将軍徳川家光による寛永12年(1635年)の造営
元禄11年(1698年)、第5代綱吉による大規模な修理で極彩色の漆が塗られ、現在の華麗な造りとなった



入母屋造り、平入、檜皮葺き、正面は唐破風二重重縁、周囲は腰高窓が廻らされている






若い頃は極彩色は好みではなかったが、年齢が増すとその良さが理解できるようになった



拝殿内部






本殿(重要文化財)
単層2階建てで「貫前造」と呼ばれる独特な造りである
内部は2階構造になっていて上段に神座が据えられ、稲含山に向けて「雷神小窓」が設けられている



祭神:経津主神(ふつぬしのかみ)、姫大神(ひめおおかみ)



入母屋造り、妻入り、檜皮葺き。寛永12年(1635年)三代将軍徳川家光の命によって建てられた



摂社 抜鉾若御子神社(ぬきほこわかみこじんじゃ)



神楽殿






参拝を終え駐車場に戻る



珍しい「下り参り」の経験は貴重だ



撮影 令和6年10月2日
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