今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

2022 秋 放浪の旅(4日目)滋賀県・福井県

2022年10月04日 | 神社・仏閣
2022 秋 放浪の旅(4日目)滋賀県・福井県

道の駅「マキノ追坂峠(おっさかとうげ)」
入浴施設が併設されている以外の道の駅は、できるだけ新規開拓を志している
到着したのが午後7時前、途中のコンビニで夕飯を買いそびれ、チーズとバナナで腹を満たした
この道の駅大型トラックが多く、エンジン音がうるさく、耐えきれず場所の移動を考えたほどだ



夜10時過ぎると急にエンジン音が静かになり27台ある大型車の枠に入りきれなかった車もいなくなっていた
いわゆる430休憩(4時間走ったら30分休憩しなければならない)で駐まっていた車が多かったということだ



その後はゆっくり休むことができ、血圧も脈拍も正常値
道の駅からみた風景。遠くに海も見える



多田寺(福井県小浜市多田)
もう10年も若狭路を走っていると行く場所を探すのに苦慮する
苦い思い出のある多田寺を選択した。今回が二度目になる



カラフルな仁王像が迎えてくれた






仁王門からの眺め



「鐘楼」を撞いてお参りするのだが、最初に訪れた時、強く撞きすぎると住職から注意を受けた
そんなつもりはなかったが、謝罪してもしつこく言ってきたことに腹が立ち参拝をやめたのだ



「二度と来ない」と心に誓ったが、来てしまった
(受付の僧侶はあの住職ではなかった)



本尊の薬師三尊が重要文化財に指定されている
十一面観音像は特に美しい(訪れてよかった)



妙楽寺(福井県小浜市野代)
ここも二度目になるが既に記憶が薄れてきているのでちょうど良かった



仁王像は大きいレンズではこれが限界だ






参道を進むと遠くに本堂が見えてくる



本堂(重要文化財)



「鐘楼」梵鐘は関ヶ原の戦いの時代に造られたもの
自由に撞くことができる



「地蔵堂」



木造地蔵菩薩座像(福井県指定文化財)



「芭蕉句碑」 名月や北国日和定なき



この後、「正法寺」を目指したが、生活道路で私の車では右左折が困難で断念した

飯盛寺(福井県小浜市飯盛)
ここは初めて訪れる寺で、飯盛山中腹にある古刹
途中、カーブが曲がりきれず、ハンドルを切り返す場所が二カ所あった



仁王像の足元に10cm程の空間があり、コンパクトデジカメにて撮影した






本堂(重要文化財)
巨大な茅葺きの屋根は珍しい



住職から写真撮影の許可をもらった
須弥壇も重要文化財



実際は肉眼では暗くて見えないが、デジカメだとよくわかる



十二神将



仏像の撮影は楽しい



道の駅で休憩していたときにツイッターでファミリーマートに山崎の180ml瓶が販売されているとの情報を入手
運良く入手することができた(嬉しい)






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城谷山 諦應寺(福井県三方上中郡若狭町安賀里33-1)

2022年09月23日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月5日

城谷山 諦應寺
曹洞宗の禅寺
永正3年(1506年)の創建 開山は順翁慶随和尚
道の駅のポスターの写真に衝撃を受け訪れたのが最初で、今回が2回目の訪問になる



前回も今回もそうだが、カーナビの案内では何故か辿り着かない
周辺を走っていると小さな寺の案内板があり、今回もそれが頼りになった



禅宗の寺院の門前に建っている石柱
「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」という結界石が多いが「境内」になっている



山門と大銀杏
左の太い銀杏の木が訪問の大きな目的だが、詳細は後で



鐘楼付山門(若狭町指定文化財)
高さ7m、幅6m、総欅造二階建、入母屋造、桟瓦葺



2階が鐘楼になっている



本堂側から



本堂
本堂に近づくと堂内の清掃していた女性から元気に挨拶された



堂内の様子



撫で仏も光り輝いている



本尊:釈迦如来座像(江戸時代の造立か)



拡大してみた



扁額には寺号の「諦應寺」



襖絵






境内には石仏が点在している









銀杏観音(若狭町指定文化財)
初めて訪れた時、この場所がわからず諦めて駐車場に戻ろうとした時に偶然目に入った
その時の喜びは今も記憶に残っている



樹齢450年
立木仏でいつ彫られたかははっきりしていないが……



30世住職(仏山恵隆和尚:嘉永3年 1850年-53年)が彫刻されたと云い伝えられている



初めて観た時の驚き、喜びは、今回が2回目なので若干薄らいでいるがそれでも感動する












百体地蔵
祈祷後の、お礼参りに祀られた地蔵(250体以上ある)



撮影日 令和4年6月5日
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若狭姫神社(福井県小浜市遠敷65-41)

2022年09月22日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月5日

若狭姫神社(下社)
若狭国一宮
若狭彦神社は、上社・下社の2社からなり、上社を「若狭彦神社」、下社を「若狭姫神社」という
別称として郡名から「遠敷明神」とも呼ばれる



鳥居



木造「明神鳥居」との説明もある



手水舎



社務所



遥拝所
上宮・若狭彦神社と鵜ノ瀬・白石神社
*鵜の瀬は東大寺二月堂のお水取り縁の場所



楼門(福井県指定文化財)
寛保3年(1743年)の造営



楼門(随神門)の先には神門



楼門(随神門)の左右には説明によると「吉祥八人」
八躯を祀る方式は全国唯一



若狭姫神がこの遠敷(おにゅう)の地に鎮座の時の眷属神






祭神 豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)の説明文
*豊玉姫は初代天皇とされる神武天皇の祖母
 イザナギとイザナミから生まれた豊玉彦命(綿津見神)の娘とされている



「遠敷神社(おにゅう)」の額



下社にあたる若狭姫神社は、養老5年(721年)2月10日、上社より分祀し、若狭姫大神とした
上社祭神の若狭彦大神同様、若狭姫大神の姿も唐人のようであったという






若狭姫神社は安産・育児に霊験があるとされている






「乳神様」とよばれる大銀杏






「子種石」と呼ばれる陰陽石



神撰所



末社 日枝神社



中宮神社



「鬼板」 
平成の屋根替えまで、棟の左右両端を飾っていた4枚の鬼板の1枚



本殿(福井県指定文化財)
祭神:豊玉姫命(とよたまひめのみこと) - 「若狭姫神」として祀る



神門(福井県指定文化財)



拝殿内部






今回が2度目の参拝になるが、とても雰囲気のよい神社だ









再び楼門から



初めて訪れたのが何年前になるのか思い出せないが、鳥居前の町並みが変わったような気がする



撮影日 令和4年6月5日
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建康山 空印寺(福井県小浜市小浜男山2)

2022年09月21日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月5日

建康山 空印寺
曹洞宗寺院
境内に八百比丘尼入定の洞穴があることで知られている

薬医門(小浜市指定文化財)
薬医門のいわれは、一説には矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたといわれている
また、かつて医者の門として使われたことからとも
門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたもといわれている



京極高次が関ヶ原の戦いの論功行賞により若狭国主となったが、高次没後、息子の京極忠高が京極高次の牌所とし「泰雲寺」を建立
京極家は寛永11年(1634年)松江へ転封となる

後に若狭国小浜藩の初代藩主 酒井忠勝により父酒井忠利の霊骨を移して「建康寺」と称す
酒井忠勝は、第3代将軍・徳川家光から第4代将軍・徳川家綱時代の老中・大老であった



2代藩主酒井忠直が酒井忠勝の七回忌法要を執り行うに当たり寛文8年(1688年)伽藍を増築し「空印寺」となった



扁額には寺号の「空印寺」
空印は酒井忠勝の法号である






酒井家墓所(小浜市指定史跡)



面山瑞芳禅師像
面山 瑞芳(めんざん ずいほう)は曹洞宗中興の祖
空印寺第14世住職
晩年には関東や畿内を行脚し、「建康普説」といった新しい仏法を生み出し、多くの著書を残した












八百比丘尼入定の地
人魚の肉を食べて不老不死の力を得たという八百比丘尼(やおびくに)の民話は全国各地に残っている
小浜市の空印寺は八百比丘尼が入定したという洞窟がある



空印寺「八百比丘尼略縁起」
斉明天皇の白雉5年(654)若狭の国の高橋長者という金持ちの家に、玉のように美しい娘が生まれた
肌は白玉のように容顔美麗で、智徳万人に優れていた。そのため世の人は神仏の再来と崇めた



齢16歳の時、龍王が白髪の翁となって現れ人魚の肉を与えた
姫はこれを食べたところ、不思議なことに幾百歳を経ても16歳の時の容顔から変わることがなかった



120歳にして髪を剃り諸国を巡遊し、ここに50年、あそこに100年と止住し
所々で堂社を修造し、また道路を開き、橋梁を架け、五穀樹木の繁殖を教え、また尊皇奉仏、五常の道を授けた
よって諸国の旧蹟のある所は勿論、広く尊崇を集めた



後花園天皇の宝徳元年(1449)7月26日、京都清水の定水庵で教化を止め、生国の若狭に帰る
後瀬山の山中の神明社の近くに庵を結び住んでいたが、齢800歳にして当寺境内後瀬山麓の大巌窟で入定した









人々は名付けて八百比丘尼、または八百姫とも寿長(ながす)の尼とも、また椿を特に愛し入定したので玉椿の尼とも呼んだ



入定後、祈願する者あれば必ず不思議の霊験があった
洞窟の高さは1.5m、幅2m、奥行5m
以前はもっと奥まで洞窟は延びていたが、国鉄が通ったときに洞窟奥を埋めたという



撮影日 令和4年6月5日
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凌霄山 常高寺(福井県小浜市小浜浅間)

2022年09月20日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月5日

凌霄山 常高寺
臨済宗妙心寺派の寺院
浅井三姉妹の次女「初」、京極高次の正室(常高院)の祈願により建立された

山門
戦国時代、絶世の美女といわれたお市の方と近江の小谷城主浅井長政の間には三人の娘がいた
「戦国悲劇の三姉妹」として有名な、淀殿、お初の方、お江の方だ



常高寺は次女 「気遣いの人」お初の方(京極高次の正室、後の常高院)の寺
三姉妹のなかでは地味な存在ではあるが、以前訪れた時に資料を読み感動し再訪した



本堂
旧本堂は大正年間に焼失
現本堂は平成13年(2001年)に落慶した



歴史ある建築物が好きなので、最初観た時にはがっかりしたことを思い出した









屋内に入る



常高院
系図によると京極高次の母と三姉妹の父の浅井長政は姉と弟で、いとこの関係



京極高次
京極高次の妹 京極竜子が秀吉の側室になったことで高次も取り立てられた
お初の方二十歳の時、秀吉のとりなしで、没落した名門佐々木京極家の嫡男の京極高次のもとに嫁いだ
徳川家と京極家の絆を強固にするという意味もあったようだ



三女「お江」からの手紙
お初には子供がなく、お江の四女を養女(京極忠高の正室)とした



遺言状「かきおきのこと」
常高院が亡くなる1ヶ月程前、寛永10年7月21日の日付のある「かきおきのこと」という文章が残っている
内容は9ケ条にわたっている
はじめの3ケ条は「常高寺」のことについて
万一国替えがあっても寺は続くように、常高寺住職に今後とも目をかけてやってほしいと頼んでいる

次の3ケ条は、自分の身の回りの世話をしてくれた侍女方や侍、小姓たちの身の振り方について述べている
具体的に名前をあげ、小少将、たき、しん太夫、しも、ちゃほは年もいっているので
尼にして常高寺の下に町家のごとく家を建てて住まわしてほしいとのこと……
若いそせん、ようりんという侍女も出家を望んでいるがよくよく気持ちを確かめてからにしてほしい



7条目は、「古奈姫(こなひめ)」という常高院の幼女のことにふれている
関ヶ原の戦いまで桑名城主であった氏家行弘と、その正室で松雲院(京極高次の妹)の子供
氏家行弘は大坂の陣で最後まで大阪城にとどまり淀君とともに自害、その娘を常高院が引き取った
京都の公家に嫁がせたが、自分が亡くなったあとは他にたよることがないだろうからたのむと述べている

8条目は、「浅井作庵」という人物について
三姉妹の父長政には男の子が二人または三人いたようだ。長男の万福丸は殺されたが、ほかに喜八郎という子がいた
この喜八郎は後に、大阪方の増田長盛に仕え淀君のもとで戦った
行き場を失った喜八郎を常高院がかくまい、出家の形をとって浅井作庵として客分待遇とした
今後とも過分の知行を与えて目をかけてやってほしいと低姿勢で頼み込んでいる

母お市の方の三姉妹への遺言は「浅井の血であることを忘れるではない」ということで
常高院としては、浅井の姓を存続したかったのだろう

最後の条は常高院の身の回りの警護にあたっていた侍の名をあげ、今後とも目をかけてやってほしいとしている



常高院の次女



京極家縁の城






NHK 2011年 大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』
この頃はまだ浅井三姉妹に関心がなかったので視聴していない(残念)



主人公の次姉・初役を演じたのが「水川あさみ」



本堂内






本尊:釈迦如来






吹き抜け、トップライトと32本の上り梁が特徴






彫刻



常高院肖像画よりの復元小袖「紫地唐草花文銀欄小袖」









常高院位牌



鐘楼



常高院墓所(小浜市指定史跡)
晩年、江戸に滞在していた常高院は、夫高次の菩提を弔い、さらには父母である浅井長政とお市の方らの供養の為、
寛永7年(1630年)嫡男である忠高が領する小浜の地に一ヵ寺建立を発願し、幸いにも槐堂和尚との知遇を得て開山として迎えた



その3年後の寛永10年(1633年)8月27日、病のため京極家の江戸屋敷にて波乱に富む人生を閉じた



遺骸ははるばると木曽路を越えて小浜城に運ばれ、常高寺において葬儀が執り行われた
城主忠高を始め、家臣もことごとく喪服にて葬列に参加したといわれている



常高院の墓を囲むように侍女たちの墓石が並んでいる



4m余りの宝篋印塔



大坂冬の陣では徳川家康が大阪城を力ずくで攻め落とすことは困難とみて和議の交渉に持ち込んだ
大坂方の使者として選ばれたのが常高院で徳川方からは阿茶の局だった
和議は成立したが結果は歴史が物語っている



豊臣秀頼には2人の子供がいた。国松は徳川に捕らえられ殺されてしまう
女の子は常高院が保護し、徳川方にかけあい、命乞いして、尼として生きる道をとらせることにした
後に、鎌倉の縁切り寺として有名な東慶寺の第20世住職「天秀尼」となった
さだまさしの「縁切寺」が好きで「東慶寺」を訪れたことがあるが、このような歴史的背景があるとは知らなかった



少し距離がある墓所から戻る



常高寺の境内の一角で花菖蒲が約40種2,000株咲く
若狭地方では唯一の花菖蒲の名所で多くの人が鑑賞に訪れるという



撮影日 令和4年6月5日
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補陀洛山 観音寺(京都府福知山市観音寺1067)

2022年09月18日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月4日

補陀洛山 観音寺(あじさい寺)
高野山真言宗の寺院 寺のHPや案内では「華観音寺」になっている
関西花の寺二十五霊場第1番札所(丹波のあじさい寺として知られている)



美しい境内図



仁王門



金剛力士像(京都府暫定登録文化財)
日差しがガラスに反射して苦労した


















参道は一方通行で、紫陽花の季節には早すぎたようだ



所々に申し訳なさそうに花が開いている



華観音寺の見所



庭に放されている「鶏」もこの寺の名物



護摩堂



七観音めぐりのお寺
病気平癒や縁結びなどの諸願成就を祈祷してお参りすると 数々の奇跡が起こっているとのこと

途中にある石仏(わらべ仏)とその言葉にも癒やされる



① 千手観音菩薩



② 馬頭観音菩薩



無常橋



③ 十一面観音菩薩



④ 聖観音菩薩



所々に紫陽花が咲いている



観音様の霊力で眼病が治り、再び光明を得たお礼にと
七色に変化する光の花あじさいを数本植樹されたのがあじさい寺のはじまりだという



⑤ 如意輪観音菩薩



毎年6月~7月には白・青・紫・ピンクのあじさいが鮮やかに咲き乱れ、花浄土と呼ぶのにふさわしい佇まいをみせる









⑥ 不空羂索観音菩薩









⑦ 准胝観音菩薩



慈母観音(あじさい観音)
七観音めぐりを終えると慈母観音が迎えてくれる



台座の含蓄ある言葉







観音堂(京都府指定文化財)
寺伝によれば、養老4年(720年)、法道仙人による開山
本尊:本尊十一面千手観音菩薩



応和元年(961年)空也により中興され七堂伽藍が建立されたと伝える
天正4年(1576年)明智光秀による焼き討ちにより焼失
天明4年(1784年)大聖院・多聞院・本堂が再建された









だるまおみくじ





















わらべ仏も残り少なくなってきた






八体佛



弁天堂






庚申堂



観音杉



開山 法道仙人像



石彫家 長岡和慶の作品



鐘楼(京都府指定文化財)
切妻造、桟瓦葺 
寛政元年(1789年)の建立



前の梵鐘は寛文6年(1666年)は戦時下にて供出
現梵鐘は昭和25年、壇信徒による喜捨の浄財で鋳造









手水舎



山門<表門>(京都府指定文化財)
両袖付きの棟門で屋根を段違いに見せる中国・民時代の唐様建築
関西地方には例がなく、長崎の崇福寺、山口の東光寺、岡山の閑谷学校の校門にみられる






大聖院






緑のアーチを通り駐車場に戻る



撮影日 令和4年6月4日
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斑鳩寺(兵庫県揖保郡太子町鵤709)

2022年09月14日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月3日

斑鳩寺
聖徳太子開基 1400年の歴史をもつ寺院
天台宗の寺院



旅に出る際、また旅行先では不慮の事故のことは常に考えて行動している
今回は残念だが前を走る車が急に停まり右折しようとした車体との接触を避けようと左側に回避
タイヤの横の部分が縁石に接触し前後輪ともバーストしてしまった



片側1車線の道路で通勤時間ということもあり、不注意から大渋滞を起こしてしまった
パトカー3台による交通整理で事なきを得たが、対応していただいた警察官はとても親切で感謝の気持ちでいっぱいだ



警察官・レッカー車の運転手・トヨタの整備員など多くの方々の一隅を照らす活躍により
半ば諦めていた旅も継続できるようになった(大感謝)



仁王門(兵庫県指定文化財)
寛文13年(1673年)の再建



仁王像









今回の仁王像は私の心境を察してか、何時になく寂しそうな表情をしている









山王社(兵庫県指定文化財)
明暦2年(1656年)の再建



三重塔(重要文化財)
室町後期 永禄8年(1565年)に龍野城主赤松政秀によって再建



今回が4度目の参拝になる。前回は「蚤の市」であったが、いつも何かの行事に重なっている
そのため、塔の前に車が駐まっていたりして塔全体を撮ることはできなかった



今回は他に参拝者も無く、(日差しは強すぎたが)良い条件で撮ることができた






講堂(太子町指定文化財)
弘治2年(1556)に再建、明和6年再修造






賓頭盧尊者






鐘楼(兵庫県指定文化財)
天正20年(1592年)に赤松広英によって再建
元禄6年(1693年)大修理






聖徳殿前殿(兵庫県指定文化財)
天文20年(1551年)再建
寛文5年(1665年)大修理






聖徳殿前殿を横から(中殿・後殿へと続く)



聖徳殿中殿(登録有形文化財)
大正5年 (1916年)の建立



聖徳殿後殿(登録有形文化財)
大正5年 (1916年)の建立
太子十六歳像を祀る(拝観は事前予約)
法隆寺夢殿を参考にした裳階付八角二重円堂



神馬



聖徳太子御二歳尊像









撮影日 令和4年6月3日
コメント (1)
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真木山 長福寺(岡山県美作市真神414)

2022年09月12日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月2日

真木山 長福寺
真言宗御室派の寺院
天平宝字元年(757年)に鑑真が孝謙天皇の勅命により開いたという
寺は現在の真木山麓ではなく、山上にあった



案内板



鐘楼門



本堂側から







宝蔵庫



手水鉢



本堂
弘安8年(1285年)円源が天台宗の寺院として再興した
再興後、僧坊は65坊を数え最盛期となった
天台宗と真言宗に宗派が頻繁に入れ替わったが、明徳年間(1390年 – 1393年)に真言宗の寺院になった



昭和3年(1928年)に長福寺は山上から現在の地に移転した
山上に残されていた三重塔、真木山鎮守堂(山王権現堂)、金比羅大権現なども昭和26年(1951年)に現在地に解体移築された



本尊:木造十一面観世音菩薩立像(重要文化財ー伝 行基作)



境内は綺麗に整備され、花に囲まれている



釈迦如来坐像(美作市指定文化財)
昭和32年(1957年)頃に真木山から移された



江戸時代の作で、高さ2.2m



弁天堂



三重塔(重要文化財)
数年前、岡山県観光をしている際に不覚にも通過してしまい、悔いが残っていた塔である
寺を目指していると遠くからその姿が見えてくる



朱色は苦手だが天気に左右されず鮮明に写るところがいい



棟札の銘から鎌倉時代の弘安8年(1285年)に大工棟梁・藤原国右衛門尉によって建立された



昭和26年(1951年)真木山上から現在地に移築された。昭和55年(1980年)保存修理が完了



案内板



岡山県最古の木造塔建築物だという



平成27年6月には、杮葺きの屋根が葺き替えられた



三重塔の上に位置している
真木山鎮守堂(山王権現堂)、金比羅大権現か(未確認)



塔の横にある道を歩くことにより、様々な高さから拝観できる



塔を背に駐車場に戻る



撮影日 令和4年6月2日
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中山神社(岡山県津山市一宮695)

2022年09月11日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月2日

中山神社
美作国一宮
社伝(『中山神社縁由』)では、慶雲4年(707年)4月3日の創建

鳥居<中山鳥居>
寛政3年(1791)の建設。高さ8.5m、幅は7m弱、花崗岩製で柱は2分割、笠木は3分割されている
角貫に木鼻がなく、笠木と島木に反りをもたせて壮大美を強調している
このような形は他県にあまり例がなく、特に中山鳥居として一形式をつくっている



名木百選 ムクノキ



樹齢500年だそうだ



愛嬌のある神牛、ワンカップがお好きなようだ(笑)



案内板



鳥居から真っ直ぐ伸びた参道



狛犬1






手水舎



狛犬2
こちらの方が時代が古そうだ



風雨に曝され、柔和な表情になっているような気がする



神門(津山市指定重要文化財)



津山城二の丸にあった「四脚薬医門」を明治初頭に移築した



社務所



神楽殿



拝殿前の門



拝殿



拝殿内部






拝殿を横から



本殿(重要文化財)
天文2年(1533年)、尼子晴久の美作攻めの際、境内に陣を置く敵を攻略するために火が放たれ、社殿が焼失
美作平定後の永禄2年(1559年)、尼子晴久自身によって再建された



中山造(なかやまづくり)という神社建築様式の1つ



岡山県津山市一帯に鎮座する神社の本殿に見られる独特の様式
方3間の入母屋造妻入の身舎正面に、1間の向唐破風の向拝を付す



千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)









撮影日 令和4年6月2日
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栃社山 誕生寺 その2(岡山県久米郡久米南町誕生寺里方808)

2022年09月10日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月2日

栃社山 誕生寺 その2
法然上人生誕地に建立された浄土宗の寺院
建久4年(1193年)熊谷直実、法然上人の弟子となり「蓮生」と改める。同年、誕生寺を創建する

御影堂(重要文化財)



石造五輪塔(岡山県指定文化財)
応永32年(1425年)の供養塔



両幡の椋






無垢橋(登録有形文化財)



大正9年(1920年)建造。片目川に架かる石橋。長さ7.3m、幅2.6m



片目川






勢至堂
法然上人の両親の霊廟















法然上人 産湯の井戸





五輪石塔(岡山県指定文化財)






津山城主関係者の墓



無垢地蔵(山陽花の寺霊場)



守護大仏(岡山県指定文化財)
延享2年(1745年)鋳造 高さ6.42m、重量450kg
岡山県下で一番大きな仏像である



勢至丸(法然上人)の旅立ち






見守る母・秦氏君(はたうじのきみ)



その秋、37歳の若き身をもって病没



宝物館
宝物館の扉が開いていた
入館料を箱に収め、初めて中に入る









東郷平八郎直筆















木造清涼寺様釈迦像(岡山県指定文化財)






熊谷直実<法力房蓮生>(三代豊国画)
誕生寺開基・初代住職






撮影日 令和4年6月2日
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栃社山 誕生寺 その1(岡山県久米郡久米南町誕生寺里方808)

2022年09月09日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月2日

栃社山(とちこそさん) 誕生寺 その1
法然上人生誕地に建立された浄土宗の寺院
浄土宗には総本山・大本山・本山・特別寺院があり誕生寺は特別寺院4寺のうちの1つ

山門(重要文化財)
正徳5年(1716年)の建造
付帯する筋塀は安政4年(1857年)伏見宮家より寄進された






今回が2度目の参拝になるが、「熊谷 直実」の名に目が止まった






毘沙門堂
山門右手にあり毘沙門天を祀る






公孫樹(岡山県指定天然記念物)



久安3年(1147年)15歳の勢至丸(法然上人)が比叡山に旅立つ際に杖とされた銀杏の枝をさしたところ正着繁茂したという




公孫樹の先に御影堂が見えてくる



御影堂(重要文化財)
過去に二度損壊し、現在のものは元禄8年(1695年)の建造



この寺の場所は法然上人が長承2年(1133年)4月7日に、父漆間時国、母秦氏の子として生れたところ
幼名を勢至丸といい、9才のとき父時国が、源内武者定明という武士によって、夜討ちをうけて亡くなったがその遺言によって、出家する決意する



建久4年(1193年)弟子の熊谷蓮生房が法然上人の等身像をこの地に移し、昔の館を仏閣として誕生寺と号したのが始まりである



額には「誕生律寺」 
かつては誕生律寺と呼ばれていた
本尊:圓光大師(法然没後、朝廷から贈られた大師号)



さて、熊谷 直実(くまがい なおざね)の名に目が目が止まったと書いた
鎌倉殿の13人を視聴するにあたり「平家物語」を再読していた
最も有名な「祇園精舎の鐘の声……」も素晴らしいが、最も感動したのが
「熊谷 直実、息子ほどの敦盛を涙ならに討つ」場面である



寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦い
この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を
「卑怯にも敵に後ろをお見せになるのか」と呼び止めて一騎討ちを挑む
直実がむずと組んで若武者を馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子・直家ぐらいの年齢の少年だった



直実が「大した者ではないが、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実だ」と名乗った後、
敦盛は「私が名乗らなくても、首を取って誰かに尋ねてみよ。きっと知っている者がいるであろう」と答えた
これを聞いて立派な武士だと感動した直実は一瞬この少年を逃がそうとしたが、背後に自分たちの味方の手勢が迫ってくる



たとえ自分が少年を逃がしたとしても、どのみち生き延びることはできないだろうと考えた直実は
「同じことなら直実の手におかけ申して、死後のご供養をいたしましょう」と言って、泣く泣くその首を斬った
その後、首実検をするとこの公達は清盛の甥・平敦盛と判明、齢十七だった
討ち死にの折に帯びていた笛「小枝」(さえだ)は、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛が鳥羽上皇から賜ったものだという

瑞應殿(旧阿弥陀堂)

敦盛を討った直実は出家の方法を知らず模索していた。 法然との面談を法然の弟子・聖覚に求めた
聖覚が法然に取り次ぐと、直実は「後生」について、真剣にたずねたという
法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と応えたという



建久4年(1193年)頃、法然の弟子となり法力房 蓮生 (ほうりきぼう れんせい)と称した



平家物語の感動した場面に出てくる熊谷直実が法然の弟子になり誕生寺を建て
それを知らずに訪れていたとは驚きであった






鐘楼



観音堂(岡山県指定文化財)
初代津山城主・森 忠政公(森 蘭丸の弟)より寄進をうける
建立は寛永8年(1631年)頃と伝わる



堂内の様子



聖観音像を祀っている









次回に続く

撮影日 令和4年6月2日
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最上稲荷山 妙教寺<最上稲荷>(岡山県岡山市北区高松稲荷712)

2022年09月08日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月1日

最上稲荷山 妙教寺<最上稲荷>
最上稲荷(さいじょういなり)は、日蓮宗の寺院
麓の駐車場を利用すると「最上稲荷参道口」の看板が目に入ってくる



参道両側には商店が並んでいるが、この日はほとんどが閉店していた
本堂近くにも駐車場がある



龍王山の懐に抱かれた最上稲荷は広大な敷地を有し、大きく三段に分かれる
本殿の建つ正面中央の台地は「祈祷ゾーン」、旧本殿の建つ右奥の上段部分は「文化財ゾーン」、根本大堂の建つ右下の下段部分は「供養ゾーン」と称される

<祈祷ゾーン>

御水舎
御水舎の龍像は、工芸家・加茂霊峰の手によるもの






境内図



金色小判絵馬



本殿(霊光殿)
開山千二百年記念事業として計画され、5か年の歳月を経て昭和54年(1979年)に完成した



年間約300万人もの参詣者を迎える巨大な賽銭箱



古風な「おみくじ」



結界廊



<文化財ゾーン>

七十七末社
最上尊に仕え、それぞれが厄除けや縁結びなどの役割を担って衆生救済の手助けをする神



緑の末社
縁の願掛けは、悪縁を絶つ「縁きり」と良縁を結ぶ「縁むすび」を合わせて行うのが特徴



離別天王
人の縁に限らず、病気・酒・煙草・賭け事等々あらゆる悪縁を絶つ



霊石 縁切撫で石



縁引天王(登録有形文化財)
男女の縁に限らず、仕事・学業・夢等々のあらゆる復縁を結ぶ



霊石 良縁撫で石









鐘楼(登録有形文化財)



社殿



御厩舎



朝日天王社(登録有形文化財)



荒熊天王社(登録有形文化財)



日車天王社(登録有形文化財)



霊応殿前殿(登録有形文化財)












霊応殿拝殿(登録有形文化財)



霊応殿経王殿(登録有形文化財)



霊応殿本殿(岡山県指定文化財)















神馬



<供養ゾーン>

仁王門



山門



根本大堂



大客殿



撮影日 令和4年6月1日
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景光山 観音寺<不洗観音寺>(岡山県倉敷市中帯江820)

2022年09月02日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月1日

景光山 観音寺<不洗(あらわず)観音寺>
真言宗の単立寺院
寺伝によれば、稽文会・稽主勲父子が刻んだ観音像を天平年間(729年 - 749年)に行基と菩提僊那が当地に安置し開基した

おまいり道



山門






わらべ地蔵



手水舎



影向の松(ようごうのまつ)
倉敷市指定天然記念物



推定樹齢200年。当寺院の義雲和尚が移植したと伝わる黒松



枝が円形に張り出しており周囲は約60m






薬師堂









地蔵堂






鐘楼



大師堂



扁額の文字が読めない「遍照○」
遍照窟なのか
世の中を平和にするため、幸せの火をあまねく(遍)てらす(照)道場(窟)の意味



絵馬の石段



唐門の彫刻



子宝と安産祈願の参拝者が集まるので「コウノトリ」なのか?






良縁祈願と安産祈願の絵馬が並んでいる



石段を上がると本堂なのだが熱心にお参りしている人がいたので右側に移動した



正面には「十一面観音像」、上には祈願所がある



生後3ヶ月の赤ちゃんを抱えた若い夫婦がお礼参りに来ていた
観音像を背景に写真を撮ってあげた。記念になると嬉しい



足もとには知足(吾唯足知)の手水鉢



瓶から出ているのは「閼伽水」



祈願所へと続く階段の両側には「七福神像」



本堂
本尊:十一観世音菩薩
本尊を信じ生まれたこどもは三日三晩たった後、この霊水で洗うと無病息災、かつ安楽に成長すると言われている



三日三晩のあいだ産湯をつかわせなくても、体が血で汚れることも不浄になることもなく、きれいな子に育つと言われ
このことから、いつの間にか「不洗(あらわず)観音」と呼ばれるようになったという



本堂には次から次へと参拝者が訪れ、写真を撮るまで時間がかかった



年齢から、良縁・安産祈願の女性が多いように感じた



仏足石



荒神社



稲荷社



貴船神社
不洗観音寺の隣にある神社



「貴船大明神」の額



拝殿









見た道を戻り駐車場へ向かう



撮影日 令和4年6月1日
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日照山 国分寺<備中国分寺>(岡山県総社市上林1046)

2022年09月01日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月1日

日照山 国分寺<備中国分寺>
真言宗御室派の寺院
聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備中国国分寺の後継寺院にあたる

初めて訪れた時、五重塔に目を奪われ手前の遊歩道を車で乗り入れ顰蹙を買った(冷汗)






山門



客殿



寺号「國分寺」の額



勅使門






本堂
本尊:薬師如来



寺伝では、廃寺となっていた国分寺を天正年間(1573年-1592年)に備中高松城主・清水宗治が再興したが衰微
江戸時代中期の宝永年間(1704年-1711年)に再建されたとされる






大師堂






経堂(岡山県指定文化財)






石仏






礎石の上に立っている



鐘楼






五重塔(重要文化財)
南北朝時代に奈良時代の七重塔(推定高さ50m 塔跡が残る)を焼失



1821年(文政4年)に位置を変えて再建を開始
弘化年間(1844年-1847年)に完成した



高さは34.315m 岡山県内唯一の五重塔



当初は三重塔で計画されたのを五重塔に変更したとされる
3層まではケヤキ材、4・5層まではマツ材が主体









案内板



普段は近寄って撮ることは少ないのだが……






蟇股に施された、十二支禽獣彫刻









撮影日 令和4年6月1日
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中道山 円光寺 明王院(広島県福山市草戸町1473番地)

2022年08月31日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月31日

中道山 円光寺 明王院(みょうおういん)
真言宗大覚寺派の寺院
もとは「西光山 理智院 常福寺」といい、大同2年(807年)弘法大師の開基と伝えられている
元和5年(1619年)福山藩主 水野勝成が入府してからはその庇護を受ける
三代水野勝貞は常福寺に、歴代藩主の祈願寺となっていた明王院を合併し、寺号を明王院と改め今日に至る



十王堂
閻魔大王以下十王が祀られている



石段の奥に山門が見える



紫陽花の花霊場と彫られた地蔵が両手を広げて迎えてくれる
山陽花の寺二十四か寺第十八番札所となっている



手水鉢には不動明王の姿も



山門(広島県指定文化財)
慶長19年(1614年)の再建
現在の山門の建築材は新旧二様に分かれている
新様は建物上部の斗供・軒などに、旧様は軸部の柱・腰長押・台輪などに見られ、一部に室町様式の木割を残している



額には山号の「中道山」



本堂(国宝)
鎌倉時代の元応3年(1321年)の建立
入母屋造、本瓦葺き 桁行(間口)、梁間(奥行)とも5間



様式は、全体的に和様の姿をとり、木割や細部には大幅に唐様を採用した折衷様で、外陣の輪垂木天井は極めて珍しい手法



本尊:木造十一面観世音菩薩立像(重文)
33年に一度のご開帳<次回は令和6年>






尾道の浄土寺本堂(国宝 1327年再建)とともに、瀬戸内海地域で最も古い折衷様建築物として貴重



五重塔(国宝)
国宝に指定されている五重塔は9基(羽黒山、東寺、醍醐寺、海住山寺、法隆寺、興福寺、室生寺、明王院)
三重塔(13基)、多宝塔(6基)も回っているので、今回の明王院で目標を達成した



貞和4年(1348年)の建立 高さ29.14m
法隆寺・室生寺・醍醐寺・海住山寺に次ぐ5番目の古さを誇り、中世密教寺院における現存唯一の遺例といわれている



相輪の刻銘には、この塔が当時の繁栄した草戸千軒の経済力を背景に、ささやかな民衆の浄財を募って建立されたことが明記されている



木陰のベンチで塔を眺めていると、地元の男性が隣に座った
九州福岡出身で福山市に来て30年になるがまだ馴染めていないという(笑)



歴史に大変詳しく、話しも面白く長時間聞き入ってしまった






庫裏(広島県指定文化財)
書院とともに福山初代藩主水野勝成により再建されたものと伝えられる
小屋組は、古式で規模も雄大であり、書院形式の初期の技法をとっている



特に玄関や板敷き広間の天井は小屋組を露出させ、また淡彩の山水・花鳥・動物を襖に描くなど江戸初期の風格を示している
昭和38年(1963年)書院とともに解体修理された



書院(広島県指定文化財)
小屋組は古式で手法も古く、1間毎に柱を建てた書院形式初期の技法を用いた、江戸時代初期の建築
明暦2年(1656年) 徳川家光の位牌堂に転用されたが、昭和38年(1963年)解体修理時に元の姿に復されてた
玄関は式台に上り段を設け、屋根は向唐破風






鐘楼(福山市指定文化財)



建立は、正保4年(1647年)水野宗休(勝成の隠居後の号)の寄進によるもの
鐘は明暦3年(1657年)福山三代藩主水野勝貞の寄進によるもの



周辺を散策する

修行大師像









学寮






地蔵堂



地元の男性が一番好きだと教えてくれた場所から撮ってみた
境内が一望できる



自分一人ではこの場所を見つけることはできなかった



時計をみると何と2時間も滞在してしまった



山門から本堂を眺める



この石段から山門の景色も印象に残る







草戸稲荷神社(広島県福山市草戸町1467番地)
明王院の隣にある神社
大同2年(807)明王院の開基空海上人が同寺の鎮守として斎き祀ったものと伝えられる



額には「正一位稲荷大明神」とある



社殿は古くは芦田川の中州に鎮座されたが、しばしばの洪水の厄により社殿が流失破損した
寛永10年(1633年)6月、後水尾天皇の御代に福山藩主水野勝成が再建した



承応4年(1655年)水野家第3代勝貞が父である第2代勝俊の病気平癒を祈願し、今の地に社殿を遷し祀った






拝殿内部



祭神:保食神、宇加之魂神、大己貴神の三神




撮影日 令和4年5月31日
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